はい、始めます。まず、お断りがあります。前回、黒川真頼の羊輸入・飼養説を裏付けるレポートを書いたら高く評価するといいましたが、あれは取り消します。理由はですね、私が道立図書館で黒川説の根拠を書いた本を見つけたからです。もうレポートに書いても駄目ですよ。きょう欠席した人に、あのテーマは取り消しだと教えてやってください。
その本というのは、以前信州大におられた梶島孝雄という生物学の先生が書かれた「資料日本動物史」です。北大にもあることはあるのですが、図書館ではなくて文学部某研究室の方に置かれています。いま、それらを引用したきょうの資料を配ります。はい、この列は少ないな。資料その1の(1)が梶島さんの書かれたことです。
資料その1
(1)国史大系本の『延喜式』民部下の交易雑物には、武蔵国の条に「履料牛皮二枚」とあるが、原本には「羊皮二枚」とあり、『工芸志料』はそれを引用して「当時外邦より輸さしめて牧養せしこと、以ってみるべし」としている。これらの記事は、平安初期にすでに東国で羊を飼育していた事を示すものではあるまいか。『延喜式』には以上のほか大膳上の釈尊祭料に「羊脯十三斤八両」があるが、これは割註にあるように鹿脯で代用されている。
(2)延喜式に、武蔵国より羊皮二枚、羊脯十三斤八両代用鹿脯とあり、夫より承平、承保、承暦、承安等の年間にも羊を進めし事を載せたれども、煩雑に渉るを以て今之を略す、(後略)
(1)の文中に「これらの記事は」とあるのは、この前に、上野国多胡郡、いまは群馬県多野郡だが、そこの吉井町に和銅4年、西暦711年に建てた多胡郡の由来の石碑にですね、羊の字の入った人名らしい文字列が彫ってある。それから弘仁4年、818年には小野春風が羊革甲を着たいと願い出ている。もっとも梶島さんは甲というより防寒具とみておられますがね。それに加えて「延喜式」の羊皮2枚があるではないか。だから「平安初期にすでに東国で羊を飼育していた事を示すものではあるまいか」(1)と、梶島さんは加茂さんよりは控え目におっしゃるわけです。石碑のことはまた、改めて話します。
それで、明治26年に田中芳男が学士会院で講演した「羊の話」を読み返してみたらですね、ちゃんと(2)のように書いてあった。私としたことが見落としていました。こうなると、黒川だけが、たまたま羊皮二枚となっている「延喜式」を読んだのではない。明治の中ごろまでは、そう書いてある本が当たり前だったかも知れないと思いますよね。
梶島さんの「資料日本動物史」は、資料とうたうだけあって詳しい索引が付いています。わがジンパ学の出典表記は、それをはるかに上回りますがね、おっほん。ともあれ索引から「国史大系本」は「国史大系26」を指すとわかる。どうも「国史大系」というシリーズの第26巻に「民部下の交易雑物」が載っているらしい。
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参考文献
上記資料その1(1)の出典は梶島孝雄著「資料日本動物史」597ページ、平成9年2月、八坂書房=原本、(1)も同596ページ、同同、資料その1(2)は東京学士会院雑誌第15編の8(復刻版)382ページ、田中芳男「羊の話」、昭和52年9月、鳳出版=原本
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検索しますと「国史大系」は3回出版されたことがわかります。明治30年から経済雑誌社が出した17巻、これは国会図書館の近代デジタルライブラリーで読めます。「延喜式」は13巻にあり、違いますね。念のために見ましても何も註釈はありません。2回目が、昭和4年から國史大系刊行會と吉川弘文館が発行した「新訂増補国史大系」で、この26巻が「交替式・ 弘仁式・ 延喜式」なんです。北大のそれの交易雑物の項を見ましたら、梶島さんの指摘通りでした。
欄外に「○牛、原作羊、拠閣本林本京本改」(2)と載っています。凡例に従うと、これは内閣文庫所蔵本、雲州家校本所引林本、雲州家校本所引京本を参考にして、原本の羊の字を牛に改めたという註釈です。校注者の黒板勝美という偉い先生は、原本の羊という字を信用しなかった。では原本は何かというと「今享保八年の板本を以て底本とし」金剛寺、一条侯爵家、九条侯爵家などたくさんの本を参考にしたと凡例に記しています。欄外に書いてある2冊の雲州家本というのは「雲州松江藩主松平齊恒齊貴父子二代七年の日子を費して校訂上木せるものにして」「亦本書の校勘に資したる所多し」(3)、大いに雲州本を参考にしたというのです。
検索しますと北大の貴重資料室には、享保8年に出版された「延喜式」がありますから、それを拝見してみました。帙入り、本物の和紙で和綴じ、開いただけでありがたくなるような本ですよ。広げるとほぼB4、1行18字で1ページ16行の字詰めでね、はっきり楷書体で「履料羊皮二枚」(4)とありました。コピーは畏れ多いので、由来をメモしてきましたが、慶安元年の戸部法印道春、享保8年の出雲寺蔵版などは黒板さんの底本と同じと思われるのです。
なぜ黒板先生は、26ポイントぐらいの大きな字で書いてある羊の字を牛に書き換えたのか。間違いとした根拠は何だったのか。雲州本をみればわかるかと探しましたら、近代デジタルライブラリーにありました。松平斉恒訂「延喜式考異」の第5冊28コマ目が「考異巻第二十三」でした。そこには、「○牛皮 同行同国 牛。刻本作羊。林京二本作牛。」(5)としかありません。牛皮の次に出てくる「同行同国」は割註です。
その意味するところを説明しましょう。これは松平齊恒・齊貴が底本にした「延喜式」の武蔵国の交易雑物が出てくるページの右から3行目に「龍鬚席卅枚」があったんですね。「延喜式考異」では、武蔵国のトップにこの鬚の字を取り上げて8行にわたり考察しています。「羊皮二枚」は底本ではその「龍鬚席」と同じ行にあるので「同行同国」と断っているのです。北大の享保8年出雲寺蔵版では「龍鬚席」の位置は、右から3行目で当てはまりますが「羊皮二枚」は4行目にありますから、黒板さんの底本と同じでも、やはり松平親子の底本は別物だということですね。
ちょっと龍鬚ですがね「訓蒙図彙」を見ましたらイグサの絵に「一名龍鬚草」とあり、席はムシロの意味ですから、今のゴザのような敷物だと思いますね。
刻本とは版木に彫って印刷した書物、手で書き写した本、写本に対する呼び方です。ここでは松平の底本です。「延喜式考異」のあちこち見ても何々本と明記していないようなのですが、黒板さんの本は「羊」と書いてあるのに、林京という2冊は「牛」と書いている。だからここは「牛皮」が正しいとした。雲州本をとても頼りにした黒板さん編集の「延喜式」の凡例では、林本は雲州家校本所引林本、京本は雲州家校本所引京本(6)を指しています。多分、これは雲州本の表記を転用したものであり、「考異」の出典にも通用すると思うんです。内閣文庫所蔵本という本は見ておりませんけど「牛皮」なんでしょう。それから「延喜式考異」も「牛皮」だというし、黒板さんは「羊皮」に目をつぶり、あっさり「牛皮」に書き換えちゃった。そう考えざるを得ませんよね。
それでいて「延喜式考異」は大膳式にある「羊脯」はノータッチなんです。皮はないとしたのに乾し肉があるなんて変ですが、初めから鹿脯で代用できることになっているのだから、そのままでも構わんと考察しなかったのかも知れません。
こうなると、ぜひ内閣文庫所蔵本という底本き見たいと思いますよね。そこで国立文書館のデジタルアーカイブを調べました。キーワード「延喜式」で64件出ますから、それを作成年月日順に並べ直してみます。
すると先頭は慶長年間、45冊、旧所有者は紅葉山文庫です。次から写本が並び、6番目から15番目まで慶安元年作成で50冊のものが9組と25冊のもの1組が並びます。50冊組の旧所有者は内務省3組をはじめ農商務省、教部省、外務省各1組というお役所と個人です。25冊のものは紅葉山文庫でした。ですが、そこまででおしまい、公開はしていますが、画像はないのです。
すぐ閲覧申込書は作れますが、現物は私が文書館に出かけなければ見られないのです。残念、上京して調べるまで確認はお預けです。こういう点、北大は恵まれていません。しゃあない、東京へ出る機会を待とう。そうだ、ジンギスカンでも喰うか―なんて、ついつい研究のピッチが落ちてしまいますよね。もし私が東京か首都圏にいたら見えざるライバルがもう国立文書館に走っているかも知れんぞ。思い立ったが吉日、すぐいってみようとなります。この差、緊張感とスピードは無視できません。のんびりした北大気質でやっていると、いろいろ遅れを取ることになりかねません。社会人になったら、なおのこと。万事クイック、速攻の精神を忘れてはいけませんぞ。
16番目から27番目までは文政11年に出た1組61冊の松平「延喜式考異」で、やはり旧所有者はお役所がほとんどです。慶安本よりこちらが多いのですから、両方を読んだ役人は羊皮を牛皮に書き換えた根拠は知っていたはずです。それから東大、国立博物館、國學院大の図書館が「延喜式」の画像を少し公開していますが、羊皮に関係ないところばかりです。
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参考文献
上記の(2)の出典は黒板勝美編「新訂増補国史大系 交替式・ 弘仁式・ 延喜式」26巻592ページ、昭和12年11月、國史大系刊行會と吉川弘文館=原本、(3)は同「凡例」1ページ、同同、(6)は同「凡例」6ページ、同同、(4)は藤原忠平ほか撰「延喜式」巻25民部省下、享保8年、出雲寺=原本、(5)は松平斉恒訂「延喜式考異」第23の10ページ<28コマ目>、出版年不詳、岡田屋嘉七=近デジ本=原本
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でも、この羊皮を探していて、トリビアルなことが二三見つかったので、それを少し話しましょう。
その1つは「日本書紀」に山羊という単語がカマシシ、羚羊を指して2回使われていることです。「日本書紀索引」にも書いてあります。まず巻24にある山羊は、皇位を継ぐはずだったのに蘇我入鹿に見捨てられて、結局は自殺した山背王(やましろのみこ)を暗示するといわれます。いつもぼさぼさの白髪頭だった山背王をからかって「米だにも、食<た>げて通らせ、山羊<かましし>の老翁<おじ>」、おじいさん、せめて焼き米だけでも食べてゆきなさいな―と歌いかける童謡の一部なのです。「古今要覧稿」は羚羊の項でここを取り上げ「歌麻之々能鳥膩<カマシシノヲジ>」という原文を載せています。このカマシシに山羊という漢字を当てはめているのですね。いろんな「日本書紀」を見ましたが、校注者に関係なく皆、山羊なんです。
「魏志倭人伝」関係で紹介した東平介さんなんかは「『日本古典文学大系』の『日本書紀』の現代訳に、山羊と書いてカマシシと読ませている。現代の史学者さえも、動物分類学を熟知しないと、羚羊と山羊とごっちゃにしている。カマシシは山羊ではない。羚羊である」とズバリ指摘してます。もっとも東さんの父親、動物学者東光治さんは「万葉集」の柿本人麿の「高山の岑行くししの友を多み袖振らず来つ忘ると念ふな」のししは羚羊であり、鹿猪とする通説を覆した(7)方です。親子二代のカマシシストといったら悪いかな。
もう1つは、巻29の中です。「壬戌に、皇太子より以下と諸王卿、并せて四十八人に、羆皮・山羊皮を賜ふ。各差有り」(8)。続きからみてこの壬戌は天武天皇の11年3月19日のことです。ここでも草壁皇子からの山羊皮に「かまししのかは」と振り仮名が小島憲之さんらは振り仮名を付けています。
ともあれ、なぜ山羊の字が出てくるのか。そんなに例えに使われるほど、山羊が身近にいたのでしょうかねえ。そのあたりの解説はないかと探しましたね。そして一つだけですが、答えを見つけました。たくさん古代史の本を書いている坂本太郎さんの「歴史と人物」に「カモシカと山羊」という一編があったんです。先生も気になっていたのでしょう。
坂本さんは「日本書紀」ではカマシシに山羊を当てたけれども、その後に出た「延喜式」ではカマシシノツノに零羊角という字を使っている。「その方が適切だと考えたからであろう」というのです。「日本書紀」の編者は「山に棲む羊というくらいの意味」で使ったのだろう。「日本紀略」の弘仁11年の項に新羅人が羖■<羊扁に歴>羊(黒色の羊)二、白羊一、山羊一、鵞二を進めたという記事があるが、この山羊はカモシカではあるまい。日本特産のものを新羅人が贈るはずがない。ヤギかヒツジの一種か、書紀の山羊とは別物と見るべきだろう。「漢字には羊を扁にした多数の文字があり、羊の色の相違、牡牝の別で、文字を変えているようである。けれども中国にはカモシカはいないのであるから、それを示す文字のできるはずはない。書紀の編者が山羊でその場を凌がざるを得なかったゆえんである」(9)と、その文を結んでいます。私は、山羊は間に合わせ表現だったというこの見解を読んで、ちょっと安心しました。
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参考文献
上記の(7)の出典は東平介著「十二支で語る日本の歴史新考」189ページ、明石書店=原本、(8)は「新編日本古典文学全集4」、小島憲之ほか4人校注・訳「日本書紀3」450ページ、平成10年6月、小学館=原本、(9)は坂本太郎著「坂本太郎著作集」11巻284ページ、吉川弘文館=原本
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でも、本当にそうなんでしょうか。「古今要覧稿」は■羊という字をカモシカに当てています。■は氈<せん>の異体字で、鹿の下に霊の旧字体の上半分、雨の下に口を3つ書く。霊の字の上半分は雨乞いを表すから鹿が雨を求めるのかね。とにかく昔の人は漢名はこういう難しい字だとしています。下手でも字は書けるのだから、たまには板書しましますか。はい。これがカマシシのカマで、この下に羊を書いてカマシシと読ませているんです。
それから「日本三代実録」に「犬羊」という単語が2度出ることです。加茂儀一さんも自著「日本畜産史 食肉・乳酪編」でこれを指摘し、特定地方で羊を飼っていたという論拠の一つにしています。辞書を引きますと、これは犬と羊、またはいやしい者とかつまらん者どもという意味とあります。
1回目は訓読本でみますと「犬羊の狂心、暴悪を性と為す。追討を加へずば何ぞ懲乂する有らむや。」(10)。あの連中の本性はたちが悪いから追いかけて征伐しないで何をするというのか―というくだりに出てきます。もう1回は、陸奥出羽の両地は異類群居して、我が人民を殺し町を焼き払うなど治安が悪く「遂に犬羊をして流離して巣穴に安ぜず、干戈揺動して時に風塵を為さしむ。」(11)。反乱分子はやりたい放題に暴れ回り、制圧しなければならなくなった―というところです。広辞苑によれば、犬羊は特に賊徒をののしっていうそうですが、どうして犬羊がそういう意味になったのか。日本では犬は身近にいたとしても羊は怪しいから、やはりこれも唐あたりから入った表現なのでしょうね。
3つ目は醍醐天皇の詔勅を調べていて、島津久光編「通俗国史」の延喜3年10月の項に「二十日 丁亥 唐人景球。羊及ビ白鵞ヲ献ル」(12)とあるのを見つけたことです。念のため以前の講義で示した木宮泰彦さんはどう扱ったのかと「日支交通史」を見直したら、ちゃんと載っていました。「遣唐使廃絶後の日唐交通」の章の年表に「延喜三年十一月廿日に唐人景球等が羊一頭白我鵝五角を献じてゐるから、景球等は恐らくこの年に来朝したものと思ふ。」(13)とあり、出典は「扶桑略記」と「日本紀略」を挙げている。「日華文化交流史」も同文で、加えて「文献に徴すべきものゝうち、予が眼に触れたものゝみであるから、実際に於てはなほこの他にも来往の船舶は少なくなかつたことはいふまでもなく、その交通が案外に頻繁であつたことが窺われる」(14)と断ってあるのですから、さすが専門家、見逃していませんでした。
ではこっちも再確認と。国会図書館の近代デジタルライブラリーの「国史大系」にある「扶桑略記」と「日本紀略」を見ました。「扶桑略記」ではどうも見つからなかったのですが「日本紀略」後編1の782ページに「○十月廿日。大唐人献羊白鵝」(15)とありました。11月と10月の違い、頭数は底本の違いでしょうね。
さきほど講演「羊の話」の一部を資料に引用して配りましたが、私の知る限りでは、この田中芳男という博物学者は、和漢の書物に現れる羊と山羊はごっちゃになっており、ほとんどが山羊とみられるという羊・山羊混同説を初めて唱えた人ですね。
田中さんは「羊の話」で、武蔵国の羊皮が記載されている「延喜式」のほかに「本朝世紀」など15冊の和書における羊の記述をそれぞれ紹介し、羊の絵が載っているのは寺島良安の「和漢三才図会」と、広川獬の「長崎見聞録」の2冊だけだ。「以上諸書の中に図を載せたるは唯和漢三才図会と、長崎見聞録とのみなれども、尚次に載する諸書には羊の図あり、但大抵は漢書に拠て模するもの多からん」(16)と話しましたが、正しくは「長崎聞見録」ね。この15冊の書名を資料その2(1)に挙げておきましたが、講演ではこの本はこんなふうに書いてあると、いちいち説明したのです。
資料その2(1)
和書の部
本朝世紀 水左記 玉海
本朝食鑑 舜水談綺 大和本草綱目
三才図会 詩経名物弁解 風来六部集
和訓栞 伊豆海島風土記 長崎見聞録
本草纂蔬 本草綱目啓蒙 本草紀聞
(うち図付きは、三才図絵、長崎見聞録)
ほかに和書で図付き
訓蒙図彙 増補訓蒙図彙 毛詩品物図攷
漢書の部
爾雅 通雅 埤雅
駢雅 三才図会 本草綱目
帝鑑図説 毛氏名物図説 西清古鑑
唐十二支鑑 陸氏詩蔬図解 五経図彙
増広太平和剤局方 図絵宗彛
(うち図付きは、毛氏名物図説、西清古鑑、唐十二支鑑、五経図彙、増広太平和剤局方、図絵宗彛)
資料その2(2)
訓蒙図彙(二百廿年前)羊ひつじ、俗云やんぎう、羊牛の唐音なり(第三図)云々 綿羊今按むくひつじ云々、此後百廿三年の後に出版せる増補頭書訓蒙図彙には、前の羊二種を並べて図したり、其図様は改良してあれども、其品たる初版の著に異ることなし、但し是は漢書に拠るものとは思はれず、此綿羊図(第五図)は天保三年図するものと稍似なり、毛詩名物図攷(天明五年なれば百九年前)に羔羊の図を載す、ヤギの図なり、曰く羊生海島為綿羊剪毛作氈、此云索異那哥理、
資料その2(3)
第三 緬羊 ひつじ(原熈著「実用教育農業全書第八編」より)
羊ハ維新以前ニアリテハ本邦殆ント絶エテ之ヲ飼牧スルモノアラズ当時世人ノ呼ビテ羊ト称セルハ緬羊ニハアラズシテ大抵山羊ノ事ニテアリキ實ニ本邦ニ始メテ緬羊アルヲ致タセルハ明治ノ後ニアルナリ
資料その2(4)
維新前江戸の山羊(村上要信著「山羊飼方」より)
昔本邦にて羊と云ひしは緬羊にあらずして山羊なりと思はる予が江戸にて山羊と緬羊と飼養せしを見しは四十五六年前文久年代にして旧幕府の雉子橋厩構内南方の一隅にありし白牛酪場牛舎の東側に於ける一棟の羊舎のうちなり(此地は現今の仏蘭西公使館ある所たり)此頃は山羊と緬羊とを混称して羊と呼びしものゝ如し爾後山羊と緬羊を区別して山羊をヤギ緬羊をラシヤメンと云へり又五十五六年前安政年間の香具師にして屡々山羊を引き連れ巡り天然痘の重症を免るとて其祈祷をなし咒に山羊を用ひしことありて此咒は一時流行せり
因に曰く瓊浦に支那人の齊らせし山羊は数百年前のことにして年代詳かならず又支那産のヤギを島山羊と唱へし時代亦明かならず
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参考文献
上記(10)の出典は武田祐吉・佐藤謙三訳「訓読日本三代実録」790ページ、昭和61年4月、臨川書店=原本、(11)も同802ページ、同同、(12)は島津久光編「通俗国史 第1冊巻之1」49ページ、岩崎宰、明治45年3月=近デジ本、(13)は木宮泰彦著「日支交通史」201ページ、大正15年9月、金刺芳流堂=原本、(14)は木宮泰彦著「日華文化交流史」127ページ、昭和30年7月、冨山房=原本、(15)は経済雑誌社編「国史大系第5巻 日本紀略後編」782ページ、明治30年12月=近デジ本、(16)は東京學士會院編「東京学士會院雑誌」第15編之8・388ページ、田中芳男「羊の話」から抽出、明治26年9月、東京學士會院=原本、資料その2(1)は同380ページ、田中芳男「羊の話」から抽出、同同、同(2)は同同388ページ、同同、(3)原熈著「養畜篇」130ページ、明治25年9月、博文館=近デジ本、(4)村上要信著「山羊飼方」75ページ、明治40年7月、村上要信=原本
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「本朝世紀」と「水左記」は「百練抄」と一緒に前の講義でやりましたね、3、4寸ばかりのしっぽが動くと。覚えてますか。どちらも900年以上昔のことでした。それから小野の「本草綱目啓蒙」も資料で渡しました。
「和漢三才図会」は北大図書館の開架にある緑色の東洋文庫に収められていますから、本を見てほしいが、どう見てもヤギです。また「長崎聞見録」が入っている「長崎文献叢書」の第1集第5巻は研究室にいっていて、すぐ見られませんので、都立中央図書館で調べた長崎文献叢書の「野牛<やぎうとルビ>」をスライドで見せましょう。ひげの生えた牛みたいです。とくに尻尾がそう見えます。田中さんはあっさり「其図は全く今のヤギなり、」といっています。これを描いた広川獬は「毛色はミな白色なり。よく人に馴て、食ふに忍びざるものなり。(17)」と説明し、絵にも「羊の類なり 漢名未詳 野牛和名也」と註釈を付けているのが、わかりますね。
はい、資料その2(2)を見る。田中さんが「訓蒙図彙」の羊について語ったくだりです。この羊には「やう」と振り仮名がありまして、それに続けて「ひつじ俗云やんぎう羊牛之唐音也」(18)うんぬんと説明がありました。つまり「訓蒙図彙」が出た1666年、寛文6年ごろは羊牛と書いてヤンギュウとも呼んでいたことがわかります。「東京学士會院雑誌」の原本が北大図書館に保存されていますから、その絵のページをスライドで見せましょう。一番上が書いてあるように(三)が「訓蒙図彙」の羊、真ん中が同じく「訓蒙図彙」の綿羊、一番下が「増補頭書訓蒙図彙」の綿羊です。
ここで、なるほど納得―と、素直に引き下がらないのが現場主義です。本当に田中さんの話通りなのか、寛文6年版を復刻した「訓蒙図彙」と寛政元年に出た「増補頭書訓蒙図彙」の図と比べてみました。どちらも北大図書館にある本です。「訓蒙図彙」の羊は巻12に52種類の畜獣の中にあり、綿羊はその附、附録ですね、附の中に野猪など12種類の中に入っていました。架空ので動物も混じっています。「増補頭書訓蒙図彙」は和綴じ10巻の本で帙入り、第1巻の目録で畜獣は5巻の12、65種類の中にありました。
そうしてみると「訓蒙図彙」の羊は、説明文にヨウ、ヒツジと、俗にヤンギュウと読むとして、真ん中の綿羊は「めんやう」と振り仮名があり「今按ずるにむくひつじ夏羊胡羊」(19)うんぬんと解説していました。それより123年後に出た一番下の「増補頭書訓蒙図彙」の綿羊、正確にはポーズが違うけど「めんよう」と振り仮名があり、それに「むくひつじ」と付け足していました。
また「増補頭書訓蒙図彙」の綿羊の絵にある説明文は、底本にはないので、田中さんが付けたらしい。「按ずるにチベットカシミア山羊か」ですね。それから「増補頭書訓蒙図彙」はページ毎に解説欄があり、綿羊と並べて書いてある髯のある羊、ひつじについて「○羊ハ柔毛の畜なりよく群をなりよつて群の字ハ羊に志たがふ○綿羊ハ羊の毛の長きものをいふ夏羊胡羊と同」(20)と説明があったのです。やはり田中さんが触れていない内容があったのです。ついでですが「毛詩品物図攷」という本も北大図書館にあるので確かめましたら、いまならヤギと呼ばれる絵に「○羊生海島者為綿羊、剪毛作■<毬の求の代わりに亶を入れた字>、此云索異那科哥埋<末尾6字にサイノコマと振り仮名>」(21)などと書いてありました。
ここに並べた羊と綿羊の絵から、田中さんはどうやって「以上の説と図に拠るときは、単に羊と云ふはヤギの如く、綿羊<むくひつじ>と云ふ西藏<ちべつと>種加是弭兒<かしみあ>山羊の如し、是れ其形状、髯、声、等総てヤギの徴あるなり、」(22)と断言できたのでしょうか。たった4頭の図しかないのにですよ。
東大におられた正田陽一さんはズバリこう書いています。「実は尾が短くて上へはね上がっているのがヤギ。ヒツジは長い尾が垂れているので簡単に見分けられる」(23)と。それを頭に置いてこれらの絵を見直すと、ヒツジといいきれる尻尾の持ち主がいないことがわかりますね。「中国の十二支動物誌」という本によれば「羊の尾では尻を隠しきれない」という言葉がある(24)そうです。この羊も正確にはヤギなんでしょうね。
三浦朱門、曾野綾子、河谷竜彦3氏の対談集である「聖書の土地と人びと」には、出エジプト記に出てくるほど羊の脂尾がおいしい。アラブの食通は6キロも脂肉が付いているその尻尾を食べる。淑女の曾野さんをして「お尻のところにベロッと脂の袋を下げているわけね」(25)といわせているのです。私は羊のしっぽを食べたことはありませんが「中国美味礼讃」という本には「羊の尾の肉は白身が主であるが、脂っぽくなく、噛むとぎしぎしときしむようで、非常に滑らかで、うまみが胃袋のなかだけでなく、心のなかにも滑り込んでいった。(26)」と表現しています。アラブの羊も同じかどうかはわかりませんが、そんな食感なんでしょう。
田中さんはさらに資料に示した中国本から羊という絵8枚と山羊という絵1枚を抜き出し「殊に羊に長髯公、髯鬚主簿、胡髯郎、等の異名あるは、其髯あるに依る等、益ヤギの如く思はるゝなり」(27)といい「以上諸書の図を見るときは、皆ヤギの種類とすべし、」(28)と判定を下したのです。
でも、これら中国の書籍の中でも西暦1607年に出た「図絵宗彛」の胡羊と山羊の絵だけは違う。この胡羊は揚州綿羊であり、山羊はヤギだ。そして松岡玄達の「本草綱目図翼」に載せた「羊の図はこの山羊三疋の中二疋を抄出したるものなり何故山の字を省きたるや訝かし」(29)と指摘し、胡羊と山羊をひっくるめた絵を講演で示しました。次にその絵をスライドで見せます。ひざまづいて乳を飲んでいる子羊を含む上の角のない3頭が胡羊で、下の角のある黒と白とぶちの3頭が山羊と説明しています。
図絵宗彛<北大図書館所蔵「東京学士会院雑誌」第十五編之八から>
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参考文献
上記(16)の出典は「長崎文献叢書」第1集第5巻、廣川獬著「長崎聞見録」7ページ、昭和50年5月、長崎文献社=原本、(17)は近世文学書誌研究会編「訓蒙図彙」626ページ、昭和51年1月、勉誠社=原本、(18)は同640ページ、同同、(19)は中村タ齋纂輯・下川辺拾水画図「頭書増補訓蒙圖彙」5巻之11、寛政元年、九皐堂=原本、(20)は岡元鳳著「毛詩品物図攷」巻5、天明5年、出版者不明=原本、(21)
(22)は東京學士會院編「東京学士會院雑誌」第15編之8・390ページ、田中芳男「羊の話」、明治26年9月、東京學士會院=原本、(23)は正田陽一著「家畜という名の動物たち」94ページ、昭和59年2月、中央公論社=原本、(24)は鄭高詠著「中国の十二支動物誌」244ページ、平成17年3月、白帝社=原本、(25)は三浦朱門、曾野綾子、河谷竜彦共著「聖書の土地と人びと」75ページ、平成13年12月、新潮社=原本、(26)は阿堅・車前子・洪燭著・鈴木博訳「中国美味礼讃」29ページ、平成15年5月、青土社=原本、 (27)は東京學士會院編「東京学士會院雑誌」第15編之8・390ページ、田中芳男「羊の話」、明治26年9月、東京學士會院=原本、(28)は同392ページ、同同、(29)は同392ページ、同同
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日本では100年ほど後の元禄15年に復刻版の「図絵宗彛」が出ているので、それを見ますと、実はこれらの羊と山羊の絵は別々のページにあったものを講演のプレゼン用に巧みにまとめ、縦2行になっている「羊羔跪乳 胡羊囓草」も元の絵では別々でした。また「学士会院雑誌」の絵はお手本の書名を「図絵字彙」と間違えていますね。
ともかく田中さんは「右胡羊の図に拠るときは、其他の羊とは全く異なりて、今云ふ揚州綿羊の形なり、故に単に羊と云ふものと、我国にてヒツジと呼び来るものは、共にヤギの種類にして、今云ふヒツジには非るが如し、ヤギの種類は肉食にも乳用にもなり、其毛は毛氈に適すれども織物にはなり難き種類多し、」(30)という結論を導き出したのです。
ほかにも同じ考えの人がいました。ちょっと前に戻りますが、資料その2(3)の原熈がそうでした。農山漁村文化協会が「明治農書全集8」に復刻版を収めています。検索しますと、原は東大農学部で造園学を教え、明治神宮の造園に関わったことがわかります。村上要信も明治40年に出した「山羊飼方」に、昔の人が羊といった動物は山羊だと思うよと書いています。資料その2(4)がそれです。まだ緬羊と山羊の区別があいまいだったという証言です。真駒内の牧場から清国産の数頭の黒山羊が逃げ出して、真駒内川の上流で野生化しているのを見て「予亦山羊の稟性を実験上に推知するを得たり」とあるのでわかりますが、村上さんは真駒内にあった北海道庁立種畜場の2代目場長でした。
それからもう1人ですね、日本じゃ昔からヤギと羊と呼んできたらしいと唱えた明治の人がいたんです。それは誰あろう、幕末の羊飼育関係のことを調べ、アメリカに渡航し、その際「稿本は大日本農會へ寄贈せり、同氏は其後帰朝したるも、再び校定するの暇なく、物故するを以て、未だ世に公にするに至らざるは遺滅のことなり」(31)と、田中さんを残念がらせた加藤懋<つとむ>その人だったのです。
私が、その稿本がどこかに残っているのではないかと検索しまくりましてね、国会図書館で見つけたのです。図書館の書籍データベースが整備され、インターネットで検索できるようになったお陰でありますよ。札幌にいて、全国のこうした記録を探せるようになってきたのです。研究者にとってこんなありがたいことはありません。本探しの労力が省けるのですから、もっと研究のスピードを上げなければ申し訳ないのですぞ。
いや、それだけではありません。自分で探さず、他人の説をちょこちょっと手直しして書くような調べ方は、もはや許されない時代になっていることも意味するのです。
さて、加藤が書いた稿本は「本邦牧羊事跡考」という書名で存在していたのです。マイクロフィッシュでなくフィルムで9コマのものでした。その書き出しが資料その3なのです。よく見て下さい。
資料その3
本邦ニテハ往昔ヨリ山羊ヲ単ニ羊ト唱エヘ来レルモノゝ如シ而シテ山羊ハ古来本邦及ヒ諸島ニ蕃息セシモノト見ヘ伊豆大島九州地方ニハ今尚ホ山野ニ生息スルモノ尠カラス享保寛政ノ頃ニハ屡次大島々民ヨリ山羊数頭ヲ幕府ヘ献上セシコト旧記ニ見ヘタリ又延喜式ニ載スル所ノ羚羊角ハカモシカノ角ヲ指シタルモノト知ラルゝナリ故ニ山羊及カモシカハ本邦固有ノ産タルコト明カナレトモ真正ノ羊ハ中古唐国阿蘭陀国等ヨリ舶来セシモノナルヘシ
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参考文献
上記(30)の出典は東京學士會院編「東京学士會院雑誌」第15編之8・395ページ、田中芳男「羊の話」、明治26年9月、東京學士會院=原本、(31)は同402ページ、同同、資料その3は加藤懋著「本邦牧羊事跡考」1ページ、明治初期の写本、出版地不明=国会図書館所蔵写本マイクロフィルム
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この加藤説は、国内の遺跡から羚羊の骨は出土しても緬羊、山羊らしい骨は見つからない事実からみて大胆すぎるとしても、生物学者、歴史学者、国語学者それぞれが長い間、避けてきた羊という名詞の語源問題とヒツジ・イコール・ヤギという問題に決着をつけてもいい時期なのではないかと私は考えます。
いくら現場主義でも、ジンパ学なんですからそんな考察までしなくても許されるかも知れません。しかしですよ、私が調べた結果を皆さんに伝えれば、なんだ、それぐらいしかわかっていないのか。それなら、もう少し突っ込んでやろうかと、私のジンパ学を聞いて、この辺の研究に踏み出す人が現れることを期待してますぞ。だから世界観がおかしい、パーじゃないのかなんて、袋だたきに遇おうとも敢えて触れるのです。皆さんにも羊の由来と語源を熟考して欲しいのです。
さっきのことを思い出し下さい。坂本太郎は、新羅が献上した山羊は羚羊ではなく、山羊の一種ではなかったのか。日本にいるものを新羅人が贈るはずがないといいました。ところがどっこい、朝鮮半島にはいまも野生の山羊がいるんですね。大韓民国江原道庁観光政策課のホームページ<URLは http://210.179.205.122/jp/n/vn/nvn300_jp.asp >で、非武装地帯の山中に生きるゴーラル山羊の写真が見られます。現地では単にゴーラルと呼ぶこともあるそうです。黒い山羊と白い山羊、それにこのゴーラルを連れてきたので羖■<羊扁に歴>羊二、白羊一、山羊一、と記録されたと考えられませんか。
羊は中国語でも朝鮮語でもヤンになるのですが、日本ではヨウのほかに、似ても似つかぬヒツジという訓読みがあります。羚羊は日本書紀では山羊、延喜式では零羊と書かれていますが、読みは何々ヤンではなく、カモシシとかカマシシでした。シシは肉を意味するので、イノシシという名前でも使われています。明らかに羚羊とヒツジは見分けていたのですね。
広辞苑第5版を引くと、羊の語源は「ヒは『ひげ』、ツは『の』、ジは『うし』の意という」(32)第5版2248ページであり、山羊は「近代朝鮮字音ヤング yang の転」と書いてあります。面白いことに日本国語大辞典には9つの語源説があり、その5番目に「ヒはヒゲの意。ツは助辞。ジはウシ(牛)の略〔外来語の話=新村出〕」(33)と載っています。
京大教授新村出は広辞苑の編集者で知られた国語学者でした。仮にこれをヒゲツウシ説と呼び日本国語大辞典の通りなら、新村がヒゲツウシ説を考え出し「外来語の話」に書いたように受け取れますね。そうならなぜ新村本人が編集した広辞苑に「ヒは『ひげ』、ツは『の』、ジは『うし』の意」と断定しないで「という」を付け加えて、控え目なのか。ずばり理由をいえば、ヒゲツウシ説は新村が唱えたのではなく、借り物、引用だからなのです。
ヒゲツウシ説を提唱したのは、小倉<おぐら>進平という京城帝国大学の教授でした。小倉さんは6人兄弟の2番目ですが、6人とも大学教授、うち4人が博士とは珍しいと新聞記事になりました。(34)プリントの資料その4の(1)は、その小倉さんがヒゲツウシ説を唱えたと新村さんが「外来語の話」に書いた個所です。
資料その4
(1)又近年に在りては、白石・徂徠以後朝鮮語源と考へられてゐたトラ(虎)といふ語が、南方語として説明されるに至つたやうなこともある。或は又ヒツジ(羊)といふ語の如き、之も古くは朝鮮語と看倣されてゐたが、やはり近年小倉博士によつて、日本語で分析的説明を與へられてゐる。そのヒはヒゲの意味であり、ツは「の」であり、ジはウシ(牛)の略である。すなわちヒゲツウシといふ意味であるといふ。それに反してヤギ(山羊)といふ言葉は朝鮮語から日本語に入つたことが、同博士により考證された。外来朝鮮語のうちでも特に動植物の名称が、かくの如くにして次第に明になつてゆくであらうことは、我々のひそかに期待してゐる所である。
(2)これを要するに、今日までの研究では、ヒツジの語源はいまだ確かに分からないとすべきである。外来語源説はただ抽象的な理論ばかりであって、具体的には何らの根拠がない。「魏志」に「牛馬羊鵲なし」とあって、後世の日本語に見ゆるウシ・ウマ・カササギ、ともに皆朝鮮語に縁を引く。朝鮮語と同源だというよりも、むしろそれから借りたと見る方が当たっているのであるから、類推すれば、ヒツジも、朝鮮の古代方言であろうと信ぜられるのである。次に、その日本語源説に至っても、なお欠陥が多い。畢竟他日の証明に待つのほかはないのである。
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参考文献
上記(32)の出典は新村出編「広辞苑」第5版2248ページ、平成10年11月、岩波書店=原本、(33)は日本国語大辞典第二版編集委員会、 小学館国語辞典編集部編「日本国語大辞典第2版」第11巻332ページ、平成13年11月、小学館=原本、(34)は平野清介編「新聞集成昭和編年史」昭和10年度版34ページ、昭和42年7月、大正昭和新聞研究会=原本、資料その4(1)は新村出著「外来語の話」42ページ、昭和19年9月、新日本図書=原本、同(2)は新村出遺著刊行会編「語源叢談1」167ページ、新村出「羊の語源」、昭和51年6月、信光社=原文
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もっと、しつこくいきますか。なぜ「外来朝鮮語のうちでも特に動植物の名称が、かくの如くにして次第に明になつてゆくであろうことは、我々のひそかに期待している」と新村は書いたのか。新村は未年の大正8年の正月、京都の新聞に書いた「羊の語源」という随想の中で「ヒツジの語源はいまだ確かに分からないとすべきである」としたからだと私はみるのです。この「羊の語源」は、語源研究の流れをですね、とても要領よくまとめてあると思うので紹介しておきましょう。だいたいこんなことなのです。
魏志倭人伝にあるように日本には羊はおらず、推古天皇のときに百済から2頭献上されたのが最初の記録だ。だから獣名ヒツジは外来語だろうと新井白石は「東雅」、荻生徂徠は「南留別志」で唱えた。貝原益軒は「日本釈名」の中で、日本語で説明しようとしてヒツジは時刻の未時から出た。日が西へ下がり始める辻道「日の辻」と解釈し、谷川士清も「倭訓栞」で同じ説を唱えた。近世でもこの説を取る語学者がいるが、強引な解釈だ。
最近中山丙子が「郷土研究」に稲のヒツヂから転じたと書いている。ヒツヂは刈り取った稲の根から生える稲を指し、羊の毛も刈ってもまた生えるのは同じとみる。ヒツヂは源順の「和名抄」、狩谷棭齋の「箋注倭名類聚抄」に出てくる古い言葉だ。古代の日本で命名の由来とされるほど羊毛の刈り取りと再生が行われたかどうか再考の余地はあるが、従来の説では最も妥当な案といえる。
中山はヒツジは「ヒヅメ(蹄)」という語と関係ありそうだといっている。自分も「日本書紀」などにある羊蹄の古訓「シ(草の名)」と連想してみたが、関係が結びにくい。「ヒツジ」のヒツと「ヒヅメ」のヒヅが結びつくなら、羊髯による「ヒゲ」のヒと縁がありそうに思えてくる。また「ヒツジ」のツジは旋毛、回毛の意でつながらないか。「ツジ」は頭のツムジと思うだろうが、旋風もツムジというように毛に限らない。「ツジ」はそれでよいとしても「ヒ」が容易にこじつかない。
「ヒツジ」という訓の最古の出典は「正倉院文書」にある大宝2年(702年)の美濃と筑前の国の戸籍の人名だ。女は「比都自売」<ひつじめとルビ>男は「比都自」か「比津自」で、その他の国などでは大抵「羊」になっている。「推古紀」の「羊」の字も和訓でヒツジと読んだのだろう。
平安朝の歌集や物語にも希に「羊」が見える。「新撰字鏡」にはこのヒツジという和訓がなく「和名抄」には「比都之」または「比豆之」と書いてある。だから羊という獣が百済から入ったという推古天皇7年(599年)から100年ほど後では、十二支獣の名称として人名にも使われるようになり「和名抄」はさらに220年ほど後になる。要するに、今日までの研究では、ヒツジの語源ははっきりわからないとすべきだ。」(35)
新村さんが「羊の語源」に書いたことは、ざっとこんな内容でした。それは大正8年当時までの流れでした。でもその後、今さっきいった小倉のヒゲツウシ説が現れて、一応けりがついたのですね。新村は戦後出した本「語源をさぐる」の「庚寅の歳・虎の語源」の中で「ヒツジの語源に就ては、私も三回或は四回前の羊年に、その語源論を書いたこともある。又今からあまり古くなく、東京の大学の言語学の教授の小倉進平君も、やはり朝鮮語を以て解釈した。」(36)と書きました。これだと小倉も一時は朝鮮語説を唱えたようにも受け取れますね。
そこで「羊の語源」を読み直してみますと、おしまいの方に書いてあることが、資料その4の(2)なのです。これが新村が唱えた朝鮮語源説なのでしょう。なにしろ、新村さんは随筆などに植物のことはよく書いているのですが、動物は自分の好きな虎ぐらいしか取り上げていないのですから、これだといって差し支えないと思います。
新村の「庚寅の歳・虎の語源」は、その文中に「来年昭和二十五年は、世界の公暦一九五〇年というラウンド・ナムバーの年に当るので」」(37)とあるから、昭和24年に書いたことがわかります。と、なればですよ、昭和24年から見て「あまり古くなく」思える年に、小倉がそれまでの朝鮮語源説に代わるヒゲツウシ説を発表した。「外来語の話」で、新村がヒゲツウシ説を紹介したのですから、その前、つまり昭和19年夏より以前のことでなきゃならん。そうでしょう。
いいですか、小倉進平博士はヒゲツウシとして具体的にどんな動物を想定したのでしょうか。ヒゲのウシ、ヒゲに特徴ある家畜となると、すぐ思い浮かぶのは山羊ですよね。小谷さんの「羊と山羊」を見ますと、両者の髯の違いとして「山羊は顎凹に長髯を有すれども緬羊は之を欠く。尤も山羊にも全く髯なき種類なきに非ず。又山羊には咽喉部に二個の肉髯(肉垂)を垂るゝ種類あれども緬羊には全く之を見ず」」(38)とはっきり書いてあります。
小倉が示したヒゲツウシは、いまの山羊を指していなかったのでしょうか。新村のヒゲツウシ説明では、受け売りの引け目もあってか、その辺りをきちんと伝えていないので、まったくわかりません。ああ、いい忘れていましたが、資料その5がありますね。その(1)は荻生徂徠、それから(2)は貝原益軒の日の辻説の流れをくむ篠崎東海らの説です。いま説明したばかりの「羊の語源」の中で、新村は、これらは「牽強極まる語源解釈であつて、採用するに足らない奇説」といったのです。
資料その5
(1)一虎をとらといふ。羊をひつじといふ。此国になき物なれば、和名にあるべきやうなし。とらは朝鮮語なりといふ。さもあるべし。ひつじも、異国の詞なるにや。象をきざといふは、舟に刻みめをつけて、おもさをしりたるよりいふといへるは、異国の古事なり。いぶかしき事なり。豹をなかつかみといふは、歌書にもいはず。むつかしき詞なり。何ものゝ作りいでたる事ならん。
(2)一虎をとらといひ、羊をひつじと云。
◎則按、ヒツジト云和名ハ、十二支ノ末ヨリ出タリ。日中スル時ハ午ニドゞマリ。ソリヨリメグリテ末ニイタル。コノ故ニ日辻ト云意ニテ、未ノ字ノ訓ヲ付シナルベシ。辻ノ字ハ俗字ナリ。ツジトイフ事ハ、馬ノ旋毛ヲツムジト云、又ツジ共、辻ノ訓ニテ其意ナルベシ。
則按、蘭沼族、羽倉姓荷田、名在満、表字東進、日本釈明ノ説ニ蘭沼ニ同ジ。
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参考文献
上記(35)の出典は新村出遺著刊行会編「語源叢談1」167ページ、新村出「羊の語源」、昭和51年6月、信光社=原本、(36)と(37)は新村出著「新村出全集」第4巻291ぺージ、昭和46年9月=原本、(38)は小谷武治著「羊と山羊」431ページ、明治45年4月、丸山舎書籍部=原本、資料その5(1)は日本随筆大成編輯部編「日本随筆大成」第2期15巻20ページ、荻生徂徠著「南留別志」、昭和49年8月、吉川弘文館=原本、同(2)は同62ページ、篠崎東海等「可成三註」、同同
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私は小倉はヒゲツウシ説の発表に際して、必ず詳しくヤギを説明したはずだと思いました。「ヤギ(山羊)といふ言葉は朝鮮語から日本語に入つたことが、同博士により考證された」(39)と「外来語の話」で新村がはっきりと書いたことに注意してくださいよ。韓国ではサンヤンまたはヨムソと呼ばれる山羊が、どうして日本じゃヤギになったのかを説明しなきゃ受け入れられないでしょう。
初めは山羊を指していたが、緬羊の数が増えるにつれて緬羊も含むようになったとか、緬羊はその髯の周りが毛深くて見えないだけで、ヒゲツウシと呼んでいた山羊とひっくるめてもよいと考え、やがてヒツジになったとか―こんなのは思いつきの珍説ですがね、とにかくきちんと説明したと思います。でなければ、語源研究者が黙っているはずがありません。皆を納得させるのに十分な根拠を出した。それで新村は後に広辞苑を編集するに当たり、羊の語源に小倉のヒゲツウシ説を採用したに違いないのです。
では、いつ何に小倉は発表したのか。北大図書館に京大国語学国文学研究室編「小倉進平博士著作集」という4冊組の本があります。この4冊目にある著作目録に昭和6年1月に「京城雑筆」に書いた「朝鮮語の『ひつじ』と『やぎ』」という論文名があります。京城<けいじょう>というのは、いまの韓国のソウル市です。韓国が独立する前は、日本が朝鮮半島全体を統治しており、そう呼んでいました。そのころ小倉はその京城にあった京城帝国大学の国文の教授であり「京城雑筆」は京城雑筆社という京城にあった出版社が発行していた日本語の月刊誌だったのですね。
ヒゲツウシ説がそれに書いてあるかどうかは、まだわかりませんでしたが、昭和6年は未年。雑誌の編集者が「先生、未関係の原稿を正月号にお願いしますよ」と拝み倒したのではないか。だから触れている確率は大きかろうと、この雑誌を探すことにしました。
ところが、これが意外に難航した。国会図書館に1冊あり「京城雑筆」と同じ題名なんですが、京城にあった通信社の山県五十雄という社長さんの随筆集でした。webcatで検索したら東大の明治新聞雑誌文庫、正式には法学政治学研究科附属近代日本法政史科センターにたった1冊、昭和4年11月号が出ます。違うとは知りつつも、そこが現場主義。赤門のそばにある文庫に行き、雑誌はB5判ぐらいの横長とわかりました。
そこで私は韓国にこの雑誌が残っていないかと、ハングルが読めないのに韓国の図書館の検索を試してみました。結論をいいますと、国立図書館にあるけれども、昭和11年の第241号以降なのです。入り用なのは昭和6年1月号ですからね。でも、ここのホームページには、日本語のページもあるので使ってみました。でも日本語では10冊ずつしか表示されないし、それも書名以外の情報はハングルですからお手上げ。英語のページの検索窓に「京城」と漢字でキーワードを入れてみたんですよ。そしたら毎回何とかファイルをダウンロードするかと聞いてくるけれど30冊ずつ出てくる。しかも日本語で著者名や出版社名が読めることがわかりました。同じように大学図書館を検索しましたが、こっちはうまくいきませんでしたが、まあ、ダメモトで試してみるもんだと思いましたよ。
それでもう一度、国内を検索していて東京大学東洋文化研究所附属東洋学研究情報センターに行き着き、そのデータペースで山県五十雄著「京城雑筆」と一緒に、京城雑筆社編「京城雑筆」が2カ所にあるとわかった。その片方は調べ済みの韓国の国立図書館、もう片方が「斎藤実 第61号(1924.3)〜148号(1931.6)」と示されました。ただし欠号がかなりあって、昭和6年分は5月号と2月号と7月号以降がない。つまり1月号はあるはずでラッキー、もうアーメンラーメン、大助かりです。
その齊藤実なる場所へのリンクをたどったら斎藤實記念館<http://www.city.mizusawa.iwate.jp/htm/soshiki/syakai/kousui/index.html>という施設、市町村合併前は水沢市立、合併で奥州市となりましたので、奥州市立と変わった記念施設でありまして、そこの所蔵本だったのです。しかも斉藤実<みのる>じゃなくて、旧水沢藩出身で首相になった斎藤實<まこと>でした。斎藤は海軍兵学校に進み、海軍大臣になりました。旧南部盛岡藩出身の首相原敬に頼まれ、大正8年から10年ほど朝鮮総督を務めた。それで「京城雑筆」など朝鮮関係の蔵書が残っていたのですね。その後、第31代首相になり、内大臣のときの昭和11年、2・26事件で青年将校に撃たれて亡くなりました。
それで「京城雑筆」昭和6年1月号を捜してもらい、記念館のご好意で原文のコピーを頂くことができ、やっとヒゲツウシを捕まえましたね。ふっふっふ。日本国語大辞典のヒゲツウシ説の出典を訂正させるに足る立派な証拠ですよ。ただ、大辞典編集部はヒゲツウシ説が何に書いてあるか突き止められなかった。だから間違いは百も承知、あえて新村さんの「外来語の話」を挙げておき、必要なら読者自身が調べてよと仕掛けた―とね。好意的に解釈しているのですよ。なにしろ人柄が穏やかなんだ、私は。はっはっは。
はい、その正しい題名は「朝鮮語の『ひつじ』と『やぎ』―辛未の歳に因みて―」で肩書きは城大法文学部とだけ書いてあります。京城帝大だから京大にすると、京都帝大とまぎらわしいので、そのころは城大と略称していたのですね。400字詰め原稿用紙で12枚ほどの長さです。
さて、ヒゲツウシ説提起に至るまでの論旨をかいつまんで紹介しましょう。小倉先生は朝鮮で羊または山羊を飼い始めた時期の研究は私の専門外の研究問題だと、最初に断っています。でも「日本書紀」「日本紀略」の記録から「半島では日本よりも早くから羊、山羊を飼養して居たものであらう」し、朝鮮側の記録でも「多数の羊、山羊を大陸地方から輸入した記事が見えて居るから當時は既に半島内に多くの羊又は山羊が飼養せられたことを知るに足るであらう」といっています。
それから古代朝鮮では羊と山羊をどう呼んだかを考察し「恐らくは『ひつじ』は何れの時代を通じても字音양<音はヤン>を以て呼び之に対する訓が特に存在しなかつたものであらう。」とみた。これに対して山羊は「今日の朝鮮語では普通に염쇼(lom−so)といひ、文章語としては山羊又は野羊などといふ。」(40)と書いています。私は現場主義ですから、山羊がこの염쇼であるかどうか図書館の韓日辞典、日韓辞典を引いてみた。そしたらないんだ。違うんですねえ。弱りました。
염쇼ではなくて염소になっています。後ろの字はㅅの下が縦棒2本のㅛでなくて1本のㅗになっている。当然、発音もヨムショーでなくてヨムソと違うし、意味も違ってくるだろう。なぜか。小倉進平ともあろう権威が間違えるわけはない、てっきりハングルを知らない植字工の間違いか校正者の見落としだろうと思いました。でも辞書通り素直に論文の字を訂正していいものかどうか。あちこちに当たり、ネィチブでしかも大学で国文を専攻された方にご教示を願うことができました。それで小倉論文が出た当時は염쇼であったけれども、いまは短母音化しており、辞書は염소になっていると説明されましてね、安心しました。
でも現場主義なんですから、まだ終わらないのです。道立文書館で大正9年に朝鮮総督府が出した「朝鮮語辞典」を見つけたので、引いてみたら山羊は名詞、動物で산양であり「염소」に同じとあったんです。サンヤンはヨムソに同じ、大正9年でもヨムソと短母音に聞いた人がいたということです。
こうなると、迷いを生じますねえ。その辞書はハングルからも引けるので、ヨムソを見たら「山羊(羖[羊歴]・山羊・野羊・[羊原]羊。鄙語、염생이)」(41)とあった。鄙語は田舎の言葉の意味だからいいとして、その염생이が、大正時代のまま通じる名前なのかどうか、はなはだ疑問です。
そこで、知り合いに頼んで、ミクシーの翻訳コミュニティで質問してもらいました。ミクシーというのは400万人を超える会員同士をつないでくれるネットワークで、この中にも参加している人がいるでしょう。親切な方が数人質問に答え、염생이はヨムセンイと読み、いまも韓国の真中のあたりで使われている方言と教えてくれたそうです。ミクシーは、仲間づくりだけでなく、勉強にも役立つありがたい場でもあるんですね。その知人の話では、ジンギスカン関係のコミュニティだけでも400近くあるそうですよ。
なにしろこの염쇼<ヨムショー>は、小倉論文の最高のキーワードなんです。小倉さんは手許の6種の「千字文」を見ると、염쇼は山羊だけでなく羊の子、鹿の仲間のノロの子の意味とも書いてあり「要するに염쇼なる語が、古く『やぎ』の名称にも又『ひつじ』の名称にも用ひられた如く想像する外はないのである。」(42)といっています。
次いで염쇼の語源を考察しています。申景濬の「輿地考」には「厭水」とみているようだが、鄭東愈は「畫永編」で「髯牛」の意味だと強調したところを200字ほど引用しています。そして「『輿地考』の『厭水』は、恐らくは羊の悪湿喜燥(本草綱目時珍)の特性より思ひついた説であるだらうが、之に比すれば『畫永編』の『髯牛』説は遙かに條理あり、自然であるやうに思はれる。」(43)と髯牛に軍配を上げています。
「羊の悪湿喜燥(本草綱目時珍)」というのは、李時珍著「本草綱目」第50巻上にある羊の解釈をまとめた「集解」に見える字句です。ただ、小倉論文では火扁の燥でなくてね、さんずいなんです。それだと、洗うとかすすぐという意味になり、かわくとかかわかすことと違ってきます。これは鈴木眞海譯「頭註國譯本草綱目」では「その性湿を悪み燥を喜<このとルビ>み…」となっており、190年以上前の「本草綱目」でも、かわく方の燥で、誤植とわかりました。論語の「後生畏可し」をもじって「校正恐るべし」といわれますが、1字の誤植のせいで後世の私や司書の方が手間取りましたよ。
小倉はさらに髯を考察した。髯という字は頬ひげで「『やぎ』の領下にあるひげの名称としてはふさはしくはないやうに思はれるが、支那でも古く羊の異名を胡髯郎、髯鬚参軍、髯鬚主簿、長鬚主簿などいひ、ひどく髯、鬚等の文字の区別に拘泥せず単に領下にあるひげの特徴に重きを置いた形跡が見え、亦山羊の形体を牛に類似すと見ることも敢て不自然の考方ではないと思はれるからである。」(44)といっています。
領下という言葉が2度出ます。諸橋の漢和大辞典では「下げ渡す。払ひ下げる」の意味とありますが、ここはそうじゃないでしょう。田中さんは自著「動物学初編哺乳類」の山羊属で「牡ハ頷下ニ髯アリ上唇ニハ総テ毛ヲ生セリ」(45)と書いていますので、頷の誤植の可能性があります。「領」は首、襟、首筋を意味し、そこから首領とか派閥の領袖という言葉があるわけ。「頷」ならあご、おとがいだから「頷」の方がよさそうだというのはわかりますね。
こうして小倉博士は「一つの覚束ない仮定説を提供して大方の御叱正を仰ぎたいと思ってゐる」と、恐る恐る出したのがヒゲツウシ説。資料その6に引用した考えなのです。資料その4と読み比べてみなさい。
資料その6
それは國語の『ひつじ』は朝鮮語염쇼と語の構成を同じうして居るものではないかといふことである。即ち『ひつじ』の『ひ』は朝鮮語髯(염)に當る國語『ひげ』の下略、『つ』は『の』の義を有する國語の助辞、『じ』(し)は朝鮮語『牛』に當る『うし』なる語の上略ではないか、換言すれば國語『ひげつうし』(髯牛)の縮約せられた形ではあるまいかと推測する者である。勿論此際『髯牛』の義たる염쇼(或は염は前述の如く大陸語imaに縁ある語であるかも知れない。よしそれが其系統の語であるにしても古くから髯(염)なる語を単独にて『ひげ』の義に使用しつゝあつたと思はれる當時の朝鮮人は、直に之によつて髯を聯想し、髯字を以て語原の如く考へて居たと想像される)は朝鮮では『やぎ』となり、同じく「髯の牛』が國語では『ひづし』となつて、両語の間に『やき』、『ひつじ』の対立を見、相一致せぬ結果を齎すに至つたらうが、それは私に取つてはさほど重要な問題ではない。唯だ有髯たることによつて、其名を得たりとすれば足るのである。随つて私は『ひつじ』(ひげつうし)は必ずしも朝鮮語염쇼(ひげうし)の翻案意訳に成るものであるとまでは言ふ必要を認めない。『ひげつうし』なる語は、其の形体によつて日本人の独自的に命名したものであるかも知れず、若しそれが朝鮮語と何等かの關係あるものとするならば、實物と共に염쇼なる語が輸入せられた時(염쇼なる語の初めて文献にあらはれて居るのは、私の狭い見聞では『四聲通解』、『訓蒙字會』位のやうに思はれるが、事實はもつと古くから存したものであらう)其語にヒントを得て『ひげつうし』の語を作り、それを『ひつじ』に適用したものでなからうかと推察するのである。『ひげつうし』が『ひつじ』に転ずることは、音韻変化の方面から見るも甚だしく不自然のものではないやうに考へられるのである。
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参考文献
上記(39)の出典は新村出著「外来語の話」42ページ、昭和19年9月、新日本図書=原本、(40)、(42)、(43)、(44)は京城雑筆社編「京城雑筆」第13巻143号54ページ、小倉進平「朝鮮語の『ひつじ』と『やぎ』―辛未の歳に因みて―」、昭和6年1月、京城雑筆社=原本、資料その6も同、(41)は朝鮮総督府編「朝鮮語辞典」608ページ、大正9年3月、朝鮮総督府=原本、(45)は「江戸科学古典叢書 34」396ページ、田中芳男「動物学初編哺乳類」、昭和57年1月、恒和出版=原本
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新村さんはヒツジは「小倉博士によつて日本語で分析的説明を與へられてゐる」のに反して「ヤギ(山羊)といふ言葉は朝鮮語から日本語に入つたことが、同博士により考證された。」と書いたけれども、以上のことからはそんな話が読み取れますか。その前にさかのぼっても日本語のヤギはヨムからきた言葉だともいってませんよね。それからヨムセンイに小倉さんは言及していません。その名前を知らなかったのではなくて、思うにある地域の方言で、関連する資料もなかったからでしょうね。
小倉さんは髯牛の염쇼が朝鮮ではヤギになり、「髯の牛」が日本語ではヒツジになり「両語の間に『やき』、『ひつじ』の対立を見、相一致せぬ結果を齎すに至つたらう」といいますが、どっこい、日本語も朝鮮語と同じくヒツジという言葉はヤギを意味していたのではあるまいか―というのが私の考えです。
評論家の古波蔵保好さんは「山羊を薬にする話」でも「ふぃいじゃあ」である資料その7のように書いています。
資料その7
特にクスリという言葉をしきりに聞くのは、山羊を食べる場合だった。山羊は沖縄の言葉で「ふいいじゃあ」である。だから、久しぶりに山羊を食べようじやないかということになると、「ふぃいじゃあ・ぐすい」しよう、といった。
クスリが沖縄風になまると、「くすい」であり、「くすい」になるごちそうの最たるものが、「ふぃいじゃあ」なのであった。
「ふぃいじゃあ」はべエペエと鳴く――とコドモたちの耳には聞こえるらしく、わたしの好きなわらべうたに、こういうのがある。
いったあ、あんまあ
まあかいが?
ペエペエの草刈いが
べエペエのまさ草や
はるの若みんな
解釈をすると――。
お前の、かあさん
どこへ(いった)?
べエペエの草刈りに(いったよ)
べエペエのうまい草は
畑の苦みんな
ということになるだろう。「みんな」という草が山羊の好物だそうだ。
首里・那覇のような街で、山羊を飼っている家はなかったようであるが、農村へいく
と、風にそよぐ砂糖キビ畑の向こうに見える茅葺き家の裏手あたりから、姿は見えないけれど、ペヘエベエという声が聞こえたりする。
白い雲の浮ぶ空の下に、砂糖キピ畑がひろがり、間に芋畑がはさまれているといった農村の午后は、山羊の声があって、けだるい夏らしくなった。
国語学者だった手塚昇氏は、もう一歩進めてヒツジという名前は山羊の鳴き声からきたのではないか。沖縄では山羊をヒージャーとかヒヒジヤと呼んでいるよと述べたのです。ちょっと長いが、資料その8が手塚説のさわりです。
資料その8
自分も近頃日本語の語源をすこし調べて見てゐるので
研究法としては大体、過去の研究の跡を辿つて見た上で、
次に方言の比較研究の方面から何等のヒントを得よう
としてゐるのである。然るにヒツジと言ふ言葉は、虎や
獅子や、梅、竹、杉、桐、ぼたん等と共に方言の全くな
い言葉の一つに数へられてゐるのであつて内地の方言か
らは研べやうはないのである。
ところがこゝに注目すべきは、清の康熙五十年、(徳川
第六代将軍家宜の時代、西暦一七一一年)に編纂された
と言はれてゐる琉球内裏言葉の辞書、「混効験集」には羊
を「ひゝじや、羊の事」と見えてゐる事が、伊波氏の南
島方言史攷にも東條氏の南島方言資料中にも報ぜられて
ゐる事である。これによると琉球地方では羊をヒヒジヤ
と言つた時代のある事が分るのである。そこで更に琉球
諸地方の方言を研べて見ると、
|首里 |大島 |頭国 |宮古 |八重山
羊|メーナー | |メーネヤ| |
|メーネー | | | |
| | | | |
山羊|ヒージャー|ヒンジャ|テテジャ|ピンザ|ビビジャ
と言ふ事になつてゐる。これらを読んで而して羊や山羊
の鳴声をよく知つてゐる人なら、この、「メーナー」とか
「ヒージャー」とか「ヒヒジヤ」とか言ふのが、全くその
鳴声から来てゐる事にすぐ気付くだらうと思ふ。而して
「メーナー」とか「ヒヒジヤ」とかの音は、かく表現され
た音を表面的に見ただけでは非常に違ふ声のやうに思は
れるであらうが、実際に聞いて見ると、「メー」とも「ヒ
ー」ともきこえると言ふより、むしろ「ヒヒヒ」と細く
震へる悲しげな鳴声である。英語で羊や山羊の鳴声を
bleatと言つてゐるが、この言葉も確かにその鳴声を現
した言葉である事がうなづかれるのである。山羊の声は
自分は毎日聞いてゐるし、羊の鳴声と山羊の鳴声は殆ど
同じである。而して、更にメーナー、ヒージャー、ヒヒ
ジヤ、ヒツジ、テテジャとかう並べて考へて見ると、こ
れらが同じ系統の言葉である事ほ何人も認め得る事だら
うと思ふ。即ち卒然として、「ヒツジ」と言ふ言葉に打つ
かると鳴声とはあまり縁遠いやうに思はれるのである
が、かうしで考へて見ると、このヒツジと言ふ言葉はや
はりその鳴声から来た名に相違あるまいと思はれるの
であるが如何なものであらあか、大方の御高教を仰ぎ
たい。
グーグルの翻訳でbleatの発音を聞くと、私には短くブィーとしか聞こえん。英語圏の人々にはメエーのビブラートのような部分が聞こえないのかと思ったら、そうじやなくて、これは鳴き声という名詞で、オノマトペはbaa baaで、これからの名詞なんですなあ。英辞郎によると、bleatはセルラーテレホンの呼び出し音も指すとは知らなかったねえ。
2回目だったと思うが、講義で羊の鳴き声を取り上げ、苗川博史さんの本「モンゴル ひつじ・やぎの絵と写真」の表紙の羊の略画の吹き出しに「べえ〜」、山羊は「めえ〜」と書いてあると話したはずだが、この違いはそれこそ微妙で、各人の可聴域の違いかも知れません。
ともあれ沖縄では「山羊はヒージャー・ピージャー・ヒンザ・ヒビダ・ピミダ・ピンダなどと呼ばれ、その呼称は村や島など地域によって異なる」(46)と島袋正敏さんは本に書いていますが、琉球大の池宮正治さんによると「俗説には、ひげ(髭)に接尾辞アがついて、髭のあるものの意であるとしている。おもろの『ひぎや』やヒージャーは、これで充分納得できるが、伊江島のティティジャ、黒島のピシダなどは説明しにくい。」し、そのほかの島でも音節がヒギャより多くて髭では説明しがたい(47)といっています。
しかしだね、手塚さんの「羊の語源」が載っている雑誌「方言」7巻10号には徳島県内91地区で77種の日常使われているいろいろな行為や動植物の名前を調べた井上一男さんの報告「徳島県方言分布」も載っています。
これで驚くのは小川に居るメダカは72通り、殿様蛙だけで24通り、さらにガマや雨蛙など蛙類とひっくるめれば68通りの名前を挙げています。さらにびっくりなのはメダカでメータ、メータンなどメから始まる呼び方が35通りもあった(48)ということです。
なぜこんなに多くの呼び方があり、ざっと90年前の人々は面倒がらずに使っていたのか。その方が不思議だと思いませんか。道でつながっている村や町でさえこう違うんですからね、ましてや海を渡らなければどこへも行けない島の人たちは、このヒージャーに限らず、万事おらが島じゃ、こういうんじゃーとわざわざ変形して呼び、何かにつけて同じ島育ちを確かめ合う密かな習慣というか意識があり、それがこうした多様な呼び方の元になったのではないでしょうか。
私が初めてこの名前の講義をしたころのパソコンは、ハードディスクの容量が小さくてハングルのフォントを搭載していないパソコンもあったので、この講義録のハングル文字はトウフとも呼ばれる枠表示になるから、私が外字で自作してちゃんと読めるようにするとなんて話したが、物凄くパソコンの性能が向上して、そんな苦労はせずに済み助かった。それどころかUSBメモリーみたいなサイズの1テラSSDが出たなんて、隔世の感としかいいようがない―ということで終わります。
(文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)
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参考文献
上記の資料その7は古波蔵保好著「料理沖縄物語」205ページ、「山羊を薬にする話」より、昭和58年6月、作品社=原本、資料その8は春陽堂編「方言」7巻10号23ページ、手塚昇「羊の語源」より、昭和12年12月、春陽堂=原本、(46)は島袋正敏著「沖縄の豚と山羊 生活の中から」115ページ、平成4年11月、ひるぎ社=原本、(47)は池宮正治著「沖縄ことばの散歩道」70ページ、平成5年8月、ひるぎ社=原本、(48)は春陽堂編「方言」7巻10号35ページ、井上一男「徳島県方言分布」より、昭和12年12月、春陽堂=原本、
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