難問だったブル先生着任歓迎会のイモ

 はい、始めます。料理をする人、料理人を英語でコックというが、日本国語大辞典によると、明治5年、仮名垣魯文の「安愚楽鍋」の「異人のコツクといッたらわかりやすめへが(1)」を初めての用例に挙げています。前後をもう少し付け足すと、若い落語家が鋤焼きを注文したところでね。「コレ/\めんだうだらうが葱を小口からざく/\に切ッて熱ィ湯をかけて持ッてきてくんなヱモシこれが異人のコツクといッたらわかりやすめへがちやぶ/\やの直伝でごぜへすゼ(1)」と書いてあります。
 では、それ以前に使われてなかったのかというと、そうではない。道立文書館の公文書件名検索をすると、明治4年の開拓使公文書に「コック其外月給取極ノ件(2)」と「下コツク常吉暇申付ノ件」と「コック其外月給取極ノ件」と2件あるのです。下コックがあれば上コックもいたのかどうかわかりませんが、常吉のは「右者メヂヨロ并アンチセル過八月北海道ヘ相越候處當月五日一同帰京致候ニ付テハ御用無之候間暇可申付哉相伺候(3)」という解雇伺いで本文にはコックが入っていませんが、国語大辞典よりは古い用例です。
 明治5年の分になると「ケプロン出張ニ付コツク金次郎外二名、雇入ノ件(4) 」などどっさり出て来るが、それで安心しちゃいかん。コックという名詞の書き方を考えないといけないのです。コックの撥音ツを小さくして検索すると、英国総領事アルコックなんてのも混じるが93件、大きく書くと58件で、合わせて100件以上コックという単語を使った件名の文書があることは間違いない。
 昭和37年に日吉良一さんが「明治七年ケプロン一行が札幌入りと共に左の八人が來道した。(5)」と名前を発表して以来、このコック8人または7人同時來札説が通説になっていますが、なぜ7人も一緒にきたのか説明した郷土史家はいません。
 札幌の時計台は日本3大がっかり名所なんていわれているが、あそこの鐘の音を聞いたことがありますか。いまはすぐ近くにいないと無理だが、私が北大に入学した昭和27年、線路を越えた北7東4の下宿で耳を澄ませば聞こえましたね。おっと、大事なの時報の鐘ではなくて館内の展示品なんです。はい、それでは、きょうの資料を配りますか。とんどん後ろへ送って。よろしいかな。
 1階に4皿の料理とアイスクリームの蝋細工を収めたケースがありますが、あそこの中に入ったことがあっても覚えていないと思うから、その写真を資料その1にしました。はい、右側の鹿のステーキのレアらしい色なんかよくできてます。
 これはね、明治10年3月2日夜、札幌農学校の農業教師として着任したブルックス先生歓迎会で食べた料理の一部なんです。今度時計台に行ったら、きょうの講義を思い出しながら、よく見ておくこと。

資料その1

   

 料理をこしらえたのは明治5年に東京から出張してきた開拓使顧問ケプロンのコックとしてだね、札幌まで付いてきて、ケプロンが帰国した後、札幌農学校のコックとして留まっていた渡辺金次郎でした。どうしてそういうことがわかるかというと、開拓使の公文書に金次郎が書いた晩餐の献立が残っているからです。ケプロンはもう帰国していたけど、クラークさんが帰るため札幌を出たのはこの44日後ですから、教え子の歓迎会に出ないわけはないですよね。
 そのメニューですが、資料その2(1)の写真を見なさい。明治英語というか、当時の発音で書いてあり、いまとなってはわからない料理名があります。昭和47年に道庁の広報誌「赤れんが」に、道職員の鈴江英一さんがお雇い外国人関係の簿書を調べてみたら洋食のメニューまで出てきたと、この献立の考察を書いたことから存在が知られるようになったと私はみてます。このメニユーの写真は鈴江さんが書かれた「開拓使文書の森へ」という本から拝借したものです。メニューの小さな字がわかるように資料その2(2)として書き出しました。


資料その2

(1)
  


(2)
 三月二日夕食 拾三人前

   御献立
第一 
 チキン
  ソツフ
 二
  タラ
   サカナ
 三
  トリ
   チヤツフ 
   ヘテホア
   イモ
 四 
   シカ
    デプロ
     サンヒレニヨ
     同
 五 
   カモノ 
    ニモノ
    アラビス
    同
---------- ----------
 六 
   シカ 
    ロース
    イマト
    イモ
 七 
    白鳥
     ロース
     ビンズ
     同
 八 
    ヘム
     コール
     サラダ
---------- ----------
 大菓子  アイスケーレン
 フロンケツキ ゼリ ヅヤミタヅ
 小菓子 六通
---------- ----------
 カヘー
 タバコ
 パーン
---------- ----------
 酒
 サンパン セリ ブドー ビール
---------- ----------
      渡辺金次郎

 献立のソツフはソップ、スープ。チヤツフはチャップで、マトンチャップ、ラムチャップのあれです。ヘムはハムで、イマトというのはトマトの誤りぐらいまでは私にもわかるが、鈴江さんはそのほかのわからない料理について札幌グラントホテルの調理担当副支配人だった斉藤慶一氏に尋ねてヘテホアは肉に添えるグリンピース、デブロはデブロマートという洋酒蒸し煮と教わった。ただ「サンヒレニヨとアラビスは季節の野菜なはずだが、とうとうわからなかった。ご存じのかたがあれば教えていただきたい」(6)と書いた。
 私はフランス料理事典なんかを読んだり、アラビスはアーリーラデッシュかと捜したりしましたね。わからないまま忘れていたら、紫紅会が発行していた「紅」という随筆雑誌に札幌の団体職員、堀口逸雄氏が「百年前の晩餐会」という題で書いた考察を見付けたのです。「サンヒール(Samphire)は、南ヨーロッパの海岸地方で岩の割れ目などに見られるセリ科の植物、ピクルスの原料になるという。また、アラビス(Arabis)属の植物には多くの種類があって、ヨーロッパ,北アメリカ、北部アジアに広く分布している。日本にも『はたざほ』の名で自生し、山菜の一つになっている。しかし、これらはフォーマルな晩餐会向きのものとは思われない。」とし、だから「シャンピニヨン(マッシュルーム)=サンヒレニョではどうであろう。また、オリーブ=オリブス=アラビスの可能性もまんざらではあるまい。(7)」とありました。
 平成になってからですが、前坊洋著「明治西洋料理起源」に「『サンピンヨ』の輸入がとだえて『トレフエース』で代用するという雑報記事があった。『一缶二十粒詰にて代価ハ我金二円七十銭』だというトリュフもトリュフだけれど、シャンピニオンも相当早くから輸入されていたことになる。(8)」とあり、金次郎は缶詰のサンヒレニヨを使ったと思われます。
 あるときブルックスをキーワードにして検索していたら「植調」という雑誌の「うめくさ」というページに「も」というペンネームで書いた「ブルックス先生とセイヨウタンポポならびにアラビス」という随想が出て来たのです。それは堀口氏の随筆でサンヒレニョとアラビスに興味を持った「も」氏が植物研究者らしい観点から書いたものでね。惜しむらくは「も」氏は「赤れんが」の献立写真は見ておらず、堀口氏の活字にした献立で推理したためと思いますが、札幌農学校の購入物品目録に Bush bean がある。これは矮性のいんげん豆、つるなしいんげん豆であり「『early』は『早生』のことである。『アラビス』は『アーリー・ブッシュ』を毛筆で記録したものと考える。第七の『ビンズ:いんげん豆』と同じか,類似の物である。(9)」としています。
 資料その2(1)の写真でわかるように、アラビスのスはフに点を付けたようなスで、さらさらと筆書きした字じゃないから「も」氏の説は無理ですよね。また「も」氏は鈴江、堀口両氏が触れていないコールサラダはコーンサラダ(Cornsalad)、つまりノヂシャと思われる。「開拓使官園動植品類簿 1873」の「渋谷壱番園 蔬菜類」の中に『コオンサラデ 無和名』とある(10)と付け加えてあります。
 アラビスとは何だ。もしかすると、ブルックスさんは自分の着任歓迎会のことを書いた手紙を親に送ったかも知れない。ダメモトです。ブルックス家のことをある本に書いたアメリカ在住の我が文学部OG、例によってA子さんとしておきますが、ブルックス家を訪ねることがあったら、晩餐会の様子を書いた手紙を保存していると思うから、アラビスとイモがどう書いてあるか聞いて欲しいとメールを送りました。でも、冗談と思われたか、訪ねる機会がなかったのか、返事はもらえませんでした。
 それから「クラークの一年」を書かれたカナダ在住の太田雄三先生にもブルックス歓迎会についてクラークさんが手紙に書いていないかとお尋ねメールを送ったこともありました。本を出してから20年近くも後でしたから、資料を捜してはみるが…とお返事は頂きましたが、やはり残っていなかったようで、続くメールはありませんでした。
 鈴江さんは平成17年に「古文書あれこれ」に書いたものなどを含めた本「開拓使文書の森へ」を出したのです。それにブルックス着札饗宴の記事も収められているのですが、新たに松坂芳勝氏が書いた「一二二年前の料理に挑んで」が入っていて、アラビスはオリーブとの煮物と明らかにしていた。これでアラビスは決まりですね。資料その3は松坂さんのアラビスと渡辺金次郎についての考察です。松坂さんが札幌パークホテルのシェフだったとき、この献立を再現する試みがあり、その話の一部なのです。

資料その3

<略> 鈴江氏もサンヒレニョ・アラビスに困惑の御様子であった。外国人の発する外国語を聞きとり今日古文書として残っている事から、メニューの解読は大変だった。が、サンパン、パーンと書いた渡辺金次郎は仏人コックと仕事をしていたと私は直感した。カへー、フロンケッキといった言葉も興味深く、「カモノニモノ アラビス」は「キャナ アロビス」 Canard al'Olives オリーブ煮と私は思った。古典のフランス料理である。サンヒレニョはシャンピニョン、きのこの事である。スーパーにも並んでいるマシュルームの仏語読みである。このメニューも多国語から構成されはしているが主体になっているのは仏語であり、メニューを書いた渡辺金次郎は、明治五年正月ケプロン札幌出張にともないコックに採用されたが、築地小田原町在住で、傍には築地ホテル館があった(二月の大火で消失)。支配人はルール、シェフはペギュー(フランス人)。ケプロン来日の際のここでの安着晩餐会では、ケプロン日誌には「フォワ・グラ他、二五のアントレ」とあるように、今日の高級フランス料理が登場している。渡辺金次郎がこのホテルで仕事をしていたのであればメニューにフランス読みが出てくるのに不思議はない。<略>

  

参考文献
上記(1)の出典は仮名垣魯文著「安愚楽鍋 三編上」26丁表、明治5年、誠至堂=近デジ本、 (2)は開拓使・簿書5483件番号324「下コツク常吉暇申付ノ件」、文書館=原本、 (3)は同6592件番号11「コック其外月給取極ノ件」、同、 (4)は同5716件番号173「ケプロン出張ニ付コツク金次郎外二名、雇入ノ件」、同、 (5)は日吉良一編「資料西洋料理渡来四百年史」99ページ、昭和37年8月、全日本司厨士協会北海道本部=原本、 資料その1は札幌時計台1階、尽波撮影、 資料その2と (6)は北海道行政資料課編「赤れんが」22号29ページ、鈴江英一「古文書あれこれ[20]開拓使外事課の簿書から―御雇教師ブルックス着札饗応ニ付献立表―」より、昭和47年12月、北海道、同、 (7)は紫紅会編「紅」109号14ページ、昭和52年6月、紫紅会、同、 (8)は前坊洋著「明治西洋料理起源」97ページ、平成12年7月、岩波書店、同、 (9)と(10)は日本植物調節剤研究協会編「植調」37巻5号27ページ、平成15年5月、日本植物調節剤研究協会、同、 資料その5は鈴江英一編著「開拓使文書の森へ ―近代史の発生、様式、機能―」134ページ、松坂芳勝「一二二年前の料理に挑んで」より、平成17年3月、北海道出版企画センター、同

 「徳川慶喜家の食卓」という本に慶應3年、慶喜公が大阪城で外国外交団を接待したときのメニューが書いてありますが、それにベチホアソテー、白えんとふ豆とありカッコして「プティ・ポア・ソーテ/えんどう豆のバター炒め(11)」と添え書きがあります。つまり金次郎メニューのペテホアですね。それから鈴江さんは「赤れんが」で紹介したとき、デザートの「アイスケーレンはアイスクリーム、ドイツ語読みだろうか。フロンケツキはプラムケーキ、ゼリはゼリー、ヅヤムタヅはジャムタフィーのことか。(12)」と書いたのですが、これは斉藤さんも異議無しだったようです。
 これでメニユーの謎解きは終わったのか。いえいえ、森の石松のセリフじゃないが、何か忘れちゃいませんかってんだ。はい、メニューに5回も出てくるイモですよ、イモ。鈴江さんは「四、五に同、とあるのは、三のイモを受けているので、ジャガイモ添えの意味。(13)」と書いていますが、つけ合わせがイモばっかりは芸がなさ過ぎる。
 しかし、共立女子大の松島千代野教授は素直に「ばれいしょ添え」と解釈した。だから料理の3は「鶏の胸肉焼/グリンピース・ばれいしょ添え」、4は「鹿肉洋酒蒸煮/サンヒルニヨ・ばれいしょ添え」、5は「かも肉の蒸煮/アラビス・ばれいしょ添え」、6は「鹿肉のロースト/トマト・ばれいしょ添え」、7は「当時は本当に白鳥が用いられていたようである。」と断り、豆と一緒に煮たか炒めたとみて「白鳥のロースト/いんげん豆・ばれいしょ」と論文に書いたのです。
 松島教授のこの論文は、ブルックスが帰国するとき清水ナカという札幌出身の女性がついて行き、清水がアメリカにいた5年間の活動と帰国してから教えた料理などを家政学の見地から考察
(14)しており、ここで取り上げるよりも、清水の玉蜀黍料理を高く評価していた新渡戸さんと興農園の講義の方で、松島論文における清水ナカについて話すことにします。
 問題はイモ、イモ。4回は同の字に似た区切り符号と考えたりしたけど、ページが変わった6のシカのロースでまたイモだから、そうともいえない。資料その2の写真をよく見なさい。こんな風に書いてあるのに、齋藤さんと松坂さんはノータッチ。料理のわかる人ほど、この変なイモについて講釈しない方が無難、君子危うきに近寄らずと敬遠されたんじゃないかな。そうなると私は料理人じゃないから、なぜこんなにイモを出したのかと、ここ何年も考えてきました。
 しかし、勇敢にもイモを取り込んだ再現料理を見付けたのです。灯台下暗し、開拓使文書を調べるためちょいちょいご厄介になる道立文書館の展示室、あの赤煉瓦の旧道庁1階にあるんですが、そこでブルックス先生歓迎会のメニューと北海道テレビが昭和56年元日に放映した画像の写真があったんですなあ。資料その4がその一部の写真で「五.カモ肉の蒸煮とアラビス、ばれいしょ添え」と読めるでしょう。これが読めるように撮ったため右の「七.アヒルのローストと、いんげん豆、ばれいしょ(当時は白鳥が使われた)」という説明が入りませんでしたが、並んでいる白い塊がイモなんでしょう。

資料その4

   

 開拓使文書には「貴賓用のパンには必ずよき麦粉を用ゆべき旨金次郎に厳達あれ(15)」いう電文が残っているくらいですから、金ちゃんは気分次第で手を抜くこともあったかも知れません。だが、ちゃんとしたメニューを差し出し、それで今日まで残っているのですから、腕によりを掛けた料理に違いないのです。求めよさらば与えられん―ですよ。ヒントは昭和3年の本に横濱ホテルニューグランドの松崎紫朗という人が「西洋人は食卓に肉料理があったらパンよりジャガイモを食べる」と書いていたことです。それが資料その5。一読して私の頭にピッ、ピッと2回、閃きが起きた。

資料その5

   邦人に洋食を希望
              横濱ホテルニユーグランド 松崎紫朗

 過去十年間の海外生活を回顧するに、実に現今日本に於ける食糧問題は、等閑に過ごす可きものでないと考へます。即ち日本人食糧品の主要なる米の産額は、人口増殖に反比例し年々歳々外米の輸入に依り、辛ふじて其難を凌ぐ様な状態で誠に寒心に堪へない次第であります。
 そこで私は皆様に是非経済上保健上、食膳の改良を力めて洋食化する事を御勧め致し度いのであります。其れは鳥獣肉及馬鈴薯の使用を増して、米の如きは副食物位の程度に止めて置き度いのです。
 現今内地の獣肉類の相場では、上述の改良は到底急には遂げられませんが、皆様が、此の点を今から御心掛け下さるのみでも充分と思ひます。強ち高価なヒレとかロースのみを、調理するのが洋食ではないのです。欧米人は日常の食膳を変化させる為めに牛、羊の内臓をも賞味するのです。是れは正肉とは一寸風味が変はり価額も安い一挙両徳と存じます。内臓と申しますれば、即ち牛の舌、心臓、胃の腑、肝臓、腎臓の如きもの、又羊ならば脳味噌、舌、腎臓等其れ/\゛調理を加へて食膳を賑やかにするのです。そこで獣肉の需要が多くなれば必ず生産高も殖へ、從つて値段も安くなるのは當然の理であります。<略>
 次に日本で洋食と申しますればパンを三つも四つも食べなければ承知出来ない様ですが、西洋人から見たならば必ず驚くに相違無いと思ひます。是れでは洋食の御勧めも無駄同様です。西洋人は食膳に肉のある場合は。殆んどパンの存在を無視して、其の代りに馬鈴薯を用ゆるのであります。故に筆頭第一に馬鈴薯の食用を御勧めしたのも此点にあるのです。
 是れを要するに欧米人は獣肉類の各部分に、適合せる調理法を心得て居ますから、経済的に其効力を収められるのです。体格偉大なる欧米人が、しかも少量なる食物で一大活力を発揮し得るのを見ても如何に洋食が、栄養と滋味に富めるかを立證するものであります。願くば以上の理由のもとに遍く皆さんに、洋食の摂取を御勧めしたいのであります。

 最初のピッはホィーラー先生の手紙。資料その6にした太田雄三著「クラークの一年」のイモの食べっぷりです。これはクラークさんたちの食生活は随分豊かだったとしてホィーラーが明治9年9月10日付で母親に送った手紙を引用したくだりです。小さなイモだったとしても1人40個も食べたなんて大食漢ぞろいだったのかと記憶に残っていました。ただ高崎哲郎氏による「評伝 お雇いアメリカ人教師ウィリアム・ホィーラー」にもこの手紙が載っていますが、気象観測の機器がそろったので9月1日から1日3回観測を始めたなど真面目なところだけを訳出しており、イモのことは載っていません。

資料その6

 この前の水曜日〔一八七六年九月六日〕を例にとると、ぼくたち三人は夕食の時実に百二十五個の新鮮なじゃがいもを食べました。(実際に数えた数です。)しかも、それはちょっとした付け合わせにすぎなかったのです。食事の主要な料理として出たものの中では、魚、鹿肉、鳥肉にかぼちゃ、さやまめ、玉ねぎ、きゅうりを添えたもの、パン、それにすもものパイなどが今でも思い出せるものです。そしてぼくがいま挙げた例は別に特別なごちそうではなく、ぼくたちの普通の夕食です。

  

参考文献
上記(11)の出典は徳川慶朝著「徳川慶喜家の食卓」53ページ、平成17年9月、文芸春秋=原本、 (12)は北海道行政資料課編「赤れんが」22号29ページ、鈴江英一「古文書あれこれ[20]開拓使外事課の簿書から―御雇教師ブルックス着札饗応ニ付献立表―」より、昭和47年12月、北海道=原本、 資料その4は道立文書館展示室のテレビ画像写真、尽波撮影、 (13)は鈴江英一編著「開拓使文書の森へ 近代史料の発生、様式、機能」128ページ、 平成17年3月、北海道出版企画センター=原本、 (14)は松島千代野編「ホーム・エコノミックス形成期の食文化史と日本洋食文化の生成発展に関する研究」75ページ、昭和63年3月、共立女子大学家政学研究所=原本、(15)は開拓使・簿書3216件番号101「貴賓用ノパンニハヨキ麦粉ヲ用ユベキ旨キンジロウヘ厳達方ノ件」、文書館、同、 資料その5は横浜西洋料理聯合組合編「横浜西洋料理聯合組合創立記念帖」ページ番号なし、昭和3年7月、横浜西洋料理聯合組合=館内限定デジ本、 同6は太田雄三著「クラークの一年」131ページ、昭和54年8月、昭和堂=原本

 2つ目のピッはイモの入れ物、器です。ロシア皇太子が北海道を訪れるというので開拓使が買った接待用食器のリストが文書館にあったので、何かに使えるかも知れないと書き写しておいたのです。資料その7はその一部ですが、この芋鉢が閃いたんですなあ。高級品でも中級品でも大体6人で1鉢使うらしい。だが、いまは芋だけの鉢とか皿は出すレストランはないから、フィンガーボウルの間違いじゃないかと思ったが、こうちゃんと書いてあるし、クラークさんたちの食べっぷりから付け合わせではなく、明治時代は芋サービスがあったかも知れないと思っていました。そこへ松崎さんのパンよりイモを食べるという話を読み、こういう専用の丼とか鉢が本当にあったのだと理解したのです。それでこの講義の教案を書き換える踏ん切りが付いたんですよ。

資料その7

一、上等喰器 壱組
  内訳
喰皿   廿四枚    芋鉢   弐ツ
菓子皿  廿四枚    野菜鉢  〃
チース皿 拾弐枚    ソース丼 〃
ソツプ皿 拾弐枚    チース丼 〃
持廻り盛出し皿 六枚  ソツプ丼 壱ツ
肴皿   壱枚     サラダ入 〃
            パン入  〃
〆数 九拾 外ニ臺皿 拾枚


一、中等喰器 壱組
  内訳
喰皿   廿四枚    芋鉢   弐ツ
菓子皿  廿四枚    野菜鉢  〃
チース皿 拾弐枚    ソース丼 〃
ソツプ皿 〃      チース丼 〃
持廻り盛出し皿 五枚  ソツプ丼 壱ツ
肴皿   壱枚     サラダ入 〃
〆  八拾八枚


一、上等コーヒー道具一式<略>
一、中等コーヒー道具一式<略>
一、上等金物類<略>
一、中等金物類<略>

 この芋鉢2個はそのまま残り、明治14年11月に原田伝弥が豊平館をそっくり無料拝借したときの物品リストに載っており、調理用器具のなかに芋丼、スツプ丼、サラダ丼という名前で各2個を拝借したことになっています。だから原田時代の豊平館では芋丼でジャガイモを出したかも知れません。
 それからね、私も年だからミニ終活をしていたら、もう1つ芋鉢入りの資料が出てきたので、今回追加します。内容は東京出張所の教師取扱掛が常備している諸道具の一部を札幌送りしたので、その分の補充品リストですね。最後の説明から芋鉢は6人に1鉢という見当で使われたと考えます。
 皆さんにはちょっと喜ばしいかも知れないが、実はね、9月にちょっと入院するので休講します。それで移転のため10月から休館になる道立文書館へ行けそうにないので、さし当たり資料扱いせずスライド2枚で見てもらうことにします。コピーした順序からみて、これは後ろにある資料その21の「教師取扱掛ヨリ料理受負伺」の開拓使簿書5495と同じ簿書だと思います。

スライド1

七月晦日
教師賄用物品買上之件
   教師取扱並用度掛ヨリ伺
此節米国人アンチセル並ニ外国人御雇相成近日中
本使ヘ到着之筈御座候處是迄御備置之諸道具先日
札幌表ヘ御差廻相成不足致候ニ付別紙之品々更ニ
御買入被仰達御備置相成度此段相伺候也
 五月晦日
別紙
    買上物品
鏡         四面
シイツ       弐拾四
マクラ袋      弐拾四
西洋臺附属共    六組
タオ        弐拾四
蚊帳        六張
フランケット    拾枚
ヤクミ臺      壱組
塩壺        四ツ
酒徳利       弐本
水徳利       弐本
バタ皿       壱組
ナイフホコ     大小十二ツゝ
ソウフスホン    六本
フリンスホン    同
チース皿      十二
タウロ       同
セリグラス     同
キヤラグラス    同
サンハングラス   同
喰皿        同
菓子皿       同
持廻リ皿      五ツ
芋鉢        壱ツ
カヘヱ茶碗     六ツ
茶茶碗       六ツ
ランフ       拾
イス        弐拾脚
カヘヱコシ     壱組
ソウフサシ     壱本
右者教師附御道具六人前不足分右之通此段御備
置願度候也   六月日欠


スライド2
     

 しかし、今の日本のレストランではジャガイモの芋鉢なんか絶対に出ません。でも出すとしたらどこに置くのか。給仕が鉢を持って廻るのか、2鉢だからどんと2カ所に置きっ放しにするのか。洋食の本を見ると食べ方、エチケットは詳しいが、サービスする側からの食器の置き場所は余り詳しく書いていない。だいぶ掛かりましたが、なんとか芋皿を含む食器の配置図の付いた本を1冊見付けました。資料その8の2つの配置図です。
 長崎の活水女学校の外国人教師ヴェラ・ジョセフィン・フェアが書いた「西洋料理」によると、芋皿があるのはインフォーマルサービスの食卓で、上の図の左下の矢印のところだが、フォーマルサービスの下の図の食卓にはない。別の講義で仮名垣魯文のカレーライスでで出てくるシトルトスプウン匙は塩匙だと私の見解を述べたが、この内輪の席でもソルトとペッパー容器が2人に1組の割合で置かれている。匙を描いていないのは、それぞれの容器に差して出したからと考えます。

資料その8

 フェアが示したインフォーマルな食事の食器の配置図
    
       


 フェアが示したフォーマルな食事の食器の配置図
   

 資料その7で上等、中等共に芋鉢2つなのは、くだけた食事会のとき客と人数に合わせて使うためと説明できます。金次郎のメニューはサービスプレートの料理が鶏笹身から白鳥料理までの5品と変わっても、その間はポテトを盛った鉢か皿を出して置き、廻して取り分けた。もしかするとマッシュ、フライ、ベークなどと替えたかも知れないが、いずれにしてもイモには変わりがないので、単にイモと書いたのでしょう。ですからブルックス歓迎会は、ジビエとワインの正式晩餐会と思われてきたけど、実態は張り込んだ内輪の夕食会だったとみるべきだと考えます。なにしろ彼等は高給取りだったのですよ。それを忘れちゃいかん。
 芋鉢は使わないとしても、ジャガイモで1品もありでした。明治38年に出た「婦女子の本分」という本に「西洋料理の簡易なる献立」として「初め 牛鶏又は蝦、牡蠣のスープを何れか一皿/二度め 煑魚又は油煎魚の内一皿/三度め 鶏、牛豚のカツレツの内一品/四度め オムレツ又は馬鈴薯の内一品/五度め ヒステキ又は牛鶏肉スチウの内一品、カレー料理を併せんとすれば右の肉に換へて此際出すべし/最後 果物菓子等(16)」と教えています。茹でた芋1皿でもオムレツとタイに見ていたことがわかりますね。
 もっとちゃんとしたメニューで裏付けられないかと探したら1冊見付かりました。資料その9にした「常磐西洋料理」という明治37年の本です。ボーカスという人の著書になっていますが、序文の前に「常磐西洋料理/数年間常磐雑誌に『手軽西洋料理』を寄贈せられしミセス、ビンフォルド夫人の筆に成れるもの(17)」と注があり、このころのミッション系の雑誌「常磐」に筆者名なしの西洋料理のページがありますから、ビンフォルド著が正しいのでしょう。
 197種の料理の後に献立の例として朝食、昼食、夕食各7通りの献立が載っているのですが、必ず芋料理が出るデンナーと呼ぶ夕食を引用しました。明治の本なので句点の使い方が統一されてませんが、ディナーには欠かせない一品だったことは明らかだ。

資料その9

   デンナー(正餐)献立
    人により此献立を昼飯に用ゐ或は夕飯に用う

 備考、デンナーには最初にスープを供し、之がすみたる時肉と
    野菜とを一緒に供し終りにブッデングとカフヒーとを供
    すべし、而して食パンとバターとはデンナーの始よりい
    だし置きてプッデングが食さるゝ前に取り去るべし

一 クレアースープ、 チッキン、ポット、パイ、 ボイルトポテト(煮たる馬鈴薯)ピース(豌豆)セレリー、サラダ、 ソースを添江たるアップル、ダムブリング、 カフヒー
二 セレリースープ、ビーフ、ローフ、ベークド、スウィート、ポテト(蒸焼にしたる甘藷)、 スチュード、トマトー(煮たる赤茄子)ポテト、サラダ、 セーゴ、プッテング、 カフヒー

三 トマトースープ(赤茄子のスープ)ハンブルグ、ステーキ、 ベークド、ポテト(蒸焼にしたる馬鈴薯)エスカロプト、オニオン、 萵苣のサラダ、ミルク、ジエレーとかすていら、 カフヒー

四 クリーム、オフ、チッキン、スープ(牛乳を入れたる鶏肉の吸物)ロースト、ビーフ潰したる馬鈴薯と蕪菁、シューガード、ビーツ、 ベークドカスター、 カフヒー

五 ベジテーブル、スープ、 焼魚、 ボイルド、ポテト(煮たる馬鈴薯) クリームド、カリフラワーブ、 ララオン、ベッテー、カフヒー

六 クラム、ブロック(蛤の吸物)フライド、チッキン、ピース(豌豆)馬鈴薯、 アップル、スノーとジンジャー、ケーク、 カフヒー

七 ロースト、チッキン、 甘藷、 クリームド、 ターニップ、 アップルとナット、サラダ、 パンのプッデング、 カフヒー

 饗応正餐献立
クラム、ブロッス(蛤の吸物)煮た鮭とクリーム、ソース、ロースト、グース(蒸焼の蒼鵞)潰したる馬鈴薯、 ピース(豌豆)セレリー、サラダ、アイスクリームと菓子、果実、カフヒー

 クリスマス正餐献立
クレアースープと四角な焼きパン、フライド、フイッシュ(揚げたる魚)ローストターケー(七面鳥の蒸焼)甘藷、マッシュド、ポテト(潰したる馬鈴薯)ブラッセルス、スプラオツ、イン、クリーム、ソース 食パンとバターとプラム、ジエレー、林檎のサラダ、プラム、プッデング、果実、ナツゝ(胡桃)糖果、カフヒー

 また給仕のやり方は資料その10にしておいたが、ポテト皿の扱いに触れていない。フェアの本に載っている13種のポテト料理のうち、肉に添えて供すというのは2種だけであり、配置図では肉皿、パン皿、野菜皿と同じく芋鉢も1枚で匙を添えているから、各自がそれぞれの皿に取っては隣へ廻ようにしていたと考えます。
 ケプロン日記には「浜御殿の昨夜の宴会は、大きな出来事と言えよう。出席したのは約二十二人の代表的な人物で、総理大臣(三条)以下、日本帝国最高の地位にある人たち全員である。二十コースの料理が出て(注21)、テーブルに四時間座り続ける。<9月10日>」と「ヨーロッパ風のもてなしで、十か十二コースの料理が出され、ワインは種類も多く立派な品である。<6月12日>(18)」と2カ所でコースという数え方をしている。金さんのメニューも8まで番号を振り、7まで芋が付いているから、ケプロンがブルックス歓迎会に出ていたら8コースの宴会だったと書き残したと思うのです。

資料その10

      西洋料理の食卓の準備

 給仕の方法には正式にする仕方と、英国風、折衷風と呼
ばれる仕方の三種ある。第一の仕方は大勢のお客様の時に
よく、一人前宛きちんと附けわけ、お給仕人が食卓に運ん
でお客様に差上げ、万事お給仕人が責任を持つて落ち度の
ないやうに努めるので、主人夫妻は安心してお客様とお話
し、おもてなしが出來る。
 英国風は食物は総て食卓に運ばれ、主人夫婦がつけわけ
る。肉を切つて附けるのは主人の役、それ以外の食卓での
事は万事主婦の役目で、附けわけたお皿はそれぞれ給仕人
が配る。主婦は座がしらけぬやう、食品も落ち度なく行き
渡るやうにするにはなかなか氣骨が折れる。
 折衷風とは第一の仕方と英国風と混ぜたもので、或るも
のは皿につけわけて食卓に運ばれ、或るものは食卓でつけ
わけて給仕される。
 食卓掛は純白でしみやしわのない綺麗な麻をなるべく用
ひ、卓上の装飾もさっぱりとする。ナイフ等が木にあたっ
て音のせぬやうテイブル掛の下には白い毛布様のもの又は
ネルを敷く。
 テイブルでは、ナイフ、スプーンは右側に、フオークは
左側に置かれ、二本以上フオーク、ナイフ、スプーンを置
く時は先に使ふものが外で、後に使ふもの程中に置く、し
かし又各自の流儀もある。ナイフ、スプーン、フオーク、
ナプキン等総て食卓の端から三糎位の距離に一直線になら
べねばいけない。
 洋食では必ず水を頂くので食事の準備が出來たら水の用
意を忘れてはならない。

 またまた蛇足なんですが、豊平館の新聞記事を捜していたら、アメリカ人は馬鈴薯食の国民だという記事がありましたので、資料その11にしました。筆者小川隆子は「北大アウロラOB会報」などによるとピアニストで、建築家でバイオリニストの田上義也、チェリストの飯田実と北光トリオを組み活躍したそうで、大正14年から庁立札幌高等女学校教諭、いまの札幌北高の先生でした。(19)この書きっぷりからアメリカでピアノを学んだようにと思えますが、クラークさんたちが芋好きだったという裏付けの一つです。

資料その11

米の代りに何を食ふべきか
   何んでもかでも米でなければ
       といふ時代でない
【上】             札幌 小川隆子

<略>どうしても、私共は米以外に中心となる可き食物を他に求め
ねばならないのであります、私共は小さい時から米の飯を食べさせ
られました、米飯で空腹を満たすことを親から伝授されました。米
飯の茶碗数で空腹の時と空腹でないときの
◇腹加減を    することを学びました。何はなくとも香の物と
米の飯で腹を満たすと言ふやうなこともあります、米が充分に国民
に行渡つた時にはそれでも、よかつたてありませう、然し最早その
やうな時代は過去つたと思はねばなりません。米国人はパン食の国
民であると言ひます、然し実際は馬鈴薯食の国民であります、彼等
自ら馬鈴薯食の国民であると申て居ります。私共が馬鈴薯を沢山食
べるやうに日本では米を食べるのかとは屡々受ける問であります、
パンと肉では生活できぬ、どうしても馬鈴薯がなくてはならぬと言
ひます、日本人がどんなに米が高くても米を食べる如くに、米国人
は馬鈴薯の価がどんなに上つても矢張食べて居ります、戦争当時一
時馬鈴薯が非常に高価になりました、或人が馬鈴薯一個持つて電車
に乗り車掌にそれを出したらば
◇其車掌は    喜んで五仙白銅と取代へてくれたと云ふ話しが
あります。米国でも馬鈴薯は安価な食料品の一でありますが之がな
ければ主婦は非常に困難を致します。普通の家庭の食卓に最も分量
多くのせられるものは馬鈴薯であります。然し馬鈴薯が常食である
と申しても、いつも同姿で食卓に現れては厭きるものでありますか
ら晝飯に煮たらば夕飯には油揚にする、翌日はつぶすと言ふ様に其
他種々料理法をかへて出します。米国人が食するパンの分量はどの
位であるかと云ふに烈しい労働をする人々は例外として大抵普通一
人一食にパン一切れか二切れであります、それでありますからパン
食の国民と言ふよりも
◇馬鈴薯食    の国民と言ふ方が適当でありませう。北海道は
馬鈴薯のよく出来る土地でありますから、もつと之を食し食糧品と
して重要なるものと致し度いと思ひます。

  

参考文献
上記資料その7の出典は開拓使・簿書5724件番号83「魯国王子来港入用ノ西洋食品並ニ陶器類買上、損傷ノ件、文書館=原本、 資料その8と同10はヴェラ・ジョセフィン・フェア著「西洋料理」233ページ、昭和10年9月、活水女学校=館内限定デジ本、 (16)は(帝国婦人学会編「家事実用 婦女子の本分」138ページ、明治38年5月、廣文堂=インターネット公開本、) (17)はボーカス著「常磐西洋料理」ページ番号なし、明治37年12月、常磐社=都市横濱の記憶、 http://iss.ndl.go.jp/
books/R000000196-I000 002047-00、資料その9は同114ページ、同、 (18)はホーレス・ケプロン著、西島照男訳「ケプロン日誌 蝦夷と江戸」37ページと91ページ、昭和60年2月、北海道新聞社=原本、 (19)は札幌市教育委員会文化資料室編「札幌と音楽」106ページ、大塚夏生「室内楽と器楽(独奏)」より、平成3年6月、札幌市及び北海道庁編「北海道庁職員録 大正14年2月現在」245ページ北海道庁=原本、また「北大アウロラOB会報」2面の記事を加えたが、これはhttp://music.geocities.jp/閉鎖により閲覧できない、 資料その11は大正12年3月17日付北海タイムス朝刊4面=マイクロフィルム

 全日本司厨士協会北海道本部顧問だった日吉良一さんが昭和37年に「明治七年ケプロン一行が札幌入りと共に左の八人が來道した。」と渡辺金次郎はじめ8人の名前を挙げました。これを日吉8人説とします。ケプロンが初めて来道したのは明治5年の間違いとわかったためと思いますが、日吉さんは翌年、来道時期をぼかして「開拓使の御雇教師になつて札幌へ来た人々」と言い方を変え、小口一太郎は小口平二の子供だったと1人減らして7人に変更したので、それを日吉7人説と呼ぶことにします。以来横濱から札幌にきたというこれらコックの人数は、筆者によって8人説か7人説のどちらかになっています。資料その12にその主なるものをまとめました。日吉さんの7人説、8人説とその流れに属する各説それぞれ参考文献と照らし合わせずに済むよう特に出典を付けておきました。

資料その12

(1)8人説
 明治七年ケプロン一行が札幌入りと共に左の八人が來道した。渡辺金次郎(チーフ)、小田島文司、渡辺伊之助、小口一太郎、船木誠太郎、木村清次郎、小口平二、村山吉五郎。更に明治十二年にはペン・ハローのコツクとして東京から随行して来た人に原田伝弥がある。この人は後に(十四年)市内大通り西二丁目に西洋料理店を開業「魁養軒」と称した。これが札幌における最初のレストランであるが、今残された銅版画で見ると当時としては非常に立派な洋風建築であることが推察される。<略>
(日吉良一編「資料西洋料理渡来四百年史」99ページ、昭和37年8月、全日本司厨士協会北海道本部発行)


(2)7人説
 開拓使の御雇教師になつて札幌へ来た人々も矢張り横濱派の人達で、渡辺金次郎が頭領で、小田島文司、渡辺伊助、小口平二、船木誠太郎、木村清次郎、村上吉五郎(以上明治4年)。後明治12年ペン・ハローのコツクとして原田伝弥が来札したが、この人は東京派であつたと聞いている。<略>開拓使の雇われてきた外人教師付コツク8人のうち以上五人<注=渡辺金次郎、渡辺伊助、小口、木村、村上、原田>を除いた三人は、恐らく横濱へ帰つたのではないかと思われるが、<略>
(北海道地方史研究会編「北海道地方史研究」48号16ページ、日吉良一「北海道地方洋食史(1)」より、昭和38年10月、北道地方史研究会発行)


(3)7人説
<注=ブルックス歓迎会の>献立を作った渡辺金次郎は、一八七一年(明治四)に開拓顧問ホーレス・ケプロン一行に従って横浜から来道したコック七人の筆頭の人物である。彼らは御雇外国人や札幌農学校寄宿舎の調理のほか、パン製造、鮭、鱒、鹿の罐詰製造所の調理に当たるなど、開港地函館のコックとともに札幌といわず北海道の洋食普及の先駆者となった。ただこの渡辺金次郎・伊助兄弟は、大酒で身を持ちかね一八八二年(明治十五)に横浜に帰されたと言われている(日吉良一「北海道地方洋食史」(一)(『北海道地方史研 究』第四八号、 一九六三年、所収))。<略>(鈴江)
(鈴江英一著「開拓使文書の森へ ―近代史料の発生、様式、機能―」129ページ、平成17年3月、北海道出版企画センター発行、底本は北海道庁編「赤れんが」22号29ページ、「20 開拓使外事課の簿書から―御雇教師ブルックス着札饗応ニ付献立表―」、昭和47年12月、北海道庁発行)


(4)8人説
 明治二年(一八六九)新政府は札幌に開拓使庁を置いた。その次官黒田清隆は、開拓の教師として米人ホーレス・ケプロン以下七六人の外人を雇い入れた。
 一行は明治四年六月、黒田次官とともに來日したが、彼らに供する洋食の調理師を集めるのは大仕事だった。それでも横浜で集めた日本人コック八人が一行とともに来札、札幌に初めて洋食なるものがお目見得したのである。そして同十二年には、ペン・ハローのコックとして東京から原田伝弥が来札、以上九人が札幌洋食の創世紀を切り開いたのである(日本司厨士協会の話)。
(札幌市教育委員会編「札幌事始 さっぽろ文庫7」264ページ、五十嵐久一「洋食」より、昭和54年1月、北海道新聞社発行)


(5)8人説
 札幌に本格的な洋食のコックがやってきたのは明治四年。開拓使お雇いの外国人技師たちとともにやってきた、横浜出身のコック八人であった。これが開拓使ルートとすれば、明治十二年東京からきた原田は札幌農学校ルート。ペンハロー教授の調理係として札幌にやってきた。
(札幌市教育委員会編「開拓使時代 さっぽろ文庫50」186ページ、吉岡道夫「原田傳彌」より、平成元年9月、北海道新聞社発行)

 五十嵐さんは8人説ですが、これは司厨士協会が日吉顧問の書いた「資料西洋料理渡来四百年史」の通り、つまり古いバージョンの8人説を聞かせたからでしょう。それはそれとして、なぜ7人も一緒にきたのは、ケプロンが日替わりで料理を作らせるためとか、兄弟分の盃を交わした仲だったとか、その理由を説明した郷土史家は1人もいません。
 ただ日吉さんは何の根拠もなく7人説を唱えたわけではないとみられるのは、明治43年に大村耕太郎という人がまとめた「札幌区史編纂材料調査書」が札幌市中央図書館にあり、その中の「諸職業創始」に渡辺金次郎はじめコック5人の名前があるからです。資料その13(1)は「諸職業創始」の一部、同(2)は調査書の奥付です。
 原田のヘンハロはペンハロー、小口、舩木のコークはコック、それから「親分トナシ」の次に「尚ホ當時…」と別のことを少し入れたのは「親分にした。」という意味の「親分トナス」の「ス」をなまって「シ」と書いたため誤解してはいかんと私が「尚ホ…」以下を足しました。写本の書き手が誤字が多いと奥付に書くわけです。
 また資料その13(3)はね、大村調査書の20年前に出た深谷鉄三郎という人が語ったコックに関するうわさ話で北海道毎日新聞の記事からです。以前の講義で話したかも知れないが、諸君も覚えいないだろうから、リサイクルしておこう。はっはっは。

資料その13

(1)
   諸職業創始
開拓使ノ御雇トシテ諸種ノ職業専門家ヲ募
集移住セシメタリ其姓名職名ハ
 武林盛一(写真師)(六年函館/ヨリ来)
 黒柳喜三郎(馬具師明治八年/六月東京ヨリ)
 渡辺伊之助(金次郎弟/仝人ト仝ジ)
 岩井信六(靴職 九年農業/靴製ノ為来札)
 原田傳弥(西洋料理十二年/ヘンハロニ使東京ヨリ来)
 伊勢源三郎(製革業札幌ニテ/店ハル仙台人)
 木村清次郎(農学校販金次郎ニ属/シパン製造者ナリ東京)
 伊藤辰蔵(西洋洗濯/六年来)
 渡辺金次郎(外人コツク/七年東京ヨリ)
 曽根清(馬具師九年/静岡人ナリ来)
 島田兼吉(洋服仕立十一年/東京ヨリ来)
 小口一太郎(コークニテ渡辺金次/郎ニ属シ東京ヨリ来)
 盛重吉(水車業ニ雇ハレ/岩手縣人)
 舩木誠太郎(コークニテ金次郎/ニ属シ秋田縣人)
以上是等ハ皆団体ヲ作リ石川正蔵ヲ親分トナシ
尚ホ當時諸職ニ於テ卒先札幌ニ移住シタル者
ヲ挙ケンニ
御用達 井筒屋木村傳六(水戸人)


(2)
一、表題 明治四十参年札幌区史編纂材料調査書大村耕太郎
二、所有者 札幌市大通西五丁目 大村耕太郎氏
三、十一行赤罫大村商店用紙五十三枚ニ記載アリシヲ五月
  四日ニ着手之ヲ全写ス
  昭和四年五月九日(印)
          原簿ニハ誤字夥シキモ其儘全写ス
          照合済 (印)


(3)
<略>西洋料理は開拓使で横浜でコツクを致して居た渡邊金次郎と云ふ者を雇つて來たのか初めてで此人か二三人の下働人を連れて來まして東京などから高位高官の方が御出張になる時分に用度掛から此金次郎に命じて西洋料理を調進致させたのです今の豊平舘の原田さんも其時渡辺に付て参つた人ですか渡辺は極職人風で身持も善くないので其後東京へ帰りました跡で原田さんが遣つて居て今の様な立派なものになつたのです

 渡辺金次郎か札幌にきたのは明治5年で2年違うし、木村清次郎の最初のパン職人も疑義なしとしないが、大村調査書にそう書いてあるということは、深谷談話に尾ひれが付いて渡辺金次郎と伊之助、小口一太郎、舩木誠太郎の5人が札幌に初めてきた西洋料理人であり、明治40年ごろまでに金次郎親分と子分4人、原田は別筋という伝説が出来上がっていたからでしょう。日吉さんはこの調査書を読んだかどうかわかりませんが、杉山正次さんなど洋食関係の古老から聞いた思い出話も加えて7人説を採ったとみられます。
 大村調査書に6人の名前があるのに「札幌区史」の編さん者伊東正三(20)が使ったのは「又西洋料理には渡辺金次郎あり頗る熟達せり、其弟子原田傳彌(東京)明治十二年魁養軒を開けり。(21)」と2人だけ。でも「今開拓使開始以来札幌民業の発達に関係ある者を列記すれば左の如し。(22)」として製靴業、馬具製造業、写真業、洋服裁縫業、西洋洗濯業にそれぞれ4人を紹介しています。
 ところでケプロンの料理番として開拓使がどういう経緯で渡辺金次郎を雇ったのか。横濱の有名レストランにでも行って、アメリカ人の顧問のために腕のいいコックを紹介してくれと頼んだのでしょうか。どうもそうではないらしいんだ。
 書類が完全に揃っていないので、ヒントに過ぎないけど、道立文書館に残る書類、資料その14(1)から開拓使は辛未、明治4年ですが、開拓使東京出張所を通じていくつかの区内に住んでいる西洋料理人を教えてほしいと公式に頼み、そこで金次郎の名が挙がり、選ばれたことが考られます。また同(2)は御雇い教師と関係する仕事で雇うとき身元引き受け人が差し出した念書の1例です。

資料その14

(1)
西洋料理人取調の件
  同上添年寄蒲生喜一郎より届書
       
      第拾八区
        南茅場町
          弐拾七番借地
   西洋料理渡世 金子辰五郎
           未五拾才
  住居
 一間口九間
   奥行三間半  二階建家作壱ケ所
 同続 
 一大蔵弐間半
   弐間   壱ケ所

此者儀右場所自分家作に住居いたし所持地面
は無之家内人数其時妻召仕男女五人都合七人
暮ニ而身元手厚と申ニは無之候得共仮成ニ相
暮し辰五郎義是迄御咎受候義如何之風聞等受
候義無之者ニ御座候
右御尋ニ付内調仕候趣申上候以上

      第拾八区
 辛未   添年寄
  七月    蒲生喜一郎
  −−−−−

浜松町二十二杏完町       第廿弐区

身元仮成ニ而西洋料理致候もの御調ニ付至急
取調候処
        ホテル抱
          料理人
              栄吉
              安蔵
              常吉
右はホテル江抱入相成身元も無之者ニ御座候
此外西洋料理致候もの無御座候以上

       第廿弐区
  七月       年寄
  −−−−−

       第廿六区

神明前辺ニ而西洋料理致候もの有之ニ付身元
其外取調可申上旨御沙汰ニ付相調候処右は先
頃退転致候ニ付区内取調候処
       新幸町
        弐番借地
             上田寅之助

右之者西洋料理渡世仕候ニ付取調候処料理心
得候職人壱人召抱有之家内は其身妻妹壱人右
職人壱人下女壱人都合五人仮成ニ相暮罷在候
ものニ付料理御請負等被 仰付候而も差支候
義ハ御座有間敷奉存候
右取調此段申上候以上

       第弐拾六区
  辛未     中添
   七月三日    年寄共


(2)
教師取扱掛ヨリ料理受負伺
  小伝馬上町山科七藏ヨリ請書
       第一大區小弐區
         小伝馬上町
             岩崎喜三郎
一此者生国ヨリ能存慥成者ニ付私請人相立御
役所様ヘ月御雇恩奉公ニ差上申候處實正也御
給金之儀ハ一ケ月金七両ニ御定メ月々當人へ
御渡被下候段奉畏候萬一當人病気又ハ猥之儀
御座候節ハ私共引請少シモ御苦労相懸ケ申間
敷為後日依而如件
  七月十九日

 別の書類で金次郎は築地小田原町に住んでいたことがわかるから、これで全部ではないことは確かですが、ともあれ開拓使がケプロンを丁重に扱おうとして、こうして慎重にコックを選び、金次郎がお眼鏡にかない資料その12(1)の発令となったのですね。同(2))の辞令ではボーイの名前が変わっていて、聖次郎は庄次郎、新吉に代わって幸太郎になっている。別の文書では西山聖次郎が前借りを申し出ているので庄次郎は誤記でしょう。
 ケプロンの日記を訳した西島照男氏も「蝦夷と江戸 ケプロン日誌」の注釈で「一緒に来た召使三人=ケプロンが最初に来道した明治五年(一八七二年)の五月、北海道行きを前に、開拓使は、コックとして金次郎、雑務として聖次郎及び新吉の三人を採用している。金次郎の給料は月十五円、他の二人は十円。旅費は一日七十銭。(23)」と書いた。これは資料その15(1)の文書に基くものですね。
 私のジンパ学は現場主義を標榜するからには、ケプロンの日記そのものに当たらなきゅならん。だがね、西島氏はミルウォーキーのケプロンの曾孫A氏のお宅を訪ねて(24)ケプロン家の家風を感じ取り「今まで日本では存在が知られなかったケプロン直筆の大学ノートを、訳者が苦心の末、米国国会図書館で見付け、これをマイクロフィルム化して使用した。(25)」という私を凌ぐ現場主義で臨み、そのノートがまた「やや不正確な文と読みにくい文字」(26)のために、イギリス人の友人に手伝ってもらうぐらい悪戦苦闘した(27)というのだから、早々とワシントン詣では諦めました。
 早い話が「ホーレス・ケプロン自伝」とメリット・スター著「ホーレス・ケプロン将軍 北海道開拓の父の人間像」というケプロン3部作を成し遂げた西島氏に敬意を表しつつ「ケプロン日誌」の人事と食事情報を考察します。

資料その15

(1)
 金次郎外二名雇入ノ件
  辞令       <以上朱書>
        築地小田原町
              金次郎
 教師ケフロン北海道へ出張ニ付コツク申付候事
  但し壱ケ月金拾五両
  為旅費一日七拾銭ツゝ被下候事
    壬申五月      開拓使
        三田小山
              聖次郎
        南品川本宿
              新吉
 教師ケフロン北海道札幌へ出張ニ付ボーイ申付候事
  但し壱ケ月金拾両弐分
  為旅費一日七拾銭ツゝ被下候事
    壬申五月      開拓使


(2)
               教師採扱係
        六月十六日迠  会計係
 次官
 五等出仕
 幹事
       西洋料理人  金次郎
       ボーイ    庄次郎
       ボーイ    幸太郎
 右三人者長官ケプロン氏附属罷在候ニ付
 近日同氏北海道ニ出張之節陪従為様可申
 付候此段奉伺候以上
 
   五月廿四日

 ケプロンは3回、道内視察に来てますが「ケプロン日誌」のぺージ数を見ると明治5年の1回目が80ページもあるのに、初めて見るもの聞くものが減った2回目は54ページ、3回目なんか30ページと激減してます。ただ、この日誌は毎日書いたのでなくアメリカへ帰ってから9年後にまとめた「いわば回想風の日誌」(27)という性格のせいもあります。
  

参考文献
上記資料その12各項の出典は各項毎の説明参照のこと、 資料その13(1)と(2)は大村耕太郎編「札幌区史材料調査書」187ぺージ、昭和4年5月、写本=札幌市中央図書館デジタルライブラリー、http://gazo.library.city. sapporo.jp/shiryou Info/shiryouInfo.php?listId=1&recId=345 同(3)は明治31年10月22日付北海道毎日新聞2面=マイクロフィルム、 資料その14(1)は開拓使・簿書5484件番号85「西洋料理人取調ノ件」、道立文書館=原本、 同(2)は同5495件番号54「教師取扱掛ヨリ料理受負伺」、同、 (20)は明治44年7月29日付北海タイムス2面=マイクロフィルム、 (21)は札幌区役所編「札幌区史」735ページ、明治44年7月、札幌区役所=原本(22)は同733ページ、同、 (23)はホーレス・ケプロン著、西島照男訳「ケプロン日誌 蝦夷と江戸」378ページ、昭和60年2月、北海道新聞社=原本、 (25)と(26)と(27)は同5ページ、「はじめに」より、同、 (24)は北海道開発協会編「開発こうほう」263号4ページ、西島照男「ケプロン日誌余録」より、昭和60年6月、北海道開発協会=館内限定デジ本、 資料その15は開拓使・簿書*件番号*「」、道立文書館=原本


 でもね、天気だけは割合真面目に書いている。これはケプロンが連れてきたアンチセルがね、明治4年秋に現地調査をして北海道の気候は亜寒帯であって農業には全く適さないと報告したけれど、温暖な土地ならよく育つモクレンが北海道に生えていることも報告した。それでケプロンはアンチセルの判断は誤りと退け、アメリカの北緯40度以北で育つ作物は北海道でも作れると日本政府に報告した。それで北海道開拓が続行されたのだ(28)と、別の書簡に書いています。
 作物がちゃんと育つという判定に自信はあったにせよ、気にならないわけはない。だからケプロンは天気だけでなく、トウモロコシの生長も観察した。日記に出てくるトウモロコシを数えてみたら明治5年に6回、6年に7回、7年に2回計15回あったので、書き出して資料その16にしました。
 明治6年5月5日のトウモロコシは食材としてであり作物ではないけど、拾っておきました。サッコタシとは注によるとトウモロコシと白隠元に似た豆を煮た料理(29)だそうです。ともあれ最初に植えた年、明治5年の9月2日と10月5日は、アンチ・アンチセル、私の予想通りトウモロコシはちゃんと実ったぞと勝ち誇って書いてますね。各項目の後に入れたページ番号はホーレス・ケプロン著、西島照男訳「ケプロン日誌 蝦夷と江戸」のそれです。

資料その16

明治5年

5月14日 東京
 トウモロコシは、たぶん遅くまく方が良いだろう。秋に霜が降りず、成熟を妨げることがないからである。(79ページ)

5月29日 東京
 トウモロコシと燕麦は、多分被害があるかもしれない。(80ページ)

6月24日 函館
 トウモロコシにはやや寒すぎるが。果物、穀類、野菜、牧草は實に良さそうである。(90ページ)

7月30日 札幌
二十二日に植えたトウモロコシは干天にもかかわらず育ちが良く、実りが早そうである。(124ページ)

9月2日 札幌
 今朝の晴れ渡った天気を見て、また思い出すのは、今まで北海道の気候がいかに知られていなかったか、また、いかに誤って伝えられていたかと驚き呆れるばかりである。
 アンチセル教授は報告の中で、これを亜寒帯の地とし、トウモロコシ、すなわちインディアン・コーンは実を結ばないと言うが、万事反対であることが証明された。ここでトウモロコシは全く立派に実り、毎日の経験では、米国の同じ緯度の所にこのような気候がないことがはっきりした。凡そ、この九月の天候ほどチャーミングなものは有り得ない。(131ページ)

10月5日 札幌
 そして気候といえば、依然として多くの人に誤り伝えられている。特にこれは、入植を遅らせようとする人や、亜寒帯の地であると記録に残した人たちである。この気候では、時と金を掛けて土地を開墾するのは無益で、トウモロコシは決して育たないと主張する。これほど悪く言われた気候が、現在人の住む地上のほとんどあらゆる所で、最も健康的な気候である。
 トウモロコシやすべての食用穀物と果物で、気候温暖な所で育つものは全部、この島では実に申し分なく良くできる。これは、一八七一年、私が島の気候と資源について最初の報告を書いたとき、予想したとおりである。当時、この報告は、日本にいる英国人の物笑いになった。英国人の考えは、私自身が連れて来たある教授によって一時正しいとされたが、教授は実にこの調査のため、私が島へ派遣した人である。(151ページ)

明治6年

5月5日 東京
 ほかの人の料理も、次々と変わるのを見れば、同様に大変な分量である。だが、中味はすべて米と魚、魚と米といった具合で、ただ形が変わって出るだけで、インディアンの酋長がニューヨークの知事をもてなしたのを思い出す。酋長は、知事に負けないようにと料理の数を多くする。妻を呼んで、トウモロコシと豆を下げサッコタシ(注151)を出させる。そうかと思えば、妻は、サッコタシを下げてトウモロコシと豆を持って来る。だが、両者は同じ物で、名前を変えて出すだけである。(183ページ)

7月19日 札幌
 トウモロコシは、六月二十日まで種を蒔かなかった。これでは、イリノイ州の同じ北でも収獲は望めないだろう。これは、ここではやむを得ないことで、指図をする適当な人がいなかったし、また、春早く土地を起こす設備がなかったため遅れたのである。
 万事が正常でなかった。秋に霜が遅く降りればともかく、当然良い出来が期待できないので、トウモロコシの収獲で気候や土地が良く分かるとは言えない。ここでは、春にこの方面の指導をする人がいなかったが、今からでも良く注意すると、家畜の飼料くらいなら十分取れるかもしれない。(210ページ)

7月26日 札幌
 今年トウモロコシを植えるのが遅すぎたのは、御前に記したとおりであるが.急速に後れを取り戻している。もし霜の降りるのが遅ければ、多少の収穫があるかもしれない。たが、あまり期待はできない。(212ページ)

8月12日 札幌
 最初植えたトウモロコシは。丁度房毛が出ている。(213ページ)

8月19日 当別
 ここで作っている作物は、非常に有望である。ほとんど日本種であるが、中には私が輸入したアメリカ種もあって、アメリカと同じように良く育っている。アメリカのトウモロコシが良くできているので、もぎ取って焼いてみる(八月十九日)。(216ページ)

8月21日 忍路近辺
トウモロコシ、トマト、南瓜、瓜、豌豆などを幾らか植えているが、あまり近く植え過ぎるので、当然できるはずが良くできない。(218ページ)

8月28日 黒松内
 焼いたトウモロコシを好きなだけ$Hべるが、ここを亜寒帯の地とする主張の現実は、またこのようなものである。(223ページ)

明治7年

5月12日、13日、14日、15日、16日、17日、18日 東京
 トウモロコシのような作物は、熟すのに時と高い温度が必要で、実ることはないと主張する。しかも当時、トウモロコシは二作とも良くでき、遅く植えたり、また土地の耕し方が悪いにもかかわらず、霜が来る前に十分実が入った。こうして大きな黄色と白のトウモロコシが、東京の開拓使の建物で二年とも一般に公開された。これは私自身が、島のほぼ中央の札幌で作ったものである。(285ページ)

6月21日、22日 札幌
 気持ち良く晴れてくる。作物は良く伸びる。トウモロコシは地上五、六インチ。(297ページ)

 これを読むとケプロンが北海道で始めてトウモロコシを植えたみたいだが、そうなのかなと検索して知った「トウモロコシの科学」を読んだら、もっと昔、長崎経由で日本に種が入っていて「開拓使事業報告」に元禄・享保年間に植えていた(30)と書いてありました。しかも北大図書刊行会から出た山本正編「近世蝦夷地農作物年表」が出典とあったはだ、筋糸入りの北大マンとしては、ああそうかね、では済まされない。脱線します。
 その年表を見たら単に「開拓使事業報告」として「蝦夷地東西移住者往々地ヲ墾キ菽麦黍稷ヲ植ル者アリ」が最古で、次は1796年、寛政8年に出た「プロビデンス号北太平洋探検航海記」の「エトモ。食べ物は,キビ・アワの類などいろいろいである(31)」だった。エトモとは室蘭のことですが、ケプロン以前のトウキビ作りを28例も挙げているんです。
 「開拓使事業報告」は附録も入れると7冊あり「菽麦黍稷ヲ植ル者」を探したら第2編の開墾の札幌本庁の管内のこととして「按ニ元禄享保ノ間ニ當テ蝦夷地東西移住者往々地ヲ墾シ菽麦黍稷ヲ植ル者アリト雖トモ今得テ詳ニスル能ハス天明八年ヨリ寛政二年ニ至ル三ケ年間東部勤番足軽開墾スル所ノ反別左ノ如シ(32)」が全文だった。推定ではいかんよねえ。
 でも開拓使、札幌縣、道庁と続けてトウモロコシを相当の価格で買い上げて栽培を奨励したが、明治19年にこれをやめた。それで札幌の佐藤金治という人が酒造りに使ってみたが失敗。東京で売れないかと送ったら、銕道馬車会社が馬の餌として買うことになり、来年はもっと集荷して売ると語った(33)という記事が明治20年の北海新聞に載ってます。惜しむらくは佐藤さんが造ろうとしたのは、バーボンだったかどうかまではわからん。
 でもね、札幌農学校の農芸伝習生が自分たちの作った「玉蜀黍を以て米に代用し先つ自分等より之れを食くせざるべからずと主唱せしを之れに反対の説を懐もの多かりしかど遂に米代用論者の為めに圧倒せられ愈々此の頃実行するに至」った(34)という記事があるぐらい身近な食べ物になり、明治43年、札幌にいた岩野泡鳴は「放浪」という小説で「焼きもろこし」と書き、ある男に「東京の焼き芋の様に、女の好くもの、さ。(35)」といわせたりしてます。啄木の「焼くる匂ひよ」は改めていうこともないね。
 大正時代の北海タイムスで見付けた漫画をスライドで見せましょう。これでわざと脱線したことが明白だが、ケプロンの遺徳を称えてね。はい、道ばたに七輪を置いて焼いているこれです。


 

 「街頭小景」という見出しの記事は「金星の光る夕暗頃、街頭涼しきアカシアの陰で香ばしい匂が漂ふと札幌の人は『秋が來たな――』と今更らしく感嘆する、姫御前が洋傘の陰にひそんで玉蜀黍を召し上がる風情『此をハモニカと言ふ』は曾て泡鳴が北海情緒の最たるものと感心したのも無理がない(国己)(36) 」とあります。「放浪」のどこかにそう書いてあるのかも知れないから、文学部の学生はこの際一読しておきなさい。キャベツをカイベツなんて北海道弁で書いてあります。
 札幌農学校の校長でもあった開拓大書記官、調所廣丈は「ケプロンは北海道で玉蜀黍が育つと大変喜んだ。アメリカは玉蜀黍のお陰で独立できたといい、アメリカではいまでも紳士令嬢が焼いた玉蜀黍を食べておるといい、パン食の奨励よりも寧ろ玉蜀黍で日本人の食物改良を図ろうとした(37)」と語ったそうですが、大通の風物誌となっているトウキビ売りは遡るとハモニカであり、さらにはケプロンの生長確認の成果なのです。
  

参考文献
上記(28)の出典はホーレス・ケプロン著、西島照男訳「ケプロン日誌 蝦夷と江戸」354ページ、昭和60年2月、北海道新聞社=原本、 (29)は同389ページ、同、 資料その14各項の出典は各項毎の説明参照のこと、 (30)は貝沼圭二、中久喜輝夫、大坪研一編「トウモロコシの科学」*ページ、平成21年2月、朝倉書店=原本、 (31)は山本正編「近世蝦夷地農作物年表」24ページ、平成8年4月、北海道大学図書刊行会、同、 (32)は開拓使編「開拓使事業報告」2編162ページ 明治18年11月、大蔵省=国会図書館インターネット本、 (33)は明治20年9月23日付北海新聞2面=マイクロフィルム、 (34)は同年7月8日付同3面、同、 (35)は小笠原克、木原直彦、和田謹吾編「北海道文学全集」2巻97ページ、岩野泡鳴「放浪」より、昭和55年2月、立風書房=原本、 (36)は大正8年8月24日付北海タイムス4面=マイクロフィルム、 (37)は伊東正三編「札幌昔日譚 第弐巻」76ページ、調所廣丈氏談話より、編集年月不明、函館市中央図書館デジタル資料館

 さて、1回目の北海道出張のために雇われた3人ですが「ケプロン日誌」にコックとあっても金次郎という名前は1度も出てきません。つまり御雇い教師専属のコックはいたが、コックの御雇い教師はいない。いきなり7人も連れてきたのではなく、後で示しますが、開拓使が札幌で洋食の宴会を開くとき、集められるコックやボーイが札幌に6、7人いたということらしいのです。
 「ケプロン日誌」でコックやボーイの出現箇所を資料その17に抜き出しましたが、北海道出張が2回目、3回目となると本文の減りようと同じく人数すらはっきりしません。ただ、金次郎の料理の出来は明治5年7月17日の朝食を賞めているし、文句はなかったようです。
 またボーイの聖次郎はショー、新吉はシングと呼んでますが、ケプロンはお側仕えの聖次郎が気に入ったらしく東京に連れ帰ったとみられます。明治6年5月5日の「忠実な召使のショー」は聖次郎でしょう。新吉とコックの金次郎は終始一緒に目的地に先行して食事や宿泊の準備をしたことから親しくなり、ケプロンが東京に戻って現地解雇となった新吉は札幌に留まり、金次郎に就いて料理を習いらしい。後で示しますが、エドウィン・ダンのコックとして働く新吉は、どうもこの給仕だった新吉らしいのです。各項目の後に入れたページ番号は「ケプロン日誌 蝦夷と江戸」のそれです。

資料その17

 U 東京の生活(一八七一〜一八七二年=明治四〜五年)

  〃  六月二十日
<略>一緒に連れて来た諸君は、既に蝦夷へ出発していたので、妻と、通訳湯地氏(注56)と、召使三人が一緒に行くことになった(注57)。
(86ページ)


 V 第一回北海道の旅(一八七二年=明治五年)

  〃  七月十二日<大野>
 今日、一時三十分、札幌へ出発。<略>最初の宿泊地、大野の町へ行く。<略>万事、準備が整っている。召使が先行しているからである。
<略> また、日本人の役人がもう一人いて旅行全般の世話をする。この外に、コックと召使のショーと別当がいて、以上が直接私に付いて行く人である。
 だが、これとは別に、一列の荷馬と行くかなりの数の人夫がいて、大低先を行き、一行より先に宿泊地へ着くようになっている。召使のシングは既に札幌に着いているが、家具類と一緒に汽船で日本海を行き、一行が着く前に宿舎の準備をするためである。
<略>宿泊のため、ごく感じの良い茶店に止まった。召使は先行して、冷たく気持ちの良い水の入った盥と、結構な"ブランディー・タディー"(注70)を用意している。タディーは、これから長い道を行くには大きな活力の元である。(99ページ)


  一八七二年(明治五年)七月十七日<室蘭> <略>  いつも忠実な召使のショーとコックは、いつものように先に行き、盥に冷たい水を入れ、顔と手を洗えるようにしてある。また、手ごろな味のブランディー・タディーと、ちょっと言いようのない結構な昼食を準備している。焼いたヤマウヅラで、柔らかく水分があり、それにハムのサンドイッチがあって、どこへ出しても、恥ずかしいものでない。(107ページ)


  〃  七月二十日<札幌> <略> この日(一八七二年七月二十日)、三時、蝦夷の島の首都に予定された札幌(注96)へ馬を乗り入れ、ガバナーと二人のアメリカ人の歓迎を受けた(注97)。 <略>
 お馴染みの召使のシングは、先に来て、私がゆっくり休めるよう、よく宿舎の準備をしている。異国の地の疲れた旅人にとっては、まことに気持ちの良い家である。<略>
<略> 食事はヨーロッパ風で、私の召使が世話をした。テーブルは間に合わせで、その上の調度品は私の目にはお馴染みで、また召使にとっても同じである。<略>(120ページ)


 W 東京の生活(一八七二〜一八七三年=明治五〜六年)

一八七二年(明治六年)五月五日 <略> この日は、特別な招待で若いプリンスの一家と食事を共にした。<略> 二フィート四方ほどの小さなテーブルを間に合わせ、また宿舎から椅子を一つ取り寄せ、"野蛮人"のために準備してある。テーブルの上には白い布を広げ、皿、ナイフ、フォーク、ゴブレット、ワイングラスを置き、これもまた(忠実な召使のショーの特別な計らいで)、宿舎から取り寄せたものである。
 もちろん、料理の説明、つまり特別私のために作った料理の説明はしないが、これもまた、ショーの世話によるもので、料理の数が多すぎて、とても全部、食べられはしない。 (181ページ)


 X 第二回北海道の旅(一八七三年=明治六年)

 〃  六月三日<横濱> <略>午後四時、通訳(湯地氏)と付き添い四人と一緒に蝦夷の島の函館行きの汽船に乗り込んだ。<略>(189ページ)


 Z 第三回北海道の旅(一八七四年=明治七年)

  一八七四年(明治七年)五月十九日、火曜日<横濱>
<略>今日、午後三時四十五分、横浜を出港、函館へ向かう。この船で、通訳や召使何人かと一緒に行く。<略>(288ページ)


  〃  五月二十六日
 今日午前九時、函館を出発、島の北部と東部の調査に向かう。同行は、ライマン教授(地質学者)、マレイ・デイ大尉(主任測量技師)(注198)、日本人の地質学・鉱物学助手新井氏(注199)、通訳湯地氏、召使、付き添い、荷馬の列等である。(289ページ)

 日吉さんが挙げたコック7人衆のうち渡辺金次郎以外の「小田島文司、渡辺伊助、小口平二、船木誠太郎、木村清次郎、村上吉五郎」の6人は、本当に札幌にきたのでしょうか。まず村上吉五郎と名前の似たコックとして村山吉五郎が函館新聞に載っています。それを資料その18(1)にしましたが、これは札幌初の洋食店の開店時期を示す重要情報として原田傳彌の講義でも使ったから覚えてるでしょう。原田が魁養軒を開いて間もないころ自分の代理として派遣したぐらいだから、このときから1人前のコックであり、原田の弟子ではなかったんじゃないかな。
 同(2)から村山は明治20年からほぼ1年、村山は再び魁養軒で働いたことがわかる。理由は同(3)でわかる大火。函館新聞は「吾小樽の通信者ハ本月十二日付にて同所今回の出火の次第を絵図を添へて申越たり」と前置きして、永井町から出た火の「一方ハ住初町を経て山の上町へ抜け港町にて止る(38)」などと詳しく書いており、このとき店を失ったのですね。
 またメーク氏とは道庁雇工師として石狩川河口の改修計画を作った英国人スコット・メークです。メークは明治20年6月の来日(39)ですから、村山にすればメーク氏への随行は店が出来るまでのほぼ1年、アルバイトだったんでしょう。その後、魁養軒にきて8年前と同じように原田の代理で浜益へ料理を教えに行ったことを資料その18(2)の記事が示しています。
 この村山の子孫という女性から私にね、村山吉五郎のことをもっと知りたいとメールがきたことがあります。それで「村山家のご先祖様さがし」という1ページだけのホームページがあり、それによると、村山は宮内省大膳寮で働いていたが、開拓使に付いて北海道に来た。明治27年に精養軒を開いた(40)となっています。それには住初町のことや(2)と(3)に該当する記述がないので、ともかくご先祖の記事を見付けたとメールを送ったのですが、返事がなく、そのままになっています。
 村山の精養軒は成功して小樽では屈指の洋食店になった。というのは資料その18(4)の死亡広告での推察です。どこにも小樽と書いてないけれど、精養軒と村山で小樽をある程度知る読者は、死んだ人は小樽のコックらしいと見当が付いたと思われます。葬儀のことを知りたければ精養軒にどうぞというわけで、15年もたつと精養軒、村山はいい顔になっていたようです。
 また似た名前では同(5)の函館東濱町で洋食店を始めた村上安五郎がいます。店名がわかりません。ただ明治17年5月に東濱町27番地で村上店という缶詰や洋酒も売る牛肉店の開業広告(41)がありますが、同じ店かどうかわかりません。
 それから木村清次郎。クラークさんらが東京で月給15ドルで雇ったコックの名前木村岩次郎が似てます。でもクラークさんが札幌に来たのは、ケプロンの初來道より4年も後だし、開拓使公文書の「農学教頭クラーク元コック木村岩次郎前借金弁償ノ件」と「雇教師クラーク元コック木村岩次郎東京ニ於テ給料前借ノ分同人保証人高瀬豊八ヨリ取立方ノ件」という2件の書類から岩次郎であることは確かなのです。
 同(6)は小田島文司を解雇したという広告です。ケプロンと同時期に來道したコックのはずなのに、15年もたってからグリンムなる外国人の召使いだったとは変でしょう。ただこの半年前に「至急コツク一名雇入れ候に付望みの方ハ申込みあるべし/明治二十年四月 ドクトル、エフ、グリンム(42)」という新聞広告があるので、小田島がコックとして雇われたかも知れません。グリンムは札幌病院長で丁寧な治療で評判の医師でした。そういう人が半年かそこらで、わざわざ広告を使って一切無関係だと世間に知らせるからには、読者の多くはこいつは何かよくないことをしでかしたなと受け取りますよね。
 ところが小田島はその後も札幌にいたんですね。明治36年11月17日夜、北2西3の民家からの火事で同(7)にした近火見舞御礼の広告に、その名前がありました。この火事は農学校のすぐそばで学生たちが家財運びを手伝った(43)と記事にあります。小田島は鶏肉とそのガラでのソッブを商っていて、農学部の佐々木酉二教授は「小田島文司は、北一西三で札幌唯一のソップ屋を開店した。ソップとはスープのことで、洋食のスープの素液や、病弱の人の滋養飲料として、びん詰にして予約配達するのである。店の前に高々とソップと染めた旗をポールの先に掲げてあり、毎朝箱車で各戸にソップのびんを配達していた小柄で元気な小田島のおじさんの姿が懐しく思い出される。(44)」と「札幌食物誌」に書いています。
 魁養軒の原田も明治35年ごろ注文に応じてソップの配達をしたことが新聞広告でわかりますが、佐々木の子供時代には小田島店だけになっていたのでしょう。同(8)から小田島家には少なくとも娘が3人いたことがわかる。
 (9)は南1條西2丁目9番地にあったブリキ屋と菓子屋とパン屋が「札幌繁栄図録」の1ページに3店一緒に出した中にある広告です。同じ番地ですから仲良しか棟続きのよしみで割り勘にしたんじゃないかな。名前が清四郎ですが「札幌区史」の資料にコック渡辺金次郎に連れられてきて札幌の「麺麭屋ノ始マリ」と書かれ、資料その13(1)にもある木村清次郎でしょう。渡辺ときたとすれば明治5年。「図録」が出たのは明治20年ですから、その間15年、パン屋を続けたのでしょう。

資料その18

(1)
◎食物改良の計画 後志国忍路郡忍路村の大場庄七氏
は今度従来の食物を改良し西洋料理を用ゆる事と為ん
との計画にて当地大通西二丁目洋食店原田伝弥方へ西
洋料理人の雇入方を依頼し來りたれば原田より村山吉
五郎と云ふ人を雇入れたるよし


(2)
◎西洋割烹の伝習 石狩国浜益郡は漁業及開墾事業と
も日増に盛大なるに從ひ追々他より入込む人も尠なか
らず殊に往々西洋人の巡回せらるゝ事あるに付夫等の
便利を図り同地の本間某氏の尽力に依り茂生村料理
店竹田市兵衛氏は今回洋食店を開業せんとて右伝習の
為め本間氏の紹介状を以て札幌魁養軒主人に依頼し村
山吉五郎氏を教師とし昨今専ら伝習中の由に聞く


(3)
各位益御清榮被爲渡奉拝祝候随テ野生儀
先年住初町ニ於テ西洋料理営業罷在候處
昨年六月類焼シ其後道庁御雇工師メーク
氏ニ属シ全道巡回旁是迄休業ノ處過日來
色内町大竹回漕店裏高地港湾山嶺共眺望
宜敷場所へ家屋新築今般落成候就テハ尚
一層食料品に吟味入念シ本月四日ヨリ開
業仕候間旧ニ倍シ御愛顧陸続御來食被成
下度奉仰候
 但シ多少不拘仕出シ仕候
開店當日ヨリ三日間粗景呈進仕候
   小樽港色内町大竹回漕店裏
  西洋料理   精養軒
 廿一年八月  村山吉五郎


(4)
松原藤造儀長々病気ノ處養生
不相叶十日午後六時死去致候ニ付此段
生前辱知諸君ニ告グ
 十二日午前十一時出棺
 精養軒  村山吉五郎
      鈴木三津造
      外親戚一同


(5)
  西洋料理
私義左ノケ所二於テ去ル七日ヨリ開業致候處諸
君ノ御愛顧ヲ蒙難有奉拝謝候随テ西洋料理喰用
方并菓子類食麺麭肉類調理方等御不案内ノ御方
ヘハ喰方并テーブル飾付等御指南可致候間御望
ノ御方ハ左ノケ所へ御来車御引立ノ程奉願上候
也      東濱町魚市かし通リ
       永国橋と汐留トノ間
  西洋料理        村上安五郎


(6)
          小田島文司
右者最早拙者ノ召使ヒニ無之依テ拙者ニ一切関係ナ
シ此段広告候也
   明治二十一年十一月十五日
      ドクトル、グリンム

(7)
謝近火御見舞
 鶏肉    農学校
 ソツプ商  向ヒ   小田島文司

(8)
三女ハル儀永々病気ノ
處遂ニ養生不相叶本日午前五時
十分死亡仕リ候間此段生前辱知
諸君ニ謹告仕候
 追テ葬儀ノ義ハ來ル四月二日
 午後一時自宅出棺中央寺ニ於
 テ佛式相営ミ申候
大正二 父小田島文司
年三月  外親戚一同


(9)
   札幌南一條西二丁目九番地
 西洋麺麭
 製造舗     木村清四郎

 小口平二は南2西2で牛肉・氷店を経営した。明治20年発行の「札幌繁栄図録」に氷と染めた旗を揚げたその店の絵が載ってます。(45)また「札幌にて牛肉屋と云へは先つ第一に指を屈る南二條西弐丁目の小口平三の妻お何〔三十五年〕は(46)」と新聞の噂話も認める大店だから、原田傳彌と同じく札幌での成功者でした。
 小口平二については豊平館の食堂経営をしていた杉山正次さんが「母方の祖父・小口平二は、開拓使が横浜でコックを募集したのに応じ、明治七年、家族を小田原の親類に預けて単身來札。札幌農学校で教べんをとっていた独身の米国人植物学者の専属コックや同校寄宿舎の調理人を経て、十五年ごろには、札幌最初の精肉小売業小口肉店を南二条西二丁目に開いている。(47)」と書いていますがね。
 札幌農学校の開校は明治9年ですよ。その2年も前だから植物学者はいない。ただ学者ではないが「草木培養管掌」の教師として雇われたルイス・ベーマーは明治9年から5年間、札幌にきていたから(48)、小口はヘーマルだのボウマンとか公文書にあるこの園芸家のコックとして来道した可能性はあります。開業が15年とすれば、農学校の寄宿舎の賄い方として金次郎の下で何年か働き、貯めた金で肉屋を開いたことはありうる。このころのコックに平二または平三はいないんだが、私が見ていないボウマル関係の書類にあるかも知れないので探しておんるんですわ。ふっふっふ。
  

参考文献
上記資料その16(1)の出典は明治12年12月4日付函館新聞2面=マイクロフィルム、 同(2)は同21年3月16日付北海道毎日新聞4面、同、 同(3)は同年8月2日付同3面、同、 同(4)は同37年3月12日付北海タイムス6面=マイクロフィルム、 同(5)は同18年9月11日付函館新聞4面、同、 同(6)は同21年11月18日付北海道毎日新聞4面、同、 同(7)は同36年5月29日付北海タイムス4面、同、 同(8)は大正2年4月1日付同5面、同、 同(9)は高崎竜太郎著「札幌繁栄図録」53丁表、明治20年5月、高崎竜太郎=近デジ本 、 (38)は同20年6月14日付函館新聞2面、同、 (39)は枝幸町デジタルミュージアム編「枝幸研究」5号13ベージ、佐藤利男「英国人技師メークによる『北海道周遊記』より、平成26年、枝幸町=http://www.town.esashi.
hokkaido.jp/contents/museum/ kenkyu/5-01.pdf (40)はhttp://www2.tokai.or.jp/
murayama/kakeizu.htm (41)は同17年5月10日付同4面、同、 (42)は同21年4月6日付同6面、同、 (43)は同36年5月29日付北海タイムス3面、同、 (44)は札幌市教育委員会文化資料室編「札幌食物誌」54ページ、昭和59年12月、北海道新聞社=原本、 (45)は高崎龍太郎編「札幌繁栄図録」42丁表、明治20年5月、高崎龍太郎=近デジ本、 (46)は明治20年3月1日付北海新聞2面=マイクロフィルム、 (47)は昭和62年5月7日付北海道新聞夕刊9面、杉山正次「豊平館と音楽と私」より、同、 (48)は開拓使編「北海道志之巻十五 風俗人物」56丁裏、明治17年2月、大蔵省=近デジ本、

 コックの名前が出てくるのは、どういう文書かというとですね。繰り返すが、開拓使で農学校の講堂で洋式の宴会を開くとき、客が多くて農学校のコックとボーイだけでは手が足りないかも知れない。そういうときお役人はよそのコックとボーイの応援を頼んでいいかと上司に伺ったり、これこれの手当を支給したという書類です。それがいまも残っているわけ。
 またそれらの書類ではケプロンの2回目以降の道内出張と金次郎の関係はわかりませんが、金次郎は札幌に留まり翌9年には開校した札幌農学校に雇われ、札幌にいたコックやボーイを呼んで宴会の御馳走づくりをしたことが、金次郎がコックたちを引き連れてきたという見方になったこともあるでしょう。
 札幌市中央図書館デジタルライブラリーにある「札幌区史材料調査書」は写本だといまさっきいったが、その原本を探したら、どうも函館市中央図書館にある「札幌昔日譚 第弐巻」らしいのです。「札幌区史材料調査書」を札幌本とし「札幌昔日譚」を函館本と呼ぶことにして、画像を読み比べてみると違いがあります。
 札幌本は道庁の用紙を使い、14人を7人ずつきれいに2段に並べたているのに対してね、函館本は札幌區役所用紙に2段に分け、上が「武林盛一、黒柳喜三郎、岩井信六、伊勢源三郎」で「伊藤辰蔵、原田傳弥、島田兼吉、森重吉」は下と4人ずつ並べ、黒柳と岩井の間に曽根清を割り込ませて書いてます。残る渡辺金次郎、渡辺伊之助、小口市太郎、木村清次郎の4人は罫紙の枠外に追加(49)して書いてある。また舟木誠太郎と木村清次郎は原田より先に札幌に来ていると別扱いで、しかも「木村清次郎等」と、ほかにも先着した仲間がいたと取れる表現になってます。どこかにある原本を写真みたいに「其儘全写」したのが本当なら、函館本は原本ではないことになりますが、その違いを検討してみました。
 函館本は姓名、職業のほか、編集者が知っている情報が、ごく小さな字で書き足してあります。読めない字は■にして読んでみると黒柳に「八年六月東京人」、曽根に「九年來ル静岡■人」、岩井に「六年来札農■ノ靴製造」、伊勢は(製革業)と書いた左側に墨が薄く読めない4字があり、下に「札幌ニテ雇ハル仙台人(50)」とあります。
 下の段の伊藤は(西洋洗濯)の右に「伊藤アホダ■■ニテ來札し西洋洗濯ナリセリ■人也」とあり、下に「六年來札」、原田には「ペンハローに従ヒ來リテ雇ハル東京ノ人」、島田に「十一年東京人」と読めます。罫紙の枠の上に「兄弟/渡辺金次郎/(八年)伊之助/農学校賄として來ル」「小口市太郎/木村清次郎/両人渡辺ニ伴/ハレ來ル/清次郎麺麦<原文のまま>/屋ノ始マリ(51)」とあります。どうやら函館本は一旦書き終えてから、思い出したことを小さな崩し字であちこち書き込んだために複雑な書面になっており、コピー機ならいざ知らず、そっくり書き写すのは無理です。
 函館本は、さらに行を改めて「是等ハ皆団体ヲ作リ石川正蔵ヲ親分トナシ居リシ者ナリ尤モ原田傳弥ニ先立チ舟木誠太郎木村清次郎等ハ外国人ノコツクトシテ以前ニ來札シ居リシ者ナリ」と書き、また行を変えて「尚当時諸職業ニ於テ率先札幌ニ移住シタル者ヲ挙ケンニ(52)」と書いていますが、札幌本は資料その19にあるように「以上是等ハ皆団体ヲ作リ石川正蔵ヲ親分トナシ尚ホ当時諸職に於テ」うんぬんと整理されています。
 それでね、函館本と札幌本との違いを資料その19にしてみました。いま私が説明した函館本にはない個人情報と写し間違いと思われる姓名の字を太字にしてあります。函館本を見ながら書き写した者が、ごちゃごちゃ書かれた函館本の情報の読めないところと不要と思うことは削り、それまでに広まっていた9人の情報、たとえば武林が函館から来たとか、渡辺兄弟や舟木はコックだったことを加えたことは明らかです。
 札幌本の奥付の日付の下と照合済の下にそれぞれ認め印が押してある。日付の方は書き写した2字の姓の判で読めないが、照合済の方は下が曲がった線3本なので、山川とか谷川とか川の付く姓の人(53)ですね。この御仁も函館本を読み「其儘全写ス」ではないが、この程度の違いなら宜しいと認めたことになります。
 函館本と対になる「札幌昔譚<表紙のまま> 第壱巻」も函館市中央図書館にあるし、これらの編集者は明治44年に公刊された「札幌區史」を手がけた伊東正三と推定されていることから、私は函館本が原本と見ますね。
 日吉さんはじめ8人説、7人説を書いた方々は、ここまで調べなかった。いや、インターネットを使えば、ここまで調べられるからこそ、札幌本は函館本の写本だろうといえるのです。

資料その19

   諸職業創始

開拓使ノ御雇トシテ諸種ノ職業専門家ヲ募
集移住セシメタリ其姓名職名ハ
 武林盛一(写真師)(六年函館/ヨリ来)
 黒柳喜三郎(馬具師明治八年/六月東京ヨリ
 渡辺伊之助(金次郎弟/仝人ト仝ジ
 岩井信六(靴職 九年農業/靴製ノ為来札)
 原田傳弥(西洋料理十二年/ヘンハロニ使東京ヨリ来)
 伊勢源三郎(製革業札幌ニテ/店ハル仙台人)
 木村清次郎(農学校販金次郎ニ属/シパン製造者ナリ東京
            <以上7人は上の段>
 伊藤辰(西洋洗濯/六年来)
 渡辺金次郎(外人コツク/七年東京ヨリ)
 曽根清(馬具師九年/静岡人ナリ
 島田兼吉(洋服仕立十一年/東京ヨリ来)
 小口一太郎(コークニテ渡辺金次/郎ニ属シ東京ヨリ来)
 重吉(水車業ニ雇ハレ/岩手縣人
 木誠太郎(コークニテ金次郎/ニ属シ秋田縣人
以上是等ハ皆団体ヲ作リ石川正蔵ヲ親分トナシ
尚ホ當時諸職ニ於テ卒先札幌ニ移住シタル者
ヲ挙ケンニ
御用達 井筒屋木村傳六(水戸人)<略>

 はい、ケプロンの生活調べに戻ります。資料その20(1)のドン氏はエドウィン・ダンのことで、ダンのコック新吉は金次郎と一緒に札幌にきたボーイの新吉と同一人物で、ボーイとして同行したけれど、もともと金次郎の弟子で料理人だったかも知れん。ケプロンお気に入りのブランディー・タディーは「ブランディーに湯と砂糖とレモンなどを入れた飲み物(54)」だそうだから新吉の調合だったんじゃないかなあ。
 同(1)と同(2)は「明治九年 取裁録 外事課」という1冊の中にありまして、このほか同取採録にあるコックとボーイの名前は同(2)の通り。デー氏コックの八十吉は別の書類では「松波八十吉」「松浪八十吉」となっている。また辰右衛門は五己辰右衛門で明治8年から働いていたことがわかっています。
 また明治5年、この後に出る東京のコック兼吉の下で給仕次郎吉、下コック伊之助、小使い周蔵(55)が働いたと記録にあります。この伊之助が金次郎の弟とされたコックかも知れません。

資料その20

(1)
 上局
           外事課
           用度課
           検査課
           札幌学校

 今回札幌学校専門教師クラーク氏外弐名不日
 着札之趣電報有之就テハ賄方之儀兼テ定約面
 ニ依レバ到着後自費ニテ可斉筈ニテ候ヘモ同
 人等其翌日ヨリ手賄ノ義難行届儀と存候間着
 後三日間官費ノ賄ニ相成可然候此段相伺候也

   九年七月

 追テ右官費御賄中当札幌学校コツク並ボイ壱
 人ツゝ一時雇入可然哉此段相伺候也
  −−−−−
 上局
           外事課
           用度課
           検査課

 一金七円五拾銭
 右ハ札幌学校雇コツク金次郎外三名去ル一日御雇
 農学教師クラーク氏外五名着札ニ付祝賀トシテ御
 饗応ニ相成候節料理及給事用務外骨折候ニ付為御
 手当トシテ別紙ノ通被下置度御聞届ノ上ハ未裁ノ
 通出方相成哉此段御伺候也

  九年八月三日

        記

 一金四円     札幌学校コツク    金次郎
 一金壱円五十銭  同校ボイ       才一郎
 一金壱円五十銭  教師ドン氏コツク   新吉
 一金七拾五銭   教師ボーマン氏コツク 福次郎


(2)
   デー氏コツク   八十吉
   札幌学校コツク  金次郎
   同        菊次郎
            (2月4日)

   札幌学校コツク  金次郎
   同下コツク    菊次郎
   同        福次郎
   ホルト氏コツク  源二郎
   コルウイン氏コツク 辰右衛門
            (5月)

   札幌農学校コツク 金次郎
   同校コツク    菊次郎
   同校ボイ     惣助
   クラーク氏ボイ  文吉
   同氏コツク    才一郎
            (10月9日)

  

参考文献
上記(49)から(52)までの出典は伊東正三編「札幌昔日譚 第弐巻」25129丁、編集年月不明、函館市中央図書館デジタル資料館、 http://archives.c.fun.ac.jp
/fronts/detail/reservoir/ 533b48741a557265f5002076 (53)と資料その19は大村耕太郎著「札幌区史材料調査書」185ぺージ、昭和4年5月、不明=札幌市中央図書館デジタルライブラリー、 http://gazo.library.city. sapporo.jp/shiryou Info/shiryouInfo.php? listId=1&recId=345、 (54)はホーレス・ケプロン著、西島照男訳「ケプロン日誌 蝦夷と江戸」380ページ、昭和60年2月、北海道新聞社=原本、 (55)は開拓使・簿書5495・件番号55「ボーイ並ニ下小遣、雇入ノ件」など、道文書館=原本 資料その20(1)は同1571件番号29「札幌学校雇コック金次郎外3名ヘ手当被下置方ノ件」、同、 同(2)は同(1)類似書類からの寄せ集め

 キーワードを西洋料理、コックなどと変えながら開拓使文書を検索すると、丸山七兵衛、吉沢久吉、五己辰右衛門、渡辺金次郎、原田傳彌、田辺久太郎、松波八十吉、木村岩次郎、上野伝次郎は出るが、小口平二はない。だから7人説の金次郎を除いた6人は金次郎と同じころ札幌に来たかも知れないが、案外、何人かは東京のお雇い外国人宿舎のコックとかボーイだったということもあり得るのです。
 なぜなら私の知らない公文書にですよ、山田兼吉というコックがいて、資料その17のような豪華な食事を作っていたと原田一典著「お雇い外国人 開拓」にあったからです。でも開拓使文書を山田兼吉で検索すると西洋縫物師(56)が出るが、単にコツクで検索すると「コツク職兼吉7月20日〜8月晦日食料出方ノ件(57)」という文書から、東京になんとか兼吉も確かにいたことがわかりました。
 資料その21にこんなにポテトとあるということは、ブルックス歓迎宴会と同じくイモ盛りの芋鉢が出たという最高の証拠ですが、極上の昼食のマテンチヤフはマトンチャップ、夕食のラシヤメンロヲスもマトン料理であり、それが入っている献立となるとジンパ学として原田さんが「開拓使公文録」と書いてるでは済まされません。
 道文書館の司書の方々に手をお借りして探した結果、この献立は検索文書名「不日到着ノ御雇教師料理、受負ノ件」となっている「教師取扱掛ヨリ料理受負伺」(58)とわかったのです。平常と極上の違いはよく見なさい。マテンチヤフとラシャメンロヲスの有無、つまり羊肉料理の有無に違いないのです。だからケプロンが客を招待したり、泊めたりしたとき極上でもてなしたんでしょう。また(原文のママ)とありますが、原文では金額は別にまとめて書いてあり、一食毎ではありません。

資料その21

  <略>このような多くの物品を備えていたのであるが、肝心の食事はどのようにしていたかというと、開拓使は西洋料理人の山田兼吉に請け負わせていた。その兼吉が提出した献立は二種類あって、一つは平常の献立で一日一人前二両二分、一つは日曜日に食する極上の献立で一日一人前三両一分であった。
その献立内容はつぎのようなものである(原文のママ)。

平常献立
 (朝)玉子、牛肉、コヲク肉、ハン、トウス、コヒー、テー  (金一分二朱)
 (昼)フライヘイシ、ホヱルヱキス、ソウス物肉、小牛チヤフ、鳥類ロウス、氷肉青物、タイスカレイ、サラタ青物、フライホテト、ホイロホテイト、コヒー、テー (金一両一朱)
  (夕)ソツフ、ホヘルヘキシ、ホイロイモ、ヒン肉青物、鳥肉ウスモノ、フライ芋、ロヲスヒフ、サラダ、ケイキモノ、水菓子二ツ品、フライホテト、ホイロホテト、トマト、コヒー、テー (金一両一朱)

極上献立
  (朝)ホイロイキス、氷青モノ、トウスハン、ヒフテキ肉、氷肉、コヒー、テー (金二分)
  (昼)ロウスベイシ、ヘキンエキス、ホイロイモ、マテンチヤフ、キヤヘツ、鳥ノカテレツ、ヒステキ、フライ芋、氷肉二ツ品、サラタ、氷菓子、フライ芋、ホイロ芋  (金一両一分二朱)
  (夕)上ソウフ、ホイロヘイシ、ホイロイモ、スカムレキス、ヒレロヲス、ラシヤメンチヤフ、アナルミヤチユウ、小牛ロウス、ラシャメンロヲス、氷菓子二ツ通、フリンモノ二ツ、サラタ、水菓子フリン物、フライホテト、ホイロホテト、トマト、コヒー (金 一両一分二朱)
                        (開拓使公文録)

 原田さんは書いていませんが、これは明治5年、道内の地質と鉱山調査のためにケプロンに呼ばれて来日するベンジャミン・ライマンたち用の献立でした。ほぼ楷書で読みやすいが、元々が変な明治英語の料理名なのに加えて、清書したときに訂正したか間違えたと思われるところもあると見なければなりません。
 まず最初の「玉子、牛肉」です。その後は二度と出てこない。また明治の人々は濁音符を滅多に書かないから日曜昼のロウスベイシしかない。もうクイズですなあ。私はエキスとヘキシが付くのはは玉子料理とみて仮説を組み立てた。教師取扱掛と思うのですが、清書するとき兼吉の献立を見てなんとかエキス、うん、玉子だなと書き、ヒフテキ肉、うん、牛肉と書いた。その次のコヲク肉はどう書いたものかと迷った。残り物の冷えた肉、コールドミートを使った料理と思うのですが、適当な訳語がわからん。えーい面倒だと、そこから後ろは兼吉の書いた通りに清書したというのが私の清書仮説です。
 資料その21のエキスはエッグス、ヘイシはへと読まずにエ、シはスと読めばエイスでエキスと通ずるものがあるから、これも玉子料理とみたい。だからホエルエキスはボイルドエッグス。「新編大言海」によれば音読みシャ、セキでなくハイ、ホウの焙るの1字で名詞。意味は焙ズルコト、火ニ当テテ乾カスコト(59)だからホイロヘイシは玉子焼きかオムレツ、スカムレキスはスクランブルエッグとみたい。フライヘイシはスコッチエッグのような揚げ物ではなかろうか。なにしろ一連の文書で給仕のテーブルボーイをテーブルホーイ、テーブロホヲイ、デブロボヲイ、テフロホヲイと書いてるくらいですからね。私の解釈は全くの見当違いではないと思いますよ。脱線だが「日本国語大辞典」とか「広辞苑」には道具の名詞。焙炉しか載っていないから、死語みたいなもんだね。
 資料その22はケプロンの献立に準じたという資料その21から玉子とパンと芋の出し方を抜きだした表です。玉子は今いった通りとして、平日朝のハン、トウスと日曜朝のトウスハンはトーストしたパンの種類が違うので書き方を変えたのでしょう。昼と夜は芋だけでパンは出さない。芋鉢がいることはこれからも証明できるね。

資料その22
(1)
  玉子料理の出し方
平日朝 玉子、
平日昼 ホエルエキス、フライヘイシ
平日夕 ホヘルヘキシ、

日曜朝 ホイロエキス、
日曜昼 ロウスベイシ、ヘキシエキス、
日曜夕 ホイロヘイシ、スカムレキス


(2)
  パンと芋の出し方
平日朝 (ハン、トウス)
平日昼 フライホテト、ホイ ロホテト
平日夕 フライホテト、ホイロホテト

日曜朝 (トウスハン)
日曜昼 フライ芋、フライ芋、ホイロ芋
日曜夕 フライホテイト、ホイロホテイト

 3食ともこんなに玉子を食べて飽きないのか不思議ですね。これまでケプロンの功績を讃えた本は沢山ありますが、ケプロンは玉子と鳥肉は大好きという偏食家だったと書いた本はない。だから3食玉子料理が出るこの献立はケプロン好みだと思いますよ。
 ところがですよ、マサチューセッツ大学文書館のホームページによると「Lyman was convinced that if he hadn't become a vegetarian in 1864, he would have died young from food eaten on his travels. At 81, in 1917 he published a scholarly cookbook of vegetarian recipes.(60)」、講義録には学外の人向けにグーグル訳を書いておくと「ライマンは、1864年にベジタリアンになれなければ、旅行で食べた食べ物で若くして死んだだろうと確信しました。 81年、1917年に彼はベジタリアンレシピの学術クックブックを出版した。(61)」でした。
 日本人が書いた文献としては桑田權平著「來曼先生小傳」があり「先生は到處で色々な風土對衛生の關係等を考察研究の結果、自ら菜食主義を守るに至り、五十餘年間此世を去るまで肉食は一切用ひなかつた。其爲であらう、先生の顔は常に若人の如く血色鮮かに、如何にも優れた健康を保つてゐたことは、筆者の明瞭に記憶する所である。(62)」と証言している。菜食主義者でも、玉子を食べる人と食べない人があるそうで、ライマンはどっちだったかわかりませんが、すぐさまライマンの食事だけは牛羊鳥の肉抜きに一変したことは間違いないよ。はっはっは。
 明治27年に出た料理本「仕出しいらず女房の気転」に「能く皮を剥きボイロにし(ゆでるなり)塩を少し入れ銀色のするまで鍋にてあほりて器に盛るなり(63)」とあるのが、粉ふきのホイロホテトですね。
 「英語独案内」にある9種の芋レシピの1つ、Fried Poteto Ballsとして「成るべく大なるポテートを撰出し皮をむきポテートスクープにてゑぐれば真圓の団子の形となるこれを暫時塩水に浸し置き後水を拭きとり半日働き日曜日に記せしフレンチフライドポテートと仝じ仕方になすべし(64)」があります。ポテトスクープの画像を検索すると、細切りのフライドポテトをざくっと掬う、ちり取り型ばっかり出てくる。いまはフルーツボーラーとかくりぬき器としないと見つからないんですなあ。フレンチ云々は茶色になるまでラードで揚げた短冊切りの芋です。
 ともあれ、このソルトスプーンの親類を使えば、1口で食べられる芋の玉は簡単にできるから、クラークさんたちは不揃いの小芋を食べたのではなくてね、このサイズの揃った芋を食べた。後であの芋鉢は150個盛りだったと矢野コックから聞き、残りが25個だったので125個と数えられたのですと説明したいが、これは私の想像だ、はっはっは。
 さて、ジンパ学として肝腎なのは羊肉料理です。マテンチャフはマトンチャップだね。筋師千代市編「英語独案内」では「○羊肉細切 Mutton chops(マトン   チヤープス)」で「肉鍋(フライパン)を熱く焼きて肉を入れ十分間位コツクして褐色になるまで良く焼くべし(65)」とあるけど、ラシャメンチャフはない。
 マテンとラシャメンは別らしいから、ラシャメンはラムとしてラシャメンロヲスを考えると「仕出しいらず女房の気転」では、骨付きの牛肉か豚肉を蒸し焼きにして「骨付ロース(66)」といい、内臓を除いた雌雛の丸焼きを「チキンロース(67)」と称し、トマトの「へたと、しんと、を去り其ゑぐりたる穴へ極細かにして煑たる牛肉を詰め牛の油を掛け焼くなり之をトマト、ロースと云ふなり(68)」とあるので、ラシャメンロースはラムの焼き肉らしいといえますよね。明治5年には外国人の食用に緬羊を輸入していたから、羊肉は横濱の肉店から買っていたでしょう。
 
  

参考文献
上記(56)の出典は開拓使・簿書6962件番号56「西洋縫物師山田兼吉ヘ願出ノ通日々25両宛被下方ノ件」道文書館=原本、 (57)は同6745件番号85「コツク職兼吉7月20日〜8月晦日食料出方ノ件」、同、 (58)は同5495件名簿54「不日到着ノ御雇教師料理、受負ノ件」、道文書館=原本、 資料その21は原田一典著「お雇い外国人L開拓」119ページ、昭和50年12月、鹿島出版会=館内限定デジ本、 (59)は大槻文彦著「新編大言海」9刷1870ページ、昭和63年3月、冨山房、同、資料その22は同1917を元に尽波作成、 (60)はhttp://asteria. fivecolleges.edu/findaids /umass/mums190_bioghist. html、 (61)はhttps://translate.google.co.
jp/?hl=ja使用、 (62)は桑田權平著「來曼先生小傳」12ページ、昭和12年9月、桑田權平=原本 非売品、 (63)は自在亭主人著「仕出しいらず女房の気転 一名和漢洋料理案内」98ページ、明治27年3月、博文舘=近デジ本、 (64)は筋師千代市編「英語独案内 附西洋料理法」165ページ、明治34年12月、筋師千代市、同、 (65)は同135ページ、同、 (66)は自在亭主人著「仕出しいらず女房の気転 一名和漢洋料理案内」82ページ、明治27年3月、博文舘、同、 (67)は同90ページ、同、 (68)は同103ページ、同

 平常献立の昼にあるタイスカレイはライスカレーだと解釈する説があります。グーグル・ブックスで検索したら「秋田市史」第3巻にあると出たので、こりゃいけそうと調べたらライスカレイでしたよ。だからタイスはライスはライスの書き間違いかも知れませんが、これまで私はもっと広く調べてから見解を述べたいという程度に留めてきました。
 しかし北大が5年以上前から公式ホームページのQ&Aでカレーライスについての公式回答をしているのに、いまだにクラークさんがライスカレーの命名者などという荒唐無稽な俗説を書いた本を信じている札幌市民が少なくないようなので、今回からケプロン用献立につながるところから大脱線させて、改めて関係各方面のご理解とお力添えを頂いてまとめた調査結果と道内関係の情報を明らかにすることにしました。
 まず古いところからとして資料その21(1)の書き方ではわかりづらいと思うので、道立文書館所蔵の開拓使文書の該当書類2件を罫紙に清書してある通りの字配りで全文読めるようにしたのが、資料その23(1)です。前半のメニューに続けて給仕と小使4人の採用申請が入っていますが、その後半が横濱で買う物品リストなので、そのままにしました。手持ち分で当分間に合うとみたかカレー粉は入っていません。
 これは「西洋料理通」と「西洋料理指南」が出版される1年前の明治4年、ケプロンが日本にきて東京に滞在していたとき、コック山田兼吉が作った献立をベースにしたのですから、大きく変えていなければケプロンはタイスカレイを週一回は食べたでしょう。同(2)が開拓使簿書の献立のコピーで、右側の罫紙の最後の行の上の段にはっきり綺麗な字でタイスカレイと書いてあるでしょう。

資料その23

(1)

〔54〕 教師取扱掛ヨリ料理受負伺
御雇教師共不日到着可仕候ニ付而ハ別紙西洋料理
人兼吉申達之如ク平常ハ一日一人前金弐両弐分宛
日曜ハ金三両一分之割ヲ以テ料理仕出シ申付候
而ハ如何御座候哉右ハ昨年ケプロン氏ヘ御仕向
ケ之振合ニ御座候依之此段奉伺候以上
  七月十九日
     コック兼吉外一名ヨリ申立
一 西洋御料理朝昼夕三度品数左之通
 
  ┌ 玉子     牛肉     コヲク肉
 朝│ ハン     トウス    コヒー
  └ テー
 
  ┌ フライヘイシ ホヱルヱキス ソウス物肉
 昼│ 小牛チヤフ  鳥類ロウス  氷肉青物
  │ タイスカレイ サラタ青物  フライホテト
  └ ホイロホテイト コヒー   テー
 
  ┌ ソツフ    ホヘルヘキシ ホイロイモ
  │ ヒン肉青物  鳥肉ウスモノ フライ芋
 夕│ ロヲスヒフ  サラタ    ケイキモノ
  │ 水菓子二ツ品 フライホテト ホイロホテト
  └ トコト    コヒー    テー
 
   壱人前金弐両弐分
一 朝飯 金壱分弐朱也
一 昼飯 金壱両壱朱也
一 夕飯 同
右割合左之通リ
 ソンテ極上之御料理左之通品数

  ┌ ホイロイキス 氷青モノ トウスハン
 朝│ ヒフテキ肉 氷肉 コヒー
  └ テー
 
  ┌ ロウスベイシ ヘキンエキス ホイロイモ
  │ マテンチヤフ キヤへツ   鳥ノカテレツ
 昼│ ヒステキ   フライ芋   氷肉弐品
  │ サラダ    氷菓子    フライ芋
  └ ホイロ芋
 
  ┌ 上ソウフ   ホイロヘイシ  ホイロイモ
  │ スカムレキス ヒレロウス   ラシヤメンチヤフ
 夕│ アナルミヤテユウ 小牛ロウス ラシヤメンロヲス
  │ 氷菓子二ッ通 フリンモノ二ツ サラタ
  │ 水菓子フリンモノ フライホテイト ホイロホテイト
  └ トマト    コヒー
 
  壱人分
一 朝飯 金弐分也
一 昼飯 金壱両壱分弐朱也
一 夕飯 金壱両壱分弐朱也
  一日分
 金三両壱分也
 外ニテフロホライ  壱人
 右之通リニ而御受負仕候處無相違御座候尤麁末
 無之様仕候且ハ食事刻限リ差出シ申候品物横濱
 表ニ而新キモノ仕出シ申上候此段御請書差出シ
 申候處如件   七月十九日
 
〔55〕 教師取扱掛ヨリボーイ並下タ仕抱入伺
御雇教師共不日渡来可致候ニ付ボーイ三人下タ小
遣ヒ弐人御抱入レ相成候様致度此段奉伺候以上
   七月十九日
 但ボーイハ壱人毎ニ壱ケ月七円宛下タ小遣ヒハ
 壱人毎ニ一ケ月五円ツゝ被下候尤御条約済ニ而
 教師共自分召抱ト相成申候
 小伝馬上町山科七蔵ヨリ請書
           第一大区小弐区
            小伝馬町
             岩崎喜三郎
一此者儀生国ヨリ能存慥成者ニ付私請人相立御役
所様ヘ月御雇御奉公ニ差上申候處実正也御給金之
儀ハ一ケ月金七両ニ御定メ月々當人ヘ御渡被下候
段奉畏候萬一当人病気又ハ猥之義御座候節ハ私共
引請少シモ御苦労相懸ケ申間敷為後日依而如件
   七月十九日
 南小田原町壱丁目足立直蔵ヨリ請書
            雲州熊毛郡
             母里町
              安達甚蔵
 同文七月廿日
 南紺屋町小林仙蔵ヨリ請書
            第一大区八小区
             新肴町
              橋本光太郎
 同文
 上芝片門前弐丁目佐久間善蔵ヨリ請書
            第二大区小五区
             芝片門前町二丁目
              井上鎮之介
一此者儀生国ヨリ能存慥成者ニ付私請人相立御役
所様ヘ月御雇御奉公ニ差上申候處実正也御給金之
儀ハ一ケ月金五両ニ御定メ月々當人ヘ御渡シ被下
候段奉畏候萬一当人病気又ハ猥之義御座候節ハ私
共引請御苦労相懸申間敷為後日依而如件
  七月廿日 
   芝川口町森広多三郎ヨリ請書
          第二大区小八区
           芝門前一丁目
            森広己之助
 同文
   横濱於テ買上物品表
一 小麦粉        二袋
一 新鮮ノ牛酪      五十磅
一 火腿<ハムとルビ>  十二
一 塩漬ノ豕肉      五十磅
一 白砂糖 ボウザトウ  百磅
一 粉ニシタル砂糖    同
一 𠹭啡   
   但ジヤワノ古品ニ限ル内半ハ燻シタル粉タルヘシ
一 上々色付ケ支那茶   小 一袋
一 ケロセン油      二箱
一 日本ケロセン油    二箱
一 アダマンテム蝋燭   一箱
一 上蝋ノ蝋燭      五磅
一 白蚕豆        一ボツセル
一 上々コンテンスト、ミルク 一箱
一 豌豆         十二箱
一 青梅         十二箱
一 梅ノ実        同
一 桜ノ実        同
一 茄子         廿四函
一 肉汁ニ入ルゝ肉    廿四函
一 黄色ノ醋漬      廿四瓶
一 胡瓜         十二瓶
一 ウニセステルスソウス 同
一 硬キビスコイト    一箱
一 乾酪 新鮮ノ物    一箱
一 上々シヤンパン酒   二箱
一 上々セリー      同
一 上々ブランジー    同
一 上々ウヒスキー酒   二箱
   但古良品ニ限ル
一 クラレツト酒     四箱
  〆
 仝上
一 鍍金セル卵匙     一ドゼイン
一 仝香料ノ器具     一揃
一 砂糖狭        一
一 コツフキー磨     一
一 仝漉シ出ス具     一
一 食饌等ニ用フル椅子  一ドゼイン
  陶器類
一 小形食用具      一揃
   内訳ケ肉汁入レ一ツ野菜ノ皿四ツ肉ノ皿大小
   四ツ肉汁皿十二菓実入レ皿十二夕飯ノ皿十二
一 茶及ヒ朝飯用具
   内訳ケ朝飯用ノ皿十二茶碗及ヒ汁入レ十二砂
   糖入レ一クリーム入レ及ヒスレツプ入レ共
一 室用ステレツプジヤル 一
一 庖厨道具
   内訳ケ通常ノ入レ物六ツ瓶及ヒ皿数箇庖厨器
   械
 一千八百七十二年第八月廿一日
 旅籠賃     六弗
  第六月廿五日
 蒸気車賃    三弗
 羊毛ノ鋏    五十銭
 人力車     一弗七拾五銭
  〆十一弗廿五セント
〔56〕 教師取扱掛ヨリ山田兼吉外雇入ノ者ヘ手当金之
     儀伺<略>


(2)
  

 はい、次は札幌農学校関係です。資料その24は北大ホームページのきわめて見付けにくい「FAQよくある質問と回答」の「クラーク博士とカレーライスについて」に書いてある全文です。この中のタイスカレーを書いた書類が、資料その23(1)だとすぐわかるね。

資料その24

 クラーク博士とカレーライスの係わりについて、「ライスカレーの名付け親はクラーク博士」、「日本のカレーライスの発祥は札幌農学校」、「生徒は米飯を食すべからず、但しライスカレーはこの限りにあらず。と農学校の寮規則に書かれていた」というのは本当のことか、事実なら資料を見せてほしい、という問い合わせを多くいただきます。
 しかし、札幌農学校当時の記録で[カレー]の記述があるものは、明治10年7月の取裁録(公文書を綴ったもの)の中の、買い上げの品として「カレイ粉 三ダース」、明治14年11月の取裁録の中の、「夕 洋食<パン バタ 肉肴之類ニテ弐品 湯 但隔日ニライスカレー外壱品>」、この2点の史料のみで、クラーク博士とカレーを結びつけるはっきりとした史料は残っていません。
 ただ、当時の状況としては、開拓使顧問のホーレス・ケプロンらによるパン、肉食の奨励に対して、農学校においてもこれを採用しており、恵迪寮史(昭和8年刊行)には、「札幌農学校・札幌女学校等はパン、洋食をもって常食と定め、東京より札幌移転の時も男女学生分小麦粉七万三千斤を用意し米はライスカレーの外には用いるを禁じた位である」と記述されています。また、「ライスカレー」の名称については、北海道立文書館報『赤れんが(昭和59年1月号)』の古文書紹介の中で、「開拓使の東京出張所では、明治5年に既に御雇い外国人の食事のために、コーヒーや紅茶、〈タ(ラ)イスカレー〉を用意していたとの記録がある」と記述されています。

 でも、たいていの人は、これではものたりない、もう少し詳しい説明がほしいと思うでしょう。そこでだ、私が北大文書館のご理解とお力添えを頂いてFAQの「この2点の史料」のコピーを見せ、さらにはクラークさんが日本に来る前にね、ライスカレーとは別にカレーライスという言い方と食べた人たちがいたことをを示しましょう。
 農学部の南側にある文書館はね、札幌農学校から北大のいままでの歴史的な文書だけでなく、さまざまな物品も集め保存しています。前にもいったかな、私は昭和31年の卒業証書から平成30年の七大戦用にヨット部が作ったTシャツまでは、ちとオーバーだが、あれこれ協力してます。同窓生の祖父母のアルバムとか遺品があったら、ぱっと捨てる前に文書館に聞いてみるようにね。
 資料その25(1)と同(2)はその根拠である「取裁録」のコピーです。私が読めない個所は、伊藤辰造文書でアシストしてもらった「路上観察と街の歴史を掘り起こす研究サイト」のオーナー、やなぽん氏に教わり、各ページの下に横書きで入れました。
 資料その24の北大FAQは「カレイ粉 3ダース」だが、同(1)取裁録の(ウ)では「カレー粉」とイでなくて音引きであり、数量も「三本」と書き方が違う。厳密にはこうであり、3本というからには舶来のブリキ缶入りですね。
 同(1)と同(2)の夕食の違いに注目しなさい。多分農学校開校の明治9年7月から寄宿舎の朝夕洋食、昼和食を出す食費1日なにがしでは、その後の食材値上がりで賄いきれなくなったので、賄い方渡辺金次郎の申請で明治11年2月から1日21銭3厘に値上げしたものの3年しかもたなかった。
 それで朝も和食に変え朝昼和食、夕洋食、しかも夕は「隔日ニライスカレー外壱品」という実質和食にして1日28銭で賄うよう変わったのは明治14年11月の末からといえますね。だからクラークさんがいた明治9年にも夕食にライスカレーは出たかも知れんが、1日置きではなかったでしょう。寄宿舎の規則にあったというのは、明治14年11月に賄い方が今後は左之通りと食堂の壁にでも張り出した献立変更の告知を規則と思い込んだことからの伝説じゃないかな。
 また隔日ライスカレーに変えたときの賄い方が原田傳彌だということから、原田はこのころ寄宿舎だけでなく豊平館食堂部と魁養軒を経営していたのですから、値段はわかりませんが、当然この2カ所のメニューにもライスカレーがあったでしょう。
 同(1)の(ケ)はライスカレーと無関係だが(ク)の反対側で一緒にコピーされたので「取裁録」にはいろいろな書類を綴じ込んであると知ってもらうため付けておきました。

資料その25
(1)

(ア)    



(イ)
   


    権大書記官(印「調所」)    農黌
 物産局雇渡辺金次郎儀今般本庁官員
 中餐洋食ニ而相賄候ニ付学校生徒賄別紙之通
 一日金弐拾壱銭三厘ツゝニ而相賄度願出候ニ付永続方法等
 篤ト被調候處元ゟ軽薄之資本ニ付左之物品ハ月々本校ゟ
 払下ケ割烹機具等ハ貸シ渡破損等之節ハ自弁上納仕
 ヘク旨願出候ニ付聞届当人都合次第施行致候様此段
 相伺候也


(ウ)
   


    御賄向御入用物品調
 一 バタ     四拾斤    但シ壱ケ月入用分
 一 西洋胡椒   八本     仝
 一 同 蕃椒   三拾六本   仝
 一 カレー粉   三本     仝


(エ)
   


 一 西洋酢  六本  仝
 一 イースト 拾本  仝
  
 書載ノ通起業ゟ向フ六ケ月間ハ御備内御払
 下ケ相成候様仕度其他入用品ハ当地ニ而買上ケ
 御■候処斗之様御賄可仕候條右御聞届奉
 願上候也
   明治十一年二月十四日  渡辺金次郎


(オ)
   


           パン半斤
           但シバタ付
 一 朝  洋食   肉物壱品
   但シ金六銭九厘 但シ野菜物付
           茶 砂傏


(カ)
    


           免し<注 めし
 一 昼  和食   肴類壱品
   但シ金四銭   香乃物
           茶


(キ)
   


            パン半斤
            但シバタ付
  一 夕  洋食   肉物壱品
    但シ金拾銭四厘 但シ野菜物付
            肴類壱品
            茶


(ク)
   


  合三賄
    金弐拾壱銭三厘
   右之通リ御座候也
  十一年二月十二日 
        渡辺金二郎<非確定>


(ケ)

   

    権大書記官(印「調所」)    札幌農学校

 調所恒徳儀別紙之通客歳中ゟ 通学願出候
 ニ付御規則通三十日間試験仕候處品行学力等
 相應ニ付願之通御許容相成候様仕度此段御伺候也
      十一年二月


(2)

(ア)
   


(イ)
   


 運動ハ毎朝課業ノ終リニ当リ十五
 分宛行シムベシ
 現術ハ通常ノ物ノ名ヲ教ヘ又其用法
 ヲ解キ格段ニ生徒ヲシテ園圃ニテ用ユル
 物ヲ熟見セシメ後本科ニ入リ農学ヲ
 学ブ時ノ補助タラシメントス
 現術ハ毎週午後一回トス
 
      教頭代理
       ウヰリヤムピブルックス


(ウ)
   


 (朱「校長」)  (朱「農学校」) (印「加藤」)(印井□)[印「加藤」]
 別紙之通リ原田伝弥ヨリ願出
 候ニ付キ御允裁相成度且明廿六日
 ヨリ(朱挿入「当分之内」)施行仕度其写左之通リ生
 徒エ(江)相達度此段相伺候也
  十四年十一月廿五日

 近来物価騰貴従来之食物ニテ(而)ハ(者)


(エ)
   


 費用支ヘ難ク候ニ付明廿六日
 ヨリ(朱挿入「当分ノ内」)左之通リ相改メ候間此旨
 相達候事

       ┌ 飯
 朝 和食  │ 汁
       │ 香之物
       └ 湯
       ┌ 飯
 昼 同   │ 一菜
       │ 香之物
       └ 湯


(オ)
   

        ┌ パン
        │ バタ
  夕 洋食  │ 肉肴之類ニテ
        │ 二品
        └ 湯
       但シ隔日ニライスカレー
       外壱品


(カ)
   

      献立
          飯
  朝  和食   汁
          香之物
          湯
     
          飯
  昼  同    一サイ
          香之物
          湯


(キ)
   

           パン
           バタ
 一 夕  洋食   肉肴之類ニテ二品
           但シ隔日ニライスカレイ
           外壱品
           水湯


(ク)
   

 右之献立ニテ御生徒御壱人一日
 金二拾八銭(朱点見え消し「五厘」)ニテ御聞済被成下度
 此段奉願候也
 明治十四年
    十一月廿四日
             賄方
                原田傳彌(印)

 さて、次は明治8年に遡ります。「精選版 日本国語大辞典」によれば、ライスカレーは明治10年に出た久米邦武著「米欧回覧実記」の「其米を土缶にて炊き、漿汁をそそぎ、手にて攪ぜ食ふ、西洋『ライスカレイ』の料理法の因てはしまる所なり(69)」であり、カレーライスは大正14年に出た細井和喜蔵著「女工哀史」にある「カレーライス、カツレツ、肉フライなど(70)」が最も古い用例となっています。
 道民にもあまり知られていませんが、昭和59年1月に道庁総務部行政資料室が出した「赤れんが」81号に明治8年に樺太でカレーライスを食べたと書いてある医師の日記が紹介されているんですなあ。日国友の会編集部風に言えば「細井和喜蔵「女工哀史」(1925)から50年さかのぼることになります」だ。ふっふっふ。
 行政資料課主事山田博司が書いた「三田村多仲の日誌から」によると、昭和58年に遺族から「明治五年一月から八年一一月まで、ほぼ毎日連綿と書き続けられた八冊の日誌(71)」を含む三田村に関する資料が寄贈されたとあり、明治8年1月3日分について資料その26のように写真付きで書いています。同(2)はその日記の写真「樺太日誌 二千五百三十五年」で、句読点と字配りは私がこれに合わせて直しました。さらにカレー粉の入手先について同(3)のように考察し、文中のタイスカレーのタにルビで(ラ)をつけ、これはライスカレーとわかるようにしています。

資料その26

(1)
 次に引用したのは、多仲の日誌明治八年一月三日の記事である。

三日曇 零以下八度 波止場流出
 魯医シンゾーフスキ、ウオロンコフ、独乙人商人
 ヲリハル 右三名 招 午後二時来 新納 久世 通弁ニ来
○ ビール シャンパン 白ブドー酒
○ 鶏スープ餅○ 鮭ラカン○ 鮭ルイベ○ 鱈油煮○ ユリ
                           カマボコ
  覆盆子砂糖漬○ カレーライス
○ 煉羊羹 茶
 五時退
 夜六時ヨリ 長谷部 篠森 大井上 羽山 東 北垣
 広田 久世 新納 田中夫婦 弥作 来 年酒

 樺太在住のロシア人たちと多仲が親しく交際していた様子は、日誌の随所に見い出すことができる。この日は、そうした人たちとの新年の午餐会だったのだろう。元日には樺太支庁の主任官であった中判官長谷部辰連宅でも午餐会があったらしく、同日の多仲の日誌には、「二時ヨリ長谷部宅ニテ魯士官不残新賀ニ招カレ饗応、魯七時退ス」と書かれている。
 三田村邸での午餐会のメニューを見ると、アルコール類がビール、シャンパン、ブドー酒の三種、鶏スープ餅以下覆盆子砂糖漬まではオードプルのたぐいであろう(「ラカン」は「くん製」、「覆盆子」は「いちご」のこと)。そしてカレーライスが出て、食後のデザートに羊羹とお茶である。いかにも日露雑居の地らしく、メニューも和洋折衷となっているのがおもしろい。この日五時に外人三人は帰宅したが、そのあとで日本人官吏らを招き、飲み直したようだ。


(2)

   


(3)

<略> 多仲はいったいどこでカレー粉を手に入れたのだろうか。というのは、当時カレー粉を扱う輸入業者は国内におらず、東京の西洋料理店では外国から個々にカレー粉を取り寄せたり、時折入港するイギリス船から直接購入していたのである。東京ですらこうした状態であったから、日本の最北の北海道、そのまた北の樺太で日本人商人を介してカレー粉が入手できたとは考えられない。開拓使の東京出張所では、明治五年に既にお雇い外国人の食事のために、コーヒーや紅茶、「タイスカレー」を用意しでいたとの記録がある。しかし、お雇い外国人が一人も常駐していなかった樺太に、これらの品がわざわざ運ぱれたとも考えにくい。そうしてみると、樺太で多仲がしばしば足を運んでいた、外人の経営する「フロイセン」と称する店から入手したと考えるのが、比較的妥当な推測であろうか。

 山田の「三田村多仲の日誌から」にはありませんが「北海道人物誌第壱編」という本に名医ぶりが書いてあります。明治8年に樺太はロシアに委譲されたので三田村は札幌に転居していた。札幌の立花座という芝居小屋の経営者の奥さんが腹痛を訴え吐いたりするので三田村に診てもらったら妊娠だといった。セカンドオピニオンとして札幌病院のグリンム院長にも診てもらったら胃がんと診断したが、結局は妊娠だったので皆恐れ入った(72という話です。
 ジンパ学研究の副産物とでもいうか、私が古い新聞や雑誌で見付けた札幌に関わるライスカレーの記事を資料その27にしました。読めばわかるでしょう。2つ目の「ライスカレーの製法」を書いた清水なか子はね、さっきいったアメリカで家政学と料理を勉強してきた清水ナカです。アメリカで食べたかどうかわかりませんが、山川健次郎がアメリカ国籍の船でライスカレーの飯だけ食べたりしたのですから、カレーライスに近い料理があったと考えられます。

資料その27

<略>此日の注文は魁養軒原田傳彌が受合にて始め馬肉の「ビステーキ」と云ひしが馬肉は早速に間に合ずとて止め更に「蕎麥のライスカレー」と蕎麥粉と馬鈴薯の團子の汁とかの馳走と聞けり實に奇食に非ずや風味は兎も角飢饉抔の爲に試みるにハ好案にて實に勧農協會の名に背かざるを企てなりとて市中で誉めをとりましたと該地通信員より
(明治20年2月4日付函館新聞朝刊2面=マイクロフィルム、)


○ライスカレーの製法
           在札幌 清水なか子

何人も能く知らるゝ處なれども妾の今述べんとする處は全く相反す其製造左の如し羊鶏、牛肉なり何肉なり生肉を切りて之を油にて熬り稍茶色を帯びたる頃麦粉を振り掛け之に十分湯を注入し文火にて煮ると三四十分後カレーの粉末を肉半斤に付小匕二個位を混ず(之より多きとき辛味強く刺激性甚だしくして佳味を損ずるのみならず身体の壮健を害する恐あるへし)へし而して後熱き米飯に加へて食するは人の能く知る所なるへし若堅菜物に混せんと欲するときは胡蘿蔔、葱若くは豌豆等を油にて肉を熬りたる後共に調理すヘきなり又カレーの粉末を混するとき別して水にて攪和せる麦粉を混するときは一層可なり
(興農園編「興農雑誌」3巻26号14ページ、明治29年11月、興農園=原本)


 札幌味の名代今昔
          沢登龍生

 洋食 の先達は魁陽軒(大通西二)豊平館の原田、石垣、杉山さんらであろうがある古老の打明話では現在の第一銀行辺で宝亭が繁昌した明治三十年ころ近隣の小僧連中の理想の一つは「ライスカレエというとてもうまい西洋料理が宝亭にあるそうだが早く喰える身分になりたいものだ」つたそうでのち米風亭(南一西二)有合亭(エンゼル館横)開陽亭(薄野)丸吉精養軒(南一西四仲)イリエなどが栄えたけれど今は無く、<略>(筆者は郷土史研究家、北海道日本画協会理事、北海道民芸協会支部代表)
(昭和26年3月25日付北海タイムス朝刊4面=マイクロフィルム、)

 さて、濱の真砂は尽きるとも世にカレーのネタは尽きまじ―と、いいたいくらいカレーライス、ライスカレーの本があります。私はジンパ学専門だが、仮名垣魯文の「西洋料理通」などに羊肉を使うレシピがあるので少しは読まざるを得ない。それでね、私は明治5年に出た「西洋料理指南」の筆者、敬学堂主人は思想啓蒙家の中村敬宇だという仮説を立てたので脱線+転覆になるが、ケプロンに戻る前に聞いてもらいたい。
 この本のカレーは赤蛙を使うから筆者は中国人コックとか、難しい漢字が多いから高級官僚だろうといった程度の推定に留まっているなかで、水野仁輔著「幻の黒船カレーを追え」がいい線をいっていると思ったんだが、この本は「デタラメ、嘘、捏造だらけの悪質な本です。」とやり玉に挙げているブログがあるとは知らなかった。カレーにも興味のある人はキーワードの組み合わせを工夫して検索してみるとよろしい。いずれ私の中村敬宇説も空想、漢文オンチ、偽学者なんて叩かれるかも知れんなあ。ふっふっふ。
 赤蛙が出てくるそのページをスライドで見せましょう。国会図書館がインターネットで見られるように公開している画像です。右からも左からも4行目に注目、ここです。


   

 水野はロンドンに長く住んでいる友人有元めぐみさんから「『西洋料理指南』に出てくる赤蛙は、"誤訳"だったんじゃないかと思う。やっぱりどう考えても赤蛙はないでしょ。イギリスで昔から料理に使われている地鶏があって、それは、『REDFOWL』って呼ばれているの。これを誤訳したんじゃないのかな。『地鶏=RED FOWL』、『赤蛙=RED FROG』。イギリス人のなまりが強くて当時の日本人がなかなか聞き取れなかったという可能性もある。この調子だと『西洋料理指南』は、他にもたーっくさんミスが出てくるかも.....(73)」というメールを受け取り「大英図書館で、地鶏(RED FOWL)を使ったレシピをたくさん目にしてきた。その中には、もちろんチキンカレーもあった。(74)」ことから誤訳説を主張しています。
 私は赤蛙のところだけをみて判断していかんと思う。敬学堂主人は凡例で「余輩絶テ久シク漢籍ヲ読マス縁テ大ヒニ漢字ヲ忘却セリ故ニ屡シハ帝■ノ訛謬アルヲ免ズ又文ヲ続スル甚タ拙ナリ(75)」と断っているが、これは匿名にする都合で反対のことを書いた伏線と見るべきでしょう。■にした字は虎でもなし兎でもないという変梃な字で、もちろん諸橋の大漢和辞典で帝何々の項にはない熟語です。
 「指南」上下巻合わせて30カ所にある味付けの塩の字にしても土偏でなくニスイ、これまた大漢和のニスイ部130字にない字という具合で、正しい字を忘れたふりをしたらしい変な字がほかにもあります。
 中村は徳川幕府の昌平坂学問所教授(76)でしたが、選抜試験にパスして慶応2年からほぼ2年イギリスに留学しました。國學院大栃木短大の小川澄江教授の論文によると、世話役を頼まれた英国海軍士官兼牧師のウィリアム・ロイドは、留学生を下宿させるため大きな家を買い「妻キャロラインと2人の娘ソフィアとエミリー共々、留学生と生活を共にしながら教育を行った」。一緒に行った10代の留学生11人は固まって下宿していては英語がうまくならないとロイド家から離れたけれど、36歳の中村と24歳の川路太郎と23歳の岩佐源二の年長3人は留まり、それぞれ個人教授を受け、中村は文学を学んだ。こうして「中村正直にとってはロイド一家と過ごしたことは、英国の家庭の様子を見聞し体験する貴重な機会となっているのである。(77)」と述べています。私はね、このときに中村はロイド家の料理の作り方を学び、記録したと考えます。
 中村が毎朝自室で漢文の古典を朗読するので、こっそり覗いてみたら全部暗唱だった(789)と石井研堂が「中村正直傳」に書いているくらいの記憶力の持ち主であり「中村正直先生は其名の如く正直な人であつたが、先生は本当に速記を習つてくれたよ、知名の人で日本の速記を学んだのは敬宇先生に限るのぢや、(79)」と佃与次郎著「速記の話」にあるくらい何事も真面目に取り組む性格だったのですから、キャロラインたちの料理を手伝い、しっかり覚えてきた可能性大です。
 幕府が解体され、徳川家達は静岡城主として江戸を離れ、それに従い多くの旧幕府の役人が静岡に移住した。帰国した中村も仕方なく静岡に移住して府中学問所で漢学を教えることになります。高橋昌郎著「中村敬宇」は「前田愛氏の『中村敬宇』が指摘するように、幕末から明治にかけて欧米に赴いた日本の知識人が、ほとんど例外なく精細な見聞記を書き、異質文明に接触した新鮮な感動を率直に表明しているのに比較して、敬宇がほとんど何も記すことがなかったのは、ひとえにこのような心境にあったからであろう。(80)」と中村が当時書いた漢文から落胆ぶりを察しています。
 その後、中村はサミュエル・スマイルズの「セルフ・ヘルプ」を訳した「西国立志編」を書きヒットさせるが、女子教育の必要性を痛感して帰国したことから「願クハ有志ノ輩疾ク西洋割焙ノ方法ヲ妻婢ニ傳ヘテ三次ニ之ヲ用ヒンヿヲ(81)」と、気分転換を兼ねて「西洋料理指南」を書いたとみます。ただ匿名ではあるが、見る人が見れば中村が書いたとわかる細工を施した。
 その証拠としては(1)説明に又、亦、復の3種のマタを使っていること。上巻は34マタの中で「亦」は「於ルモ亦食餌ハ」「愚モ亦甚シ」「食場ノ式モ亦少シク」「亦政化ニ」「及シモ亦然リ」「是レモ亦用ユヘシ」の6回であり、下巻は62マタの中で同じく「亦牛油中一匙ヲ」「我モ亦有スル所」「是亦塩ヲ」「亦之ヲ載ス」の4回で、総て「〜亦〜」であり「〜亦ハ」という書き方は絶無だ。 よって下巻30丁表のカレーに入れる材料の「鶏、海老、鯛、蠣赤蛙等ノモノヲ入テ能ク煮(82)」は誤字か校正見逃しに見えるが、中村は漢字の素養があれば蛙は蚌と書くハマグリで「鶏、海老、鯛、蠣亦蚌等ノモノヲ入テ能ク煮」と見抜くクイズ仕立てににした。だから蛙だけフリガナをつけなかった(2)本文の熟語の右側に読み、左側に意味を片仮名でつけるスタイルは静岡で出版した「西国立志編 第一冊」と同じだ。カレーのページも右から2行目、少許の左にスコシバカリ、細切にコマカと付けている(3)早大図書館所蔵の「西国立志編 第十一冊」に奥付があり、東京に於ける販売書店に小石川大門町の雁金屋清吉の名がある。これで雁金屋とのつながりができて、その半年後の明治5年春、雁金屋清吉の雁金書屋が「西洋料理指南」を出版した。中村は大蔵大輔井上馨に懇請され大蔵省翻訳掛となり5年夏上京したとき、高橋によると「雁金屋書店の紹介で、小石川江戸川町里俗大曲の旧内藤邸を購入(83)」した。すぐ家を買えたのは「西国立志編」と「西洋料理指南」の原稿料があったからだ(4)「西洋料理指南」上巻の題字「食不無飽」は静山という号の人物が書いている。中村は山岡鉄舟の養父山岡静山について「山岡静山先生傳」を書いたことから亡き静山の号を借りたが、静山の書ではないことを示すため上の篆刻の印は「中之印」と中村を暗示し、下は「静山」と読めない変な印を押した(5)大漢和辞典に敬宇は中村正直の号と載っており、中村の通称は敬輔で敬の字にこだわっていたことから敬学堂の敬学は敬宇のもじりだ―ということですかな。尽波仮説は面白いでしょう。はっはっは。
 疑り深い人は、西洋料理で蛤を使うなんて怪しいと思うでしょうが、はい、配った資料の前の方、資料その9のディナーを見なさい。クラム・ブロックまたはブロッスと2回もメニューに書いている。ビンフォルド夫人はオイスターよりクラムが好きだったかも知れないけど、蛤はありですよ。
 それからね「明治・大正・昭和のレシピで食道楽」を書いた小野員裕は「さすがに赤蛙の入手は困難だったので、食用蛙を探してきて試作してみたけれど、カレー粉の分量も極端に少なく、カレー風味の魚介の寄せ鍋といった味わいだった。(84)」そうですが、初めて食べた当時の人たちは、ライスカレーとはこんな洋食なんだなと納得したと思いますよ。
 食用蛙だけでなくガマもいけるらしい。明治39年の静岡民友新聞に静岡呉服町の法月袋物店主談として「近頃東京の袋物商内田直吉氏が蟇の皮十三万枚を輸出して二万円の大利を得たる事あれど此製皮は今日に始まりたるにあらず既に三十年前より行はれたることにて其肉はライスカレーの実として宜ろし、(85)」という記事が載っているからね。
 こうなると知ってか知らずかガマ肉カレーを食べた人がいたはずですが、食通本でも見たことがないなあ。ただ内田直吉氏は実在の人物で「東京鞄商工同業組合沿革史」などで活躍ぶりを知ることができます。
 さて、たいぶカレーライスで時間を食っちゃったが、この後は本来のケプロンの研究に戻ります。
  

参考文献
上記資料その23(1)の出典は開拓使・簿書5495件名簿54「不日到着ノ御雇教師料理、受負ノ件」と同件名簿55「教師取扱掛ヨリボーイ並下タ仕抱入伺」=道立文書館、 資料その24は https://www.hokudai.ac.jp /sub/inquiry/faq.html#q9 資料その25(1)は札幌農学校簿書・札農/2016/0068「取裁録 乙部/明治十一年一月ヨリ」=北大文書館、 同(2)は札幌農学校簿書・札農/2016/0104「取裁録 明治14年従一月至十二月」、同、 (69)は小学館国語辞典編集部編「精選版 日本国語大辞典」3巻1216ページ、平成12年3月、小学館=原本、 (70)は同1巻1231ページ、同年1月、同、 (71)は北海道行政資料室編「赤れんが」81号19ページ、山田博司「三田村多仲の日誌から」より、昭和59年1月、北海道=原本、 資料その26(1)は同20ページ、同、 同(2)は同21ページ、同、 同(3)は同22ページ、同、 (72)は岡崎官次郎編「北海道人物誌第壱編」122ページ、明治26年9月、北海道人物誌編纂所=国会図書館インターネット本、 (73)は水野仁著「幻の黒船カレーを追え」215ページ、平成298月、小学館=原本、 (74)は同217ページ、同、 (75)は敬学堂主人著「西洋料理指南」上巻丁表、明治5年*月、雁金書屋=館内限定デジ本、 (76)は宮永孝著「慶応二年幕府イギリス留学生」208ページ、昭和59年3月、新人物往来社=原本、 (77)は國學院大学栃木短期大学編「國學院大栃木短期大学紀要」43号92ページ、小川澄江「中村正直における明治維新観と教育――御儒者から啓蒙的教育者へ―その思想的開明性の形成――」より、平成20年、國學院大学栃木短期大学=原本、) (78)は石井研堂著「自助的人物典型 中村正直伝」56ページ、明治40年2月、成功雑誌社=国会図書館インターネット本、 (79)は佃与次郎著「速記の話」75ページ、昭和2年9月、佃速記塾=館内限定デジ本、 (80)は高橋昌郎著「中村敬宇」新装版59ページ、昭和60年2月、吉川弘文館=原本、 (81)は同116ページ、同、 (82)は敬学堂主人著「西洋料理指南」上巻序5丁表、明治5年*月、雁金書屋=館内限定デジ本、 (83)は同下巻30丁表、同、 (84)は小野員裕著「明治・大正・昭和のレシピで食道楽」15ページ、平成27年2月、洋泉社=原本、 (85)は明治39年9月22日付静岡民友新聞朝刊3面=マイクロフィルム

 明治7年7月、札幌に来ていたケプロンがどんな物を食べたか「教師御喰用物品買上調書」の一部を資料その28で示しました。祢ギはネギ、福きは山菜のフキ、いん度越豆はエンドウ豆、いん遣ん豆はインゲン豆です。玉子は粒で数えてますが、10日間に鶏12羽、玉子300個だから、毎日鶏1羽と玉子30個は食べたことになる。ケプロンはこんなに多量の動物性蛋白質を摂って痛風にならなかったのか。「蝦夷と江戸」には何も書いていません。

資料その28

七月一日
 一金弐円 玉子百粒
      但壱粒ニ付十銭宛
 一金五銭 祢ギ 大五把
      但壱把ニ付壱銭宛
二日
 一金三円三拾銭 鶏六羽
         但壱羽ニ付五拾五銭宛
五日
 一金三円三拾銭 鶏六羽
         但壱羽ニ付五拾五銭宛
 一金弐円 玉子壱百粒
      但壱粒ニ付弐銭宛
 一金五銭 福き 大五把
      但壱把ニ付壱銭宛
 一金拾四銭 ホツキ貝七ツ
       但壱貝ニ付弐銭宛
六日
 一金三拾銭 鱒三本
 一金四拾弐銭五厘 極上白米五升
          但壱石ニ付金八円四拾銭七厘五毛
八日
 一金拾四銭 ホツキ貝七ツ
       但壱貝ニ付弐銭宛
 一金拾五銭 いん度越豆三升
       但壱升ニ付五銭宛
 一金四銭 葉にんじん 四把
      但壱把ニ付壱銭宛
 一金七銭 いん遣ん豆 壱升
九日
  一金弐円弐拾銭 玉子百粒
         但壱粒ニ付弐銭弐厘宛
 一金五銭 かぶ菜 拾把
      但壱把ニ付五厘宛
 一金弐拾銭 カレイ五枚
       但壱枚ニ付四銭宛
十日
 一金六円 大極上コヒイ粉 拾斤
      但壱斤ニ付六拾銭宛

 ケプロンが鳥肉が好きだったという証拠を資料その29にまとめました。ただ、これは私が重要文化財の原本を見ながら鳥と獣肉だけ抜き書きしたもので、再度の照合をしていない。だから鉛筆で書き写したときの間違いは絶対にないといえないので、今回は傾向を知るという程度で見て下さい。
 まず(1)の31日と4日の■は自分で書いて読めない字、来年の資料ではちゃんとしておきます。1日の記に濁点はギで志と合わせてシギです。昔の人はこんな当て字をときどき使っとる。平仮名たかぶもシギの仲間の正しくはタカブシギ、鷹の斑と書いてタカブと読んだ。それから同(2)の4日と同(3)の12日の鵞は鵞鳥でしょうが、12日の1羽と3羽と分けて書いた理由はわからん。ただケプロン用に家鴨払い下げを頼んだ文書で大型と小型と書き分けている例があるから、大型と小型かも知れません。

資料その29

(1)
明治6年8月31日〜9月14日

30日 鶏2羽  家鴨2羽  生牛肉5斤

31日 志■5羽  多かぶ3羽
 1日 志記゛5羽  鶏3羽 牛肉15斤
 3日 志ギ5羽       牛肉5斤   玉子50粒
 4日 家鴨■羽
 5日 志ギ5羽       牛肉5斤
 6日 鶏3羽 たかぶ3羽  牛肉15斤  玉子50粒
 8日            牛肉10斤
 9日 鶏5羽 たかぶ2羽  牛肉10斤  玉子50粒
11日 家鴨3羽       牛肉10斤
12日 志ぎ3羽       牛肉8斤   玉子30粒
13日 志ぎ2羽       牛肉10斤
------------------------------------------------------------------


(2)
明治7年6月

 4日 鶏10羽  鵞1羽         玉子50粒
 5日                   玉子20粒
 7日                   玉子100粒
 8日 1年子10羽  ウヅラ5羽
10日 鶏3羽  家鴨3羽  ウヅラ10羽  玉子30粒(饗応用)
11日                   玉子100粒
12日            鹿股1本
13日 鶏5羽
14日                   玉子100粒
17日 ウヅラ3羽
19日 鶏2羽  1年子4羽
20日 鶏5羽
22日                   玉子100粒
25日            鹿股2本  鹿肉5斤
26日                   玉子100粒
29日 1年子12羽
30日 古鴨1羽       鹿股1本   玉子100粒
------------------------------------------------------------------


(3)
明治7年7月1日から8月5日

 1日 鶏6羽               玉子100粒
 5日 鶏6羽               玉子100粒
 9日                   玉子100粒
12日 鶏6羽  鵞1羽  鵞3羽
13日                   玉子100粒
17日                   玉子100粒
18日 鶏6羽
21日                   玉子100粒
22日 鶏6羽
26日                   玉子100粒
28日 鶏6羽
31日                   玉子100粒
8月
 1日 鶏3羽

 こうしてみると明治6年は牛肉もよく食べたのに、7年になると鹿肉に変わっているが、鳥肉と玉子の好みは一貫していて、高い玉子を1日に20個ぐらい食べてしまうケプロンのための玉子確保は開拓使を悩ませたのです。資料その30(1)は札幌では2朱で3個ぐらいだが、函館は本州物も入るので1朱で6個は買えるそうだから、函館で買って船で札幌に送らせると経費節減にもなるという提案です。資料その17の玉子の値段からすると1朱は3銭乃至5銭に当たるようですね。
 御雇い教師用の玉子確保は大事だと認められ、同(2)は函館で玉子を買い、まず2、3000個札幌に送ってもらい、涼しくなったら来年2月ごろまでの分として、また2、3000個追加してと頼んでいます。道内では養鶏業は成り立っておらず、農家が放し飼いしていた程度だったのでないでしょうか。

資料その30

(1)
             教師懸(印)
判官           庶務懸(印)
七等出出仕(印)     会計懸(印)

教師御賄食物之内鶏卵之義ハ日用不可欠ケフ
ロン壱人ニ而一日大概十四五ヨリ乃至二十位
ツゝハ相用來リ鶏卵払底之折柄即今ハ金弐朱
二三ツ位ニ相當リ候趣然ルニ唯今之處ハ高価
ヲ不厭レハ其品可被買求候得共逐々厳寒ニ至イ
リ候節ハ何程高価ヲ出シ候而モ其品無之趣其
節ニ至リ彼之嗜好スル物品ヲ欠キ可申依而致
勘弁候處函館表之義ハ向地ヨリ多分輸入モ有
之大概壱朱ニ六ツ位之相場ニ相聞候間幸便ヨリ
御取寄相成運賃相懸候而モ當所ニ比較致候得
ハ余程御失費モ相省キ且折角御厚待之御趣意
モ相立一挙両得最早逐々寒冷之時分ニ至リ最
途中腐敗之患モ有之間敷候間前書御取寄之方
ト存候依而箱館ヘ之懸合書取調相伺申候


(2)

  函館          札幌同掛
   庶務懸
   会計懸  御中

當地詰御雇教師御賄食物之内鶏卵之義ハ日用
不可欠品ニ而即今市中ニ至テ乏シク其価弐朱
二三ツ位敢而代価ヲ論スヘキ訳ニハ無之候得
共逐々寒冷ニ至リ而ハ何程高価ヲ出候而モ其
品無之其節彼之嗜好スル所ノ物品ヲ欠クニ至
リ折柄御厚待之趣意モ不相立候間御手数ニハ
候得共於御地差向数二三千許リ御買上幸便ヨリ
御廻シ被下度乍併長途之事故腐敗等之患モ有
之候間囲方可相成気候御見計ヲ以御差送リ方
可然御願申候且來二三月迄モ囲方十分可相成
時分ニ至リ候ハゝ尚又二三千計御見計ヲ以御
手配被下度此段モ前以御依頼申入置候也

 壬申 八月

 資料その31(1)は「蝦夷と江戸」の日本上陸後、招待されたとか接待を受けたと明記した記事です。また最初の東京生活ではだれそれが私の客になった、泊まったという日が場所不明も含め12日あるけど「一同二、三日間我々の客になる。」などという書き方もあるので、実日数はもう少し多いでしょう。下書きあったにせよ、料理はターキー、フォアグラと鳥類から書き、コースの数など、とても帰国後9年もたってから書いたと思えません。恐らく宴会のメニューは持ち帰り、ないときは忘れないうちに日記に書いたのでしょう。
 いいですか、玉子と鳥肉プラスこの食事の記録から察するに、ケプロンは筋金入りというと変だが、立派なグルメだった。だから彼は小さいけれども羊肉では最高と定評のあるサウスダウン種の肉、牛はショートホーン種、短角牛のうまい肉を食べさせて肉食に慣れさせ、米中心の日本人の食生活転換を図ったと考えられます。トウモロコシへのこだわりもその一環だったんですなあ。
 彼は明治7年5月11日の日記に「アメリカから輸入した家畜の第1回分を、今日横濱から蝦夷の島へ送る。これは、東京の開拓使の農園に置いてあったものである。」として、素晴らしい状態のサウスダウン16頭と子羊11頭、ダラム短角牛牝10頭と牡1頭と子牛1頭、バークシャーなどの豚8頭(86)と内訳を書いています。来日以来の日々の食事を通じてこの品種選択に誤りはないと確信したと思いますね。
 ケプロンは伊達や酔狂でサウスダウンを推奨したのではないという根拠が同(2)です。メリット・スター著、西島照男訳「ホーレス・ケプロン将軍―北海道開拓の父の人間像」という本の「ケプロン中佐の農場の視察」という記事がね、彼が日本に来る20年も前に自分の農場でサウスダウンを飼い、その美味を満喫していたことを伝えています。だからケプロンはね、取材に来た記者にサウスダウン種のこれはラム、こっちはマトンとそれぞれ分けてご馳走したらしい。どっちがうまいなんていえない美味しさだったとべたホメの記事を読み、我が意を得たりと鼻高々だったことでしょう。
 この「ホーレス・ケプロン将軍」の半年後に北海道出版企画センターから出た西島照男訳「ホーレス・ケプロン自伝」にも「ケプロン中佐の農場の視察」が載っています。ほぼ同文ですが、30字短く冒頭の「羊の群れ」を「牛の群れ」とした誤植があります。
 ミシュランなら3つ星クラスの羊肉料理を知るケプロンですから、羊肉はサウスダウンに限ると公言してはばからなかったらしい。同(3)は明治7年、ケプロンが最後の道内視察にきたときの報告であり、彼は最後まで「ソーツ、ドーン」つまりサウスダウンを推していたことがわかります。
 ケプロンが去ってから羊肉増産のためにコリデール種とメリノ種が主流になり、体の小さいサウスダウン種は忘れられるのですが、いまもはやされている顔と足の黒いサフォーク種の肉が美味しいのはね、サウスダウンの血を引いているからです。サウスダウンのマトンを焼くジンギスカン、想像しただけで小谷さんじゃないが、垂涎三尺鼓舌して止まざるべし―ですね。

資料その31

(1)

 U 東京の生活(一八七一〜一八七二年=明治四〜五年)

  〃  八月二十九日
<略>食堂には我々と我々を案内して来た二、三の役人のため食事が準備してある。また大勢の給仕や召使がいる。
 食事は驚くほど立派で、フランス式のコースが出る。出されたワインは三種類ある。<略>(36ページ)

  〃  九月九日
<略>今日は一同、立派な宴会に招待された。<略>(37ページ)

  〃  九月十日
 浜御殿の昨夜の宴会は、大きな出来事と言えよう。出席したのは約二十二人の代表的な人物で、総理大臣(三条)以下、日本帝国最高の地位にある人たち全員である。
 二十コースの料理が出て(注21)、テーブルに四時間座り続ける。いちいち肉やアントルメの名は挙げきれないが、中にはパテドフォワグラや、ウッドコックさえある。ワインもたっぷりある。<略>(37ページ)

  〃  九月十六日
<略>テーブルの上には、お菓子とワインが沢山置いてある。お菓子には、約十センチ角の箱に入ったのも四つあって、これは天皇のテーブルから直接運んでくるのがしきたりである(この箱は、その日の夕方宿舎へ――一人に一箱ずつ――届けられ、天皇のごあいさつが添えてある)。<略>それからワインとお菓子で楽しい二時間が過ぎた。(41ページ)

  〃  十月二十五日
<略>英国(代理)公使アダムス氏を訪問し、合衆国ワシントンの、英国公使ソーントン紙からの紹介状を渡す。丁重なもてなしを受ける。<略>(57ページ)

  〃  十月三十日
<略>二時間ほど、実に楽しく、広い庭の中を歩いたり、天皇への紹介の際迎えられた、美しい茶室で天皇の高官の接待を受ける。<略>(57ページ)

  〃  十一月二十日
<略>知事と中将は礼砲で迎えられ、提督の部屋で立派な食事が出た。(61ページ)

  〃  十二月二十七日
 横浜でクリスマスを迎える。アメリカの友人何人かの招待で、紛れもない古いしきたりによるもてなしである。二十五日、二十六日と二度の食事に呼ばれ、ロースト・ターキーや、プラム・プディング等の、お決まりの家庭料理をごちそうになる。(64ぺージ)

 〃  一月十三日
 アービン氏とロスロップ氏を食事に招待。横浜のウオルシ・ホール商会の人である。(63ページ)

  〃  六月八日
<略> ガバナーは、私のため、前以て特に念入りな準備をし、行く先々には、確かに、わざわざテーブルと椅子を送ってある。ナイフとフォーク、ナプキン、テーブルクロスなどいわゆる一人分のテーブル用一式が、食事の時間になると、まるで魔法のように現れる。見れば皆同じ形で、どう考えても全く同じ物に違いない。だが、どうしてそこへ行ったのか、どうも分からない。いつも先に運ぶとしか思われず、途中で見たり、追い越したりしたことは一度もない。
 沢山の良い食事が、いろいろなワインと一緒に、立派な洋式で出される。<略>(85ページ)


 V 第一回北海道の旅(一八七二年=明治五年)

 〃  六月二十五日<函館>
<略>函館のガバナーが不在のため、午前十時、副ガバナーと一緒にコロラド号を訪れ、提督のキャビンで豪華なもてなしを受けた。離艦の際副ガバナーは、正規の礼をもって送られた。(90ページ)

   〃  六月二十六日<函館>
 昨夜、ジェンキンス提督、ボールドウイン艦長、提督副官のエメリーとコンバースの両大尉が、私の宿舎で日本政府の接待を受けた。
 物資の入手が難しいにもかかわらず、もてなしは大成功と言える。ボールドウイン艦長の話では、印度や支那や、また日本のどこでも、これに勝る立派な接待は見たことがない。ヨーロッパ風のもてなしで、十か十ニコースの料理が出され、ワインは種類も多く立派な品である。(91ページ)

   〃  六月三十日<七重>
<略> 昼食後出発し、函館に午後四時ころ到着する。(97ページ)

  〃  七月九日<函館>
 太平洋郵船のエーリアル号で、食事をする。今、港に停泊中で、船長の招待によるものである。同席は、アメリカ領事夫妻と私の妻である。(98ページ)

  〃  七月十二日<大野>
 今日、一時三十分、札幌へ出発。大野流域を通り、最初の宿泊地、大野の町へ行く。距離は約十マイルで、午後四時到着。万事、準備が整っている。召使が先行しているからである。(*ページ)

  〃  七月十三日<大野>
 結構な朝食の後、午前六時五十分、大野を出発した。今朝の馬の旅は言いようもないほど面白く、また快適である。<略>(100ページ)

  一八七二年(明治五年)七月十六日(火曜日)<室蘭>
<略>三時三十分、茶店(注76)で休んで昼食を取った後、小さな馬に跨がり、エンデルモの港の周囲を行くことにした。<略>(105ページ)

  一八七二年(明治五年)七月十七日<室蘭>
<略>夜、十分に休み、気持ち良く朝食を取った後なので、見たこともない珍しい景色を待ち受ける気持ちで、忙しい昨日の疲れは少しも感じない。<略>
 いつも忠実な召使のショーとコックは、いつものように  先に行き、盤に冷たい水を入れ、顔と手を洗えるようにしてある。また、手ごろな味のブランディー・タディーと、ちょっと言いようのない結構な昼食を準備している。焼いたヤマウヅラで、柔らかく水分があり、それにハムのサンドイッチがあって、どこへ出しても、恥ずかしいものでない。(107ページ)

  〃  七月二十日<札幌>
<略> この日(一八七二年七月二十日)、三時、蝦夷の島の首都に予定された札幌(注96)へ馬を乗り入れ、ガバナーと二人のアメリカ人の歓迎を受けた(注97)。  夕方、ガバナーの家で、お馴染みの歌と踊りのもてなしがあった。しかし、このときは、出た人は素人でも名の通った人と思われ、歌い手は特にそうである。プリマドンナは(歯のない四十か五十の女で)、盛んな拍手を浴び、お菓子や瓶詰のビールをどっさりもらって家を出て行った。
 食事はヨーロッパ風で、私の召使が世話をした。テーブルは間に合わせで、その上の調度品は私の目にはお馴染みで、また召使にとっても同じである。<略>
 ガバナーは、アメリカ人が非常に肉が好きだと思い、好意の気持ちを表そうとし、"もしお好きなら、立派なキツネを一匹送ろう≠ニ言ってよこした。(120ページ)

  一八七二年(明治五年)十月二十三日<スルベツ―勇払間>
スルベツを午前六時に出発、食事をする家に七時四十五に着く。(156ページ)

  〃  十月二十五日 金曜日<室蘭>
<略>朝食を済ませ、五トンか七トンくらいの日本のジャンクに乗り込んだ。<略>(158ページ)

  一八七二年(明治五年)十一月二日<函館>
<略>長官が<略>私に、立派な四頭立ての馬車に一緒に乗って山の麓の茶店まで行くよう勧めた。茶店では、軽い食事が出、長官と一行は騎馬で札幌ヘ進み、私とほかの者は函館に戻り、東京へ行く船に乗ることになっている。<略>山の麓に到着し、立派な昼食が出る。昼食を終え、長官と随行の役人と一緒に出発する。<略>(164ページ)

 W 東京の生活(一八七二〜一八七三年=明治五〜六年

  〃  十二月二十五日
 晴れ。曇り。寒し。
 クリスマスを、コルゲート・べーカー氏と横浜で過ごす。昔ながらのクリスマスで、懐かしい故郷を思い出す。ローストターキー、グランベリーソース、プラムプディング、ワイン、パイ、パンチ等の豪華なアメリカ風のごちそう。(173ページ)

一八七二年(明治六年)五月五日
<略> この日は、特別な招待で若いプリンスの一家と食事を共にした。この人の父は大君の治世に非常に高い地位にあった人である。<略>
 これが終わると、宴会の準備ができている。私には随分気を使い、初めから終わりまで変わることがない。いかにぎこちなく、無理をして日本式に床に座り、箸を使って食事をするかを知っていたので、特別に、二フィート四方ほどの小さなテーブルを間に合わせ、また宿舎から椅子を一つ取り寄せ、"野蛮人"のために準備してある。テーブルの上には白い布を広げ、皿、ナイフ、フォーク、ゴブレット、ワイングラスを置き、これもまた(忠実な召使のショーの特別な計らいで)、宿舎から取り寄せたものである。
 もちろん、料理の説明、つまり特別私のために作った料理の説明はしないが、これもまた、ショーの世話によるもので、料理の数が多すぎて、とても全部、食べられはしない。
 ほかの人の料理も、次々と変わるのを見れば、同様に大変な分量である。だが、中味はすべて米と魚、魚と米といった具合で、ただ形が変わって出るだけで、インディアンの酋長がニューヨークの知事をもてなしたのを思い出す。(181ページ)


 X 第二回北海道の旅(一八七三年=明治六年)

  〃  五月三十日<東京>
<略>出発に先立ち、黒田清隆と開拓使の役人が妻とを私を立派な宴会に招待した。<略>二十以上のコースが出され、我々はトルコ風≠ノ床に座り、そこには柔らかいマットが一面に敷いてある。<略>(188ページ)

  〃  六月二十九日 日曜日<札幌>
<略>ガバナーは、英国代理公使ワトソン氏と私を食事に招待した。(198ページ)

  〃  九月五日<函館>
 今日、アメリカ領事館で、マコーリー大佐以下のラッカワナ号士官と会食。<略>(232ページ)

  一八七三年(明治六年)九月十一日<函館>
 今日、英国公使ハリー・パークス卿と会食。(233ページ)

  〃  九月十二日<函館>
 曇り。暑し。英国領事と会食。(233ページ)


 Y 東京の生活(一八七三〜一八七四年=明治六〜七年)

  一八七三年(明治六年)十月十四日
 今日、離宮の浜御殿で会食。妻、ビンガム氏(米国全権公使)、同夫人と令嬢、その他二、三人の外国人、及び二十五人か三十人の政府高官が出席。主人役は前駐米公使森有礼閣下である。まことに立派な接待で、一同楽しく時を過ごす。(240ページ)

  〃  十月二十八日
 ディロング公使、夫人と家族を連れ横濱から今日来訪し、食事を共にする。食後、帝の招待で一同宮中の庭へ行く。<略>(243ページ)

  〃  十一月十三日
<略>岩倉、大久保、田中の各閣下、及び沢山の提督を含む大勢の日本人高官がいて、文部省のマレー教授が招待した席である。もてなしは実に立派で、アメリカと日本の最高の料理が出た。(247ページ)

  〃  十一月十四日
<略>大勢の紳士、淑女が今日我々と食事をし、そして開拓使の農園、苗木仕立場、動物養殖場を視察した。(247ページ)

  〃  十一月十五日
<略>今日横濱で開かれた、近く帰国するアメリカ公使チャールズ・ディロング氏の豪華な送別会に出席する。約百人の客がテーブルに着く。素晴らしい送別会である。(247ページ)

  〃  一八七三年(明治六年)十一月二十二日、土曜日
<略> 今日、岩倉氏(総理大臣)と昼食を共にする。出席者は、自分の妻、アメリカ公使ジョン・A・ビンガム氏と夫人、マレー教授夫妻、グリフィス教授と姉、それにかなりの数の日本人高官である。実に印象の深い集いである。これは、総理大臣の宴会としては最高の部類で、いずれも洋式で、マホガニーのテーブルに出され、陶器はフランス製である。そして召使は燕尾服の制服に白いチョッキ、ネクタイ、手袋で、総理の令嬢たちは東洋の衣装で現れ、日本人の男性は全部洋服である。(249ページ)

  〃  十二月二十四日
<略>アメリカの新任公使ビンガム氏と家族を招待する。約六十人の外国人と日本人が出席。大成功。(255ページ)

  〃  十二月二十五日
<略>横浜のアメリカ人豪商と一緒にクリスマスの食事をする。コルゲート・べーカー氏と非常に感じの良い夫人に、紛れもない古いしきたりのクリスマス料理でもてなされ(注192)、まるでアメリカへ帰ったような気がする。ローストターキー、クランベリーソース、プラムプディング、ミンスパイ、その他いずれも、アメリカの代表的なクリスマス料理に欠かせないものばかりである。<略>(256ページ)

  〃  一月九日
<略>ハリー・パークス卿と会食。(261ページ)

  〃  一月十二日
<略>ジョン・ワルシ氏の招待で会食。(262ページ)

  〃  一月二十九日
<略>ガバナーの黒田、今日開拓使の外人を招待する。<略> テーブルが準備されるが、一つはヨーロッパ式、他の一つは日本風で、日本人の客にはチャウ・チャウである。いずれも兼ねに糸目を付けぬ物ばかりである。<略>(266ページ)

  〃  二月十六日
 昨日、結婚式のパーティーに出席。東京の人を呼び、横濱で開かれた。<略>(268ページ)


 Z 第三回北海道の旅(一八七四年=明治七年)

  〃  八月三日<札幌>
 島の東部へ行く旅行に当たり、ガバナーの豪華な送別会がある。宴会はアメリカ式。(305ページ)
  〃  八月九日<シリチャリ=静内>
<略>そこでは、我々全員に食事が準備してある。食事は明らかに間に合わせのテーブルに出し、日本食で、それ以外ないのは当然である。<略>(308ページ)

  〃  八月十七日<七重>
<略>ここで、冷えた濃い、素晴らしいデボン種のミルクと、米の煮たのを一杯ごちそうになる。これには全く驚くが、いったいこれ以上気分をさわやかにするものがあるだろうか。<略>(316ページ)


 [ 東京よりワシントンへ(一八七四〜一八七五年=明治七〜八年)

  一八七四年(明治七年)十月一日
 アメリカから一八七二年に輸入した梨の木の実を少しもぐ。味は最高。<略>(326ページ)
  〃  十月二日
<略>味の良い梨をもう少しもぐ。<略>(327ページ)

  〃  十月十日
 太平洋有線の招待で、約百五十人の人が同社の立派な汽船チャイナ号で江戸湾を下り、キング岬へ行く。<略>ロシアの旗艦からバンドが来て、曲を奏し、広いサロンで贅を尽くした宴会がある。<略>(328ページ)

  〃  十二月二十五日
<略>アメリカ公使ビンガム氏と家族、我々とクリスマスの食事を共にする。(331ページ)

  一八七五年(明治八年)一月一日
<略>アメリ公使と家族を、今日、食事に招待する。(331ページ)

  〃  四月四日
 長官の招待で、アメリカ公使や日本の海軍士官たちと一緒に湾を下って岬まで遊覧し、戻って來る。<略>船中では立派な食事が出され、日本の軍楽隊の演奏があった。<略> (337ページ)

  〃  四月十七日
 今日、我々のために天皇の離宮濱御殿で宴会があり、招待者は黒田長官閣下である。<略>(338ページ)


 \ 注釈
注21 天皇主催歓迎会=【アントルメ】=魚料理の次、肉料理の前に出される盛り合わせ料理。またはチーズの後に出される甘いデザート。【パテドフォワグラ】=ガチョウの肝臓の擂り身を調理したもの。【ウッドコック】=ヤマシギで、肉は美味。(376ページ)

注57 一緒に来た召使三人=ケプロンが最初に来道した明治五年(一八七二年)の五月、北海道行きを前に、開拓使は、コックとして金次郎、雑務として聖次郎及び新吉の三人を採用している。金次郎の給料は月十五円、他の二人は十円。旅費は一日七十銭。(378ページ)

 注149 若いプリンス一家=ケプロンは別の著書で、島津侯のような大きな旧大名をプリンスと呼んでいる。ここでは皇族か大名か不明。(389ページ)


(2)
 注6 ”ケプロン中佐の農場の視察”

  一八四八年アメリカンファーマーに載ったケブロン中佐の農場の視察≠フ全訳を次に掲げる。
<略> 羊の群れはサウスダウン種で数は三十頭で――良い小羊の肉を生産すると、我々は喜んで証言することができる。その理由は、王者であろうが小百姓であろうが、我々がケプロン中佐の手厚いもてなしで味わったより、美味で食欲をそそるごちそうを食べたことがないと思うからである。
 いったい何を食べたなどというのは我々の習慣ではない。サウスダウン種の小羊と成長した羊の肉が、他のいかなる種類よりも優れているという我々の考えを明らかにする機会だからこそ言ったまでで、そうでなければこんなことを言ったりはしない。<略>


(3)
    ○ケプロン氏七重試験場巡見の報文
  千八百七十四年第五月二十四日函館呈

  開拓次官黒田清隆閣下

昨日七重ヲ巡見セシニ嚮ニ見分ノ節トハ適好ノ事業多ク行レ方今
形勢ヲ見ルニ稍完成ニ至ルヘシ<略>
○東京ニアル羊類其数稍増加シタレハ牧場ヲ広クス
可シ然ラザレハ夏間夜中押合混雑スルカ為メニ病ヲ生シ死亡スルニ
至ル狗防ノ法立タハ昼夜トモ放チ置ク可シ但シ霖雨ニキ棲止ノ舎無
ルヘカラス○出帆前横濱「レーン、クラウホルト」ノ輸入セル牡羊ニ付一
書呈シタリ若シ東京七重ノ畜類余ガ所有ナランニハ彼ノ最良ナル「ソ
ーツ、ドーン」種ノ牡羊二頭ヲ幾元ニテモ買入レ一ヲ七重一ヲ東京ニ置
クヘシ一ケ年間此羊ノ種ヨリ出ル羊子ハ殆ト贖フ所ノ価ニ二千倍
スヘシ是レ余カ深ク信スル所ナリ切ニ閣下ノ此「ソーツ、ドーン」種ノ牡
羊ヲ買入ラレンコトヲ欲ス<略>
    開拓使教師頭取兼顧問
           ホーレシ、ケプロン

 妻帯肉食を認める浄土真宗の坊さんだった大谷光瑞はケプロンが帰国してから生まれた人ですが「不肖は最も羊肉を好む(87)」とサウスダウンを褒めてます。「我邦人は、羊肉は腥膻なりと云ひ、之を好まず。故に羊種改良は、全然毛本位となさば、肉を捨てざるべからず。肉本位となさば、毛を捨てざるべからず。是れ最大難關なり。不肖は羊肉を好むと雖も、其の説は英人と同様なり。サウスダウンの如き羊肉の美味は他に口にすべからざる美あり。大牢も及ばざるの点あり。メリノに至りては、止むを得ざるを以て食ふに過ぎず。蒙古羊も亦メリノよりやゝ上位にありと雖も、英國種のサウスダウンに及ばざる事遠し。 (88)」とね。
 でもシルクロード探検で食べた羊肉が忘れがたかったか「羊は中央アジア産を第一とす。特に後尾と臀の間に、肉脂を有するもの然り。然れ共是の如きは、その地方に行かざれば食ふべからず。故に東洋に於ては、内蒙古を第一とす。満洲、長春、奉天に行かば美味あり。然らずば濠洲羊肉なり。(89) 」。ということはだ、天下一品はやはり英国種サウスダウンということになりますか。はっはっは。
 ケプロンは冬は東京にいたから、いろいろ見物して回り、珍しい物を買ったりできたはずです。それでケプロンの買い物の1つが結果としてスミソニアン博物館の日本の芸術品蒐集に貢献したことを最近知ったので、ちょっと紹介しましょう。
 昭和10年にイタリアとエチオピアが戦争をした。その戦闘開始の日を調べていて「石油時報」という雑誌を見ていたら、ケプロンという片仮名が見えた。そのちょっと前を見たら明治の初め頃とあるのでページめくりをやめて読みました。ケプロンという名前で、かつ500円も払えたアメリカ人となれば、北海道開拓使最高の年俸取りだったホーレス・ケプロン以外にいないでしょう。資料その32は少し削りましたが、そのケプロン関係の部分です。文中の堂上家とは貴族のことです。

資料その32

    工芸一夕話     無門陳人

<略> それについて思ひ出すのは、明治二十年頃まで生存して
ゐた有名な人形師松本喜三郎のことである。此の人は生人
形の製作に於ては幕末より明治初年にかけ、他に並ぶ者な
き名人と称せられた人であるが、<略>
 それも其筈である、喜三郎の人形は普通の人形師の作る
人形とは全く違つたものであつた。彼の人形は頭や手足だ
けで無く衣裳に蔽はるゝ胴体その他もすべて実際の人体の
如く具備したもので、殊に男は男、女は女、年寄は年寄、
子供は子供といふやうに、骨格、寸法から皮膚の色迄悉く
生きた人間に象つて作られ、裸にしても、その全身に生命
の脈打ってゐるものであつた。<略>
 明治の初め頃日本に來てゐたケプロンといふアメリカ人
が、喜三郎の作品を見て大に感心し、堂上家の男女一対の
人形を二百圓で誂へたが、長い間経つても出來ないので立
腹して催促に及んだところ、喜三郎は、自分の人形は頭髪
から骨格まで一々実物について吟味するのであるから、さ
うたやすく出来るもので無い、もしそれで可けなければお
断りする外は無いとて取合はない。それから一年あまり過
ぎて漸く出來上つたが、頭髪、眉毛、骨格、肉色等皆その
眞を模し、且つ機械を備へて屈曲を自在ならしめたので、
恰も人工にて男女一対を造り出したるものゝ如くであつ
た。之れに有職にかなうた衣裳をつけたので、衣服料丈け
でも殆ど三百圓ほどかゝつたが、初めの約來通り二百圓で
ケプロンに渡した。後にケプロンが其事を聞き、深くその
篤志に感じて三百圓を贈つたといふ。<略>

 早速検索してみましたね。ケプロンが持ち帰った貴族夫婦の人形が、どういう経路をたどったかわかりませんが、いまワシントンのスミソニアン自然史博物館に男の方が保存さていて、大阪歴史博物館が平成16年に借りてきて41日間、展示していました。歴史博物館のホームページによると「右足裏に作者本人の刻銘があり、売買の経緯を示す領収書が存在し、裏付け資料のある数少ない喜三郎の真作のひとつである。(90)」というのだから驚きましたよ。ケプロンは着物姿の人形を註文したと思うが、あるブログに裸体の男の正面と背面の写真があります。それを見れば喜三郎の神ってた凝りようが、よーくわかりますよ。ふっふっふ。
 はい、時間ですね。ジンパ学らしく羊肉のエピソード入りの資料その33で締めます。■は不鮮明で読めない字でね。ジンジャーブレッドの英文のレシピを読んでも、何かを付け焼きする例は見つからないのであきらめました。「表に」ぐらいかも知れん。
 偉いお方が意外な食べ物を好んだ話題は沢山あるようですが、開拓使顧問の我らがケプロン将軍閣下は、ルイ15世を見習ったわけではなく、玉子と鳥肉を腹一杯食べることでホームシックを癒やしていたのでしょう。終わります。

資料その33

   ●英雄の食物
近着の紐育サン新聞中左の如き趣味ある記事を
掲げたり曰くヴイクトリヤ女皇は肉といへば必ず羊
肉に限るとして其他如何なる冷肉を献ずるも羊
肉の外はフオークをつけさせられざりしエリザベス女
皇は又た鵞鳥の焼肉を賞で給へり蓋し女皇が嘗
て其肉にて晝餐を召させられし時西班牙艦隊を
撃破せりとの捷報に接し給ひと吉列ありしが為め
ならん九月廿八日のミケル祭には必ずこの馳走あ
りとも亦たこゝに原因す▲ヘンリー三世は最も
莢豆を嗜みたり国王の前に置かるべき一皿として
其食物の中貴重なるものとして取扱はれたりしと
▲ナペレオンの身好んで食せしは莢豆のサラダなりき
當時は尚比較的安価なりしものならんも彼が食
事毎に殆んど欠かさざりしといふは人を驚かす
に足ることにあらずや▲それに対してワシントンの
ヒコリー胡桃(ヒコリーは亜米利加の樹木)を好み
していふは奇とすべし殊に其の毎日の食量莫大の
額に上りしといふに至つて英雄の好む處亦た凡な
らざるを知らん▲ルイ十五世は種々の鳥の卵を攪
和して作りし料理を好みたりといへり其豪奢の状
想ひ見るべく一皿の価百弗に上りしこと敢て異と
するに足らざるなり▲ジヨージ エリオツトのブルー
クバンクに在るや其蔬菜を得る為めに常に附近の
農園に赴きたり而して農園の主父主婦等と隔意
なき談話を試むるわ唯一の楽みとせり農園主の礼
をも知らざるゾンザイなる田舎言葉が如何に彼女
皇の耳に響きしか農園主後に人に語つて曰くある
旦那や奥さんに一週間毎に売つた青豆の高は江<変体仮名>
らアもんだぜ、本統に江らアもんだ▲リンコルンは當
時彼の一日の職業を終つて帰途に就くや屡々路
傍の露店同様の店に立ちてギンガーブレツド(■■
砂糖ををつけ焼きにせしパン)を頬張ることを楽しみ
にせり彼曰く餅の焼けふくれる形は予に今日何事
をか為し得たりといふ安心を與ふるものゝ如しと▲
ストーンウオール、ジヤクソンは下等なる蕎麦菓子
を好みたり蕎麦の季節と否とに関らざりしエマルソ
ンは最も桃にて作りたるパイを好みたり而して自ら
之れに賛を與へて楽園の果物といへり▲アンヅリ
ユー、ヤクソンはアイスクリームを好むこと人に過ぎた
りしが彼がアイスクリームの趣味を知りしは全くワ
シントンに感化されたるものなりしと

  

参考文献
上記資料その28の出典は開拓使・簿書6786件番号132「明治7年中札幌本庁繰替払ノ御雇教師ケフロン食料品其外諸費戻入ニ付出方ノ件」、文書館=原本、 資料その29(1)は同526件番号9「雇教師ケプロン滞函中賄品渡方ノ件」、同、 同(2)と同(3)は同6786件番号132「明治7年中札幌本庁繰替払ノ御雇教師ケフロン食料品其外諸費戻入ニ付出方ノ件」、同、 資料その30(1)と(2)は同446件番号14「教師賄食物ノ内鶏卵函館表ヨリ取寄ノ件」、同、 (86)はホーレス・ケプロン著、西島照男訳「ケプロン日誌 蝦夷と江戸」284ページ、昭和60年2月、北海道新聞社=原本、 資料その31(1)は同各ページ、同、 同(2)はメリット・スター著、西島照男訳「ホーレス・ケプロン将軍 北海道開拓の父の人間像」219ページ、昭和61年11月、北海道出版企画センター、同、 同(3)は開拓使編「開物類纂」4号29ページ、明治13年3月、開拓使=札幌市中央図書館デジタルライブラリー、 http://gazo.library.city.
sapporo.jp/shiryouInfo/shiryou Info.php?listId=13&recId=4231 &thumPageNo=2、 資料その32は石油時報社編「石油時報」683号70ページ、昭和10年12月、石油時報社=館内限定デジ本、 (87)は大谷光瑞著「大谷光瑞全集」8巻77ページ、昭和10年2月、大乗社=原本、 (88)は同276ページ、同、 (89)は同135ページ、同、 (90)は大阪歴史博物館のホームページ「生人形と松本喜三郎」= http://www.mus-
his.city.osaka.jp/news/ 2004/ikiningyo.html、 資料その33は明治37年9月8日付北海タイムス3面=マイクロフィルム