「食道楽」と付き合いPRテクを学んだ濱の家

 はい、始めます。前の講義で取り上げた濱の家は、京蘇料理の内の蘇州のウエイトを減らし、北京カラーの強い料理店に変身したんですね。それで思い出したが、先日さる赤提灯へ行ったら、この講義を聞いている学生がいて、キョウソでなくてケイソリョウリと読む根拠はなんだと聞かれた。いっておきますが、私が濱の家の榮太郎さんに会って確かめたわけじゃなくてね、作家の小島政二郎の「くいしん坊」という本に、お気に入りだった濱の家のことを書き、ケイソとルビを振っている。(1)索引も含め3個所そうなので、私はそれを信用してケイソと読んでいるのですよ。はい。
 なかでも北京のジンギスカンには力を入れて、北京の正陽楼の支店みたいな広告まで出したことを示しました。白木正光編「大東京うまいもの食べある記・昭和8年版」の取り上げ方をみると、補遺に「支那料理一瞥」という章がありまして、最初は「美味い支那そばが食べられる」店を紹介し、次いで特色のある支那料理店として「家族連れで行くのに相応しい家には銀座尾張町の泰山、神田神保町の第一中華楼、一流の支那料理店で家族連れで行きよいのは日比谷の陶々亭、山水楼、虎の門晩翠軒、新宿寶亭、一風変つたのはヂンギスカン料理で名を売った濱町濱の家(2)」と出てくるのです。同じ補遺の「濱町吉田屋」というそば屋紹介の中でも、吉田屋への行き方説明として「さて濱町吉田屋は一寸知らないものには判り難い場所で、恰度支那料理で有名な濱町濱の家の向側(2)」というくだりでも名が出てきますから、昭和8年にはジンギスカンで知られる店になっていたのですね。
 濱の家主人の商売熱心なことは「文藝春秋」の辛口コラムの「口」でも認めていますが、きっと「久保田万太郎先生が小説にお書きになったジンギスカンという珍しい羊料理を召し上がれ」と売り込んだのでしょう。物見高いは江戸の常、報知新聞に出ていたけど焼いた羊肉は臭くないのかね。文春で読んだ店はこれかい、話のタネに食ってみるかと新しがり屋が押し掛けてきたのでしょう。この「食べある記」を書いた時事新報の白木正光記者は、菊池寛の「半自叙伝」に出てきます。
 昭和8年より前にですよ、そうした食べ歩きの本は無かったのか。その本に濱の家はどう書かれていたのかと探しましたら、白木さんの本がいきなりポンと出たのではないことがわかりました。實は時事新報社家庭部編「東京名物食べある記」という本が昭和4年に出ており、白木記者はその食べ歩きチームの一員だったのですね。こちらの内容は「時事新報」家庭面に連載した「食堂めぐり」と同紙日曜附録に連載「名物食べある記」をまとめ、それに附録を加えた本で、はしがきに「執筆の動機は云ふまでもなく震災後の食堂繁昌、飲食店の簇出に刺戟された(4)」と書いてありますが、それぐらい震災後のダウンタウンの変わりようは大きかったのですね。
 これには濱の家は取り上げられていませんので、代わりに両方に出ている「もゝんじい豊田屋」を読み比べてみますと、4年後に出た白木さんの本では「入口を入ると新築早々と見えて木の香も新しいばかりです。」という店内の説明がなくなり、ヒグマ肉がサルと同じく「一人前六十銭は高くはない、」とあったのが「一人前六十銭。」と直され、本所の喫茶店に入ったことなど店を出てからの行動4行半が削られている(5)ぐらいで、ほぼ同文でした。でも中には全文書き換えたものもあるかも知れませんが、昭和4年の本を土台にしたことは確かです。まあ、震災後8年もたち、落ち着いたのですから、再録した店の紹介には修正を施したと思いますね。
 では、白木さんの後に出た本ではどうだったか。昭和10年には安井笛二編「大東京うまいもの食べある記」が、濱の家を取り上げています。序によれば「食通向の玄人つぽいものより、むしろ一般中流家庭の人々が家族連れで安易に行ける店に主力を置いて、食べある記同人、大童になつて食べあるいた(6)」というのですから、安井さんは何人かのグループの代表者ですよね。
 しかもその奥付を見ると、昭和8年4月30日に初版を発行して以来同年6月15日に6版まで出してから2年、間を空けて昭和10年5月22日第7版を出した後の8日間に私が見た第10版まで増版している。つまり、丸之内出版社が安井さんたちに頼んで白木さんの本を書き直させ、さらに毎年手直しして出し続けようとしたらしい。それで安井個人ではなくて、単に編者として書いた序では「毎年新しく改版していく考へで特に『昭和十年版』と銘打つた次第です。(7)」と、予告したと思われます。
 その「支那料理の巻」では、雅叙園、上野翠松園、緑風荘、雨月荘、幸楽、山水楼、陶々亭、濱の家、盛京亭、中華第一楼、中華楼本店、芳蘭亭、香蘭亭の13店を紹介しています。各店について書いた行数をみると、会話を交えて盛京亭が20行が最多です。次いで中華第一楼の14行、濱の家は7行で第3位。このほかの店は5行から1行(8)なので、濱の家は結構な評価を得ているとみてよいでしょうね。濱の家の項を引用したのが、いまから配る資料の中のその1です。

資料その1

 濱のや<住所、電話は省略>
 
 お座敷でうまい支那料理をたべさせます。名物成吉思汗料理も提供してくれます。
 親友U氏が此家を筆者に紹介してくれたのは震災の年でした。それから「濱のや」フアンになつてよく出掛けて行きますが、U氏は其後病を得て京都郊外の閑居で未だに病床に呻吟して居ります。先日下阪の折U氏を訪ねました處、東京の品物は大抵當地で買ふ事が出來るが「濱のや」の支那料理だけは手に入らないよと云つて残念がつて居りました。
 女中さんのサービスがいゝ家、電話番号が濱町十一番で覚え易い家、チツプ一割制度で簡便でいゝと思ひます。

  

参考文献
上記(1)の出典は小島政二郎著「小島政二郎全集」5巻393ページ、平成14年2月、日本図書センター=原本、(2)は白木正光編「大東京うまいもの食べある記  昭和8年版」351ページ、昭和8年4月、丸ノ内出版社=原本、(3)は同359ページ、同、(4)は時事新報社家庭部編「東京名物食べある記」第7版はしがき1ページ、昭和5年9月、正和堂書房=原本、(5)は同327ページ、同、(6)は安井笛二編「大東京うまいもの食べある記」第10版1ページ、昭和10年5月30日、丸之内出版社=原本、(7)は同2ページ、同、(8)は同119ページ、同、資料その1は同122ページ、同


 ところで、濱のやという店の名前ですが、家を平仮名で書くところが、そのころの支那料理店の名前らしくない。なんとか園とか軒、まるまる亭とかぺけぺけ楼というのが相場なのに、まるで日本料理店です。わざと名乗ったのでなければ「東京百事便」という本に出てくる日本料理の濱の家がルーツかも知れない―ではないかなと思ったので、ちょっと明治23年の濱の家に触れておきます。
 その本には「濱の家 日蔭町一丁目にあり伊勢源の出店にして待合風の造りなり此家は衛生料理を以て一種の特色あり即席料理衛生料理共に一客金五十五銭なり嚮には明治十七年英国倫敦に於て万国衛生博覧会開設ありし時其場内へ日本料理店を開き万国の喝采を博し特に褒賞として銀牌を授与せられたることさへあれば以て其精鮮の風味を知るに足るべし(9)」とあります。日蔭町というのは今の新橋のあたりです。海外に出ていく積極性、なにかジンギスカンの勉強に北京に出掛けた昭和の濱の家主人に通ずるものを感じます。
 そこで都立中央図書館が保存している東京中央電話局発行のいろは順電話番号簿のうち、4種類を借りてみたのです。明治43年の番号簿では濱の家、濱野屋、濱野家、濱のやと書く加入者が6人いましてね、浪花局内は日本橋濱町2の8の待合業、水野こと氏と同町1の2の旅館業、北川藤氏の2人でした。この旅館は「濱のや」と「のや」が平仮名で、支那料理の濱の家の広告と同じなんです。それに電話は2本引いており、片方の268番は数少ない特別長距離電話加入者(10)という扱いですから、泊まり客が東京市外にちょいちょい掛けるからなのでしょうかね。大正8年版では浪花局の867番で片方は私設電話機接続(11)と変わっています。これは同年5月13日に浜町で火事があり、翌日の都新聞に載った近火御見舞御礼広告の「濱のや旅館」の番号と同じです。
 しかし、昭和6年7月の濱の家が「文藝春秋」に出した広告では、電話番号は浪花局の10番と11番だったのですから、どうも旅館の電話をそのまま使って支那料理店を始めたのではなさそうです。それで、さらに資料探しを進めていきましたらね、濱の家は昭和3年に開店したらしいとわかったのです。
 その根拠となる文献はですね、都立中央図書館の特別文庫室所蔵のマイクロフィルムで読める「食道楽」という雑誌です。だいぶ前の講義の足尾銅山の馬肉好きの記事でちらりと出た新聞記者の松崎天民、この松崎が作家になり、美味を求めて編集していた月刊の雑誌で、加賀文庫の一部として保存されています。「松崎天民が編輯する趣味の雑誌食道楽」とうたっておりまして、松崎は「文芸春秋」における菊池寛のように、自由自在に何本も記事を書き分け、座談会を開き、この雑誌を盛り立てておりますが、それがわがジンパ学にとって非常に役立ったのです。「文藝春秋」と「食道楽」両誌の情報によって、濱の家の先駆的ジンギスカンの側面が明らかになったのです。
 都立に保存されている「食道楽」は創刊号から最終号まで全部そろってません。でも、昭和4年1月号から7年12月号までが8巻のマイクロフィルムで閲覧できるのは、私のような研究者にとって非常にありがたいことです。殊に昭和6年夏から7年末にかけての1年半は、濱の家が「文藝春秋」でも取り上げられていた時期と重なっており、これとこれが対応しているんだなとわかるので、とても面白い。私は3日かけて精読しました。そして濱の家の経営者、富山栄太郎という人物が實に商売熱心、かつ商売上手であったことに感心しました。その「食道楽」に出てくる濱の家の記事と広告を考察する前に、古い電話番号簿で見つけた羊肉について、ちょっと説明しておきましょう。
 たまげるのは「いろは」と番号で名付けた支店をどんどん作った牛肉商の木村荘平という豪傑です。木村は羊肉を手がけるなど初期の屠殺場問題などで改めて話すつもりだが、明治43年版の電話番号簿には本店の外に第1、第3、第6、第8、第12、第16、第17、第19、第20支店があり、本店だけが「牛鳥肉商」だが、支店はすべて商売は「牛羊豚肉販売」(12)と名乗っているから、その字面だけ見ると、明治の人々は外国人並みに羊肉好きだったと誤解しかねません。
 ところが、栄枯盛衰は世の常、ころっと変わって大正4年には麻布区六本木の第16支店だけになっている。(13)大正11年版には「いろは浅草橋」がありますが、4年版にはない店名なので、木村荘平の率いた「いろは」系列の支店ではないと思われます。諸行無常。なんまいだぶ、なんまいだぶ、はっはっは。
 それ反して、日本初のジンギスカン専門店である成吉思荘の生みの親になる赤坂田町の松井平五郎という人の精肉店は「牛肉商」を名乗り、新橋局2713(14)しか引いていないのです。でも大正8年版では電話が2本になり、商売も「牛豚緬羊肉問屋」(15)を名乗るまでに繁盛したことがわかります。もっとも宮内省御用達で皇族華族のお屋敷はご用聞きが回っていたそうだから、2本でも余っていたかも知れませんがね。
  

参考文献
上記(9)の出典は三三文房編「東京百事便」670ページ、明治23年7月、三三文房=近デジ本、(10)は東京中央電話局編「東京中央電話局電話番号簿」85ページ、明治43年10月改正、東京中央電話局=原本、(12)は同19ページ、同同、(14)は同443ページ、同同、(11)は東京中央電話局編「東京中央電話局電話番号簿」*ページ、大正4か11年4月1日現在、東京中央電話局=原本、(13)は同15ページ、大正4年6月、東京中央電話局=原本、(15)は同*ページ、同同


 さて、本命の濱の家ですがね、その名前が「食道楽」に初めて出てくるのは、昭和4年6月号の「たのまれもせぬ大提灯小提灯」という広告じみた記事欄です。小見出しは「濱町の濱の屋気分」で「濱町の濱の屋は宿屋だつたが去年二月から支那料理も京蘇料理の濱の屋となつて、その特異な風味と気分に、千客万来の大評判である。北京と蘇州の長を取つて、広東、上海、福建とと、それ/\゛の流儀の中に、京蘇料理を呼物とした点に、濱の屋の異色がある(16)。」と書かれています。間違えて「家」でなくて屋根の「屋」の字を書いているのですが、濱町とくれば間違いないでしょう。
 それから歌人の吉井勇が「大東京繁昌記」に書いた「大川端」に宿屋の濱の家が出て来ます。それはね「濱町一丁目――日本橋倶楽部の並びの濱の家といふ宿屋の横に藤家といふ待合がある。震災後はどうなつたか知らないがその前は古風な落ちついた建築の家で、私はよく亡くなつた中沢臨川氏に伴れられて、そこの家へ往つたものだった。そこでは島崎藤村氏や小山薫氏とも、一緒になることが屡々あつた。(17)」とある。ジンギスカンの濱の家が、かつて宿屋だった事実を補強する一文ですね。
 これで、昭和3年に商売替えがあり、旅館から料理店に変わったことは明らかになりました。宿屋の北川藤と支那料理の富山榮太郎との間柄はわかりませんが、建物だけでなく屋号まで引き継いだことからみて、まったく無関係ではなかったと思いますね。
 2回目は翌7月号で、巻頭の「料亭百趣(四)」という京都の洛陽一品亭と組み合わせたグラビアページの写真です。原本の印刷も悪いらしく、肉眼で見ても殆ど真っ黒。辛うじて玄関とその脇の植え込みらしいとわかる程度です。それに「下は東京日本橋濱町の濱のや。京蘇料理の一風変つた味があつて、構へよし、気分よし、味よしの評判あり。(18)」と説明が付いています。
 さらに8月号の「スト止ツプ」というコラム欄では、山水楼の新築に続けて「●さう云へば、新進の濱町の濱のや、京蘇料理の特味が人気を呼んで、総菜的風味の変った支那料理として、めき/\売り出す。(19)」とあります。これで3連発。前回の講義をきちんと聴いた人は、そう聞いたら、さては―と思わなくていけませんな。
 そうです、8月号の107ページに濱の家の広告が出ていたのです。縦4センチ、横6.5センチで、右からの横書きで、上から「京蘇料理」「濱の家」「是非御試食願ひます」と3行並べ、左端に縦書きで「東京日本橋濱町」「電話浪花一一番」と2行入っています。「濱の家」は目立つように大きな活字で組んでいます(20)が、とにかく濱の家が「食道楽」への広告を出し始めたのは「文藝春秋」より先だったのです。うっかりフィルムの駒番号しかメモしなかったので、いま何月号といえないのですが、筆字の広告や壺形の中に濱のやと入れた記念スタンプみたいな広告など数種類を出し続けます。
 松崎天民の「食道楽」の編集振りをみますと、毎号座談会を載せたり、代理部から珍味を売り出したり、飲食物界の「文藝春秋」を目指した意識が感じられます。商売熱心な富山は「うちの屋号は漢字の屋ではなくて、ひらがなで『や』です。今度書いて下さるときは、そのようにお願いしますよ」というような電話でも掛けて、松崎を店に招いで珍しい料理を食べさせたりして仲良くなり「食道楽座談会の会場にうちを使って下さいよ、うんと勉強しますよ」なんて、働きかけたことは間違いないでしょう。
 魚心あれば水心、昭和4年10月号掲載の第16回食道楽座談会「長寿延命若返り」は、濱の家で開いた初の座談会でした。出席者6人が丸テーブルを囲んだ写真が載っています。そのテーブルは高低二段の丸テーブルです。高い位置の小さい方が回るのかどうかはわかりませんが、もしこのとき回るものだったらですよ、前回話した目黒雅叙園の創業者細川力造氏らが昭和6年に回転テーブルを考案そうだから、濱の家の方が早いことになります。回らなかったとしても、細川氏が濱の家の丸テーブルを見て、この高い方が回ればさぞかし便利だろうというヒントを得た可能性がありそうじゃないですか。おや、だれか学生の口調が移ったかな。
 濱の家は昭和5年1月号の第19回の座談会「漫画人は語る」の会場にもなります。こっちの写真は、テーブルにうんと接近して高い位置から撮ってあって、上の丸テーブルの高さは、そばの徳利の袴の高さと同じぐらいに見えますから、精々6センチかな、いまのように高くなかったようです。
 長寿の座談会では、支那伝説の権威として出席した後藤朝太郎が精力剤として冬虫夏草を説明して「お蚕さんのやうな虫が根になつて居て、其の口からつくしんぼうやうな茎が出て居つて、其の頭に胞子があつて、其の胞子を虫が食べれば其の虫のお腹から植物の茎が出て來る。さう云ふ不思議なものは支那にお出になると幾らでも材料が得られる。今夜もその御馳走が出るでせう。(21)」といい、別なところで田口勝太という医学博士が「此処の料理は何処の料理ですか」と聞くと、後藤が「北京と蘇州のチヤンポンです。(22)」と答え、さりげなく濱の家の料理の特色を印象づけています。
 後藤は次に見る資料その2(4)でもわかるように濱の家に通い、味も内情もよく知っていて、著書「支那料理通」の付録「日本に見る支那料理店」の東京の部の16店のトップに挙げてます。(23)また「支那及満洲旅行案内」という本に、正陽楼のカオヤンローを取り上げ「日本では、和田三造画伯がこの羊肉鍋を提供して、鎌倉由比ケ浜の『濱のや』で催したのがこの成吉斯汗料理の関東に於ける嚆矢となつたのである。(24)」と書いています。わざわざ「関東に於ける嚆矢」としたのは、久保田万太郎の小説にあるように、由比ヶ浜より先に、和田が木曽川の河原で食べてきたことが、少なくとも「非関東に於ける嚆矢」と知っていたからというのは、わかりますね。
 宮尾しげを、池部均ら7人による漫画人座談会は、漫画家らしく自分たちの顔の絵の寄せ書きと「東海第一京蘇美味」という題入りで濱の家の丸テーブルや火鍋、茶碗などを描いた色紙2枚も掲載されています。多分濱の家にいけば、どの座敷かに、この色紙が飾られていたんでしょう。富山は、色紙の「東海第一京蘇美味」にヒントを得たと思われる「東海随一・京蘇美味」を、それから後の濱の家の広告に入れています。
 昭和5年は5月号の「猟奇世間話」と10月号の「馬鹿な世の中」という2つの座談会の会場に使われています。両座談会は組み方として、大見出しと出席者が丸テーブルを囲んだ写真と名前と記事の先頭部分を見開きの右側に組み、その続きのある左側のページの左下に濱の家の広告を入れるという同じ組み方をしているのが特徴です。はっきり座談会の会場と広告が連動していたと推察されます。
 「馬鹿な世の中」では、精力剤の話でグロ研究家と紹介されている梅原北明が「支那やチベツトに冬虫夏草(トンチユンチヤーチヤオ)と云ふ植物か虫かわからぬものがあるが……。」と発言、それを受けて松崎が「うん/\、冬虫夏草か……去年の夏、この濱のやで食べさせて貰つた。(25)」と白状して、はオーバーかな、そう相づちを打っています。その冬虫夏草の効き目が、グラビア写真とか「スト止ツプ」の記事に現れたのかも知れませんぞ。
 それから広告ですが、8月号の広告は濱町と電話番号を小さくして壺形の右側に置き、左側に「(夏季中)/鎌倉支店/(由比ヶ濱電停前)」と3行に分けて入れています(26)。つまり、昭和5年に濱の家は由比ヶ濱に支店を開設した。これは資料その2の記事からも、他店に先鞭をつけて始めた避暑地営業だったことがわかります。
 濱の家の名前が「文藝春秋」に初めて出てくるのは、前に話したように昭和5年の11月号だ。それまでに濱の家は「食道楽」と2年近く付き合いがあり、ちょこちょこ記事に書いてもらったり、広告を出したり、4回も漫談会という座談会の会場になっています。
 濱の家主人富山は、この「食道楽」との付き合いを通じて、いまでいうPR、パプリックリレーションズを身につけた、学んだと思います。「食道楽」でマスコミと仲良しになる予行演習をしたようなものだった、と私はみますね。
 濱の家を取り上げた記事と写真として3回目は、昭和5年8月号の「スト止ツプ」という欄だと、今いいましたが、松崎はこの欄を「文藝春秋」の「目・耳・口」のような性格のコラム欄にしたかったと推察されます。でも、落合美作男という人物が7月号から「料理屋評判記」という辛口の批評を書き始めたので、くさすのはそちらに任せ、新顔紹介とほめるだけにした。9月号では「ゴー・ストツプ」と少し名前を変えるのですが、その後この欄は消えてしまうのです。
 落合の評判記は悪く書かれた店側から強い反発があったと認めており、恐らく広告収入に響いたせいでしょう、5回と続かずに終わります。一方、濱の家は「食道楽」より遙かに大物だった「文藝春秋」での宣伝価値を認め、食通の同人誌のような「食道楽」で成功した珍味招待作戦でもって、まず文春編集陣に接触を試みた―のではあるまいか、ですよ。これはあくまで私の推理ですよ。
 それで松崎たちに御馳走するときと同じように、京蘇料理などの講釈をたっぷり聞かせた。それが一筋縄ではいかぬ文春記者か文春関係者にカチンときた。それで「こゝがも少し格式張らずに(27)」と書かれる原因になり、ついでに「も少し安かつたら申し分なからうが。(28)」と書き足されてしまった。
 「文藝春秋」11月号を見て、濱の家主人は愕然としたか、怒り狂ったかはわかりませんよ。とにかく濱の家は「文春」には文春好みの趣向で臨むべきだと考え直した。そして自分の勉強にもなり、記事のネタになり、店の宣伝にもなる一石三鳥の上海視察を実行した。「上海まで勉強に行ってきます。いついつ帰るからお土産を期待してください」と記者たちに情報を知らせておく。帰ったら「ぜひ新しい料理を食べてください」と、店に招き、惜しげなく仕入れ品を賞味させた。これが当たり、それから「食道楽」「文藝春秋」双方との共存共栄のよい関係を構築していくきっかけになった。
 このあたりは総て私の想像です。でも、清濁併せ呑んだこの時代のジャーナリストたちと富山の関係は2つの雑誌の記事でかなり見えますよね。当たらずといえども遠からずだと、自信がありますよ。はっはっは。
  

参考文献
上記(16)の出典は食道楽社編「食道楽」3年6号116ページ、「たのまれもせぬ大提小ちょうちん」、昭和4年6月、食道楽社=東京都立中央図書館特別文献室加賀文庫マイクロフィルム、 (17)は(東京日日新聞編「大東京繁昌記 下町編」205ページ、昭和3年9月、春秋社=原本) (18)は食道楽社編「食道楽」3年7号ページ番号なし、「料亭百趣(四)」、昭和4年8月、食道楽社=東京都立中央図書館特別文献室加賀文庫マイクロフィルム、 (19)は同3年8号102ページ、「スト止ツプ」、昭和4年8月、同、 (20)は同107ページ、同同、 (21)は同3年10号68ページ、「漫談会 長寿延命若返り」、昭和4年10月、同、 (22)は同73ページ、同同、 (23)は後藤朝太郎著「支那料理通」142ページ、昭和5年1月、四六書院=原本、 (24)は同「支那及満洲旅行案内」177ページ、昭和7年5月、春陽堂=原本、 (25)は食道楽社編「食道楽」4年10号67ページ、昭和5年10月、食道楽社=東京都立中央図書館特別文献室加賀文庫マイクロフィルム、 (26)は同4年8号106ページ、昭和5年8月、同、 (27)と(28)は文藝春秋編「文藝春秋」8巻3号195ページ、「目・耳・口」、昭和5年3月、文藝春秋社=原本


 昭和6年は未年。濱の家主人は新年号の東京食道楽会員の名刺広告に名を連ねています。長谷川伸、村松梢風、小島政次郎といった作家など36人の中で、支那料理店主で加わったのは、晩翠軒の吉井藤兵衛と山水楼の宮田武義と富山の3人(29)だけですから、張り切った付き合ったんですね。はい、資料その2を見てください。昭和6年の「食道楽」の紙面に現れた濱の家という名前を含む記事です。

資料その2

(1)昭和6年1月号
 日常茶飯事々物々
  ―提灯持あれやこれや―   松崎天民

 晩翠軒に、山水楼に、雅叙園に、階楽園に、上海亭に、陶々亭に、香蘭亭に、濱のやに、不二に、東京の支那料理界は、今や全盛の観を呈し居る。そこへ洋食で古い根を下して居る宝亭が、本場の支那料理を始めて、「何うです手前どもの味は…」と、謙遜しつゝも、大見えを切つた形である。<後略>


(2)昭和6年2月号
 旨い支那料理屋

 何よりも安価で栄養的とあつて、東京でも支那料理が全盛を極めてゐる観があるが、さてこれぞと云つて旨い支那料理屋は尠い。中でも、流石に一流本格味の旨さを提供してくれるのは、当代の支那食通、宮田氏を店主とする日比谷の山水楼、名支配人の吉井氏の采配下の虎の門晩翠軒、西洋料理は宮内省御用達と云ふだけあつて、北京料理も旨い麹町の宝亭、新進気鋭の富山氏の濱町の濱のやなどだ。銀座上海亭の大衆的で美人の揃つてゐるのも宜しく、山王下の幸楽もよい。
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 本誌三月号
   支那料理案内欄

 本誌の次号には、支那料理屋案内の特輯欄を設け、東京に於ける支那料理店の案内やら批評やら、実益的に趣味的に大いに支那料理の提灯を持つ予定であります。


(3)昭和6年3月号
 東京支那料理めぐり     松崎天民

<前略> 濱町の濱のやは、京蘇料理を看板にして、支那色の強い美味い料理を提供して居るが、その座敷は瀟洒な日本室が十幾つもあつて、大きな円卓の上に二重装置をしたのが、特色と云つて宜かつた。上の円形の卓をグル/\廻せば、食品を入れた器が、順々に自席の前に来るやうな仕掛が、便利であり面白かつた。その客室も独立して居て、瀟洒な落着いた気分も好く、蘇州出の料理人の手腕も利いて居て独特の風味を食べさせて居るのが、旨かつた。<後略>


(4)昭和6年3月号
 編輯室雑記帳       片桐千春
   濱のやの珍味佳肴

 日本橋濱町一丁目京蘇料理の濱のやから電話あり、主人富山栄太郎氏の声で「上海から一昨日帰りました。珍らしい物も多少ありますから食べに来て下さい。」そりやこそ富山さんが帰つて来た。待つてましたと、社から程遠からぬ濱のやへ、天民老を始めとし、陶山、御厨両氏に私の四人、早速出かけた。きつと珍らしい土産の料理があるに違ひないと、食辛坊連中、実は富山さんが上海から帰つて来るのを手ぐすね引いて待つて居たのだ。
 御馳走になる前に、支那気分を発酵する為に、富山氏秘蔵の麻雀を借りて、早速一圏をかこむ。チイポン/\と御厨氏の一人勝に漸く一圏済む頃合にお腹も空いて来た。別室の食卓に就くと、相客数人あり、濱のやが甚だ御ひいきの、後藤朝太郎先生が、温かさうな支那服でどつしり構へて居らつしやる。そこで天民老と後藤先生の漫談弾んで次々に出る珍味佳肴、流石富山さんが苦心したお土産料理だけあつて今日は特別の絶品ばかり。如意竹蓀(竹蓀へ蝦を包んだスープ)紅焼魚翅(ふかのひれの汁煮)炸子鶏(鶏の揚げもの)口麻鍋巴(おこげ御飯の料理)山葯泥(山芋とあんこに牛乳をかけた菓子)掛炉焼鴨(焼鴨の味噌付)清潡大桂魚(揚子江特産桂魚の蒸しもの)杏仁珍珠丸(あんずの精の団子)等々々。濱のや独特の名料理に、上海土産の新工夫を凝らした御馳走の、旨いこと/\。殊に珍しかつたのは日本人の曾つて顧みなかつたお焦げ御飯の料理。噂さは聞いてゐた桂魚(■<魚扁に沃という字のように見える字>とも云ふ)珍無類の菓子の山葯泥、等で、富山<とみやまとルビ>さんの珍らしい土産話を聞きながら、数々の珍土産を拝見しながらの、歓談漫談の一夕は近頃の歓楽であつた。京蘇料理濱のやの第一味に栄光あれ。


(5)昭和6年4月号
 本誌広告辞典

◇濱のや 東京日本橋濱町一丁目の濱のやは支那料理界の中でも一流独特の味覚を以て通人連推称措かざる店である。主人富山榮太郎氏の不断の努力と研研が日々の料理に反映し、常に新工夫の新鮮な献立が味はへる事は、以て支那料理界の異彩とするに足る。室の構へも気分も申分なく、殊に圓テーブルの回転式はこの店独特の新工夫で、断然モダンである。大小宴会に小人数の会食に、濱のやの存在はわれら支那食党の悦びである。


(6)昭和6年5月号
 上海雑記
  濱町、京蘇菜館「濱のや」 富山栄太郎

<前略> 私の最も気に入つた家の一つは、三馬路の北京料理の悦賓楼と云ふ家でこれは私が向ふの人に教へてやつた位で、余り有名ではありませんが、非常に美味しい家でした。三十年前の建築で相当古い家ですが、それだけに、かなり万事が薄汚くて余り近代味の侵入してゐない家ですが、食べるものは私達には非常にぴつたりして感心しました。今私の店でやつてゐる口麻鍋巴(コーマクーパ)と云ふ焦げ御飯の料理は此処で知つたのです。<中略>
 只今私の處で、山葯泥(サンヤニイ)と云ふお菓子を出して大変好評を頂いてゐますが、これは、ある家で麻雀をやつて遊んだ時、大雅楼と云ふ北京料理の家から仕出しをとりました。その時これを発見して、これは旨いものだと思つたので帰つて早速応用した訳です。尤も、その時は蕃芋泥で、つまりジヤガ薯が台になつて居たのを、山芋に換へて山葯泥としたのですが、これはミルクの代りに挽茶を入れたら又一段と風味が増すだらうと思つて試みて見ましたら、果して一層の好評を頂きました。何も支那料理だからと云つたつて、一から十まで支那の真似をしなくともいゝと思ひます。支那の本場に於てさへ、年々モダンな様式をとり入れて変つた料理を造り出してゐるのですから、日本の支那料理となれば、日本人の口に適する様に、日本化した料理を工夫研究する事は、吾々支那料理業者の一つの務めだらうと私は思つてゐます。それが料理の進歩だと思ひます。こだはる必要はありません。<後略>


(7)昭和6年6月号
 編輯室雑記帳 片桐千尋

 日本橋濱町一丁目京蘇菜館濱のや主人、先つ頃上海に遊んでから、盛んに変つた料理を工夫しては食通連を悦ばせてゐる。近頃では何か変つた支那料理が食べたければ、濱のやに行くに限るよ、とまで評判をとつて、押すな/\。一日所用あつて、ぶらりと濱のや主人を訪れたら「恰度いい所だ、一緒に御飯を食べませう」と、例によつて、又何か変つたものが頂戴出来るかな、と、厚かましくも刮目して待つ所へ、続々運ばれた料理の数々、「今日は一寸平凡で珍らしいものです、まあ鑑定して下さい」富山さんが笑い乍ら云ふ。<中略>この外、鶏粥湯(鶏の叩きのスープ)や鰯片(鰯をレモン酢で臭みを抜き揚げたもの)など数々御馳走に預つたが、鰯でも支那料理の加工に依つて、かうも旨くなるものかと、一驚、富山さん笑ひ乍ら「支那料理で鰯を食つてりや、天下これより安ちよくなものはありませんね」


(8)昭和6年6月号
 本誌広告評判記(五十音順)

 濱のや

甲「濱町一丁目の京蘇菜館濱のやは近頃、有名なので始めて行つて見たが、料理のおいしいのにびつくりしたね」
乙「濱のやは君、商売熱心の富山栄太郎氏の経営で、開業未だ数年だが、既にして一流中の一流として認められてゐる家だ。料理に非常に特色があり、絶えづ創意を加へた料理が次から次へと工夫されてゐるので、支那料理も千遍一律だと感じる人は是非行つてみることだね。殊に廻転式の円テーブルは独特で、便利だ気分もサービスも百パーセントだね。


(9)昭和6年8月号
 編輯室雑記帳        C・K生

 避暑地行の料理屋

 去年、濱のやが鎌倉へ出張して、独特の支那料理を避暑地人に提供して、大好評を博したが、料理屋夏枯れの閑散期を利用して避暑地へ出店を設ける事は、店の繁栄策にも良かろうし、殊に避暑地人を悦ばせせる事いくばくなるを知らず、確かに良い企てである。それかあらぬか、今年は俄に、料理屋の避暑地行き流行、先づ濱のやが引き続いて鎌倉へ出かければ<後略>


(10)昭和6年9月号
 マドロスのあこがれ    T・N生
 <前略>又之は冬のものであるが確か中條百合子さんの改造にかゝれてあつた様に記おくするが「ジンギスカン焼」と云つて羊の肉を鉄板の上で焼いたのがある。良く場末の子供相手に老人が売つてゐるドラ焼と称するのがあるが一寸あれに似て火の上に鉄板を掛け良く鉄板が焼けたら一寸バタを引いてそれでじゆつと焼いて焼けるのをまつて食べるのでのであるビフテキの一種である。之れは奉天の城に一軒回々教徒の支那人がやつてゐるし、又大連の小崗子のドロボウー市場の附近でやはり回々教徒の支那人がやつてゐる。回々教徒は豚肉を絶対に食べないので羊の肉の料理法を発見したのである。<後略>
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〔記者附記〕ヂンギスカン料理は日本橋濱町濱のやで今秋からやる事になつてゐます。


(11)昭和6年9月号
 豪快無双 成吉思汗料理
 【濱のやの試食会】  C・K生

 日本橋濱町の京蘇菜館濱のや主人、富山栄太郎氏は、恐ろしく、料理熱心の士である。<中略>この富山氏が鎌倉の夏期出店で、成吉思汗料理なるものをこの夏からやり出した。蓋世の英雄、成吉思汗がその陣中で工夫して以来、連綿八百年の古い歴史の料理だが、日本の支那料理屋で、こいつをやつた家は、まだ一軒も無いやうである、<中略>
 八月二十日、午後六時、鎌倉、由比ヶ濱辺濱のや出店へ、蒙古の香ひを慕つて、集つた食辛坊の面々は
 本山荻舟、永見徳太郎、水島爾保布、安東鼎、戸田運也、松崎天民、市来政直、片桐千春。
 モダン由比ヶ浜に、断然瀟洒な濱のやの、楼上で少憩してから、皆んな浴衣がけの肌ぬぎになつて、庭前に降りる。臺に乗つかつた鐵弓<てつきゆうとルビ>と称する偉大な鍋と鉄網、この鍋に炭火を炎々と起し、羊の肉を、二尺もあらうと云う長い箸で、名々好き/\゛に網の上で焼き乍ら或は立ち。或は腰かけ、或は片足を腰かけにふんまへて豪喫するんである。實に豪快無双の料理である。
本山 この鐵弓はどうして手に入れたんです。
富山 和田三造画伯が秘蔵のものなのですが使つて見ろと貸して下すつたんです。
水島 羊が實に軟くておいしい。何処の羊です。
富山 木下謙次郎先生のお肝入りで、オーストラリアの本場の羊を仕入れてゐるんです。
永見 あゝ實に美味い、いくらでも食へる。
松崎 生れて始めて食つたね、かう云ふ豪快なるものを!
戸田 成吉思汗に生れ変つた様な気がする。
安東 こいつは、きつと精力的に利くに違ひない。
永見 利くとも……。何しろ成吉思汗は二十三人の寵妾を禦した傑物なんだ。
水島 張作霖も二十三人あつた、支那人はえらいな。
 成吉思汗の香ひ、煙と共に由比ヶ浜辺にたなびいて、不思議な異臭に、避暑人共が、眼を見張り鼻をびくつかせて濱のやの表を通る。炎々たる鍋の側にあり乍ら心頭滅却して、暑さも忘れ、只これ一同肉を食ひ、高粱酒に酔ひ、興趣湧然、談論風発、豪快無双の夏の一夜を過した。因に濱のやの鎌倉出店は八月中で閉鎖、今後は濱町本店で希望に応じて成吉思汗料理をやる由。


(12)昭和6年9月号
 新秋その折々     松崎天民
 
 成吉思汗料理

 夏季には料亭の避暑地進出が多くて、新橋花月の軽井沢、天ぷら紀の国屋の塩原を初め、支那料理濱のやの鎌倉、小料理よ太の鎌倉、支那料理南浦園の鎌倉、それから喜太八の伊香保など、何れも七八月中の出店として、相当の評判である。
 その鎌倉由比ヶ濱の濱のやでは、この夏に成吉思汗料理と云ふを始めて、試食的に各方面の嗜好人を招き、好評を博して居た。八月二十日の晩には、我社の肝入に依り、水島爾保布画伯、永見徳太郎、本山荻舟、安東鼎、小野正治の諸家を招き、成吉思汗鍋の試食会を催したが、濠洲の羊肉に支那酒、葱、薬味の取合せが面白く、松葉いぶしに依り、味つけの羊肉を焼きつゝ食べる手法が、如何にも蒙古らしい原始的の趣があつて、一行には珍しかつた。中野江漢、村松梢風、吉井勇の三家も招いたが、何れも差支へがあつて不参は、残念至極であつた。<中略>早く云へば羊肉のつけ焼を、自分で焼きつゝ食べるのが、成吉思汗流であるが、その火炉の様式と云ひ、羊肉の持味と云ひ、厳冬の頃に食べるのが、本式の成吉思汗料理であるとの話であつた。
 濱のやの主人が、これを紹介してくれた事には、多大の意義があると思ふ。


(13)昭和6年10月号
 秋の随想 諸家回答(到着順)

   濱のや  富山栄太郎
 この秋は九月下旬より一ヶ月の予定で北支那へ……。まづ八達嶺に出て驢馬の背に秋の日ざしをうけのんびりと澄み切つた大自然に接して参ります。北京へ戻つたら、本職にとりかゝり、鎌倉にてインチキな成吉思汗料理で諸先生をなやました思出を本家の正陽楼でゆつくり味つて参ります。此次には安心して御出願ひましやう。


(14)昭和6年10月号
 成吉思汗料理の話    中野江漢

 <前略>本年の晩春、濱の家で招待を受け、富山君と二人で対酌したことがある。其の時支那料理に関しいろいろの質問に答へて居る内、談偶々この料理のことに及んだから、私はこれに就て詳細説明をした、
 『これを實行すれば、屹度評判になると思ふが、思切つてはじめたらどうだ』とすゝめてみると、非常に乗氣になつた。
 『そりや面白いですなア、しかし場所がちよつと困る……』
 『原則としては野天でやらねぱならぬが、三坪も空地があれぱよい、それが出來ねば部屋の中で、鋤焼代りにやればよい』
といつたやうな話をして別れた。その後、同君がわざわざ拙宅に來訪した時、殊に研究室に案内して、これに関する写眞などを見せたと記憶する。
 富山君が、果して私のすゝめによつて始めたとすれば、私多年の希望が實現されたわけで、愉快に思ふ。若し、富山君が開業に先立ち、もう少し相談してくれたら、焼方、タレ等に就て徹底的に教へてあげたものを、惜しいことをしたと、思つて居る。<後略>


(15)昭和6年12月号
   北平だより(ジンギスカン鍋と思われる鍋の墨絵と、その左上に「知得仁宗夜半思」と大きめに書き「昭和辛未七夕夜子鎌倉濱のや成吉斯汗試食後」と小さく書き、独りの人物が丸い小卓に向かっている絵が付いている。この2点の絵が同じ紙に描かれたのかどうか不明。その下に富山の手紙が組んであるグラビアページ)

 秋も愈々深く、京蘇料理の幸節が参りました。目下、紛争の巷、北平に滞在、時代に適応した支那料理の研究を孜々として致して居ります。かねて御推奨を得ました成吉思汗料理も、正陽楼に尋ねましたから、今後は本場の形式に独創の工夫を加へ、趣味豊かに調進致しますから、何卒御期待下さい。遙かに御健康を祈ります。
 昭和六年十一月十日
   北平にて
    京蘇菜館『濱のや』
     富山栄太郎

 松崎天民様


(16)昭和6年12月号
 よもやまばなし

 濱のやと成吉思汗料理

 日本橋濱町『濱のや』もすつかり帝都一流支那料理屋の箔を附け納り返つてゐるが、主人の富山栄太郎氏、この夏から、日本人の曾て手を附けぬ成吉思汗料理を始め、鎌倉の出店で夏中試食会を催しては各方面の喝采を博してゐたが、どうも一度本場の味を味はつて來ぬと要領が分らぬとて、例の研究癖が頭をもたげわざ/\北平へ出かけ、戦乱を尻目に、正陽楼あたりの成吉思汗料理に舌つゞみを打つてゐる。十一月末に帰つて帰つたら、早速本場仕込みの成吉思汗料理にり満都をあつと云はせる魂胆らしいんだが、とにかく濱のやに依つて成吉思汗料理が日本に紹介されたと云う事は、後代一つの文献たるべく、此の点『濱のや』の功績偉大である。

  

参考文献
上記(29)の出典は食道楽社編「食道楽」5年1号ページ番号なし、「謹賀新年 東京食道楽会員」、昭和6年1月、食道楽社=東京都立中央図書館特別文献室加賀文庫マイクロフィルム、資料その2(1)は同78ページ、同同、(2)は同6年2号62ページ、昭和6年2月、同、(3)は同5年3号31ページ、昭和6年3月、同、(4)は同119ページ、同同、(5)は同5年4号126ページ、昭和6年4月、同、(6)は同5年5号31ページ、昭和6年5月、同、(7)は同5年6号78ページ、昭和6年6月、同、(8)は同109ページ、同同、(9)は同5年9号105ページ、昭和6年8月、同、(10)は同5年9号99ページ、昭和6年9月、同、(11)は同102ページ、「豪快無双 成吉思汗料理」、同同、(12)は同128ページ、同同、(13)は同5年10号42ページ、昭和6年10月、同、(14)は同2ページ、同同、(15)は同5年12号ページ番号なし、昭和6年12月、同、(16)は同66ページ、同同


 濱の家がジンギスカンを広めるために、食通はじめいろいろな人たちを招いて試食させたことが、(10)からの9月号以降の記事でよくわかりますね。いうまでもなく、8月に久保田万太郎たちと由比ヶ濱で試食会を開き、そのままの体制で試食させたと推察されます。でも、それだけで終わらせず、ジンギスカンは回教徒の羊肉料理ではあるが、自分の縄張りとする北京料理のうちなんだから、北京と蘇州の双方をレパートリーとするメニューに加えても何らおかしくない。それ行けと万事積極的な富山が商売に取り入れるために、さらに北京は正陽楼に食べに行き、本場の焼き加減とつけ汁の味を確実にした努力も見逃せません。
 農林省と陸軍糧秣廠に後押しされて、糧友會は濱の家より4年も早く鍋羊肉またはジンギスカン鍋と呼び、全国各地で料理講習会を開くなどして普及を図りましたが、やはり所詮は武家の商法。マスコミにうまく取り上げてもらいつつ、商売繁盛に結びつけていった濱の家のジンギスカンには敵わなかった。(16)の「とにかく濱のやに依つて成吉思汗料理が日本に紹介されたと云う事は、後代一つの文献たるべく、此の点『濱のや』の功績偉大である。」という記事が、糧友會による国策としての羊肉普及活動なんか、食通といわれるオピニオンリーダーたちの眼中になかったことを雄弁に物語っています。
 この資料の(3)は、ほぼ同文で翌7年、誠文堂から出した天民の「三都喰べある記」の「北京広東上海の味」に収められています。(4)と(6)が長めですが(4)の後藤朝太郎は当時売れっ子の支那通、今風にいえば中国問題評論家。繰り返しになりますが、濱の家と親しかったことは「日本では、和田三造画伯がこの羊肉鍋を提供して、鎌倉由井ケ濱の『濱のや』で催したのがこの成吉斯汗料理の関東に於ける嚆矢となつたのである。(30)」と「支那旅行案内」で証言していることでもわかりますね。さらに富山の支那料理に対する考え方を説明した(6)と関係あるので長めに引用させてもらいました。
 (6)は主として上海での食べ歩き、蛇料理用のコブラを仕入れ損ねた話など5ページもある長いものです。富山はその中で本場の支那料理の欧米化に注目し「寧ろ近い将来に於ては支那料理の本格」は「日本に於てその形態を保存しやしないかと云ふ問題です。今度の旅行で痛切にそれを感じました。恰度仏教が支那から伝つて、日本に残つてしまつた様な案配ですね。」と見ています。そして「私は支那の素味(もとあじ)を失わぬ程度に日本人向きの新しい料理の開拓と云ふ事に心懸け、支那料理を日本化し日本に於て集大成すると云ふ意気込みでなければいけないと思ひます。(31)」と書いています。そして開拓者を自認する富山は有言実行、(6)に見られるような工夫を重ねたり(15)のように北京に渡って果敢に正陽楼のジンギスカンを確かめ、かつ道具ごと濱の家の料理に取り入れていったことがわかりますね。
 それから(10)はT・N生と名乗る人物からの投稿です。船乗りらしいから港町大連はわかるが、港から遠い奉天の見聞まで書いています。「確か中條百合子さんの改造にかゝれてあつた様に記おくする」というから、横山春一編「改造目次総覧」を調べたけれども、なかった。雑誌名の思い違いということもあり得るので今後も探しますがね。松崎たちにすれば、そんなことより「記者附記」が書きたくて採用したんじゃないですかな。この雑誌を見付けてレポートに書く人はいませんか。もし私より先に見付けたら、その集中力を高く評価しましょう。約束します。
 (11)は「文藝春秋」昭和6年9月号の「目・耳・口」欄にある「□濱町の濱の家で、成吉斯汗鍋をはじめた。この料理は満洲あたりでちよい/\見られるだけで、日本内地ではまだやつてる所がない。これは、その昔成吉斯汗が陣中でやつたものださうで、野天で鐵弓の上で羊の肉をあぶつて喰ふ、極めてプリミテイブな料理だが、その手法の簡素に似ずひどくうまい。但し、お座敷着で喰ふわけにいかず、素肌か浴衣がけで汗をふき/\やらねばならない。お上品を好む人は、誰かに焼かしたものを喰ふほかない。何しろ、他にやつてゐる所がないだけに、道具の鐵弓も和田三造氏の珍藏してゐたのを譲り受けたり、羊肉は木下謙次郎氏の肝入りで、わざ/\濠洲から取り寄せたり、なか/\凝つてゐる。変つたものが喰べたい人は一度試してみるといゝ。失望はしないだらう。(32)」という記事と、ちょうど対応する内容です。和田さんの鍋は「文藝春秋」「食道楽」とも鐵弓と書いていますが、その所有権について譲渡と貸与と食い違いがあります。まあ、どっちにせよ、和田さんは自宅ではとてもジンギスカンはできないからと、濱の家に管理を委せたのでしょう。
 ところで濱の家は「食道楽」昭和4年6月号の「濱町の濱の屋は宿屋だつたが去年二月から支那料理も京蘇料理の濱の屋となつて」という「たのまれもせぬ大提灯小提灯」の記事、それに資料その2の(2)の「新進気鋭の富山氏の濱町の濱のやなどだ。」同じく(8)の「開業未だ数年だが、既にして一流中の一流として認められてゐる家だ。」と書かれていることから見て、昭和になってから開店したことは間違いない。
 ということから、ちょっと面白い考察をしてみますか。鏑木清方という日本画、特に美人画の大家がいました。昭和47年に亡くなった方ですが、その鏑木が書いた随筆集「明治の東京」の「濱町河岸回顧」に濱の家が出てくるのです。その前後を読みますと、こう書いています。
 「下戸(げこ)でも飲める老酒(ラオチュー)の酔心、浜のやの門を出て、浜町河岸より築地河岸に相応(ふさわ)しそうな公園のコンドル塔の欄に()って()きて帰らぬ河水を(なが)むれば、初夏の宵の若葉の香身に迫って往事(しき)りに(しの)ばるる。(33)
 私はこういう随筆があると知ったとき「明治の東京」という本だし、きょうの講義の初めで取り上げた芝日蔭町の濱の家がね、日本橋濱町へ引っ越して支那料理店になったのかも知れないと思って、明治39年に出た津田利八郎編「東京便覧」、同40年に出た東京倶楽部編「最新東京案内」、同じく津田利八郎編「最近東京明覧」なんかを調べましたもんね。
 それから鏑木は同じ本の「浜町にいたころ」には「とりわけてその頃珍らしかった花やしきの吉田のコロッケ蕎麦、食い意地の張った話だがその時分いた本郷あたりでは食べられない代物なので、それも羨ましく、日本橋はいいところとばかり、いつかは住んで見たいと思って(34)」明治40年に濱町へ移ったとあります。このそば屋の吉田が、白木の「大東京食べある記」が濱の家を目印にして行くように教える濱町吉田屋でないかという気がしますが、そこまではまだ調べておりません。
 ともあれ、鏑木のいう老酒を飲んだ「浜のや」が即ち濱町濱の家だったら、明治から続く支那料理店でないと困りますよね。濱の家は昭和の開店なんだから、鏑木が濱町に住んでいたころ老酒を飲もうにも濱の家はなかった。それでだと思うのですが、松崎は「食道楽」にちゃんとこのくだりを「清方畫伯と濱の家」という囲み記事にして取り上げていたのですよ。
 こう書きました。「『下戸でも飲める老酒の酔心、浜のやの門を出て、浜町河岸より築地河岸に』云々と鏑木清方の名随筆『銀砂子』のなか『濱町河岸回顧』にはかゝれてある。清方畫伯の好もしき随筆には、濱の家の珍饌をたゝへるものが一再ならず見出される。一代の名畫伯、生粋の江戸つ子に舌鼓打たせる濱の家の珍味は今更乍ら凡手でない。(35)」とね。濱の家と「や」が漢字で鏑木とは違いますが、記事体広告といいますが、記事のような形をした広告のようでもあり、これはこれで独立したごく短い記事としても読めます。巧妙なるヨイショ、天民もまた、今更ながら凡手ではない―と思います。
 「銀砂子」は昭和9年5月に岡倉書房から出た本です。鏑木の随筆には「濱の家の珍饌をたゝへるものが一再ならず」あるというから、全部調べるとジンギスカンも書いているかも知れないので、レポートのテーマにしてもよろしい。
 ともあれ、岩波文庫の「濱町河岸回顧」を見ると、末尾にカッコして昭和6年7月と日付が入っているから、描写は「明治一代女」のころの濱町河岸のようではあるけれども、昭和6年になってから往事を偲びつつ書いたものであって、明治調というか、古めかしい文体にだまされちゃいかんということですね。
  

参考文献
上記(30)の出典は後藤朝太郎著「支那旅行案内」177ページ、昭和7年5月、春陽堂=原本、 (31)は食道楽社編「食道楽」5年5号35ページ、昭和6年5月、食道楽社=東京都立中央図書館特別文献室加賀文庫マイクロフィルム、 (32)は文藝春秋社編「文藝春秋」」9巻9号231ページ、「目・耳・口」、昭和6年9月、文藝春秋社=原本、 (33)は鏑木清方著・山田肇編「明治の東京」178ページ、「浜町河岸回顧」、平成元年4月、岩波書店=原本、 (34)は同171ページ、「浜町にいたころ」、同同、 (35)は食道楽社編「食道楽」10年4号88ページ、昭和11年4月、食道楽社=原本



 最も注目すべきものは(14)です。支那通の中野江漢が、北京にいたころから日本でジンギスカンを始めたらよいと、知り合いの飲食業者に勧めていた。そういう内容の先頭部分を省略しました。この記事の続きは、講義の進め方の都合で、いまは触れずにおき、濱の家に対抗してジンギスカンを売り物にした東京大井の春秋園という支那料理店の考察と、中野江漢が北京に住んでいたころの在住邦人の動静について話すときにに回します。とにかく万事熱心な富山が、由比ヶ浜で始める前と思われますが、中野の自宅まで訪ねていき、ジンギスカンの知識を得たことがわかりますね。
 さて、昭和7年の「食道楽」をみますと、濱の家は北京視察の続きとして1月号に登場しますが、関係記事は激減して1年間で5本になります。それを資料その3にまとめて引用してあります。この資料は写真抜きの文章だけですが(1)には北京・正陽楼を訪れた富山が正陽楼の主人と一緒にジンギスカン、つまり正陽楼のカオヤンローを食べている写真が付いているのです。これは資料価値が高いので、なんとか皆さんに見せたいのですが、東京都立中央図書館のガードが極めて固く、かなり面倒な手続きと日にちを要するので、別の図書館を探して複写させてもらおうと考えています。なぜ資料として価値があり、面白いのかという理由も、そのときに説明します。はい、資料その3の濱の家情報を見て下さい。
 昭和7年に掲載された分だけなんですが、これまた結構長い。著作権にシビアな方々からイチャモンがつきそうな長さではありますが、お許し願いたい。私が思うに、昭和6年に「食道楽」の部数がかなり増えたのでしょう。それもあって、引き続き濱の家を盛り立てて行けば「必ずや食味界に、センセーシヨンを起すことであらう。」と信じた。それに松崎自身も珍味のご相伴にも預かれるだろうと予想し、実行した結果なのです。ありきたりの支那料理じゃないよ、羊の肉をこんな風に焼いて食べる料理もあるんだよ。いうなれば、ヌーベルキュジーヌのような感じで読者の興味を呼ぼうとしたのだと私は見たいですね。

資料その3

(1)昭和7年1月号
 成吉思汗料理

濱町京蘇菜館「濱のや」主人富山栄太郎氏はこの程戦乱の支那へ悠々と食味行脚に出かけました。最大の目的は、この夏から試みた成吉思汗料理の本格を北京の正陽楼に於て究めようと云ふのだつたそうで帰つて來てから富山氏頭を掻いて曰く「いやこの夏とんだ成吉思汗料理を皆様にさし上げて恐縮しました。今度は本格を仕込んで來ましたから、安心して召上つて頂けます」。と、
濱のやの成吉思汗料理期して待つべしである。上は正陽楼の主人(左端)と成吉思汗を会食してゐる富山氏(中央)、下は北京の壮麗を極めた紫禁城の光景です。


(2)昭和7年1月号
 美味、珍味、奇味、怪味     松崎天民

 支那料理濱のやの主人富山栄太郎氏は不安な空気の漲る満支へ旅して、成吉思汗料理の本格な手法その他を研究して帰つて来た。
 そ北平、天津に於ける食味談は、本誌でも紹介するが、日本に最初の成吉思汗鍋は、必ずや食味界に、センセーシヨンを起すことであらう。本場に於ける支那料理の味が、必ずしも第一義的ではなく、東京の支那料理の風味とても、決して本場に劣らない――と云ふ話は、最も面白い観察であらう。支那料理は支那に限るやうに、一にも二にも本場を礼讃する連中もあるが、それに向ふで食べる時の気分だけの話で、真の風味は日本とても、決して支那に負けて居ないと云ふ。
 何れにしても、不安時代、脅怖時代に、遠く北京まで食味行脚した富山氏の勇気は壯なる哉。


(3)昭和7年4月号
 漫談会「豚・羊・栄養・芸妓」

<前略>
樫田 去年鎌倉で濱のやの成吉思汗料理を食べたが、今、日本橋で、濱のやが特別な室を作つて盛んにやつてるそうですね。
松崎 此の間その試食会に招かれた。
樫田 鎌倉で御馳走になつた時は、ニンニクが強すぎてね、家に帰つたら、何んです、アセチリンみたいな香ひをさせてつて、苦情が出たつけ。
松崎 僕等も、ね、本山君、鎌倉の帰りに、タイガーに寄つたら、女給が寄りつかないんだ、てんで、自分ぢや分らないが、ニンニク臭いと見へるんだね。
樫田 今度は濱のやでも、充分研究して、本格的成吉思汗料理だつて云ふ話だから、あの時より一段と旨いでせう。
本山 所がね、僕は此の間、薬味にニンニクの出てゐるのを知らないで、ニンニクを附けないで始めの中食べてゐたんだが、何んだか物足りなくてね、鎌倉の時は、肉に始めから強烈なニンニクが入つてゐた為か、第一印象だつた故か、鎌倉の方が、魅力があつたやうな気がする。ニンニクを別に出して、随意に附けて食べるのは方法としていゝのだらうがね。僕は、濱のやの目下やつてる、北京正陽楼の本格的よりも、本格を覚へて来るまでの、濱のや主人の我流の成吉思汗の方に愛着を持つね。
<中略>
樫田 羊は濠洲がいゝと云ふ事になつておるが、(記者註、成吉思汗料理は羊肉料理であります)日本へ入つて来る羊も、殆ど濠洲だつてね、柳沢伯爵に訊いた處に依ると。
結城 トンカツでは大分うんちくを傾け尽したから、一つ、河岸を変へて、羊を研究してやらうかな、未だ羊の通は誰もゐないらしいから(皆哄笑)
樫田 羊の肉には辛子を附けるといけないのださうだね。ビフテキ流にすると笑はれるらしい。鰹に山葵を附けない流儀だね。
<後略>


(4)昭和7年12月号
漫談会「支那料理を語る」

<前略>
富山 (料理の中の胡瓜を仔細に手にとつてながめ乍ら)この胡瓜には綺麗に「壽」ときざみ込んでありますよ。今夜はコツクさん、お歴々の集りと云ふので、大分苦心してゐますね。こう云ふ所を見てやらないと可哀さうですね。只食つちまつたんぢや、この苦心が分らない。
<中略>
富山 先程、広東料理に生魚をよく使ふと云ふお話がありましたが、私達未だ支那をよく知らない者は、支那で生魚を食ふと云ふ事は、ちよつと不思議な事のやうに思へるのですが、此の前、北京へ行つた時東興楼で鯉の生造りを食べさせられて驚きましたね。ちやんと鯉の形をしてるんです。皮をめくると、下に、一枚々々刺身になつてゐるのです。眼の玉へ醤油なぞ落すと、未だ生きてゐて刎ねるんです。生姜醤油で食べましたが、あゝ云ふ式は支那にあるんですかね。生造りにした物は日本だけかと思つてゐたら北京で食べさせられてすつかり驚きました。帰つてきて晩翠軒の吉井さんに訊いたら、それは知らないが、九州あたりの料理が向ふへ渡つたのぢやないかと云つてゐました。どうもあれは日本から輸入したものらしい。
<中略>
村松 日本では支那料理と云ふと、安い物と決めてかゝつてゐるので、余り値段を安く攻め過ぎてゐるので、結局旨い物を食べさせて貰へないのだ。
富山 これは我々支那料理屋にとつては實に有り難いお話で、そこまで理解して戴けるお客様だけならいゝんですが、あそこはこれ/\の値段でやるのに、此処はは高いなぞと云はれるのは、全く困りますすよ。
片桐 安い料理を作りなれてゐる日本の支那料理屋さんで、例へば一卓百円の料理を拵へろと、と云つたら、すぐ間に合ひますか、材料が……。
富山 出来ますとも、一卓百円位なら。南洋産のいゝ鱶の鰭になると、日本産の十層倍位ですからね。<後略>


(6)昭和7年12月号
 酣飫漫談(三)
  支那料理    中野江漢

 八、鮑魚の肆と石決明

 十四日の夜、緑風荘に於て催された「食道楽漫談会」は、近頃に無い興味を感じた。支那旅行家として有名な後藤朝太郎氏の旅中に獲た実験談。前外務省対支文化事業部の書記官でカルカツタ総領事であつた朝岡健氏が、急スピードで支那各地の珍味佳肴の食歩きの実験談と、支那料理と関係の深い印度料理の話。一粒一片の材料に至るまで研究せずば止まず、戦乱の中に遙々北京まで出かけて、ジンギスカン料理を研究して来たといふ熱心家で、支那料理店の経営者である濱の家主人富山栄太郎氏の苦心談。上海から広東辺を我家 のやうに研究して廻つた大衆作家の変り種村松梢風氏の趣話、日本料理通として自他共に許す権威本山荻舟氏と松崎天民氏の批判。それに緑風荘主人の柳原氏と、在支二十年支那料理を食飽いた私とを加へての支那料理談であつたから、談論風発、珍談百出、いつ尽きるとも知らぬ有様であつた。<後略>

  

参考文献
上記資料その3の(1)の出典は食道楽社編「食道楽」6年1号ページ番号なし、「成吉思汗料理」、昭和7年1月、食道楽社=東京都立中央図書館特別文献室加賀文庫マイクロフィルム、(2)は同47ページ、同同、(3)は同6年4号100ページ、昭和7年4月、同、(4)は同6年12号92ページ、昭和7年12月、同


 濱の家がジンギスカンを広めるために、前の年、昭和6年夏に由比ヶ浜に食通はじめいろいろな人たちを招いて試食させたことが(1)の「頭を掻いて曰く」と(3)の漫談会の発言でよくわかりますね。
 (5)は、これまでの講義で出てきた人たちの肩書きを要約した形なので、長めに引用しました。由比ヶ浜には料理研究家の本山荻舟と医師の樫田十次郎が、松崎天民と一緒に招かれたことがわかる。その本山の「肉に始めから強烈なニンニクが入つてゐた為か、第一印象だつた故か、鎌倉の方が、魅力があつたやうな気がする。」という発言に注目します、私は。これは、うんとニンニクの効いた漬け汁につけ込んだ肉を焼いたという証言ですし、松崎も由比ヶ浜のジンギスカンはニンニクが強烈だったと認めています。
 私は両者の発言から、やはり富山は事前に北京のジンギスカンを知る木下謙次郎に、作り方を聞いて漬け汁を作ったと推察します。前回の講義で配った資料の中にある木下の講演速記録に「大きな鉢の中に胡麻の油を入れて、これに蟹の油であるとか、海老の油であるとか極く淡白な水産動物の油を混ぜ、其の中に例の支那人得意な大蒜(にんにく)と芹、それから蕃椒、斯ういふ香料をうんと打(ぶ)ち込んで、其中に羊の腰肉の可なり大きく切ったのを浸けて置きます。(36)」とある通り、富山にコーチしたに違いありません。
 里見さんは「肉は、すでに、幾つもの、深い大きな皿になみ/\と用意され醤油のなかにつかつてゐた。いち/\、だから、それをつけて焼く必要はなかつた。法に缺けるまでも、そのはうが、わたしのやうな手さきの無器用なものには都合がよかつた。……勿諭、その醤油は本文通りネギだのニンニクだので味がつけてあつた。舌にピリッと來るのは唐辛子だつた。(37)」と「じんぎすかん料理」に書いていますから、富山は由比ヶ浜では終始、ニンニクの効いた味付け羊肉を焼くスタイルで通したのでしょう。
 (4)の発言は、細かく観察し、疑問は追究していく富山の性格がよく表れていますね。(7)の中野の紹介も同じです。こうした料理人だったから、由比ヶ浜で久保田万太郎たちのジンギスカンは、ぶっつけ本番ではなく、タレの味付けを何通りが試してみて、納得できる味で臨んだと思われます。ただ、予備実験では松葉燻し抜きで、肉の味見だけだったので、使用人たちが松葉を集め忘れていたのでしょう。
 松葉燻しも、資料その2の(12)の松崎が「松葉いぶしに依り、味つけの羊肉を焼きつゝ食べる手法」と書いているので続けたことは確かなのですが、ニンニク臭さが余りにも強烈だったために、あの煙には参ったねとは誰も発言してません。もしかすると、手加減して燻したのかも知れませんな。
 資料その3(3)の医師で食通の樫田十次郎が「今、日本橋で、濱のやが特別な室を作つて盛んにやつてるそうですね。」と発言していますが「最近、成吉思汗料理といふことが、盛にいはれるやうになつて、一種の流行になつて来ました。そこで一体、成吉思汗料理とはどんなものなのか、又、そんなにおいしいものなら、皆様に紹介して、家庭でも出来るやうにならないものか(38)」と、昭和7年に「婦女界」の記者が濱の家主人にインタビューした記事があります。濱の家にすれば、宣伝になりますから、取材大歓迎だったでしょう。
 まず濱の家でジンギスカンを食べている写真を説明する形を取っており、タイトルは「豪快な気分の成吉思汗料理」で、富山の肩書きは「濱町濱の家主人」と「東京料理学校講師(39)」ね。東京料理学校は昭和6年開校で別の講義でも取り上げますが、富山はコックと一緒に講師を務めたことは確かです。記事は「成吉思汗料理とは」と「成吉思汗料理の由来」と「家庭に取入れるには」の3章に分かれており、資料その4は「由来」を抜いた全文と「成吉思汗料理を食べるところ」という説明付きの写真です。
 国会図書館の館内公開のデジタルコレクションなので、写真はコントラストが悪くて見にくいけど、右側の写真説明の左下角の先の高さに焼き面があり、その下の白い部分は焔で、焜炉も微かに見えます。左側の男は白い靴を履いており、右足を床几に乗せています。もしかすると、真ん中が濱の家主人で「婦女界」の記者がゴチになっているところかも知れんよ。いずれ原本を見つけて、そっちの写真が良ければ差し替えます。濱の家は物干し場で焼かせていると何かで読んだように思うんだが、この写真を見る限りちゃんとした部屋ですなあ。

資料その4

   @成吉思汗料理とは

 支那料理での、おいしいものゝ話には、きまつてこの成吉思汗料理のことが出るので、すつかり有に名になりました。全くこの料理はおいしいものに違ひありませんが、又この料理の持つ、一種独特の、豪快な原始的な気分は、一度味つたら、到底忘れられないものです。
 この料理は、写真にある通り、盛に火を焚いてするもので、秋から冬へかけてのものです。写真の台の上にある、鉄の浅い火鉢のやうな炉に、炎々と薪を焚いて、その上に、一 寸撃剣のお面に似た、鉄弓のやあな網をおき、滷蝦油(ローシヤンユ)(海老の子の油)、紹興酒(シヤオシンチユ)(支那酒)、醤油、葱、香菜(シヤンサイ)(一種の香ひのある草)などを混ぜた汁に浸けておいた羊の肉を、一尺二寸位の竹の箸で挾んで、その網の上で、半ば燻製の様にしながら、焙り焼にして、食べるのです。
 この写真にある、道具一切は、私が昨年北平(ペイピン)第一の成吉思汗料理の店「正陽楼(チヨンヤンロウ)」に、古く伝つてゐるのを、直接譲り受けて来たものですが、一体これの本当は、支那の家の中庭でするので、夜の屋外で、写真の通り、床几の上に、片足をかけて、燃え上る焔を前にして、少し反身になりながら、羊の肉を長い竹の箸で、焙つて食べるといふ気分は、なかなか野趣に富んだ、豪快なものです。

  

   ◎成吉思汗料理の由来<略>

   ◎家庭に取入れるには

 この豪快な原始的な料理は、前にもいひました通り、一体は野天でする程のもので、器や道具も家庭的なものではないので、そこに又成思汗吉料理としての味もあるわけなのですが、私はどうかして、これを鋤焼のやうに、家庭にも是非取入れたいと、いろいろ工夫をした結果、最近小形の器具も考へて見ました。
 御家庭でこの成吉思汗料理をなさるには、羊の肉があれば申分ありませんが、なければ牛肉の上等を用ひても出来ます。只豚の肉は出来上りが固くていけません。これを鋤焼用に切つて、丼に酒、醤油、葱の微塵切りを入れて混ぜて、胡麻油一寸落したものを作り、その中に浸け込んでおいて、水焜炉に鉄弓か餅焼網をのせて、十分焼いてその上に肉をのせて、焙焼きにして、召上るとよいと思ひます。これでしたら即席成吉思汗料理ともいふべきもので、お薬味には胡椒、辛子などを用意なさつたら、よろしいでせう。大体が野天用の、野趣に満ちたものですが、鋤焼にもおあきになつた時は、一度試みて御覧なさい。肉の油が火の上に落ちるために、煙が出て燻りますから、お座敷でなさる場合には、予めその用意をしなければなりません。

 ここで「成吉思汗料理の由来」を省略したのはですね、資料その2(14)の中野江漢が書いた「成吉思汗料理の話」の続きの引用だからです。この中野の「成吉思汗料理の話」は、北京、いや、昭和8年当時は北平と改名していたのですがね。現地ではカオヤンローと呼ばれる羊の焼き肉を、日本人がジンギスカン料理と呼ぶようなった経緯を詳しく説明しているため、丸写しされたりした事実と一括して取り上げます。
 それから、富山は昨年、つまり昭和7年に北平に行ったようになっていて、資料その2の(13)や(15)と合わないと思うでしょうが、昭和7年暮れごろの取材であり、それを昭和8年の正月号に掲載したので、1年違うように見えるというわけね。
 それから家庭で焼くのに、水焜炉という聞き慣れない焜炉を使う説明になっていますが、これはテーブルが七輪の熱で焦げるのを防ぐため水を入れた容器の中に七輪を入れたようなもので、私の講義録の目次の下に古い鍋の絵が2枚あるが、右側の太い筒状の焜炉がそれだと睨んでおる。いまでも通販で売っているよ。皆がこれを使っていればジンパ規制に至らなかったかも知れないが、まあ、枝伸び放題の木の下のローンを守ろうというのはどんなもんかね。ふっふっふ。
 おや、時間になりましたね。何か質問ありますか、はっはっは。はい、手を挙げた人。(ここ2回の講義を聴いていると、東京の濱の家が中心で北海道がさっぱり出てきませんが、そのころ北海道ではジンギスカンは食べていなかったのでしょうか―という質問に対して)
 そうですね、今後の講義で取り上げる糧友會という陸軍糧秣本廠の外郭団体が中心になって、昭和3年から全国で羊肉料理の講習会や講演会を開いて、羊肉を食べる運動を行っていましたから、道内ではジンギスカンを知らないとか、まったく食べなかったわけではないとは思いますよ。しかしだね、いくら現場主義でも、道立文書館などに記録がなければ、手も足も出ないのです。もしかすると何もないかも知れない。判明した道内の記録は、これから取り上げるけれど「北村百年史」に全部書かれてしまった感じかするぐらい、とても少ないですね。
 それに引き替え、里見ク、久保田万太郎、濱の家。それらの動きを伝えた「食道楽」「文藝春秋」「料理の友」それぞれの記事と、東京側はきっちり記録が揃っています。
 昭和1桁時代の道内で一番大きな動きは、農林省月寒種羊場の技師だった山田喜平さんが昭和6年に「緬羊と其飼ひ方」という本を出版したことでしょう。でも、この本はあくまで緬羊飼育の参考書です。ジンギスカンの作り方も書いてはあるが、その存在を廣く知らしめたという点では、東京の動きにはとても敵わなかったという見方に、皆さん、異議はないでしょう。その前の昭和3年、羊肉料理を広める講習会も、東京の一戸伊勢子さんが講師としてわざわざ来てくれてのことでしたからね。
 ジンギスカンは北海道遺産に指定されたぐらいだから、三平汁みたいに道内各地で古くから食べていたように思っているかも知れんが、どっこい、そうじゃない。道内では戦後やっと広まったといえる家庭料理なんですからね。では、終わります。
 (文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)

  

参考文献
上記(36)の出典は慶應大学医学部食養研究会編「食養」3巻8号通巻244ページ、木下謙次郎「羊の料理」、昭和6年8月、慶應大学医学部食養研究会=原本、(37)は久保田万太郎全集第11巻214ページ、「じんぎすかん料理」、昭和50年12月、中央公論社=原本 (38)と(39)と資料その4は婦女界社編「婦女界」47巻1号471ページ、昭和8年1月、婦女界社=館内限定近デジ本、