明治時代から羊食と洋食

 (前回「国産の羊革甲はあったのか」と、この講義の間に、羊の語源、本草学における山羊についてなど2回と江戸時代の記録などの吟味が何回か入り、その後でこのページなどを著作権対策バージョンへ書き換えします)

 きょうは、明治11年に創刊された函館新聞を調べていて、わかった事実を話しましょう。前にもいっているように、私は函館新聞を創刊号から順に読んだわけではないのです。これまで通り羊年である明治16年に狙いを定め、読売新聞、東京日日新聞も含めて、まず正月の分を調べました。
 当時は今の新聞のように羊年を意識した企画記事は載せていません。1月10日付読売新聞の1面コラム「讀賣雑譚」が「新年の述懐」という題で書いてありまして、その筆者、ペンネームはパソコンで使えない字なので省略しますが「光陰の隙を過ぐる馬の年もとく暮れて羊の一月とはなりぬ今年も又紙屑の中に生を送りて羊めきたる男と言れんも気のきかぬ事ぞかし」というくだりに、やっと羊年らしさを見いだしたぐらいです。
 明治16年に生きていた新聞記者が、日々筆で和紙の原稿用紙にあれこれ書いてきた、その感慨ですなあ。細かいことをいえば、この筆者は紙を食べるのはたいてい山羊であって、緬羊ではないということを知らなかった。新渡戸さんが「羊と山羊」の序文に書いたように、このころの多くの日本人は緬羊を知らなかったから無理もないのですがね。とにかく、ここは「紙屑の中で生を送りて山羊めきたる男」と書くべきなんですよ。
 この思い込みは彼の高名なる南方熊楠先生も怪しい。彼の「十二支考」の中の「羊に関する民俗と伝説」の書き出しに「『張り交ぜの屏風ひつじの五目飯』てふ川柳がある。此米高又紙高の時節に羊に関する雑談などを筆するには真に張り交ぜの屏風を造つて羊に食はす程紙潰しな業と思へど…」と書いています。山羊の五目飯なんですね。
 ただしですよ、山羊は紙を食べるかも知れませんが、諸君の身の周りの紙は食べさせないで下さい。禁止です。山羊でも食べ物に好みがあり、食べない山羊もいます。私が高校生のとき飼った山羊がそうでしたよ。大きくなるまで与えたことがなかったせいと思いますがね、見向きもしなかった。
 大事なことは山羊自身の好みではなくて、化学処理を施して作るいまの紙、われわれは子供のころはわざわざ西洋紙と呼んでいましたがね、新聞紙をはじめ、いま使われている紙は山羊でも消化できないのです。お腹を壊します。手漉きの和紙は消化できるでしょうが、童謡にあるからといって、山羊に紙を与えてはいけません。動物園でもその点は注意しているはずです。
 一方、東京日日では、羊と直接の関係はないのですが、肉食に関係する面白い記事が載っていました。それから函館新聞で見つかった記事などを資料にまとめましたので、いまから配りましょう。はい、後ろの人に回して。いいですか、最後列にも行き渡りましたか。では見てください。最初の記事「不浄払い」が、それです。

資料その1

明治16年1月12日付東京日日新聞4面
○不浄払い 陸前の國亘理郡の辺にては昔より養蚕に従事する者多く其産出せる糸も大に精良の聞えあり然るに此地の言習<いいならわ>しとて一郡内に獣肉を喰ふ者ある時は必ず養蚕が不作なりとて固く之を戒め若他方人の之を携へ来りて調理せんとするを見認る時は一同出て其人追払う等の弊風ありて今尚之を脱せず然るに去月の末何人の為せし事か屠りて間もなきと見え生血いまだ乾ざる牛骨を同郡大平村の田の畔に捨てありしを見附し者ありてスハ一郡の盛衰に関すべき変事こそ出来<しゅったい>すれとて隣村へ報知せしかば近来米価非常の安きを告此うへ蚕糸の凶作に遇ば実に一郡の困難なり急ぎ其骨棄不浄払ひの祭式を執行なすべしとて大なる団扇二本を作り之を長竿に結附真先に不浄払と大書したる旗をおし樹<たて>三四十名の人々が件の団扇にてあふぎ立ヤアー/\と喚び廻りしと獣肉を以て養蚕の作不作に関係ありと云ば此地方の糸は外国輸出をも辞すばなるまじきに去りとは気の毒千万なりと同地より報あり


 この亘理郡は宮城県にあります。ざーっと読めば、村人がどんなことをしたのかわかるでしょ。つまり四つ足食いを禁じるわけは、カイコがだめになるからだなんて、まったく無関係と思われる事象の発生防止という意義があるのだと説明し、古い習慣に従うよう強制していた一例ですね。長く続けているうちに意義の方が忘れられて、なんで禁じられているのかわからなくなるということもあったでしょう。
 ついでにもう一つ。明治28年に出た藤岡作太郎と平出鏗二郎という方が書いた「日本風俗史」の江戸時代の食生活の中に、肉を食べたら何日お参りしてはいけないとしていたか日数を示していますので、それを紹介しましょう。
 資料として付けてもいいのですが、この本はインターネットで読める本なのです。国会図書館の電子図書館の蔵書になっていますから、そちらで読んで下さい。読み方はですね 、電子図書館に行き、近代デジタルライブラリーというところに進み、キーワードを入れて検索しますと、国会図書館所蔵の著作権保護期間が終わった明治期の本が約5万冊も読めるのです。
 私もいろいろ読ませてもらっているんです。まさに自分で巨大な書庫を建て、明治本ばかり集めたようなものです。それでいて全く本が山積みにならない。ですから、いつ雑品屋が古本回収をやめるかと心配する家内に、私がしかられずにすむというメリットは実に大きい。その意味でも公共図書館の任務は重大なんですよ。この近テジ本の中には、中国語みたいな漢文の本やら、筆字でまるで読めない本もありますが、活字本ならなんとかいけます。ジンパ学に使える材料も相当見付けましたので、おいおい取り上げます。
 その日本風俗史はこう書いています。江戸時代は猪と鹿が獲れる山村以外、獣肉を食べる人が少くて、宝暦年間に京都の医者で香川修徳という人が肉食論を唱へてから、稀に食べるようになった。でも肉を食べるとわが身が穢れたと信じて、数日間、神社とお寺にお参りすることを避けた。また幕府も寛政3年「御清の節の食穢とて羚羊、狼、狸、鶏は五日、牛馬は百五十日、犬、羊、鹿、猿、猪は七十日、二足、兎、卵は魚に同じく、葷物は精進刻限より断つべしと定めたり」と書いてあります。
 どうです、立派に羊が入っています。私は最初、寛永と読み違えましてね、1626年の寛永3年は鎖国の前であり、これは山羊の間違いと思ったのですが、寛政3年なら1791年と170年近く後になりますから、本物でしょう。
 仙台藩の医者だった大槻槃水が寛政10年に書いた「蘭畹摘芳」という随筆集があり、その目次の紹介に「野羊功能」「綿羊訳説」とありますから、本物の羊がかなり知られていたと察することができるからです。
 ただ、この本は文化10年に出版されたものの現物はなくて、写本を「伊藤主介之を蔵す」と、明治40年6月に出た「農藝大事林」という本に書いてあります。農藝大事林は道内では道立文書館、あの赤レンガにしかないようで、当時の肉料理法も書いていますので、いずれ機会がありましたら、その内容をお話ししましょう。
 現場主義を掲げるジンパ学ですからにして、当然、大槻槃水などで検索してみたのですが、まだ見つかりません。大槻槃水は、大槻姓と仙台藩と医師という点で「言海」を編集した大槻文彦の父、大槻玄沢となにか関係がありそうな気がするのですがね。ああ思い出しましたが、綿羊で検索しますと「綿羊訳説」の写本は、岡山大学の図書館にあることがわかります。馬場貞由・大槻茂質訳となっていますので、やはり大槻の血筋を引く人物が関係しているらしいのです。ただ附記に「〔跋〕文化12」と書いてありますので、もしそれが出版年だとすると、槃水の随筆集より15年後になりますのでおかしい。その辺は岡山までいってその和書を拝見させてもらわねばならんというわけですよ。あちらへ出かける機会があったら調べてみるつもりです。
 それから、そのころは犬も食べちゃう。だれかから教わったのでしょうが、われわれが子供のころ犬は赤犬が一番うまいというのは常識でしたね。これだけいろいろ並べるということは、逆にみんな隠れて食べていたからともいえます。
 猿も入っていますが、ニホンザルのすむ北限、青森県下北地方の食生活の聞き書きだったか、そばのだしは猿が最高にうまいと書いたあったように思うのですが、ちょっと記憶が怪しい。はっきりしているのは昭和8年に東京でサルが食べられたことです。白木正光編「大東京うまいもの食べある記.昭和8年版」の327ページ、名物探訪という章の中に「もゝんじい豊田屋」でヒグマとサルを食べたことが書いてあります。
 えーと、見た目は「猿の肉は薄紅の、淡い血の色が鮮やかに浮かぶ、いかにもサラリとした感じである」。味は「濃厚さは少しもない。煮過ぎた牛肉を食べる感じ」と熊肉に軍配を上げています。とにかく日本風俗史によれば野鳥は堂々と食べており「殊にこの時代は最も鶴を重んじたり」いまや天然記念物のタンチョウは最高と食べていたのです。
 話を羊に戻しましょう。私は函館新聞だけはそっくり1年分見ていきました。なにしろ函館はそのころ道内一の大都会であり、北海道で初めての新聞が発行された先進地です。新聞を買って読める人たちがそれ相応にいたわけですよ。どんどん読んでいって、4月22日の第1面でやっと羊の字を見付けました。それが資料その2の「函館県録事」です。

資料その2

明治16年4月22付函館新聞1面
○甲第二十三号
屠殺営業規則左ノ通相定メ候條此旨布達候事
 但従前営業ノモノモ此規則ニ従フベシ
 明治十六年四月十九日  函館県令時任為基
   屠獣営業規則
第一條 屠獣ヲ営業セント欲スルモノハ屠場図面ヲ添郡区役所ヲ経県庁へ願出スベシ○第二條 屠場ハ函館ニ三ケ所福山江差寿都ニ各一カ所ニ限ルベシ○第三條 屠場ハ人家稠密或ハ稠密ナラサルモ臭気ノ人家ニ達スル場所及飲料水ニ妨害アル地ニ設クルヲ許サス○第四條 牛羊豚ハ健康ノモノニアラザレバ屠殺スルヲ許サス○第五條 諸獣伝染病アルトキハ臨時閉場セシムルコトアルベシ○第六條 屠獣営業者ハ第一号雛形ノ看板ヲ戸外ニ掲クベシ
    一 尺
   ┌───────┐
 二 │ 許   免    │
   │     屠     │
 尺 │          │
    │     獣     │
 五 │ 何        │
    │    営     │
  寸 │ ノ         │
    │    業     │
    │ 誰        │
   │           │
   └───────┘

 それまで函館に屠殺場は何カ所かあったのでしょうが、これで鶏はお構いなし、だが4つ足はどこででも屠殺できないことになったのです。この規則なんかは公衆衛生上いいことなんですが、お役人はどんどん仕事を作り出し、その仕事をするために必要なんだと役人を限りなく増やしていくというマーフィーでしたっけ、なんとかの法則の実例でもありますなあ。
 その次に羊が現れたのは「獣類統計」という記事でした。英国の学士が、学士様ですよ、編集した獣類統計表をみると「羊の多きは豪州にして八千万頭南亜米利加共和国は第二等にて六千八百万頭魯国は第三等にして六千三百万頭なり」とあります。
 ちょっと馬肉の話に脱線しますが、明治時代の北海道らしい記事がありましたので、それを資料その3にしてあります。

資料その3

4月26日第3面
○根室通信 根室市街大雪の事は屡々報道せしゆゑ茲に贅言せず扨此の大雪のため馬の斃れし者実に夥多しき事にて数へ挙るに遑まあらず其の故は元来昔しよりの習慣として厳寒にても馬を飼舎に為す事をせず皆山に放ち置き用事の時は之を連来りて使役するの習はしなるにぞ馬も夫れに馴れて自由に駈回りて自ら食物を求め降雪の頃には成り丈風の当らぬ山蔭に群集して雪を避け寒を凌ぐゆゑ其温気を以て其辺りは雪も積らざる由なるが当年は十余年以来嘗て見し事なき大雪にて凡そ三丈も積りければ幌茂尻といふ処に放牧の馬などは積雪のため身動きも成らず起ッたる儘皆雪に埋もれて唯呼吸の鼻息にて雪の上に僅か五寸廻りの空があいてあるのみ因て其穴を目当に馬を掘出せしに大概皆凍死になりて死を免れたるは甚だ少なしといふ斯の如く斃馬の多きゆゑ我も人も其肉を取来りて食物と為し之を喰はざるものは十中二三に過ぎず友尻臼の昆布場にては高田惣五郎といふ者一人は未だ喰はずとのことにて中には慰みに喰ふ者もあれど多くは餓に迫つて止を得ず食する者なりとぞ


 私は根釧原野、釧路から根室の方ですね。昭和50年代に、あのあたりを調べたことがありますが、夏の間、馬を山に放し飼いする人がいました。それが少なくとも明治からの慣習だったことが、この記事から推察されますね。
 私がですよ、ある酪農家を訪れたとき、乳牛だけでなく、おれは道産子、人間でなくて馬ですよ、胴長短足の馬も飼っているのだというのです。馬小屋がないではないかというと「いや、帝国牧場に放しているから小屋はいらないのだ」と胸を張っているのです。はて、この辺に、そんな牧場があったかなと考えましたね。そして、わかったのです。帝国牧場とは国有林の山ということだったのです。この記事の雪に埋まった馬たちもそれですよ。
 1丈は10尺、30.3センチの30倍、ざっと9メートルも積もったことになりますが、ただ、積もったのではないと思います。道東、特に根釧地方は一冬に何回か確実に交通杜絶する猛吹雪に襲われます。吹き溜まりがすごいんです。家の建て込んだ市街でも、胸ぐらいまで積もった雪の中を泳ぐようにして歩くなんてことは珍しくありません。山の中ならもっとすごいはずで、実話でしょう。
 ああ、吹き溜まりの話ではなくて、私としては、人間、四つ足を食べると身が穢れ、寛永なら半年ですね、神様仏様にお参りならぬなんてどこの話だ、馬でも鹿でも口に入るものは何でも食べちゃう飢餓の極限に近い状況を知ってほしかったのですよ。
 さて、本命の羊のことなのですが、私はついに大発見をしたのです。どんどん紙面を見ていきまして、10月8日の広告面で綿羊という単語にたどりついたのです。それも肉屋の広告ですから、函館では明治16年、飢えたわけではなく、ちゃんと羊肉を買って食べていた人たちがいたのですよ。資料その3がその広告です。実物は縦書きなのですが、ホームページで公開する都合上、横書きにしてあります。

資料その3

10月8日第4面
 第二回開店広告
弊店儀開業以来特別之御愛顧ヲ蒙リ日増隆盛趣キ難有奉鳴謝候と随テ本月十一日ヨリ第貳回開店節トシテ三日間左ノ直段ニテ牛肉販売仕候間尚四方ノ諸彦不相変陸続御購求奉希上候
 牛肉 壱斤ニ付十銭
 綿羊 豚肉 鶏肉
   青物
 西洋   類
   果物
 末広町四十八番地 
         牛肉社


 皆さんは開店節とはなんだと思うでしょうが、私は戦前の小学教育を受けていますから、すぐわかりましたね。このころの函館新聞の広告に開店節はしばしば出てきます。大日本帝国の誕生日が紀元節、今上陛下の誕生日が天長節、皇后陛下の誕生日が地久節、明治天皇の誕生日が明治節と、節がついたら祝日、日の丸の旗を掲げる。講堂に全員が集合してお祝いの式があり、それぞれ決まった歌を歌わせられたので、いまでも歌えますね。
 名前の通り私は満洲育ち。いまは長春と呼ばれていますが、新京では冬はスケート遊び専門。雪は少ししか降らず、ただただ寒いから「明治節から紀元節まで乗る」と豪語していましたね。明治節とは11月3日、いまの文化の日。紀元節とは2月11日、いまの建国記念日、祝日として残っています。
 古い話ですが「三大節を答えよ」という問題が活動写真の弁士、無声映画の説明者、いまでいうナレーターになる試験に出た。セツと読めなかったのか、わざとやったのか、八木節と安木節となんとかブシと民謡を3つ上げて、とんでもないやつと試験官にこってり搾られた人がいたと、徳川夢声という有名な人の随筆で読んだ覚えがあります。
 正解は四方拝、紀元節、天長節なのです。四方拝は前回の講義で出て来た太政官日誌のことを思い出してください。開店節とは開店記念日なんですね。今風にいえば開店記念セールの広告です。16年に第2回というからには、当然明治15年の開店です。その広告も載っているはずと、マイクロフィルムを差し替えて明治15年分を見ました。どんぴしゃ、倍ぐらい大きな広告がありましたね。それが資料その4です。これも本物は縦書きで、一つ何々という書き方です。

資料その4

明治15年12月6日第4面
  開店広告
一 西洋青物  一 西洋菓物
一 綿羊 一 豚 一 鳥類
 其外諸品
下店義是迄旭橋前ニ於テ牛肉売捌罷在候処各様ノ御愛顧ニ因リ日増盛大ニ立至リ難有奉厚謝候随而是迄ノ下店手狭ニ付此度末広町永國橋手前ニ更ニ家作仕牛肉社ト称シ一小社ヲ設ケ弥々勉強且諸品トモ善良ナルヲ撰ミ廉価ヲ旨トシ本月九日ヨリ開店卸シ小売トモ仕候間以前ニ倍シ陸続御用向仰付度奉願上候也

         末広町四十八番地
十五年十二月     牛肉社
         同下店旭橋前
           支店


 これと同じ広告が2日後の12月8日にも出ています。このころは同じ広告を2回続けて出すのが普通のパターンでしたので、隔日発行の函館新聞では2日後になるのでした。そのほか、12月12日にも出していますので、繁昌したので牛肉社と店名を替え、繁華街に本店を構えることになり、その開店にふさわしく宣伝費を弾んだのでしょう。私の喜びも今風にいえば「ヤッター」ですが、牛肉社の彼等もそうだったと思いますね。
 そのうえ、別の肉店の広告にも綿羊があったのですから、私は本当に驚きましたね。それを資料その5として示しました。これも本物は縦書きで、しかも活字に大小をつけて目を引くよう工夫したらしく、ちょっと複雑な組み方なので、その組み方は無視して、文意がつながるように並べ替えています。

資料その5

明治15年12月20日附録
  売出し広告
一 東京牛 正肉一斤金廿七銭
一 綿羊  骨附一斤金四十銭
一 豕肉  正肉一斤金廿七銭
右ハ例年ノ通リ卸小売共本月十八日ヨリ売出申候ニ付テハ売出し当日ヨリ三日間ニ限リ一斤ニ付金二銭引ニテ極廉価ニ販売仕候間多少ニ不拘不相替御愛顧御購求ノ程伏テ奉希候也         東浜町
十二月十八日  森亀印 山田亀吉


 どうです。この広告では骨付き羊肉が一斤四十銭と明示しているのですよ。骨付きとなれば、買った人は骨を外して肉を食べたでしょうね。鶏のガラと同じ要領で羊の骨でだしを取ったかどうかまではわかりませんが、牛豚は肉だけで600グラムが27銭なのに対して、小骨にしてもそれを取ったら絶対に600グラム以下になる羊肉を40銭で売っていた。売れたかどうかはわかりませんよ。羊は正肉だけならもっと高く売らないと採算が取れなかったせいとしても、店先に並べていたんですね。
 このころの函館新聞では「探訪が口を酸っぱくしての提灯」などと自虐的な字句を付け加えつつ、よく広告とつながった記事が掲載されているのです。探訪とは、いまでいう記者です。それで私はこの記事に関係する記事がないか調べたのですが、見つかりませんでした。
 それで号数から調べてみましたら、785号から789号と4号飛んでいる。つまり4回発行した紙面が保存されていなかったのですね。残念至極、消えた紙面に、この歳末売出しに関係するなにか記事があったも知れないのです。それから、もう羊肉販売は珍しくなかったのかも知れないということも考えられます。
 ここでまた、それから1年後の未年、明治16年に話を戻します。牛肉社と並んで綿羊肉を扱っていた森亀の広告が12月26日にありました。資料その6がそれですが、やはり森亀は歳末大売り出しを演出して出稿したと思われます。

資料その6

12月26日4面
 うり出広告
一神戸牛 豚 綿羊
一西洋野菜物数品
弊店義各位ノ御愛顧ニ依リ日増繁盛ニ相成難有奉拝謝候随テ例年之通来ル廿七日ヨリ前記之品々売出候間不相変御愛顧御購求被成下度奉希上候
   東浜町四十五番地
         森亀


 函館の肉屋が綿羊の肉を売ったことが、そんなに驚くほどの話題なのか、と皆さんは思うかも知れませんが、明治15年という時代を想像してください。開拓使御用掛をやめた新渡戸稲造先生が東京帝国大学選科生になるときの口頭試問で「太平洋の掛け橋になりたい」と答えた年であり、鹿鳴館ができた年なんですよ。極めて珍しいのです。
 以前の講義で、大正7年12月の読売新聞に載っていた和風羊肉料理試食会の記事の中で、その料理を作った東京女高師の喜多見佐喜子教授の談話を思い出してください。といっても、覚えている人は多分いないでしょうから、資料その7としてもう一度載せておきました。談話の一部を切り出したものです。

資料その7 

大正7年12月25日付読売新聞「よみうり婦人附録」
 羊肉を日本料理に塩梅すると云ふことが第一なのです洋食の材料には既に使はれてるのですから研究の余地がありません牛や豚の如にひつこくなく極軽味のものです人によつては変な臭があると申しますが決してそんな事はありません何にせ致せ数が少いので値が可なり高いです百匁で九十銭もするのですから到底常食になりません特に一頭の重量が六貫目ですから余程沢山飼育しないと食用する訳に参りません赤坂田町六の一〇松井平太郎氏一軒の他に羊肉を売る店はありません


 肉屋の松井さん以外羊肉を売っていないと喜多見先生はおっしゃっていますが、そうではなくて先生がご存じなかっただけなのかも知れないのです。その証拠に、この記事の4年前、大正3年6月9日の同じ読売新聞朝刊5面「よみうり婦人附録」に「羊肉を勧めたい」という記事があり、現今東京で羊肉を売る店として(1)赤坂田町六の松井商店(2)芝二葉町九の黄川田(3)佐久間町一の一の竹内(4)烏森町一の徳増―と4軒の名前を挙げていますからね。
 さらに帝国ホテル、精養軒、東洋軒に行けば、いつでも羊肉料理が食べられる。羊のもも肉は蒸し焼き、肋骨の付いた背肉は焼き肉、その他はシチュー、舌は煮て酢漬け、脳や肝臓はフライにして食べる。小売りでは骨付きも出ているから骨付き料理も妙であると家庭での料理法も教えています。
 それから、いまは需要が供給を上回っていて、明治43年度のデータでいえば、需要の3分の2は豪州と支那からの輸入肉だった。国内で羊の飼養が盛んになれば、羊毛の輸入を防ぎ、美味な羊肉がやすく供給されるようになるので一挙両得というべきです―と。末尾に(農商務省種畜場長崎発生氏調)とありますから、長崎さんの談話を基に記者が書いたことは明らかです。
 大正3年に東京でも羊肉を売っている肉店が何10軒もなかったらしいということは、いまの記事でわかりますね。大正3年で品不足、さらに需要が増えそうというのですから、喜多見女史がいうのは、必ず羊肉を売っているのは松井商店しかないという意味だったかも知れません。
 それにしても100匁375グラムで90銭は1斤600グラムに直すと1円44銭になりますから、えらい高い肉です。ですから、もしも明治15年から大正7年まで羊肉の値段が変わっていなかったと仮定すると、40銭では166グラムしか買えない。つまり函館・森亀の骨付き羊肉の目方の7割が骨でも文句をいえないことになりますよ。はっはっは。検算してみてください。はっはっは。
 ところで喜多見女史は松井平太郎といったらしいけれども、私は松井平五郎が正しく、記者が聞き違えたか書き間違いではないかと思うのです。平五郎さんならばですよ、まだ北大文学部紀要にも発表していない私の「日本ジンギスカン年表」によれば、明治39年9月に松方農場の依頼を受けて東京赤坂で羊肉販売始めた人であり、大正13年10月には農商務省から我が国初の羊肉販売商に指定された人なのです。この方はいずれ詳しく講義しましょう。
 とにかく、前回紹介した「明治事物起源」にある「三十間堀勧業社にて、内務省勧農局牧羊場の払ひ下げ羊肉販売を始めたる」の明治12年より3年遅いとはいえ、遙か離れた蝦夷が島、その函館でですよ、少なくとも2軒の肉店が羊肉を売っていた。つまり臭いからと嫌われたはずの羊の肉を買ってですよ、ジンギスカンではないにせよ、料理して食べる人たち、外国人だけだったかも知れませんが、函館にいたということなのです。
 尽波年表の存在をここで明らかにしたついでに、もう一ついきましょう。実はもう2年、勧業社と函館とのタイムラグが詰まるのです。「明治13年11月14日 函館新聞に健全社が新鮮なる羊肉販売と広告する」と載せてあります。資料その8が、その広告のコピーです。もちろん、本物は縦書きでわずか3行、なぜか漢字に片仮名と平仮名交じり。紙面の左下隅にあり、このころの広告の慣習からいけば「売出し広告」と最初に1行立てるはずなのに、それもない目立たない広告なのです。

資料その7

明治13年11月14日付函館新聞4面

当日ヨリ弊社ニ於テ新鮮ナル羊肉販売いたし候間何卒
賑々敷御購求之程奉願上候
十一月十四日  東浜町 健全社


 このころの広告の慣習と思われるのですが、同じ広告を2回繰り返し掲載する。それで18日にも掲載されています。このあたり紙面が保存されておらなかったようで、11月6日からこの14日まで脱落しています。もし、紙面が全部保存されていたら、探訪、つまり記者が健全社の羊肉はどこから仕入れているとか、値段はいかほどぐらいとか、取り上げて書いている可能性があるのですが、本当に残念なことです。
 それからですね、14日と18日の第4面では、いまでいう宅配便ですな、この健全社と料理屋の日の出が組んだ荷馬車開業広告の方が4倍も広いスペースを取り、目立っています。健全社の変わった動き、その広告を資料その8で見てもらいましょう。

資料その8

11月18日4面
 荷馬車開業広告
荷物運輸ノ儀ハ商売互市ノ緊急ナレバ今般皆々様ノ御便益ヲ図リ荷馬車数輛ヲ整備シ函館市中及近在ニ至ルマデ諸荷物運輸ノ御用便ヲ達シ賃銭ノ儀ハ成ル可ク廉直ニ相弁シ可申即当日ヨリ開業致候間何卒御荷物運送ノ御用向賑々敷仰付度此段奉願上候也
 但運輸時間ハ毎日午前六時ヨリ午后六時マデ
           東浜町八十六番地
      本社    健全社
十三年十一月十八日  大黒町十八番地
            日ノ出
           恵比寿町百四十八番地
     取次     ■(○の中に久、マルキュウか)


 牛肉に羊肉を加えた肉屋、それから運送店へも進出と手を広げた健全社とは何者だろうか。ここから羊肉と離れますけれども、もう一度、元に戻って記事と広告を読み直しました。4月2日に記事がありました。それを資料その9にしましたから見て下さい。

資料その9

4月2日2面
○兼て市中の牛肉店が十余人計り申し合せて企てし健全社は既に許可なりたるが該社は屠牛一途を為し各牛店の需要に供する為にて其主意とする処は第一牛肉濫売の弊を矯め且是迄当地に於て屠殺する所の牛は検査も無ければ若し病牛などありて人の健康を損ふに至りては容易ならぬ次第に付爾来該社に於て屠る牛は其都度/\其筋の検査を受け右様の過ち之無様注意するとの事なるが実に至極最もの事であります


 この記事で見た限りでは「該社は屠牛一途を為し」というから処理場と卸屋を一緒にやるみたいな印象なのですが、そうではなくて5月8日に資料その10のような小売り開始の広告を出し、その日の紙面に「○過日牛肉店が十数名して取り立てたる健全社は今後東浜町八十六番地へ新築し既に落成に付来る十二日より開業すといふ」という記事が載っています。

資料その10

5月8日4面
  広告
今夫レ牛肉ノ滋養膏粱ノ最極ナルハ都僻一様知サル者無に至ル於是下名等同業有志ノ数輩ト一社ヲ結ヒ協力同心勉メテ廉価ヲ論シ眼前ノ小利ヲ博セス業ヲ遠永ニ継続シテ確乎不抜ノ公利ヲ要シ屠牛ノ如キハ疾病腐敗或ハ不等ノ濫価ヲ以テ販売スル弊風ヲ防除セント其法方ヲ建テ健全社ト称ス既ニ本年三月官許ヲ得屠牛毎ニ官ノ検査ヲ受ケ廣ク販売セント欲スル也依テ本月十二日掲左ノ本社ニ於テ牛肉卸小売開店仕候間江湖ノ諸君陸続栄当ト賁臨在ン事ヲ謹テ希望ス再拝
 但開店ノ当日ヨリ三日間麁品呈上仕候
      函館東浜町八十六番地
          健全社


 この広告には、健の一字を入れた旗の図を入れ、その下に東浜の住所と社名を置くデザインになっています。難しい字は膏粱と麁品ですかね。前者はコウリョウと読み、肥えた肉と美味しい粟、つまり美味しい食べ物という意味です。後者はソヒン、いまの粗品と同じです。それから屠殺場のことですが、コレラ流行に関係して明治15年8月12日の記事に「○健全社屠牛場 海岸町健全社の屠牛場は人家接近の処でもあり時節柄一層清潔にして臭気等の撒布せぬ様注意すべしと其筋にて検査の上以来精々清潔にする様達されしと」とあります。最初からそこだったかどうかわかりませんがね、海岸町にあったことがわかります。
 一方、料理店の日ノ出も調べてみますと、健全社の仲間の肉店であり、6月に日本料理を始め、8月から西洋料理に手を広げたばかりの店だったのです。その広告が資料その11です。歌のようなちょっと変わったコピーです。それにしても、きょうは細かな資料がたくさんですなあ。

資料その11

6月3日4面
  開業広告
ちひろ底なす巴の海のふかき諸君のお恵みにて日にまし繁昌浅からぬお禮はふでにも尽せねど諸君につくす一つの務めと這回手廣に坐しきを建まし諸事清らかに簾価を旨とし只管諸君のご便利にと牛鶏諸肉のあざけきを撰りにゑりぬき調進しなれば來る七日に開業の日の出みさほに上る頃よりおん賑々しくご光駕の程ふして冀ひ奉ります
         函館区大黒町十八番地 
  六月三日       日の出
     開店當日より三日の間粗景進呈


8月8日4面
  西洋料理広告
 上等 一人前 金壱圓
 中等 一人前 金七拾五銭
 下等 一人前 金五拾銭
弊店儀幸ひに愛顧諸君のお蔭を蒙り弥々繁栄におもむき難有仕合奉存候扨本港も百般の商業日に増し相開け益々便利を加ふるに及び西洋料理の儀も既に数ケ所に有之候得共未だ便利とするに至らず依て這回内外諸君の御便利を謀り本業の外に西洋料理の一業を加へ本月十一日より開業し肉は鮮かなるを択み酒は醇なるを以て百事廉直に進呈仕候間大方の諸君何卒開店当日より手の舞ひ足の踏む所も無き様栄当/\御来臨の程伏して奉希望候敬白
      函館区大黒町十八番地
 八月  牛店    日の出


 ここでは日の出の「の」が平仮名になっていますが、住所から見て日ノ出に違いありません。注目したいのは、このころの函館には西洋料理を出す店が数カ所あったという点です。10店も20店もなかったが、複数店、5店やそこらは商売しており、そこへ日の出が割り込んだということです。この広告は続けて3回、掲載されています。
 後で話しますが、明治44年に出た河野常吉編の「函館区史」には安政6年、いまから144年前ですね。函館の大町で料理屋を開いていた重三郎が外国人向けの料理店をやりたいと出願して許可を得た。これが箱館における西洋料理店の始まりだと書いてあります。許可願いの写しは東大史料編纂所編「大日本古文書 幕末外国関係文書之二十九」にありますが、これに対する許可するという文書がないのですね。それで重三郎の料理店開業を疑問視する学者もいるわけです。許可願いには長崎には外国人向けの料理店があるそうだし、と長崎先行をほのめかしているのですが、ともかく日本で初めてといわれるぐらい函館は早くから西洋料理と関係がありました。
 羊肉そのものから、またまた外れますが、広告を見ていくと明治13年に函館に存在した西洋料理店の名前が出てきます。函館に限りませんが、そのころは店や家は木造ですから火事になるとひとたまりもない。火事見舞いのお礼、店が焼けたから別の場所で営業を続ける、復旧したからご来店願上候と函館新聞の広告はよく利用されています。
 そういう目で見直しますと、まず1月18日に開成軒という店の広告があります。これは堂々と当港、つまり函館港の西洋料理店の開祖と称しているので、皆さんにもお見せしたいと思って、資料その12(1)にしてあります。読んでください。

資料その12(1)

1月18日4面
弊店儀旧冬大町七拾二番地に於テ類焼ニ罹リ候ニ付恵比寿町九拾三番地旧南部坂下■(喜の字の上から右下に直角に曲がる直線の付いた形)印方ニ同居致シ本月一日ヨリ開業仕候間江湖諸君何卒不相変貴來ノ程伏テ奉願候也

 明治十三年一月  当港開祖西洋料理店
          開成軒
              森 貞光

資料その12(2)

明治12年3月30日4面
 弊店儀明治六年ヨリ内澗町■<同>裏ニ於テ不勉強ヲモ不顧西洋料理開業候処不計モ諸君ノ御引立ニテ是迄営業仕来リ誠実難有奉謝候然ルニ此程不得止件ニ依テ旧店ヲ転シ暫時休業罷在今般大町貳丁目七拾貳番地ニ於テ当分の中営業致シ候得共至手狭不潔ノ場所ナレ共年来ノ御懇情ヲ以テ何卒御来車被成下度猶此上一層勉励廉価ニ致シ来ル四月二日ヨリ開業仕候間御賑々敷御愛顧ヲ蒙リ度謹テ奉悃願候也
  大町貳丁目七拾貳番地横丁
        元■アトニ於テ仮店
              森 貞光

 この広告も資料その10の健全社と同じように、西洋料理の4字を入れた旗の図を入れ、その下に年月と当港開祖を置くデザインにしています。よく菓子店なんかで本家とか元祖とか名乗っていますが、これもその類でしょうか。
 そう思っていたらですよ、東京の大森貝塚の発見者であるアメリカの動物学者モースが明治11年、道内の学術調査にきたとき、通い詰めた明治6年開業のれっきとした西洋料理店とわかったんですよ。モースに同行した植物学者矢田部良吉の「北海道旅行日誌」が平成3年、鵜沼わかさんいう方がまとめられた「モースの見た北海道」(北海道出版企画センター発行)という本にの中に載っています。
 旅行日記の7月24日によれば、モースは「当地滞留中日ニ一度ヅゝ西洋料理ヲ食ハン事ヲ望ミ毎日開成軒ニ来レトモ実ニ仕度遅シテ容易ニ食ヲ終ル能サルニ当惑セリ或ハ食事ニ二時程モ掛ル事アリ長ク他客ノ去ルヲ待ツ事アリ然レトモ西洋料理店ハ当所ニ只一軒ナレバ拠無ク此ニ来ルナリ」とあります。
 その本の注に明治12年3月30日付函館新聞の広告に、開成軒は内澗町、いまは末広町ですが、■<森の字の上に┐印がついた屋号、カネモリ>裏にあったとありましたので、その紙面を捜して確認した広告のコピーが資料その12(2)なんです。  これでは4月2日開業となっていますけれど、都合で5日に日延べするという広告が2回続き、計3回ほぼ同一文案で載っていました。つまり、(1)は、この(2)の仮店が火事で焼けたので、南部坂下に移って営業しますという広告だったのです。
 道南に続いて小樽方面の調査に来たモースは、西洋料理店がなくて和食責めになり、函館のパンとコーヒーを恋しがったと渡辺義顕著「小樽区史」(大正3年10月刊行)に書いてありますから、開成軒は函館では一押しの洋食店だったのでしょう。
 だとすれば、さっきいった大町の重三郎の店はどう考えるべきか。重三郎の店の開業が疑問視されるのは、幕府や函館奉行のの開業許可の文書が残っていない、見付かっていないからなのです。しかしですよ、明治2年出版の「箱館大町家並絵図」には、確かに大町1丁目に「かね十 重三郎 料理仕出ス洋食元祖」と書き込まれている区画があるのです。ですから、少なくとも明治2年までは営業していたとは推定できますけれど、その後がわかりません。
 森さんの開成軒が明治6年に開業で、当港開祖と名乗り得たのは、その前にかね十はつぶれたというか、なくなっていた。それで矢田部日記にある通り「当所ニ只一軒」にしかなかった。函館新聞の創刊は明治11年ですから、広告に登場する洋食店は皆開成軒より後発だった。ですから開成軒が堂々と当港開祖と広告しても、イチャモンはつかなかったのでしょう。
 それから矢田部さん自身も洋食が好きで、横濱から函館までの船賃が洋食付きなら28円だから、和食付き16円の上等、いまならファーストクラスの和食付き切符で乗り、船内で洋食に切り換えので、結果として割安になったと記しています。ということは、船内食堂としては矢田部さんみたいに乗ってから洋食にする客が現れても困らないよう食材など余裕を持って運航していたことがうかがえます。
 また函館と小樽間の船にしても洋食があり、和食上等付きなら運賃は10円、洋食なら18円と矢田部さんは書いています。幕府の軍艦は外国人のコックが乗り組んでいたとも伝えられ、西洋料理は船の方が函館や小樽の陸より進んでいたといえます。
 それからもう1例、やはり火事絡みでありました。資料その13がそれです。

資料その13
6月5日4面
  広告
私儀客年罹災後一時來客様之御間ニ合ニ仮小屋ヲ設本業ヲ営候処諸君之御引立ヲ蒙リ日ニ増繁昌難有奉存候随テ今般左ノ地所エ本家新築落成ニ至リ候ニ付該所ニ於テ六月六日ヨリ開店致尚一層入念調進仕候間不相変御愛顧之程奉希上候

  会所町廿八番地
    ■印  木村留吉


 この広告も資料その12の開成軒と同じく西洋御料理の4字を入れた旗の図を入れ、その下に住所と屋号などを置いています。そのころの広告の定形だったのですね。■になっている屋号は片仮名のキの右上から右下に直角に曲がる直線の付いた形、カネキと呼ばれるものです。
 さらにもう1軒。先ほどの荷馬車の荷物取り次ぎ店の○に久の字、マルキュウなんです。西洋料理としては日の出より後発になるのですが、マルキュウは肉と料理を兼業していた店だったのです。面白いのは当時の西洋料理というメニューが載っていることなんです。資料その14にしてあります。

資料その14

10月7日4面
弊店儀従來牛肉鳥鍋営業罷在候処諸君ノ御愛顧ヲ蒙リ日ニ増繁栄難有奉存候随而今般日本西洋料理鮮肉鮮魚ヲ相択ミ調進仕來ル八日開店致候間賑々敷御來車被成下度奉希候
                  恵比寿町牛店
                   ■(○に久)
 日本料理
一茶わんもり  五銭  一さしみ   七銭
一志ほやき   八銭  一わんもり  四銭
一てりやき   八銭  一むまに   七銭
一玉子やき   八銭  一いりとり  八銭
一とりなべ   拾三銭 一かばやき  八銭
一どんぶり   三銭  一やき鳥   拾五銭
一上牛鍋    拾四銭 一上かしわ鍋 拾五銭
 西洋料理
一上ピフステキ 拾五銭  一ヲムレツ  拾貳銭
一同      拾貳銭  一玉子やき  拾貳銭
一シチウ    貳拾銭  一メンチ   拾四銭
一ソツプ    八銭 


 日本料理の「むまに」はうま煮、西洋のソツプはスープです。日本料理と西洋料理の卵焼きはどこが違っていたのか、オムレツとの違いはどうなっていたかなど、どこかに記録はないものでしょうか。この広告の隣に、前に出た開祖開成軒が仲浜町造船前に移り11日から営業するからご来店をと呼びかける広告を出しています。
 あっ、ちょっと資料が多くて、終了時刻を過ぎましたな。次回はこの続き、函館新聞創刊の明治11年までさかのぼってみた函館の西洋料理店がテーマです。