「食糧大観」売り込みに全力あげる

 昭和4年3月23日から上野公園の中で糧友會が開いた「食糧展覧会」は、9日間の日延べをしてできるだけ多くの観客を集め、4月30日に終了します。ここまでが前回の講義で話しましたね。それで会計の決算や会期中のデータをまとめ、評議員会に報告する一方、展覧会場で見せた統計図表や写真、それから連日行った何々デーの講演の筆記録をまとめた本「現代食糧大観」の出版に手を付けていきます。きょうも私はこの本を「大観」と略して呼びますからね。
 ほぼ1カ月後の5月25日、食糧展覧会報告顧問評議員会が東京會舘で開かれ、そこで行った報告要旨が「糧友」8月号に掲載されています。報告顧問評議員会なんて、いま見ると変な感じがしないわけでもないのですが、食糧展の報告を聞く顧問と評議員の会ということと素直に受け取りましょう。これが、きょうの資料その1です。はい、プリントは1部取ったら後ろの人へ回しなさい。

資料その1

一、本会に於ける出品者総点数は六百八十余個所にして其の出品点数は一万八千二百余点なり。
二、会期中入場者総数は約八万人にして一日平均約二千人なり、又、入場者男女の比は男子約三分の二、女子約三分の一にして女子比較的少なかりしも、一面、女学校方面の団体入場者四十団体約三千人、男子方面の団体入場者十団体五百人にして団体に就ては女子の方遙に多数なり。
三、開期中は本会の事業として各種の講演、映画の上映、各種の食糧関係デー、調理の実習等を行ひたり、其の概況は左の如し。
 講演者 八十九名
 映画上映数 二百廿六種
 各種魚食糧関係デー 三十九種
 調理の實習    連日實行
四、本會の収支決算に就ては別に配布せし「昭和四年三、四月糧友會主催食糧展覧會収支決算表」の如く収支四萬四千十九圓四十五銭にして、之れを當初の収支豫算四萬一千二百八十圓に比すれば弐千七百三十九圓四十五銭増加せるも斯る事業の収支としては概ね大差なきを得たりと言ふを得べし。
 尚本収支決算表中其の収入の大半を占むる所謂寄附金は三井、岩崎、大倉の各男、及、其の他二、三の特志より特に本企図が国家公共的の有益なる事業たるに賛意を表され、進で提供ありしものにして、本會としても其の芳志に対し深く感佩しある所なり、併せて茲に之れを報告す。
五、本会実施直接の反響としては広く世上に食糧智識を普及せしのみならず、二、三の地方に本展覧会と類似の企図を催さしむるに至り、又、直接糧友會員も若干増加を見るに至れり。
 尚本會は本邦嚆矢の企図にして、而も食糧智識の一大縮図とも言ふべきものなるを以て、之れを記録とし其の頒布を切望する向少なからざるを以て、今回之れを記録として編纂することとし目下著々進捗中なり。
以上は簡箪乍ら食糧展覧會実施の概況なり。

糧友會將來の事業に関する評議員各位の所見
1.食糧展覧會の感想
 い。今回の食糧展覧會は相当高級なものであつたから将來はもつと通俗的に見せる考案の必要な事。
 ろ。糧友會の組織並に展覧會豫算の範囲で、あれだけの成功を収めたのは非常な大出來である。
 は。食糧展覧会を常設する様にしたい。それが出来なければ一年に数回、それが出来なければ一、二年置に開催したい。
 に。各方面が予想外に協力したくれた。官庁研究所も単なる参加といふ意味でなく、夫々自分の仕事をして力を入れられたことは非常なものだあった。
 ほ。各新聞雑誌亦特別の好意を示し何等金品の贈與等のことをしなかつたにも不拘夫々の立場から応分の宣傳をして呉れた。而も有り勝ちな褒貶の記事が一つもなかつたことは、誇るべき一つの記録である。
 へ。展覧會開期中は些小の事故もなく、極のて圓満平和に行つたことは、關係者一同綱紀を嚴守した賜である。
 と。よく展覧會で起ろ問題は収支決算の後始末であるが今回の食糧展覧會では最も計画的にやつたので、斯る不殆末のなかつたのは立派な手際であつた。

2.糧友會将来の事業
 い。食糧展覧會は今回一度きりで中絶するのは申訳ないから事情の許すかぎり開催したい。
 ろ。その方法は大規模完全な常設展覧會を置き、その派出をして各部門別の小展覧會を移動的にデパート等にも開催すること。
 は。今回の展覧會で食糧に關係する官公団体、民間団体と糧友會幹部がよく融和して連絡がとれ、食糧展覧會のみに止まらす、一致団結して食糧問題解決の将来運動を起す機運を恵まれたので此の方面への糧友會の進路を早く定めることが必要である。<略>

 この会議で報告された数字を「大観」に載っている数字と比較してみますと、概数にしても少し大きめであることがわかります。まず「大観」の入場者総数は7万3365人であり、約6000人多い。一日平均は1881人としていますから約1000人多い。入場者男女の比は「大観」にありませんのでわかりませんので、これを信用しましょう。団体はこれでは50団体にしかなりませんが「大観」では小学校も入れて66団体、団体名を記載していますので数えるとそうなります。「女学校方面の団体入場者四十団体約三千人」は「大観」では35団体2847人「男子方面の団体入場者十団体五百人」は男子学生だけで17団体950人になりますので、ちょっと合いません。それで陸軍経理学校、同被服廠養成部学生、同被服本廠、同幼年学校、近衛師団幹部候補生、海軍経理学校の6団体472人に缶詰協会員の42人を加えると、7団体512人になるので、これを引くと一応10団体500人に近くなりますから、こんな区分けをした数字(1)だったかも知れません。「大観」には収支決算がないので、その精度はわかりませんが、入場者数に関しては、太平洋戦争当時の大本営発表を思えば、うんと正直な数字といってよいでしょう。
 会議では、よくやったと褒められたので、糧友會は規定方針通り「大観」編集に取りかかります。第1回の広告は「糧友」7月号に掲載されていましてね、それが資料その2なんです。同じ広告を8月号にも載せています。食糧展の最終日は糧友デーとし、閉会式をやったのですが、その前の講演で丸本彰造委員が「食物と人生」と題して話した記録が「大観」に載っています。それによると「八万の入場者は頗る熱心に観覧され、記録の申込が二千名を突破したことは、入場者が質良き人々であつた事を示し、本展覧会が有意義であつたことを、一糧友の立場から喜ぶ次第であります」(2)と語っています。この記録とは「大観」のことであり、展示したデータが役立つと認めた人たちなどの購入予約を、一足早く会場で受け付けていたのですね。その証拠が資料その2(1)です。おしまいの2行を見なさい。その下の(2)はこれを元に広告らしく書き直したものとわかりますね。

資料その2

(1)
   食糧展覧會録實費頒布
                 糧友會
一、食糧展覧會記録
1.人口食糧問題。榮養。農、畜、水産、工業的生産、加工の各食品貯藏。
  配給、消費、調理、食事衛生、炊事器具等其他第一、第二、第三會場
  の出品、特設館一切の統計圖表記録を蒐録いたします。
2.毎日食糧界の學者、實際者の講演されし食糧に關するすべての知
  識を筆記掲載致します。
         全部約一千頁(四六倍判の節は約五百頁)
一、印刷實費豫定 一冊 金三圓内外
                送料金十八銭
  申込所 東京・深川・越中島・糧友會
             電話本所一一〇三番
           上野・食糧展覧會
               (開催中)


(2)

体裁 四六倍版総クロース美装  オフセツト印刷五〇〇頁  豫約申込期限七月中  配本 全一冊 八月上旬  豫約値段 三圓五十銭位

 本書は、現代我国に於ける最も権威ある官公研究諸機関の、食糧に關する諸研究調査を網羅し、我國人口食糧問題の総合的結論を直覚的に明示したる本會主催の食糧展覧會に於ける容易に得がたき貴重なる権威ある資料を、最も組織的に且つ何人も極めてたやすく理解し得る如く、之に若干の解説を附して、総括、人口食糧問題、榮養問題、農産、畜産、水産、加工食品、食物貯藏、配問題、消費問題、炊事調理、食物衛生、能牽的器具の十四部門に別ちて配列し、尚ほ朝鮮、臺湾、樺太、満蒙の四大特設館其他国防館、食道旅行等に於て展示したる重要なる参考資料及食糧問題に重要なる關係を有する商品に就ての図表、實物並に模型の写真を掲載し、これに加ふる各方面の権威者によつて爲されたる八十八回の食糧に關する講演の速記其他を輯録したものであつて、科学的参考と精神的教訓に富み、本邦人口食糧問題に対し極めて正當なる理解を與へ得る好参考書たることを深く信じて疑はぬ。
 冀くは、生活力の源泉たる「食」の問題に対して、真剣なる態度を以て、これが正しき理解と深き自覚を把握せんことを求むる人は、何人と雖も本書一本をその座右に備へられよ。
        東京市深川区越中島・陸軍糧秣本廠内
申込所        糧友會
            振替 東京一六九〇二番
              電話 本所 一一〇三番

  

参考文献
上記資料その1の出典は糧友會編「糧友」4巻8号134ページ、「糧友のたより」より、昭和4年8月、糧友會=原本、(1)は糧友會編「現代食糧大観」52ページ、昭和4年12月、糧友會=原本、(2)は同704ページ、同、資料その2(1)は糧友會編「糧友」4巻5号126ページ、昭和4年5月、糧友會=原本、同(2)は同4巻7号75ページ、昭和4年7月、同


 注目して欲しいのは、ページ数と値段です。ここでは500ページ、3円50銭位、位が付いているのです。ちょっと珍しいでしょう。案の定、講演集のページが増えて、予約の3円50銭ぐらいで売ったのでは大赤字とわかり、12月からの予約者には5円で売ることにした。つまり一物二価に作戦変更のうえに、編集作業は2カ月も遅れてしまったのです。「糧友」の会告、糧友會の會からのお知らせ、新聞社なら社告に当たるものですがね、この会告と広告、それと「糧友」の編集後記の3つから、その方針転換の足跡を見せましょう。それらが資料その2なんです。  

  資料その3

昭和4年7月号 編集後記

 編輯部の全能力を、食糧展覧會記録「現代食糧大観」の編纂に、所謂記録的型を破り、オフセツト刷で写真版凸版のみにも四百点以上、見た目には知識的な絵本であり、読んで面白い読物であり、座右に具へてよき参考資料たるべく、糧友編輯部の苦心努力を看よと意気込んでゐるが、少くも申込一萬部といふ豫定に未だ遠く、些かこの所拍子抜けの底、宜しく吾々を鞭撻されたい。それは一部でも多くの購読勧誘を……。(以下略)


昭和4年9月号掲載1ページ広告

現代食糧大観

 本春上野に開催せられた『食糧展覧會記録』
▼全一冊限定出版として申込者に限り配付、一般書店に売りません
▼四六倍版上製、紙数六百頁、原色版二十頁、オフセツト刷り上製布装、堅牢美本、箱入
▼實費一冊金参圓五十銭也
▼郵税十八銭、東京市内六銭、朝鮮、樺太、臺湾、満洲五十五銭
▼昭和四年九、十月中配本

食糧知識の宝庫 現代の人口食糧間題・榮養・農産・畜産・水産・配給・消費・加工貯藏等の問題より・炊事調理・食物衛生・臺所管理まで各方面の図表・写真、懇切なる説明を蒐録し且つ八十八回の各方面の権威者講演筆記及各種料理法、其他を満載す。

 
昭和4年11月号広告

食糧展覧會記録

  『現代食糧大観』に付謹告

拝啓陳者先般『現代食糧大観』刊行企画致候處幸にも御豫約御声援被下感謝の至に不堪候爾来編輯及印刷工程促進に最大の努カを傾注致居候へ共何分精緻なる図表、絵画並に写真版を中心と致候爲、製図製版に案外日子を要し、加之各表の絶対正確を期し且十分なる説明を添加する爲各官庁其他出品者の厳密なる校正を乞ふと共に本會の犠牲を以て豫定頁数五百頁に更に二百五十頁を増加するの己むなきに至り堂堂七五○頁の大冊として漸く編輯を完了し、目下斯界の権威たる日清印刷株式會社に於てその精鋭全能カを傾けて印刷工程を急ぎ居り候次第にて大体來十一月廿日より順次配本の運と相成候延引又延引誠に恐縮の至に存候へ共本會の誠意及右事情御賢察被下今暫らく御猶豫被下候様御願申上候 敬具
 追而乍恐縮代金は遅くも十一月廿日迄御払込裁下度尚代金引換御希望の御方は其の旨御一報被下候はゞ配本上誠に好都合に奉存候
                       糧友會


昭和4年12月号 広告

  ◇三たび現代食糧大観(食糧展覧會記録)に付謹告
 本會が「現代食糧大観」の實費頒布を発表いたしまするや競つて皆様の御申込に預り、大に力を得て一日も早く完成する様にと精励しましたが、大きな図表を小さく写し換ひだけで五月から八月までかゝり、之が嚴密なる校訂に一ケ月を要し、編輯にとりかゝつて廣汎な図表と写真と説明なので之も一ケ月苦心しました、その完了が十月中旬、それから起算して十一月廿日には皆様のお手元に屈くと思つて十月にお了解を求めましたが、愈々印刷し始むると又思はぬ困難にぶつかり、先般の豫告より更に延びました。今生みの苦しみ中です。そして十一月廿日頃の発送が十二月中頃になりました事を幾重にもお詑び申し上げます。遅れに遅れましたが、その内容、編輯、製版、印刷製本等にあらゆろ能力をそゝいでゐる眞剣な私共の努力に免じ、枉げてお許しを願ます。(以上編輯部)
 猶ほ頁数が、オフセツト版が二百五十頁も殖へたので、豫め御申越の方はお約束の参圓五拾銭にお頒け致しますが、多大なる會の犠牲なので今後新に申込の方より定価の五圓を嚴守いたします。(糧友會)

 「大観」広告は9月号から実物縮写と称する背表紙を見せた本の写真が入り、説明文も変えています。8月にはつかみ本と呼ばれる700ページぐらいの中身は白紙の本の見本ができたということですね。9月号の広告をスライドにして用意してありますので、ちらり見せましょう。実物は愛想はないけれどもがっしりした造りの本ですよ。右描きの現代食糧大観という字は、アールーヌーボー調とでもいうのですかね、昭和初期のポスターなんかで、よく使われている飾りの多い字体ですよね。

          

 さて、どうして、500ページのはずが750ページを超えてしまったのか。目次では743ページですがね。これは宮様とか役員の写真を載せた口絵のページを数えていませんから、それらを入れると750ページになるんですね。ページ数が増えた理由としては、広告にあるように88回の「各方面の権威者講演筆記」を入れたということと思われます。479ページから704ページまでが講演筆記ですから、225ページを要しています。しかし、ページ数では展覧物の説明が最多で、これに391ページも使っています。説明はテーマ毎に分かれていまして最大は農産の50ページ、次が国防の48ページ、3位が栄養の38ページ、4位が配給の36ページとなります。「本邦に於ける緬羊の分布図」などの畜産は26ページで、水産の30ページより少なかったのです。糧友会が研究した料理の実演場、糧友軒の調理法の説明は、16ページ(3)しかありませんが、例の鍋羊肉の作り方はこの中に入っています。
 まず、その前に資料その4にした第4編「デー開設の趣旨」の6番目にある「羊肉デー」を見ましょう。羊肉デーの趣旨は羊肉を食べるという新しい食習慣の「徹底的普及」を図る日、国民に牛豚鶏だけでなく羊の肉も食べようと呼びかける日ということに尽きますね。いまでこそ、ジンギスカンを通じて皆羊肉を食べるようになったけれど、昭和4年当時は肉屋で羊肉は売っていなかった。政府が緬羊を増やせと奨励しても、金になるのは毛ぐらいだと農家が乗り気にならない。でも羊肉を食べる人が増えれば、肉でも稼げると見直されて緬羊を飼う農家も頭数も増え、即ち羊毛増産と相成るとね。それで会期中に3回も羊肉デーも作ったのは、新しい食材、つまりこれまで臭いとかなんとか無視されてきた羊肉の食べ方と味を広めるためでした。

資料その4

第六 羊肉デー

三日間  三月二十八日
     三月二十九日
     四月十日

 羊毛は、国民生活上、並びに軍事上、必要欠く可らざる原料品である。我國一ケ年の輸入額は、実に一億数千萬圓に達し、之に其の加工品を加ふれば、二億数千萬圓に達する、此を全輸入額に比すれば正に一割に当たるのである。
 羊毛の国内生産額の増加を図るは、啻に経済上のみならず、国防上に於ても、忽にすべからざる問題である。
 茲に於て、当局は緬羊百万頭増殖計画を樹立し陸海軍人、警察官及交通機関に從事する者の被服資料は、全都之を自給せんとして居る。
 然れども緬羊の飼養は、農家の副業として、経済的に安定ならしむるには、羊肉利用価値の増進に俟たねばならぬ。
 本邦に於ては未だ、羊肉の美味にして、且つ榮養価値の大なるを知るもの少きは、甚だ遣憾とするところで、啻に緬羊飼育の経済価値を低下せしむるのみならず増殖上の支障ともなるべきが故に、此点大に一般人士の覚醒を切望する所以で、本展覧會が羊肉デーを開催する事三回に及んだのは徹底的普及を希望した爲であつた。

 羊肉デー 第一回 三月二十八日
    同 第二回 三月廿九日
    同 第三回 四月十日

第一回羊肉デーに於ける事業
講演 緬羊に就て 農林省技師 岸良一氏
映画 緬羊について
    我國の緬羊
    緬羊牧場の年中行事
    デンマーク農民の努カ
實演
   羊肉料理    八回
   家庭貯藏壜詰法 二回

第二回羊肉デー
講演 畜産食糧の話 農林技師 釘本昌二氏
映画  牛乳の効果
     デンマーク農民の努力
     緬羊牧場
     我國の緬羊
實演
   羊肉料理    二回
   家庭貯蔵壜詰法 五回
   糧友団子製法  二回

第三回羊肉デー
講演 緬羊百萬頭計画について 農林省農林技手 伊藤喜一郎氏
映画
    緬羊の讃美
    我國の緬羊
    緬羊牧場の年中行事
    デンマーク農民の努力
    糧友會
實演
   羊肉料理    五回
   家庭貯蔵壜詰法 二回
   清涼飲料製法  二回



   
       糧友軒での料理の実演

 3回の羊肉デーのほかの日にも羊肉料理の宣伝が行われました。食糧展覧会では会期35日の毎日を何々デーと名付けて、それにちなむ講演、実演、試食などをした。「大観」の各デーの実演種目から羊肉料理の回数を見ていくと歯及び咀嚼デーで3回、農業デーで2回、2回の缶詰デーで計4回、調味品デーで2回、配給デーで2回、調理デーで2回、畜産デーで2回、食物栄養・婦人デーで2回、食薬医薬駆虫デーで1回、塩乾物デーで1回、台湾樺太デーで1回やっている。これらと3回の羊肉デーの計15回と合わせると32回になりますが、さらに4月25日の陸軍デーは、わざわざジンギスカン料理と断って2回実演したので合計34回ということになります。これはほぼ毎日、1日に最高11回も実演した家庭貯蔵壜詰法の合計139回には及びませんが、家庭パン製法の27回、糧友団子製法の21回を上回ってます。
 それから「大観」は「デー開設の趣旨」で発表している実演回数の合計と第7編「実演」にある「糧友会事業場(糧友軒)にて実施せる調理品名竝に其回数」の回数が食い違ってます。糧友軒統計だと羊肉調理法は33回、貯蔵壜は155回、家庭パンは35回、団子は14回と微妙に異なる。それに「実演調理法」に、なぜか糧友団子製法が入っていないという疑問もあるので、私は各デーの累計回数を取りました。
 どんな料理を実演したのかというとですね、第5節の「羊肉料理法」によれば焼き物として「羊肉素焼、羊肉のすき焼、鍋羊肉(カウヤンロウ)、むし焼羊肉」、揚げ物として「炒羊肉(シヤヤンロウ)」、煮物として「アイリシユシチウ、羊肉の酢の物、羊肉のおろし和へ、羊肉みどり和へ、芙蓉羊肉(フーヨーヤンロウ)、羊骨肉スープ」、内臓料理として「羊もつ焼」(4)以上12品となっています。全部作ると時間が掛かりますから、1回の実演では2、3品ずつ作って見せたのでしょう。
 鍋羊肉にカオヤンロウとルビが付いていることを確かめてもらおうと思って、711ページの左下のコピーを資料その5にしました。よく見なさい。

  資料その5

「現代食糧大観」の鍋羊肉と名前が載っている711ページ

 糧友会は調理品名といってますが、このメニューの前に「羊肉料理上の注意」として(1)羊肉の臭気のもとになる外部の皮下筋、脂肪を取り除く(2)高温で短時間で調理する(3)料理に使う油は胡麻油など植物性の油がよい(4)牛蒡、ウド、葱など臭いのある野菜を取り合わせ、さらに香辛料を加えて羊肉の臭気を消す(5)―ことを挙げています。おしまいの方に粉山椒、七色唐辛子、胡椒などとあるのがわかりますね。そしてね、次の712ページに丸本さんの談話という形で北京のジンギスカン料理の説明とそのカオヤンローの調理法を載せているのです。資料その6はその原文通りで行替えも同じにしたので、この丸本談話の初めから10行ぐらいの下の方が資料その7の丸本談話と一致しているでしょ。インチキなし、わかりますね。

  資料その6

  成吉斯汗料理 (丸本彰造氏談)

 食味は環境の影饗を受くる事が甚大である。氣分
と味との良き調和に由つて、忘れ難き美味を感じた
事がある。其の事を発表したい。それは満洲の荒野に
於てゞあるが成吉斯汗料理と呼ばるゝものである。
 北京前門外正陽樓が調理して日支人を喜ばせて居
る料理で、之を食するには庭前で、時期は冬、寒天
に高く星がまたゝき、雲がチラ/\と降つて來る。其
の暁朝、机上に構らへたる鍋に半焼木炭を燻らし、煙
と火の粉が盛に立ち昇る。其の煙に薄截した羊肉に
特別のたれ(蟹肉 と香味品で拵らへたる醤)をつ
け乍ら煙に當て箸で突きさし、六尺の腰掛に片方の
足をかけて立食する。空を仰ぎ談論しながら、馬上
杯を盛に傾けつゝ、支那特有の焼酎をあふるのであ
る。これは陣營に於ける酒の飲み方である。
 東洋的英雄氣質をそゝるいかにも成吉斯汗が蒙古
を蓆捲して、其の地の羊を屠り、焼いて陣營で食し
たものと察せられる。それで誰言ふとなく成吉斯汗
料理と云ふに至つたのだ。美味で羊の臭氣を半焼の
木炭の煙で消すのである。之に要した器具は、北京駐
屯貴志主計正に依頼し羊肉宣傳として本邦では創始
的の試であつた。會期朝野の人に試食せしめ羊肉の
原始的食法普及の効果を納めた。

   調 理 法

 此の料理は烤羊肉(ヤウヤンロウ)と言ひますが、本邦一般家庭の
調理法として述ぶれば五人分の材料は
  羊肉(肩又は股肉) 百二十匁
  醤油          五勺
  酒           二勺
  砂糖          十匁
  七色唐辛子       少量
  胡麻油         少量

 準 備
 羊肉は一分位の厚さに切り、醤油、酒、砂糖、七
色唐辛子を合せた中に約三十分浸して置きます。

 調 理
 焦げつかぬやう、金網に胡麻油を塗つて強火の七
輪にかけ、つけ汁をつけながら肉の両面を焼きます。

 注 意
 炭火の中に生松の枝(又は松笠)を混ぜ入れて、多
少燻し氣味に焼きますと一層風昧がよくなる。

 資料その6の丸本彰造氏談はカオヤンロウでなくてヤウヤンロウとなっていたり、雪が雲と誤植されているので、雲がちらちら降ってくるのはお笑いですが、発行を急いだためにこうした誤植は避けられないと編集部はみていたようで「編集を終へて」で第6編の講演筆記の原稿はは必ず講演者に見てもらったけれども、それ以外の普通の記事は「親く校閲を経乍らも、内容広汎なる為に未だ十分推敲するの時間がなかつた事を非常に遺憾に思ひます。之を再版を期して訂正したいと思ひますから、皆様よりも御気付きの点は御示教を賜りたいものであります」(6)と断っています。
 丸本談話は、第6編ではなく、第7編の「実演」に入っているので「十分推敲するの時間がなかつた」記事のうちなのでしょう。本人が目を通していたら、小原庄助でもあるまいし、わざわざ朝っぱらから飲むわけがないだろう。それに正陽楼の箸は長いけれど、突き刺したりせん。普通の箸と同じように使うんだと筆を入れたはずです。
 そもそも「机上に構らへたる鍋に半焼木炭を燻らし、」という丸本さんの鍋は、鉄鍋みたいなコンロと、私が焼き面と呼ぶロストル型の円板の組み合わせを指していたのです。濱町濱の家の講義で見せた鍋の写真を思い出してください。その鍋みたいなコンロにね、鉄で作った簀の子みたいな焼き面をかぶせ、たれを付けた肉は焼き面に並べて焼くと説明したと思うのですが、聞く側がジンギスカン料理の実演を見ていなかったか、まるで知らなかった。
 それで「机上に構らへたる鍋」と聞いて、燻る木炭を入れた大きな鉄鍋だけを想像した。肉を焼くのはそれに乗せた焼き面の上だとは思わなかなかった。だからジンギスカンの焼き方は、肉にたれをつけ、箸で突き刺してもうもうたる煙に当てる。即席薫製みたいなイメージを持ったんだな。それで「薄截した羊肉」に「特別のたれをつけ乍ら煙に當て」「立食する」という表現になったと考えられます。ジンギスカンをよく知っている我々にはこれでも通じるけど、食べたことのない人は箸で肉片を持って火にかざすと誤解するんじゃないかなあ。まずい書き方です。
 それから「特別のたれ(蟹肉 と香味品で拵らへたる醤)」の蟹肉のすぐ後ろの1字空白がありますが、私は蟹肉油か蟹肉醤と書こうとしたとみますね。旧満洲の水産物の資料に蟹油、蟹醤が出てくるからです。ただ、後ろに「拵えたる醤」とあるので油か醤かと迷ったまま書き忘れ、そのまま印刷に回してしまったんじゃないかと思うんですよ。
 ともあれ資料その6の丸本彰造氏は、北京にある正陽楼という店は冬、屋外で客が羊肉を焼きながら立ち食いする豪快な料理を提供する。日本人は成吉思汗料理と呼ぶが、中国語ではカオヤンローという。それを日本の家庭で食べるとすれば、こうすればよろしかろうと材料、焼き方を説明しています。
 改めて言うが、この「現代食糧大観」は昭和4年12月の発行です。なのに2年後の昭和6年に出た山田喜平著「緬羊と其飼ひ方」にも同じ調理法が載っていてね、ジンギスカン料理を取り上げた最初の文献は、この山田喜平の本だと書いているホームページがあります。皆さんの中にも、道立総合研究機構農業研究本部の中央農業試験場のコンテンツにある「羊肉料理『ジンギスカン』の一考察」と題するそのページを読んだことがある人もいるかも知れんが「現代食糧大観」の方が先ですからね。もっと言えば、丸本談話のレシピはもう2年前、糧友会が開いた第1回羊肉料理講習会で発表した鍋羊肉と同じなんだから、山田の著書が最初の文献だなんて、とてもいえないことがわかりますね。
 資料その6で「現代食糧大観」の記事を示しても、山田本より2年早く出た文献だといいたくて、私が細工したんじゃないかと疑う人がいるかも知れないので、原本の「調理法」が書いてある箇所のコピーを資料その7で見せましょう。ただ「大観」の方は間に合わせに国会図書館の近代デジタルライブラリーを使ったので、ちょっと字がつぶれているけど、読めるでしょう。
 これで糧友会が「現代食糧大観」を通じて、これまで鍋羊肉と呼んできた料理は、ジンギスカン料理と同じと覚えさせようとしたことが理解できたかな。

  資料その7

 

「現代食糧大観」の成吉斯汗料理の調理法が載っている711ページ


        

山田喜平著「緬羊と其飼ひ方」(初版)の「鍋羊肉又は成吉思汗料理」が載っている340ページと341ページ

 「現代食糧大観」のここでは、鍋羊肉にヤウヤンロウという振り仮名をつけている点に注目して下さい。近デジ本の「大観」の振り仮名を拡大してみると、誤植でヤウヤンロウになつてますが、原稿ではカウヤンロウだったはずです。すぐ次のページにジンギスカン料理の烤羊肉があり、これにはカオヤンロウと振り仮名があるので、支那では烤羊肉と書く料理は、日本じゃ鍋羊肉と書くのだ。字は違うけれども、意味は烤イコール鍋だとこじつけ、鍋はなくても鍋羊肉、羊の焼き肉を広めようとしたと考えられます。
 昭和3年の「糧友」1月号に初めて掲載した「羊肉料理法」以来、鍋羊肉をカオヤンロウと読ませてきたのですが「糧友」とは無縁の人々が食糧知識を得ようと読む「大観」を通じて、鍋羊肉、烤羊肉とジンギスカン料理は同じ羊肉料理だと伝えようとした。ジンギスカンが奇抜で覚えやすいなら、それで結構、名前にこだわらず、要は羊肉を食べるようになってもらいたい。丸本談話が北京の成吉斯汗料理から家庭向けレシピへとつないだのも、それでした。
 資料その7の山田本の右端に「鍋羊肉又は成吉思汗料理(五人分)」という1行が見えますね。そう書いてくれと頼まれたわけではないと思いますが、この本を見る限り鍋羊肉即ちジンギスカン料理と覚えさせようとした糧友会の狙いにぴったり合致したことになります。羊と来れば蒙古、蒙古となれば英雄ジンギスカン、ジンギスカンが野営のたびに、部下とともにこうして羊肉を食べたなんて俗説が生まれ、だからジンギスカン料理と呼ぶんだとなり、さえない鍋羊肉という名前は消えた。万事物事、売り物にはネーミングが大事なんですね。ジンパ学という名前も内容もイケてると思わんかな。なに、無理しなくてもいいよ、はっはっは。
   会期中の講演記録を見ると、農林省の伊藤喜一郎技手は緬羊を飼うと羊毛と羊肉と肥料になる糞、それと子羊が得られるが「中でも肉として販売し得るか否かと云ふ事が緬羊収入の上で極めて大きな影響を及ぼすのであります。即ち生産した仔緬羊中牝は、繁殖用とし、牡は、種牡として残す必要のないものは去勢して肉羊とする事が経済上大いに必要な事であります。而して羊肉として盛に売れる様になれば、緬羊飼育の経済は頗る良好に展開されるのであります」と言っている。
 そして今後「農家が盛に緬羊を生産しても、其の肉がよく()けなければ、経済的に行き詰まつて仕舞ひますから、ドシ/\肉羊として消化して行く様にして貰はなければ緬羊業の堅実な発達は困難であるのであります。最近では此の羊肉に対して、漸次理解を持つものが多くなり、殊に女学校とか、高級の食堂ではだん/\羊肉を使用される様になりましたが、一般の家庭の食膳に上る事は未だ極めて少ないのであります。之は甚だ遺憾な事でありまして、将来は牛肉や豚肉と同様盛に利用する様にして頂きたいと思ふのであります」
(7)と語った。
 しかし、農林省当局が本当に羊肉の消費が伸びることを期待していたのかどうか、私は少し怪しんでいるのです。というのは、この2年後に農林省畜産局が作った「農業の経営と緬羊飼育」というガリ版刷りの小冊子をみますと、羊肉が結構売れるから、こっちからも利益があがるとは一言も書いていないからです。この本は北大図書館にあります。「顧みれば大正五、六年の頃である。欧州大戦の影響を受けて我が国は羊毛の供給に非常なる苦痛を嘗めた。茲に於てか尠なくとも国家として軍隊、鉄道従業員、警察官吏等の為に使用する絶対に必要なる羊毛丈は国内にて生産せねばならぬ。と云ふ論が朝野に喧伝された。斯くて我が緬羊飼育の奨励は其の開始を見たのである。之れ正に大正七年であつた」というものものしい書き出しなんですが、徹底して羊肥、羊の糞尿を肥料にする価値を説いているのです。
 その前書きを読んでみますか。「元来農業経営上肥料は極めて重要なる問題であつて我が国に於ては年額三億円余の金肥を消費して居るやうな有様であるが、羊肥の施用に依つて金肥の節約を圖ると云ふことは農業経営上又極めて肝要なことである羊肥が多大の肥効を有することが各地に実験され之を稲や麦に施用せば甘味を増し害虫の被害を減少し一般に品質を良好にし且つ収量を多からしむるなど云ふ様に高価の極めて顕著なることが一般に知られ一層緬羊飼育熱を喚起したのは当然である。斯くの如く緬羊飼育に依つて農業の経営を有利ならしめた事例は各地方を通じて極めて多く枚挙に遑あらざる処であるが茲に其の一端を紹介して参考に供することにする」
(8)というのです。
 結論として「我が国の緬羊飼育は廃物を利用して所謂無より有を生ずるもの」であり、全国136頭の収支調査から平均して1頭1年間の利益が16円84銭だった。1農家が5頭飼えば84円強となり、さらに羊肥が20円相当出るから5頭で100円の副業になる(9)としています。ホームスパンの利益には触れていますが、去勢して肉羊にすると肉量が増えてうんぬんなんて話はまったくありません。畜産局として羊肉消費の拡大という意思統一がですね、びしっとされていたのかどうか、この本からはとてもうかがえません。
  

参考文献
上記資料その3の出典はいずれも糧友會編「糧友」第4巻7〜12号、昭和4年、糧友會=原本、(3)はいずれも糧友會編「現代食糧大観」より、昭和4年12月、糧友會=原本、資料その4の「羊肉デー」は同449ページ、「糧友軒の実演」は同707ページ、(4)と資料その5と(5)は同711ページ、資料その6は同712ページ、(6)は同744ページ、 (7)は同679ページ、(8)は農林省畜産局編「農業の経営と緬羊飼育」1ページ、昭和6年、農林省畜産局=原本、(9)は同40ページ、同


 はい「大観」に戻ります。ページ数が1・5倍に増えてしまい、一度は3円50銭と正式発表した値段で売ると赤字は間違いない。値段も1・5倍すると5円25銭になるけれども、これではどんな計算で出版したのかと非難ごうごうとなるから、せいぜい5円どまりにしなければなるまい。おまけに遅くても10月中と思った配本がずるずる遅れて12月にかかってしまった。それで年内の予約者には3円50銭のままとし、新年号を読んでからの申込者には5円で売り、できるだけ多くの部数をさばいて損害を減らすという作戦に出たと思われます。昭和5年は「大観」売り込みに力を入れる年になってしまったのです。その足取りを資料その8でみてみましょう。

資料その8

昭和5年1月号 新年に於ける吾等の指標 丸本彰造

世界食糧問題の研究(略)
日本食糧の国際的進出(略)
日本食糧合理化の展開(略)
戦時非常時食糧問題研究(略)
国防の経済化と野営生活(略)
食糧知識の普及運動(略)
食糧展覧会の開催
 昨春開催した本邦創始の綜合的食糧展覧会の経験に依つて、実際と学術と並行展示し、真摯なる官民一致振を見せ、科學的系統を有した点に於て社会の耳目を引き一般に食糧知識の普及と食糧消費の含理化運動に強い刺激を與へた事を知つた。
 かゝる企圖は今後も継続すべきであるが、之は相當の年数を隔てゝ行ふを可とすべく、別に毎年各分科の展覧會を開催するが良いと思はれるのである。此点に關して關係當局並に各團体に協力に俟たなければならぬが、この種の會には糧友會自ら主催する外時宜によつては同一目的のものに対しては後援するも一方法なりと信ずる。

 実行運動の数々
糧友會の使命として従来とも主張する食糧消費の合理化、団体炊事の指導の為に主食たる胚芽米無砂米の普及、家庭貯蔵瓶二億万運動、製パン技術の向上とパン食普及、咀嚼運動、罐詰及羊兎肉食の普及、国産食糧の愛用、其他食糧資源開発の奨励並に食糧教育圖書の利用等は元より、食糧間題の経済的方面の調査、食糧の浄化運動(食物衛生)食糧の無駄排除、調理学校の創設或は後援、等の運動、提唱に努力する要があると思ふ。
 猶ほ人口食糧問題の調査を爲し、或は他の研究調査を綜合して食糧政策の参考に資する事にも努むるを要する。
 
食糧を通じての精神運動(略)
協力。一躍進(略)

 
昭和5年1月号 編集後記

 (略)
   ×
 本会の昨年は食糧展覧会にはじまり、広島支部の設立と現代食糧大観の発刊で終りました。全く活動と奉仕の連続でした。今年は更に志気を新にして天馬空を行くの活躍が開始される筈。
   ×
 『現代食糧大観』は昨年内に漸く発送しました、遅延に遅延を重ねて御迷惑をかけました、しかしお受取の方ほなる程と首肯れる事と存じます。そしてこの機會に編輯萬端を担任された編輯部の外岡和雄君の十旬に亘る忍苦と創意とを茲に誌す事を許して戴きます、猶ほ同君を補佐し、装幀や扉をものされた藤井尚氏、記録主任林政一氏、齋藤光子氏等の努カも大抵でなかつたのです。
   ×
 (略)
   ×
 現代食糧大観の予め申込の方で、代金お払込なき方は、今月末日迄にお通知なければお不用と認めます。その後は何誰様でも新規申込と同様定価通り申し受けます。(係)


昭和5年2月号 巻頭言

  現代食糧大観を奨む

 人口食糧問題が政治上の大問題となるに先立つ大正十五年二月、紀元節の佳日に創刊した本誌が、以来会員諸氏の熱烈なる支援によつて多幸なる発展を遂げたことに対し、今茲に第五回の誕生日を迎ふるに方り、新たなる感慨の下に、深き感謝の湧き出づるを禁じ得ぬものである。
  顧れば一般家庭及団体炊事並に兵食の改善研究より、食糧消費食糧産業の合理化化は勿論、我国人口食糧問題研究に至るまで、経來りし調査研究及実行運動は、歳を重ねる毎に、糧友會綱領の下に、統制され集中されて來た。
 殊に昨年開催した食糧展覧會、並に昨冬発刊された現代食糧大観は、此の傾向の最大運動であり、又最も大なる所産であつた。
 而も食糧大観の使命は、展覧会当時、地理的時間的制約に由つて來観の機會を失はれた人々に、洩れなく展覧會一切の資料を提供するにあり、此事は會員各位の要望でもあり本會の義務でもあるので、積極的に再版三版を重ねて本書の普及を計らんとする次第である。
 希くは本會の意のある處を諒とせられ、「糧友」と共に本書を洩れなく會員各位の座右に備へられんことを。


昭和5年2月号 会告

糧友會々員に謹告

 食糧展覧会の総記録たる現代食糧大観の初版は好評を得て居ります。
 就ては本会会員として未だお求めなき方は、是非一本を備えられ、食糧研究上の資料とせられたいのであります。亦此際本書がより広い範囲に普及することは層一層糧友會の使命を完ふする所以でありますから、各方面へ御推薦を願ひたいのであります。
 そして定価は金五圓でありますが、会員に限り特に定価の二割引の金四圓を以て御頒ちいたします。更に此際御入会の方に対しましても同様の割引をいたします。(但し初版残部限り、本月一日より実施)――糧友會


昭和5年2月号 編集後記

 創刊第五週年を皆様と共に祝ひます。
   ×
 本号は、現代食糧大観の発行を祝する意味で、大観のことを相当掲げました、単なる自画自賛に陥らぬ様に慎み乍らも是非第二版を出したいものです。
   ×
(以下略)

 資料その8は、あまり説明はいらないでしょう。糧友會員には4円で売る、いま会員になっても4円にしますと、2割引ででも売らんかな作戦に出ました。そうした売り込みのせいでしょう、北大図書館には「大観」が2冊保存されておりまして、このようにジンパ学研究もお陰を被っておるわけです。医学部図書館にあるのは、少なくとも附属病院の給食部門が購入したからでしょう。どれぐらいの部数が売れたのか「糧友」ではわかりませんが、北大を含むWebcat加盟図書館では19館が「大観」を所蔵しています。予約申込み1万部を狙ったこと、第二版を出したいと書いていることからみて、軍隊と大きな病院や工場などを対象に1万部ぐらいは押し込んでしまったのでしょう。メモが見当たらないのですが、主計の兵隊さんが行きつけの料理屋で「糧友」を売り込んだら2つ返事で買った。棚に飾って「こういう本を読んで勉強している」と、研究熱心なところを客にひけらかすためだっという話が載っていたのを覚えています。そんなために売れた「大観」もあっただろうが、さっそく羊肉料理を試みた人々もいたんですね。資料その9は「糧友」に紹介された月寒の25聯隊の実例です。

資料その9

 私の聯隊は北海道の首都札幌で、すぐ近くに國立種羊場もあり、副業的牧羊家も尠くなくないが、それ迄羊肉を兵食になどとは、考へたことはない。私一個の貧弱な食品知識では、羊肉は一種の臭気があるので、特種の調理法を必要とするものである、故に兵食として、採用することは、困難なものであると考へていた。勿論牧羊業は国策上必要であること、さうして牧羊の経済化の爲めには、羊肉の一般化を必要とする位の、知識は持ち合せはあつたが、調理に手数のかゝる点から軍隊向きの食糧品では無いと考へた。然るに糧友會は盛んに、宣伝されるのに刺激され、且つ緬羊問題に蘊蓄の深い、鹿野氏が第七師団経理部長として来任され、時折緬羊の話を承はり、ついで昨年の十一月初め、北海道緬羊組合主催の羊肉宣伝会に一戸女史の羊肉指導を拝見して、世人の迷夢を一掃するの急務なることを、切に感じたので直に実行した。
 今、羊肉料理に多少の疑罹を抱く、私と同一程度の読者があるならば、何等かの参考にもと、禿筆を呵して其実施概要を述べる事とする。


第一回  四・七・一六・
献立  爆炒片肉(一人前)

材料 羊肉   七五瓦 片栗粉   一二瓦
   ラード  二六瓦 大根   一一三瓦
   生姜   四瓦  醤油   〇・四立
 調理の方法は省略するが、料理の出來ばへは、相当に良かつた、嗜好調査の結果は大体好きな者全員の六〇・二四%、嫌なもの三九・六一%であつた、而して特に其の羊肉独特の臭気を嫌ふものを調査するに、総数の六・六七%に過ぎない。又特に牛肉より好きと云ふものが、総数の七・六一%であつた、この結果から工夫さへすれば、羊肉は兵食としての可能性を充分に供ふるものである。

第二回  四・九・一八・
献立  羊肉カツレツ

材料 羊肉   八四瓦 パン粉   三〇瓦
   麦粉   一〇瓦 白絞油    四瓦
   玉菜  一五〇瓦 醤油   〇・四立

 第一回の成績に力を得て大に力瘤を入れ、調理に注意したが、羊が概ね老羊であつた爲か、嗜好調査の結果は前回より甚だ悪く、給養人員一、二六八名中好きと云ふ者五四・四二%嫌いと云ふ者四五・五八%で、先づ失敗の形で大に羊肉に対する、印象を甚しく悪くした様である


第三回  五・二・一七・
献立  成吉斯汗料理と羊の薩摩汁

材料 略す

 之は將校に就ての試験である此の日聯隊は紛々たる雪降りの中に、将校スキー術の競技會が行はれた、午後五時一同は疲労困憊して将校集會所に引揚げ羊肉料理で、大慰労會が催された、五十嵐聯隊長以下スキー服と云へば、聞へは好いが、実は十人十色、異様な間に合せの怪しい風体で、生松の燻る煙の中で盛んに大盃を傾けながら、之れは旨ひ之は旨ひの連発で、牛飲羊食見る見る内に、巨大なる羊二頭を平げ、彼の英雄成吉斯汗が蒙古各地に群居する羊を、所謂糧を敵に據るの筆法でかくして兵を給養し蒙古を蓆捲したのであらうなどと、勝手な歴史的情景を追想したのであつた。
 調理法共其他は、現代食糧大鑑第七二一頁丸本彰造氏談の記事の通り実行した、薩摩汁も極めて好評であつた。


第四回  五・二・一三・
献立  ライスカレー 一人前

材料 羊肉   四〇瓦   玉葱  一〇〇瓦
   馬鈴薯 一二〇瓦   人蔘   五〇瓦
   菱粉   二五瓦   カレー粉  一瓦
   食塩    五瓦

 第二回目の不成績を、挽回するの意氣を以て、炊事關係者総動員で、全力を調理に集中した結果、兵員の約二分の一は交代して居るに拘らず、成績は意外の好成績であつて、給養人員一、二七三名中好きなもの七七・三八%嫌いもの二二・六二%であつた。


第五回  五・二・二四・
献立 羊肉煮込  一人前

材料 羊肉   七〇瓦 油揚     七〇瓦
   大根  一〇〇瓦 馬鈴薯   一〇〇瓦
   砂糖   一〇瓦 醤油    〇・四立

 緬羊生体買入れの都合より、前日に引き続き使用した、給養人員一二六六名中好きな者八七・〇四%嫌いな者二一・九六%で、前日より更らに好成績を示した
 以上五回を通じて、調理の要領を述べたいのであるが、別に素人の私には要領も秘訣も無い、只異る点は羊肉の臭味を出さぬ爲めに、肉と野菜とは之れを別々に処理し、肉は特に高熱を用ひ短時間に処理することに努め、野菜は普通に処理したる後、肉と野菜とを合体して極めて短時間加熱することにした、羊肉料理は所謂料理の「コツ」なるものがあらうけれども、兎に角軍隊式調理法で結構美味な素敵な料理が出來る。

  

参考文献
上記資料その8の出典はいずれも糧友會編「糧友」第5巻1〜2号、昭和5年、糧友會=原本、資料その9は糧友會編「糧友」第5巻2号56ページ、西村信「私の聯隊に於ける羊肉料理」より、昭和5年2月、糧友會=原本

 月寒に25聯隊が置かれたのが明治29年、種羊場ができたのが大正8年です。肉の臭み消しの余計な手間が掛かるから兵隊の食事に向かないという理由で、昭和4年になるまでの10年間、鼻先にいる羊を食わせなかったなんて、昔の人は頑固ですね。「札幌歩兵第二十五聯隊誌」という本によれば、ここに出てくる五十嵐聯隊長は五十嵐房吉といい、当時大佐で昭和7年まで在任(10)した人です。私が注目したのは、ここでも、やはり「生松の燻る煙の中で盛んに大盃を傾け」たという記述です。どんな焼き方をしたのか記述していないのに、松葉燻しだけはちゃんとやっています。
 また巨大な羊2頭を平らげ、薩摩汁も好評だったとありますが、前に紹介した釣谷猛さんが書いた「月寒十五年」の中にある「成吉思汗鍋余話」によりますと「こじれた羊からではいくら腕を揮っても、一人分一〇〇匁とすると、たかだか十二人分、多くとも十五〜六人分より肉量が得られないのが普通」とあります。こじれた羊とは、子供のときに母乳不足とか下痢をして普通の大きさになれない羊のことですよ。だから、それより人数が多いときは「苦肉の策として、心臓、肝臓、舌を切り込むことになる」が、不慣れな人は気味悪がるので「予め前口上よろしく、臓肉の効能を一席ぶつ」と、先を争って内臓を食べたがる(11)というのです。またお偉方はたっぷりジンギスカンを食べたというのですから、月寒連聯隊初のジンギスカンでもあり、かなりたくさん肉を用意したのでしょう。
 西村さんの「所謂糧を敵に據るの筆法で」というのは、ジンギスカンも常用していたといわれる戦術です。敵の土地を占領したら、そこにある物資を徴発して、つまり有無をいわさず取り上げて利用するのです。羊が飼われていたら持ち主を殺してでも取り上げて食べてしまう。敵の食糧を当てにして攻めていくことです。たまたま朝日新聞データベースで教えられた記事などを資料その10で見せましょう。
 上が伊藤特派員が上海戦線から送ってきた記事の抜粋ですがね。「所謂糧を敵に據るの筆法で」ヤギとアヒルを食べたらしいのです。下は北海タイムスで見付けた記事です。こちらは大きな写真に主にした連載記事の5回目で、銃を背負った兵士3人が1匹の豚を囲んで平野の道を歩いています。買ってくると紳士的に書いてありますが、日本軍が勝ち進んでいたときですから、相手の言い値で素直に買うとは考えにくいですよね。
 このちょっと前に滝川種羊場では、第3期女子実習生38人がジンギスカン料理などを教わる実習を終了しています。一部にせよ、この記事のように前線の兵士はとっくに豚でもジンギスカン鍋にできると知っていた。いや部隊に戻ったら大勢に行き渡るよう豚汁に変わったかも知れませんが、ともかく食糧事情が切迫すると生活の智恵ですな、ジンギスカンのように手早く食べられる料理が急速に普及することを示していると私はみますね。

資料その10

 強い日本の兵隊さん
 動乱の上海に、また勇壮なる前線に、居留民の間に、兵士の間に、拾われたるエピソード

 <略>
 音楽入りで塹壕掘
意気盛んな皇軍の前線閑日月―塹壕掘りの兵隊さん不眠の緊張に疲れてゐる、隊長の命令がかかる「蓄音機をもつてこい」勇敢なる水兵さんのレコードに塹壕はまたゝく間に出来るのである、飼主を失つた家鴨がぞろ/\塹壕を遊んでゐる、兵隊さんたち「今晩はあれをやるかな」といつて家鴨のスキ焼が用意される
 「ヂンギスカン鍋」
最後まで東部地帯に頑張つていた支那人が一斉に引揚げとなると、豚や牛、山羊などの家畜の行列が壮観だ、ブーブー、メーメー、モーモー、群がる避難民の間をぬつて、豪華なガーデンブリツヂをのたうつてゐる、素早いのがその一頭を失敬してヂンギスカン鍋の夢をみる<朝日新聞>


「北支の春」(5)
  ジンギスカン鍋で温まらう
不自由な戦線にあつてたまに肉でも食べ様と云ふ時は兵隊さんは附近の部落へ羊や豚を買ひに出かける。勿論その辺の肉屋から買ふのとはちがふ。生きたまゝである。『今日はジンギスカン鍋でもやらうぜ!』豚をひく兵隊さんはもう今夜の肉鍋に心をひかれるのだ。
             天津にて 小林特派員<北海タイムス>

  

参考文献
上記(10)の出典は高橋憲一著「札幌歩兵第二十五聯隊誌」1010ページ、平成5年6月、大昭和興産=原本、(11)は釣谷猛著「月寒十五年」165ページ、昭和40年7月、釣谷猛文集刊行会=原本、資料その10は東京朝日新聞縮刷版219号18ページ、原紙は昭和12年9月2日朝日新聞夕刊2面、東京朝日新聞社=原本と昭和13年1月25日付北海タイムス朝刊7面=マイクロフィルム


 これはさらっと書いた新聞記事であり、実情とは大違いらしい。中国戦線からインパール作戦へ回り、辛くも生還した作家棟田博が書いた「陸軍いちぜんめし物語」によると「村落について野営ときまると、なにはさておいて、まず兵隊が探すのは、鶏と豚、そして鍋と釜であった。なかでも鶏がもっとも歓迎される、手ごろの調理材料だからであった。豚とくると、ちと手強い相手で、おいそれと料<つく>るわけにはゆかない」というのです。豚は悲鳴と血の量がすごくていかにも殺生しているようでだめだというのです。兵隊は血を見るのを嫌がる。その点鶏は血の量が少なく「大仰な悲鳴を上げず、簡単にこときれてくれるから助かる」(12)と述懐しています。
 日清戦争のとき第2軍司令官大山巌は「軍隊の徴発は自ら規定のあるものなり且つ軍国の威厳を損ふもの不法略奪より甚しきものなし故に規定に由るの外は何人たりとも妄りに敵地住民の物件を押収するは厳に禁ずる所とす(13)」と全軍に訓示したくらいです。でも日露戦争から帰った兵士は「徴発隊の隊長常に自家の兵法を説いて曰く『卵を徴発せんとすれば先づ鶏を捕へ鶏を徴発せんとすれば先づ豚を要求すべし、羊豚牛馬に至つては須らく先づ姑娘観々(クーニヤカン/\)と出掛けるに限る』と、是れ陣中の兵法に限らんや處世亦然り。(負剣)(14)」と書き残しています。姑娘観々とは娘を見せろ、連れてこいという意味です。それは勘弁してと隠した家畜を出すからと、ちょいちょい徴発をやっていたらしい。
 少しは会話ができないと徴発はやりにくいはずですよね。国会図書館の近代デジタルライブラリーでキーワード「徴発」と「会話」で検索してみたら9冊(平成23年8月)出て来ました。うち3冊が中国語で皆徴発用の会話が入っていました。戦地にいる兵士は必ず徴発をやるという想定で編集してあるとみましたね。それで中国語の短文と読み仮名は略し、日本語の訳文だけを資料その11にしましたので、見てください。
 最初の「徴発及買弁」なんか、緬羊か山羊をほしがっていますよね。これは大正7年の本でね、ジンギスカン鍋にしようというわけではないにしても、中国に行ったら羊を食べることも考えておけという例文でしょう。

資料その11

(1) 徴発及買弁

 汝等ノ店ニ白米カ有ルカ
 有リマセン、陳米(フルゴメ)ハ少シアリマス
 此地ニ売ツテルノハ無イカ
 此處テハ買エヘマセヌ
 我ハ粟ト高粱ガ買ヒタイガ有ルカ
 幾ラデモ有リマス
 マダ粟稈高粱稈モ入用ダ
 皆沢山アリマス
 フスマモ有ルカ
 少シアリマスガ沢山ハアリマセン
 鶏ハ無イカ
 何カ野菜ハ無イカ
 白菜ト葱ガ少シアリマス
 オマヘノ家ニ飼フテ居ル豚ヲ売テ呉レ
 宜シウ御座イマス幾ラ下サイマスカ
 皆デ幾頭居ルカ
 僅カ三十頭許リデス
 此地方ニハ羊ハ沢山ダロウ
 以前ハ少ナクアリマセンデシタカ今ハ皆売テシマイマシタ
 汝等ハ毎日寺ノ外デ市ヲ開ケ
 ソレハ至極宜シク御座イマス
 若シソーナレバ互至極便利ダ
 私共皆デ相談シマシヨウ
 価ハ正直ニセネバナラヌ
 ソレハ勿論デス併シ今ハ何モ皆(タカ)クナリマシタ
( 大正7年)


(2) 第十九章 徴発

1 アナタ役人デスカ
    ハイ,私ハ官吏デス
2 私ハ軍糧品ガ入用デス,アナタニ御盡力ガ願ヒ度イ
    ソレナラアナタノ御入用ナノハ何デスカ
3 私ハ米,麦,豆,野菜,牛,羊,豕,肉等入用デス
    アナタ穀草ハ入リマセンカ
4 六百斤バカリ入ル,尚人夫ヲ雇イタイ
    幾人雇イマスカ
5 五十人入用デス,一人一日一円ヲ給シマス
    承知シマシタ
6 コチラニハ車ハ何台アルカ
    五十台アリマス
7 自動車ハナイカ,三台雇イタイガ
    アルコトハアリマスガアマリヨクアリマセン
8 オ前ガ行ツテ此ノ家ノ主人ヲ呼ンデ来イ
    主人ガ來マシタ
9 オ前私ニ代ツテ馬ニ馬糧ヲ與ヘテクレ
    モウ與ヘマシタ
(昭和4年)

(3) 十九、徴発

 村の有力者を呼んでこい
 彼に少し頼む事がある
 私等は牛、豚、鶏、家鴨などが入用だ何が何でも、幾頭か世話してくれ
 有るだけ持つて来てくれ
 今どんな野菜が有るか
 葱、大根、ほうれん草、白菜等皆有ります
 皆百斤づゝ届けてくれ
 明日荷車二十台入用だ
 お前都合してさがしてくれ
 私等はたゞで使ふのではない
 お前らに金を支払ふ
 それでは私は何んとかして見ませう
 明日必ず兵站部へ挽いてこい
 遅れるなよ
 若しやらなければ
 兵を出して無理に持つて来てる
 それでも仕方がないぞ
 馬料を徴発する
 馬にどんな馬料を與へるか
 乾草、燕麦、黒豆、ふすま、高粱柄などです
 各種類を十担づゝ届けろ
 石炭が五噸ゐる
 薪が十垜欲しい<略>

(昭和12年)

   徴発では、わずかでも金を払うのが建前なのでしょうが、実際は有無をいわさず取り上げる。文句ををいえばズドンですからね、泣き寝入りあるのみ。箱入りクーニャンを徴発されてはたまりませんよね。
 脱線だが、敗戦後、阜新という炭鉱町で経験したことを話しますか。おやじと連れだって暴動で無人になった日本人の家屋に何か役立つものは残っていないかと探しに行ったら、ソ連兵の一団にばったり出会った。時計や万年筆を見つけると、マンドリンと呼ばれた自動小銃を示してダワイ、ダワイと取り上げる荒くれ兵士たちです。
 逃げようとしたら、大声で呼ばれた。見ると手綱を持ち、そばの馬をやるというゼスチャーをしている。何だかわからんが、いう通りにしないと命が危ない。おやじが恐る恐る受け取り、最敬礼をして日本人の収容所に馬を連れ帰ったのです。
 そしてね、どうやって食べようかと同室の人たちと相談しているうちに、別のソ連兵が現れてダワイ、ダワイとその馬を連れて行っちゃった。徴発したらしい馬を、すぐ徴発されちゃったわけだ。我が尽波家では、おやじの趣味で豚や山羊なんか何年も飼ったけど、ちょっとの間ではあったが、驢馬でなくて馬も飼ったことになったのです。はっはっは。実話ですよ。
 はい、話を月寒に戻します。「緬羊問題に蘊蓄の深い、鹿野氏が第七師団経理部長として来任され」とありますが、この鹿野さんはまた後で登場します。この月寒25聯隊将校のスキー&ジンギスカンのことは、当時の新聞に載っているのを見つけました。それが資料その12なんです。開催した日付がぴったり合っています。西村さんはありのままを「糧友」に書いたこともわかりますね。こうして、まったく別な角度からも昭和5年の月寒聯隊のジンパが証明されるわけでして、前に出た大正12年に月寒種羊場でロストル製ジンギスカン鍋を考案したという証拠が、こうしたきれいな形で見つかることを本当に願っておるということがわかるでしょう。


資料その12

辷るは上手
転ぶは御下手
      将校さんの
      お手並拝見

月寒陸軍墓地裏で
スキー其他の競技

月寒陸軍墓地裏手付近で予てからスキーの猛練習をやつてゐた歩兵第二十五聯隊の将校四十名余は十七日午後一時半からこれが納会といつた風の競技会を開いた、折柄合憎の大吹雪が襲来したがさすがに軍人連思ひ/\の服装で同地に集合五十嵐隊長の訓示があつていよ/\競技に移つたが、主人のスキー振りを見んものと観覧席には夫人連でかなり賑ふ
   ◇
合同の準備体操が終へるとスラロームが行はれた斥候群競走やリレーが初まる馬を二頭のりつぶしてお馴じみの体量二十五貫の田中少佐が喫煙競争で一着、みかん拾ひでは五十嵐聯隊長が両手に一つ宛をつかんで「手が三本あればなア」との独り言も上出来で
 源平、パン喰ひ、ボール送り、ジヤンプ、少年少女の飛び入り
など予定のプログラムを進行したが、今日ばかりは階級無差別半の歓をつくし非常の効果をおさめて午後四時半、将校集会所に引上五十嵐聯隊長より賞品を授与し一同夕食を共にし北京ジンギスカン料理に舌鼓を打ち和気/\裡に午後六時半散会した
   ◇
成績次ぎの如くである(以下省略)

 西村さんはご馳走した記者に「この料理は北京が本場でね」なんて「大観」の丸本談話を詳しく受け売りしたんでしょうねえ。そのせいだと思いますが、鍋羊肉でなくて「北京ジンギスカン料理」とはっきり書いている。北京が強く印象づけられたに違いありません。面白いですねえ。「生松の燻る煙の中で盛んに大盃を傾けながら」と書いていますから、丸本談話の通り七輪に金網の組み合わせで焼いたとわかりますね。
 「大観」の鍋羊肉の作り方と昭和3年1月号の「糧友」に掲載された「羊肉料理法」を比較しますと「大観」では漬け汁を取り置きせよということが書かれていないことに気が付きます。ということは、山田喜平さんが「緬羊と其飼ひ方」初版に書いた鍋羊肉は、つけ汁は取り置くようにと指示していますから、お手本にしたのは「大観」のこれではなくて「糧友」昭和3年1月号の方ですね。
 なにしろ「大観」は5円の本です。山田さんの本は初版から3円で2円安い。山田さんは安い本を出して羊の飼い方と食べ方普及を図ろうとした。この点は山田さんのはしがきに現れています。そこを読みますと「本邦に於ける緬羊の不評は一に国民の緬羊に関する知識の足らざるにあつて、それは未だ邦文の良書尠いこと、我国緬羊飼育者にとりて適切なる参考書籍の出版稀なることも見遁すべからざる点なりと思惟し自ら揣らず茲に大勇猛心を発して匆忙の間に此の稿を起こせるものであり」(15)とあります。安い本とはあからさまに書いてはいませんが、緬羊飼育者向けの手ごろなテキストがないから、思い切って自分が書くことにしたと言明している。
 糧友會では嘱託の満田さんとか一戸食物研究所の一戸さんあたりが、羊肉料理講習会などで鍋羊肉を何度も実演して試食させているうちに、水でさらした葉葱を漬け汁に加える方が風味がよくなることを見つけた。それで今後はさらし葱も加えた鍋羊肉で行こうということになった。そして未年、昭和6年の1月号に満田さんが「羊肉網焼(成吉思汗鍋)」として発表した。山田さんは、これを読んで、糧友會式の漬け汁の作り方がちょっと変わったことを知った。
 もともと糧友會の鍋羊肉がお手本だったのですから、山田さんは自分の原稿に手を入れて追随することにした。しかし、なんとか丸写しは避けたいと葱だけでなく、生姜を入れる工夫を思いつき、糧友會式を抜き去ったと考えられます。しかし、忘れたか急いだかわかりませんが、鍋羊肉の「方法」つまり材料の前処理について触れないまま書き足して出版してしまった。それで「緬羊と其飼ひ方」の鍋羊肉は、糧友會の「羊肉料理法」の鍋羊肉に、葱と生姜を新たに加えながらも、分量も刻み方も何も書いていないのではないか―というのが私の推理なんです。
 「緬羊と其飼ひ方」の初版は昭和6年12月発行です。国会図書館の本の奥付を見ると12月8日と印刷したのをペンで消して「十九」と訂正してます。「糧友」一月号より1年近く後なのですから、山田さんはその気になれば葱や生姜の使い方ぐらい書き直す時間はあったと思われるのですが、次の改訂版を出すときでよかろうと、何も手を入れず「其他を合せて」のまま出版したのではないでしょうか。
 つまり資料その7で読めるように「醤油五勺、酒二勺、砂糖十匁、七味唐辛子少量」にプラス金網に塗る胡麻油少量となっています。これなら昭和3年の「糧友」1月号に糧友會が初めて発表した「羊肉料理法」の「鍋羊肉又は成吉思汗料理」と漬け汁と材料、分量ともぴったり同じです。お手本通りだ。
 「緬羊と其飼ひ方」は昭和9年6月に2版を出し、翌10年11月に3版を出したのです。3版は私がいまいった醤油、酒、砂糖、七味、それに分量と前処理不詳の葱と生姜が加わっています。残念ながらWebcat加盟図書館には4版がありません。それで私は食文化研究者のある方にお願いして農林水産省系の研究所から改訂4版の作り方のコピーを取り寄せてもらい、資料その13としました。

 資料その13
 
鍋羊肉(カウヤンロー)又は成吉思汗(ジンギスカン)料理(五人分)

材料 羊肉(肩肉又は腿肉)三百匁、醤油一合、酒五勺、砂糖十匁、林檎汁一個分、密柑汁一個分、七色唐辛子少量、生姜、生葱、胡麻油少量。

方法 羊肉は一分位の厚さに切つて置き、生姜と生葱は微塵切にし醤油、酒、砂糖、七色唐辛子と合せて汁を造り使用直前に之に果汁をも入れ其の中に羊肉を約三十分浸して一方七輪にかけた特製鍋又は金網に焦げつかぬやう胡麻油を塗つて肉の両面を焼き薬味の入つた漬け汁をつけ乍ら食べる。

注意 炭火の中に生松の枝(又は松笠)を混ぜ入れて多少燻し気味に焼くと一層風味がよい。

 羊肉が倍以上に増えたのに合わせて、醤油が二倍、酒が倍以上とともに増え、新たにリンゴとミカンの汁を加えた漬け汁に進化しています。絞り方まで説明していませんが、当時はスイッチ一つでジャーッとやってくれるジューサーなんかありませんでしたから、リンゴは卸しがねですり下ろし、布巾かガーゼにくるんで絞るしかなかったでしょう。ミカンも同様でしょう。
 糧友會の漬け汁は、少なくとも昭和10年まで、満田さんのさらし葱入りのままでしたから、山田さんの工夫が伺えます。ともあれ、葱と生姜は微塵切りにすると、2年後に出た改訂4版で説明がついたことはわかりましたね。ついでにいえば5版が昭和13年5月に出ているのですが、それではどう新味を出しているのか。私が見つける前に、だれかこの第5版を見つけてレポートを書いてくれることを期待しましょうかね。
 何回目かの講義で、昭和14年の道庁種羊場の機関誌「緬羊彙報」に、この山田喜平さんの奥さんのマサさんが書いた「成吉思汗鍋」を取り上げましたよね。あのときは山田さんが「緬羊と其飼ひ方」4版で、漬け汁を変えていたとは知らなかったのでありましてね。改訂4版の作り方を読んで、初めて果汁入りがあの段階で初めて出てきたわけではないと知ったのでして、参りましたね。
 それから、この段階で肉の焼き方も少し変わっていますね。「漬け汁をつけながら肉の両面を焼いて食べる。」だったのが「肉の両面を焼き薬味の入つた漬け汁をつけ乍ら食べる。」になっている。いいですか、前者は焼いている途中に漬け汁に浸し、漬け汁の味を強める。それで、わざわざ「漬け汁はとつておくべし」という一言が入っていた。後者は、その一言がなくなり、漬け汁を付けては焼き、また付けては焼くようなことはせず、適当に焼けて食べるときにつけるだけに変わっている点を指摘したい。わかりますね。
 なぜか。そのころのジンギスカンは完全に男たちの酒の肴だった。塩だけで升酒を飲むのが通だなんてね、ノンベイどものそういう思想からすれば肴は少量、味は濃いのが当たり前だった。しかし、それでは羊肉は少ししか食べないことになり、羊肉の消費を増やすという大目的にそぐわない。山田さんは考え直したんですなあ。薄味にして、もっと肉を食べるようにする必要があると。そこから甘味は砂糖だけを改め、リンゴとミカンの果汁を足し、さらっとした甘味にした。後付けだと肉に味がしみ込まないから、思わず肉をより多く食べてしまう。山田さんはそう仕向けたと思われます。こうした4版の作り方があって、さらに2年という時間経過があって、レア焼きを強調したマサさんの滝川バージョンへと到達したということなんですね。
 それから、高石啓一氏は論文「羊肉料理『成吉思汗』の正体を探る」の中で、昭和14年に北海道庁経済部が出した「畜産料理の華」という本の「成吉思汗焼」の料理法と、昭和6年に糧友會が出した「緬羊と羊肉料理」の「羊肉網焼(成吉思汗鍋)」の料理法を比較できるように引用し、全く同じであった(16)と報告しています。
 これは正確には北海道農村生活改善協会が出したものであり、似た書名で北海道畜産組合聯合会が昭和9年1月に「畜産栄養料理の栞」を出しています。こっちの肉料理は羊肉は全く使わず、塩豚、豚肉団子といった作り方。そのほか牛乳利用法とか簡易なパンの製法などが56ページにわたり書かれています。
 私は検索して「緬羊と羊肉料理」が世田谷の東京農業大学図書館にあると知り、出掛けてコピーさせてもらったのですがね、その仕舞い場所を忘れてしまい、初期の講義では見つかったら取り上げると棚上げしてきましたが、やっと出てきたので、今回から取り上げます。
 学外者は東京農大の図書館を訪れると、世田谷区民優先という地元密着型であることがよくわかります。まだ私がジンパ学の資料集めを始めたばかりのころでね、よその大学図書館の決まりをよく理解しておらず、東京農大では札幌という北の遠いところから、ただただ「緬羊と羊肉料理」という50ページほどの本1冊を見せて欲しいと出掛けてきた年寄りの熱意といいますか、特殊事情を認めていただいてコピーを許されたのです。いまwebcatで検索しても東京農大にあると出てきませんから、学外者の利用はホームページにある「学外者の利用」通り厳正に守られているのでしょう。
 そうした東京農大さんのお陰で手に入ったコピーを見るとですね「羊肉料理法」は、一戸食物研究所長の一戸伊勢子さんと糧秣廠嘱託の満田百二さんが一緒に執筆した形になっています。そのせいか、ジンギスカンは鍋でもなく焼きでもなく、鍋羊肉にカオヤンローと振り仮名をつけ、括弧して支那料理の焼肉という、糧友會編「糧友」昭和3年1月号79ページの書き方そのままが載っています。資料その14が「緬羊と羊肉料理」初版の鍋羊肉のレシピです。

資料その14

四、鍋羊肉(カウヤンロー)(支那料理の焼肉)(五人分)
材料
 羊肉(肩肉又は腿肉)百二十匁
 醤油 五勺
 酒  二勺
 砂糖 十匁
 七色唐辛子少量
 胡麻油少量
準備
 羊肉は一分位の厚さに切り、醤油、酒、砂糖、七色唐
 辛子を合せた中に約三十分浸しておきます。(漬け汁は
 とつて置きます。)
調理
 焦げつかぬやう、金網に胡麻油を塗つて強火の七輪に
 かけ、漬け汁をつけながら肉の両面を焼きます。
注意
 炭火の中に生松の枝(又は松笠)を混ぜ入れて、多少
 燻し気味に焼きますと一層風味がよくなります。

 これは高石論文の「緬羊と羊肉料理」のレシピとは全く違うのです。高石さんは昭和6年4月に発行された増補再版された「緬羊と羊肉料理」を見ており、私が東京農大でコピーしたのは昭和3年6月発行の初版だったのです。つまり糧友会は第2版を出すに当たって、少なくともカオヤンローだけは記事を差し替えたのです。
 高石さんはその論文に再版の「緬羊と羊肉料理」のジンギスカンを引用しているので、それを資料その15に転載しました。私が大阪のケンショク「食」資料室で書き写したものと似ていますが、材料、準備、方法、注意という切り分けと胡麻油の量が違うんですね。私のノートには、切り分けはなく、油は3合じゃなくて1勺とあります。
 こういう切り分けと油の量はね、昭和6年の「糧友」1月号に満田百二が書いた「羊肉家庭料理」の羊肉網焼と同じです。私は再版の「緬羊と羊肉料理」を見ていないので、それ以上のことはいえませんが、いずれ増補再版の方を見て確かめましょう。

資料その15

羊肉網焼(成吉斯汗鍋)(五人前)

材料 羊肉(肩又は股肉)百五十匁,醤油五勺,食塩
少量,酒二勺,晒し葱盃一杯,七味唐辛子少量,
胡麻油三合。

準備 丼に醤油,酒,七味唐辛子及び葉葱を小口切り
して布巾に包んでよく揉み,其のまま水に晒し
て更に其の水を絞ったものを入れて薬味を作
り,其の中にすき焼肉のように薄く切った羊肉
を暫く浸しておきます。

方法 羊肉を浸している間に一方では七輪に炭火をお
こして食卓に載せ火が落ちついて来ましたら金
網をあげて肉が焦げつかぬようにその上に胡麻
油を塗って,箸で肉を広げつつ金網に載せ,肉
の周囲の縁が色槌せて来たら裏返して,上に肉
の汁が吹いてきましたら其のまま熱いところを
召し上がります。

注意 焼き肉を度々裏返して焼きますと折角の美味し
い汁が火の中へ落ちて味が低下します。附け焼
きのように度々浸け汁をかけることも禁物で
す。浸け汁が甘いようでしたら食塩で加減いた
します。又浸け汁の中に味醂や砂糖を入れます
と返って味がくどくなりますから羊肉のお料理
には砂糖を用いない方が上策です。
これは一名成吉斯汗鍋(本名烤羊肉)と称して
有名な北京料理でありますが、少し凝って参り
ますと専用の金網を用い,炭火の中に柳の生枝
又は青松葉などを時々差し入れて其の煙で肉を
燻します一段の風味を添えます。又胡麻油の代
わりに小蟹の油を塗りますと本来の料理となる
訳ですが以上申し上げた方法で羊肉の本味に変
わりはありません。師走の寒空の夕餉に一家団
欒のお料理として趣味の上からも栄養の上から
も誠に結構です。

 糧友会は初版の砂糖入り鍋羊肉を、食塩入りに差し替え、長い説明のまま「緬羊と羊肉料理」第2版にした。まさに増補です。この後ろの「注意」を読むと、満田と一戸がタレの作り方で対立していたように思われるのです。砂糖入りから180度方向転換して、塩っぱくするのだから「浸け汁の中に味醂や砂糖を入れますと味がくどくなります。」でとどめておけばよいのに「羊肉のお料理には砂糖を用いない方が上策です。」と一言多い、とげがあると私は感じます。
 これはね、そのころあちこちに発表していたと思われる一戸の砂糖、味醂入りの羊肉料理を全面否定する言い方だと思いますね。一戸は味醂と酒篇の付いた醂を書くのですが、砂糖、味醂を入れると「くどくなる」と感じるかどうか個人差があるでしょう。
 糧友会として砂糖入りの漬け汁で指導してきたのだから「好みによっては入れてもよい」と緩衝的な表現でもよかったのに、いきなり一戸のタレの排撃です。満田は元々砂糖、味醂を入れる甘い漬け汁が嫌いで、入れたくなかったように思えるのです。
 大正8年以来東京女子高等師範で羊肉料理の研究に当たってきた一戸が昭和2年の試食会でも主導権を握り「緬羊と羊肉料理」への転載に当たっても、満田は一戸の左側に名前があり、一戸主導を示すこととなった。それがまた満田の不満を募らせたかも知れません。
 増補再版の食塩少量入りでも「浸け汁が甘いようでしたら食塩で加減いたします」というのは、満田が塩辛い漬け汁が本来の味と信じたからでしょう。満田は満洲の関東軍にも料理指導に出張したことがあったはずです。そのときの体験などで和食的な砂糖入りは徹底排除する気になったと考えられます。
 そこで食塩と晒し葱を入れる独自の漬け汁を考え出し、昭和6年になって発表した。多分そのころ一戸は糧友会から遠ざかっていたか、満田と顔を合わせることがなかったのでしょうね。昭和10年に糧友会が愛読者に鍋プレゼントをした際の食べ方説明は勿論、昭和13年の「料理の友」もこの塩と晒し葱入りの満田レシピです。
 しまい忘れた「緬羊と羊肉料理」のコピーがやっと出てきたついでに、同じくしまい忘れていた山田喜平さんの若いときの写真をスライドで見せましょう。これは今は北斗市郷土資料館と名前が変わっていますが、かつて大野町郷土資料室という名前だったころと思いますが、山田喜平さんの資料はないかとお尋ねしたら写真があるとメールで提供されたものです。
 カンカン帽を被った方の写真には「盛岡写真所/盛岡市開運橋際」とあるから盛岡高等農林学校の生徒だったころ撮ったものでしょう。右手に蝙蝠傘、左手に扇子、背後は見えませんが、多分採集した植物を入れる胴乱でしょう。
 10人が並んだ写真は函館中学校を卒業したときの記念写真というように説明されていたように思うのですが、そのメールは残っていないので確実ではありません。喜平さんの生涯については、北斗市郷土資料館のホームページで読んで下さい。


    


     

 次回は開拓使の黒田清隆がアメリカから招いた顧問のケプロンが日本に来る直前、サンフランシスコで細川潤次郎と会い、細川の緬羊買い入れにアドバイスしたことを取り上げます。これは明治4年のことであり、畜産の参考書などは皆「明治2年細川少審議官が緬羊8頭を輸入した」と書いているのは誤りだという私の主張でもあります。はい、終わります。

 
  

参考文献
上記(12)の出典は棟田博著「陸軍いちぜんめし物語」196ページ、平成6年12月、光人社=原本、 (13)は石原貞堅著「絵本旅順口激戦実記」35ページ、明治28年2月、藤谷暢吾=近デジ本、 (14)は松井白治郎兵衛、山田又太郎著「凱旋土産 右筆左剣」51ページ、「徴発の要領」、明治39年2月、山桜社=近デジ本、 資料その11(1)は参謀本部編「日支会話」163ページ、大正7年8月、小林又七=近デジ本、 同(2)は兵書刊行会編「最新式日支会話」142ページ、昭和4年1月、兵書刊行会=近デジ本、 同(3)は朝日新聞社編「支那語早わかり」133ページ、昭和12年10月、朝日新聞社=近デジ本、 資料その12は昭和5年2月19日付小樽新聞朝刊7面=マイクロフィルム、 (15)は山田喜平著「緬羊と其飼ひ方」第3版7ページ、「はしがき」、昭和10年11月、子安農園出版部=原本、 資料その9は同改訂第4版361ページ、昭和12年7月、同、 資料その13と(16)は養賢堂編「畜産の研究」57巻10号92ページ、高石啓一「羊肉料理『成吉思汗』の正体を探る」、平成15年10月、養賢堂=原本、 資料その15は糧友会編「緬羊と羊肉料理」28ページ、昭和3年6月、糧友会=原本