満洲のジンギスカンは夏の食べ物だった

 前回は秩父宮殿下が満洲・公主嶺でお召し上がりになったジンギスカン料理についてでしたが、きょうは同じ公主嶺に7年住んでいた磯野利男さんのジンギスカンの思い出を元に、満洲に於ける普及振りについて考察します。磯野さんは昭和9年に公主嶺駅員になってから、ちょいちょい農事試験場産の羊肉を食べただけでなく、夏は公主嶺でジンギスカンを食べたいという人々を乗せた団体列車が満州国の首都、新京から公主嶺まで走っていたという思い出を残したのですから、ジンパ学としては絶対に見逃せません。
 それで当時の新京で募集した行楽団体の新聞記事を調べ、資料として配ろうと思ったのですがね、見出しだけにしても1人分が10枚を超えるし、それがなければ私の話が理解できないわけでもないので、紙を節約してインターネットの講義録の方で読めるようにしました。いまから配るのは列車に関係ない資料だけです。はい、後ろに回して。
 ところで私は磯野さんにお会いしたことはないんです。なぜなら、私が磯野さんの思い出を知ったのは「焼尻電脳新聞」というホームページの掲示板でしてね。磯野さんは亡くなっており、息子の磯野直さんが焼尻島で旅館「磯乃屋」を営むかたわらホームページを作り、掲示板でいろいろな書き込みに応答していた。
 そこに利男さんが生前発行していた「わたしのかわらばん」のジンギスカンについて書き込みがあったので、直さんが「先代が生きていたらさぞや昔話に花が咲いたことでしょう。せっかくですからその新聞の記事をここに載せます。」と平成15年の3月31日に「成吉思汗(鍋)…(一)」、4月8日に「成吉思汗(鍋)…(二)」を掲載した。それを私が、いやGooだったか検索エンジンが見付けたのです。
 これだけでも十分だったのですが、その記事を含む「わたしのかわらばん」というCD−ROMを磯乃屋さんが通信販売でも売っていたので、ジンパ学研究に必要な資料として1枚買ったのです。「故・磯野利男が綴った北海道焼尻島の自然と人、文化」という副題付きで1000円だったと思います。はい、スライドで見せましょう。転載自由とお許しも得ております。

      

 私にすれば、昭和10年ごろ新京、いまの長春から公主嶺までジンギスカンを食べる納涼列車が運行されていた、公主嶺では羊肉に川エビで作る油を付けて焼いたなどという公主嶺経験者ならではの記録を確保しておきたかったのですなあ。
 その後ね、掲示板荒らしの横行で「焼尻電脳新聞」は閉鎖されてしまい、もはや出典のURLの示しようもないだけに「わたしのかわらばん」は、買っておいてよかったのです。CDには8年間に311回も発行された「わたしのかわらばん」のほかに、もう3本、ジンギスカン関係の記事が入っていた。余録というやつです。
 「わたしのかわらばん」に磯野さんは自分の経歴のざっと書いています。それによると和歌山中学(現和歌山桐蔭高校)を出て昭和7年に満洲に渡り、9年4月に満鉄に入社(1)した。でも「日本人物情報大系 満洲編」にある昭和9年9月1日現在の満鉄の「職員録(2)」には載っていません。その次に収められている昭和12年版には3人いた公主嶺駅庶務手(1)として名前があり、昭和15年版には駅務員(3)として載っています。この「日本人物情報大系 満洲編」は昭和15年以降は収録していないのでわかりませんが、これら情報から少なくとも4年は公主嶺駅に勤務したとわかります。
 でも昭和9年9月の「職員録」に載っていないのに、ご本人は公主嶺駅にいたという。昭和10年12月1日現在の「社員録」の公主嶺駅の駅手としては載っている(4)のだから、出任せではないことはわかるのですが、そのズレが気になるので、昭和9年4月分からの満鉄の社報に載る辞令を調べてみました。
 毎度のことだが、毎日発行された満鉄の社報読みは大変でね。「南満州鉄道株式会社社報」には毎日何人かの採用、退職、昇格、転勤、待機、賞罰の辞令が交じっていて、見落としそうで、とても自信がもてない。それで、磯野さんを確実に見つける方法として社報に掲載される新規社員共済加入者名簿の利用を思いついた。1週間ごとぐらいにまとめた載るこの名簿は、男女、国籍を問わず新規採用の人しか載らないはずだからです。
 予備実験として少し調べてみたら、姓名は全部読まなくても、名前の最後の1字に男の付いた社員はそんなにいない。さらに利の字の利男はもっと少ないとわかりました。読みはナニオでも男ではなく雄か夫が多いんですなあ。また満洲人でも数人、男の付いた人はいましたが、姓が1字で名前が2字の3字名だし、職場毎に固めて載るので、識別できましたね。
 そうやって遂に磯野さんを見つけたんですよ。それがね、昭和9年でなくて、なんと10年7月2日発行の社報8444号(5)だった。6月29日調べの名簿にあったということは、辞令はその少し前だなと遡ったら、6月27日発行の社報8440号の辞令欄に「甲種傭員ヲ命ス 公主嶺駅駅手ヲ命ス (准傭)磯野利男」と准傭5人一括して6月16日付けで公主嶺駅員に発令(6)されていたんです。
 いささか自画自賛になるがね、そこまでに9688人の名前を見た。うち365人が何オトコであり、利男は磯野さんを含めて5人でした。何オトコかは全部書き留めてあるから統計は取れなくはないけど、ざっと数えても数字の一を付けたカズオは30人近いから一番多いと思いますね。
 満鐵が昭和9年3月15日に満洲中等学校卒業者社員採用試験を行い、受験した179人のうち70人の採用を決めたという記事が満洲日報に載っています。でも内地中学出身者も受験できたため、内訳で見ると48人中10人が採用(7)されてます。
 磯野さんは採用者の1人だったはずで、満鉄新入社員執務要覧によると、登格は「社員は始め短期間のものを除き通例准傭員として採用され或る一定の使傭期開を経過すると傭員として本探用になり其の後事務或は技術の練達すると共に順次雇員又は月俸社員に登格し得る途を講じてゐる。総て登格は勤務成績ならびに竝経歴學歴等を参酌して之を行ふ(8)」ので、磯野さんは9年9月現在、公主嶺駅で働いていたけれども、准傭員だったので「職員録」には掲載されなかったのでしょう。
  

参考文献
上記(1)の出典は磯野利男著「わたしのかわらばん(CD−ROM版)」287−2号、平成13年1月10日記、ISONO sunao=原本、 (2)は同200号、平成4年11月10日発行、同、 (3)は芳賀登ほか5人著「日本人物情報大系 満洲編7」17巻261ページ、平成11年10月、皓星社=原本、 (4)は南満州鉄道株式会社総務部人事課編「社員録」91ページ、昭和11年2月、南満州鉄道株式会社総務部人事課=近デジ本、 (5)は南満州鉄道株式会社編「南満州鉄道株式会社社報」8444号16ページ、昭和10年7月2日発行、南満州鉄道株式会社=マイクロフィルム、 (6)は同8440号276ページ、同年6月27日発行、同、 (7)は昭和9年3月23日付満洲日報朝刊7面=マイクロフィルム、 (8)は満鉄会監修「満鉄新入社員執務要覧(昭和9年版)」復刻版10ページ、昭和61年1月、龍渓書舎=原本、底本は昭和9年8月、南満州鉄道株式会社総務部人事課編


 これで昭和9年の職員録に見当たらない理由がすっきりしたから、CDの「わたしのかわらばん」に戻ります。5回書いてあるジンギスカン料理のそれぞれのあらましを説明するとね、磯野さんが初めてジンギスカンを書いたのは、昭和62年の53号でした。
 島で育ったサフォークの出荷に因んだ「綿羊、またしても受難の時か」です。公主嶺では「毎年夏になると,毎土曜日に新京から納涼列車が運行され、放牧場の樹下に万幕を張りめぐらし,ジンギスカンに舌鼓を打ったが,100人を越す一大野宴であった。勿論羊肉は試験場からの供給である。」「試験場では年二回、羊毛や羊皮製品の廉売があった。」が、ホームスパンの洋服地など「焼尻の綿羊も、もっともっと展開が考えられてもよいのではないか。(9)」と書いています。
 2回目が平成2年元日発行の119号にある「成吉思汗(鍋)…(一)」です。「昨年11月18日、NHKの89テレビフロンティア北海道の番組の中で“特集・成吉思汗料理のルーツを探る”が放映された。いま私達が食べている成吉思汗料理は何時頃何処から始まったのかを、尋ね歩いた取材のレポートである。北京料理からと聞いては本州まで飛んだり、道内の老舗を当ったりして辿り着いたのは滝川の道立種畜場である。ここに、昭和5年に現在のような料理方法で羊の焼肉を食した、との記録が残っているのでルーツはこの種畜場であろうかと結んでいた。(10)」と、ジンギスカンについて書く気になった動機を説明し、続けて公主嶺という町の様子をざっと説明しています。
 この「ルーツを探る」の放映はね、このジンパ学の講義を始めるずっと前だが、私は東京のある方の録画を一度見せてもらったことがあります。後に夜7時のニュースキャスターになった畠山智之アナウンサーが札幌局勤務だったとき制作されたようで、何本もジンギスカン関連の録画をつないだものの中だったので、結論は覚えていませんが、磯野さんの書いた通りだったのでしょう。
 3回目はその続きの「成吉思汗(鍋)…(二)」で発行は元日から5日後。公主嶺では大正の末ごろから食べており、川エビの油を付けてから焼き、さらにタレを付けて食べた(11)と公主嶺ルーツ説を唱えています。
 つまり「この農事試験場の畜産が現在様式の成吉思汗のルーツである、と当時の私達は思っていた。(鍋、或いは料理とまでは言わず成吉思汗で通っていた)大正の末頃には公主嶺の在留日本人の間では既に食されていた。それが『成吉思汗は公主嶺』を一躍有名にしたのは、いまは亡き秩父宮が陸軍大学在学中に満州にこられた。(大正の終わりか昭和の初め)このとき関東軍では公主嶺で成吉思汗の野宴でおもてなしをしたところ、殿下はいたくご満足されたそうで、その後農事試験場では東京の官邸に羊肉をお送り申し上げたという。(12)」とあります。
 磯野さんはこのころ、北海道新聞の読者コラム「朝の食卓」の同人だったので、そっちにも書いた。平成3年10月30日に掲載された「成吉思汗鍋愚考」は「英雄の名を冠して『成吉思汗鍋』と名付けたのは農事試験場であろうと想像はできても、今となってはもはや知るに由ない。(13)」と結んでいます。
 そうかも知れないけれど、そう簡単に諦めてはいかん。公主嶺の農事試験場にいた北大OBなり、公主嶺に住んでいただれがが書き残していないとも限らない。焼尻では探しにくいでしょうが、札幌でならば望みなきにしもあらず。ジンギスカンという料理名に興味のある人みんなで調べてみましょうというのが、ジンパ学の基本的な研究態度なのです。
 掲示板の「成吉思汗(鍋)」は平成15年になって高石啓一氏の論文「羊肉料理『成吉思汗』の正体を探る」にも引用されています。「また,昭和9年当時に満洲鉄道で働いていたという磯野利男氏は,『成吉思汗』のルーツは公主嶺と思っていた」,「タレはシャンミュウ(川エビ油)を用いていた」,と記述した一草がある。」とね。
 また「公主嶺種羊場は,大正6年に南満州鉄道株式会社で創設されたものであるが,昭和13年に満州国に移管された。前述の磯野氏によると,この公主嶺試験場の施設には引き込み線あったいう。時としては,焼き羊肉が食べられたようであるからしていつとはなしに『成吉思汗』の発祥地という一つの流れが生まれたのだとおもわれる。
(14)」と書いています。
  

参考文献
上記(9)の出典は磯野利男著「わたしのかわらばん(CD−ROM版)」53号、昭和62年10月15日発行、ISONO sunao=原本、 (10)は同119号、平成2年1月1日発行、同、 (11)と(12)は同53号、昭和62年10月15日発行、同、 (13)は平成3年10月30日付北海道新聞朝刊26面、「朝の食卓」=マイクロフィルム、 (14)は養賢堂編「畜産の研究」57巻10号89ページ、平成15年10月、養賢堂=原本


 4回目はね、平成3年12月14日発行の176号の「再び成吉思汗(鍋)について」です。そのちょっと前に出た「週刊新潮」10月31日号の「高円寺『成吉思莊』で生れたジンギスカン料理」を読んだ感想です。
 「週刊新潮」には東京の成吉思莊は昭和10年開業と書いてあった。「中国帰りの陸軍の将校が北京の飯店(飲食店)に烤羊肉(カオヤンロウ、焼羊肉)という料理があると伝えたのが始まり」で、店の名前も「やはり中国帰りの軍人が、モンゴルの英雄のジンギスカンがよかろうというので名づけたとのことである。」とのことだが「日支事変(日中戦争)勃発の昭和12年である。従って中国帰りの軍人が伝えたとするならばそれ以降のことになる。(15)」と磯野さんは考えた。
 その点、公主嶺じゃもっと以前から食べていたから「烤羊肉を野外料理としジンギスカンと呼んだのは恐らく公主嶺の農試で、それが何かのルートで日本に入り(わたしは北海道の滝川畜産試験場であろうと思う。)戦後急速に拡がった。(16)」と、公主嶺ルーツ説を繰り返しています。
 「週刊新潮」のその記事を読むと、滅茶苦茶、間違いだらけなんですね。たとえば「親しくしていた農林省の役人が転勤の際、これを北海道の月寒に伝え、やがて全国に広まっていったそうである。(17)」と書いてます。役人は月寒種羊場に転勤した山田喜平さんとみられますが「週刊新潮」にかかれば、いつだかわからんが、国内のジンギスカンは月寒から広まっていったことになるんですなあ。 発祥地はうちだと頑張っている滝川なんか眼中にない。はっはっは。
 成吉思莊の開業は微妙なところがあるけど公式には昭和11年、3代目社長は2代目の間違い。まあ、その3代目社長のいう中国帰りの軍人とは、日中戦争前に寒冷地では兵隊にもっと脂っこい食事を取らせるべきだと主張した丸本彰造とか、満蒙で研究視察をしてきた川島四郎といった陸軍糧秣廠の主計将校を指すのであって、ドンパチやってきた兵隊さんではないのです。
 5回目は287−2号の「ジンギスカン鍋 愚考」です。CDでは平成7年10月15日発行の287−1号に次いで置かれているけれど、定型の題字も号数もなく、記事末尾に(平成8年1月10日記)と日付が入っています。これに基づけば平成8年元日発行の288号と1月20日発行の289号の間に入り、288−2号となるべきものなので、号数はそのようにしておきます。
 これには絵も付いており、磯野さんの公主嶺ジンギスカン鍋の総まとめ、エッセンスだと思うので、まずは資料その1(1)として全文を引用させてもらいました。もちろん著作権継承者である磯野さんの息子さんの許しを得ております。
 この(1)で磯野さんは「張家口の飲食店で烤羊肉という料理があった」と書いているので、張家口の羊肉料理店の記事を探したら、昭和2年に一帯の現地調査をした地理学者、小牧實繁さんの手記が見つかりましたので、それの一部を資料その1(2)として引用ました。
 金網としか書いていないので、この店の鍋の形はわかりませんが、この飯店では北京と同じように薪を焚いており、金網ですから脂はぼたぼた全部下の火の中に落ちて、煙もくもくだったでしょう。昭和の張家口では、もう成吉思汗料理という呼び方が定着していたことがわかります。
 さらに探したら成吉思汗料理と書いてある張家口の料理店の広告が見付かりました。同(3)が「蒙彊年鑑」にあったそれで、何軒かあった羊肉館のうちの1軒なんでしょう。清眞羊肉館は経営者以下従業員も回教徒、ハラル料理オンリーということですね。何人かの日本人に教わった宣伝文を並べたので平仮名と片仮名まじりになり、右端の「美味六羊肉の水煮鍋」の六は平仮名の「な」の間違いでしょう。いくら美味でも1、ビール、2にワイン、3、4がなくて5に何でも持ってこいと称しておる私は勿論、畜産部主任のY氏も酒は出さない華賓樓は敬遠したはずだ。はっはっは。

資料その1

(1)
   ジンギスカン鍋 愚考

 12月3日の『日本人の質問』の中で”どうしてジンキスカンと言うのですか”との質問に司会の古舘さんは”調べましたが全く解りません”と答えていた。
 日本人が今の様な羊の焼肉食べるようになった初まり、それを「ジンギスカン」と呼んだ謂れについてはわたしの知るところを記しておく。
 結論から言って、現在様式の羊焼肉を初めたのも、これを「ジンキスカン」と名付けたのも、中国東北省(旧満洲)の公主嶺にあった「満鉄農事試験場」である。
公主嶺は、長春と四平の丁度中間にある中都市で、満鉄の機関も、公主嶺駅や農事試験場、病院など多く当時は学校先生も満鉄社員であった。
 前出の農事試験場は、満洲の農産物や畜産の改良に取り組んでいたが、畜産部の放牧場は地平線に下がる程広大で、常に3000頭を越す羊が放牧されていた。
 この農試の場長を始め主なスタッフは北大農学部出の気鋭の人達でした。
わたしが満鉄に入社したのが昭和9年の4月で、配属されたのは公主嶺駅の庶務この頃既に社員は勿論、在留邦人の間でも盛んにジンギスカンが食べられていた。先輩達の話では大正の頃からとのことであった。
 昭和に入ってからは長春あたりの日本人間でも有名になり、わたしが行った頃には6月〜8月の、土、日曜日には、よく長春から50人〜100人のジンギスカンツアーの列車が運行され、農試の放牧場で幔幕を張り巡らし、鍋を囲んで野宴を張った。(引込線のレールも敷かれていた)。
 わたしは、たまたま畜産部主任のY氏の知遇を得て、ジンギスカンの由来を知ることが出来た。
 大正の頃、張家口(内蒙古)の酒家(飲食店)で「烤羊肉(カオ・ヤン・ロウ)」という焼羊肉の料理があった。(今は北京料理にも出るようだが、当時の中国料理では羊肉は使われていなかった)。
 農試ではこの「烤羊肉」を夏の野外料理とし、かの蒙古の英雄「成吉思汗」の名に因んで「成吉思汗鍋」と名付けたそうだが、いつの間にか「鍋」が省略されて「ジンギスカン」と呼ばれていた。
 思うに放牧の民であった蒙古の人達は「焼羊肉」を常食としていたのであろう。 当時のジンギスカンは次のようであった。
○炭火を入れるものは直径40cm〜50cmの鋳物(昔、各家庭にあった煮物をするときの鋳物鍋と同じようなもの)で、上に被せて焼く網(?)も鋳物で、昔の石炭ストーブの円形のロストルを少し湾曲したもの。(左図)
○肉は今のスライスしたのと変わらないが当時は調理人が、一枚々々手際良く削いだ。
○食べる時は、各自が箸で一枚づつ取って、先ず海老油(河海老から抽出した油)に浸してからロストルの上で焼き、表、裏が白くなった程度でタレをつけて食べた。
今のように初めからタレに浸さないのは肉が新鮮なのとその鮮肉の味を殺さないためである。
○一つの鍋を8〜10人で囲んだ。握り飯を頬張り乍ら。
○羊肉は農試が供給し(市販が無いので)、駅の構内食堂が調理一切を取り扱っていた。申込は8〜10人単位であった。
○飲み物は日本酒か焼酎。満洲の夏は酷暑なので下痢や急性腸カタルを起こしやすいし、生焼にちかい羊肉を食べるのだからビールは避けた。
かつて、昭和11年に秩父宮が昭和天皇の御名代で満州に来られた時に、関東軍の幕僚と農試でジンキスカンを召し上がられ、大変お気に入られたので、農試ではジンギスカン(羊肉、鍋など一式)を宮邸に献納された。
 10年も前になろうか、北海道のさるテレビ局で「ジンギスカン鍋のルーツを尋ねて」という番組があったが、この時も判らずじまい。
滝川の畜産試験場に、「昭和5年に羊の焼肉を食した」との記録が残っているから、これがルーツでは……、で結んでいた。然し、ジンキスカンの名称については何等触れられていなかった。
 今となっては、当時の満鉄農試の方々も、また先輩達の大方は物故され音信もなく確かめる縁(ヨスガ)もないが、わたしは、現在のジンギスカン鍋とその名称のルーツは、往時の「満鉄公主嶺農事試験場」であると思う。
                       (平成8年1月10日記)


(2)
「北京より多倫まで(一)」
                小牧實繁

 八時半宿を出で車で「萬豊源和記便飯店」と云
ふ料理屋へ行く。山崎領事、盛島翁等の案内で
ある。此所は有名な成吉思汗料理で聞え、之れ
は北京などにもあるが、張家口がその本場である
と云ふのである。庭の露天で炉を囲み、周囲の
長腰掛に片足を掛け立つて食ふので、鯨尺の一
尺より長い物指の様な箸で、じい/\と脂で熾
える、薪の上の金網からも未だ血の滴る様な羊
の肉をとつて酢醤油に香料を交ヘたもので味を
つけ英雄らしく頬張るのだから本當に成吉思汗
料理の名に恥ぢない。冬でもこんな露天で雪を
被りながらつゝつくと云ふのであるから豪氣で
ある。
 盛島翁から蒙古では正月元日日出に山頂に上
り牛乳を四方に措き四方拝を終りそれから家に
帰つて火で羊を焼き之れを神に捧げ、その後食
事をとると云ふ事など聞く。
 十時、成吉思汗料理に満腹し、市内を散歩し
て蒙古の土産として煙草、菓子等を購入し、十
時半帰宿。盛島翁推薦の顧介眉氏が來られ明日
の打合せをなし、準備を調へて十二時前就寝。


(3)
  

 それから磯野さんが描いた絵をスライドで見せましょう。はい、どうです。私は最初、この絵を見たとき、鍋を斜め上から見た下ろした絵だと思いましたね。上の方の曲線は鍋の内部にある同心円になった突起か溝と錯覚しちゃった。そうじゃないんですね。
 磯野さんが焼き面を乗せた焜炉の縁の左右両端を上げずに水平に描いてくれたらよかったのだがね。資料その1にあるように「炭火をいれれる」焜炉は高さは15センチから20センチで、特に縁が反り返っていない「煮物をするときの鋳物鍋と同じようなもの」なんですね。
 上の方の同心円みたいな曲線は、弓状に曲げた鉄棒が一定間隔で平行にたくさん並ぶジンギスカン鍋を真横から見た絵なんですね。皆さんは知らないかも知れないが、ストーブに入っている平らなロストルの中央を持ち上げ、それを真横から見たらこれに近いはずだ。秩父宮殿下の講義で見せた渋沢さんの写真の鍋とこんろを横から見たら、こんな風に見えるでしょう。

  

  

参考文献
上記(15)と(16)の出典は磯野利男著「わたしのかわらばん(CD−ROM版)」176号、平成3年12月14日発行、ISONO sunao=原本、 (17)は新潮社編「週刊新潮」36巻41号39ページ、平成3年10月31日、新潮社=原本、 資料その1(1)と鍋の絵のスライドは磯野利男著「わたしのかわらばん(CD−ROM版)」288−2号、平成8年1月10日発行、ISONO sunao=原本 同(2)は地球学団編「地球」16巻3号50ページ、小牧實繁「北京より多倫まで(一)」より、昭和5年4月、博多成象堂=館内限定近デジ本、同(3)は(蒙彊新聞社編「蒙彊年鑑 昭和16年版」ページ番号なし、昭和16年3月、蒙彊新聞社=国会図書館インターネット本

 しかしね、磯野さんが昭和9年から16年まで公主嶺駅にいて(18)じゃんじゃん食べ、いろいろ見聞したからといっても「畜産部主任のY氏」から誤った説明を聞かされたとか、古いことなので記憶が変容しているかも知れません。そもそも昭和9年と10年の満鉄「社員録」を見ると、農事試験場にあったのは種藝、農芸化学、畜産の3科で、畜産部じゃないんですなあ。
 その間の畜産科長は小松八郎、社員録では科毎に職員を分けて書いていないが、職員の上位にいた頭文字Yの職員は吉川政市(19)だけです。 小松は大正5年、東北帝大札幌農科大畜産卒(20)、つまり北大OBでした。12年には昭和5年北大畜産卒の吉永榧次という職員と、農業経営科もできて山下肇という科長(21)が加わります。昭和15年は試験場そのものが満州国に移管されたため満鉄の社員録には載っていません。
 また吉川政市で検索すると、昭和2年の「動物学雑誌」に北海道帝国大学農学部比較病理学教室所属で樺太のトナカイの寄生虫の研究論文を発表(22)しており、盛岡高農学術彙報にも同じ題名の論文があるので、近デジ本の「盛岡高等農林学校一覧」を当たってみたら大正12年、獣医学科卒の獣医学得業士(23)でした。この論文に恩師小倉教授から研究材料をもらい、市川教授の指導を受けたとあるけれど、農学部の同窓会会員名簿にはないので、研究生として研究していたと思われます。「主任Y氏」は、この吉川である可能性大です。
 かつて日本が満洲で行った農業研究の資料をまとめた「満洲における農業試験研究の歴史的検討と中国の農業技術高度化への正の遺産としての評価および現代的意義」という論文(24)があります。正しくいうだけでも漸くという長い題名なので、今後、山本論文と呼ぶことにします。JFE21世紀財団の助成を受けたこの研究の代表者が山口大学の山本晴彦教授だからです。わかりますね。
 山本論文によると、農試は昭和13年4月に満鉄から満州国に移管されてから組織替えがあり、昭和20年に小松八郎は畜産部長、吉川政市は畜産部畜産獣医科長(25)とえらくなってます。磯野さんは昭和15年までは公主嶺にいたのだから、満州国農事試験場となり、畜産科が畜産部になってからの知り合ったかも知れないので、畜産部主任は間違いとあっさり言い切れません。
 また山本論文は昭和17年に出た「満華職員録」と公主嶺小学校同窓会が作った「満洲公主嶺 過ぎし40年の記録」を合わせて昭和20年の満州国農事試験場職員の出身校調べをしてます。それによれば大學出44人のうち、わが北大のOBが31人、7割を占めていたのです。(26)ただ、この本に限れば場長は東大出身なので「場長はじめ主な研究者は北大農学部出身者。」はちょっと外れだが、満鉄時代は北大出の場長が続いていたから、その通りだった時期もあったのです。
  

参考文献
上記(18)の出典は磯野利男著「わたしのかわらばん(CD−ROM版)」119号、平成2年1月1日発行、ISONO sunao=原本、 (19)は南満州鉄道株式会社編「社員録」193ページ、昭和11年2月、南満州鉄道総裁室人事課=近デジ本、 (20)は北海道帝国大学編「北海道帝国大学一覧 自大正十三年至大正十四年」388ページ、大正14年2月、北海道帝国大学=近デジ本、 (21は南満州鉄道株式会社編「社員録」408ページ、昭和12年12月、南満州鉄道総裁室人事課=近デジ本、 (22)は日本動物学会編「動物学雑誌」39巻2号82ページ、吉川政市「樺太産馴鹿の咽頭腔に寄生せるCephenomyia trompe MODEERの幼蟲に就きて」 、昭和2年2月、日本動物学会=原本、 (23)は盛岡高等農林学校編「盛岡高等農林学校一覧 従大正十三年至大正十四年」163ページ、大正14年3月、盛岡高等農林学校=近デジ本、 (24)はhttp://www.jfe-21st-cf.or.jp/
jpn/hokoku_pdf_2008/asia04.pdf  JFE21世紀財団編「2006年度アジア歴史研究報告書(pdf版)」27ページ、平成20年、JFE21世紀財団、 (25)と(26)は同32ページ、同、

 それから「農事試験場は羊3000頭を飼っていた。」は、ちょっと疑わしい。昭和3年に出た「農事試験場要覧」では昭和2年5月現在の緬羊飼育頭数は全種類牡牝合わせて544頭(27)です。その後、増えたとしても違いすぎます。
 それに近いのは後に設置した2つの種羊場も合わせた頭数。昭和9年度末とみられるのですが「本年度末現在緬羊総頭数三千五十一頭にして内公主嶺三百十五、黒山屯千三百九十八、達爾漢一千三百三十八頭なり。(28)」という報告です。昭和11年にまとめた「当科開設以来の各種緬羊の蕃殖成績」によると、大正2年以来各種の牝4439頭が4340頭(29)を産んだとなっています。
 肉はうまいけど毛はよくない蒙古在来種にメリノーなど毛のいい種類を掛け合わせ、どれぐらい変わるか、その孫の毛はどうなるかといったことを調べるために緬羊を育てるのであって、正確に調べられる頭数がいれば十分。それプラスお偉方の接待ジンギスカン用だね。これを忘れちゃいかんのだ、はっはっは。種羊場は頭数と利益が直結する普通の牧場とはだいぶ違うんですね。
 磯野さんの「大正時代、張家口の飲食店で烤羊肉という羊肉料理」を知り、それを「夏の野外料理とし、成吉思汗鍋と名付けたのが、いまのジンギスカンだ」という説明も「畜産部のY主任」から聞いたかも知れませんが、公主嶺の人たちはそうであっても、その名前が公主嶺から内地へ伝わるルートの説明が苦しいと思いますね。志賀直哉は短編「怪談」の中で私は昭和5年に北京で食べた。「中国ではその頃からはやり出した料理らしく(30)」と書いていますが、正陽楼で飲みながら聞いた話でしょうし、それ以上の説明はありません。
 日本語に訳された「中国名菜譜」によれば、いわゆる羊肉のしゃぶしゃぶは「北京の回教料理店には以前からあったが、肉質がよくなかったので有名にはならなかった。清朝の咸豊四年〔西暦一八五四年〕、北京の前門外に正陽楼が開店し、この店が漢民族の料理店としてはじめて“羊肉”を売り出した。(31)」とあります。羊肉の方が古い食べ方で、日本でいえば万延年間よりずっと前から回教料理店では食べられたというんだから「大正の頃」羊肉料理が北京料理になかったなんて、とてもいえませんよ。
 では、烤羊肉は何時代から始まったと明記した本があるのかといわれると、即答できないのですなあ。中野江漢は「事物起原」「京師繁華録」などを挙げ「斯く考察し來ると、この料理は、成吉思汗の発明ではなく、また蒙古人特有の料理法でもないことが解る。要するに、五千年前の黄帝時代に行はれた原始料理を、其の儘に襲踏して來たもので、補助機関だけが現代的に発達したに過ぎない。(32)」といっています。
 年代が入っているという点でも、やはり「中国名菜譜」が一番でしょう。その個所を資料その2にしました。約60年前から生肉を焼くようになったとありますが、中国語の原本を見ると、昭和33年に初版が出ているので、その60年前として明治30年代に届きます。大正時代の北京なり満洲での北京料理で羊肉は使わなかったとは考えにくい。

資料その2

  烤肉<カオろウ> 焼き肉

 北京の“烤羊肉”は、明朝末期から清朝初期にかけて始まった。清朝の順治年間(西暦一六四四〜一六六一年)、一部の蒙古族の官吏が、烤〔カオ=焼く〕した牛・羊肉を愛好したのである。当時の“烤”の仕方はまだ、ごく簡単なもので、熟肉〔しォウ・ろウ=火を通した肉〕を冷水にひたして、烤肉炙子〔カオ・ろウ・ぢ・ズ=烤肉用鉄網〕の上で“烤”してから、しょうゆをつけ、にんにくなどの薬味を添えて食べるだけであった。のちになって(約六〇年前)、生の牛・羊肉を“烤”する方法に改められた。
 “烤”の店は、北京に何軒もあるが、「烤肉宛」と「烤肉季」の二軒がもっとも有名である。「烤肉宛」は回教料理店で、北京市城南の宣内大街に店をかまえ、すでに六代、約二百年を経ている。「烤肉季」は北京市城北の地安門外義溜河岸に店をかまえて、三代、約百年を経ている。二軒とも姓名を屋号にして、早くから北京中に「南宛北季」〔ナヌ・ワヌ・ベイ・ヂィ=南の宛、北の季〕としてとおっていた。<略>

  

参考文献
上記(27)の出典は南満洲鐵道株式会社農事試験場編「南満洲鐵道株式会社農事試験場要覧」52ページ、昭和3年3月、南満洲鐵道株式会社農事試験場=近デジ本、 (28)は南満洲鉄道株式会社地方部編「昭和十年度地方経営梗概」224ページ、昭和10年10月、南満洲鉄道株式会社地方部庶務課=近デジ本、 (29)は南満洲鐵道株式会社農事試験場編「南満洲鐵道株式会社農事試験場業績 創立二十周年記念公主嶺本場篇」567ページ、昭和11年10月、南満洲鐵道株式会社農事試験場=館内限定近デジ本、 (30)は昭和21年11月29日付函館新聞朝刊4面、志賀直哉「怪談」=マイクロフィルム、 (31)は中華人民共和国商業部飲食服務業管理局編、中山時子訳・編「中国名菜譜 北方編」5版28ページ、昭和59年6月、柴田書店=原本、 資料その2は同33ページ、 (32)は食道楽社編「食道楽」5年10号6ページ、中野江漢「成吉思汗料理の話」より、昭和5年10月、食道楽社=原本、

 磯野さんの「昭和11年に秩父宮が御名代で満州に来られた時に、関東軍の幕僚と農試でジンキスカンを召し上がられ、農試は羊肉、鍋など一式を宮邸に献上した」という思い出は、前回の講義で話した陸軍大学生として昭和5年に公主嶺見学にお出でになったときのことと混同しているらしいので検討てみますか。昭和11年なら磯野さんは公主嶺駅にいたのですから、もっと駅構内の清掃、駅周辺の警備体制など書く材料がありそうなのに、簡単過ぎます。
 ジャパン・ツーリスト・ビューロー発行の昭和15年8月号の「満洲支那汽車時間表」の特急と急行のダイヤを抜き出したのが資料その3です。○の中の数字は列車番号。途中駅の数字は停車時間。いまならインターネットカフェとかマンガ喫茶で過ごすという手がありますが、このころ、午前2時過ぎの列車に乗る前や下りてからどうしていたのでしょうかねえ。

資料その3

区別 愛称   新京発  公主嶺 四平街 開原 鉄嶺 奉天着
急行Q     2:30 1   4   1  4   7:05
同 Aひかり  8:00 1   4   1  2  12:20
同 Mはと   9:30 1   2   1  4  13:41
特急Kあじあ 13:40 ―   4   ―  ―  17:09
急行Gのぞみ 18:50 1   4   1  3  23:10
同 O    21:40 2   5   1  4   2:42

 所要時間を見ると18列車は4時間35分、2列車は4時間20分、14列車は4時間11分、12列車はさすが3時間29分、8列車は4時間20分、16列車は5時間2分ですね。秩父宮殿下が昭和9年に天皇陛下の御名代として満洲に来られたときの新京日日新聞は、お帰りは6月14日新京発午前8時30分で「御召し列車ははるか 奉天をさして南へ、南へと進んで」午後1時15分奉天御着(33)と報じました。
 所要時間4時間45分は18列車に近い。18列車は途中の4つの駅に合計10分止まっているが、お召し列車が公平に5分ずつ止まってプラットホームで御拝謁を賜ったと仮定したら20分になり、18列車の所要時間プラス10分でぴったり同じだ。公主嶺でジンギスカンの差し入れでもすれば、いい記事になったと思われるけれども見当たりません。
 それに新京では日本大使館に1週間お泊まりになっており、賄役を仰せつかった八千代という料亭の主人滝竹三郎は宴会以外は全部和食を差し上げた(34)と語っているし、後日新聞に掲載された一部献立を見ても、純和食で魚以外の肉は鴨と鶉でしたから、秩父宮殿下がこの訪問の宴会などで6年前公主嶺で食べたジンギスカンは気に入ったと仰せられたかも知れないが、召し上がることはなかったと思われます。
 御名代のときの献上品は資料その4の品々であり、羊肉も鍋もありません。ジンギスカンを食べなかったのは残念と帰国されてから宮家からリクエストがあり、献上したということはありえますが、わざわざ公主嶺のあれとお望みになるとは考えにくいですよね。大連市商会は商工会議所の略ですね。

資料その4

(1)
關東長官、逓信局、満鐵より
   宮殿下への献上品
    十五日満洲館で御嘉納を願ふ

【大連国通】菱刈関東長官、逓信局、満鐵、大連市より秩父御名代宮殿下への献上品は次 の如くで來る十五日満洲館に於て殿下の御台覧に供した上御嘉納を御願ひする筈である (一)長官献上品 車距白臘喇漢獅子、満蒙産羊毛製絨緞、紅白紋壁織(白は乱菊 模様紅は鳳凰模様)
(二)逓信局献上品 記念スタンプ集
(三)満鐵献上品 虎の毛皮
(四)大連市献上品 満蒙産鐵で鍛錬せる日本刀


(2)
満洲國皇帝
 お土産品献上
  鄭総理其他からも

秩父御名代宮殿下新京御発にあたり満洲国皇帝にはお土産として「碧玉鐸」「紅玉の筆筒」を御贈進、鄭國務総理からは 三陛下並に殿下に対し満州国実情紹介の写真帖を各一冊宛、満洲帝国全貌のフイルム二本(各三巻)を献上することゝなつた、なほ一般からの献上品で決定してゐるものは中央銀行、大興公司の砂金眞珠、貂の皮などである


(3)
奉天省政府から
    殿下へ献
    上の品々

【奉天國通】秩父宮殿下御來奉の日も迫り、五十万奉天市民は光榮に喜び奉迎準備に忙殺されてゐるが、奉天省公署より宮殿下に対する心からの献上品は十一日漸く其の手続を完了した、献上品左の如し
一、写真帖  奉天省内の産業、交通、教育、風俗、風景、等に分類して写真技術に自信あるものが相集つて特に優秀なる作品を集めて殿下の御渡満を永久に祀念し奉らんとするものである
二、四塔携型
 高さ二尺小倉圓平氏作、奉天城創建の際奉天守護の意味で充分なる研究の下に奉天の四方の地に四季の喇麻堂が出來た、奉風秋雨三百年風や雨に破壊されつゝある四塔を詳に研究してその残りの部分をとつで原形を髣髴せしめんとしたものである
三、鉱物標本
 省内産二十五種満洲に於ける尤も將來を嘱望されるものは鉱物である、その重要なるもの二十五種を撰定した
四、満洲實録
 清朝変革史で一種の国宝とも言へば言はれるものである、先年奉天の満人有志が相図つて之を世に問はんとして東北大學印刷工場で複製したものである其中の挿絵は殆んど写生に近いと云はれてゐる、尚殿下博物館に御成の際鳳凰楼御休憩所に左の品々を陳列し台覧を仰ぐことになつた
イ、実業庁出品 棉花、柞蚕羊毛、鉱石等其の他産業の統計図
ロ、警務庁出品 匪賊の使用せる銃器、砲弾、弾丸、刀槍、匪賊分布図
ハ、教育庁出品 生徒の書画手藝品等


(4)
大連市商会の
 献上品

【大連国通】大連市商会では十五日御離満遊ばさるゝ秩父宮殿下に次の如く献上品の献上手続きをとつた
一、南極星寿星騎鹿銀像(長命の神を表徴したもの)
二、額面に徳星照遐辺の五字を 刻したもの(殿下の徳は遠近を照す)
三、銀製の花瓶一対(貯水清潔養花芳芬の八字を 刻せるもの)

  

参考文献
上記資料その3の出典は日本鉄道旅行地図帳編集部編「満州朝鮮復刻時刻表」14ページ、平成21年11月、新潮社=原本、底本はジャパン・ツーリスト・ビューロー編「満洲支那汽車時間表」昭和15年8月号、 (33)と(34)は昭和9年6月14日付新京日日新聞夕刊2面=マイクロフィルム、 資料その4(1)と同(2)は同年6月9日付新京日日新聞夕刊3面、同、 同(3)は同年6月13日付同、同、 同(4)は同年6月16日付同、同


 次は新京からのジンギスカンツアーの列車が走っていたという磯野さんの思い出です。大正時代から公主嶺の人たちは羊肉の焼き肉料理をジンギスカンと呼び、食べていたという話は先輩駅員から聞いたとしても、昭和9年からは公主嶺駅員、磯野さん自身の体験ですよね。
 磯野さんは平成2年には「私が公主嶺在職中の昭和10年頃には、新京(長春)から成吉思汗列車(正式には納涼列車)が運転され、100〜150名の客が送り込まれた。既に畜産構内には引込線が敷かれていたので列車はそのまま構内に乗り入れ、一大野宴が張られた。(35)」と書いています。
 その6年後に書いた資料その1では「わたしが行った頃には6月〜8月の、土、日曜日には、よく長春から50人〜100人のジンギスカンツアーの列車が運行され、農試の放牧場で幔幕を張り巡らし、鍋を囲んで野宴を張った。(引込線のレールも敷かれていた)。(36)」と、運行年があいまいになり、運行期間の拡大が認められるのです。
 それはともかく、昭和10年ごろまでに公主嶺のジンギスカン鍋は有名になっていたようです。資料その5にした昭和10年6月の満洲日報の新京や哈爾浜のニュースを集めた「北満版」のコラム「碧波塘」の2コマ目に注目して下さい。スボンヂ試合とは、軟式野球による試合ということですが、ここで「ジンギスカン鍋の本場」と書いてくれただけでも、公主嶺の金森さん、挑戦してよかったと喜んだことでしょう。
 ただ事務所長では何の事務所長だかわからん。多分満鉄の地方事務所長だろうと「日本人物情報大系 17巻」の満鉄職員録と社員録を当たってみました。ところが収められていたのは昭和9年版とその次は昭和12年版で、どっちも公主嶺地方事務所長は金森ではない。10、11年といて別の地方事務所長に転任したかと14の所長を調べたけれどもいません。大事なスポンサーの名前を間違うわけはないと「情報大系」にあるいろいろな名簿を調べたら「昭和12年版 満蒙紳士録」にあったんです。金森英一、満鉄参事、中央試験所庶務課長でした。明大法科卒、大正10年に満鉄に入社、地方部人事係主任、参事に昇格した。記事によると「昭和十年公主嶺地方事務所長となる翌十一年職制改革による新制の中央試験所勤務を命ぜられ同十月現職に就く(37)」とありました。そこまでわかれば満鐵の社報でも探しやすい。公主嶺の所長は昭和10年1月8日付けで発令(38)でした。1年しか公主嶺にいなかったので、9年の職員録、12年の社員録のどちらにもないわけですよね。まあ、情報はしつこく「求めよ、されば与えられん」ですよ。はっはっは。
 また新聞記者の方は新京記者団としかありませんが、私は満鐵記者倶樂部のメンバーとみました。講義録を読んでいる人は、ここをクリックすれば昭和9年に記者倶楽部が出来た事情が読めます。

資料その5


コラム[碧波塘]
     ◇日本における古典芸
    術の粋ともみられる文楽
    座一行は歌舞伎の大御所
羽左の後を襲つて來満皇軍慰問並
びに文楽人形の献上を行ふ事にな
つたが、新京は八月二日より、監
察院の通人藤山一雄氏等が力瘤を
入れてゐる。
 ◇ジンギスカン鍋の本場公主嶺
金森事務所長からスポンヂ試合を
プロポーズされた新京記者団、二
十九日堂々遠征する事となつたが
試合の勝負は別として、ジンギス
カン鍋なぞ突ついて古傷を呼び起
さねば好いがとお節介を焼くもの
も居る。
 ◇「オホツ、これや危ぶない」
中央通りで一番古めかしい建物、
郵便局も年増女の厚化粧ぢやない
が全く一時逃れの改築に改築が加
へられてゐるが同所附近通行中、
玄関口の壁がバラ/\と降つて來
たのには驚いた、取締規則がない
からというて何とか保安子辺りで
も注意されたいものだ。

 でも新京からジンギスカン目当ての団体を乗せた列車が公主嶺に来ていたという記憶は間違いないと思われるので、それで私は昭和8年から15年までの8年間の新京日日新聞に載った行楽団体募集とその列車運行の記事を調べました。新京日日は新京、いまの長春にあった新聞社で、新京駅とツーリストビューロー新京案内所が共催する夕涼み列車などの催しを後援して、たくさん記事を書いているからです。
 資料その5は8年間の公主嶺行き列車の運行概況です。確かに昭和9年から夕涼み列車が走り、新京発公主嶺往復の行楽列車もありましたが、ジンギスカンを食べに公主嶺へ行こうという団体募集は1回もなかったのです。本当です。昭和13年になって年度計画として公主嶺ジンギスカン大会をやると発表されたけれども、うむむやになってしまった。これは全く想定外、ガクッときましたね。
 となるとだね、石川さんの記憶にあるジンギスカン列車は、新聞や掲示を通じて一般市民を集めた烏合の衆ではなく、官庁や大きな会社、何とか会といった組織単位の貸切列車だったのでしょう。それしか考えられない。
 昭和9年10月ですが、新京警察署が新京の満鐵附属地に住む日本人2万1141人の職業を調べたら、最も多かったのが官公吏で男1112人女69人、次は会社銀行商店事務員男1063人女100人、3位が鐵道従業員男806人、女11人でした。(39)
 新京の西公園内で県人会を開くという広告がよく新京日日に出てますし、広告にない親睦会も盛んです。例えば昭和9年5月13日の予定では「大林組約六十名忠霊塔、海軍記念碑中間▲電々会社城内出張所庶務係員約百名陸上競技揚下で▲福昌公司員約二百名池の南側で▲ひとの道會懇親会夕陽丘西端で約三百名▲現業組合(請負者)野遊會忠霊塔裏で約二百名九時から五時まで▲国際運輸新京支店家放會忠霊塔前で約二百名十時から▲マツチ同業組合野遊會海軍記念碑前で約四百名九時から五時まで▲首都警察庁司法科員親睦會約五十名西あづま屋東側で十一時から三時まで(40)」といった具合です。こうした団体が何年かに1回ぐらい公主嶺でやろうと出掛けたんじゃないかな。
 お父さんだけでなく、家族も加わる会もあったでしょう。昭和10年の暮れに満洲国総務庁長だった長岡隆一郎という人が療養のため半月ほどの日程で帰国したとき、そのまま辞任するのではないかと記者が汽車に乗って、笑ちゃいかん、車内でインタビューした記事があります。
 最後は話題がそれて長岡さんが「『家内つて言へば此間公主嶺に一緒に行つて成吉思汗焼きを食つてね、あの羊をやく大きい道具を買ひ込んでね、けふ車中に持ち込んだ筈だよ、東京で試みる積りなんだらう』結局落ち着く所は円満夫婦の東上りといふめでたき車中雰囲気であつたです(41)」と書いています。
 長岡さんは翌年4月、病身で重大な責務を果たせないと辞職(42)しました。そんな忙しい人だから職場の団体旅行でもなかったら公主嶺に奥さんを連れて行けなかったと思いますね。その紙面をスライドで見せましょう。成吉思汗鍋とこんな大きな活字を使うなんて珍しいよ。

      

 また昭和12年6月ですが「満洲中央銀行員百余名は京浜線唯一の避暑地第二松花江で家族會を開くことになり家族連れの一行は二十七日午前九時二十分発列車で出発、午後九時帰京の予定である(43) 」という記事が新京日日に載っています。
 満洲中央銀行は日本でいえばお札を発行する日銀ですね。それから京浜線といっても東京―横浜間でなくて、新京の京とハルピンを漢字で書いた哈爾浜の浜ですからね。レクリエーションとして、こうした団体が公主嶺に繰り出し、ジンギスカンを食べ、酒を飲んで家族ぐるみで親睦を図ったのでしょう。
 昭和15年6月から新京市では米が配給制になったのですが、それでも某官庁が安民広場で催した運動会用に「大同大街某大衆食堂に日頃のお顧客であるところから無理押しに千八百人分の大量辮當を註文して、同食堂一週間分の米穀を無残に獨占した(44)」と批判されています。1800は家族分を入れての個数でしょうね。
 コメントを求められた「米穀通帳制の産みの親牧山市公署商工科長」は「ともすれば殺風景になり勝ちな満洲で一年に一度か二度の園遊會の開催は一日中机に向つてゐる会社員や官吏特に若い人の心をどんなにか和げ美しい豊かな心を培ふか知れないのだから」と理解を示し「一家揃つてのピクニツク、官庁、会社の園遊會に銘々腰に握り飯をブラ下げて行」き、食堂、料理屋には酒や肴を注文せよ(45)とやんわり自重を求めています。牧山が言うように単調な自然が新京市民にこうした気晴らしを求めさせたかも知れません。
  

参考文献
上記(35)の出典は磯野利男著「わたしのかわらばん」(CD−ROM版)120号、「成吉思汗(二)」より、平成2年1月5日発行、ISONO sunao=原本、 (36)は同288−2号、平成8年1月10日発行、同、 (37)は芳賀登ほか編「日本人物情報大系」13巻20ページ、平成11年10月、皓星社=原本、底本は中西利八編「昭和十二年版 満蒙紳士録」、昭和12年7月、東京満蒙資料協会、 資料その5は昭和10年6月30日付満洲日報朝刊5面北満版=マイクロフィルム、 (38)はは南満州鉄道株式会社編「南満州鉄道株式会社社報」8303号5ページ、昭和10年1月8日発行、南満州鉄道株式会社、同、 (39)は昭和9年11月5日付新京日日新聞朝刊2面、同、 (40)は同年5月13日付同3面、同、 (41)とスライドは昭和10年12月11日付同夕刊2面、同、 (42)は昭和11年4月4日付同夕刊1面、同、 (43)は昭和12年6月30日付同夕刊2面、同、 (44)と(45)は昭和15年6月3日付同夕刊2面、同、


 新京日日が公主嶺に今年は何団体が遊びにきたという記事を載せていれば一番助かるのですが、私が見た範囲ではそういう記事はなかった。昭和8年の新京日日は公主嶺などローカルの記事といえば、匪賊馬賊の襲撃、官吏軍人の歓送迎会の記事ばっかりといっても過言でない紙面なのです。
 また、私の列車調べは新京日日の春から秋にかけての観光シーズンに絞って調べ始めたのだがね。もう少し、もう少しと読んでいるうちに通年になってしまった。同じ新京で発行されていた大新京日報も調べたいが、今後それも調べます、と口で言うのはやさしいが、やると大変でね。紙面を拡大して隅々まで見るためのマウス操作で右手が痛い、腱鞘炎かも知れん。それはさておき、こうした古い新聞は、胃腸薬のCMじゃないが、本当にいい情報源です。
 ともあれ、この元になった記事やその見出しなどは資料として配るには多すぎるので、講義録の方で読めるようにして、紙を節約しました。公主嶺行き列車の記事と見出しは薄緑色を付けて見付けやすくしてあります。それも尽波先生の講義のうちだから全部読ませていただくという真面目な諸君はここをクリックしなさい。
 一度は通読したから、特定の年だけでよいという場合は、資料その6の太字の昭和何年をクリックすれば、その年のトップに飛びますから読み直してください。私がいかに手間暇掛けてジンギスカン列車探しに取り組んだかわかるでしょう。
 飽きると思って公主嶺関係以外は見出しに限ったつもりだったが、調べ始めたころの記事付きも捨てずに入れて置いたから、明治42年の団体募集の元祖みたいな記事も入ってます。新京駅とツーリストビューローが募集開始と同時に申し込み殺到と煽るくせに、人数が少ないと列車の出る直前まで飛び入りを受け付けるという記事を載せるなど、この手の記事が定型化していく過程がわかりますよ。

資料その6

昭和8年 記事17本。公主嶺行きの片道臨時列車を出したことが1回あるが、団体募集はなし。新京駅の1年間の総括で「八月十九日には百七十人の大人数で新京駅初めての臨時列車で、大連の博覧会行きを行ひ、湯崗子温泉にも遊んだ」(昭和8年12月21日付新京日日新聞夕刊1面)とあるので、新京駅として行楽団体を募集して臨時列車を仕立てる営業形式は、この年から始まったとみられる。

昭和9年 記事65本(完成した特急あじあ号関係記事7本を含む)。公主嶺行きは7月1日に予定したが雨で延期の上中止。記事が激増したのは、新京駅とツーリストビューローが共催、新京日日が後援に回り、記事に取り上げて行楽団体の参加者を募る形ができたことと、満鐵記者倶楽部が発足して主催側がツアーの申込者数を日々明らかにして、発車まで受け付けるなど申込募集者数の目標達成を図るようになったことによる。

昭和10年 記事58本(満洲日日と小グループのピクニック記事3本を含む)。公主嶺行きは8月4日と8月17日の2回催された。7月28日の予定が雨で延期され4日に運行した。4日は新しい「区間旅客輸送用」「五〇〇馬力重油電動車」(南満洲鐵道株式会社総裁室弘報課編「南満洲鐵道株式会社三十年略史」102ページ、昭和12年4月、南満洲鉄道株式会社)を使ったので、試乗した新聞記者は「満鉄ご自慢の超流線型グリーン色の『デイーゼル電動車』で」特急あじあより早い時速110キロを出したと書いた。
 17日は「公主嶺駅では下車も出来ぬ土砂降りで車窓も閉めたまゝで納涼?が催され、待ちかねてゐた松竹の美給連はとう/\ホームで盆踊りを踊り超流線型な夕涼みであつた 」と報じられた。

昭和11年 記事106本(10月までの旅行団体募集計画の記事1本と満洲人向け日本観光団関係の記事4本を含む)。本数が多いのは新京日日主催の浄月潭という水源地へのバス旅行の記事と社告も数えたため。公主嶺行き納涼列車は7月25日と8月1日の2回行われたが、7月27日朝刊が欠号になっているため25日に運行したかどうかは不明だが、7月29日の第2回開催予告の記事によれば予定通り実施された。
 8月1日は250人が参加した。募集に際して、公主嶺では「酒、ビール、おでんと言つた類は満鉄綜合事務所出張の摸擬店で売られ子供には線香花火、参加者全員にはお士産として岐阜提灯のサービスがある」で、ジンギスカン料理が食べられるとは書いていない。

昭和12年 記事90本。公主嶺行きは7月3日1回で募集したところ申込者多数のため7月4日もと2回運行に変更。雨で10日と11日に延期したが、いずれも中止された。このときの新京日日の社告は催しは「大櫓を建てレコード、三味線、笛、太鼓の音頭で納涼踊」、売店は「ビール、サイダー、おでん、寿司、菓子、果物」と予告し、ジンギスカン料理の用意があるとは書いていない。
 7月10日付新京日日朝刊7面と8面は13段組みのうち上部4段半が失われており、7面残存部に「操車の都合に依り十一日は中止」の記事かあるので11日は中止とわかるが、10日の運行は不明。だが11日夕刊が「九日夜半から一変して十日午前五時から降雨となり十一時頃までには十ミリの雨量がありなほ終日降雨が続いた、」と報じ、競馬も日延べになったので中止したとみられる。

昭和13年 記事96本(乗客増加に対応した臨時列車運行の記事1本、10月末の競猟大会の募集と結果の記事3本を含む)。初めて行楽団体募集の年間計画に9月中旬、公主嶺ジンギスカン大会50人募集が取り上げられるが、7月中旬以降は納涼列車の運行もなく、新京の郊外行きばかりで終わった。

昭和14年 記事36本。新京の郊外行きばかりで公主嶺行きは計画もなし。

昭和15年 記事25本。新京の郊外行きばかりで公主嶺行きは計画もなし。

 さて、次なる問題は、こうした新京からの団体さんのために公主嶺では誰がジンギスカン料理の準備をしたのか―です。農業試験場から羊肉を買い、鍋と焜炉を借られたとしても、タレつくりと大事な飲物と炭の用意、後始末をする人手がいりますよね。磯野さんは「鉄道線路を境にして住宅街と商店街に分れ、住宅街は道路巾広く街路樹に囲まれ、店は満鉄消費組合の店舗、食堂は駅の構内食堂と満鉄職員クラブの食堂だけ、(46)」と、「羊肉は農試が供給し(市販が無いので)、駅の構内食堂が調理一切を取り扱っていた。」というから、当然構内食堂が引き受けていたのでしょう。
 では構内食堂とは―ですが、昭和2年に出た満鐵の「二十年史」には「大連長春両駅に構内食堂を兼営している(47)」としか載っていませんが、昭和12年の「三十年略史」には直営のほか「大石橋・遼陽・鐵嶺・四平街・公主嶺の各駅に於ては個人をして営業せしめ会社がこれを助成してゐる。(48)」とあります。
 でも明治45年元旦の満洲日報に大石橋は「支那料理」、鐵嶺は「御一泊代金五十銭」、公主嶺は「和洋御料理並ニ和洋酒菓子類/御中食は迅速に調達仕候間御引立を希ふ(49)」と入れた各駅構内食堂の広告が出ておる。また大正2年元旦の満洲日日新聞には、公主嶺が「御弁当精々吟味常に用意致居候/尚車中食堂に於て御食事の方は/前駅より電話にて御通知被下候/へば膳立致御待受申居候(50)」という広告を出しているので、かなり早くから、もしかすると満鐵開業の明治41年から営業していたかも知れません。
 「車中食堂に於て御食事の方」とは、車内または公主嶺で汽車から降りて構内食堂まで食べに来る人という意味でしょう。そんなことができたのか不思議だが、昔はできたんですなあ。大正4年3月の満鐵の列車ダイヤを見ると、毎日長春―大連間は急行1本と普通列車2本、長春―営口間に普通列車1本が往復していて、公主嶺には急行でも12分、長春発大連行き上り6番列車は20分も止まっていた。乗り降りの多い奉天なんかでは30分も止まる列車があったんです。(51)
 それに長距離でも普通列車には食堂車を連結していなかったので、公主嶺より手前の駅で電話すれば、公主嶺に停車したとき弁当を渡すなり、直ぐ食べられるよう用意したと思われます。
 その経営者ですが、大正7年に出た「公主嶺沿革史」の営業案内で当時は安藤梅太郎(52)とわかる。公主嶺は初めから個人経営だったのでしょう。昭和10年の「公主嶺要覧」の広告では井本賢治(53)という人に代わっているから、磯野さんは井本さんの時代のジンギスカンを食べていたことになります。
 ちょっと脱線、いまいった「公主嶺沿革史」は満洲日日新聞の公主嶺出張所の伏屋武龍記者が書いた本ですが、その伏屋は公家の出の文学青年でね、作家岡本かの子が20歳、まだ文学に憧れるギャル、大貫カノだった明治42年の春、かの子を連れて東京から自分の姉さんの嫁ぎ先のある千葉県飯岡町まで駆け落ちしたこともある元恋人(54)だったんですなあ。
 「芸術は爆発だ」で知られる画家、岡本太郎の父で漫画家の岡本一平と、かの子が結婚したのは駆け落ち事件の翌年。それで昭和38年に「週刊新潮」が「岡本太郎氏を驚かせた遺言 実の父と名乗った老人と『かの子の謎』(55)」という記事で、当時の事情を明らかにして話題になったことがありましたよ。
 ここで伏屋の名前が出るんだから、その「公主嶺沿革史」の一部を資料その7にしておきました。当時の南満洲の貧しい人々の食生活を伝える箇所です。カオヤンローなんか食べられるのはごく少数のブルジョワ階級だったと思われます。

資料その7

<略>朝は太陽の昇ると共に起き出で粗末なる食事をなし夫れよりその日の稼業に從事し日没までも働き夕食を済まして早々戸を閉し寝に就く(支那人は昼食は摂らず絶対二食)と云ふ有様早く起き早く寝ると云ふ点に至らば実に支那人以上のものは少かるべし南支の方面にては苦力貧民にても立派な米食をするとは云へ南満各地にては常食と云ふは都て高粱飯にて上流に至れば支那陸稲の粗雑なるものを食するものあれど普通は高粱を食する模様なり尚ほ下層に至れば高粱も尚ほ食しかね包米とて玉蜀黍の粉を団子にして食し又大道にて鬻ぐ焼餅とて麦粉を捏ねて焼きたるボツタラ焼きの如き餅を五十匁、或は百匁とて匁方にて買ひ之れに麦粉にて拵らへたる油揚げを包みて食すると云ふ惨めなる生活をなし居るなり高粱を食する者も高粱飯のみならず之れに小豆を交へ水飯とて粥を食する者多しされど支那人は副食物には頗る贅にして大概の者は四種五種の料理を為し豚肉或は鶏肉を用ゐ豆油を多量に加へ塩加滅にて味を付け頗る美味に調理す尤も之れは下層の者にはあらず。<略>

  

参考文献
上記(46)の出典は磯野利男著「わたしのかわらばん」CD−ROM版」119号、「成吉思汗鍋(一)」より、平成2年1月1日発行、ISONO sunao=原本、 (47)は南満洲鉄道株式会社庶務部調査課編「南満洲鉄道株式会社二十年略史」116ページ、昭和2年4月、南満洲鉄道株式会社=館内限定近デジ本、 (48)は同総裁室弘報課編「南満洲鉄道株式会社三十年略史」160ページ、昭和12年4月、同、 (49)は明治45年1月1日付満洲日報朝刊26面=マイクロフィルム、 (50)は大正2年1月1日付満洲日日新聞朝刊38面、同、 (51)は三宅俊彦編「復刻版明治大正時刻表」3刷175ページ、平成10年10月、新人物往来社=原本、底本は大正4年3月発行「公認汽車汽船旅行案内」246号、 (52)は伏屋武竜著「公主嶺沿革史」211ページ、大正7年7月、満洲日日新聞公主嶺出張所=原本、 資料その7は同191ページ、同、 (53)は公主嶺小学校同窓会編「満洲 公主嶺」263ページ、昭和62年11月、公主嶺小学校同窓会=原本、 (54)は外村彰著「岡本かの子短歌と小説」267ページ、「岡本かの子略年譜」より、平成23年10月、おうふう=原本、 (55)は新潮社編「週刊新潮」8巻3号92ページ、昭和38年1月21日、新潮社=原本、


 それからね、昭和4年の満洲日報に公主嶺の「構内食堂と満鉄社員倶楽部食堂の経営者が同一人なので融通がきゝすぎ、調理は無論折詰其他も粗悪となり、加ふるに仏頂面の待遇に不快を感じてゐる向が多いと(56)」と載ってます。それで経営者が交替したようで「満洲 公主嶺」が転載している昭和10年版の「公主嶺要覧」営業広告12ページ(53)には、井本賢治の構内食堂のほかに、井本孝一という名前入りの社員倶楽部食堂の広告も入ってます。同姓なのでこの人は構内食堂の井本さんとなにか縁続きだったじゃないかな。
 また翌5年には公主嶺のよその食堂が女給を入れるというので「構内食堂と倶楽部食堂の方でも之に刺戟されて両食堂は女給が大車輪の活躍、営業主の方でも大発奮で欧米各国の新式調理を研究して食通連を喜ばすといふ(57)」とあります。資料その8は「満洲 公主嶺」に載っていた思い出なのですが、この記事と無関係ではないと考えます。
 昭和8年、東芝は輪投げみたいに見える放熱パイプを冷蔵庫の上に乗せた国産初の電気冷蔵庫(58)を売り出してますから、昭和10年前後の記憶ではないでしょうか。「庭つきの家が一軒買えるくらい、電気冷蔵庫は庶民にとって超贅沢品(59)」だったけれど、満鐵の助成があったので井本さんは奮発したのでしょう。

資料その8

 構内食堂の伯父たち
            井村輝昭(32回生)

 公主嶺駅をへだてた一角に、ロシア建ての構内食堂があり、私はここを経営していた伯父井本賢治夫妻から父母同様に可愛がられた。この食堂は駅員さんや満鉄関係の方々が利用されていたらしい。
 調理場に入ると左手に四畳半ほどの畳敷きがあり、その横の土間に、ラセン状の大きな冷却器が載った冷蔵庫があった。調理台の奥にはフードのついた大きな力マドがあり、この上で煮物や焼き物の料理がおいしそうに味付けされていた。調理場の奥の一室には、大テーブルの上に白布が敷かれ、ここは会食・宴会などに利用されていたようだ。また別室の大食堂は小卓が沢山置かれ、朝・昼・夕食がここでとられていた。クリスマスにはツリー等も飾られ、サンタクロースに扮した小父さんもいた。
 この構内食堂で伯父、伯母の手伝いをするため、母たち三人姉妹が小倉から渡満した由である。この伯父も、風邪がもとで肺炎となり、昭和十四年に急逝された。このため気の毒にも若後家となった伯母(母の姉)は転業され、私がこの食堂に行く機会もこれが最後となった。食卓の横で母に抱かれた写真を見るたびに、母のぬくもりが感じられてくる。

 「写真集 満洲公主嶺」という本に構内食堂の写真があるので、拝借してスライドで見せましょう。はい、駅前の写真説明は「整然たる清美を誇る駅前通の街観」とありますが、右側の平屋が公主嶺駅、その向こうの2階建てが構内食堂。駅より立派だといわれていたそうですよ。
 それで印象に残るのか、大正13年に田山花袋が出した「満鮮の行楽」に現れます。汽車から降りて「和食の昼飯を食つた。ホテルの和食と来ては、拙くつていつも閉口するのだが、此処は割合に旨かつたのを私は記憶してゐる。(60)」と賞めています。
 昭和3年に満洲を訪れた与謝野晶子は「満蒙遊記」の公主嶺のところで「公主嶺駅に引返して、駅の食堂で少し遅れた昼食を取つてゐると、洮南で逢つた森立名さんが四平街から汽車で著かれた。私達を此処まで迎へに来て、共に奉天まで行つて歌を詠まうとせられるのである。(61)」と、構内食堂が出てきます。

      
                    ↑の2階建てが構内食堂

  

参考文献
上記(56)の出典は昭和4年6月13日付満洲日報朝刊4面=マイクロフィルム、 (57)は昭和5年3月23日付満洲日報朝刊3面=マイクロフィルム、 (58)はhttp://kagakukan.
toshiba.co.jp/manabu/
history/1goki/1930 refrige/index_j.html 資料その8は公主嶺小学校同窓会編「満洲 公主嶺」198ページ、昭和62年11月、公主嶺小学校同窓会=原本、 スライドは同11ページ、同、 (59)は昭和5年3月23日付満洲日報朝刊3面=マイクロフィルム、 (60)は田山録弥著「満鮮の行楽」267ページ、大正13年11月、大阪屋書店=近デジ本、 (61)は与謝野寛、晶子著「鉄幹晶子全集」26巻137ページ、平成20年12月、勉誠出版=原本、

 磯野さんは「在留邦人の間でも盛んにジンギスカンが食べられていた。先輩達の話では大正の頃からとのことであった。」といいますが、公主嶺に住んでいた人たちは、今の道民みたいにジンギスカンに馴染んでいなかったのではないかと、疑わせる記事があるのです。
 たとえば公主嶺警察署の恒例慰労会です。陸大生秩父宮殿下が公主嶺見学にお出でになるちょっと前の昭和5年2月「<略>十五日午後三時よりやまとに警官の新旧年末特別警備の慰労会を開催盛会を極めた(62)」と簡単だ。例年通り料理屋で日本料理というありきたりの慰労会だったのでしょう。
 ところが秩父宮御試食で知られたせいか、翌6年の慰労会はジンギスカンが出たのですね。「旧正警戒も終て/警官の慰労/成吉思汗鍋に歓談」と大きな見出しで「年末市街特別警戒に五官を刺す凛烈な寒威を衝き全署員は殆ど不眠不休の大活躍の結果匪賊は勿論鼠族の被害事件もなく例年に比なき平穏の旧正を迎へ予期以上の好成績を挙げた公主嶺警察署では十八十九の両日に亘り春未だ浅き寒風を意ともせず署の後庭に蒙古特有の成吉思汗鍋を催した、所謂治に居て乱を忘れぬ精神的の盛宴であつて余興に意匠を凝らした福引等ありて羊肉の美味に舌鼓を打ちつゝ主客歓談に花をさかせた、<略>(63)」とあります。
 この記事は「公主嶺警察の慰労宴」という高さ2段の写真付き(64)でね。幔幕の前で20人ぐらいが鍋を囲んで座っているように見えます。前年と打って変わったこの詳しさは、公主嶺農試のお膝元でもこうしたジンギスカン慰労会は初めてだったからでしょうね。
 敗戦前はね、3月10日は陸軍記念日といって、全国各地の陸軍駐屯地はもちろん、各地で在郷軍人、学生などによる観兵式や軍事練習、祝宴が行われたものです。満洲も同様で、昭和3年から5年間の満洲日報を見たら芸者を呼んだ祝宴もありましたが、その酒肴を書いた記事としては、昭和3年の長春の祝宴の「握り飯、にしめの挙盃、亦守備隊より寄贈品堅焼パン、缶詰等にて野戦気分を味わい(65)」があるだけ。昭和7年公主嶺の「兵食による祝宴(66)」、9年新京聯合婦人会が「昼食の炊き出しをする(67)」もという予告記事も入れますか。この新京で実施された演習のことは3月12日付夕刊3面に載っているけど、炊き出しには触れていません。
 ところが、公主嶺では昭和5年の祝宴は大盤振る舞い、ジンギスカンが出たんですなあ。昭和3年から8年までの陸軍記念日に公主嶺で行われた模擬戦闘と祝宴について満洲日報が書いたのは5年と8年の2回で、後4回は予告記事だけでした。特に昭和5年の記事は戦闘計画から始まり、非常に詳しくて長い。それで「蒙古独特の仁吉斯汗鍋」と書いた前後を資料その9(1)にしました。各地のこれら演習の参加者数を書いた記事はほとんどなく、公主嶺のこれも歩兵と騎兵両部隊に青少年団が参加したとしか書いていません。もしかすると、この祝宴は今年は秩父宮殿下の歓迎宴会の演習だったかも知れんよ。はっはっは。
 資料その9(2)も、秩父宮歓迎ジンバと無関係ではないとみますね。森中将夫人が、私たちも宮様が召し上がったジンギスカンとやらの味見をしたいわと音頭を取り、農業試験場に協力を求めたことが考えられます。50人も集まるとなれば無下に断れませんよ。

資料その9

(1)激烈なる市街戦
    全市民は旗行列参加

<略> 東軍の陣地たる公園に西軍の全部隊は殺到硝煙弾雨を突破猛進壮烈なる奮戦激闘に両軍はあらゆる新兵器を用ひ砲声殷々として天地を震はし煙幕砲煙爆破の黒煙は天を掩ひ軍用鳩は之れを縫ひて飛び凄壮なる戦場の光影を遺憾なく発輝し二十五年前の当日を偲ばしめ在留邦人の士気鼓舞し万歳声裡に戦闘を終り荘厳なる観兵式と分列式を挙行後招魂社を参拝十一時全住民の旗行列は恵まれた好天気に活気つき南北の両市街を一巡公園に於て万歳三唱散会記念菓子を分配正午蒙古独特の仁吉斯汗鍋を囲み野戦式の盛宴を開催し司令官寺内将軍の発声に天皇陛下の万歳を久保田地方事務所長の発声に帝国陸軍の万歳を三唱挙盃歓声は場に満ち盛況裡に閉宴午後六時半より小学校講堂に開催した各種の余興は予想以上の出来栄へに好評を博し来観者は身動きもとれぬ鮨詰満員の盛況を呈し十時過ぎ閉演した


同(2)コスモス笑ふ
     野に集ひて
      ヂンギスカン鍋をかこむ
       優しき婦人会懇親会

(公主嶺)婦人会員五十四名は二十八日正午より農事試験場庭園にて森中将夫人を中心とする懇親会が催された秋晴の好日輪天清く気澄み野菊コスモス咲き競ふ曠潤の畑居に連なる外園にヂンギスカン鍋を囲みて羊肉に舌鼓打ちながらしとやかな笑声満ちて懇親の香薫る平和なる優しく美しき集ひであつた

 では公主嶺の一般家庭でも磯野さんのようにちょいちょいジンギスカンを食べていたのか。私は同級生A子さんに公主嶺小学校の同窓生の紹介してもらい、私より3つ年上で記憶のしっかりしておられるTさんから思い出を伺うことができました。公主嶺生まれで「公主嶺要覧」にも広告を出している商店の家庭に育ったTさんは、意外にも我が家には鍋はなかったと語ったのです。
 煙が出るでしょう。野外で立って食べましたよというのです。鍋がない人たちがどうしてジンギスカンの味を知っているのか。Tさんによるとジンギスカンは農事試験場の何かの催し、在郷軍人の集会、青年学校の教練の打ち上げ、何かの会合の打ち上げといった、ある程度の規模の集会の後で設営して賞味していたというのです。
 青年学校はおおまかにいえば、小学校を終え進学しなかった男女のための夜間の学校で、満鐵の記録によると公主嶺青年学校は昭和10年6月に開校し、1年間に国語や算術などの4科目の合計授業時間に匹敵する110時間も教練をやった。(68)教官は金沢という予備役の士官(69)だったそうです。
 そのため青年学校後援會が組織され、集めた会費で「生徒の運動靴、脚胖、帽子、徽章、教練読本等の購入」や「新入學生の教練服、脚胖、帽子、徽章の半額補助、座談會費、秋季演習に参加せる一五名の汽車賃の補助等」をした(70)と記録にあります。
 夜の学校ですから軍事教練も夜やるわけで、その打ち上げで食べたりしたとTさんはいうのです。またTさんは構内食堂を覚えており、農事試験場などいくつかの場所で食べるときの準備は構内食堂がやっていたのだろうといいました。
 とすれば、蝦油の付け方もコーチしたのではないかと思うのですが、Tさんは蝦油のことは全く知らず、磯野さんのいうように肉に蝦油をつけてから焼くなんてことはせず、たれで覚えていることはニンニク臭かったというだけでした。
 またTさんのいうように、なにかの會合、満鐵が学校の先生にご御馳走する会もあったんですね。資料その10(1)がその思い出です。この瀬戸屋さんは公主嶺小学校の村上先生として昭和11年4月から13年10月まで在職した(71)ので、そのころの情景ですね。
 満鐵は学校の先生を大事にしており、社報でも社員より先生たちの辞令を先に載せているくらいで、満鐵の地方事務所は役場みたいな仕事を引き受けていましたから、いまで例えると町長が国保病院の医師たちに長くいてもらいたいとジンギスカン慰労会に招いたようなものでしょうね。
 公主嶺小で思い出した。昭和46年「長良川」という小説で直木賞をもらった作家の豊田穣はごく短いけど在学しました。「長良川」の一部である「伊吹山」に大正15年に入学し「昭和二年、私は父の転勤に伴って、南方の鉄嶺に移った。」と書いてる。満鉄の公主嶺幼稚園の遠足で農事試験場に行ったとか、父の職場の電信機にいたずらした(72)ことなどから父親は満鉄マンかと、社員録の駅員を見たけど載っていないんだな。小説だからと諦めながら「人名事典『満洲』に渡った一万人」という本を見たら豊田賢次郎があったんです。賢次郎氏は車掌などの列車区という職場の助役で、公主嶺に2度勤務した(73)とわかりました。
 昭和3年公主嶺生まれで小学2年の昭和11年夏まで公主嶺にいた今野ケ男(しげお)さんの語る自伝(74)が国会図書館にあります。父の六郎さんは大正11年の北大農学部実科卒で公主嶺農学校の畜産の先生(75)だったし、北大つながりで農試の人たちとも付き合いがあったというのですから期待して読んだのですがね、日曜学校は思い出してもジンギスカンはなし。特に今野さんの場合、公主嶺小同期の伊藤さんたちの編集した「満洲 公主嶺」を読んでからの口述なんですが、小学校の中村先生、神社の祭り、満洲婦人の纏足、弁髪、砂嵐(74)などの思い出で、ジンギスカンは出てきません。やはり普通の家庭では食べていなかったのでしょうね。多分、お父さんたちは資料その10(2)のような会合に顔出しして、楽しんだんじゃないかな。兵隊さんのためだといえば、奥さんも怒れなかったと思いますね。

資料その10

(1)
    大草原での野外料理
          瀬戸屋幸雄(旧姓村上・教職員)

 地方事務所長の主催であったと思うが、すごく上天気な初秋の一日、農事試験場の広大な草原の一隅に、大きな天幕を張りめぐらして、学校職員と全家族、幼稚園の先生達でジンギスカン料理を食べた。写真を見ると、大人三十二名、子供八名の大所帯だ。直径四十センチくらいの剣道の面のような特製の鍋を、真っ赤におこした炭火の上にのせて油をひく。農事試験場特産の羊の肉を鍋に並べ、ねぎ等の野菜も焼いて、独特のたれをつけて食べる。その美味は天下一品であった。
 大きな天幕や特製の鍋が数多く用意されていたのは、職場や家族ごとに公主嶺名物としてジンギスカン料理を盛んに楽しんでいたからであろう。若輩で田舎者の私にとっては、往時の蒙古族もかくやありけんと脳裏をかすめて、今でも公主嶺といえばジンギスカン料理、ジンギスカン料理といえば公主嶺をすぐ思い出す。
 その後、豊満に転勤し、巨大なダム建設現場を見下ろす高地で、ジンギスカン料理をご馳走になったが、何といっても公主嶺の大草原は、ジンギスカン料理のメッカであることを再確認したものだった。


(2)
  時局後援會幹事會が
   皇軍慰労會開催
    ジンギスカン鍋をつゝいて

十月四日午後一時より地方事務所
応接室に時局後援常任幹事会を開
催したが出席者は前田会長、大岩
副会長、中村、桜間相談役、小松
八郎、村瀬、古川、大滝、大口各
常任幹事集合、東辺道派遣部隊帰
還戦車隊軍用鳩隊長等多数将校勢
揃ひせるを機会に六日畜産広場に
てジンギスカン鍋の野遊会を行ふ
事に決し羊四頭を買入れる可く手
配中である入手次第実行する事に
取り決めた市民の出席者は会費持
参来賓は後援会費より支出の筈

  

参考文献
上記(62)の出典は昭和5年2月19日付満洲日報朝刊3面=マイクロフィルム、 (63)と(64)は昭和6年2月22日付同朝刊5面、同、 (65)は昭和3年3月12日付同朝刊4面、同、 (66)は昭和7年3月8日付同朝刊5面、同、 (67)は昭和9年3月10日付新京日日新聞夕刊3面、同、 資料その9(1)は昭和5年3月13日付満洲日報朝刊4面、同、 同(2)は同年9月30日付大連新聞朝刊5面、同、 (68)と(70)は南満洲鉄道株式会社総裁室地方部残務整理委員会著「満鉄附属地経営沿革全史」下巻268ページ、昭和14年11月、南満洲鉄道株式会社=原本、 (69)は公主嶺小学校同窓会編「満洲 公主嶺」251ページ、昭和62年11月、公主嶺小学校同窓会=原本、 (71)は同561ページ、同、 資料その10(1)は同370ページ、同、 同(2)は昭和8年10月6日付大連新聞朝刊7面=マイクロフィルム、 (72)は豊田穣著「豊田穣 文学/戦記全集」11巻339ページ、「伊吹山」より、平成3年2月、光人社、同、 (73)は竹中憲一編「人名事典『満洲』に渡った一万人」989ページ、平成24年10月、皓星社、同、 (74)は今野ケ男述「今野ケ男オーラル・ヒストリー」13ページ、平成22年10月、赤坂幸一、同、 (75)は北海道帝国大学編「北海道帝国大学一覧 自大正十三年至大正十四年」429ページ、大正14年2月、北海道帝国大学=近デジ本

 資料その1で示したように磯野さんたちは「海老油(河海老から抽出した油)に浸してからロストルの上で焼き」それから「タレをつけて食べた」んですね。また「海老油に漬けるのは一つには羊肉の臭み消し、一つには焦げつき防止である。(76)」とも書いており、蝦油はたれの中に混ぜなかったことは明らかです。
 でも蝦油は濱町濱の家でも使っており、中野江漢に勧められた濱の家主人の富山栄太郎は「わざ/\北京へ行つて正陽楼の道具を買つて來た。テーブルから腰掛、あのたれは錦州から出る蝦の油に大蒜や何か入れるのですが、さういふのも向ふから買って來た。(77)」と座談会で語りました。
 由比ヶ浜試食会で富山に松葉燻しをコーチした木下謙次郎は「大きな鉢の中に胡麻の油を入れて、これに蟹の油であるとか、海老の油であるとか極く淡白な水産動物の油を混ぜ、」その「汁の中に浸けてある羊肉を取つて、その網にかけて焼きながら塩をかけて食ふ。(78)」と書き、濱の家で食べた日本料理研究会の三宅孤軒は「羊の肉は満洲のゴマ油と、エビの油とで漬け込み(79)」と書いて、その存在は早くから知られていました。
 その作り方ですが、灯台もと暗し。かつてわが北大にあった滿蒙研究會が発行した「満蒙研究資料22号」に、この蝦油の製法が書いてあったのです。納豆博士とうたわれた農学部の半沢洵教授が調べた「満州国に於ける食品に就て」がそれです。蝦油に関係したところを抜き出したのが資料その11(1)。水を入れ油を浮かせてすくい取るなんて、生活の知恵だなあ。
 また、北大図書館は滿洲輸入組合聯合會商業研究部が出した「滿洲に於ける調味料」という本も持っていたのです。非売品でほかに11大学が所蔵していますが、満洲にいる日本人と中国人が用いる全調味料の製造から販売までの調査報告書です。その蝦油関係を抜き出して(2)にしました。私は、これを読むまで、蟹油は蝦と蟹を混同したのだろうと疑っていたのですが、ワタリガニが原料で、主産地は興城と示されているので認識を新たにしました。
 半沢さんの調査と得られる蝦油の歩留まりがいささか違いますが、調査に対する生産者の協力振りによる違いでしょう。日本人が割り込んでくることを警戒して、正直に答えるとは思えませんからね。
 それでも割り込んだというか「満洲グラフ」に広島県から渤海湾に面した浜に入植した広島村開拓団の蝦油作りを含む作業ルポが載ってます。「あらかじめ張り込んである網にかゝつた毛蝦は腐敗するので引上げた後、塩を多分に混ぜ、甕に詰めて醤油にするのであるが、この醤油こそ天下の絶品ださうである。それもその筈、味の素で作つたやうなものなのだから、さこそと肯かれやう。(80)」と説明、写真9枚の中には高粱の茎で編んだ円錐形の蓋をかぶせた甕の列があります。
 それから石毛直道とケネス・ラドルによる論文「塩辛・魚醤油・ナレズシ」では、蝦油は「北京の名物料理として知られている羊肉(羊肉のしゃぶしゃぶ)のたれに蝦油が使用されることを除くと、渤海湾沿岸の蝦醤、蝦油は生産地周辺だけで利用される地方的な調味料(81)」で、&328900;羊肉を挙げていない。彼は蒙古で煮た羊肉ばかり食べて、蒙古では肉を焼いて食べないと本に書いたから、カオヤンローの存在が書けないという事情もあるかな。いまはわかりませんが、少なくとも昔はこの通り公主嶺はじめ遅塚麗水が訪れた鄭家屯の奥の砂漠の人たちも使っていた。それらは蒙古や北部満洲で食べた思い出で取り上げます。

資料その11

(1)満州国に於ける食品(特に微生物に関係ある食品)に就て

                     半沢洵

〔1〕 蝦油(シヤユー)の製造 蝦油製造用の蝦には白蝦と赤蝦との二種あり、白蝦は亦糖蝦(Mysia opossim=Shrinp)アミ又はアメンドとも云ふ俗に白麻線(パイマシヤン)或は()蝦又は醤蝦と謂ふ。赤蝦は赤線麻と云ひ品質劣等なれ共生産量は實に莫大なり
之を晩春より夏期即ち陽暦五月頃より八月迄買ひ集め白蝦一斤に付三両(一斤は十六両満洲一斤は日本の一四〇匁位)の食塩に混入し以て腐敗を防ぐ、豫定の数量に達すれば夫々之を自店に送り、これを甕(五斗入)に入れて棍棒如きものにて搗き砕き粥の如き状態となし其の儘に放置し数日後に至りて醗酵作用を開始し後九十日位の醗酵を経過すれば立派なる蝦油を生ず、次に醗酵濟みの蝦油に対し、其の半量の清水を注ぎ一日位静止し置けば蝦油は自然に水面に浮上す、これを原油と称す、この原油を他の容器に移して小菜製造用に供す、原油探集後再び清水を注いで叮嚀に攪拌し一日静止して置けば第二日目の蝦油を採集することを得、これを「二油」と称し、その味は原油に劣る。この原油は小菜製造用のみならず調味料として一般に愛用せられ上流家庭に於ては醤油代用品とし又は年末或は節句等の贈答品として非常に賞讃せらる。尚滷蝦と称するものあり、これ蝦醤のことにして未だ原油を採収せられざる蝦醤のことなり、滷蝦も亦蝦油同様四季の調味料に適し其の味佳良なるのみならず滋養に富み消化し易く且つ食慾を旺盛ならしむる特徴あるを以て古來より一般に愛用せらる。白蝦百斤(一斤は普通六〇〇匹前後)より原油二十斤、二油八斤位を採収し得べし。

〔2〕 蝦油(シヤユー) 其の製法は小菜の記事中に詳なり。
醤油に代用し料理に用ふ。豚饅頭に付け、成吉思汗鍋に肉を焼いて酒と割り用ひ、火鍋子、饂飩の汁中に入れて煮食す、又漬物の調製の際使用せらる。
《半沢洵》


(2)五、蝦醤、蝦油、蟹油

 之等は小蝦を一種の塩藏醗酵せしめた加工品で内地の「ツケアミ」に類似するが用途は副食物にあらすして、調味料として使用される。支那では河北省に多く産して蝦油を關裡醤油とも称せられてゐるが満洲にては営口、盤山、錦縣興城等の渤海沿岸及び安東に産し数量は営口地方最も多きも原料蝦が稍大型のものを使用する等の關係から色も暗紫色を呈して、錦縣方面産の白味を帯ぶものに劣る。普通家庭にて妻女の手により造られてゐるが錦縣方面に於いては專業者も可成りある様である。今錦縣方面に於ける生産状況を聞くに、其製造期は五月より八月頃までにて生の毛蝦、滷蝦を水揚のまゝ百斤につき塩三〇斤の割合にて缸(羅缸と称し径二尺、高さ四、三尺の土、砂、石を混合した焼物にて二八〇斤入濼州産一箇三圓)に入れ五日余を経て手にて絞り他の缸に移して木捧にて突砕き其の儘日光に當て放置する時は自然と糜爛醗酵するものである。そして六月初頃に製造したものは八月末頃までに完成せられるが、その間上部に浮出する液を掬ひ取つたものが即ち蝦油である。而して三〇〇斤の毛蝦より約二〇斤の蝦油が製出されて其残滓を蝦醤と称して之亦調味料として嗜好される。
 尚この外興城方面にては小さき蝤蛑(ガザミ)を塩漬として砕き醗酵せしめて蟹醤と称してゐるが品質、数量ともに蝦醤の比でない。
 而して生崖高は不明なるも蝦醤は盤山のみで二萬斤、興城の蟹醤は七八千斤と称せられて、地場は勿論、熱河方面の外支那本土にも売捌かれてゐる様である。而してその容器としては樽詰、壷詰、瓶詰等があつて普通小売値一斤、醤油一円、蝦醤八、九銭、蟹醤四、五厘位のものである。
《桐澤信六》


(3)(六)蝦醤と蝦油

毛蝦、芝蝦を生のまき塩藏醗酵せしめたもので上部に油の浮いたものを掬ひ取つたものが蝦油で残つた滓が蝦醤である。普通家庭にても造られるが安東、営口、錦縣方面に多く産する。然し営口産は小蝦を材料とするので品質劣り最も優秀なのは錦縣方面のものであつて有名なる錦縣の小菜といふ漬物はこの蝦油に小さき野菜を漬けたものである。其色合は普通暗紫色をなしてゐるが錦縣のものは白味を帯びて居る。用途は生のまゝ味附として冬季に多く用ひ火鍋子殊に羊肉のものには絶体必要とせられ、又河北方面では特に民衆間に嗜好せられるので一名關裡醤油とも言はれる。
《桐澤信六》


(4)南満の魚
                 太田正夫

<略>支那料理に出て來る味つけ材料で特長あるのが蝦油である。満語の読みかたなら”シヤユー”である。字の通り蝦の油だ。しかし、一般の油の通念から離れて別に油の如くギラ/\はしない。從つて蝦の養醤油といふ方が適當であるかも知れぬ。満系の料理には不可欠のもので、調味料の役をする。有名なジンギス汗料理の”タレ”の大きな部分を蝦油が占めてゐるのを知つてる人は尠ないと思ふ。この製造は毛蝦を塩と一しよに大きた瓶につめて毎日一回づつ攪拌してやる。瓶の上には雨水の降り込まぬやうに圓錘形の帽子で覆ひ保存すると、一週間乃至二週間で、瓶の中から蝦の油が滲み出す、まだ濃度が薄いので、仕込みの旧い瓶に移し、二度、三度、四度と繰返すうちに濃い蝦油が出來る。<略>

 私はこの「満蒙研究資料」などを見付ける前、中華料理研究のホームページを開いていた焼豚大師という方にね、蝦油について質問したことがあるのです。そしたら焼豚大師さんが台湾で買った食材辞典に載っていると、その項目の画像を送ってくれたのです。中国哲学の先生に翻訳をお願したら、留学帰りの院生による訳文をもらったので、焼豚大師さんに知らせ、保存していたらハードディスクが壊れてパア。
 その訳文は遼河という川の蝦がよい。(1)の半沢報告と同じような作り方で(3)の桐沢報告と同じように、錦州で取れる野菜を蝦油で漬けた錦州小菜は名物だというようなことも書いてあったように思います。いまなら、いろいろデータの預け場所があるけれど、あのころはそうした便利な預け場所がなかったんでねえ。
  

参考文献
上記(76)の出典は磯野利男著「わたしのかわらばん(CD−ROM版)」176号、平成12年12月14日発行、ISONO sunao=原本、 (77)は文藝春秋社編「文藝春秋」16巻1号388ページ、「風物支那に遊ぶ座談會」より、昭和13年1月、文藝春秋社=原本、 (78)は慶應大学医学部食養研究会編「食養」3巻8号通巻244ページ、木下謙次郎「羊の料理」より、昭和6年8月、慶應大学医学部食養研究会=原本、 (79)は日本料理研究会編「日本料理研究会報」1巻8号30ページ、昭和5年8月、日本料理研究会=原本、 (80)は満鉄会監修「満洲グラフ」12巻233ページ、平成21年7月、ゆまに書房=原本、底本は満鉄編「満洲グラフ」10巻9号、昭和17年9月、満鉄総務部庶務課、(81)は石毛直道編「論集東アジアの食事文化」186ページ、昭和60年8月、平凡社=原本、 資料その11(1)の〔1〕は半沢洵著「満州国に於ける食品(特に微生物に関係ある食品)に就て」35ページ、発行は昭和10年代と推定されるが記載なし(国会図書館は昭和11〜14年としている)、北海道帝國大學滿蒙研究會=原本、 同〔2〕は同41ページ、同、 同(2)は桐澤信六著「滿洲に於ける調味料」29ページ、昭和14年8月、滿洲輸入組合聯合會商業研究部=原本、非売品 同(3)は同90ページ、同、 同(4)は満蒙社編「満蒙」24巻8号37ページ、昭和18年9月、満蒙社=館内限定近デジ本、

 さて、それでは、だれがこうした蝦油とたれのダブル味付けを始めたのかという疑問が生じます。私は磯野さんが「羊肉は農試が供給し(市販が無いので)、駅の構内食堂が調理一切を取り扱っていた。」というからには、公主嶺駅の構内食堂の井本さんかコックでしょう。
 後で説明しますが、羊肉が市販されていなかったというのは誤り、満洲では夏こそ羊肉の出回る季節だったのです。だから磯野さんたちは「満洲の夏は酷暑なので下痢や急性腸カタルを起こしやすいし、生焼にちかい羊肉を食べるのだからビールは避けた。」はずであり、農試の羊肉と信じて、市販の羊肉を食べていた可能性大です。
 それからね、私は多くのジンギスカンの思い出を読んできたが、蝦油とたれを別々に付けると書いたのは磯野さんだけだ。高石啓一氏の論文「羊肉料理『成吉思汗』の正体を探る」にも蝦油が出て来て、戸高寅吉という人が日本人好みの「エビ油とブレンドしたタレ」を工夫したとあるから、同じ公主嶺でも蝦油の先付けではない。支那料理店や満洲人の家庭では別付けをやっていたかも知れないが、中国語の文献まで読んでいないので、いまは蝦油の先付けはやはり構内食堂オリジナルとしておきましょう。
 高石さんはこの論文で、戸高寅吉さん風のたれでジンギスカンを食べたことまで書いているので、一寸ダブりになるが、高石論文のそのあたりを抜粋して資料その12としたので見てもらいましょう。

資料その12

<略> 大正時代には,中国東北部の公主嶺(現吉林省公主嶺市)に農事試験場畜産科があり大正6年に種羊場が作られた。ここでは緬羊の品種改良が試みられており,欧州の毛用種と蒙古羊などとの交雑試験が行われ,毛量や体格等の成績調査をしていた。さらには,羊肉の料理法が工夫されている。大正12年には,戸高寅吉氏は種羊場就職し,中国の料理人を通じて調味方法を覚え,日本人に合うようにタレを工夫したという。
 そのタレは「エビを煮込み油を絞ると説明があり,食塩などで調合する。」とのことであった。また,昭和9年当時に満州鉄道で働いていたという磯野利男氏は,「成吉思汗」のルーツは公主嶺と思っていた」,「タレはシャンミュウ(川エビ油)を用いていた」と記述した一草がある。<略>

 私は、磯乃屋のホームページ「焼尻電脳新聞」の掲示板で戸高靖夫氏を知り、メールを送って父寅吉氏のたれ作りなどをお尋ねしました。それで資料その11の高石論文では触れていませんが、寅吉氏が秩父宮歓迎ジンパの際のたれ作りをしたことを知りました。
 何度かの靖夫氏のお答えを要約するとね。@寅吉氏はローリーユウという中国人から蝦油入りのたれ作りを習った。車用ワックス缶ぐらいの缶入りで半透明ゼリー状だった。たれには酒、塩、りんご汁なども入れ靖夫氏も寅吉氏から教わったが、忘れてしまった A肉は網の炭火焼き、焼けてからたれを付け食べたB寅吉氏は軍歴があり、秩父宮がおいでなったときジンギスカン料理を担当したので陸軍省から感謝状と盾を賜ったC駅待合室とつながった構内食堂は覚えている。経営者井本氏の親類の同級生がいた。立派な冷蔵庫があったD戸高一家は昭和15年に宮崎県に転居した。戦後満州引揚者が開いたジンギスカン店のたれ作りを頼まれ、寅吉氏が海の蝦の煮汁を煮詰めるなどして作ったことがある―といったところですね。
 寅吉氏は大正12年に公主嶺農業試験場に就職と高石論文にありますが「満鐵職員録」に戸高氏が初めて載るのは昭和9年版で、地方部農務課の公主嶺在勤の産業助手としてです。農試勤務者とどう違うのかわかりませんが、このとき農務課で公主嶺在勤となっているのは技術員大野末松、事務助手の傭員江原榮八郎、産業助手の雇員戸高寅吉と傭員註カ留吉(82)の4人です。
 大正12年就職とする高石説と比べると11年も後で、いま挙げたBの秩父宮歓迎ジンパのたれ作りが怪しくなります。でもね、昭和5年9月20日、寅吉さんは公主嶺で開かれた在郷軍人4分會対抗競技會の銃剣術の部に公主嶺分会代表選手の1人として出て、6人抜いて1等になった(83)ことが新聞に載っているから、公主嶺に住んでいたことは確かです。この食い違いについて靖夫氏から伺っておりますが、プライバシーに関わることなのでチャックですなあ。
 それで満鐵の社報を調べたらですよ、昭和5年8月16日付で「産業助手ヲ命ス 農務課(公主嶺) 牧夫 甲傭 戸高寅吉(84)」という辞令がありました。満鐵に入って約1年後に甲傭になり、初めて職員録に載った磯野さんの例からすると、寅吉氏は少なくとも1年ぐらい前、昭和4年ごろ満鐵に採用され働き始めたとすれば、昭和5年の秩父宮様歓迎ジンパに参画した可能性はありますが、試験場関係者が寅吉さんがたれを作れることを知っていたかどうか疑わしい。新京ヤマトホテルのコックの顔を立てて、このときは構内食堂が下働きをしたと思われます。寅吉さんが秩父宮様からお褒めにあずかったのは昭和5年か13年か、賞状を調べればわかると思うのですが、靖夫氏は資料は高石さんに渡したというので、私はそれ以上のことは伺いませんでした。
 それでね、私は1年前から綿密な打ち合わせと下調べをした昭和5年の陸大生視察のときではなく、寅吉さんがタレ作りの腕を振るったとすれば、日程を秘密にした昭和13年5月の作戦視察のときと推察しているのです。13年に公主嶺にお出でになったことは「雍仁親王実紀」でも「二十三日 公主嶺の飛行部隊御視察。(85)」とあるぐらいで新聞は何も書いておらん。そのころは非常時だ、贅沢は敵だと叫ばれていたから、宮様歓迎体制も地元だけのこじんまりだったでしょう。それで、もしジンギスカンを召し上がったとすれば、仮定だよ、地元の寅吉さんが調合した蝦油入りのタレが使われたかも知れません。昭和12年版の職員録には寅吉さんは産業部農林課公主嶺種羊場産業手(86)となっていますが、昭和15年7月現在の「職員録」には載っていないから、戸高一家はもう満洲から離れていたのでしょう。
 さて、戸高家では蝦油を加えるたれを作ったけれども、食べ方は蝦油の先付け方式ではない。構内食堂の井本さんかだれかが、公主嶺の支那料理店とか満洲人の家庭などで知ったことも考えられるけれども、そうした記録は見付かっていないので、私はやはり構内食堂オリジナルと考えています。
 蝦油先付けは公主嶺駅の構内食堂が元祖だと仮定すると、昭和10年に公主嶺視察にきた渋沢敬一さんがだ、自分が食べている写真に添えて「羊肉をあぶる前につける油は淡水エビよりとりしものと聞く。」と書き、磯野さんと同じだから、このときのジンギスカン接待は構内食堂が仕切ったとみることができます。
 北京正陽楼などでは蝦油は漬け込む汁にまぜてあり、肉に味が付いているので、たれの小鉢はない。田原坂の歌ではないが、馬手に長箸、弓手に酒杯―となるわけです。磯野さんたちみたいに焼く前に蝦油の1度漬けをするとすれば、少なくとも何人かに1つ、蝦油を入れた丼か深皿がいるし、1人に1個のたれの小鉢がいりますよね。だから馬手に竹箸、弓手に小鉢―なら、酒と油は台の上、とならざるを得ません。まあ、美味しく食べられればよいと、そういう作法はなかったでしょうね。
 大勢のジンパとなると、当時の公主嶺でテントを張ったり火を起こしたりするのは主催者で、たれ作りや肉切りは構内食堂が受け持ったとしますか。農事試験場の牧草地が広くて、払い下げ用の緬羊をたくさん飼えたにせよ、今度の土曜に10人前頼むぜなんて小口の注文に応じて、1頭つぶすなんてことをしていたとは考えにくい。中型100キロの緬羊1頭から30キロはうまい肉が取れるのですから、10人で10キロ食べたところで20キロは余る。それをどうしますか。
 構内食堂の冷蔵庫はカチンカチンの冷凍保存はできなかったでしょう。とすれば何日かは保存できたとしても、次の注文はいつくるかわかりません。磯野さんは「今のように初めからタレに浸さないのは肉が新鮮なのとその鮮肉の昧を殺さないためである。」と肉の新鮮さを強調しています。やはり構内食堂は農事試験場からの羊肉とは別に、夏でも冬でも小口で羊肉を仕入れるルートを使っていたとしか考えられない。
 また、磯野さんは「満洲の夏は酷暑なので下痢や急性腸カタルを起こしやすいし、生焼にちかい羊肉を食べるのだからビールは避け」て「飲み物は日本酒か焼酎。」というけれども、冬食べたことは書いていません。でも公主嶺警察署のジンパは年末年始警戒の打ち上げですから、構内食堂が請け負ったとは書いてないけど、こうして冬にジンギスカンを食べる人もいたのですから、当然のことながら冬でもある程度の羊肉は売買されていたはずですよね。
 公主嶺は満洲の真ん中辺といっていいと思いますが、どうもジンギスカンを食べたのは主として春から秋で、少なくとも満洲の南半分はそうだったと推察されます。秋から食べ始め、雪がちらちら降るころが最高という北京とは、ここが大きな違いだと私は考えます。
 昭和6年9月に内田総裁と江口副総裁が公主嶺巡閲にきたとき、農事試験場の講堂に集合した「二百有余の社員に対し」訓示をした。場内視察が「午後一時終了後畜産広場にて社員のみのジンギスカン鍋の宴会に昼食を済ませ」たという新聞記事(87)があります。当然構内食堂が指揮し、戸高さんら試験場で働く全員が準備の手伝ったでしょうが、お口汚し程度でも200人が食べる羊肉は、試験場提供の緬羊だけで間に合ったのでしょうか。鍋は金網で間に合わせたとしても、羊肉の不足分は公主嶺にいた羊肉ブローカーから不足分を買い付けたに違いないのです。
 満蒙の畜産を調べた北大畜産の井口さんによると、満洲では「羊は夏期に屠殺されるが、牛は冬に屠殺されのと反対である。これは夏期羊体は小さいから処分し易い点からであらう。牝は八―九歳、牡は七歳位まで蕃殖要に供して後廃羊として処分(88)」していた。
 翌7年9月に八田満鐵副総裁が公主嶺視察に来たときも「農事試験場講堂に集合せる社員に対し慰労を兼ねたる一場の訓辞を為し中本場長の案内で場内を視察し農産物改良の實況を身午後零時半より農事試験場畜産広場の草原に紅白の幕を張り主なる軍人、日満官民を主賓とし満鉄社員所属長を陪賓とし主客約五十名立食のヂンギスカン鍋の野戦式午餐會を開催された」とあります。「露天太陽の直射光線を全身に浴し上衣を脱いでと副総裁自ら気を利かし一同是に従ひ草叢の曠原にシヤツ一枚となつて握り飯を囓ぢる時局柄相応しい宴会であつた、(89)」というぐらい9月はまだ暑いんです。
 大連新聞のこの記事には「写真は野天ヂンギスカン鍋八田副総裁招宴の光景、左端副総裁一人隔てゝ森地方事務所長、後姿小川中佐(90)」という説明があるのに写真が載っていない。翌20日の紙面には列車前に並んだ写真だけで鍋の方は残念ながらボツになっていました。
 資料その13の4論文は、羊肉は夏に食べるという消費傾向を示した文献です。しっぽの(4)は「新撰満洲事情」という教科書からです。この本は例言で「満洲に於ける中等學校生徒をして、満洲に關する認識を十分ならしめんが爲、教科用として編纂」しており「全満中等學校關係學科担任教諭八十九名が執筆を担し、之を整理統一して編纂し、昭和九年度より全満中等學校生徒の教科用として使用した(91)」とあるから、まあ、当時の日本人の普通の見方だったんでしょう。
 天理外国語学校北京語部を出て満洲に渡り、敗戦で引き揚げるまで10年間「中国語関係の仕事に従事」したという藤江在史さんは「日本のジンギスカン鍋は、本来は羊料理の<烤羊肉(カオヤンリヨウ)>(羊の肉を焼いたもの)で、夏の料理である。(92)」と自著に書いてます。通訳をされたと思うのですが、夏の料理というだけで根拠に触れていないのが惜しまれます。

資料その13

(1)
   第三章  飼養方法

   第一節 飼養者ノ種類

満洲二於テ羊ヲ飼養スルモノハ之レヲ二種ニ分ツヲコトヲウベシ一ハ即チ一般農家ニシテ羊ノ生産物即毛及羊糞ヲ利用シ其生産仔羊ハ成羊トナルヲ俟ツテ他ニ売却スルヲ目的トスルモノ他ハ市街地ノ館子(料理店)又回教徒ニテ農家ヨリ成羊ヲ購買シ來リ夏秋ノ間ニ屠殺シテ其ノ肉ヲ販売スルヲ目的トス此二者ハ全然其飼養目的ヲ異ニスルモノト云フベキナリ
故ニ後者ニアツテハ一箇年ヲ通ジテ羊ヲ飼養スルガ如キハ甚ダ少ク多クハ五六月ノ頃ニ附近ノ農家ヨリ羊ヲ購入シ來リ之レヲ自家ニ飼養シ主トシテ市街地附近ニ放牧シテ飼料ヲ與フルコトナク或ハ僅ニ濃厚飼料トシテ少量ノ大豆ラ與フルアルノミ、而シテ毎日必要ニ応ズル丈ノ頭数ヲ屠殺シユクモノナリ元來支那人ノ風習トシテハ羊肉ハ夏期ニ好ンデ食シ冬期ハ羊肉特有ノ臭氣高クナルガ故ニコレヲ好マズ牛肉ヲ食ス、此風習ハ一ニ前記ノ如ク臭氣ノ多少ニモ原因スレドモ其他羊肉ハ身体ヲ冷シ牛肉ハ身体ヲ温ムト云フ思想ヲ有スルコト及小ナル市街地ニアリテハ夏期一頭ノ牛ヲ屠フルモ全部ノ肉ヲ売却スルニ相當ノ日子ヲ要シ爲ニ腐敗ニ傾ク虞レ多キコト等モ其一原因トナレルガ如シ羊肉ヲ食スル時期ハ主トシテ六月ヨリ十月迄ノ五箇月間ニシテ館子又回教徒ノ飼養時期亦此期間ノミナリ十月中ニハ大抵屠殺シ終ルモ若シ残余アル場合ニハ冬期間附近ノ農家ニ預託シ冬期自家ニ飼養スルモノハ甚ダ少数ナリ<略>

   第三節 飼養年限

農家ニ於テ蕃殖牝羊ヲ飼養スル年限ハ一定セズト雖モ大約七八歳迄飼養スルヲ普通トス、而シテ生産セル仔羊ハ多クハ満二歳即明三歳ノ頃迄飼養シテ後売却スルヲ普通トス其売却期ハ即チ羊肉ノ需要期ナル七八月ノ頃ナリ
《香村岱二》


同(2)
 満洲に於ける羊肉の需要期は夏である。支那人は羊肉を食ふと体が冷えると称し冬期に之を食ふことを好まず夏期によく之を用ひる習慣がある。且つ屠肉業者が夏期大動物を屠殺しては腐敗の虞れがあるが羊のように小さい動物ならば当日中に売捌きが出来るので夏期は牛より羊を多く屠殺するのである。夏期羊肉の市場に盛んに出るのはこの理由である、従つて夏期は羊の市場が最も高い。
 生産仔羊で蕃殖に使用しないものは当歳で処分出来れば面倒がないが、当方では売却が困難であるばかりではなく体が小さく肉量も少なく成羊の半額にも売れない。実際一般農家の飼養法によれば夏より晩秋までは殆ど放牧のみで飼養するから其の費用は極めて少なく明二歳の春期剔毛後まで飼養するものとしても其の費用は冬期間の飼料費だけと見て大差がない。冬期間の飼料費は明二歳時の春期間生産羊毛で充分償ひ得るから当歳で売却するよりも明け二歳で売却する方は倍以上の利益がある。<略>
《松本福次郎》


同(3)
     満洲に於ける牧羊と羊肉需要期

 満洲に於ける牧羊も相当盛んで多くは農家の副業として行はれてゐる外に、都市の料亭及び回々教徒の肉商が晩春買入れた羊を屠殺の目的で適宜飼養し或は肥育を施こしてゐるが、その数は少ない。
 満洲人は羊肉を夏の食物として居り、冬は身体を冷すからとて食せぬ習慣があるのと、肉商は夏は牛を屠殺しても肉の売行悪るく、ために腐敗させる虞があるから、羊は六月頃から九月初め頃迄に屠殺され、冬期の屠殺は甚だ稀れである。從つて五月から九月頃迄は市街地に羊を見るが、それ以外の季節には全くその姿を見ることがない。呼倫貝爾地方では牛腸と共に羊腸を清拭加工し、これを塩蔵したものをソーセージ用として欧米に輸出してゐる。併しこの腸加工は他地方にては殆んど行はれてゐない。<略>
《沢田壮吉》


同(4)
     第三節 畜産業

 満洲は大原野多く、又人口密度の少い為、労力補充の点からも家畜を必要とするので、牧畜は盛んである。中央平原は舎飼が行はれて、各方面に使役され、西部の草原地帯は放牧が盛んで、中央の農業地方への家畜供給地である。大体耕地面積の多い北部は馬が主であり、山岳の多い南部及び東部では牛が主である。
 牛 <略>
 馬 <略>
 驢 <略>
 騾 <略>
 緬羊 牧畜地帯が主産地で農耕地方は割合に少い。住民は冬は牛豚肉を用ひ、夏は羊肉 を愛用する。毛は粗毛で量も少い。満鐵の品種改良は良結果をあげてゐる。
 山羊 山岳地方に多いが、放牧地帯でも緬羊と混牧してゐる。肉・毛共に緬羊に劣るが、冬期に生ずる綿毛は羊毛に優り、天津に集るカシミヤウールといふのはこれである。
 豚 <略>
 毛皮獣 <略>
《南満州中等教育研究会》

 資料その14は「明治四十三年十二月奉天領事館新府分館調査の『南満州ニ於ケル家畜及屠獣ノ状況』」にある9つの地域の月別緬羊屠殺数をグラフにしたものです。明治39年から42年までと調査年が異なり、しかも新暦と旧暦と月の切り方も違うので、とても地域別の比較はできませんが、ただ夏に屠殺数のピークがあることは認めてもらえるでしょう。この傾向が昭和まで続き、新京から団体列車が公主嶺へ走り、酷暑でも石川さんたちはジンギスカンが食べられたのです。

資料その14







 このような食習慣の違いを指摘した邦文の報告を探そうとしているのですが、そもそもどういう方面を調べればよいのかわからん。畜産関係は、この通り満洲に絞った見方しかないようなのです。食膳の本では(3)の沢田報告と反対に羊肉は身体を温めるとしているから、この辺を調べたレポートを期待しましょう。
 ところが日中戦争が始まってから、日本人が大勢北京にきて時期に構わずジンギスカンを注文するので、夏も食べられるようなっていたというのだから、万里の長城の南と北の食習慣の違いの研究上弱るんだなあ。資料その15は石敢当(せきかんとう)こと満鉄職員だった石原秋朗が書いた随想「中華食味談」の一部です。
 石原は文人でね、満鉄から華北交通という中国北部の鉄道とバスを運営する子会社に出向して北京にも住みましたから、こうした事実を見聞したんですね。カオヤンロウにのカオに火偏に考えでなく、ただの考えを書いていますが、印刷所に活字がなかったので、やむを得ずこうしたのでしょう。京劇にも詳しかった石原さんが字を知らんわけはないのです。

資料その15

  羊の水たき

 北京では原則としていわゆるジンギスカンの「考羊肉(カオヤンロウ)」は秋口から冬の初めへかけてのものである。それはこの料理が焚火で煙るために野天で吹きさらしの中で食べるものだからで、室外の温度が零度以下になると手が凍えて、気分の上からも味覚にも影響を及ぼすという柔弱な北京人のゼイタクから来ている。もっとも日本人の豪快趣味からいうと、あの焚火とかわらぬ仕掛をとりまいて、しかも左手にはパイカル(白乾酒……焼酒)の杯を持つのだから、寒い方がはりあいがある。それに雪でもチラチラ降ってくればなおのこと気分が出るというのだが。それどころではないヤボな日本人がネコもシャクシもワンサと北京におしかけた敗戦前までは、時候はずれの夏でもこれを注文するので用意するようになった。
 それはとにかく、原則として冬になると考羊肉は停止し、それに代って室内で羊肉をたべるための「ショワンヤンロウ」が登場する。ショワンはサンズイに刷と書くが、要するに「水たき」あるいは「チリ」の要領である。<略>

 なんか、磯野さんの古き良き青春の思い出にあれこれケチをつけた格好になりましたが「わたしのかわらばん」が、満洲における日本人とジンギスカン料理の関係を示す貴重な証言であることには変わりないのです。これらの思い出を裏付けようと、新聞や本を読んだことから満鉄の行楽列車の運行、秩父宮歓迎大ジンパや大連などのジンギスカン事情が見えてきた。ジンパ学研究者として私は磯野さんがこういう満洲の記録を残してくれたことに感謝してるんですよ。本当に。
 いうなれば、道新のジンギスカン探偵団の記事が我がジンパ学のスタートボタンであり「かわらばん」はアクセルになったんです。駒井徳三さんが公主嶺の平原に目をつけ、そこに北大OBが大勢きて緬羊の品種改良に当たり、たれに使う蝦油はとっくに北大滿蒙研究會が調べていたという点でも、北大とジンギスカン料理との長い関係がわかったでしょう。次回は満鉄が長く本社を置いた大連と旧満洲国の首都、新京でジンギスカン料理の普及などについて考察します。終わります。
 (文献によるジンギスカン料理関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、正当な権利者のお申し出がある場合やお気付きの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)
  

参考文献
上記資料その12の出典は養賢堂編「畜産の研究」57巻10号95ページ、高石啓一「羊肉料理『成吉思汗』の正体を探る」より、平成15年10月、養賢堂=原本、 (82)は南満州鉄道株式会社編「昭和9年9月1日現在 南満州鉄道株式会社職員録」242ページ、昭和9年12月、南満州鉄道株式会社総務部人事課=近デジ本、 (83)は昭和5年9月23日付大連新聞朝刊5面=マイクロフィルム、 (84)は南満州鉄道株式会社編「南満州鉄道株式会社社報」7008号5ページ、昭和5年8月20日発行、南満州鉄道株式会社=マイクロフィルム、 (85)は秩父宮家著「雍仁親王実紀」584ページ、昭和47年11月、吉川弘文館=原本、 (86)は南満州鉄道株式会社編「昭和12年9月1日現在 南満州鉄道株式会社職員録」403ページ、昭和12年12月、南満州鉄道株式会社総裁室人事課=近デジ本、 (87)は昭和6年9月5日付大連新聞朝刊5面=マイクロフィルム、 (88)は満蒙研究資料第25号、井口賢三著「満洲国に於ける畜牛と緬羊(札幌農林学会での講演要旨)」14ページ、昭和12年10月、北海道帝國大學滿蒙研究會=近デジ本、 (89)と(90)は昭和7年9月19日付大連新聞朝刊2面=マイクロフィルム、 (91)は南満州中等教育研究会編「新撰満洲事情」1ページ、昭和12年3月、三省堂=原本、 (92)は藤江在史著「ことばから見た中国 ―不同風―」399ページ、昭和46年10月、自治日報社=原本、 資料その13(1)は公主嶺農事試験場編「農事試験場彙報」13号64ページ、香村岱二「南満州ノ牧羊」より、大正11年4月、南満州鉄道株式会社公主嶺農事試験場=原本、) 同(2)は南満州鉄道株式会社地方部農務課編「緬羊の飼ひ方」108ページ、昭和8年1月、南満州鉄道株式会社地方部農務課=原本、 凡例に「本書編纂者は課員松本福次郎である。」とある。 同(3)沢田壮吉著「満蒙畜産要論」8版96ページ、昭和18年6月、満蒙学校出版部=原本、初版は昭和8年11月、 同(4)南満州中等教育研究会編「新撰満洲事情」119ページ、昭和12年3月、三省堂=原本、 資料その14は農商務省農務局編「本邦都市ニ於ケル牛肉ノ需用ト供給」の参考「南満州ニ於ケル家畜及屠獣ノ状況」(奉天領事館新民府分館調査)25ページ、明治45年2月、農商務省=原本、 資料その15は甘辛社編「あまカラ」82号26ページ、石敢当「中華食味談〔続〕」より、昭和33年6月、甘辛社=原本、