はい、始めます。持ってきてもらった細川潤次郎の「本邦牧羊」の口語訳を出してください。その順序で、きょうは日本の羊の歴史を見ていきます。古さからいけば「魏志倭人伝」から始めるべきなのでしょうが、あれは邪馬台国に羊はいないと書いているのですね。しかし「魏志倭人伝」が材料にした本を見ると、いなかったとも言い切れないようなので後回しにして、潤次郎の順でいきますよ、はい。
最初は「推古天皇の七年、百済は駱駝一匹驢一匹、羊二頭、白雉一隻を貢ぐ」ですね。羊の専門書では、たいてい「日本書紀」のこれを取り上げています。鎌田沢一郎の「羊」に「日本書紀推古天皇七年秋九月の條に『秋九月癸亥朔、百済貢駱駝一匹、驢一匹、羊二頭、白雉一隻』とあり」(1)とか、大内輝雄の「羊蹄記」にも「『日本書紀』には、五九九年(推古七)に百済より羊二頭を献ずとあるが、これが文献に表れた最初の記録である」(2)と書いてありますから、特に問題はないでしょう―と、いってしまえばそれまでです。しかしですよ、私のは「現場主義のジンパ学」なんですから、少なくとも1冊ぐらい当らなくちゃ、現場主義に背くことになります。そこで北大図書館開架の岩波文庫の「日本書紀」を調べてみました。校注者は坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋。開架でもう一冊、小学館が出した新編日本古典文学全集の「日本書紀」も当たりました。
さてと「日本書紀」は巻第二十二に、推古天皇の代になって7年目の事項として地震とこの貢ぎ物があります。まだ年号がなかっんですね。ちゃんと縦書きにして返り点を付けるべきなのですが、この際は横書き、返り点も省略して岩波本で示しますと「○秋九月癸亥朔、百済貢駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・白雉一隻。」(3)は、貢ぎ物を「・」で並べてあります。読み下し文は「秋九月の癸亥の朔に、百済、駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・白雉一隻を貢れり。」(4)と読むのが正しいとわかりました。ここは斯界の権威の教えに従いましょう。
驢は驢馬と見当が付きますが、解説によると、うさぎうまと読むとはね。流石と思うのは白い雉子。「雉は奈良時代にはキギシといったが、平安時代にはキギスと転じた」(5)とあり、故に日本書紀ではシロキギスと読むべきだというのですから芸が細かい。頭数はひとつ、ふたつと読むとは知りませんでしたね。古典文学全集の方の「日本書紀」も数字と数え方は同じでした。
念のため、司書のお手を煩わせないで読める国会図書館は近代デジタルライブラリーにある伴信友校の「日本書紀」と黒板勝美校訂の「日本書紀」でも確かめましたら、双方とも「○秋九月癸亥朔、百済貢駱駝一疋驢一疋羊二頭白雉一侯」(6)であり助数詞が違うのです。厳密には黒板のは、数助詞の後に句点が付いていますがね。同じように近代デジタルライブラリーにある「本朝六国史」でも、伴信友校訂本の「日本書紀」が含まれており、そちらも疋と侯(7)になっています。この百済の貢ぎ物のすぐ前に新羅から孔雀一と鵲一を貢がれた記述があるのですが、岩波は隻、伴と黒板は侯を数助詞にしています。この違いは後でまた、検討します。
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参考文献
上記(1)の出典は鎌田沢一郎著「羊 人生と緬羊 緬羊の飼ひ方 ホームスパンの織り方 日満羊を尋ぬる旅」90ページ、昭和9年7月、大阪屋号書店=原本、(2)は大内輝雄著「羊蹄記 人間と羊毛の歴史」281ページ、平成3年8月、平凡社=原本、(3)は坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「日本書紀 四」456ページ、平成7年2月、岩波書店=原本、(4)は同88ページ、同同、(5)は同89ページ、同同、(6)は伴信友校訂「日本書紀」22巻2ページ、明治16年8月、岸田吟香等と黒板勝美校訂「日本書紀」22巻374ページ、明治30年2月、経済雑誌社=どちらも近デジ原本、(7)は「本朝六国史」一二〇ページ、伴信友校訂「日本書紀」、明治40年3月、郁文堂=近デジ原本
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その次の「弘仁十一年、新羅人李長行等は羖■羊二、白羊四、山羊一、鵞二を進む」は、何に書いてあるのか。幸い鎌田沢一郎の「羊」は「日本紀略嵯峨天皇弘仁十一年五月の條に」(8)とあり場所を示しているので、それを確かめてみました。いつまでも■ではわかりにくいので、ウェブでよくある[]の括弧に2字並べて元の1字を書き表す方法を使うことにします。[羊歴]が■という字だ思って聞いてください。
「日本紀略」は明治30年に東京の経済雑誌社が出した本と昭和4年に黒板勝美編集で国史大系刊行会が出した本とを比較してみました。凡例によれば、どちらも「山崎知雄翁の校訂本」に久邇宮家御藏本を加えて云々とありますので、記述が大きく違うわけがありません。「○五月甲辰。新羅仁李長行等進羖[羊歴]羊二。白羊四。山羊一。鵞二。」(9)と同文で、五月のわきに「辛丑朔」、甲辰のわきに「四」とルビがあるところまで同じ、読み下し文のない愛想のなさまで同じでした。ということは田中芳男の「羖■羊二白羊一鵞二を進ずとあり」(10)はちょうど白羊の後ろの「四山羊」の3字が抜けた形だったのですね。ただし、田中の「羊の話」は明治26年7月の講演筆記であり、両書が出る前のことであり、田中が読んだ「日本紀略」がそうだったのかも知れませんし、羊が3つ続くので、思わず速記者か校正者が間違えたのか。まあ、ここは両書が示す2、4、1で一応妥協しましょう。
はい、頭数はそれでよしとして、問題は[羊歴]です。北大中央図書館の総合カウンターの近くにある語学辞書事典を収めた書棚があります。あの中に諸橋轍次著「大漢和辞典 修訂第2版」12巻と索引がありますが、利用したことはありますか。多分ないでしょうね。白状すると、私もね、今回[羊歴]を調べるために初めて引いてみたんですよ。案の定、凡例そのものからわからなくて往生しました。辞書に書いてあることを知るために、もう一つ別の辞書を引きましたよ。英英辞典の単語調べならよくあることですが、漢和辞典でそれをやらなきゃわからなかったとはね。恥ずかしながら、その経緯をお話ししましょう。
あれは索引からして重い。ぎっくり腰になりそうなくらいです。羊扁で追うと[羊歴]は第9巻94ページにあるとわかりました。第9巻を出してみると、16画の部にありました。歴は14画ですから、2画足りませんね。よく歴の字を見ましたら、厂の中に林でなくて[禾禾]と書く厤、古い歴の字だったのです。でも、フォントにはないので、歴で代用した字[羊歴]はレキ、リヤクと読み、意味としては「(1)黒いひつじ〔爾雅、釋畜、夏羊、注〕(2)羖[羊歴]は山羊。[羊厤](9−28596)に同じ。」(11)と書いてありました。
黒い羊はいいとして、その後ろの〔爾雅、釋畜、夏羊、注〕が用例らしいとは思っても、何が何だかわかりません。大漢和辞典で「爾」を引こうと索引でニかジかと探したのですが、目が回るぐらい字が並んでいます。これではお手上げとハンディな新漢和中辞典で「爾雅」を引きましたね。それでやっと「爾雅」は「書名。シナ古代の辞書。内容の分類により同義の語を列挙し、解釈したもの。十経の一」(12)とわかりました。そうとわかれば、その後ろの「釋畜、夏羊、注」は分類先らしいと見当が付きますよね。改めて大漢和で「爾雅」を探しましたら、伊達に「大漢和」を名乗っているわけじゃない。現存のものは釋詁、釋言、釋訓、釋親、釋宮、釋器、釋楽、釋天、釋地、釋丘、釋山、釋水、釋草、釋木、釋蟲、釋魚、釋鳥、釋獣、釋畜の19編と釋の名前を全部並べてあり、さらに「漢書の藝文誌には20編と出ている」(13)として、1つ「釋何か」が失われた可能性まで示唆していました。だから「爾雅」の「釋畜」を見れば[羊歴]の用例が載っているはずなんですね。
それから、大漢和では[羊歴]の読みの下に「[集韻]狼狄切■」と書いてあります。伏せ字にした■の位置には字というより同じ大きさの図があります。白い枠の四隅のどれから1つ○印をつけてあるので、中国語の四声という音調表記とわかりますが「集韻」が気になります。大漢和で探しましたら11巻にあり「書名。十巻。平声四巻、上声、去声、入声各二巻」あり「合計五万三千五百二十五字」(14)の発音辞典とわかりました。
しかしながら意味の(2)の羖と[羊歴]の2字だと「山羊」を指すとなると、貢ぎ物では、ちゃんと「山羊一」と書き分けているわけですから、どう受け取ればいいのか困りますよね。前に何度か話した田中芳男の「羊の話」にある「羖[羊歴]羊は毛長さ尺余のものを云ふ」(10)に従えば、そういう長毛の羊だったとなり、山羊一の記録ともぶつかりません。
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参考文献
上記上記(8)の出典は鎌田沢一郎著「羊 人生と緬羊 緬羊の飼ひ方 ホームスパンの織り方 日満羊を尋ぬる旅」90ページ、昭和9年7月、大阪屋号書店=原本、(9)の出典は経済雑誌社編「日本紀略」435ページ、明治30年12月、経済雑誌社=原本と新訂増補国史大系第10巻 日本紀略前編」310ページ、昭和9年7月、国史大系刊行会=原本、(10)は東京学士会院編「東京学士会院雑誌」第15編之八382ページ、田中芳男「羊の話」、明治26年9月、東京学士会院=原本、(11)は諸橋轍次著「大漢和辞典 修訂第2版」9巻94ページ、平成元年12月、大修館=原本、(13)は同7巻586ページ、同同、(14)は同11巻997ページ、同2年2月、同、(12)は長沢規矩也編「漢和中辞典」60ページ、昭和42年1月、三省堂=原本、
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では「長毛の羊」とする根拠は何か。明治40年の雑誌「新農報」に生駒藤太郎という獣医学士が「羊之記」と題する論説を書き羖[羊歴]にも触れていています。字が難しい上に振り仮名が必要ですので、それを含むきょうのプリントを用意しました。1部取ったら、どんどん後ろの人へ渡してください。
資料その1
(1) 本草綱目中に次の如き記事あり、羊字は頭角足尾の形に象る、孔子曰く牛羊の字形似るを以てなり、董子曰く羊は祥也、故に吉禮之れを用ゆ、牡羊を羖と曰ひ羝と曰ふ、牝羊を[羊孚]と曰ふ牂と曰ふ、白きを[羊公]と曰ひ黒きを羭と曰ふ、多毛なるを羖[羊歴]と曰ふ、胡羊を[羊皃][羊需]と曰ふ、角無きを[羊童]と曰ひ[羊它]と曰ひ勢を去るを羯と曰ふ、羊子を羔と曰ひ、羔五月なるを[羊宁]と曰ひ、六月なるを■と曰ひ、七月なるを羍と曰ひ、未だ歳を卒へざるを[羊兆]と曰ふ、(以下略)
(2) 唐山ニテハ畜テ食用ニ供ス。本邦京師ニハ畜者ナシ。他州ニハ畜処モアリ。皆漢種ナリ。稀ニ観場ニ出ス。形馬ニ比スレバ小サク、狗ニ比スレバ最大ナリ。多クハ淡褐色ナリ。白色ノ者モアリ。頭ハ略馬ニ類シテ短シ。喉下ヨリ胸ニ至テ長毛アリ。喜テ紙ヲ食フ。此獣悪臭アリ。羊羶ト云。唐山ヨリ白羊皮毛ヲ連ヌル者ヲ渡ス。ハラゴモリヲ上品トス。臭気ナシ。用テ裘ニ作ル。毛軟ニシテ綿ノ如シ。母羊ノ腹中ニアルヲ取。コレヲ胞羔 天工開物 ト云。已ニ長ジタル羊ハ悪臭アリ。故ニ、羊皮裘、母賤子貴ト云。一種綿羊、今舶来アリ。ソノ毛極テ細クシテ長シ。天鵞絨ヲ織、哆羅絨ヲ製スベシ。唐山ニテ母羊ノ毛ヲ以テ毛[毛亶]ニ作ルト云。羊皮ハ甚ダ薄クシテ紙ニ代、書画ヲナシ書皮ニ造ル。本草彙言ニ、南蛮以代紙書字、呉人以代紙画采為燈、甚鮮明ト云。羊皮ヲ製シタルハ肌滑ニシテ透徹シ、瓊脂ニテ造ル紙ノ如シ。鴨跖草ノ条下ニ花汁ヲ以テ羊皮燈ヲ彩スルコトヲ言リ。此燈稀ニ舶来アリ。其形或ハ四稜、或円カニシテ、山水人物ヲ彩画ス。火ヲ点ズレバ透明ニシテ美ナリ。其顔料ニ石緑、石青、銀硃ノ如キ粉ノ類ハ用ヒズシテ、紫梗、鴨跖草花汁ノ類ヲ用ユル故ナリ。〔附録〕大尾羊、胡羊、■羊、封羊、地生羊、[羊賁]羊。以上七名皆詳ナラズ。
(3) 頌曰く、羊は種類の甚だ多いもので、羖羊にもやはり褐色、黒色、白色のものがある。毛の長さ一尺余のものはまた羖[羊歴]羊ともいふ。北方では大羊を引としてそれを羊首といひ、また羊頭といふ。
宗■曰く、羖[羊歴]羊は陜西、河東に産し、就中狠健なのもので、毛が最も長くして厚く、薬に入れて最も佳いのであるが、食料としては北地の無角白大羊に及ばない。又、同、華地方に産する小羊は食料として諸羊の上位にある。
配った資料、枚数足りましたね。(1)の■の字は務の字の右下の力を取り去り、代わりに羊を入れた字です。それでは矛扁と思うでしょうが、そうではなくて上に持ち上げ攵と同じ高さにそろえる。婺の字の下の女の代わりに羊を入れた字です。漢方薬のような「本草綱目」に書いてあるならばと、北大図書館で検索しますと、15種類も本があり、多くは貴重資料室に収められています。googleで検索したら東京都立中央図書館の「本草綱目」の画像があり、それで医学部図書館の入り口に展示してある何冊かの和書の原本とわかりました。開架にある東洋文庫の「本草綱目啓蒙」で間に合わせようとしましたら、なんと字句解釈どころか資料その1とは似ても似つかぬ内容だった。それを資料その1の(2)で示します。この■は此の字の下に羊を入れた字です。
それもそのはずです。たとえば、引用したこの章のタイトル「重訂本草綱目啓蒙巻之四十六」のわきに「蘭山小野先生 口授」とあり、その下に「孫 小野職孝士徳録」「後学井口望之蘇仲訂」(15)と2行が付いています。つまり「啓蒙」、本物の本草綱目は李時珍という明の時代の学者が書いた本で、学のない者にはチンプンカンブン。そこで小野蘭山先生がわかりやすく、かみ砕いて教えて進ぜると、原本をかなり離れて話された事柄を書き留めた本だったのですね。
それで白井光太郎監修、鈴木眞海翻訳による「頭註本草綱目」を見ました。こちらは原文に忠実な訳であり、生駒さんの文章に似ていることから、生駒さんは同じように「本草綱目」を読み、その「釋名」という項を自分なりに要約したのが(1)とわかりました。でも釋名では羖[羊歴]が1回しか出てきません。ルビの「これきやう」は旧仮名遣いで「これきよう」と読むことは皆さん、承知していますね。その後に続く「集解」という6人の意見を集めた項に2回出てきます。それを抽出したのが資料その1の(3)です。(3)の■は大の横棒の下の左右に百の字を置いた字、爽の字の爻の代わりに百を入れた字です。資料その1の■は、いずれもUNICODEにもない字です。あれば、その16進の番号を10進の番号に換算し、前に&#、後ろに;をつけることで、ここに書き出せるのですが、それもできない。お手上げです。ともあれ、これらを参考に田中さんと生駒さんは羖[羊歴]羊は、毛の長い品種の羊を指す名前であり、山羊ではないとしたと推察できたわけです。
では、次に進みましょう。細川は「承平五年、呉越人の蒋承勲が日本に来て羊数頭を献じている」ことを挙げています。これは何に書いてあるのかといいますと、やはり「日本紀略」なのです。「羊蹄記」には「承平五年」に「大唐」から羊が贈られたとは書いていますが、どの本とは示していません。手当たり次第調べるうちに「古事類苑」というガイドブックのような、ありがたい本を知ったのです。出版の経緯によりますと「故ヲ以テ明治維新ノ後、文運漸ク開ケ、外国ノ事物モ荐リニ輸入セラルゝノ時ニ方リ、彼我互ヒニ相ヒ比較研究セント欲スレバ、俄ニ数百部ノ書籍ヲ渉猟シテ之ヲ求メザルベカラズ、而モ屡々之ヲ求メテ遂ニ得ルコト能ハザルノ困難ニ遭遇シ、人ヲシテ転々多岐亡羊ノ嘆ヲ発セシメ、知ラズ識ラズノ間ニ、外尊内卑ノ威ヲ深カラシメタルコトモ亦蓋シ鮮少ニアラズ、此レ藝林ノ一大闕典ニシテ、識者ノ切ニ患フル所ナリキ」(16)とあります。
つまり日本を代表するエンサイクロペディアを目指して編集されたのですが、私のように羊のことが出ている古い本を知りたいという場合にも使える。夜中に国会図書館の近代デジタルライブラリーでこの本を調べましたら、355冊構成という大きな本なんです。総索引2冊と索引3冊があり、読みで引くときは索引を使い「ひつじ」は動物部1の3、215ページからとわかりました。「ひつじぐさ(睡蓮)」なら植物部2の9の152ページ、「ひつじぐさ(白鮮)」なら同じ植物部でも2の11の330ページという調子です。広辞苑を引くと、いまいった中の「多岐亡羊」とは「(逃げた羊を追ううち、道が幾筋にも分れていて、羊を見失った故事から) 学問の道があまりに多方面に分れていて真理を得がたいこと。転じて、方針が多すぎてどれを選んでよいか迷うこと」(17)と説明しています。さっそく羊が出てきましたね。
「ひつじ」のページを開きますと、あるある。神代から慶応3年までに出た本の名前と羊に触れた部分が第何巻に書いてあるかに止まらずですね、ちゃんとそこを抜き出してあるのには、まったく恐れ入りました。私に対する隠れたサポーターが見つかったようなものです。明治12年文部省の大プロジェクトとして始まったこの「古事類苑」が全巻の出版を終え、総目録その1を出した大正3年、得意の漢文で序文を書いた人。いまでいえば編集委員会の2代目委員長、その時は編修総裁といいましたが、偶然なんでしょうが、枢密顧問官従二位勲一等文学博士男爵まで出世した細川潤次郎だったのです。
「古事類苑」動物部は、羊に触れた本は延べ19冊としています。日本紀略からは嵯峨天皇のときと朱雀天皇のときの2例が引用してますから実質18冊、その書名をスライドで紹介しましょう。小野蘭山が見当たらないようですが「重修本草綱目啓蒙」に代表させたのですね。引用してある個所は資料その1の前半分「書皮ヲ造ル」までです。ついでに、貢ぎ物として登場するので外交部、流行病のもとと思われたことから方技部、羊毛の筆もあるという文学部の本も加えてあります。「聖徳太子伝暦」は百済から8月に貢ぎ物がきたと1月早いのですが、内容は同じなので、同じことだとわかります。
動物 外交 方技 文学
本草和名
倭名類聚抄
類聚名義抄
八雲御抄
日本釋名
南留別志
本朝食鑑
本草綱目釋義
重修本草綱目啓蒙
庖厨備用倭名本草
日本書紀 日本書紀
日本紀略(2) 日本紀略
本朝世紀
水左記
扶桑略記
百練抄 百練抄
玉海
伊豆海島風土記
聖徳太子伝暦
異制庭訓往来
スライドでわかるように「日本書紀」を動物部と外交部とで引用しているのは推古天皇7年の貢ぎ物です。それがまた困るんですな。動物部では、また「駱駝一疋、驢一疋、羊二頭、白雉一侯」(18)という書き方なのに対して、外交部は「駱駝一匹、驢一匹、羊二頭、白雉一隻」(19)なんです。出所が同じなはずなのに表記が違うのは、担当者間の統一が取れていない。「聖徳太子伝暦」も匹隻の表記です。それで大漢和辞典で当たると、疋は馬を数える単位、動物を数える語であり、匹に通じるとあるので同じと見てよさそうです。隻は一羽の鳥を手で捕まえる形で一羽の鳥、さらに「生物器具を数えるに用ふる詞」とあります。問題は侯です。弓矢の的という意味がトップにあり、地方の王、爵位の一つ、人名とはありますが、隻と通じるとは書いていません。狩猟の的になるような鳥ということから侯を使うとこじつけられなくもないと思いますが、多数決というわけにも行きませんので、侯の辺で打ち止め。わかりましたか、私の駄洒落、はっはっは。
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参考文献
上記の資料その1の(1)の出典は新農報社編「新農報」第96号2ページ、生駒藤太郎「羊之記」、明治40年1月、新農報社=原本、同(2)は小野蘭山原著「重訂本草綱目啓蒙」第4巻48ページ、平成4年7月、平凡社=原本、同(3)は白井光太郎監修、鈴木眞海翻訳「頭註本草綱目」第12巻62ページ、昭和6年11月、春陽堂=原本、(16)は神宮司廳編「古事類苑」動物部第1巻216ページ、昭和9年11月、古事類苑刊行会=原本、(17)は財団法人新村出記念財団編「広辞苑第五版 CD−ROM版」、平成10年、岩波書店=原本、(18)は神宮司廳編「古事類苑」動物部第1巻216ページ、昭和9年11月、
(19)は同外交部第2巻118ページ、同8年10月、
本
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まだ羖[羊歴]羊のケリが付いていません。「古事類苑」動物部三の獣三「羊」の次に「山羊」、その次に「綿羊」の項があります。「山羊」では、まず「古今要覧稿」を引用し、その中に羖[羊歴]羊が出てくるのです。「古事類苑」にせっかく書いてあるのですから、そのまま書き写してもいいようなものですが、そこは現場主義。「古今要覧稿」を見たら、その本はなんと「古事類苑」と同じように、神代から江戸時代のまでの関係本を紹介していたのです。しかも、山羊だけでなく、ちゃんと羊と綿羊もあって「古事類苑」は、その分け方と並べ方を真似たと思えるくらいなんですよ。なぜ「古事類苑」の編集者は羊の項に、この本を挙げなかったのか。ね、スライドに出てないでしょう。とても親切かつわかりやすい書き方がしゃくに障ると思ったかどうか知りませんよ。山羊と綿羊の項では引用しているのですから、羊の項の存在を知らないはずはない。となれば、わざと無視したとしか思えませんよね。山羊より遙かに引用数の多いそちらを先に見せましょう。資料その2の(1)が、屋代弘賢という国学者が編集した「古今要覧稿」の羊の歴史を取り上げた部分を抜き出したものです。
資料その2
(1)此種古より國産絶てなく人皇三十四代推古天皇の七年に百済より羊二頭を貢ぜし事有 日本書紀 これ異邦より羊を貢ぜし始めなりそれより二百二十一年を経て嵯峨天皇の弘仁十一年に新羅より羖[羊歴]羊白羊山羊等を貢せしは 日本後紀 その次にてまた百十五年を経て朱雀天皇の承平五年に呉越州の人蒋烝勲といへるものゝ羊を奉りしは 日本紀略 これまたその次なり凡猪鹿は古より代々の天皇もめし上られしものなれども羊をば嘗てたしみ給ひし事なきは此ものゝ國産にあらざるが故なるべし同じ天皇の天慶二年に藏人所に羊二頭を飼おきしは 本朝世紀 承平を去る事僅に五年の間なれば即蒋烝勲が奉りし羊なること明らけしそれより二百三十二年を経て高倉院の承安元年に浄海入道の羊五頭を奉りしも 百練抄 蓋し呉越の産なるべしまた近頃江都處々の観場時にこれありしものも即清舶の載来りしを長崎より輸せしものなればいはゆる蒋烝勲が奉りしと同種にて新羅百済の産にはあらず(以下略)
(2)むくひつじ やぎ 夏羊
むくひつじ一名むくげひつじ一名やきうは漢名を夏羊といひその牡を羖一名羊羖一名羖[羊歴]羊其牝を羭その黒色なるを黒羖[羊歴]一名黒羖羊一名骨[羊歴]白色なるを古羊青色なるを青羖羊又その角を羖羊角一名p莢といふ先年江都観場時にこれありしものは所謂白色のものにて今肥前長崎に多し其状犬に三倍して家猪よりは少さし漢客蛮人ともに日用の食品なるによりて土人これを稲佐立山辺に飼をきて屠るよし 長崎見聞 (以下略)
(3)さいのこま 綿羊
さいのこま一名らしやけんは漢名を綿羊といひ其大なるものを無角白大羊といふこれまた夏羊の一種也今官苑に蕃育せしは凡百三四十頭もありそのうちにて大なるは牝鹿の如く小なるは犬の如しすべて頭小さくして身大なり毛至て細密にして長さ二寸許もありその年を経ざるもの色潔白にして年を経るものはやゝ褐色を帯たり(中略)今此毛をかりて羅哆絨を製するに舶来のものに異ならずその毛を採には四足を木材に結付て刈といへり(中略)又海外には種々の綿羊ありといへ共清舶の皇国に載来りしはたゞ此一種也
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参考文献
上記資料その2の(1)の出典は国書刊行会編「古今要覧稿」6巻禽獣部638ページ、明治40年1月、国書刊行会=原本(非売品)、同(2)は同同652ページ、同同、同(3)は同同654ページ、同同
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どうです(1)を読むと、外国から羊が進物として届いた年とそれを書いた書物、次までの年数の開きがよくわかりますね。おまけに、少なくとも朱雀天皇のころまでは、宮中で猪鹿はめし上られしものであったことまで書いてあるなんて、屋代さんはライターとしてもサービス精神旺盛なお方ですなあ。ただ「呉越州の人蒋烝勲」は細川や「古事類苑」では「蒋承勲」であり、読みは似ていますが1字違っていることは、ちょっと覚えておいてください。
ところで屋代弘賢は幕府の役人で、塙保己一の「群書類従」の編集にも加わりました。小杉榲邨が国書刊行会版の「古今要覧稿」に付けた「源弘賢の小伝」によりますと、書を極め歌を詠み、倹約した金で本を買って読むのを最高の楽しみとしていたため、古今和漢様々な本がたまった。五万冊もあったからこそ古今要覧稿が書けた(20)のだそうです。(2)に従えば羖[羊歴]羊は山羊そのものですね。ここに至っては大漢和辞典の通り羖[羊歴]には毛の長い羊と山羊と2通りの意味があると認めざるを得ません。(3)は読んでわかるように、毛を取るための羊ですね。
資料その2の(1)は「ひつじ」のことでありましてね。渡来の歴史ばかりみたいですけど「古今要覧稿」では薬やその用途をたくさん引用しています。それで私は「ひつじ」は、いまでいう肉用種の羊。「むくひつじ」が山羊で「さいのこま」は毛を取る毛用種の羊を指していると思うのです。いいですか「ひつじ」は肉などを食べるのが前提だから、これの肉をお召し上がり下さいと貢ぎ、同時に食べ方や薬にするならこうだということも伝えたと思うのです。だから屋代弘賢はわざわざ代々の天皇が「羊をばたしなみ給いしことなし」と書いたのであって、前に示した小野蘭山の「本草綱目啓蒙」、食べると肉は軟らかくてうまいそうだと書いた「本朝食鑑」をこちらに入れ、支那の文献もたくさん取り込んだ。
「むくひつじ」に対して「さいのこま」はその毛で織物を作ることだけで、食べたらどうこうと書いていないのです。この分け方は「古事類苑」も踏襲しており「ひつじ」のところに「羊は熱病天行病瘧痔、此等ノ病後ニハ食スベカラス、白羊黒頭、黒羊白頭、独角羊、此類皆食スベカラズ、銅器ニテ煮タルハ毒アリ、食スベカラズ(21)」という「庖厨備用倭名本草」を加えているのですから、こちらが食用種だということがわかるでしょう。天行病は伝染病のことです。
ちょっとスライドで「古今要覧稿」が「ひつじ」に関して、どれぐらい多くの本から引用したか「古事類苑」と比較して見せましょう。はい、これです。下まで画面に入らないから手でゆっくりスクロールしますよ。
古今要覧稿 古事類苑
日本書紀 日本書紀
日本後紀
日本紀略 日本紀略(2)
本朝世紀 本朝世紀
百練抄 百練抄
和名類聚鈔
本朝食鑑 本朝食鑑
和漢三才図會
大和本草
千金方薬注
本草綱目啓蒙 重修本草綱目啓蒙
観文獣譜
・易
・爾雅
・山海経
・太玄経
・禮記
・説文
・廣雅
・龍魚河図
・白澤図
・述異記
・後漢書
・北史
・集注本草
・玄中記
・潜確類書
・道書
・南越志
・格古要論
・桂海獣志
・博物志
・廣志
・雑俎
・事物紺珠
・嘉定県志
益州方物志
・典籍便覧
・事林廣記
・玉篇
・明一統志
・三才図會
・夷俗記
・聞見記
禽獣決録
・郡國志
・埤雅
・呂氏春秋
・周禮
・春秋左氏傳
譙周法訓
鄭氏婚礼謁文讃
晋書引鄭氏婚物賛
仏説大方廣十輪経
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本草和名
倭名類聚抄
類聚名義抄
八雲御抄
日本釋名
南留別志
扶桑略記
水左記
庖厨備用倭名本草
本草綱目訳義
玉海
伊豆海島風土記
数えてみると75冊あります。同じ本は並べて同じ行に置いたので、さっきはいっぱいあったように思った「古事類苑」が全然少ないことは一目でわかりますね。いや、スクロールで見にくかったかな。とにかく我が国の記録に限っているせいもあって、18冊しかありません。頭に点を付けた本は「古今図書集成」と漢和辞典、それと検索で確かめられたいわゆる漢籍で、ざっと50冊あります。「古今図書集成」は清の陳夢雷が編集した1万巻の中国版「古今要覧稿」で、北大では図書館4階の参考閲覧室にありますからね。
いかに中国では羊が身近な食べ物であったか。そして学者たちが羊をよく観察し、羊のどの部分をどう使えば薬になるのか研究してきた証拠でしょう。また我が国では羊がいないために実物に接する機会はほとんどなかったにせよ、こんなに多くの漢籍が輸入され、知識を貯えていたこともわかるでしょう。パソコンもデータベースもない時代に、これだけの本を読み、キーワード「ひつじ」で集めた情報をどうやって整理・保存していたものか。それも森羅万象、屋代が倉庫を3棟も建てたという小杉さんの話を信じたくなります。天保12年に84歳で亡くなるまで編集に43年もかかり、出版されたのは明治になってからだったのです。ジンパ学用に集めたコピーだけでもすっきり整理できず、必要なときに限って出てこないのはマーフィーの法則だなんて、あたふたやっている私からみると、本当に神様に思えますよ。
ちょっとトリビアル脱線ですがね。この「ひつじ」に匹敵するぐらい日本で知られた動物は、山野を駆け巡る鹿だと私は考えています。いいですか。「古今要覧稿」は文学作品も同じように調べて、それの登場する詩歌と掲載本を示しています。羊を歌った和歌は何首あったと思いますか。いま見せるこの2首しかありません(22)でした。はい、スライド。
題志らず 源有房朝臣
ほどもなくひま行駒をみても猶
あはれ羊のあゆみをそおもふ
けふり 右大弁入道光俊
もえつゝく香のけふりの時うつり
ひつしのあゆみ今日も程なし
わかりますね、たったの2首しかない。それでも、あることはあったんですね。「題志らず」として源有房朝臣の「ほどもなくひま行駒をみても猶 あはれ羊のあゆみをそおもふ」は、新勅撰和歌集巻第18にありました。もう一つ「けふり」と題した右大弁入道光俊の「もえつゝく香のけふりの時うつり ひつしのあゆみ今日も程なし」は新撰六帖題和歌第一帖でした―とですね、いい切ると、なにか私が直接調べた結果のようで。屋代先生、ご免なさい。
「古今要覧稿」には、ほかに漢詩も載っているのですが、書物の名前やどこまでが詩なのかわかりにくいし、万葉仮名で鹿を「か」という音で使っていることもありますから、60首以上あるといわれる万葉集も除いて、すっきり数えやすい漢字平仮名交じりの和歌だけに絞りました。同じように鹿の和歌を数えたら、なんと330首も載っていたのです。2対330。鹿の圧勝でした。ついでに「むくひつじ」と「さいのこま」の比較も見せましょう。
古今要覧稿 古事類苑
むくひつじ むくひつじ
日本後紀
千金方薬
千金方薬
長崎聞見録
西遊記
観文獣譜
證類本草引唐本草
・本草衍義
・呂氏春秋
・南史
丹房鏡原
天中記引膳夫録
古今要覧稿
本草綱目訳義
日本紀略
笈埃随筆
さいのこま さいのこま
観文獣譜
本草綱目啓蒙
・本草綱目
天中記引瀛涯勝覧
古今要覧稿
桃源遺事
「古事類苑」は、この2つに限り「古今要覧稿」を文献として引用しているのがわかりますね。それから天中記引が頭に付いていない「膳夫録」と「瀛涯勝覧」が「古今図書集成」の引用文献にありますから、ここの「天中記引膳夫録」と「「天中記引瀛涯勝覧」は漢籍と思うのですが、違う本なのかも知れませんから・は付けていません。「むくひつじ」こと山羊の方が「さいのこま」こと綿羊よりは文献が多いのは、日本にも長崎などで見聞する機会があったからでしょう。
それから「古今要覧稿」にちょっと面白い説明があります。それによると「さいのこま 毛詩品物図攷観文獣譜○さいのこまは京師の俗語なりといへり小野蘭山の説に観場にてかく名付てみせしよし」それから「らしやけん 江郡方言○此即羅紗犬の意也」であり「綿羊 桂海獣志本草綱目○此毛柔軟にして綿の如し故に名づく按に綿羊の声は鵞に似て綿々といふに似たりみずからその名をよぶも奇なる事なり」(23)と書いてあります。
貢ぎ物の羊については「古事類苑」も「古今要覧稿」も発生年代順に引用文を並べています。省略していいますと「古事類苑」は(1)「日本書紀」の羊2頭(2)「日本紀略」の白羊4頭(3)「日本紀略」の羊数頭。私が細川の随筆を「呉越人の蒋承勲が日本に来て羊数頭を献じている」と訳したあれです。一方の「古今要稿」は(1)「日本書記」の羊2頭は同じでも(2)は「日本後記」と書名が違う。白羊2頭というのは同じです。(3)「日本紀略」と書名は同じでも、羊の頭数は空白にしています。はい、高校で習った日本史を思い出してください。「日本書紀」は神代から第41代の持統天皇までの歴史を書いた本です。嵯峨天皇は第52代で持統天皇より11代も後ですから「日本書紀」の中に入るわけがない。おかしい。「日本紀略」は神代から第68代の後一条天皇までを取り上げた本ですから、こちらなら嵯峨天皇の時代が入って当然。もしかすると「古事類苑」の2つ目の「日本書紀」は、第50代の桓武天皇から53代の淳和天皇までを書いた「日本後紀」でなきゃならん。「後」を「書」と誤植したのかも知れないぞ。
そう思って確かめてみました。佐伯有義編纂「校訂標注日本後紀」の目次を見ますと、弘仁11年は「巻廿八」と「巻廿九」で取り上げられているはずなんですが、実はこの2巻は欠本なのです。それどころか「日本後紀」40巻のうち現存するのは10巻しかなく、30巻は失われているんですね。佐伯さんの解説がありますので、途中を少し読みますよ。「本史」つまり「日本後紀」です。「本史は国家の重要なる史籍なれば、皇室を始め奉り枢要の地位にある人々の家に蔵せられしことは、下文に引ける諸書にても明かなるが、其の完備せしは何時の頃までなるかと考ふるに、先ず第一に是が證とすべきは、日本紀略なるべし、此の書は六国史の完備せる時代に抜萃せるものにして、書紀以下悉く完備し、後記も巻一より第四十に至るまで毎巻欠くる所なし、之に依りて後紀の概要を知ることを得、至りて貴重なる宝典なり、其の抄録せし年代は詳ならざれど、後朱雀天皇以後、鳥羽・崇徳天皇頃までに成りしものにて、僧徒などの手に成れるものにはあらざるべく、斯道に志ある外記などが其の必要上抄録せしものかと推測せり」(24)。
「日本紀略」は「日本書紀」30巻、「続日本紀」40巻、「日本後紀」40巻、「続日本後紀」20巻、「文徳天皇実録」10巻、「日本三代実録」50巻という6つの歴史書、これを六国史というわけですが、その全巻抄録に60代の醍醐天皇から68代の後一条天皇までのオリジナル記録をプラスした本だったのです。ですから「日本後紀」の消失分のピンチヒッターとして、弘仁11年の事件は「日本紀略」に頼るしかない。
「古事類苑」は「日本後紀」分とオリジナル分の2カ所を引用したから記載は間違いではない。また先輩「古今要覧稿」の方は「日本紀略」ではあるけれども、片方は「日本後紀」第28巻の分として収められている。だから紀略の抄録引用だけれど本来は後紀にあった事項として「日本後紀」と書いたことが考えられます。いやー、調べながら私も勉強になります。
さて「日本紀略」の新羅からのプレゼントに戻りますが、数助詞が付いていないので疋侯問題はないのですが、別の問題があるのです。「古事類苑」では「羖[羊歴]羊二、白羊四、山羊一、鵞二、」と白羊のわきにルビのように白丸が付いておりまして、続けて小さな字で「○一本無二二白羊三字一」と注釈が付いている(25)のです。読み下せば「○一本は二白羊の三字に無し」となりますかね、この○がわかりません。黒板勝美編輯と経済雑誌社編は両方とも句点で切り、何も疑問はなかったようなのです。底本によって句点の書き方が違っていたのでしょうか。「○一本は二白羊の三字無し」は「羖[羊歴]羊と白羊の間の句点が1個なくて「羖[羊歴]羊二白羊四。山羊一。鵞二。」という書き方だよと教えてているのでしょうか。こうなると、その昔、貴族や殿様の後裔である華族の家に伝わっていた古文書の現物で確かめない限り、活字本相手では現場主義も行き詰まります。それで私より遙かに漢文に強い先生に相談しましたら「○一本は二白羊の三字無し」で、○はこれが1つの文であることを示し、もう一つの本では二白羊という3字がなくて「羖[羊歴]羊四。山羊一。鵞二。」となっているという注釈と考えられるといわれました。これですと、最初の方でいいました田中芳男の4、1、2説は底本の違いかも知れず、書き間違いだなんて簡単に決めつけられなくなります。経済雑誌社編の底本の山崎本にしても、塙保己一所蔵の塙本、そうではない曰く塙本とか10種の本を勘案したようですから、一応ここは2、4、1と受け取っておくということですね。
それから、えーと、いまいったのは動物部のことで、外交部では李長行のことは私人献物という分類にあり、何も注釈はありませんからね。それから文学部は筆にいろいろな動物の毛が使われ、羊毛の筆もあると記されています。
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参考文献
上記(20)の出典は国書刊行会編「古今要覧稿」6巻1ページ、小杉榲邨「源弘賢の小伝」、明治40年1月、国書刊行会=原本(非売品)、(22)は同禽獣部648ページ、同同、(23)は同656ページ、同同、(21)と(25)は神宮司廳編「古事類苑」動物部第1巻217ページ、昭和9年11月、古事類苑刊行会=原本、(24)は佐伯有義編纂「六国史」3巻「日本後紀解説」10ページ、昭和4年12月、朝日新聞社=原本
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もう一つ、今度は「古今要覧稿」の「日本紀略」の引用個所です。承平五年に贈られた羊は「数頭」なんてケチな頭数ではないのではないかという疑問があるのです。「云承平五年九月大唐呉越州人蒋承勲来献二羊□頭一」とあり、続けて「按に下文に引ところの本朝世紀に頭文字上の缺文は蓋し二字なるべし」(26)と注が付いているのです。□が2字入る空白となれば、最小でも十一頭、何百何千はないにしても、二十から九十頭まで入りますよね。
黒板版と経済雑誌編の2種の「日本紀略」を見ますと承平5年の「九月□日、大唐呉越州人蒋承勲来。献二羊數頭一。」で、日付に空白はありますが、頭数には空白はありません(27)。数頭は校訂者が見繕った頭数なのでしょうか。注でいう「本朝世紀」の記録は承平5年5月30日から始まりますけれど、6月分だけで9月分はない。すぐ承平8年でもある天慶元年に飛んでしまい「本朝世紀」にはありそうに思えるけれども、承平5年9月は欠落しているのです。書いてあるはずがない。屋代弘賢が本の名前を間違えたのでしょう。
木宮泰彦という方が大正15年に出した「日支交通史」という上下2巻の本があります。戦後、これに手を入れ「日華文化交流史」という本にしています。「日支交通史」で見ますと蒋承勲はこの承平5年が最初の日本訪問なんですが、天暦7年まで4回も来日した。「五代に於ける日支往復船舶一覧表」では承平5年は「九月呉越人蒋承勲が羊数頭を献じてゐる。十二月唐物藏人藤原親盛が大宰府に赴いてゐるのは蒋承勲の齎らした貨物を検進する為めであつたであらう」とし、その下の典拠の枠内に「日本紀略」「公忠朝臣集」「朝忠卿集」「新千載和歌集」の4冊(28)を挙げていますけど「本朝世紀」は入っていないのです。木宮さんは「古今要覧稿」を読まなかったか、いや、日本史の泰斗といわれた方です。そんなわけはない。知ってはいるが、武士は相身互い―学者も相身互いと、私のように、些細なミスをあげつらうようなことはなさらなかった。それどころか「五代に於ける日支往来船一覧表」の天慶元年の項に蒋承勲の名を入れ「七月廿一日に太宰府は支那商客の献じた羊二頭を進めてゐる。そして八月廿三日には蒋承勲に太宰府の布を賜うてゐるから、この時来航したのは蒋承勲であろう。」(29)と推察している。来日4回のうちの1回はこれをカウントしているんですが、典拠は「本朝世紀」。だから、屋代弘賢はこの承平5年の本と天慶元年の本を書き間違えたのではないかと、弁護しているようにも受け取れなくはありませんよね。まあ、私の勘ぐりすぎでも結構ですよ。
ところで承平5年の蒋承勲の出現を書いた本が4冊もあるとなると、ついでに多数派の蒋承勲と「古今要覧稿」の蒋烝勲のどちらが正しいのか教えてよとなりますよね。木宮先生は、ちゃとそれを見越して「日本紀略には総て蒋承勲に作るが、本朝文粋には蒋丞勲に作る。いづれか伝写の誤であらう」(30)と「日支交通史」に書いています。
ここで「本朝文粋」が新たな出典になりました。どうして承平5年に挙げてないのかと思うでしょ。なにしろ18年間にわたるものですから出てくる本が違うんです。「本朝文粋」は、最後の天暦7年の典拠なのでした。本宮さん自身は蒋承勲を使っているのですが、蒋丞勲と書いた証拠のように、菅原文時が書いた呉越王あての返書を引用しています。その文頭に蒋丞勲、末尾に丞勲と出てくる(31)のです。念のために大曾根章介、金原理、後藤昭雄校注による「本朝文粋」を見ましたら、やはり、その通りでしたね。
では「古今要覧稿」が蒋烝勲と書いた根拠はあるのか、木宮さんが挙げた「公忠朝臣集」と「朝忠卿集」で探してみました。公忠朝臣集は北大にある塙保己一の「羣書類従」の中では「朝忠卿集」は「権中納言朝忠卿集」となっていますが、どちらも和歌ばかり(32)。原書を写真撮りした「平安私家集」の中の「公忠朝臣集」なんか「羣書類従」の説明では行書体で書となっていますが、私には草書体とどう違うのかわかりかねる、すらすらうねうねで参りました。活字本で、前文に蒋承勲の名前でもあるのかと見たのですが、まったく出てこない。せいぜい「公忠朝臣集」にある「別るゝか侘しき物はいつしかとあひみん事を思ふなりけり」の前文の「承平五年十二月三日から物の使に蔵人左衛門尉藤原の親盛かまかりけるに餞し侍とて」(33)の承平五年ぐらいで、木宮さんは何を示そうとしたのかわかりませんでしたね。
同じようにダメモトで北大図書館の「新千載和歌集」4冊20巻も拝見しました。本物の和書、紙は和紙で和綴じ。三條實憲氏が大正13年に寄贈したという由緒証明のハンコと東京帝国大学印が残っています。昭和24年、北大にわが文学部の前身である法文学部ができたときに譲り受けた本らしいのです。初めそれがよくわからず、ところどころ朱筆の丸印が付いているなと思ったら、三條家のどなたが、これがこ先祖様の歌だと後三條入道前太政大臣と後三條前内大臣の名前につけた目印だったのです。一生懸命捜したのですが、承平5年という文字列は見当たりませんでした。目に付いたのは正中何年。縄のれんの品書きにありそうでね、はっはっは。
いくら捜して見つからないわけが、後でわかったのです。木宮さんが戦後出した「日華文化交流史」の日華通交年表を見ましたら、承平5年の項は「○九月呉越人蒋承勲羊数頭献す(日本紀略)○十二月交易唐物使藏人藤原親盛大宰府に赴く(公忠朝臣集、朝忠卿集、新千載和歌集)」(34)と区分けして書いていたのです。これらの和歌集を見たのは完全に無駄骨。「日本紀略」1冊でよかったのでした。まあ、アカデミックの世界ではよくあることですがね。
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参考文献
上記(26)の出典は国書刊行会編「古今要覧稿」6巻禽獣部640ページ、明治40年1月、国書刊行会=原本(非売品)、(27)は黒板勝美編「新訂増補国史大系」11巻「日本紀略後編・百練抄」35ページ、昭和9年7月、国史大系刊行会=原本と経済雑誌社編 「国史大系」5巻820ページ、「日本紀略」、明治30年12月、経済雑誌社=原本、(28)は木宮泰彦著「日支交通史」上巻357ページ、大正15年9月、金刺芳流堂=原本、(29)は同358ページ、同同、(30)は同368ページ、同同、(31)は同365ページ、同同と大曾根章介、金原理、後藤昭雄校注「本朝文粋」242ページ、平成4年5月、岩波書店=原本、(32)は塙保己一著「羣書類従」第9輯和歌家部175ページ、「権中納言朝忠卿集」、明治27年3月、経済雑誌社=原本、(33)は同585ページ、「公忠朝臣集」、同同、(34)は木宮泰彦著「日華文化交流史」751ページ、昭和30年7月、冨山房=原本
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時間がなくなってきました。配った資料その2の(1)とした「古今要覧稿」のひつじ抜粋に取り上げられている羊、推古天皇7年から承安元年までの羊の記録を出現順に並べたのが資料その3です。はい、間の年数は無視していますから、気になる人は書名の後の西暦年を見て下さい。
資料その3
(推古)7年9月 百済が羊2頭を貢ぐ(日本書紀 599)
弘仁11年5月 新羅人李長行等は羖[羊歴]羊2、白羊4、山羊1頭を貢
ぐ(日本後紀 820)
延喜3年11月 唐人景球等、羊1頭、白鵞5角等を献ず(扶桑略記
903)T
承平5年9月 呉越人蒋烝勲が羊数頭貢ぐ(日本紀略 935)
天慶元年7月 太宰府は支那商客の献じた羊2頭を貢ぐ(本朝世紀
938)
天慶2年6月 藏人所で羊2頭を飼う(本朝世紀 939)
長徳2年7月 宋人鵞、羊を献ず(日本紀略 996)U
長徳3年9月 宋人献ずる所の鵞、羊を返付す(日本紀略 997)V
承暦元年2月 宋商客が羊2頭を貢ぐ(百練抄、扶桑略記 1077)
承暦元年8月 悪疫はやり羊2頭を返す(扶桑略記 1077)
承安元年7月 浄海入道が羊5頭を貢ぐ(百練抄 1171)
承安元年11月 羊病はやり仙洞の羊3頭を返す(百練抄 1171)
文治元年10月 右近衛大将藤原良通に白羊を贈るものあり(史料綜覧
1185)C
応永23年5月 是ヨリ先、白羊ヲ世尊寺行豊ニ預ケ給フ、行豊、之ヲ田
向経良ニ預ク、是日、伏見宮栄仁親王・貞成王、之ヲ御
覧ゼラル( 大日本史料 1416 )D
いいですか、延喜3年と長徳年間、それと天慶元年と承暦元年の分は太字にしてある点に注目してもらいたい。いずれも屋代弘賢が触れていないからです。
紫色で入れた延喜と長徳の分は、平成19年に東大史料編纂所のデータベースを検索したら出てきた史実で、近代デジタルライブラリーの日本紀略」と「扶桑略記」で確認して加えました。閉じかっこの後ろのローマ数字は出典説明の番号ね。
屋代は天慶2年の藏人所のことで「本朝世紀」を取り上げているのですが、同じ本でその少し前に書いてある太宰府のことを見落としたと思うのです。同じ本から何度か引用するとき、屋代は最初は「云…」と書き、2つ目からは「又云…」という書き出しで紹介するのに「本朝世紀」については「云天慶二年六月四日甲戌卿召飼藏人所羊二頭於軒廊柱繋令左近陣官折集木枝葉令飼之宛如牛食草良久以角相競似牛」(35)(上卿は藏人所に飼う羊二頭を召す。 軒廊の柱に繋ぐ。 左近の陣官をして木の枝葉の折集を令し、之を飼は令(し)む 。宛かも牛が草を食すが如し。 良久(ややひさし)く角を以て相競うは牛に似たり。 )しか取り上げていません。屋代の取り上げ方を守れば、こちらは「又云天慶二年六月…」となるはずの事件なのです。
それから「古今要覧稿」では「百練抄」の承安元年7月のことは「百練抄 高倉院條 云承安元年七月二十六日入道大相國進羊五頭麝一頭於院」(36)と記しています。この入道大相國、平清盛がですね、高倉天皇に羊五頭と麝、この場合はカモシカ一頭を奉ったというのです。私が麝をカモシカとみたのは、この本の第533巻禽獣が「かましゝ かもしか 麝羊」として考証しているからです。資料その3の一番下の行にある浄海入道は清盛の法名です。「こうして清盛公は、仁安三年十一月十一日、年五十一で病気にかかり、生命の危険をまぬかれるためにただちに出家入道した。法名は浄海と名のられた。その効験が、重い病気もたちまち回復して、天寿を全うすることができた。」(37)と杉本圭三郎さんは現代語に訳しています。「平家物語」の初めの方ですよ、北大にパスしたとたん、古文、忘れてしまった? 私もそうでしたがね。はっはっは。清盛は羊献上の3年前に出家していたのでした。ああ、それから新井白石は「読史余論」の中に「百練抄」からの引用の形で、ずばり「承安元年、七月、清盛進羊五頭麝一頭於上皇」(38)と書いていますよ。
私は全く気付かなかったけど、この上皇、後白河上皇がキーワードだったのですね。最近神戸大の高橋昌明教授が「平清盛 福原の夢」という本を出されました。北大図書館にもあります。高橋先生はですね、この羊献上は「後白河の好奇心をそそる外国の珍獣を献上したというにとどまらず、『史記』秦本紀第五に見える、前七世紀の秦の繆公(穆公とも、秦の九代目君主、春秋五覇に数えられる)と百里傒(奚)の故事を踏まえた清盛側の政治的メッセージと解すべきであろう。(39)」と書かれていることを知りました。
いやー、さすがは中世の専門家。私は羊の出現頭数しか見ていなかったからねえ。恐れ入ったのです。高橋さんは麝鹿と書いているのですが、今回の講義からこの高橋先生の百里傒(奚)の故事を受け売りさせてもらうことにしました。ジンパ学は正しいと思えることはどしどし取り入れるのです。
中国の春秋時代に晋が虞という國を攻撃した。虞が負けて大臣だった百里傒が捕虜になる。高橋さんは「その賢人ぶりを聞いた繆公は、代価に五枚の羖(黒色の羊)の皮を献上して彼を購い、国政にあたらせた。それで彼を五羖太夫という。(40)」と繆公に仕えるまでを簡単に説明しています。「百里奚」でウィキペディアを引くともっと詳しい経緯が出ているから引用してもいいのですが、大事なのは羊に麝鹿を1頭入れた組み合わせだというのです。
ところで「中原に鹿を逐う」という言葉を聞いたことがありますか。gooの大辞林で「中原」を引くと「〔魏徴の詩「述懐」による。「鹿」は帝位の意〕(1)天下の中央で帝王の位を得ようと争う。逐鹿(ちくろく)。(2)多くの人が地位や政権を争う。(41)」と出てきます。逐鹿はね、選挙用語として古い新聞によく現れます。この場合の麝鹿はこの鹿、帝位とみるのだそうです。
一方、百里傒は5枚の羊の毛皮で買われた身分だ。清盛は自分が百里傒と同じく天皇に体を張って仕えるという気持ちを5頭の羊に込めた。それと麝羊1頭を組み合わせて「自分は保元の乱で後白河の帝位の安泰に貢献したし、今後も王権を支える力だとアピールし、さらに有能な臣下として身命を賭して奉仕する、という姿勢を公にしたと読み解ける。(42)」と高橋さんは書いています。だから、ここはその辺のカモシカよりも舶来ジャコウジカの方が貴重だし、帝位になぞらえるにはぴったりということなのですなあ。
高橋さんによると、さらにこの献上は清盛の娘徳子と高倉天皇の結婚問題もからむそうで、羊を返したのは変な病気の流行もあったろうが、いったんは白紙にもどすという意思表示(43)とみているのです。ジンパ学としては、そこまでは必要ないのでありますが、とにかく広く情報を求めていくと、こういう専門家の見方を知ることがあるという実例として紹介しておきます。
文治元年と応永23年の2項目は、その上の12件と出所が違うので字を緑色しました。どちらも東大史料編纂所が編集した「大日本史料総合データベース」を使い、キーワード白羊で出てきた史料です。文治元年の方は稿本といって手書き原稿の形の画像です。「右近衛大将…」の上に八日丁巳と日付が入り「…モノアリ」の後ろに「〔玉海〕 八日丁巳天晴和泉守行輔進羊於大将其毛白如葦毛好食竹葉枇杷葉等云々又食紙云々其躰太無興」とあるので、「玉海」という本が出典とみて、国会図書館サーチで検索したら「玉葉 : 一名・玉海. 第3」という本があり、その102ページに同文がありました。こちらは漢文として読めるよう一二点も読点が付いてます。
応永23年の方は「大日本史料 第七編之二十四」2386ペ−ジに載っている通りです。応永は文治からちょっと間が開きすぎてますが、せっかくの綿羊史料ですから、ここに加えました。
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参考文献
上記資料その3のTの出典は経済雑誌社編「国史大系」第6巻669ページ、「扶桑略記」、明治30年12月、経済雑誌社=近デジ本、同Uは同第5巻1030ページ、「日本紀略 下」、同、同Vは同1034ページ、同、
同Cは市島兼吉編「玉葉 第三」102ページ、明治40年3月、国書刊行会=国会図書館インターネット本、
同Dは東京大学史料編纂所編「大日本史料 第7編之24」386ページ、昭和59年3月、東京大学出版会=原本、
(35)は国書刊行会編「古今要覧稿」6巻禽獣部640ページ、明治40年1月、国書刊行会=原本(非売品)、(36)は同638ページ、同同、(37)は杉本圭三郎全訳註「平家物語(一)」60ページ、平成11年12月、講談社=原本、(38)は新井白石著・村岡典嗣校訂「読史余論」59ページ、昭和35年5月、岩波書店=原本、(39)と(40)は高橋昌明著「平清盛 福原の夢」122ページ、平成19年11月、講談社=原本、(42)と(43)は同123ページ、同、(41)は三省堂編「大辞林」第2版 http://wpedia.search.goo.
ne.jp/search/333409/
%C2%E7%BC%AD%CE%D3/
detail.html
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さーて「古今要覧稿」に戻りましょう。「百練抄」からの2つ目に羊病の流行を引用しています。小谷さんはそれを「近日、羊病と称し、貴賤上下病患を煩ふ、羊三頭仙洞にあり、人傳ふ承暦の比、此事ありとて件の羊は返却せらる云々」と読み下しています。(44)があります。結局清盛へ羊を返したんですね。経済雑誌社編の「百練抄」では「十一月一日御入洛。」(45)に続けて「近日…」と日にちが書いてありますから、食べられたか、よそへやったか、献上から返却までの約3カ月間に羊は2頭減って3頭になっていたんですね。
承暦とは、白河天皇のときで1077年から1080年までの年号です。そのころの羊病の記録があるとすれば何に書いてあるのか。幸い「百練抄」は承暦年間のことも書いてありまして、承暦元年2月のところに「廿八日。引見大宋國商客所献之羊三頭。」(46)とある。白河天皇が羊3頭をご覧になったんですね。これは木宮泰彦著「日華文化交流史」の「北宋との通交」の年表にもあり「二月廿八日宋商の献じた羊を天覧に供してゐるから、是頃宋船の来航したことが察せられる(百練抄・扶桑略記)」とし、附録の日華通交年表でも、承暦元年の項に「○二月宋商の献ぜる羊を観給う(百錬抄、扶桑略記)○三月太皇太后宮大夫源隆信、入宋僧成尋に書を贈る(朝野群載)○五月宋帝への返書を長季朝臣をして書かしめて答信物を六丈織絹二百匹、水銀五千両と定む(百錬抄)○宋商の進献せる羊を還付す(扶桑略記)」(47)と載せています。さすが日中交流史の専門家は、練の字が違いますけれど、ちゃんと「百練抄」にあることは見逃していません。また「古事類苑」も「扶桑略記」にあるとして「承保四年 ○承暦元年 二月廿八日己酉引見大宋國商客所献之羊二頭、八月、今月返遣羊二頭了」(48)と引用しています。
貢がれたのは2頭か3頭か。こう「扶桑略記」も触れていると示されては、現場主義を標榜するジンパ学です。当然読んでみます。それで黒板勝美及び国史大系編修会編輯の「扶桑略記」と近藤圭造編「校本扶桑略記」を見ましたら、双方とも「献二頭」の「返遣二頭」(49)で載っていました。しかし「古事類苑」は、もう一つ「水左記」にもあると、承暦元年6月18日の条を引用しています。正確にいうと承保4年は11月17日から承暦元年になったので、この表の羊2頭は承保4年のことなんですが、こんがらからないよう承暦にしています。時間がありませんが、ちらっとスライドでそこの文を見て下さい。
資料その4 水左記から
十八日 自殿被献覧羊於高倉殿、件羊牡牝子三頭、其毛白如白犬、各有胡髯、又有二角、予如牛角、身体似鹿、其大々於犬、其声如猿、動尾纔三四寸許、
「増補史料大成」という本からの引用で、返り点がありませんが、なんとか大意は取れるでしょう。實は3頭であり、白くて鹿に似ているとなると山羊くさい。決定的なのは末尾の「動尾纔三四寸許」です。10センチそこそこのしっぽが動くというのですね。羊の尾は本来だらっと長いのです。子羊のうちに皆切ってしまうから短いのです。このころ断尾技術を知っていたかどうか。だから見分け方は尾がはね上がっていたら山羊と教える先生もいます。
承保の人々は羊と思っていたし、数も違うのは承知で羊2頭でいきますが、飼っているうちに疱瘡みたいな病気が広がった。「扶桑略記」のそこを読み下すと「八月六日癸未。今上の第一皇子敦文親王薨る。年は僅かに三歳。上は一人より下は庶人に至る。赤皰瘡を患わずなし。親王公卿五位已上(以上)に逝去之者多し焉。」となります。それで慌てて羊を返した。これが語り伝えられ、羊はすっかり疫病神にされ、ペットにはなれなかったようです。それから私は漢文に余り強くないので、今回の読み下し文はある人にチェックしてもらいました。
黒板勝美編の「本朝世紀」に太宰府の羊2頭のことは「○廿一日丙寅。天晴。上卿不参。仍無政。」此日。太宰府貢上羊二頭。是大唐商人所献也。」(50)と書いてあります。屋代のスタイルでゆけば、こっちが「云天慶元年七月…」と先に書かれるはずの事項なのです。
つまり、屋代はこれを見落としたか、書き出すのを忘れたため、その次の「天慶二年に藏人所に羊二頭を飼おきしは承平を去る事僅に五年の間なれば即蒋烝勲が奉りし羊なること明らけし」(51)という見方になってしまった。蒋烝勲が承平5年に献じた「羊数頭」は2頭以上で、5年は生きていただろう。つじつまが合うと由来を解説したのでしょう。せっかくの屋代説ではありますが、ここは5年前の羊ではなくて、半年掛けて太宰府から京都に運ばれてきたというか、連れてきた2頭とみる方が無理がないと思いますね。
細川潤次郎は、ここまでの間でも延喜5年の905年、貞観12年の870年にそれぞれ羊を利用した記録があるではないか。だから飼い方を知っていたのではないか。肉なんか食べていたんじゃないのかと指摘するわけですね。次回はそのあたりを調べた話をします。終わります。
(文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)
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参考文献
上記(44)の出典は小谷武治著「羊と山羊」5版13ページ、大正9年3月、丸山舎書籍部=原本、(45)は経済雑誌社編「百練抄」112ページ、明治34年5月、経済雑誌社=原本、(46)は同46ページ、同同、(47)は木宮泰彦著「日華文化交流史」762ページ、昭和30年7月、冨山房=原本、(48)は神宮司廳編「古事類苑」動物部第1巻217ページ、昭和9年11月、古事類苑刊行会=原本、(49)は黒板勝美及び国史大系編修会編輯「新訂増補国史大系」12巻318ページと「扶桑略記・帝王編年記」、昭和40年12月、吉川弘文館=原本と近藤圭造編「改定 史籍集覧」第1冊301ページ、「校本扶桑略記」、平成2年10月、臨川書店=原本、資料その4は増補「史料大成」刊行会編「増補史料大成」第8巻40ページ、「水左記・永昌記」、昭和57年11月、臨川書店=原本、(50)は黒板勝美編「新訂増補国史大系」9巻7ページ、本朝世紀、昭和11年5月、国史大系刊行会=原本
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