国産の羊革甲はあったのか

 はい、講義を始めます。えーと前回、細川潤次郎の「本邦牧羊」をやるといいましたね。でも考えを変えまして、先に「其地無牛馬虎豹羊鵲」という一文を含む「魏志倭人伝」の羊について考察します。この文を石原道博さんは「その地には牛・馬・虎・(ひよう)・羊・(じやく)(こまがらす・かささぎ)はいない」(1)と訳しています。私が図書館の開架に並ぶ「魏志倭人伝」関係の本を見ましたら、どうも多くの研究者は、石原さんもそうですけど、そのころ倭国には羊はいなかったという記述についてコメントしてない。3世紀ごろの日本に羊はいたと唱える研究者はいないのかも知れない。邪馬台国の羊がジンギスカンの羊肉につながるのかどうかを知るためにも、素直に古い方から新しい方へ進むべきだと考え直しました。
  

参考文献
上記(1)の出典は石原道博著「新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝」26ページ、昭和60年5月、岩波書店=原本


  「魏志倭人伝」は邪馬台国が九州か近畿かなどその位置を巡る論争でよく知られていますね。たいていの人は「魏志倭人伝」という1冊があると思っているようですが、古い中国の魏と呉と蜀という3つの国の史書「三国志」の中の「魏志」の「東夷伝」の一部分なんですね。「三国志」といっても関羽とか張飛といった武将たちが出てくる本とは違うのです。あれは正しくは「三国志演義」という小説ですからね。ゲームや漫画にもなっているが、この際それはどうでもよろしい。
 ところで諸君、おほん。有名無名多くの方々が書いた「魏志倭人伝」の研究書は、どれぐらいあると思いますか。えーと、そこのTシャツの人、何冊ぐらいあると思う? なに100冊。うーん、研究書の定義が難しいけれど、それぐらいあることは確かでしょう。キーワードを「魏志倭人伝」だけにして国会図書館の蔵書を検索しますと、104冊出てきます。国会図書館は副題や内容細目にキーワードが含まれている本も出すし、漫画や記念論文集も出すので、普通の図書館より多めに出ると思います。わが北大図書館ですと23冊、札幌市立図書館だと37冊、江別の道立図書館だと24冊出てきます。へえーなんて感心しないで。国立情報学研究所のwebcatなら31冊、東大31冊、京大35冊といった数字です。これを邪馬台国だの卑弥呼まで広げたら、相当な冊数になるでしょうが、キーワードが「魏志倭人伝」だけなら、そんなものです。
 そこで、北大と札幌市立の蔵書で重複分を除くと、今から配るプリントに示した48冊になるので、総当たりして著者または編集者の見方をより分けてみることを思いつきました。馬鹿馬鹿しいようですが、私は現場主義者なんですから調べてみて、なにか面白い情報が出てくればもうけものでしょう。それに邪馬台国論争は皆さんの興味を引くようで、市立図書館の場合、対象本のうち31冊、8割は開架に納まっておるとわかったこともあります。
 つまり私が新琴似から清田まで出かけさえすれば、司書の方々にあまり書庫往復をさせずにできるわけですし、日ごろの鍛錬で自転車で走り回れる自信がありましたので、実行してみました。その結果を見て下さい。資料その1の点線から上の分ですよ。後ろまで行き渡りましたね。
 いいですか。九州だ近畿だと倭国の位置を論じて「其地無牛馬虎豹羊鵲」に全然触れていない、または倭人伝通りいなかったとする本は×印、訳文を考察した上で推古天皇のときの羊が最初と認めている本は○印、当時牛馬はいたとかいなかったと論じているけれども、羊には触れていない本は▲印、牛馬を論じかつ羊は倭人伝通りいなかったとする本は△印、羊について独自の見解を載せている本には●印をつけてみました。
 すべて私の独断ですから、真意はそうではないという著者もおられるかも知れません。斜めに読んでもこれだけ冊数がこなすと、途中で判定基準がこんがらかってきますね。ここでの私の読み違いをまとめてもレポートとして認めます、結構ですよ。それから「倭人伝の用語の研究」から下が北大図書館分ですが、その中で研究室備え付けみたいなっていて、すぐ閲覧できない本は−印を付けてあります。もう何冊かあったのですが、市立でカバーできた本は、−印を付けずに判定しました。
 点線から下の「古代家畜史」など8冊はですね、キーワード「魏志倭人伝」では出てきませんでしたが、調べに行ったとき「魏志倭人伝」本の近くにあった本。まあ、いうなれば総当たり調査のおまけ。でもユニークな見解もありましたので、それらは後で話しましょう。こちらは市立、北大まぜこぜになっています。

資料その1

判定 書名            著者または編集者名

×アイヌ語で解く「魏志倭人伝」  橋本潔
×海の古代史 黒潮と魏志倭人伝の真実  古田武彦
×魏志倭人伝 東洋史上の古代日本  山尾幸久
●魏志倭人伝 暗号文解読  長瀬修己
×魏志倭人伝 三国志CG絵巻  安本美典
×魏志倭人伝 新版  山尾幸久
×魏志倭人伝 後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 1951年版 和田清
○魏志倭人伝を読む 上 邪馬台国への道  佐伯有清
×魏志倭人伝を読む 下 卑弥呼と倭国内乱  佐伯有清
×新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝  石原道博
×魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 1979年版 和田清
×魏志倭人伝 新釈 銅鐸考  上口伊助
×魏志倭人伝と邪馬台国  武光誠
▲魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない  相見英咲
▲魏志倭人伝の解明 西尾幹二『国民の歴史』を批判する  藤田友治
×魏志倭人伝の航海術と邪馬台国  遠沢葆
×魏志倭人伝の考古学 対馬・壱岐篇  岡崎敬
▲魏志倭人伝の考古学 九州篇  岡崎敬
○魏志倭人伝の考古学  佐原真
●魏志倭人伝の世界 邪馬台国と卑弥呼  山田宗睦
×魏志倭人伝の世界  三木太郎
×魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 1967年版 和田清
×三国志がみた倭人たち 魏志倭人伝の考古学  設楽博己
×市民の古代 第17集  市民の古代研究会
△私訳魏志倭人伝  今岡純雄
×「竹内文書」が明かす「魏志倭人伝」の陰謀 歴史から抹殺された“韓魏大戦争”の真相  竹田日恵
×日本超古代の大真相 魏志倭人伝が解き明かす古代史最大の謎  飛鳥昭雄
▲発見!卑弥呼の陵墓 『魏志倭人伝』完全解読  吉岡徹雄
×卑弥呼誕生 『魏志』倭人伝の誤解からすべてが始まった  遠山美都男
×卑弥呼の王城を求めて やさしく学ぶ「魏志」倭人伝 中村淳晤
×卑弥呼と冢 魏志倭人伝の問題点を探る   高瀬航太郎
○評釈魏志倭人伝  水野祐
×まぼろしのヤマタイコク 魏志倭人伝にかくされた嘘と陰謀  三好誠
△邪馬壱国は阿波だった 魏志倭人伝と古事記との一致  古代阿波研究会
▲邪馬台国はどこか 『魏志』倭人伝をすなおに読むと  後藤功
×吉野ヶ里こそ邪馬台国 「魏志倭人伝」を正しく読む  久保雅勇
−倭人伝の用語の研究  三木太郎
×倭人伝を読む  森浩一
×朝日の直刺す国 : 記紀と魏志倭人伝の交点  近藤延雄
×魏志倭人伝と古事記との関聯  寺田青胡
×三角縁神獣鏡の時代  岡村秀典
×親魏倭王  大庭脩
×親魏倭王 増補版  大庭脩
−シンポジウム魏志倭人伝と一支国 : 甦る一支国の王都原の辻遺跡  長崎県教育委員会
−女王卑弥呼の国家と伝承  前田晴人
×卑弥呼の居場所:狗邪韓国から大和へ  高橋徹
△文献史料(邪馬台国研究事典;1)  三木太郎
×邪馬台国  平野邦雄
…………………………………………………………………
○古代家畜史  鋳方貞亮
×縄文人の世界 日本人の原像を求めて  梅原猛
×女王卑弥呼の「都する所」 史料批判で解た倭人伝謎  上野武
●二つの顔の大王 倭国・謎の継体王朝と韓三国の英雄たち  小林惠子
▲邪馬台国はまちがいなく四国にあった  大杉博
×貝塚の獣骨の知識  金子浩昌
△考古学から見る邪馬台国  菊池徹夫
●十二支で語る日本の歴史新考  東平介

 とにかく研究書の多くは「其地無牛馬虎豹羊鵲」に触れたところで、倭国を指して「その地に牛、馬、虎、豹、羊、鵲なし」と解釈していることがわかりますね。私は早い段階でわが文学部におられた佐伯有清先生の本「邪馬台国への道」を読みました。それで資料その2の(1)で示したように、文献の上では推古天皇のときの貢ぎ物として入った羊が倭国にきた最初の羊と認める本が多いはずと思っていたんですよ。ところが調べてみたら、そうではなかった。羊なんか無視されているといっても過言ではない。×印は当然ですが、▲印、△印も羊については考察していないも同然ということです。わかりますね。
 佐伯さんに近いのが、水野祐さんと佐原真さんです。推古天皇以降説がたった3人しかいなかったので、水野さんの説くところを資料その2の(2)として引用させてもらいました。
 佐伯、佐原さんと水野さんの違いは、水野さんが動物がいなかったというのは狗奴国のことであり、狗奴国は南九州と解釈する点ですね。水野さんの引用個所のうち中略部分は牛馬、後略部分では虎と豹と鵲の有無を考察しています。

資料その2

(1)倭の地に「虎」「豹」の猛獣が棲息していなかったことは、ただちに理解できる。ただし一万年以前に存在していたことは化石の出土によって知られ、その後、絶滅したという。「羊」もいなかった。『日本書紀』推古天皇七年(五九九)九月癸亥朔の条に、「百済、駱駝一匹、驢一匹、羊二頭、白雉一隻を貢れり」とあるのが初見。
 「鵲」については、『日本書紀』推古天皇六年(五九八)四月の条に、「難波吉士磐金、新羅自り至りて、鵲二隻を献る。乃ち難波社に養わしむ。因りて枝に巣いて産めり」とみえるのが最初の記事。
 牛と馬については問題がある。かつて縄文、弥生の遺跡から出土した牛骨、馬骨によって、倭人伝が記された時代には、倭の地の人のあいだに牛、馬が飼養されていたとみなし、倭人伝の記述は事実を伝えたものではないとされる意見が多くあった。しかし、骨にふくまれているアミノ酸の変質状態の分析や、骨に含有されているウラン、あるいはフッ素の量の変化を分析することによって年代を推しはかる科学的方法によると、牛骨、馬骨の年代は鹿骨や猪骨などのものより新しいものであり、後世になって遺跡に混入した可能性が高いことが指摘されるにいたっている。


(2)この一条は多くの問題を含んだ重要な個所である。しかし従来この論争に関与した学者の所説は、すべてこの事実を、倭国全土のこととして解釈したうえでの論争であるから、私見とは根本的に異なってくる。私は当然これらの動物鳥類がいないというのを狗奴国すなわち南九州の地域に限って解釈するので、おのずからその見解・解釈は異なってくる。(中略)
 次に羊である。考古学上からも羊の遺骨の出土はなく、世界的に分布するこの動物の分布図に、日本列島は入っていないので、羊がいないということは承認できる。羊については文献の上では、推古天皇の七年秋九月の条に、「百済貢駱駝。一匹。盧一匹。羊二頭。白雉一隻。」とみえるのを初見とし、この時はじめて日本に羊が渡来したのであろう。(後略)
 以上のごとくみると、狗奴国にいない生物六種のうち、はじめの三種は家畜動物で、牛馬羊は六畜(六牲)、つまり牛・馬・羊・豕・犬・鶏の中の三畜であり、後の三種は野生動物である。家畜の中で、ないものと、野生のものでないものをあげたのである。したがって問題になる牛馬は、狗奴国でも野生の牛馬がいないというのではなく、家畜としての牛馬がいないという意味であるから、野生の牛馬がいても誤記ではない。当時狗奴国では三畜とも、飼育することが行われていなかったというのである。

  

参考文献
上記(1)の出典は佐伯有清著「邪馬台国への道」229ページ、平成12年10月、吉川弘文館=原本、(2)は水野祐著「評釈魏志倭人伝」235ページ、昭和62年3月、雄山閣出版=原本


 ×印以外の印の付いた本をできるだけ短く引用してみますと、上から順にこうです。
 ●長瀬さんは「其地無牛馬虎豹羊鵲」を「ソノチギユウバコヒヨウシヤクナシ」と読み「其地の祖湯場乞う婢うようよ島妬くな」と字を当て、全体の中では「オシオミは湯場を欲した。召使(側室?)は大勢。この島の事羨むな」(1)(23ページ)という意味と書いています。
 ○佐伯さんは飛ばして、と。
 ▲相見さんは「牛馬はいないという。これは必ずしも正しくない。牛馬の骨が出ている。ただし、まだ普及していなかったから大局的には正しい。もっとも原資料筆者は伊都国。奴国辺からほとんど離れてはおらず、そこには見えないことは伝聞しか頼るものがなかったから、そうした判断となったのだろう」(1)(205ページ)と書いています。
 ▲藤田さんは、これまで「ほとんどの論者は牛・馬の生息を認めつつ、魏使の注意するところがなかったのは、倭地では希有性・非実用性でまれにしか見えないもので、中国や朝鮮のように乗馬用として使用されていなかったからであろうという見解です。『魏志』韓伝では牛馬は葬送用、弁辰韓では乗馬用に利用していたことを明らかにしています」(1)(91ページ)と書いています。
 ▲岡崎さんは「動物には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なしと言っており、鹿・猪などはかえって注意されていない。しかし、牛や馬の骨が壱岐カラカミ貝塚などで出土し、その存在は認められているので、むしろ中国のように利用されていなかったことを示すものであらう」(1)(37ページ)としています。
 ○佐原さんは「魏志倭人伝は、牛馬のほか、虎・豹・羊・鵲がいない、と書いています。文献の上では羊は六世紀に百済から入った(推古七年=五九九年九月条)のが始めで、奈良時代にも入ってきて、平城宮あとからは羊をかたどった硯がみつかっていますし、正倉院御物の臈纈染めの羊の屏風(北倉44)は有名です」(1)(104ページ)と書いています。佐伯さんと同じ○印に分けておかしくありませんね。
 ●山田さんは「羊にいたっては、日本列島に化石すら出ない。また羊について東夷伝は他の国で一言もふれていない。当然いたのである。」(1)(131ページ)と書いています。つまり、倭国にはいなかった説なんですね。この倭人伝を書いたといわれる陳寿は、たとえば馬韓という国について「禽獣・草木、ほぼ中国に同じ」と記したのに、倭国について「牛馬、虎豹、羊鵲なし」と記したことは「禽獣・草木、ほとんど中国と異なる」(1)ということ。羊はいなかったとみています。
 △今岡さんは、記述から「彼等はまだ家畜を持っていなかったと考えられよう。牛・馬・羊いずれも無しと記されたところを見ると、何か家畜を持っていれば有としてその名を記していたのではないだろうか」(1)(147ページ)とみています。
 ▲吉岡さんは、馬はいたと考え「交渉がなくてよく分からないとう狗奴国は中国東北部に出自する高句麗と同系であり、高句麗伝に『乗るに便利な小形の馬が居る』とあるところからみると、あるいは狗奴国にはいかほどかの馬がいたかも知れず<注1として省略>、唯一国で何十国もの女王連合国を圧倒した謎(強力な武器たる挹婁の弓と共に騎馬軍団の存在)の一端が見えるようです」(1)(209ページ)と書いています。注の1に入っているのは、五島列島の遺跡から牛・馬の歯が出土したという西日本新聞の短い記事です。
 ○水野さんは資料で出てますからも飛ばします。
 △古代阿波研究会は折口信夫著「日本文学の発生序説」を引用し「古代から阿波には牛も馬もいなかった」ことが文献的に証明された。さらに「古代から阿波には、虎も、豹も、羊も、カササギなどの動物は、これは問題なくいませんでした」(1)(32ページ)と書いています。
 ▲後藤さんは、化学分析で馬の骨は後世混入の可能性が高いと指摘されているとして「馬が本当に生息していたかどうかは今後の課題であるが、生息していない動物は現地人に聞いてもわかるものではない。ここに記述された動物が生息している地域の人が実見し、はじめて記述できるもので、この文そのものが実見記事であることをみずから証明しているといえる」(1)(40ページ)と書いています。
 △三木さんは、注の73として「牛馬虎豹羊鵲の有無については、虎豹羊鵲の記述はそのまま認められるが、牛馬はその棲息が確認されているので、この一句の根拠は不明。あるいは郡使などの目にふれるほど多くなかったための誤解かも知れない」(1)(28ページ)と書いています。
 さて、おまけの方も上から順に短くまとめますと、こうです。
 ○鋳方さんは推古7年「この時恐らく初めて我が国に齎らされてであろうことは、考古学的に羊の歯骨は見出されず、又、動物学上、我が国土が羊の動物分布圏に入つてゐないこと等によつて推測することが出来るであらう。勿論、文献的には、これが羊に関する初見である。かく観ずれば、倭人伝の記載はこゝに於いても亦誤り無きものと見なければならない」(1)(169ページ)と書いています。
 ●小林さんは、関東に聖徳太子とともに遊牧民やペルシア系の人が来日したという説を唱えています。羊という姓の郡司が建てた多胡碑の存在、「万葉集」の若麻績部羊、大伴子羊、「続日本後紀」の犬養羊があり「羊という人名は関東地方に多い名であることが分かる」。さらに正倉院御物の羊木臈纈屏風は羊を中央に大きく配し、後方に種々の動物を置いた構図はゾロアスター教に起源があるという伊藤義教氏の意見、多胡碑が多くの胡人の碑を意味し、「江談抄」「二中歴」という本に数世紀前に滅んだ波斯(ペルシア)国語の数え方が書いてある。われわれが「サアサア、どうぞ」というサアはペルシア語で最初の意味であり「先ずは、どうぞ」といっていたことになる(1)(210ページ)など、羊の有無は直接触れてはいないけれど、羊を知る人々の存在について興味深い見方を示しています。
 ▲大杉さんは邪馬台国は四国山岳部説に立ち、牛馬はいないと「魏志倭人伝」が書いたのは「山上の国には牛馬がいなかったのである。稀に野生馬が山上に上ることがあっても、すぐ駆逐されたのである。それは、いのちより大切な山上の溜め池の水を飲んだり、何処ででも糞尿を出して、池の水を汚すからである」(1)(32ページ)と述べています。
 △菊池さんの本は早稲田大学オープンカレッジ講義の記録で、早稲田学院本庄高校の佐々木幹雄さんが「邪馬台国への道程 倭のクニグニとその風景」で講義しています。佐々木さんは「虎、豹、羊がいないと言うのは、まあ理解できるとして、牛、馬がいないということにはいろいろ意見があります」といい、出土例からみて馬は「『倭人伝』の記述も郡使の見聞としてはあながち間違いではない、といっていいかと思います。牛も大方馬と同じに考えられております」(1)(43ページ)と記録されています。さらに魏国の風俗・植物・動物についての質問に対し、中国の北にあった魏の都洛陽や朝鮮半島にいた中国の役人が日本にきて自分の国と比べてみて、中国の南の風土によく似ていると理解したのではないかと指摘しています。
 ●東さんは、推古7年の記録などで羊が棲みついたと即断してはいけない。ニュージーランドに羊1つがいが初めて入ったのは1773年だが、すぐ死んだ。羊が定着したのは、その60年後だった例を挙げ「伊豆海島風土記」などの記録から「江戸時代より少し前くらいから羊や山羊は或る地方では日本に生息していたことになる」(1)(193ページ)と書いています。
  

参考文献
上記の出典はいずれも原本、出版社と発行年月は下記の通り。
長瀬=平成15年3月、長瀬修己、相見=同14年10月、講談社、藤田=同12年10月、論創社、岡崎=同15年5月、第一書房、佐原=同15年7月、岩波書店、山田=同元年9月、教育社、今岡=同4年6月、今岡純雄、吉岡=同11年4月、東京経済、古代阿波研究会=昭和53年6月、新人物往来社、後藤=平成15年9月、朝日新聞出版サービス、三木=昭和63年2月、新人物往来社、鋳方=昭和20年10月、河出書房、小林=平成3年12月、文藝春秋、大杉=同4年12月、たま出版、菊池=同8年5月、雄山閣出版、東=同10年9月、明石書店


 ざっとみてきましたが、どなたも倭国、邪馬台国に羊は存在したと断定していない。「魏志倭人伝」は間違いだという決め手がないんですね。そうなれば生物学の方から何かいえないのか。芝田清吾著「日本古代家畜史の研究」は、畜産学では家畜とは主として生産性のある動物に限り、純粋な愛玩動物は含ませないのが普通だと定義しておき「本著で論述する古代家畜は、前項の定義が一層狭められ、緬羊と山羊とを除外した」(2)と、けんもほろろの門前払い、羊は足切りです。犬、猪、猫は日本の古代家畜であるけれども、羊と山羊は違うとオミットしています。
 野沢謙さんと西田隆雄さんが書いた「家畜と人間」は、犬、山羊、牛、豚、馬、鶏、猫を取り上げ、羊は山羊の項で「ついでに寄り道をしてヒツジに触れておこう」。そして曰く「東アジアはヒツジ飼育に見るべきものはなく、わが国においても在来種飼育の歴史はない。戦中と戦後の衣料資源不足の時期に輸入品種が一時的に頭数を増したが、1950年代後半を境として、羊毛が安価に輸入されるようになったことと、化学繊維の普及という二つの原因によって、ヒツジ飼育は急速に衰微し、ほぼ消滅したといってよい状態になっている」(3)。ずばりいってくれます。羊が消滅状態になっているその国の人たちが、羊の肉を焼いて食べるジンギスカンが好きだとなるから変だよなあ―といいつつ、そのジンギスカンのルーツを研究するジンバ学があるなんて。ますますわけがわからんですよねえ。
 でも、東大におられた正田陽一さんとその仲間5人による「人間がつくった動物たち」という本は、やはり羊は取り上げていませんが、ちょっと違っています。仲間には、いまいった野沢さんと西田さんも入っているんですね。そして、正田さんが牛と豚、野沢さんが馬と山羊、西田さんが鶏を取り上げ、残りの3人が犬、猫、兎、マウスとラット、それに分子の進化を論じています。
 まず正田さんは「はしがき」で「日本にも弥生時代(あるいは縄文時代?)から牛や馬が飼育されていた」(4)と書き、さらに牛について「弥生期に入ると牛骨の出土例は数を増して」(5)くるとして、登呂遺跡などの例を挙げ「いずれにしても、これらの遺跡の牛は、大陸から渡来した中国牛、朝鮮牛の一種であって、古代わが国にも野生していたオーロックスやバイソンを家畜化したものではない。弥生時代の飼牛の存在が確実であるとすれば、三世紀の西日本を記した『魏志倭人伝』の『其ノ地ニハ牛、馬、虎、豹、羊、鵲 無シ』という文章は誤りということになる」(6)と述べているのです。
 野沢さんは、日本在来馬の起源について、遺伝子組成からの推論として、体格と遺伝子組成の相関はまったく認められず、遺伝的相関関係の枝分かれ図からみれば朝鮮半島からだけ受け入れたと仮定すると十分に説明がつく。だから自分はそのように想定しているけれども「これが絶対に誤りないとと断言するだけの自信はまだない」(7)と書いています。
 また、正田さんは豚の章で「魏志倭人伝」に触れ「当時、家畜としての牛・馬が日本にいないというのは明らかに誤りで、馬は縄文末期から、牛は弥生期から飼われていたことは、遺跡からの出土で明らかにされている。おそらく数が少なくて目に入らなかったのであろう。この文中に豚(猪)・犬・鶏の字のないのは、当時(三世紀)の日本(北九州の一部分)に、これらが飼われていたことを示すと考えてよい」(8)と言い切っています。これら家畜を考察した3冊も「魏志倭人伝」と同じように判定すれば、みんな▲印ですよね。残念ながら、羊は無視されていたのです。
 これまでのところ、日本で山羊はともかく、遺跡から羊の骨も角も見つかっていない。埋まっていそうないというのが現状でありますから、私も「魏志倭人伝」の3世紀には、邪馬台国に羊はいなかった。羊が現れるのはもっと後の時代だと潔く認めて、先へ進むことにします。
  

参考文献
上記(2)は芝田清吾著「日本古代家畜史の研究」15ページ、昭和44年3月、財団法人学術書出版会=原本、(3)は野沢謙・西田隆雄著「家畜と人間」175ページ、昭和56年3月、出光書店=原本、(4)は正田陽一編「人間がつくった動物たち」はしがき、昭和62年6月、東京書籍=原本、(5)と(6)は同34ページ、(7)は同71ページ、(8)は同117ページ


 さて、いよいよ細川潤次郎が「本邦牧羊」で指摘した2点の検討に移ります。やはり年代順で「貞観十二年、小野春風が兄春枝が献ずる羊の革甲を使い警備に充てるよう奏上した」という方からいきましょう。ワープロですと「かぶと」「よろい」どちらでも甲の字になるので弱るのですが、直木孝次郎ら訳注「続日本紀」をみましたら、甲は「よろい」であり「かぶと」は冑と書き分けてありましたので、私の講義の速記もそれに従いました。
 「日本歴史大事典」で小野春風を引きますと、結構詳しく載っています。羊の革甲という武器との関連も調べなければならないので、まず春風の経歴を引用して資料その3(1)にさせてもらいました。それから、その下の引用文(2)は春風の名が出てくる「日本三代實録」の一部です。羊革甲という言葉の出現を見てもらうだけだから、横書きとし、返り点なども省いてあります。(3)は、その後半の訓読文。漢字には全部振り仮名があるのですが、皆さんが素直に読めそうもないものだけにして、略してあります。こういう本があると、漢文に弱い私としては助かりますなあ。

資料その3

(1)おののはるかぜ 小野春風 生没年不詳 九世紀前半の廷臣。従五位上石雄の子として武門の家に生まれた。陸奥権守などになった春枝の弟で驍勇抜群、ことに元慶の乱で力を発揮したが、歌才もあり『古今和歌集』に作歌二首がある。貞観十二年(八七〇)従五位下対馬守となり、甲胃の機能を補うため「保侶衣」千領と、軍粮補給を便利にするため納糒帯袋千枚を調布で作ることを奏請許可され、間もなく肥前権介を兼ねた。やがて左近衛将監になったが、讒言をうけて免官家居していた。元慶二年(八七八)秋田城下に叛夷の乱がおこるや、難局打開のため摂政藤原基経が起用した出羽権守藤原保則の推挙で鎮守府将軍に登用され、陸奥権介坂上好蔭とともに精兵を率いて現地に下り、夷語に明るい特技をも生かし単身賊地で説得にあたり、奏功、降伏した賊首七人を伴い秋田城下に至った。(以下略)
 参考文献 『大日本史料』一ノ二、昌泰元年十一月一日条、新野直吉「元慶の乱」(『秋大史学』一五)  (新野直吉)


(2)日本三代実録巻17 貞観12年3月

〇十六日戊辰、従五位下行対馬嶋守小野朝臣春風進起請二事、其一曰、軍旅之儲、啻在介冑、介冑雖薄、助以保呂、望請、縫造調布保侶衣千領、以備不虞、其二曰、軍興不虞、倍日兼行、転餉易絶、輜重重難給、望請、以調布縫造納糒帯袋千枚、可帯士卒腰底、以支急速之備、詔從之、以大宰府庫布造充之、○廿六日戊寅、勅、以忠子女王為女御、○廿七日己卯、以甲斐守從五位下清原眞人長統為右京亮、従五位下行加賀介高階眞人菅根爲甲斐守、従五位上行陸奥介小野朝臣春枝爲権守、鎮守將軍従五位下御春朝臣峯能爲介、將軍如故、治部少輔従五位下藤原朝臣貞高爲加賀介、従五位下行対馬守小野朝臣春風為肥前権介、対馬守如故、散位従五位下小野朝臣國梁爲日向守、○廿九日辛巳、従五位下行対馬守兼肥前権介小野朝臣春風奏言、故父従五位上小野朝臣石雄家羊革甲一領、牛革甲一領、在陸奥國、去弘仁四年、賊首吉彌侯部止彼須可牟多知等逆乱之時、石雄著彼甲、討平残賊、厥後兄春枝進之、望請、給羊革甲、以充警備、帰京之日、全以進官、詔許之、其牛革甲給陸奥権守小野朝臣春枝、(以下略)

(3)上記の○廿九日分の現代語訳
○廿九日辛巳、従五位下行対馬守兼肥前権介小野朝臣春風奏言(まを)しけらく、『故父従五位上小野朝臣石雄の家の羊革甲(ひつじのかはのよろひ)一領、牛革甲一領、陸奥國に在り。去る弘仁四年、賊首吉彌侯部止彼須可牟多知等(きみこべのとひすかむたちら)(そむ)き乱れし時、石雄彼の甲を著て残賊を討平しき。()の後、兄春枝、之を(たてまつ)れり。望請(ねが)はくは、羊革甲を(たまは)りて警備に(あた)り、帰京の日に(また)くして(つかさ)(たてまつ)らむ』と。(みことのり)して(ゆる)し給ひ、其の牛革甲は陸奥権守小野朝臣春枝に給ひき。(以下略)

  

参考文献
上記の資料その3(1)の出典は国史大事典編集委員会編「国史大事典」第2巻893ページ、昭和55年7月、吉川弘文館=原本、同(2)は佐伯有義編「六國史 巻八 三代實録巻上」435ページ、昭和5年7月、朝日新聞社=原本、同(3)は武田祐吉、佐藤謙三訳「訓読日本三代実録」497ページ、昭和61年4月、臨川書店=原本


 小樽商大の学長を務めた加茂儀一さんは自著「日本畜産史 食肉・乳酪編」の中で、羊革甲に「かぶと」とルビを付けていますが、後で出くるように甲は領、冑は枚で数えていますし、ここは一領ですから「よろい」でしょうねえ。佐伯さんの本と黒板勝美さんの「国史大系第四巻 日本三代実録」を比べてみますと、たとえば、おしまいの方の「石雄著彼甲」が黒板本では「石雄着彼甲」となっているなど、いくつかの字の違いが認められます。
 春風が作ろうと16日に提案した保呂(ほろ)とは、幌馬車の幌ではなくて、いうなればスーパーマンやバットマン、日本アニメならアンパンマンやガッチャマンの背中に認められるひらひらしたあれ。「図録日本の合戦武具事典」を見ましたら「扶桑略記」の寛平6年の条に、新羅の賊徒からの分捕り品として保呂が記されているから「中国や朝鮮半島の戦士は保呂を着用していたことがわかる。おそらく防寒と僅かではあるが矢石攻撃に対する防御のためと、裾のひるがえったりすることで軍容を増したので用いたのであろうが、日本でもこれ以前から異国の風俗を真似て保呂を用いていたことは確かである」(9)として「日本三代実録」の春風の提案が論拠になっていましてね、ちょっと当てはずれ。「古今要覧稿」は「新羅国にてもかゝかものをもちひけるにやさらば皇朝にても是を用ひらるゝもはじめは新羅などよりうけつたへられけんも志りがたし」(10)と書いています。
 まあ、保呂は税金として納めさせた調という布でつくるのですから、ジンパ学としてはこれぐらいにして、羊の革製らしい甲を追いましょう。小野春風は東北育ちで、出羽の反乱を起こした俘囚どもの言葉、蝦夷弁とでもいいますか、それに通じていて蝦夷弁で説得に努め、やがて平定に成功します。三善清行が書いた「藤原保則伝」によればですね、春風は「甲冑を脱ぎ弓竿を弃てて、独り虜の軍に入り、具に朝の名を宣ぶること、皆公の意のごとし」(11)つまり無手勝流だったというのですから、羊革の甲は単なる指揮官としてのアクセサリーだったかも知れませんよ。
 この反乱が治まった後、夷虜に焼かれたり盗まれた出羽国の軍需物資について朝廷に報告が送られています。それには「革短甲三百四十七領、冑五百卅二枚、鉄鉢一百五十七枚、革鉢五十枚、木鉢三百廿六枚」(12)が含まれているんですね。私はこれら鉢がわからなかったのですが、福田豊彦さんは「九世紀後期の元慶の出羽俘囚の反乱で焼かれた秋田城の武器をみると、(よろい)はいずれも皮の甲、(かぶと)も六割が木の鉢で、鉄の冑は三割に過ぎません(『日本三代実録』元慶五年四月二十五日条)。北の国では、鉄はまだ貴重品だったのです。」(13)と自著「東国の兵乱ともののふたち」に書いています。鉄鉢、革鉢、木鉢の数を足すと533枚、冑の枚数と1枚違いですから、私はこれを読んで初めて鉢とはなにか理解しましたね。
  

参考文献
上記の(9)の出典は笹間良彦著「図録日本の合戦武具事典」224ページ、平成11年1月、柏書房=原本、(10)は国書刊行会編「古今要覧稿」136巻器財部419ページ、明治39年1月、国書刊行会=近デジ原本、(11)は山岸徳平ほか校注「日本思想大系8 古代政治社会思想」67ページ、三善清行著「藤原保則伝」、昭和54年3月、岩波書店=原本、(12)は武田祐吉、佐藤謙三訳「訓読日本三代実録」920ページ、昭和61年4月、臨川書店=原本、(13)は福田豊彦著「東国の兵乱ともののふたち」156ページ、平成7年2月、吉川弘文館=原本


 ジンパ学としては革甲とは何か、羊の革の流通が問題なのであって、単なる甲はどうでもいいようなものですが、ともかく甲冑の文献を当たらないと、その辺はわかりません。キーワード「甲冑」で検索すると、北大17冊、札幌市立40冊、道立28冊が出てきます。幸い末永雅雄著「日本上代の甲冑」という本に「続日本紀と三代実録及び延喜式等の記事」という1節がありましたてね、そこでは短甲<たんこう>・挂甲<けいこう>という甲が出てきます。
 おおまかにいうとですね、短甲とはチョッキみたいに腰から上だけの短い甲。体に対して防護材を横に巻き付ける形でできています。これに対して挂甲は兵士の埴輪に見られるスカートをはいたような形をしており、小札<こざね>という小さい防護材を縦に革ひもや組糸でつづり合せた甲です。この2種の甲は毎年諸国に割り当てて作らせていたのですが、唐から新しい形である綿甲<めんこう>が入ってきたのです。綿甲は、赤ん坊をおんぶするときに着るねんねこ、正しくはねんねこ半纏みたいな綿入れの甲で、裏側に防護材を縫いつけたりしていました。
 末永さんは「続日本紀」の原文を引用しつつ甲の考察を進めているので、そのように宇治谷孟訳「続日本紀」の訳文に置き換えて、末永説を要約してみましょう。
 天平宝字5年、唐国からの帰国者が「兵器の見本として甲冑一具・伐刀一口・槍一竿・矢二隻」(14)をもらってきた。その甲冑の様式は天平宝字6年の「東海・南海・西海など三道の節度使が用いる真綿入りの上着と冑をそれぞれ二万二百五十具宛を太宰府において造らせた。その製法はすべて唐国の新様式にした」(15)ことが、塗り分け方の記述などから推察できる。
 また同じ天平宝字6年に「真綿入りの甲と冑を一千領造り、これを鎮国衛(中衛府)の府に貯えた」(16)とあるから、綿甲冑がかなり模倣製作された。さらに延暦9年の「太宰府に命じて、鉄の冑二千九百余を造らせた」(17)上、その翌年、延暦10年の「鉄製の甲三千領を諸国に命じて、新しい仕様で修理させた。国ごとに数が定められた」(18)ことから、唐様式か、当時新たに制定した様式によるのかという問題はさておき、綿甲冑は従来の甲冑製造の転換を促したことがうかがえる。
 宝亀11年の「諸国の甲冑は次第に年月を経て、ことごとく皆さびを生じ綻び多くは用をなさないという。三年に一度の割で修理するのを例としていたが、修理する後から綻び、この上なく手間と労力を要していると聞く。しかし今、革の甲は堅固で久しく使え、身につけても軽くて便利である。また矢が当っても貫きにくい。その手間と日程を考えてもとりわけ作りよいものである。今後、諸国が造らせる一年間に必要な甲冑は皆革を用い、前例通り毎年見本を進上するように。ただし、以前に造った鉄の甲もいたずらに腐らせることなく、三年を経るごとに修理させよ」(19)という勅令は、従来の鉄甲から革甲へ移行しようとしたことを示す。
 革甲は作りやすく実用的なので、延暦9年「天皇は勅して、蝦夷を征討するために、諸国に命じて革の甲二千領を作らせた。東海道では駿河国より東の国々、東山道では信濃国より東の国々で、国ごとに数の割り当てがあり、三年以内にそれぞれの国に作り終わらせることにした」(20)とあり、多数の革甲作りを命じている。
 いいですか、末永さんはこう書いています。ここは原文の引用ですよ。「斯様な点から見れば、前に挙げた延暦九年の記事の如きは、鉄甲三十領の修理の新様に依ると云ふのは、唐より移入の新様式ではなく、目下奨励されつゝある革甲の様式に依ることを示してゐるとも考へられ、むしろこの方が妥当かも知れない」(21)と。あれ、鉄甲30領の修理、いつ出てきたのか、聞いてないヨーと、たったいま思った人は鋭い。
 そうなんです。末永さんの本は「鉄甲三十領」が2度出ているのを承知で、私が3000領の訳文に置き換えたので、ここでは30領は初めて現れた数字ですね。最初、宇治谷さんの訳がおかしいのかと、近代デジタルライブラリーで読める経済雑誌社編「続日本紀」を確かめたら3000領。直木さんたちの訳でも「鉄製の甲三千領を、諸国に命じ新しい仕様に従い整え備えさせた。その数は国ごとにきまりがあった」(22)となっています。延暦10年に、右大臣以下五位以上の官人に甲を作らせますが、最多で20領、その次が10領となっていますから、30領なら諸国に命じるほどの数ではなさそうですし、考えや表現が変わりそうな気がするのですが、別に驚いた様子もないので、末永さんは3000領で考察を進めたようです。それから、誤植ではここで引用しない事項の年号間違いも1つ見つけましたよ。
  

参考文献
上記の末永説の引用個所は末永雅雄著「日本上代の甲冑」190〜193ページ、昭和19年4月、創元社=原本、(21)は同192ページ、(14)は宇治谷孟訳「全現代語訳:続日本紀 中」271ページ、平成4年11月、講談社=原本、(15)は同279ページ、(16)は同435ページ、(17)は同「続日本紀 下」434ページ、平成7年11月、講談社=原本、(18)は同457ページ、(19)は同242ページ、(20)は同432ページ、(22)は直木孝次郎ほか訳注「続日本紀」351ページ、平凡社=原本


 ジンパ学では鉄甲より革甲です。それを短甲と挂甲のどちらの形式で作ったか。あるいは綿甲みたいな布革両方で別の甲を生み出したのかという問題について、末永さんは「三代実録」の損害報告や「延喜式」の記載内容から考えて、やはり短甲で、材料の鉄を牛革に代えたものと推察するほかにない(23)―といっております。話しただけでは鉄甲から革甲へ替わる経過がわかりにくいと思いまして、年表のスライドを用意しましたから、見て下さい。

スライド1 鉄甲から革甲への転換

西暦
761 天平宝字5年 唐の甲冑1具が届く
762 天平宝字6年 唐様式で甲と冑を2万250具作る
762 天平宝字6年 真綿入りの甲(綿甲)と冑を1000領作る
780 宝亀11年  甲冑は皆革を用い、鉄甲も3年ごとに修理せよ
          と勅令下る
790 延暦9年   蝦夷征討用に革甲2000領を作る
790 延暦9年   太宰府で鉄冑2900余を作る
791 延暦10年  位に応じて最多20領の甲を作れと勅令出る
791 延暦10年  鉄甲3000領を新仕様で修理した
878 元慶2年   夷虜の攻撃で革短甲342領、冑532枚など失う

 山上八郎著「日本甲冑の新研究」によれば、平安朝初期には短甲、挂甲、綿甲が併用されたけれど、唐との交通が途絶えた後は「文物凡て日本化せんとの趨勢に立ち至った」。さらに戦闘が激烈になったことから、儀仗と兵仗を区別し、儀仗用に挂甲がほぼそのまま伝わったが、兵仗用は革の挂甲をベースに独特の形に進化し、綿甲はまったく廃れてしまった(24)といってます。
 ついでですから、その革短甲一領をつくる材料が「延喜式」にあるので、それに羊の革なんか、全く出てこないところをスライドでちょっと見せましょう。

スライド2 資料その4 延喜式巻第廿六 主税寮上

革短甲一具料、鉄大二斤、牛革三張、並中、若大二張、 馬革、鹿革各一張、並大、 頸牒料帛一條、長一尺五寸、広一尺三寸、 調布一條、長三尺二寸、広一尺五寸、 綿一斤、縫頸牒料絲一分、苧二両、懸緒料鹿革五張、漆四升、絞綿二両、商布一尺、

 長さや幅について少し小さい字で示していますが、これは本文の1行の中に2行に分けて書いている個所なのです。また、返り点の入っているのは2文だけなので、原文通りにしてあります。末永さんは主な部分は牛革を張り合わせて作り、鉄は止めるための鋲や形を固定する支点に使ったと推定(25)していますが、懸緒がなにを指すのかは断定を避けています。こうなると、羊革なんか本当にあったのか疑わしくなりますよね。
 いまいった「日本甲冑の新研究」には動物質の材料として「牛、馬、羊、犬、猫、虎、熊、猪、犂牛、水牛、鯨、鮫、玳瑁、孔雀、山鳥、蚕」(26)とあり、立派に羊も認められているのですがね。その山上さんにしても論拠は「三代実録」なのです。ほかになかったのでしょうか。
 そこで甲の原料である皮なめしという基礎技術面からなにかヒントはないかと調べてみましたら、ずばり中野益男という化学者が「環境と食料生産」という本に、飛鳥寺に納めてあった挂甲の皮革はニホンジカと一致する脂肪酸組成をもち、その中には牛馬の脳に多く含まれるハイドロキシ脂肪酸が検出された。それでこの革は脳なめしと判定したと書いていました。中野さんによると、なめしの方法には北方ツングース系の脳なめしと古代アジアの糞尿なめしがある(27)というのです。そうなれば、脳なめしの技術書に羊革のことも書いてあるかも知れませんよね。山上さんの「日本甲冑の新研究」にも、革の小札の作り方として「安斎随筆」という本を引用し、牛革を膠入りの水に浸して置き、何枚か重ねて金槌でたたき、くっついたら干す(28)と説明していますが、固める技術であり、なめす話ではないのです。
 そこでまた検索です。永瀬康博さんが書いた「皮革産業史の研究 甲胄武具よりみた加工技術とその変遷」が道立図書館にあります。革甲の登場について蝦夷征伐のために急いで大量の甲が必要になった。それで1領作るのに220日もかかる鉄甲より、大幅に短縮できる革甲に切り換えた。当時から牛の脳漿を腐らせ水飴状になったなめし剤で鹿皮をなめした。そのなめし技術は昭和30年代まで使われていたそうですがね、羊革甲のことは触れていません。
 こうした経緯から、残念ながら小野春風の羊革甲は古文書から見てあったらしいとはいえますが、皮になる羊をどこで育て、どう加工して甲に仕立てたというようなことはまったくわかりません。ただ、永瀬さんは高度な鹿皮なめしの技術は7世紀後半に朝鮮半島から伝わってきた。当初は渡来人が技術を発揮した(29)と考証していること、小谷さんは「羊と山羊」で「山羊の皮は厚く緬羊の皮は薄し」と書いていますから、こうした渡来人が連れてきた山羊で作った甲という仮説は成り立ちますが、現場主義を標榜するジンパ学からの羊革甲の追究はもう限界です。ちょっと甲の話はしつこかったかな。

  

参考文献
上記の(23)の出典は末永雅雄著「日本上代の甲冑」193ページ、昭和19年4月、創元社=原本、(25)は同193ページ、(24)は山上八郎著「日本甲冑の新研究」上巻130ページ、昭和17年11月、飯倉書店=原本、(26)は同229ページ、(28)は同597ページ、資料その4は虎尾俊哉校注「神道大系 古典編十二 延喜式(下)」204ページ、平成5年8月、神道大系編纂会=原本、(27)は佐原真・都出比呂志編「環境と食料生産」214ページ、中野益男「残存脂質分析法による解析」、平成12年3月、小学館=原本、(29)は永瀬康博著「皮革産業史の研究 甲胄武具よりみた加工技術とその変遷」151ページ、平成4年12月、名著出版


 また細川潤次郎の指摘に戻ります。もう一つの「醍醐天皇の延喜五年、諸国の司に獣皮を民部省に差し出すよう命じ、武蔵の国が羊皮を送っている」を調べてみたのですが、これもお手上げしました。何に書いてあるのか皆目わからない。「醍醐天皇御記」「詔勅集」など醍醐天皇と延喜年間のことが書いてありそうな本を、求めよ、されば与えられん―と探しましたね。いろいろやってね、偶然にも電子掲示板の「2チャンネル」で羊を取り上げているのを見つけ、その中に黒川真頼(まより)という人が書いた「工芸志料」という本が出所らしいとわかったんです。あのあまたあるスレの中には、こんな真面目なのもあるとはね。初めて知りましたよ。私のメモに「日本紀略と羊」がキーワードだったと残っているのですが、いま、それでは見つからないので、どなたの書き込みだったのかわかりません。ともあれ「工芸志料」の巻5、皮工の部の関係部分を資料その5とし引用しました。

資料その5

○延喜五年 一千五百六十五年 醍醐天皇制シテ諸国ヨリ調貢スル所ノ革ハ信濃国ハ緋ノ革五張上野国ハ緋ノ革十五張ト定メ以テ主計寮ニ収メシメ其ノ他ハ諸国司ニ命ジテ物ヲ以テ相易へテ諸皮ヲ民部省ニ輸サシム鹿皮ハ伊賀、尾張、遠江、伊豆、甲斐、相模、武蔵、上総、常陸、信濃、陸奥、出羽、能登、因幡、出雲、美作、備前、備中、安芸、阿波、伊予ヲシテ輸サシメ鹿ノ子皮ハ讃岐ヲシテ輸サシメ猪皮ハ伊豆ヲシテ輸サシメ牛皮ハ甲斐、相模、常陸、信濃、上野、下野、越前、加賀、能登、越中、越後、太宰府ヲシテ輸サシメ羊皮ハ武蔵ヲシテ輸サシム 当時羊ヲ外邦ヨリ輸サシメテ牧養セシコト以テ見ルへシ
 (クタシ)皮ハ上総ヲシテ輸サシメ洗革(アラヒカハ)ハ上総、常陸、信濃、下野ヲシテ輸サシメ雛文(ヒキハダノ)皮ハ下総ヲシテ輸サシメ膠皮(ニカハ)ハ近江ヲシテ輸サシメ独犴(ヱゾイヌノ)皮ハ陸奥、出羽ヲシテ輸サシメ熊皮ハ出羽ヲシテ輸サシメ葦鹿(アシカノ)皮ハ陸奥、出羽ヲシテ輸サシメ(サメノ)皮ハ但馬ヲシテ輸サシメ(タヌキノ)皮ハ太宰府ヲシテ輸サシム(後略)

 北大にある「工芸志料」は明治11年10月、博物局から発行、国会図書館の本は明治10年12月、発行地、発行所不明となっていますが、どちらにしても同じ本でしょう。細川潤次郎が「本邦牧羊」を書いたのは明治19年ですから、これを読んで書いたと思われます。黒川真頼を検索しますと、トップは「天長節」の作詞者、次が美術史の研究者と出てくる国学者です。皆さんは知らないでしょうが「今日の吉(よ)き日は 大君の うまれたまいし 吉き日なり」と始まる歌でしてね。私たち昭和の子供は、4月29日の天長節にこの式歌を歌ったものです。でも、この歌は明治24年末の文部省指示で歌い始めたらしいから、そのころは我々が「明治節」の式歌を歌った明治節の11月3日に、これを歌ったはずですよ。
 「本邦牧羊」の出所はこれでいいとしても、まだ醍醐天皇がいつ、どのような形で武蔵国は羊の皮を出しなさいと命令されたのか、はっきりしません。ましてや「当時羊を外邦より輸さしめて牧養せしこと、以って見るべし」といわれても、これでは何を証拠にしたものか皆目わからん。資料その5の民部省への皮または革は延喜式の交易雑物の割り当てに当てはまりますし、この後に「又別貢と称して馬及び牧牛皮を献ぜしむ」(30)と続き、そこに挙げられている国名は「延喜式」の年料別貢雑物と一致するのですが、羊の記載はないのです。
 「延喜式」の索引を見ましても羊の項には羊脯(ひつじのほじし)、羊肉の干物ですよ。それと零羊崎神社と羊神社の3項目(31)しかありません。それで捜索範囲を広げ、黒川真頼全集の「美術篇・工芸篇」「歴史篇・風俗編」「制度篇・考証篇」、武蔵国関係で府中市史編纂委員会による「古代中心武蔵国関係史料集」「府中市史に関する講演集」、東京都編の「東京市史稿 産業篇」第1巻、土田直鎮著「古代の武蔵を読む」などを当たりましたが、 連戦連敗でした。加茂さんも「日本畜産史 食肉・乳酪編」を書くために資料を子細に調べ、いずれ触れますが「日本書紀」の羊の字の入った単語の検出までしていますが、この武蔵の羊皮には言及しておりません。
 醍醐天皇の羊にいつまでもこだわっておられませんので、私としては残念ながら、またもや、これもペンディングのまま、講義を進めざるを得ません。この黒川真頼の羊輸入・飼養説を裏付けるレポートが提出されたら、私は高く評価しますよ。もちろん私は探し続けますが、皆さんもできたらこの調査に取り組んで下さい。
 ところで「延喜式」の羊脯が出たついでに、何のためか説明しておきしましょう。これが書いてあるのは釈奠(せきてん)祭料の中でありまして、いろいろ難しい字もあるので口でいうよりスライドで見せましょう。釈奠と釈尊(しゃくそん)は字が似ていますが、意味は全く違いますからね。はい、上から2行目に羊脯がありますね。

釈奠祭料

石塩十顆、乾魚二升、鹿脯卅斤、鹿醢一升、魚醢一升、豚■<月篇に白>一升、鹿五臓一升、脾析葅一升、羊脯十三斤八両、代用鹿脯、糯米四升、大豆、胡麻子、乾棗子各二升、黍子四升、栗黄一斗一升、榛人、菱人、芡人、韮葅、蔓菁葅、芹葅、笋葅各二升、葵葅九升、塩一升五合、醤三升、三牲宍各一頭、鹿一斗五升、大羹料、鹿一斗、醯料

 この釈奠とは、孔子を祭る大典のことで広辞苑によれば、日本では大宝元年(701年)に初めて行われた(32)以来毎年2月と8月に営まれました。これらのほかにカツオやアユなどさまざまな水産物も同祭別供料として定めてます。祭料はこうした供える量や品目は後漢で始まった釈奠に見習っていると思われます。おしまいの方にある三牲は、ここでは何々を指すかはっきりしませんが、左近衛府と右近衛府の三牲には「大鹿小鹿猪各一頭。加五臓」と定義されています。広辞苑には「孔子の釈奠に供える大鹿・小鹿・豕の総称」とあり、宍(しし)は肉のことなので、羊肉は含まれていないのですけれど、もう一つ、礼記という書物に従ったお供えだったとなると生け贄は牛と羊と豕(33)になり、羊が含まれてきます。もし羊がたくさん飼われていたらですよ、ビーフジャーキーじゃない、燻し抜きのシープジャーキーの原料や生け贄に事欠かなかったと思いますが、どうですかね。羊脯の代わりに鹿脯でもいいと注のように小さな字で書いているのは、黒川説の「外邦より輸さしめて牧養せしこと」はあったにしても、まだまだ頭数が足りなかったのではないでしょうか。
 加茂さんは、羊脯があるのは日本のどこかで羊が飼われていたからに違いない。「日本三代実録」に陸奥国の羊革甲のことと、反乱分子を「犬羊狂心」と書いている。「従って当時陸奥地方では羊が飼われ、そしてまた、その肉も食用にされていたように思われる。そして『式』の前記の『羊脯』のあとに『代用鹿脯』とあるが、これは羊肉がどこでも手に入らなかったからである。従って羊はある特定の地方で飼われ、そしてそれを飼っていたのは、おそらく昔から羊の肉を常食にしていた帰化人の子孫であったと思われる。」(34)と大胆な推理を展開しています。
 加茂さんの羊飼育説の論拠とするのは「三代実録」だけなんですね。もし黒川の「工芸志料」も読んでいれば、武蔵にいた帰化人の子孫が作る羊脯でもよしとなり、武蔵以北の羊飼育・食用説になったんじゃないでしょうか。いずれにせよ、加茂さんは黒川の根拠でもある武蔵・羊飼養という史料は見ていなかったと思いますよ、はい。
 また、宮城栄昌さんの「延喜式の研究」をみますと、釈奠祭の形式は唐の釈奠行事をまるまる取り入れたもので、宮中だけでなく薩摩など国単位でも行われていた。ところが左右近衛など諸府の三牲は鮮度の低いものを供えることもあったらしく仁和元年11月に「定められた通り新鮮な三牲を供えなさい」とお言葉が出ている(35)んですね。もう180年近く続いているので、かなり礼法が崩れていたんでしょうね。
 時間が過ぎていますね。この羊脯、どんな風に作ったか。古代中国の農業技術書「斉民要術」にありますから、それを紹介して終わりましょう。脯は乾し肉で、腊と書くと丸干し肉になります。冬、牛、羊、鹿、ノロの精肉を薄切りにして冷水の中で押し揉みする。水が血で濁らなくなるまで続ける。別に山椒の粉を入れた塩水を用意し、洗い終わった肉片を2晩漬けた後、日陰干しにする。肉に湿り気があるうちに棒で軽くたたいて肉質を引き締めるというのが「斉民要術」の「作度夏白脯法」(36)で、訳本では「夏越しのすぼし肉」と書いてあります。これを13斤、8キロぐらい作るとすれば、羊が何頭入り用だったのか。きょうはわからないことがたくさんありましたね。では、終わります。
 あっ、黒川の甲考察を忘れていました。もう一言。黒川真頼全集に「日本古代甲冑説」という論文が収められています。黒川さんは経津主神(ふつぬしのかみ)が天孫降臨に先立ち大八島国を偵察したとき「常陸風土記」の記録から「甲を着給ひしこと著名なり」、これが甲の初見といっています。「太古の甲は革を以て作りし所のものにて、鉄製のものにはあらざるべし、故に経津主神の着給ひしも、亦革甲なること疑なからむ」と。要は革甲が先で鉄の甲は後から起こった。支那もまたしかりだといっています。
 それから神武天皇が日向を出て大和に入るとき甲冑があったかも知れないけれど、東征に先だち甲冑を作ったと古事記、日本書紀にはない。あったとしても革製だったろう。九州の方は大和ほど鉄の加工技術が進んでおらず、兵士も石の剣を持っていたことからそういえる
(37)と書いていました。はい、本当に終わります。
  

参考文献
上記の資料その5と(30)の出典は黒川真頼著「工芸志料 下」5巻皮工7ページ、明治11年10月、博物局=原本、(31)は皇典講究所全国神職会「校訂延喜式 索引」210ページ、平成4年6月、臨川書店、スライド「釈奠祭料」は虎尾俊哉校注「神道大系 古典編十二 延喜式(下)」369ページ、平成5年8月、神道大系編纂会=原本、(32)は新村出編「広辞苑 第4版」1238ページ、昭和51年12月、岩波書店=原本、(33)は同924ページ、(34)は加茂儀一著「日本畜産史 食肉・乳酪編」174ページ、昭和51年4月、法政大学出版局=原本、(35)は宮城栄昌著「延喜式の研究 史料編」431ページ、昭和30年3月、大修館書店=原本、(36)は賈思勰著「斉民要術」148ページ、平成9年10月、雄山閣出版=原本、(37)は黒川真道編輯「黒川真頼全集」第3巻344ページ、「日本古代甲冑説」、明治43年5月、国書刊行会(非売品)=原本