憧れの夏川静江を自宅ジンパに招いた男

 こんにちは、ふっふっふ。文学部のある先生から授業を始めるとき、こんにちはといってから始めると伺ったので、いま試してみたんですが、変でもないか。今回は満州国の首都・新京でジンギスカン料理が普及する以前から、大連の日本人たちはジンギスカンを好んで食べていたことを取り上げます。それで往年の美女、夏川静江という大スターが昭和6年、私が生まれる2年前だが、芝居に出演するため関東州は大連に行き、岡部平太という満鉄社員の家に招かれて、初めてジンギスカンを味わったのです。里見クと志賀直哉が北京・正陽楼でジンギスカンを食べた翌年のことで、夏川は「私のスタジヂオ生活」という本に短いけど、その思い出をちゃんと「成吉思汗料理」という題で書いたのです。はい、きょうの資料を配ります。1部取って後ろへね。よろしいかな。
 では始めます。資料その1(1)は夏川の大連訪問の経緯の説明です。これでははっきりわかりませんが、夏川が大連に行ったのは満洲日報という大連の新聞社主催の映画週間の第一弾である「村田實と夏川静江の夕」のプログラムの芝居に出演するためでした。同(2)は「成吉思汗料理」という題の通り、岡部氏宅の庭に出て食べたときの情景と感想です。夏川はジンギスカンを食べただけでなく、この次の章に書いてあるのですが「太陽の光の下に星ケ浦を見たかったから」と、そのまま夏川は岡部氏宅に泊まったのです。ジンギスカンよりそっちの方が気になるですよね。

資料その1

(1)  出発

 大連を志して、姉と二人で京都駅を出発しましたのは、愈々明日が昭和六年の元日を迎へようといふ大晦日の朝でした。経路は下関から関釜連絡船で朝鮮へ渡り、朝鮮、南満の鉄道を経由する事にしました。
 京都から大連まで一氣に旅を続ける事は、旅馴れない姉には勿論、旅馴れた私にとつても、考へただけでもうんざりしますので、朝鮮の京城に叔父が住んでゐるのを幸ひ、此処で下車、一日の休養をとる事にしました。さうして、一日遅れて京都を出発する一行に加わる予定にしました。
 大連では、御挨拶代りに、私が一幕物の芝居を上演する事になつて居りますので、其相手役として、舞台から映画入りをした金平軍之助、浅野信二郎の両氏、そのほか、演出者として村田實監督、マネージヤーとして高橋宣傳部長の都合四人が、あとから出発する一行でした。<略>


(2)  成吉思汗料理

 宴会の中で特に私の注意を惹いたのは、星ケ浦の岡部氏宅へ招かれた時、饗宴にあづかつた成吉思汗料理でした。これは其昔、成吉思汗が遠征の陣営中で始めたのが、原だと云ふ事であります。それは、厳寒の夜、上部一面に鉄弓が引渡された長方形の大きな竈を庭上に築き、其の中で盛んに薪を燃やし、客は竈の周囲に防寒外套に身を堅めて座し、薄く切つた羊の肉を、各自勝手に鉄弓の上で炙りつゝ食するのであります。炎々と燃え上る焚火、それを囲む防寒外套のいでたち、成吉思汗が白雪降り積む荒野の暗をてらして、陣営中に戦勝の祝宴を張つた昔が偲ばれて、豪快此上もない情景です。薄く切られた羊の肉を火に翳して、じり/\と反返るところを醤油(したじ)に浸し食する時は、又此上もない珍味です。豪快な情趣と、美味は、食通の必ず一度は味はゝなくてはならないものゝ一つではないでせうか?

 女優がジンギスカンを食べて、この上ない珍味と感心したことよりも、ジンパ学としては岡部氏宅の庭に「鉄弓が引渡された長方形の大きな竈」があったという証言の方が重要、これを見落としては研究者落第です。満鉄総裁中村是公さんが大正2年に北京で食べて大連でも流行らせようと大ジンパをやってから17年、大連の日本人社会ではある程度は知られていたらしいが、日本人の家庭がだ、バーベキューをやるアメリカの家庭みたいに庭に竈を作ってジンギスカンを食べさせるまでに普及していたとは驚きです。私はね、いきなりこの本の「成吉思汗料理」を読んだものだから、大スターを泊められるような邸宅に住む岡部なる人物は相当のブルジョワだろうと想像した。
 それで「私のスタシヂオ生活」に資料その1(1)のほかに、岡部という名前がないかと読み返したら2カ所にありました。1つ目は大連に住む岡部がわざわざ汽車に乗って奉天まで行き、夏川姉妹を出迎えたくだり、もう1つは歓迎ジンパの後「岡部氏宅に一夜を明した」でした。
 夏川によると「安東駅からの列車は奉天を通過し、それより一駅先の柳條溝に至り、其處より大連行きの列車に乗換へ、再び奉天を通過して大連に向ふ事になつてゐます。(1)」と書いてますが、安奉線にも大連と新京を結ぶ連京線にも柳條溝という駅はないんですなあ。昭和4年の「南満洲鉄道旅行案内」は安奉線の列車に乗るなら「長春方面からの旅客は奉天で乗換へるがよい。大連方面のからの旅客は蘇家屯で乗換へるがよい。又安東方面のから北上の旅客は蘇家屯又は奉天で長春行き、大連行きに乗換へるがよい。(2)」と勧めているので、夏川はこの蘇家屯での乗り換えをせず、奉天まで直行して、長春つまり新京から来る大連行きの列車に乗り、柳條溝と誤認した蘇家屯を通過したと思われます。
 ともあれ「二十六分後にやつて來る列車を、奉天で下車して待つ事にして、其の僅かな数分間を奉天見物にあてました。東道の役は、大連より態々出迎へに來られた、満鐵の岡部氏です。(3)」とあります。東道とは案内役のことです。岡部氏は会社の社長なんかではなくて、意外にも満鉄の社員だったのです。となれば汽車はタダか社員割引で乗れるにしても、夏川の大ファンでなきゃわざわざ大連から奉天まで出向きませんよ。その岡部さん、憧れの美女をハイヤーに乗せて、ちょっと間でもここが奉天日活ですなんて、奉天を案内できたし、大連までの5時間は過ごせたたのですから、さぞ嬉しかったことでありましょう。着いたら歓迎攻めで食事どころでないでしょうと食堂車にもご案内したかも知れません。なぜ5時間か。当時は特急「あじあ」はなく、せいぜい急行であり、昭和15年の急行「はと」でも奉天から大連まで5時間たっぷり(4)かかったからです。
 資料その2は「私のスタシヂオ生活」にある夏川の写真です。左の男性は残念ながら岡部さんじゃなくて俳優の片岡知恵蔵。私が中学生のころの映画「七つの顔の男」で変装のうまい探偵なんかやってましたね。この人の息子の一人が日航の植木義晴社長です。岡部さんはこんな風に夏川に付き添ったかも知れません。

資料その2

    

  

参考文献
上記資料その1(1)の出典は夏川静江著「私のスタヂオ生活」4巻2ページ、昭和8年5月、佐々木静江=館内限定近デジ本、 同(2)は同13ページ、同、 (1)と(3)は同10ページ、同、 資料その2は同ページ番号なし、同、 (2)は南満洲鉄道株式会社編「南満洲鉄道旅行案内」141ページ、昭和4年12月、南満州鉄道株式会社=近デジ本、 (4)は日本鉄道旅行地図編集部編「満洲朝鮮復刻時刻表」17ページ、平成21年11月、新潮社=原本、底本はジャパンツーリストビューロー満州支部編「満洲支那汽車時間表11巻8号、昭和15年8月、ジャパンツーリストビューロー満州支部

 いまならケータイやメールで簡単に仕事の打ち合わせができるけど、昭和5年では電報か手紙しか使えなかったから、かなり前から始めなければならなかったのです。満洲日報の紙面を見ていくと、11月1日夕刊に第1回満洲映画週間を明春1月大連で開催するという社告を出しています。この映画週間で@映画展覧会A内外各社作品競映大会B全満映画連盟発会式C各種映画の夕を1週間開催D小型映画撮影競技会(5)―などをやるというのです。
 12月16日になって「初春壁頭の/大連映画界を飾る/本社主催の「映画週間」/見よこの堂々たる陣立」という見出しをつけ「愛読者奉仕のため正月中旬を期して『第一回映画週間』を開催、新春映画の最優秀篇を上映すると共に映画に関する綜合的展覧会を開催して愛読者各位に見ゆる計画を樹てこれが準備のため夜を日に次いで多忙を極めてゐる」と内容を解説しています。それには「『各種映画の夕』の催しには特に本邦におけるシネマ界のスター俳優を招聘して「映画俳優実演の夕」を開催する(6)」とあるが、誰とは書いていないのは、まだ交渉していなかったからでしょう。
 12月19日に初めて夏川が大連に来るという記事が満洲日報と大連新聞に載ります。それが資料その3(1)と(2)ですが、とくに満洲日報は大連の映画演劇界のゴシップを書くコラム「噂話」に資料その3(3)のように岡部さんを茶化している。この映画芸能の「噂話」を書く担当記者にまで知られた熱烈な夏川ファンだったのですね。当然のことながら岡部は村田・夏川両氏歓迎会を立ち上げ、夏川との打ち合わせはおれに委せろと引き受けて、京城からはこの列車に乗り奉天で下りれば、発起人代表の私が待っていて大連までご案内しますと出向いたと思われます。
 この後、村田實監督の参加が確定するのですが、講演だけでなく広津和郎作の「勝者敗者」の敗者役を演じることも決まり、それを知らせる電報が「ムラタカントクハイシヤヲスル」で「村田監督は医者をする」と読んで一同首をかたむけたが「村田監督敗者をする」と判明して大笑い(7)と、また「噂話」のネタになったのです。

資料その3

(1)
 來連決定の
  夏川静江
   一行男女優六名と
    正月四日に

目下内地出張中の大日活館主長次
郎吉氏よりの特電によれば大日活
の正月興行を飾るべく來連を噂さ
れてゐた日活現代劇部女優スター
夏川静江嬢一行六名は愈々新春元
旦にはるぴん丸で神戸を出帆し四
日に來連することに決定したと一
行六名の顔触れは未定であるが來
連の暁は大日活ステーヂに於て舞
台挨拶及び寸劇でさぞ映画通の人
気を沸騰せしむることであらう
(写真は「この太陽」の暁子に扮
した夏川静江のプロフイル)
(昭和5年12月19日付大連新聞)

(2)
 日活の名花
  夏川静江
   來連に決定

かねて噂されてゐた日活の大スタ
ー夏川静江の來連は、いよ/\決
定し、明春一月元日京都出発、一
行は夏川祖六名計七名にて陸路來
連する事になつた由、京都本社よ
り大連日活に入電あつた
(昭和5年12月19日付満洲日報)


(3)
 [噂話]
      問題の夏川静江がい
      よ/\來連すること
に決定して、一般フアンの喜びも
大きいが、中で最も喜ぶのは岡部
平太さんだらうとの噂▲大日活で
かねて宣伝中の「ボージエスト」
は中止になり、其の代り鳥羽陽之
助の「あゝ無情」が上映されるこ
となつた▲<略>
(昭和5年12月19日付満洲日報)

 「村田實と夏川静江の夕」を主催した満洲日報は、連日のように村田と夏川の記事を熱狂的に掲載しました。12月30日朝刊にも夏川一行は堂々たる舞台をみせようと張り切っていると書いていますが、資料その4(1)は昭和6年の元旦号に合わせた記事です。(2)は満洲日報の記者が大連から奉天に向かって5つ目の金州駅まで行き、夏川たち一行の列車に乗り込み、大連に着くまでの間に聞いた談話です。夏川のいうバンプとはロックバンドなんかではなく、あやしい美しさで人を迷わす女、妖女(8)を指しており、バンパイアの略です。資料その2の顔立ちからして夏川は朗らかな美女のようで、とても怪しい美しさじゃないですよね。当然岡部さんはそばにいて、このインタビューに立ち会い、夏川の話に耳を傾けたでしょう。村田監督の話は映画論なので割愛しました。同(3)は満洲日報のように箱乗りはせず、大連駅頭で待ち構えた大連新聞の記事です。(4)は「噂話」という芸能欄の記事、これも奉天見物を取り上げます。

資料その4

(1)
 新春劈頭を飾る
  映画週間の第一聲
   果然、白熱的人気で期待される
    本社主催 村田實と夏川静江の夕

新春劈頭を飾る本社主催の映画週
間の第一声として来る六日午後七
時から満鐵協和会館に於て「村田
實と夏川静江の夕」開催を発表す
るや果然人気は沸騰し白熱的期待
を以て迎へられてゐる
  當夜    の催しは既報の
如く「村田實と夏川静江の夕」を
意義あらしめるため村田實氏を講
演壇上に迎へ日本映画界の第一人
者が蘊蓄を傾けた「映画国策」と
題する講演及び氏の映画上の効績
を示す日本映画中の最大傑作品で
ある日活現代劇部特作品夏川静江
主演「灰燼」を上映し、更に夏川
静江は日活現代劇部新進俳優浅野
信次郎、金平軍之助と共に大日活
で上演する広津和郎作「勝者敗者」
以外に花形劇曲家岸田国士作「紙
風船」一幕を特に映画週間のため
に上演することに決定し愈々
  興味    つきぬ「村田實
と夏川静江の夕」となり当夜の盛
況が予想されてゐる、会費は一円
で六日朝から大連満鐵社員倶楽部
事務所で満鉄社員は後払取扱で前
売と共に座席券を交換するから満
員にならぬうちに求められたい
(昭和6年1月1日付満洲日報)


(2)
 村田、夏川静江一行
  ゆふべ無事大連着
   駅頭、押し寄せたフアンで混雑
    こも/\゛車中で語る

本社主催の「村田実と夏川静江の
夕」に出演する村田実氏、夏川静
江嬢、浅野信次郎氏、金平軍之助
氏の一行は夏川さんの姉さん、高
橋日活会社宣伝部長等とともに三
日夜二十時着の列車で來連した、
一行は駅頭に押し寄せたフアンの
波を掻き分けながら大日活の人々
に護られて漸く自動車にたどりつ
き遼東ホテルに入つたが、小憩の
暇もなく直に仕度にかゝつて午後
十一時すぎから大日活で「勝者敗
者」の最後の本稽古を行ひ漸く午
前2時ごろホテルに長途の疲れを
休めた、一行を金州まで出迎へた
記者に夏川静江嬢は語る

  長い/\   熱望がやつ
とかなつてこんな嬉しいことは
ありません、全く大連は始めて
なんです、皆さんの御期待にそ
むかぬやう一生懸命に演りたい
と心に誓つてゐます、私の初舞
台は七歳の時でそれから日活に
入るまで続けてゐましたが何分
学校に通つてゐました関係であ
まり舞台の数は多くはありませ
ん、私としましては舞台ではバ
ンプ物がやはり好いし、またや
りたいとも思つてゐますが、映
画の方ではあきらめてゐます、
なぜつて、スクリーンに現はれ
るパンブは表情とか態度とか言
つたものだけでなく顔も非常に
美しい人で身体そののも
 バンプ型  でなければ
いけないからなんです、そうで
すね映画では今までのやうな可
憐な繊細い女性でなく、もつと
明るいもつと快活な女性が演り
たいと思つてゐます、これまで
の自分のもので好きになれるも
のとしましては「蒼白き薔薇」な
どがその一つでせうか、えゝ全
く私達のやうな道を歩いてゐる
ものには愉快な反面に色々の苦
しいこと淋しいことが数沢山に
御座います、自分はこれは自信
があると思つた自分の演技が一
般の人々から非情に不評判であ
つたやうな場合はまだしもです
が、自分に全く自信のなかつた
ものが一般のフアンの方から非
情に歓迎されてドシ/\
  お賞めの   手紙を頂い
た時などはどう申しませうか全
くままらない気持がいたします
講演の外に「紙風船」にも出演し
て夏川嬢とともに妙技を揮ふ村田
實氏は語る<略>
(昭和6年1月4日付満洲日報)


(3)
 旅の疲れも見せぬ
  夏川静江一行
   白熱的歓呼の声に迎へられ
    三日夜鉄路來連す

夏川静江、村田実一行は予定通り
昨夜八時大連着の列車で來連した
夏川党の映画フアンで駅頭は時な
らぬ花が咲き、当代随一の人気俳
優たることを裏書して居た、スマ
ートな洋装、長い旅の疲れも見せ
ず朗かに健在の姿を駅頭に現はし
た、群衆の歓呼の中に一先づ遼東
ホテルに落着き大日活の夜間ばれ
と共に村田実氏舞台監督の下に広
津和郎作『勝者敗者』一幕の本稽
古を深更二時まで行つた尚この
一幕ものに出演する日活の俳優連
は金平軍之助、浅野信次郎の二氏
である
(昭和6年1月4日付大連新聞)


(4)
[噂話]
      夏川静江がプラツト
      フオームにおりた瞬
間、出迎えの女性フアンが▲「ア
ラ写真によく似てゐるわ嬉しい」
と傑作を飛ばしたので大笑ひ▲ま
た一行に村田監督と高橋梧郎サン
が加につてゐるので俄然車中から
大賑はひで▲梧郎サンはこの前に
梅村陽子と来た時の知人に奉天か
ら會ひ通しで▲警乗の警官まで顔
を知つてゐたといふ程の満洲通に
なつてゐる▲奉天ではスピード時
代を実演してタツタ十分間で一行
は自動車の上から奉天見物▲そう
かと思へば一行より先に東京にあ
る小杉勇と如月敏氏から「熱演に
接したし」「御成功を祈る」の電報
(昭和6年1月4日付満洲日報)

  

参考文献
上記(5)の出典は昭和5年11月1日付満洲日報夕刊2面=マイクロフィルム、 (6)は同、同、 (7)は同年12月21日付同夕刊3面、同、 資料その3(1)は昭和5年12月19日付大連新聞夕刊4面=マイクロフィルム、 同(2)は同年同月同日付満洲日報夕刊3面、同、 同(3)は同、同、 資料その4(1)は昭和6年1月1日付満洲日報朝刊7面=マイクロフィルム、 同(2)は同年同月4日付同夕刊2面、同、 同(3)は同年同日付大連新聞夕刊3面、同、 同(4)は同年同月同日付満洲日報同、同、 (8)は時枝誠記・吉田精一編「角川国語中辞典」223版1055ページ、昭和54年1月、角川書店=原本、

 岡部ら夏川ファンは熱烈歓迎で、早くから歓迎会を開こうと準備していたようで、早速大連で発行されていた満洲日報と大連新聞に広告を出す一方、記者にも歓迎会を開くと知らせたらしい。資料その5(1)は夏川らの大連到着の2日前、満洲日報に出した広告。同(2)は満洲日報、同(3)は大連新聞のいわゆる3面に載った記事です。夏川がジンギスカンを食べたのは、この歓迎会でなく翌6日夜に岡部が自宅で個人的に開いたジンパの席でした。
 ところが夏川は「私のスタヂオ生活」に(4)のように書いていた。胃の具合が悪いのと旅行と芝居の疲れが重なり、まともな食事ができなかったというから、顔で笑って心で泣いてと演歌そのもの、人気スターもまた辛いかな。資料その1(2)をもう一度見なさい。岡部さん宅のジンギスカンのしたじは醤油だけの味ではなかったとか、七味が入っていたとか具体的に書いていないのは、夏川が何切れも食べなかったせいでしょう。

資料その5

(1)
 村田實
 夏川静江 歓迎會

偉大なる映画界の第一人者、一九三一年の映画界に飛躍すべき
   吾等の両氏を迎へて其の労と激励と
   の意義ある歓迎會を開催します、同
   好の方は何卒至急申込まれたし
     會場 春日町鶴屋
     會費 五円
     日時 一月五日午後四時
     申込 大日活歓迎事務所電(二)〇八番
     発起人
     芥川光蔵  松田弥三郎
     岡部平太  西村文之助
     山口源治  横沢宏
     工藤與吉 (順序不同)
(昭和6年1月2日付満洲日報)


(2)
 村田氏歓迎會
     五日つるやで

三日夜來連する日活監督村田實氏
および夏川静江一行のため芥川光
蔵、岡部平太、松田弥三郎、西村
文之助、山口源二、横沢宏、工藤
與吉の七氏の発起で五日午後四時
から春日町つるやに於て歓迎會を
開くが、出席希望者は大日活事務
所へ申込み会費五円は当日持参さ
れたしと
(昭和6年1月2日付満洲日報)


(3)
 夏川静江歓迎
  座談会
   五日午後四時より
    つるやにて

来る三日夜鉄路來連すべき日活現
代劇女優花形夏川静江嬢、同監督
村田実一行の歓迎宴を兼座談会を
開催すべく芥川、岡部(満鉄)山
口、工藤(満日)松田、西村(大
連)横沢(満商)の諸氏が計画中で
あつたが愈々来る五日午後四時よ
り市内春日町つるやに於いて開催
されることに決定した、会費五円
参会希望者は磐城町の大日活事務
所宛申込まれたいと
(昭和6年1月2日付大連新聞)


(4)
     大連着

 多数の方々の歓迎裡に大連駅に着いたのは、京都を出発してから、二日目の午後八時十分。
 ホテルヘ落ちつく暇も無く、直ちに日活館へ赴き、明日上演すべき「勝者敗者」「紙風船」の舞台稽古に掛りました。尤も「紙風船」は、「勝者敗者」を日活館で昼夜二回上演する合間に、只一日だけ満鐵の協和会館で上演するもので、相手役は特に村田監督が買つて出て呉れました。稽古は夜中の二時頃迄かゝりましたので、長途の旅の疲れの上に胃腸を害ねた身には、大変辛いと思ひました。
 幸ひ此の辛苦も酬ひられ、翌日の公演は大入満員の大成功裡に終りました。終演後、満鐵、新聞社、映画關係の方達によつて、私達の歓迎會がある支那料理亭に於て催されましたが、折角の珍味も見るだけで味へなかつたのは残念でした。
 明る日も、その明る日も公演は満員でしたが、私の胃膓は依然として癒りません。注射で痛みだけは止りましたが、牛乳とパンだけのお腹で、台詞を云ふのは樂ではありませんでした。芝居がはねるのを待ち兼ねて、宴會が、舞踊會が、私を待つてゐるので、ホテルの私の寝室はいつも主人の私に嫌はれた様に、夜遅くまで淋しく待つてゐなければなりませんでした。そのくせ主人の私は宴會よりも舞踊會よりも、寝室の独り寝がどんなに望ましかつたか知れなかつたのだけれど…………


(5)
[噂話]
      今年の正月興行は各
      館の偵察戦が念入り
に行はれた為めに六館全部の入場
料がちがつた▲こんなところにも
愈々深刻な競争が開始され今年は
夏に火花を散らしそうである▲村
田監督の歓迎会が四日夜は登◆閣
で弘報係主催で開かれ▲昨夜はつ
る家で映画関係者の発起で盛大に
催されたが▲その席上で夏川静江
が素晴らしい上手な挨拶をしたの
で舞台でも挨拶をさせたいと映画
党が騒ぎ出す▲パテー・ベビーか
ら昨朝モートカメラを贈つたが、
持つて行つたのが森、下山、倉田
の三君▲早速それをカメラに納め
て大喜びで夏川静江からに三人組
/\と言はれて実にいゝ気になつ
てゐる
(昭和6年1月6日付満洲日報)

 次は資料その6です。満洲日報と大連新聞は岡部さんが夏川歓迎会を開いたことも漏らさず書いたのはいいが、その場所が違う。同(1)のように満洲日報は「昨夜半十二時から星ケ浦で開催された」なのに対して大連新聞は「十二時半頃から岡部平太氏の招待で水明荘へ出かけて」です。満洲日報は成吉思汗とまとも書けず2カ所とも思吉成汗と書くぐらいだから、こっちは間違いだろうと思っていたのです。
 ところが井沢宣子著「麗しき大連」に「以前の星ヶ浦は、海水浴場や遊園地、また外国人の避暑地であったため、夏の賑わいが過ぎると急に閑散となる土地柄で、ホテルや旅館、売店、公園など、閉じられた寂しい場所であった。しかし、昭和になって人口が増え、水明荘・黒石礁方面に電車が延びると、よりよい環境を求めた人たちの住宅が建設されるようになり、それらは別荘地にふさわしい瀟洒な住宅地として発展していった。(9)」とあるから、どうも星ケ浦と水明荘は近いらしい。
 何かいい地図はないかと考えていて、私は同級生A子さんからもらった星ケ浦ヤマトホテルのパンフレットを思い出したのです。彼女の実家は札幌市内の高級住宅街にあり、戦後進駐軍に宿舎として接収され、何年か借家住まいを余儀なくされたぐらいの洋式邸宅だった。ご両親が亡くなり、住む人がいないので処分した際、私はジンパ学研究に役立ちそうな古い雑誌附録やパンフレットなどを頂戴した。直熱型真空管といってわかるかな、古い真空管4本を使ったちゃんと聞こえるラジオもあってね。それはいま某レトロスペースに納まってます。
 それが資料その6(3)です。両面カラーで同(4)で示した電車系統図入りの大連市街略図があり、水明荘は6番系統の電車で行けるとわかる。これなら井沢さんの記述とも合うから、岡部さん宅は水明荘にあったらしいと理解したのです。縦36センチ、幅47.5センチの上質紙を縦に2つ折りにして、その横長になったものを3つ折りに畳んであります。星ケ浦名所の説明に昭和7年度から開院した南満州保養院(10)について「小平島には今年五月工費六十五万円を以て満鐵により建てられたる南満州保養院」云々とありますから昭和7年中に発行されたものですね。
(南満州鉄道株式会社地方部編「昭和七年度地方経営梗概」127ページ、昭和8年12月、南満州鉄道株式会社地方部庶務課=近デジ本、)
 その後、岡部さんの本を調べていて、彼が大正14年に書いた「世界の運動界」の序に「1925年秋 星が浦水明荘にて/著者 (10)」、本文の最後に「水明荘の書斎にて 1924年10月25日(終)(11)」とあるのを見て、いうなれば大字星ケ浦字水明荘だったかと納得しました。ふっふっふ。

資料その6

(1)
[噂話]
      ゆうべの協和会館の
      「村田實と夏川静江
の夕」は予定通り運んだが▲最後
の「勝者敗者」になつて蓄音機に
故障があることを発見し▲そのた
めに予定より四十分ほど閉会がお
くれたことは誠に申訳がなかつた
と係員一同大いに恐縮してゐる▲
映画「灰燼」は矢張り村田監督の
傑作だと今更らしく映画雀が感心
してゐたが▲どんなに映写機が重
大な影響をするかといふことが協
和会館のペヤレスではつきりと示
された▲その筈で浪速館時代に交
流のアーバンで封切されたのであ
る▲ところで世にも物凄い夏川静
江歓迎会が昨夜半十二時から星ケ
浦で開催された▲思吉成汗鍋は美
味かつたが寒くて震ひ上り思吉成
汗はもつと強かつた筈だと大笑ひ
(昭和6年1月8日付満洲日報)


(2)
[ジャズ]
      人気のクライマツ
      クスに達した夏川
      静江はあつちから
      もこつちからも引
      つ張り凧になつて
      ゐるが
        ◇
      六日は四回も実演
させられた上に夜十一時頃から
長氏の招待で三田尻に、十二時
半頃から岡部平太氏の招待で水
明荘へ出かけてスポーツ界及び
芸術界方面の人々とジンギスカ
ン鍋で舌鼓を打ち満蒙風俗に始

   ◇
  <略>
   ◇
協和会館の「村田実と夏川静江
の夕」に憲兵が監視のため姿を
現はしたが「流石に満洲らしい
ワ」と夏川が感心したか?否?
(昭和6年1月8日付大連新聞)


(3)
  


(4)
 

 夏川は1月6日の夜は岡部さん宅に泊まりました。ジンパの始まりが遅かったこともあったようですが「星ケ浦は大連の郊外、自動車で三十分ばかりの所です。いかに星ケ浦とは云へ、星あかりでは星ケ浦の全貌をうかゞふ事は出來ません。岡部氏宅に一夜を明したのも、太陽の光の下に星ケ浦を見たかつたからです。<略>(12)」と書いています。
 翌7日は大連での實演の後、旅順に行き満洲人経営の映画館で挨拶して旅順で1泊。8日は大連の関係先を回りお別れの挨拶という日程でした。資料その7はそれらの記事です。(2)はどこの会社と書いていないけど満鐵本社ですね。満鐵は早くから社内文書で使える漢字を決めて和文タイピストを多用し、事務の能率を上げるよう図っていましたからね。人気を煽る記事で我等が恋人などと書かれる超人気スターだったから、若き女性たちが夏川のコンパクトの持ち方などに注目したんですね。
 同(3)は大連新聞の芸能コラムで「特別出演したといふ噂さがある」としていますが、夏川は満洲人経営の映画館にも行き、挨拶したと「私のスタヂオ生活」に書いているから、噂ではなく本当のことだったのです。こうした夏川一行は9日に大連を去ったのですが、この帰りは海が荒れてえらい目にあったことも書いてあります。

資料その7

(1)
夏川静江日程
    村田氏離連

夏川静江一行の男女優三名は七日
夜磐城町の大日活及び沙河口の第
二日活の実演及び挨拶をすませた
上で旅順に赴き昭和園を演了後同
地で一泊し、八日午前中に戦蹟を
見学して午後二時頃帰連し愈々最
終日の舞台に立ち九日出帆の定期
船で離連する予定であると尚同一
行と共に來連中であつた村田実監
督は撮影の都合上七日朝大連発の
急行で帰洛の途に就いた
(昭和6年1月8日付大連新聞)


(2)
[無軌道]
  <略>    ◇
暇乞ひに弘報係を訪れた夏川静
江を発見したタイピストの連中
怒濤のやうに殺到し、静江がコ
ンパクトを使へば、娘子軍も真
似してぱた/\塗料工事を一斉
に始める騒ぎに天下のスターも
完全に降参。
   ◇
<略>
(昭和6年1月9日付満洲日報)


(3)
[ジャズ]
      我等の恋人夏川静
      江一行が今朝出帆
      のうらる丸で帰洛
      の途に就いたと思
      ふ間もなく明朝入
      港のほんこん丸で
      嵐寛寿郎一行が來
      連する
   ◇
  <略>
   ◇
夏川静江が日活大連主張所主任
伊藤義氏の顔を立てゝ七日に支
那劇場の世界大戯院に特別出演
したといふ噂さがある蓋し日活
映画の支那側進出の前提
(昭和6年1月10日付大連新聞)


(4)
     支那の私のフアン

 旅順に行つたついでに、支那人経営の常設館へ臨時の御挨拶を依頼されました。日支親善の為ともちかけられては、断る事も出来ず、快く承諾しました。丁度その日は私の「漕艇王」を上映してゐました。お客は勿論支那の人ばかり、私の挨拶の言葉は金と云ふ支那の青年が通訳して呉れました。客席からは造花の花弁をバラ /\投げかける、可愛らしい娘さんが造花の花束を、舞台で渡して呉れる。大変な歓迎振りでした。<略>

  

参考文献
上記資料その5(1)の出典は昭和6年1月2日付満洲日報夕刊1面広告=マイクロフイルム、 同(2)は同夕刊3面、同、 同(3)は同年同月同日付大連新聞夕刊3面、同、 同(5)は同年同月6日付満洲日報夕刊3面、同、 同(4)は夏川静江著「私のスタヂオ生活」4巻11ページ、昭和8年5月、佐々木静江=館内限定近デジ本、 (12)は同14ページ、同、 (9)は(井沢宣子著「麗しき大連」105ページ、平成15年4月、文芸社*) (10)は岡部平太著「世界の運動界」3ページ、「序」より、大正14年12月、目黒書店=近デジ本、 (11)は同386ページ、「日本選手は果して将来、国際競技に勝ち得るか」より、同、 資料その6(1)は昭和6年1月8日付満洲日報夕刊3面=マイクロフイルム 同(2)は同年同月同日付大連新聞夕刊4面、同、 同(3)は満鉄星ケ浦ヤマトホテル編「満鉄星ケ浦ヤマトホテル案内」表紙、昭和*年、満鉄星ケ浦ヤマトホテル=原本、 同(4)は同中面の一部 資料その7(1)は昭和6年1月8日付大連新聞夕刊4面=マィクロフイルム、 同(2)は同年同月9日付満洲日報夕刊1面、同、 同(3)は同年同月10日付大連新聞夕刊4面、同、 同(4)は夏川静江著「私のスタヂオ生活」4巻15ページ、昭和8年5月、佐々木静江=館内限定近デジ本

 さて夏川静江の熱烈なファンだった岡部平太さんのことですが、いろいろ本を読んでみて、一言では言えないスケールの人物だったことがわかりました。田中館哲彦著「日本スポーツを救え ――野人岡部平太のたたかい――」の年譜によると、大正10年10月に満鐵入社(13)となっており、大正10年の満鐵社員録は8月1日現在なので載っていないけれど、この満鐵入社までだけでも、岡部の経歴はすごいのです。
 かいつまんでいうと、福岡県生まれで師範学校を出て久留米市の小学校の先生になるのですが、東京高等師範学校に進み(14)、運動神経に磨きが掛かり「柔道は始めて一年で四段に上り、テニスは学校時代大将、水泳、野球、フットボール、陸上、スケート、マラソンと何でもござれの万能選手(15)」となったのです。大正6年、講道館の嘉納治五郎と実業家内田信也の援助を得てアメリカに渡り、シカゴ大学でスタッグ教授についてアメリカンフットボール、バスケットボール、陸上競技などを学んだのです。岡部はペンシルバニア大やイリノイ大でも学び5年間留学して帰国、嘉納治五郎の命令で「内田が独力で寄附した新設の水戸高校に招かれて体育教師兼コーチに就任するが、在職四ヶ月にして失踪」して満洲に渡り、高師テニス部での親友四角氏のもとに現れた。岡部が飛び出した原因はスポーツは遊びと軽視する水戸高校の校長と意見が合わなかったため(16)と見られています。
 岡部さんは大正14年5月、第4回極東大会の陸上チーム総監督としてフィリピンのマニラに遠征したのですが、審判の判定問題で大会をボイコットした。日本体育協会は勝手な行為は許されないとチーム53人の帰国旅費を支給しなかった(17)ので、岡部さんは「私はすぐに大連の家族に電報を打って、新築したばかりの家を担保に、できるだけ多くの借金をして送金の用意をするように頼んだ。外にも知る限りの人に借金電報を打った。ただしこの電報料金だけで私が持っていた小遣いは全部終りになってしまった。(18)」。
 この記述と満洲の冬を考えると、岡部さんが家を建てたのは遅くても前年、大正13年秋ですね。煉瓦の炉はジンパ用というより、アメリカ式のバーベキュー・パーティーを想定して築いたかも知れませんが、夏川の手記のお陰でその存在を知ることができたわけです。
 満鉄の社員録をみるとね、大正12年版では岡部さんの席次は庶務部社会課の課長から数えて4番目(19)、同じく15年版では1つ上がって3番目(20)、年号が昭和に改まり昭和4年版も同じく社会課の2番目で視学委員兼任(21)になってます。昭和6年4月10日付の事務分掌内規の改正によって満鐵は指導員を置くことになり「体育指導員ヲ命ス」と発令され、昭和6年版では地方部学務課体育指導員で視学委員兼任(23)でした。トリビアルだが、山口昌男著「スポーツの帝国」では「四角氏は満鐵の副社長大藏公望及び学務部長に岡部の満鉄採用を依頼した。こうして一九二一年十月岡部は体育主任として満鉄に入社することになる(24)」とあります。岡部さんが周囲からそう呼ばれたかも知れないけど、体育主任という職名はなかったのです。
 川口仁著「岡部平太小伝 日本で最初のアメリカンフットボール紹介者」によると、岡部は大正12年に満鉄の留学生としてアメリカ、カナダからヨーロッパ6カ国のスポーツ事情を視察した。そのとき「アサヒスポーツ」という雑誌に各国の情勢を書き、その中でアメフトについて詳しく書き(24)、さらに「世界の運動界」にも各大学がアメフト勝利のために力を入れているかを書いた。それで岡部はアメフトを日本に紹介した最初の人とされているのです。
 岡部は大正11年に満洲体育協会を創設して理事長に就任。以後十一年間在職し、いろいろ満洲体育界で活躍したのですが、ある中国人の裏切りのため満鉄を去ることになったのです。資料その8がその事件を伝えた記事です。某方面は関東軍を指すのですが、下手な書き方をすると、お前も引っ張るぞと脅かされるから、こういう言い方をしたのですね。

資料その8

岡部平太氏<横見出し>
 近く満鐵解職か
  かんばしからぬ行為から
    疑惑をまねいて

        オール日本スポ
        ーツ界の権威者
        として知られて
居る満鉄地方部学務課体育係体育
指導員岡部平太氏は時局発生後奉
天馮庸大学長馮庸氏が一時某方面
に監禁されてゐたのを貰い下げ
  非公式  に氏の財産監理
任として世話してゐたが最近馮氏
が日本側の温情を無視し内地を経
て北京方面に逃走したので岡部氏
は某方面の疑惑を蒙り一般からも
その行為を指弾されてゐた然るに
氏は最近某方面の嘱託をも遂に解
嘱され近く帰連する筈にて地方部
では満鉄社員として日本国民とし
ても頗る芳しからぬ此の行為に深
く鑑みるところあり近く断乎たる
  處置に  出で解職に至る
ものと観測されてゐる氏は今日迄
屡々兎角の噂があり曩に山田行正
六段の退社に絡んでも種々なる噂
を流布されてゐるので満鉄として
は斯る人物をスポーツのリーダー
として置くことは体育上に於ける
精神的影響が大きいので止むなく
涙を振つて馬謖を斬るの断然たる
処置に出づるものとして注目され
てゐる尚ほ同氏は
  目下の  情勢から推察す
れば満鉄の処置を待たずして自ら
辞表を提出するに至るであらうと
見てゐる(写真は岡部氏)
(昭和6年11月25日付大連新聞)

  

参考文献
上記(13)の出典は(13)は田中舘哲彦著「日本スポーツを救え ――野人岡部平太のたたかい――」233ページ、昭和63年7月、平凡社=原本、 (14)は岩波書店編「へるめす」19号122ページ、山口昌男「スポーツの帝国(下) 岡部平太の満洲=vより、昭和64年5月、岩波書店=館内限定近デジ本、 (16)は同124ページ、同、 (15)は昭和30年10月3日付読売新聞夕刊2面「新・人物風土記」=ヨミダス歴史館、 (17)と(18)は岡部平太著「コーチ50年」244ページ、昭和35年6月、大修館=原本、   (19)は芳賀登ほか5人著「日本人物情報大系 満洲編7」16巻324ページ、 同395ページ、 同507ページ、 同571ページ、平成11年10月、皓星社=原本、) (20)は同395ページ、同、 (21)は同507ページ、同、 (22)は同571ページ、同、 (23)岩波書店編「へるめす」19号125ページ、山口昌男「スポーツの帝国(下) 岡部平太の満洲=vより、昭和64年5月、岩波書店=館内限定近デジ本、 (24)は川口仁著「岡部平太小伝 日本で最初のアメリカンフットボール紹介者」25ページ、平成16年8月、関西アメリカンフットボール協会フットボール史研究会=原本、 資料その8は昭和6年11月25日付大連新聞夕刊2面=マイクロフィルム

 岡部さんはムショ入りは免れたものの、スポーツ一筋で生きてきた人です。サラリーマンになるより、スポーツでもアメフトに近い仕事として靴屋を始めたという記事がありました。資料その9(1)ですが、やっぱり武家の商法、売った靴の代金の取り忘れたりして長くは続かなかった。
 同(2)は満洲のスポーツ界から岡部さんは姿を消したけれども健在で、今さっき言ったマニラ極東大会を巡る日本体協とのトラブルで疲れ切ったときの古い顔写真を何度も使うマスコミに腹を立てていると伝えた記事です。それでコラムの真ん中に實は岡部さんの顔写真が入っているのですが、いかんせん、マイクロフィルムではコントラストが悪くて真っ黒い円にしか見えないのでコピーはやめました。多分、刷りたての紙面では、このときの「所謂人相の好い」岡部さんの顔写真が見られたと思うんですがね。
 さらに浪人暮らしが続くのですが、「昭和11年(1936年)には満州事変にからんで樹立された冀東政府行政最高顧問に迎えられ,その翌年には北京国立師範大学教授に招聘,更に全中華民国体育協会の技術最高顧問にも就任。第二次対戦の終了直前まで中華民国青少年のスポーツ開発に挺身,戦乱を離れて中華民国の平和スポーツに尽力した(25)」のです。戦後は福岡に引き揚げてきて体育界再建に取りかかったのです。

資料その9

(1)
靴界の世界制覇を
目指す岡部さん

         ◇…スポーツ
         界一方の旗頭
         岡部平太氏が
         嘗てアメリカ
         留学時代の恩
師シカゴ太学の名コーチ、スタツ
グ氏の家業から思ひついて大連銀
座通りに靴屋開業の事は既に本欄
で紹介したがその店の屋號をなん
と『靴屋』とつけ、宣伝ビラには『靴
屋主人岡部平太謹白』とやつてゐ
るところなどあくまでも岡部式
◇…この店の看板は、日満両国の
学生々徒をもつとア式蹴球に理解
を持たせにやいかんといふ遠大な
抱負から出発して、特にア式蹴球
に適するやう作つた学生靴を満洲
国の建国にちなんで「建国靴」と名
づてゐる
◇…店の地下室を工場とし自ら職
工長で奥さんが販売部長といふ格
やがては紳士靴やダンス靴までも
作つて靴界の世界制覇を期すると
は、さすがに岡部式意気【写眞は
岡部氏】
(昭和8年2月9日付読売新聞)


(2)
[安楽椅子]

┏━━━━━━━┓ 岡部平太
┃ 安楽椅子の ┃君といへば
┃  カット  ┃人も知る如
┃       ┃く「人間タ
┃       ┃ンク」の典
┗━━━━━━━┛型のやうな
豪傑であるが、あれでなか/\
神経過敏と見えて近頃憂鬱なこ
とがある。
  ……◇……
 それば最近高女三年生までに
育て上げた愛嬢の急死に遭つた
ことにも因らうが、内地の新聞
雑誌がゴシツプ欄や寄稿に載せ
る同君の写真が孰れも廿年も昔
┏━━━━━━━┓マニラの極
┃       ┃東大会の紛
┃岡部氏の顔写真┃擾から帰つ
┃       ┃たときの憔
┗━━━━━━━┛悴した恰好
のものに限られてゐることだ。
  ……◇……
 「どうも俺を陰険な悪者のや
 うに見せるためにいつまでも
 あんな写真を使ふのであらう
 が、ご覧の通り近頃はそんな
 不景気面ぢやないんだぜ」
といふわけで、此頃も雑誌の
「日の出」の社長宛強硬な抗議
を提出したといふ。(写真は岡
部君の所謂人相の好い最近の風
貌)
(昭和10年10月25日付満洲日日新朝刊11面=マイクロフィルム、)

 昭和23年の第3回国民体育大会を福岡県に誘致することが決まったのですが、メインになる適当な競技場がなかったのです。それで福岡県体育協会理事長になっていた岡部さんは福岡市内の陸軍歩兵第24聯隊の兵営跡地で当時アメリカ軍に接収されていた場所をピースヒルと呼び、ピースヒルこそ主競技場を造る場所にふさわしいと接収解除の交渉(26)に乗り出したのです。5年もあちらに留学した人ですから、些か忘れたとしても米軍相手の話し合いには困らなかったと思いますが、持ち前の馬力でタックルを試みたの資料その10のように相手がちょっと悪かったようです。

資料その10

   平和台開放のいきさつ

 誘致は決定したがさて困ったのはやはり主競技場のことである。福岡市の近郊は隈なく探したが適当な場所はない。平和台の米軍占領は開放されないのみならず、当時なかなか大変なことだった。平和台という名前も福岡城趾二四連隊跡では工合が悪いので、勝手に私がピースヒル(平和台)という名前をつけて、それを米軍に押通したのである。  占領地域の物権はすべて米国軍政部でなく、第八軍戦闘部隊長ブランチャイズ代将の権限に属するのであった。ブランチャイズ代将は技術家出身でスポーツのことなどは全然わからず、私はまた土木は全くの素人で金は持たないし、相手には風来坊の利権屋とでも見えたらしく、初めから彼は私に対し悪意さえもっていたようだった。<略>
 するとどうした風の吹きまわしか、ブランチャイズ代将はこういった。「君は本当にやれるのか。」「もちろん」彼は壁のカレンダーをおろしてきて、「いつから工事を始めるか。」俄然交渉は急転回した。「ブルドーザーは貸してやる。一台でたりなければ二台、二台でたりなければ三台だって貸してやる。運転手も油もただでくれてやる。」「ただだぞ!」と声を強めながら日付を力レンダーに書き込んだ。それから約百八〇日間、秋の初めまでに大体の形をつけてくれた。平和台の四百メートルトラックに必要な土を一メートル掘り下げて、その土をスタンドに盛りあげる大作業だった。これは実にありがたいことだった。だが今もってブランチャイズのひょう変ぶりの真相が私には全然わからずにいる。
 もう一つとんでもない問題が付帯的に起った。それは準備進行中の今の野球場の位置に大蔵省が税務署を建てるといって、秘密に交渉して福岡市に押しつけ、市長がそれに妥協したという話が起った。私はこれでまたカンカンになって市長につめより東京に急行した。平生喧嘩ばかりやっていた体協理事長で弁護士の清瀬三郎君を誘い出して、初めから喧嘩腰で大蔵省に打突かっていった。大蔵省が頑張るなら国体取止めという清瀬君との約束だった。
 朝の九時に行って一〇時半頃まで待たされてイライラしているところに秘書長か誰かがやって来で、只今「将棋」をやっていますからとの挨拶である。私はカッとなって、「人を二時間も待たせて、朝っぱらから将棋とは何事か、将棋なら僕は大成会の二段だ。大臣でも局長でもここに連れて来い、稽古はいつでもつけてやる。」いい終る頃、清瀬君がニヤニヤしているから、「何だ」とたずねてみると「将棋が違う」とやはりニヤニヤしている。
 将棋―ショウギ―省議―なるはどそんな日本語もあるのかと中国に二〇数年いて日本の宮仕えなどしたことのない田舎ペイのあわれさをただただ恥じ入るばかりだった。しかしその日のうちに大蔵省は人を熊本と福岡に出して、税務署建設の場所は今の大濠公園の方に移され、今の平和台野球場の場所は見事に喰い止め得たのである。もっとも私の夢はあの場所は東洋一の国際サッカー場にすることだったことをここに白状しておく。

 つまり岡部さんはピースヒルこと平和台という名前の命名者でもあったのです。私は平和台とくれば球場、イコール西鉄ライオンズと連想しちゃいますね。ところが岡部さんは、病の床でもあの地はプロ野球のために残したものではない。いずれサッカーがスポーツの主流になる。東洋一のサッカー場にするのが夢だった(27)と資料その10にもある夢を語っていたそうです。なでしこジャパンだのサムライブルーなんて名前が通る今を見通していたとすれば、その先見の明たるや驚異ですよ。
 岡部さんはまた世話好きで道産子で三段跳び金メダリストの南部忠平さんを満鉄に就職させただけでなく、美人の嫁さんを世話しようしたそうです。資料その11は田中館氏の著書にある夏川を巡るエピソードです。静枝となってますが、夏川は後年芸名をそう変えたためで、ここでは枝が正しいのです。

資料その11

(1)
<略> 南部さん、遠い日の思い出をまさぐる眼差しになった。だから、織田さんの「南部君は女にひっばられていた」という話は真実じゃないと、断固、否定したわけである。
 「だけど、岡部さんの奥さんも美人だったなあ……。ええ、なんとかいう女優さんと似てたんだなあ……。あのころ有名だった……。そうそう、夏川静枝だ」
 ここで話は急転、南部さんの〃逆襲〃だ。
 「オレ、ケツひっばたかれたことあるよ。『先生、あの女優に惚れてたのかい?』って聞いたら、『この野郎ッ!』てバッサリ殴られたね」
 「大事にしてましたし、自慢だったですよ、奥さんのことは」(南部さん)
という岡部が美しい女優に惚れていたとは、穏やかならぬ色めいた話ではないか。<略>
 「私たちが参りましたらね、映画でもみられていてファンでいらして下さったようで御挨拶にお見えになられたんです。私、岡部さんのことはあまり存知あげていなくて……。はじめにお会いしたときは、お顔はきつそうですし、筋肉質の、こうがっしりされた方でしょう。ですから……。ところが心がとてもお優しくてびっくりしまして……。そして私たちをおもてなし下さったんです」
 美女と野獣――南部さんではないが、そんな言葉がふっと浮かんでくる。
 夏川さんの一行は大連・星ヶ浦の岡部家に招待された。
 「洋式二階建の、とても大きなお家でした。芝生のお庭もとても広くて…。そのころの日本じゃそんなに大きな家はなかったでしょ。だからよく覚えています」
 芝の庭では月を仰ぎ見ながら、「当時ではとても珍しい」羊のバーベキューの宴が催されたという。
「『大連をよく見ていらっしゃい』といわれて、市内をご一緒に連れて歩いていただいたりも致しました」
 交際はその後もずっとつづいた。岡部は手紙を出し、また、帰国の折には会ったりもした。京都・太秦の東映撮影所にも訪れた。時には南部さん、織田さんらとともに夏川さんを囲んでミ二・ゴルフも楽しんだ。
 果たして、岡部は夏川さんのどこに魅かれたのであろうか。その演技の世界か、それとも妻に似た風貌であったのだろうか。あるいは……。定かではない。岡部が幾度となくしたためた手紙にはどんなことが綴られていたのであろうか。「お手紙もよくいただいたのですが、東京空襲ですべて焼けてしまいまして……」(夏川さん)。今となっては岡部のその心情はつかみ得ない。
 夏川さんは言葉少なめに、その心に残る岡部像を語った。
「お顔だけはよく覚えています。それに、ただすごくお優しかった、ということが今でも印象に残っております。そして、奥様はとってもおきれいな方でした」


(2)
      

 岡部さんは62歳で母校東京教育大学に再入学(28)して「年齢別に見たエネルギー代謝」でちゃんと学位を取得した(29)のですから立派、やはり異才です。75歳で亡くなったとき読売新聞は「同氏は大正十四年マニラで開かれた極東オリンピックに日本陸上チームの総監督をつとめるなど、わが国スポーツ界の指導者として活躍、昭和二十六年ボストン・マラソンに監督として渡米、田中茂樹選手の優勝をもたらした。マラソン界の功労者である。(福岡)(30)」と伝えました。資料その11(2)は「きつそうなお顔」には見えない72歳とみられる岡部さんの写真です。こうなると「とってもおきれいな方」ステ夫人が気になる人もいると思うので、昭和62年の「大阪学院大学通信」17巻12号に写真があることを指摘しておきます。
  

参考文献
上記資料その9(1)の出典は昭和8年2月9日付読売新聞朝刊5面=マイクロフィルム、 同(2)は同10年10月25日付満洲日日新朝刊11面、同、 (25)は筑紫女学園大学・短期大学編「国際文化研究所論叢」14号129ページ、厨義弘「日本スポーツ界の鬼才 岡部平太研究 ―その生涯とスポーツ近代化への貢献―」より、平成15年8月、筑紫女学園大学・短期大学=原本、 (27)は同131ページ、同、 (26)と資料その10は岡部平太著「コーチ50年」46ページ、昭和35年6月、大修館=原本、 資料その11(1)は田中舘哲彦著「日本スポーツを救え ――野人岡部平太のたたかい――」140ページ、昭和63年7月、平凡社=原本、 同(2)はベースボール・マガジン社編「陸上競技マガジン」13巻6号68ページ、「マラソンとオリンピック」より、昭和38年5月、ベースボール・マガジン社=館内限定近デジ本、 (28)は昭和30年10月3日付読売新聞夕刊2面「新・人物風土記」=ヨミダス歴史館、 (29)は福原麟太郎著「この国を見よ」235ページ、「岡部平太博士を祝う」より、昭和36年9月、大修館書店=館内限定近デジ本、 (30)は昭和41年11月7日付読売新聞朝刊15面=ヨミダス歴史館

 岡部ジンパの次は大連市民とジンギスカンの関係を見ていくことにします。オリエンテーションで大正12年に大連にあった満蒙文化協会の高柳会長がジンパを開いたことを話しましたが、大連でもまだ好んで食べる日本人は少なかったようです。新聞の記事を見て行くと、昭和に入って内地から移住してくる日本人が増えたためか、仲秋節を祝い仕事を休む満洲人の習慣を紹介する記事が載るようになり、だんだん名月が見られる天気かどうかに関心が移り、ついには名月を見ながらジンギスカンを食べるという大連独特のジンパが盛んになったように思われます。
 何しろ私独りで探すようなものなので新聞の閲読量が少ない。それで明治後半から大正は飛ばし、昭和の紙面で見付けた記事で大連型ジンパに至る足取りを示してみました。資料その12(1)と同(2)は昭和3年の月見です。(1)の「国民が心から祝し奉た昨二十八日の佳日」とは秩父宮殿下のご婚儀が行われた日だったことを指します。日本人の月見は穏やかであったが、満洲人たちは風習を守り、それこそお祭り騒ぎをしたことを伝えています。同(2)も昭和3年で、ススキが沢山生えている岡の向こうに満月が見える写真に添えた記事です。同(3)は昭和4年。月見どころではない人々もいたわけで、翌日の満洲日報は「仲秋節決算で/倒産者続出/ハルピンの支那商人」という見出しで「店を閉めて早くも逃亡するもの続出し大小約数十軒の倒産者を出す見込(31)」と報道しているが、日本人社会は同(4)のように、まだ月見団子ですね。

資料その12

(1)
仲秋節に
 支那街の賑ひ
   婦女も盛装して
    月下に公然夜遊

吾等七千万国民の心から祝し奉
た昨廿八日の佳日は恰も仲秋の明
月さえ渡る陰暦の八月十五日にて
支那側大連在住十三万の民は会社
銀行、学校、商店、苦力の果まで
  朝から   業をやすみこの
日を祝福した、最も賑はつたのは
代表的支那街小崗子方面で四号系
統の電車は乗客平日の五倍と云ふ
盛況、戸毎に鉦太鼓の音、爆竹の
響きはさへ渡る明月を驚かすばか
りで盛装せる婦女の月下に公然夜
遊びするさま所謂走月亮(ツオーユエリヤン)
この日ならでは見られぬ情景であ
つた、尚支那側の大部分の家では
百果を餡にした円形平形の焼き菓
子「月餅(ユエピン)」を作り、各知友の間に
贈答するさま華人団欒の
  情溢れ   るものがあつた
尚市内では奥町の華商街の如きは
夜を徹して明月を浴びつゝ宴を張
り、月を賞で仲秋の佳節を祝して
ゐた


(2)
仲秋の月=二十八日夜は仲秋の月で星ケ浦や老虎灘方面において観月の興遊が催され大賑はひを呈した、また一般家庭においてもお供えものをして床しいお月見が行はれた


(3)
大連署では
 非常警戒
   中秋節に備へて

大連署では來る十七日が旧暦の十
五日に相当して支那人の所謂正月
に等しき中秋節に該当するので警
戒を厳にすることにして十五日市
内一斉の質屋両替業者に向つて非
常の注意と警戒を為す様に命ずる
と共に特に警察署としては市内に
七組の密行を出動させて各派出所
の勤務巡査と聯絡を採らせつゝ非
常警戒を為すことにした、支那人
の習慣としては去る十二日より來
る十六日までに上半期の金銭貸借
関係を一応処理するのでこれを機
会として強窃盗犯人が横行する故
備へる筈である
(昭和4年9月16日付大連新聞夕刊2面=マイクロフィルム、)


(4)
月は無情――
 中秋無月らしい
  怨しい若草山の観測
   支那街は仲秋節で大賑ひ

初栗、新芋……はなくとも先づは
手製のお団子に薄、かる萱、をみ
なへしなど秋の七草を椽先に供へ
ての一家団欒楽しい今夜のお月見
に気がゝりなのは朝来のうすぐも
りおぼろ月の風情はさて置き、悪
くすると所謂中秋無月で雨にでも
なりはしないかと大連観測所に天
候の伺ひをたてると、雨模様はな
いけれど正午過ぎのこの曇りは夜
に入つても晴れる見込みは残念な
がらないとの話し、結果今夜のお
月見は坊ちやん嬢ちやん方を失望
させるものと思はれる、だが一方
華人側では年中行事の「仲秋節」
で商売も早きは昨夜までに集金を
終はり今日は朝から業を休み小僧
さん達まで解放されて一日の骨休
め、市中は朝来新しい着物に新調
の靴はいたこれら支那人番頭小僧
達の往来で賑はつたが、夜は小崗
子方面では特に高脚踊り、爆竹等
で一入の賑はひを呈するのが毎年
の例である

 昭和5年、満鐵の招待で満洲と北京を訪れた里見クは「吾々は、今度の旅行中、何人の人から、何遍同じ話を聞かされたか知れないくらゐ、支那でのうまい食ひものゝ話には、きまつてこれが出るので、つい有名な、と云ひたくなるのだ。大連でも食べさせるうちはあると聞いたが、なんと云つても本場は北京で、而もこの正陽楼が家元格らしい。(32)」と「満支一見」に書いた。これとはジンギスカン料理だよ。里見と同行した志賀直哉に接した多くの満鉄幹部とか名士が語ったことはさておき、大連市民はどうだったのか知りたいところです。
 岡部ジンパの記事を調べていたら猪でジンパをしたという面白い記事があったので資料その13にしました。昭和6年のことですが、珍しい肉だから肉の色や臭味がはっきりわかるジンギスカン鍋に仕立てたということですね。

資料その13

成吉思汗鍋で
 野外の會食
  久保洋行の試み
 
センターストーブの満洲総代理店
久保洋行にては吉林より野猪一頭
を取寄せ親交を温むるため十一日
午後三時より若草山に於てジンギ
スカン鍋の野外会食を催し新聞関
係の諸氏を招待した、会するもの
二十余名氷点下十度の厳寒も厭は
ず猪肉を焼き酒を酌み豪興を極め
一同五時頃散会した、何しろ成吉
思汗が陣中に於て用ひたといふ所
謂成吉思汗鍋にて而も氷点下十度
の野外に於て蛮的の酒筵を張りた
る事は時節柄近来の快事にして當
年の成吉思汗を思はしむるものが
あつた、席上誰やらが左の一詩を
賦した
 文筆勇軍招雪蛮。衝天意気既征
 寒。把杯賓主焼猪肉。欲擬當年
 成吉汗

 昭和8年の仲秋節、10月4日の大連新聞の社会面を見ると、三角関係による医学博士の夫人殺人事件が派手に扱われて、資料その14(1)にした実質13行の今宵名月を伝える記事と家庭欄の「お料理巡礼記」という連載で満鐵の課長夫人に芋などの「名月料理」を語らせているだけです。満洲日報は5日付で4日夕方に配った夕刊2面に青空市場らしい写真に同(2)の記事を添えていました。大連で発行しているのに、わざわざ新京の写真を使い「満洲国人はこの祝日を祝う」という表現は、日本人は祝日だとは思っていないというニュアンスが感じられます。
 ヤマトホテルの屋上庭園は6月28日から毎日午後7時から営業したけれど、広告には「期間中グリルは午後七時以後休ませて頂きます」とあり、30銭のアイスクリームを買って「お子様本位の活動写真(33)」を見ながら涼むだけのルーフガーデンだったようで、まだ大連市民には名月とジンギスカンは結び付いていない感じです。

資料その14

(1)
 今宵は
  お月見
   絶好の静夜<横組み見出し>

秋色漸く深く今宵は仲秋の名月―
お芋や、団子、薄等を供へ満月を
観賞するお月見の晩だ、星ケ浦海
岸や老虎灘は家族打揃つて或はカ
ツプルで賑はふであらう、此の夜
ダンスホール、カフエー等では満
┏━━━━━━━━━┓月ならぬ
┃         ┃クリスタ
┃         ┃ルポール
┃ 横組みの見出し ┃の下で人
┃         ┃工的月見
┃         ┃気分を満
┃         ┃喫させ埠
┗━━━━━━━━━┛頭の苦力
たちは待望の命の洗濯日仲秋節な
ので終日休業する、月見の天気は
どうかと若草山測候所に聞いてみ
ると『絶好の月夜でせう』と折紙
をつけた


(2)
王道治下の仲秋節

今日は仲秋節、王道治下に楽しむ首都新京の満洲国人はこの祝日を朗かに祝ふべくこれが準備買出しに城内四馬路大街は連日あたかも芋の子を洗ふが如き大雑沓を呈した(写真はきのふ四馬路の雑沓)

 さらに昭和9年の仲秋節、9月23日前後の大連新聞をみると、日米対抗陸上競技大会に米選手14人を迎えて「渦巻く期待の興奮/日米競技始る/勇壮、荘厳!堂々の入場式(34)」、それと第5回全満洲選抜野球大会が催されており、紙面はこれらの記事で埋まっていて、今夜は晴れるかどうかなんて全く気にしていません。前日の家庭欄に資料その15(1)の和風の月見料理とおはぎの作り方がありました。「玲瓏の空に相対性風情を賞づ」なんて、料理の記事らしくない見だしですよね。地方版に同(2)が載っていましたが、匪賊が出没するような山に登って月見をしていたのでしょうか。同(4)の雑誌が残っていれば、このころの大連市民とジンギスカンの関係がもっとわかったかも知れないが、残念ながらどこにも保存されていないんですなあ。
 一方、満洲日報にも陸上や野球大会の記事はありますが、浮かれずに仲秋節を取り上げています。大連ヤマトホテルのルーフガーデンではなく、常盤橋のたもとで月を眺めた記者の作文ですね。
 同(2)は月見ではありませんが、昭和9年に一高剣道部が大連まで武者修行に来たときの日記からです。星ケ浦に満鉄社員の倶楽部のような施設があったのではないでしょうか。50人を超える大ジンパがやれる場所と鍋、ジンパ学としては重要な情報です。
 また同年9月25日付の満洲日報に奉天で「長城に名月観賞 奉山線廻り観月列車」が催され、100人が22日午後10時50分発で出発、24日午後5時40分奉天着で帰ってきた(35)という記事があります。ただどの辺で月と万里の長城を併せて見てきたとは書いていません。

資料その15

(1)
名月を肴に酌む
 あす仲秋節
   玲瓏の空に相対性風情を賞づ
    弥生高女
    保健部案 お月見料理

ひた/\と迫り寄る玲瓏の秋空に
今迄尖り切つてゐた芒の尖が柔か
味を帯びて穂になれば、夜空に浮
び出る月も冴え切つた透徹さを増
して來ます、古人が詩嚢の限りを
絞つて待ちあぐんだとか云ふ仲秋
の名月、二十三日の夜がいよ/\
近附いて來ました、名月と酒肴、
確にこの二つのコンビは切り離し
ては到底考へられない相対性風情
でせう、秋虫の妙韻に耳を澄ませ
ながら名月を肴に酌むやうにと、
大連弥生女学校今西ツネノ先生補
導で同校保健部の生徒さん方が次
の様な『名月献立』とも云ふべき
お料理のメモを発案して下さいま
した<略>


(2)
  蟠龍山の月見
    本年は賑はん

 大石橋  九月二十三日は満月
に相当するが蟠龍山の月見も事変
以来在満居住者は安堵して心行く
許りに眺むる隙を與へなかつた處
本年は附近許りか遠く匪賊の虞な
く無事平穏であるので当地満鐵関
係は勿論市中及沿線各地より登山
するもの多数にて盛況を予想さる


(3)
  方圓偕調
   都會の三更
    昨夜大連常盤橋所見

 ◇…月を見ろ!中秋天高く細雲
だに止めぬ清浄の空に仰ぐこの月
畫になり詩になり歌になる、すす
きの蔭の月見団子、遠く琵琶の音
が聞えて來る月見が内地風景なれ
ば、赤色のランタンかげ淡き處蛇
皮線の音に興を味はふは満洲風
景だ。
 ◇…だが何故月を田園に求め、
郊外に求める人が多いのだらう、
都会の屋根の下からネオンの光す
ら押へがちに照りわたるビルの月
を見ても詩が出来、歌が出来やう
ではないか、都会の騒音を伴奏し
ビルデイングごしに見る月こそ
近代的な感覚を持つた立体的な月
見だ。
 ◇…老虎灘の巌頭に砕ける金波
銀波を添へた月見に飽きた人は、
星ケ浦の松ケ枝越しの月見に飽き
た人は、常盤橋橋畔にたたずんで
しばらくビルごしの月を仰いで見
ることだ。


(4)
七月十日午後七時半、佐々木先生以下大學先輩三名部員十六名より成る武者修行團は多数の見送りを受けて上野駅を出
    <略>
 十八日、朝靄を破る汽笛の聲に大連入港を知る。午前七時亜細亜大陸に第一歩を印しぬ。直ちに馬車にて満鐵本社に向ふ。旅装未だ解きやらず、岩田、金子両先輩の御案内にて市内を見學す。午後三時満鐵道場に於て稽古を行ふ。學期試験後の週日の航海に肉体は疲れたりと雖も、意氣は毫も衰へず。倍に余る相手方の入れ替り立ち替り來るを物ともせず、火を吐くが如き竹刀を交ふ。流汗淋溜として眼に入るを拭ひもやらず、奮戦大いに相撃ちぬ。一時間余の猛稽古を終へ一浴汗を流して直ちに一高會の會場星ケ浦に向ふ。集ふ先輩三十余名。降るが如き満天の星斗の下、炎々たる篝火を囲みつゝ満洲名物成吉思汗鍋に舌鼓を打つ。ビールの満を引いて起てば寮歌の高唱乱舞。快なる哉。


(5)
 趣味雑誌『食道樂』
大連、といふよりも満洲に新しい<よの1字補足>
名物が一つ生れた、百合口善吉
氏を発行人として呱々の声をあ
げた趣味雑誌「食道楽」がそれで
ある、氣の利いた読物、垢抜け
のした編輯振りは好事家のアツ
トラクションを惹くであらう、
大連市三河町其社発行、月刊一
部三十銭

 この後、11月ですが、大連ヤマトホテル支配人寺澤啻叡が奉天ヤマトホテル支配人に転じ、元旅館事務所長の大坪正が大連と星ケ浦兼務の支配人(36)になります。寺沢は金を横領した部下を依願退職扱いにしたため6月に譴責(37)されており、これは一種の左遷でしょうね。
  

参考文献
上記(31)の出典は昭和4年9月16日付満洲日報夕刊1面=マイクロフィルム、 資料その12(1)の出典は昭和3年9月29日付同朝刊7面、同、 同(2)は同日付大連新聞朝夕刊7面、同、 同(3)は昭和4年9月16日付大連新聞夕刊2面、同、 同(4)は昭和4年9月18日付満洲日報夕刊2面、同、 (32)は昭和5年6月13日付時事新報夕刊1面、里見ク「満支一見」66回、同、 資料その13は昭和6年1月14日付大連新聞朝刊7面、同、 (33)は同年6月26日付満洲日報朝刊7面広告、同、 資料その14(1)は昭和8年10月4日付大連新聞朝刊9面、同、 同(2)は同年10月5日付満洲日報夕刊2面、同、 (34)は昭和9年9月24日付大連新聞夕刊2面、同、 (35)は同年9月25日付満洲日報朝刊3面、同、 資料その15(1)は同年9月22日付大連新聞朝刊3面、同、 同(2)は同年9月23日付大連新聞朝刊4面、同、 同(3)は同年9月24日付満洲日報朝刊1面、同、 同(5)は同年10月14日付同朝刊7面、同、同、 同(4)は一高同窓会編「向陵誌」341ページ、撃剣部部史「満鮮武者修行の記」より、昭和58年12月、一高同窓会=原本、 (36)は南満州鉄道株式会社編「南満州鉄道株式会社社報」8267号126ページ、昭和9年11月18日、南満州鉄道株式会社、同、 (37)は同8141号139ページ、同年6月20日、同

 昭和10年になります。満鐵は1月25日付で「食堂車営業所支配人 事務員 田中芬/星ケ浦ヤマトホテル支配人ヲ命ス(38)」という辞令を出しました。社員録では、このくさ冠に分という名前にカオルと振り仮名があります。また食堂車営業所の副支配人の千葉勇記が旅順ヤマトホテルの支配人に発令され、大坪正は兼務を解かれます。(39)
 2月にもホテル関係の異動があり、14日に「奉天ヤマトホテル司厨長 事務員 濱田喜介/星ケ浦ヤマトホテル司厨長ヲ命ス(40)」と発令され、22日には大坪と千葉は鉄道部勤務になり、大連は副支配人川原久一郎が昇格、旅順支配人には食堂車営業所副支配人の木暮実が発令(41)されています。
 つまり大連、星が浦、旅順の3支配人が全員代わったのだが、しばらくは従来通りの営業ぶりだったらしい。大連にしても資料その16(1)の開園広告があるのでルーフガーデンの存在はわかるのですが、目新しい趣向はなかったため、満洲日報は同(2)のように写真だけのまことに素っ気ない扱いでした。しかしだ、同(3)でわかるように、5つのヤマトホテル支配人が集まり、各ホテルが特色を打ち出して、もっとお客を増やそうと決まったのですが、田中・濱田の星ケ浦コンビはその前から、我が方はジンギスカンで売り出そうと決めていていたらしいのです。
 というのはグーグル・ブックスで「三田評論」のいい情報を知ったのですが、原本で確認できない。それであらましに止めますが、5月27日に大連在住の慶応OB18人が満洲視察に来た北島多一慶大医学部長と「ホテル自慢の成吉斯汗鍋」を囲む歓迎会を星が浦ヤマトホテルで開いた。「星が浦の眺めは際立つて美しいのと且つ成吉斯汗鍋が珍らしいので、馬鹿に博士のお気に入り、斯んな景色の好い所は内地にも有るまい、鍋焼きは初めてだ。英傑成吉斯汗を想起させるよと申され」たので「家庭用成吉斯汗鍋一基を差上げ(42)」たというのです。
 私が注目したのは出席者18人の中に田中芬の名前があったことです。勉強しますからうちの名物料理でどうですかと田中が歓迎会を誘致したと思われます。また北島部長の言う「内地」では糧友会が初めてジン鍋を作り「糧友」愛読者と関係者に配ったこの年に、大連では日本人の家庭向けに作られた鍋かどうかわかりませんが、少なくとも業務用ではないとわかるジンギスカン鍋を入手できたことがわかります。

資料その16

(1)
 ルーフガーデン開園

お待ち兼ねのルーフガーデン來る二十九
日土曜日より(毎晩七時から十時)開園致します
 御宴会に、御会食に、御家族伴れの納涼に精々御利用の
 程御願ひ致します
           大連ヤマトホテル


(2)
 ルーフ・ガーデン開かる……ゆうべヤマト
              ホテルにて

   



(3)
   名物でサービス
  グリルは振袖の純日本式
    全満ヤマトホテル支配人會議

満鐵旅客課では二十二日午前九時
より大連ヤマトホテルにおいて職
制改革後最初の全満ヤマトホテル
支配人会議を開き、大連、旅順、
星ケ浦、奉天、新京、五龍背の各
ホテル支配人全部出席旅館サービ
スの改善について打合せを行なつ
たが、その結果、旅客サービスと
しては各ホテルで、その地方に適
合した名物を考案しホテルグリル
で一般に提供する、例へば現在新
京、奉天等で特製してゐるヤマト
ビフテキが如きものを地方の名物
とし地方によつて趣きをかへ大い
に宣伝するほか、接客に当るボー
イは出來るだけ女性の従業員に代
へるといふ男子従業員にはいさゝ
か大痛手が決議された、更に列車
の女給は全部緑色の洋装にグリル
の女給は純日本式に振り袖の和服
とし今後衣服類も全部貸与するこ
とゝなつた而してグリルの振袖は
九月一日頃より実施する方針で
ある

 昭和10年8月、スクープや部数拡大といった無用な競争はやめて報道報国、物資を節約してお国のために盡すという大義名分を掲げ、満洲日報と大連新聞が合併して満洲日日新聞となりました。資料その17(1)はジンギスカンを「満洲名物の普及化を計らうとする例の成吉斯汗鍋試食会が」とありますね。これより前、精々半年前だね。何人か有志が集まってジンギスカンを食べ、これを満洲の名物料理として広めようと意気投合したというような記事が1度は載っていなければ「例の」とは書けませんよね。
 それで私は3紙の紙面を見たのですが、それらしい記事は見つからない。思うに新任の田中・濱田コンビが人脈づくりに大連の食通といわれる人たちを招いて試食会と称してジンパをやった。それにこの記事を書いた記者も招かれたことがあり、それで思わず「例の成吉斯汗鍋試食会」と書いちゃったんでしょう。
 見方を変えれば、昭和10年になって大連の「味覚自慢の人達」が集まって「満洲名物の普及化を計ろう」としたということは、満洲に住む日本人ではジンギスカン料理を食べたことのある人は少なかった、満洲の名物料理としての知名度はまだ低いと認めた。田中支配人たちはうまい料理に挙げたけれども広い満洲です。昭和10年でも、まだまだジンギスカンは知る人ぞ知る料理の域を出なかったとみますね。
 資料その17(2)は主催者と会費がはっきりしない記事だ。資料その18(1)をみて、満鉄から分離独立して大連市内でバスを走らせていた満電(43)主催とやっとわかる。ジンギスカン鍋普及を唱える星ケ浦コンビに動かされて、料理は星ケ浦がやるから、客集めは新聞社、普通なら10銭取る大連―小平島間のバス賃と肉代は満電のサービスと手分けしてやることになったんでしょう。

資料その17

(1)
┏━━━━━━┓舌つづみの秋
┃安楽椅子の ┃に原始的な野
┃ カット  ┃外料理を以て
┃      ┃満洲名物の普
┗━━━━━━┛及化を計らう
とする例の成吉斯汗鍋試食会が
五日の晩星ケ浦ヤマトホテル後
庭の芝生の上で催されたが、集
まつたのはいづれも腕に、いや
舌に覚えのある味覚自慢の人達
ばかり。
  ……◇……
明月を前に控へて食通連のシタ
調べは野趣味横溢、単に舌鼓を
打つだけでなく、世界の珍料理、
うまいもの料理の話で舌が滑る
は/\、そしてお定まりのシタ
の話にまで落ちて了つたが、中
でも田中支配人、浜田司厨主任
のうまいもの話は話そのものも
ウマく、話だけでも満腹出来さ
う。
  ……◇……
コーカサス料理のうまい所、ス
エーデン、ノルウエーの魚料理
ニユーヨークのオイスター・カ
クテル、フランスの蛙の足、ア
メリカに出たチヤプスイ料理、
印度のカレー料理、日本製のハ
ツシユ・ライス等々、いづれも
ウマイもの盡しでたんのうした
が、最後に田中支配人「これも
全くホテル商売の役得ですよ」
と舌なめずりしたものだ。


(2)
  明月観賞会
     あす小平島で

満電では十二日午後六時より小平
島に於て中秋の明月を観賞すべく
明月観賞会を催す事になつた、当
夜は特に懐古味溢れるヂンギスカ
ン鍋を用意し全員を饗応する筈で
ある、同会員は百名に限定されて
ゐるので、希望者は至急常盤橋満
電バス待合所に申込まれたいと
 当夜の電車時刻は常盤橋発午後
 五時、小平島発午後九時である

 昭和10年は満月の夜の天気予報で一喜一憂したことがわかります。資料その18(1)の記事には写真が2枚付いており、雲を割った名月の方はかなり縦長で、上から月光で明るくなっている雲の切れ目が空にあり、高台の柵の前に2人の人影が見える構図。もう1枚が資料その18(3)に付けた写真です。羊肉の皿や飲み物らしいものを置いた手前の大型テーブルの陰になって、黒い鍋の端が少し見えるだけですが、かなり直径は大きそうですね。左手前や奥の立っている眼鏡の御仁の箸が見えるが、菜箸みたいな長い箸を使っている。ともあれ100人ぐらいが集まって一斉にジンパをやったのだから、円山公園の花見みたいな光景だったでしょう。
 同(2)の若草山氏というのは若草山観測所という測候所の予報担当者のことです。また省略箇所は、9時ごろからの雨が雷も鳴る土砂降りになり、その後雨が止み、月が照ったことが書いてありました。延期した小平島ジンパの続報は見当たりませんでした。同(3)の4コマ目の「栗ぬくい」は、甘栗売りの日本人向けの呼び声で、甘栗売りがもう街頭にいたということです。

資料その18

(1)
今宵<横組み>
  中秋の名月
   朝の中は一寸降るかもしれぬが
      晩には晴れます

 ◇…”お月様さへ只一人と
淋しく唄はれてゐるが、どう
して―今夜ばかりは年に一度
の中秋の佳節、満洲国では三
大節の一つであり、六千万の
眼が仰ぎ見てくれる賑やかな
夜―
 ◇…時もよし海は銀色のネ
オンを漂はせ、山肌は涼風立
つて乱れ咲くすゝきの穂波に
ラツコの毛皮を思はせる秋―
 ◇…そこで今十二日夜は海
辺に山に名月観賞の座を敷く
が、特に今年の観月趣向は成
吉斯汗の鍋をつゝいて非常時
の野趣を愛でるア・ラ・モー

 ――・――
 ◇…満電では小平島のス
ロープに篝り火の火華を揚
げて肉を焼かうとする新趣
向でサーヴイスし、過般満
洲名物の呼び声を揚げ
た星ケ浦ヤマトホテルでの
ジンギスカン鍋は銀行会社
団体十六組の申込み、二百
五十名の野宴名月会である
し満鉄とビユーロー主催の
普蘭店中の島への快速往復
名月會もあり、登瀛閣のベ
ランダも申込殺到、其他と
り/\゛の月に親しむ会で天
地相呼応して賑やかな情景
を展開するであらう
 ――・―― <略>


(2)
お月見は絶望!
 二百廿日と仏滅がかち会ひ
   若草山氏もよう云はん

何の因果か今年のお月見は二百二
十日とモロにぶつつかつた上、お
日がらは三碧の仏滅……何れにし
ても満足な月は見られまいと巷の
噂となつてゐたが、案の定十一日
夕方からは
  雨…になり、風さへ加はつ
て十二日まで吹き続き気温もぐつ
と低く、一足飛びに初冬の感じを
さへ抱かせ、旧暦十五夜のお月見
も残念ながらお流れになつた模様
何はともあれ若草山観測所に今晩
の模様をたづねると
 どうも残念ですが駄目でせう、
 低気圧は本日未明ごろ大連を通
 過して現在(十二日午後一時)
 では朝鮮南部に移つてゐますが
 南満ではまだ處々に雨がふつて
 ゐますし、渤海から黄海の北部
 にかけての海上は相当な荒れか
 たです、現在大連をふいてゐる
 風も今日一ぱいは続くだらうと
 思はれます、然し二百二十日ら
 しい気圧の配置でもなく、又先
 般内地に荒れ狂つた颱風のやう
 なものでもなく、偶発的な低気
 圧が十一日夕刻渤海の南部に発
 生、この方面に移動して來たた
 めのお天気異変ですから、低気
 圧が通り過ぎた上は漸次回復す
 るでせう。
  何……れにせよお月見は絶望
との診断、月なき月夜に名月の
趣を味はふ詩情に満足するより
外はあるまい
    ○
十二日夜の満電の小平島明月ジン
ギスカン鍋は明夕に延期された


(3)
 雲のとばり開いて
   見えたぞ、名月
    ゆうべの観月℃々相

 ◇…見える、見えないでまどは
してゐた昨夜のお月さんも結局七
時頃から夕焼雲の緞帳を破つて静
かに秋天の女王としての登場ぶり
だ、円満な姿を見せると下界は月
見フアンの間から沸き返るが如き
アン・コールまたアン・コール
 ◇…前夜来ガラリと急変した天
候―冷気によつて少し哀愁を漂は
せた郊外ではあるが成吉斯汗鍋の
舌つづみは又格別とあり、岡野助
役始め市役所課長級の因果会、観
会は星ケ浦ヤマトホテルの庭前で
たけなはである、月も愛でねばな
らず肉も焼かねばならず市会の
御歴々も忙しい
 ◇…清風に名月を賞してこそ
市会のメイ案も浮ぶ訳さ≠ニ長浜
社会課長のメイ酊ぶり、大連マツ
チ、山下汽船、青木組等百名のジ
ンギスカン党がメイ月に酔つてゐ
る――
 ◇…小崗子は中秋節会で満人の
ざはめき、もう栗ぬくい≠ェ出
てゐる―
 ◇…お馴染の扶桑仙館が祝ふ盒
子花はネオンの街の人気を集めて
人の黒山、美麗な飾り煙花の威勢
の好いこと、山東から来たと云ふ
老花火師の杖の下で満人の中秋節
は伝統を守りながら爆竹を中天に
爆発させてゐる
 ◇…兎に角鑑賞出来る出来ない
の迷路を通つた名月も涼しい姿を
現して、宵のひとゝきを賑はした
ものだが、それも暫くで宴漸く終
る九時頃から一天俄に掻曇り遂に
ポツリ/\と大粒の雨が落ち出し
果ては雷鳴さへ伴ふドシヤ降りと
なつたが間もなく驟雨は歇んで再
び豁りと晴れ渡り名月は皎々と中
天に輝いた

    

【写真は雲を割つた名月―星ケ浦―とジンギスカン鍋をつゝく一党】

 元新聞記者の旧友に資料その18と同19の星ケ浦ヤマトホテルの記事を読ませたら、この田中・濱田コンビは記者と仲良くして、ちょっと目先の変わったことがあると電話するとか、いつでも我々をネタにしていいよといっていたと思うと言いましたね。星ケ浦では―と載るだけで充分宣伝になると割り切っていたはずだというのです。この3本の記事には星ケ浦がキーワードになっていることがわかりますね。
 資料にはしていませんが、2人はホテルの池に飛来した白鳥の剥製を標本として寄附したい(44)で1回、やっぱり寄贈はやめてホテルに飾ることにした(45)ともう1回という具合で、ちょくちょく「安楽椅子」に書かれています。彼はこういう人をアクチブな人と呼び、アクチブな人を何人か知っていれば、デスクから「安楽椅子」みたいな記事を急に書けといわれても困らないそうです。まあ、そういう友達がいるのだから、私もアクチブな人のうちかな。はっはっは。

資料その19

(1)
┏━━━━━━━┓一両年前現
┃安楽椅子の  ┃大連市嘱託
┃ カット   ┃の中溝新一
┃       ┃君が文化協
┗━━━━━━━┛会をやめた
際、知友五十余名を招いて早朝
七時に開宴して事は、当時の話
題であつたが、これはまたそれ
に上越す早暁六時の宴会が星ケ
浦で開かれた
  ……◇……

宴会の主人公は愈々三日離連す
る八田前副総裁、招かれた客は
八田さんの同窓、東京高師附属
中学出身の集まり桐亜会≠フ
人々、先夜の送別会のお返し惜
別会だが、そのまた御馳走が昨
今大流行のヂンギスカン鍋だつ
たのも面白い
  ……◇……
何故斯んな時間に開宴したかと
 ┏━━━━━━┓ いふと、
 ┃八田氏の  ┃ 何しろ顔
 ┃  顔写真 ┃ の広い八
 ┗━━━━━━┛ 田さん、
先日来送別会やら惜別宴やらが
連日に亘り、おまけに二つ三つ
宴会がカチ合う忙しさ、いろい
ろ考へあぐんだ結果がこの朝宴
となつたもので、幾ら早朝とは
いへ宴会である以上、況んや市
政記念日の芽出度い朝である以
上、酒もなければならず、お酌
もなければならず
  ……◇……
そこで芸妓の誰彼が宴席に侍つ
たが、多分、深夜やら早朝やら
区別がつかなかつたらうとの噂。
(写真は八田氏)


(2)
 家族なべ       星ケ浦
   星ケ浦名物    ヤマト
            ホテル
の名物料理ヂンギスカン鍋≠ヘ
多大の好評を博して発表以来申込
殺到の有様であるが、更に同ホテ
ルではこれを一般家庭向にするた
め田中支配人、濱田司厨主任等が
苦心して北平方面から諸種の材料
を集め此の程家族鍋≠考案し
た、料金は一人三圓程度で家族揃
つてのうちとけた会食に望むと、
猶同ホテルでは高加索名物サシ
リツク≠も星ケ浦名物にすべく
研究中である


(3)
[安楽椅子]

過般の異動で大連、旅順、星ケ
浦三ケ所のヤマトホテル支配人
を兼務することになつた田中芬
氏は星ケ浦当時から人形のコレ
クトマニアとしても、またロシ
ア料理をはじめヂンギスカン鍋
等の食通としても有名だが、今
度の就任以来一週間のうち四日
を大連、あとの三日を旅順星ケ
浦とかけ持で廻る忙しさ。
   ……◇……
氏の就任の感想に曰く
 ――お目出度い結婚シーズン
 には先づ星ヶ浦ヤマトホテル
 で見合をして、それから披露
 宴は大連ヤマトホテルで、そ
 して是非旅順ヤマトホテルを
 新婚旅行の宿となさることが
 聖地旅順の意義ある発展のた
 めにも大に必要ですナ……。
   ……◇……
聖地旅順の発展策と商売意識を
巧に結びつけたところ流石に如
才がない。(写真は田中さん)

  

参考文献
上記(38)の出典は(南満州鉄道株式会社編「南満州鉄道株式会社社報」8319号154ページ、昭和10年1月26日、南満州鉄道株式会社=マイクロフィルム、 (39)は同155ページ、同、 (40)は同8334号65ページ、同年2月14日発行、同 (41)は同8341号109ページ、同年2月22日発行、同、 資料その16(1)は同年6月27日付満洲日報夕刊2面、同、 同(2)は同年6月30日付満洲日日新聞朝刊5面、同、 同(3)は同年7月24日付大連新聞夕刊2面、同、 (42)は小沢愛圀編「三田評論」455号15ページ、「各地三田会だより」より、昭和10年7月、三田評論発行所=グーグル・ブックス、) (43)は大連商工会議所編「大連商工案内 昭和9年度版」151ページ、昭和9年10月、大連商工会議所=近デジ本、 資料その17(1)は昭和10年9月8日付満洲日日新聞朝刊7面=マイクロフィルム、 同(2)は同年9月11日付同朝刊5面、同、 資料その18(1)は同年9月12日付同朝刊11面、同、 同(2)は同年9月13日付同夕刊2面、同、 同(3)は同日付同朝刊11面、同、 資料その19(1)は同年10月3日付同朝刊9面、同、 同(2)は同年10月9日付同朝刊5面、同、 同(3)は同年11月28日付同朝刊7面、同 (44)は昭和11年2月22日付同、同、 (45)は同年6月*日付同、同

 昭和11年になると、資料その20の記事からわかるように、大連市民のジンギスカンは月見と結びつきが強まったようです。この年の仲秋節は9月30日で、新聞の行事予定欄に「名月鑑賞会 都市交通会社、小平島東海岸で成吉斯汗鍋(46)」というのもあります。都市交通会社は満電の後身ですから、小平島ジンパ開催も引き継いだらしいのです。同(3)から満月がよく見えたことがわかりますね。縦長の写真は黒一色みたいなので、階調を無視してマイクロフィルムのリーダーの明るさを極端に上げたら、やっとUFO型の鍋と焜炉を囲む5人が見えた。中央の白く見えるのは焜炉でしょう。
 この形からして昭和10年暮れに農林大臣官邸で開かれたジンギスカン鍋試食会などで使われた外側が白いタイプの鉢形焜炉でしょう。座っている人たちの座高と焼き面の縁の高さから見て、長い3本か四本の脚付きのようで、これまた官邸の鍋と似ていると思いませんか。講義録では、その写真と見比べられるようリンクを張っておきましょう。
 夜の写真だから暗いのは当然としても、私は写真によっては旅順要塞司令部の検閲を受ける際に、写していけない地形が写っていなくても、あれこれ注文が付いて焼き直しさせられる手間を省くために満洲日日のカメラマンが必要以上に暗い画面にしたと思いましたね。


資料その20

(1)
 普蘭店中の島で
  明月鑑賞会
   大連から二百名の団体

大連鉄道事務所主催で来る三十一
日普蘭店中の島において明月鑑賞
会を催すことになつた、当日は会
員約二百名大連より臨時列車にて
午後五時三十分普蘭店駅着、塩業
会社引込線より中の島までトロリ
ーを利用し塩竈神社附近にて恒例
による野趣満々たるジンギスカン
鍋をつゝきつゝ観月することにな
つた、地元果樹会社では会員に洩
れなく苹果のお土産を贈呈すると


(2)
   酒・酔   今折枝夫

<略>病といへば、実のところ、私は
どうやら明日は、宿酔らしい。昨
夜にひきかへ、今夜は同じ星ケ浦
の月下に、ヂンギス汗鍋を試みた
五十名からの一団が、ヂー/\脂
の煙をあげて羊肉を焙る。そして
聊か調子に乗つて強烈な支那の火
酒を呷る。これでは食欲第一で、
月明の感慨そつちのけだ。然も
今夜この約束原稿の五枚をものし
ようというのだ。もう一息。<略>


(3)
 山の茶屋のジ
 ンギスカン鍋    中央公園
           遊覧道路
にある山の茶屋ではジンギスカン
鍋のシーズンとなつたので本格的
ジンギスカン料理を一般来遊者の
ために安価に提供する


(4)
 けふ中秋節
  =天候は落ち目だが明月は=
   先づ観賞出來ます

秋あたかも半ばとなつて三十
日は中秋の節句だ――満洲国
では三大節の一つに祝ひ中天
高きこの夜の月を賞するので
ある、満人側諸官庁学校商人
等は休業して七色の味のある
中秋月餅を食べるのであるが
この夜月色は平生に倍して明
朗だかどうか若草山の打診を
乞ふと
 ――高気圧が南下してちよ
 つと天気は落ち目であるが
 大体円満な姿を観賞出来ま
 せう
とうれしく、男月を拝まず、
女竈を祭らず――等古き支那
の警句がある如く月光の庭に
楽しい爆竹と晴衣の祝ひであ
る、日本人側でも芋明月、栗
明月の明澄な夜を讃へるので
ある


(5)
  非常時観月会

 運よく中秋の巻雲がちぎれ
て、秋の節句の月がぽつかり
――大連百万の眼が仰ぐ月餅
芋名月の観賞の夜だが、今年
は流石に非常時、武張つた野
趣が流行つて成吉斯汗の宴で
眺める、羊肉を焼き、かゞり
火が赤く小平島の岩頭に映え
て、すゝきの白穂が、スペイ
ンの扇のやうに、銀色に光つ
た――舌に賞する方が忙しく
鍋の勇士が食慾の晩秋である
………明月や、今年やジンギ
スカンの當り年………(写真
はゆうべ小平島にて、旅順要
塞司令部検閲済)

   


(6)
  ジンギスカン鍋で
   スポーツ漫談
    御影池州庁長官を囲んで

 御影池州長官を囲む州内各種運動
団体関係者有志の懇談晩餐会は、廿
一日午後五時より西園亭に於いて
 州庁より白石内務部長(満鉄理
 事)蜷川体研所長、山本主事、
 大連市役所よりは大岩収入役
 長浜社会、古野学務両課長、石
 川、西川両市議、満鉄側より上
 村福祉課長、その他山岡満体理
 事、吉村ラグビー協会長、米野
 本社編集局長
以下各種運動団体関係者五十余名
参加の上開催、ジンギスカン鍋を
つゝきながらスポーツ談に花を咲
かせ午後十時散会した

 昭和11年の満洲日日新聞は、星ケ浦ヤマトホテルの濱田司厨主任が語るジンギスカン料理の作り方を2度載せました。資料その21が最初です。同じ人のレシピですから、ほとんど同じで、材料も大連なら手に入ったものを挙げていますが、濱田主任の鍋と焜炉の説明が私を含む一般的な説明と違うところが面白い。濱田氏は日本型の七輪を使わず、あくまで満洲式の鍋で料理することを想定している。だから我々が焜炉といっている炭を燃す器具は素直に鍋といい、私が焼き面といっている脂落としの隙間のあるいわゆる鍋は串蓋、鉄蓋といってます。私がジンギスカン鍋は烤羊肉の満洲式の鍋と焜炉が手本だが、日本では七輪があるので上の鍋だけ取り入れたという説を唱えるのは、こうした見方があるからです。濱田氏にいわせれば資料その21の白い焜炉は鍋なんですね。

資料その21

 野趣に富む
 成吉斯汗鍋
  これからの屋外美味求眞
   家庭での料理法

屋外料理として季節を問はず、し
かも野趣に富むところから最近益
々人気の対象となりつゝある成
吉斯汗鍋=c…、これは古くから
北平西域、風飯館子等でやつた羊
の焼肉料理の一種で、それが何時
頃からか成吉斯汗鍋といつた名称
で満洲に伝へられたのです。北平
あたりでは飯館子の中庭を利用す
るやうですが、家庭でも一寸した
庭でもあれば五人分位なら訳なく
出来ますし、海浜その他のキヤン
プ、自炊生活等にはもつてこいで
せう、以下家庭料理(五人前)と
してご紹介しませう。
 △ソース…材料は満人街で需
 められます。滷蝦油(一合五勺)
 紹興酒(二合)醤豆腐(四半分)
 支那醤油(五勺)葱糸(小量)
 蒜(一個)これだけを混ぜて置
 き一旦沸騰させた上、布漉しに
 して冷却します、一度つくつて
 壜に入れて置けば長保ちします
 △材料…肉は羊が本來です
が牛肉も可、半焼を美味とする関
係から豚は用ひられないのが普通
で、鶏肉その他はソースと合はせ
ないやうです、結局は嗜好ですが
何れにしてもすきやき£度の
切り方が最適
 △調味料…支那芹(葉脈部三
 分切り)葱(白根、縦二寸位線
 切り)蒜(薄切り)
 △鍋その他…特殊鍋があ
り、それがあれば本式ですが、家
庭的には工夫も却て面白いでせう
箸も葭製が本式です、燃料は普通
木炭でもよいが、柳、又は棗の燻
製木炭が一層よいやうです。
 △焼き方…底に三ケ所の穴
のあいた鍋を適当な臺の上にのせ
火を起し、上に網のやうになつた
串蓋を覆ひ、熱したところで油を
串蓋へ塗ります、あとはソース、
調味料等へ適宜浸した肉をその蓋
の上で焼けばよいのですが、たゞ
添酒としては一般に白酒(焼酎)
又は老酒が消化、殺菌上効果的と
されてゐます。(星ケ浦ヤマトホ
テル・濱田喜介氏・談)

 資料その22は2度目で、星ケ浦ホテルにあったとみられる据え置き型の焜炉と鍋の写真付きの記事です。昭和11年10月の満洲日日に連載されたこの「卓上探秋」という秋にふさわしい料理紹介は11回連載されたのですが、2回目の紙面が欠けているので断定はできませんが、残る9回は皆西洋料理でね、ザリガニまで使っています。
 ジンパ学の資料としてこの写真はとてもいい。石臼みたいな焜炉にそれに合った直径50センチは超えそうな焼き面を乗せ、テーブルにでーんと置いてある。焜炉の側面は手作り感溢れるもので、焜炉と一緒なら両手で抱えないと動かせそうにない。ただフジ棚のような何か日光を遮る物が上にあったため焼き面の半分が日陰になって見えず、鉄棒の本数を数えられないのが実に惜しい。焼き面は脂落としの隙間が直線になっているロストル型で端にある鉄の輪を掴んで、焜炉との着脱する。見えるだけから推定すると、隙間はかなり狭く17本以上ありそうですな。
 焜炉は小さい盥みたいだね。燃焼部が深いので、薪でも炭でもたっぷり入りそうで、手前に丸い通気口が見える。石炭ストーブの経験者ならわかることだが、この通気口の蓋の4つの穴と焜炉側の4つ穴がぴったり合うように出来ていて、通気口のつまみを廻して空気の通る穴の面積を変え、焜炉内に流れ込む空気の量を加減して火力を調節する仕掛けだ。底に穴のある鍋なんてものじゃないんだから、これは、もう焜炉と呼ぶべきだと思うがねえ。
 焼き面は脂落としの隙間が一直線に並ぶロストル型で、端にある鉄の輪を掴んで焜炉と着脱する。鍋の名前は「特種鍋、浜田鍋」と唱えているとあるが、レシピを語ったのが星が浦ヤマトホテルの浜田氏が特種鍋といっておいて、ふざけて浜田鍋ともいうと語ったと思うが、新米なのか記者が冗談とは受け取らずに、聞いた通り書いたんでしょう。私は相当レシピを読んどるが、初耳だ。濱田鍋なんて日本臭い名前があるわけないよ。
 それとね、このレシピは「新天地」という満洲で発行されていた雑誌の昭和11年10月号に鷲田稲作という人が書いた「成吉斯汗鍋」という随想のレシピと極めて似ていることから、私は大連と星が浦の両ヤマトホテルの鍋と推定したのです。鷲田は「紹興酒、蝦油或は蟹油、醤油、分葱、芹菜」などを混ぜて「十五分乃至二十分緩煮した上冷却させ置く。(47)」でした。この星ケ浦ヤマトホテルの濱田氏も同じように調味料は一度煮立てるようにとレシピでいっているし、鉄蓋と呼び方は違いますが「鍋に火を入れ鉄蓋を覆ひ適度に蓋が熱した時」という言い方は、鷲田の「鍋に火を拵へ鐵串鍋で覆ひ其の鐵串の熱するを待つて」焼くべし(48)と似ています。
 また、焼く手順として、こちらは「茶碗に適量のソースと調味料を入れ、羊肉又は牛肉を少量づゝ加ヘ一緒に掻き混ぜた後」とはっきり言い切っていないが、鷲田は「ソース(前記蝦油又は蟹油と紹興酒とを混合したるもの)に醤油を加へ嗜好によつては芹菜又は葱のきざみたるものを入れ主客自ら之に羊肉を浸し」それから焼け(49)と書いている。ヤマトホテルでは焼く前にたれに付ける食べ方を奨めていたとみらます。この鍋と焜炉一式の値段なのでしょうが、8人用の鍋なら13円ぐらいとは、初めて聞く高い鍋だ。手作りで大型の末代物ですから、それぐらいしたのでしょうね。

資料その22

    


  季節の味
  覚集==  (一)

季節に躍りでた野外料理
成吉斯汗鍋=c…明月の
晩など芝生の上で焼く肉
の香が叢の虫につたは
るのか一入いゝ声で伴奏し
ます。

   調理法

【鍋と燃料】 鍋は釜型の
上に鉄製串蓋を覆つた特種
鍋、濱田鍋と称へて一般に
売出されてゐます八人分迄
のところ一個十二円位、燃
料は柳、又は棗の燻製木炭を使用しますが普通木炭で差支へ
ありません。
【材料肉】羊肉を本格とされてゐますが、牛肉、豚肉でもか
 まひません。脂肪附のものが好いやうで、これを薄切りに
 します。切り方はすき焼程度の厚さですが幅広に切ります
【調味料】支那芹菜(葉脈部分)三分切り、葱(白根)縦二
寸位の線切りに、大蒜の薄切り、又は細かく刻んだもの其他
生の胡瓜のぶつ切りなど
【ソース】五人前の分量で申しますと滷蝦油一合五勺、照興
 酒二合、豆腐汁四分の一、支那醤油五勺、葱糸切り少量、
 大蒜一個分右の材料を予め混合して置き約二十分間煮沸し
 てこれを布巾で漉した後冷却する。
【焼方】前述の各種材料が揃つたら鍋に火を入れ鉄蓋を覆
 ひ適度に蓋が熱した時、茶碗に適量のソースと調味料を入
 れ、羊肉又は牛肉を少量づゝ
 加ヘ一緒に掻き混ぜた後肉を
 串蓋の表面にのせてコンガリ
 焼いて召し上るのです通人は
 よく半焼を賞味します。(星
 ケ浦ヤマト・ホテル濱田氏談)
 写真は肉の皿、調味料の皿、
 支那せんべい、老酒など

 星ケ浦の濱田司厨長の名前が出る記事はこれが最後で、インターネットで公開されている昭和12年9月1日現在の「満鐵社員録」には載っていないから、その間に退職したとみて満鐵の社報を調べたら、11年11月30日付で「星ケ浦ヤマトホテル司厨主任 職員 濱田喜介/営業局旅館課勤務ヲ命ス(50)」という辞令がありました。元々満鐵のホテル・旅館で働く社員は皆旅館課に属しているのだから、これは今後ホテルの調理場じゃなく本社の事務室にいなさいという命令だ。つまり星ケ浦ホテルとジンギスカンを一緒に売り込もうとしてきた田中・濱田の名コンビはここで終わったわけです。
 川副保氏が書いた「灯」という本によると、田中さんは早稲田を出て満鐵に入り、大連ヤマトホテルの副支配人だっとき、ホテルや食堂車などを統括する旅館事務所の上司と意見が合わず「席を蹴つて上海に去りツーリストビユーローに入つたが昭和六年再び満鐵に入り満鐵食堂車支配人(51)」になったとありますがね。大連三田会の記録によると、昭和11年10月10日、慶大医学部の西野忠治郎教授歓迎会が星ケ浦ヤマトホテルで開かれ、ジンギスカン鍋を囲んだ。その出席者13人の中に田中芬の名前がある(52)ので、田中さんは早稲田でなく慶應OBでしょう。それはそれとして、わざわざまた満鐵に戻ったというから、田中さんはよほど満鐵、しかもホテル関係の仕事が好きだったんですなあ。
 帝国ホテルなど一流といわれるホテルを見なさい。高級ホテルほど洋食を重視し、実力のあるコックが料理長に就き伝説にもなっているくらいだ。満洲の帝国ホテルたらんとしたヤマトホテルですから、当然洋食のコックが幅を利かせていた。そこへ煙もうもうのジンギスカンを取り入れようというのだから、調理場との関係がこじれる。濱田と組んでそれぐらいやったら満足だろうと言われて、田中さんは現場から離されたと私はみます。
 更に見ていったら翌12年4月1日付で大連ヤマト支配人田中芬が職員から副参事に昇格する辞令があり、一方5月1日付で濱田には待命の辞令(53)が出ていました。待命とは大正10年からある制度で、いきなり解雇せず、発令から半年間は待命前と同額の月給を支給して、その間に別の仕事を探させる制度(54)です。庖丁一本、晒しに巻いて―いたかどうかわかりませんが、元ヤマトホテル司厨長です。濱田は働き場所には困らなかったと思います。
 ちょっと脱線のスライドを見せましょう。左は昭和11年9月新譜としてポリドールレコードが出した流行歌「満洲の月」の広告です。3番で「今や明月皎々と/只一点の曇りなく/守備は堂々備はりて/天は晴れたり大満洲(55)」と元満鉄社員の東海林太郎が歌っています。月見大好きの大連市民を狙ってではないかと思うのですが、9月の満洲日日に大小7回も広告が載っています。
 右は万和洋行という精肉店の広告です。大連、奉天、新京の満鐵ヤマトホテルの御用を承っており、電話一本ですぐ配達するとも書いてあるから、星ケ浦コンビもここの羊肉を使ったんじゃないかな。満鐵社員消費組合、満鐵食堂車、満鐵大連医院の御指定御用でもあるというのだから、満鐵の子会社の1つかも知れません。

       
    昭和11年9月4日付       昭和11年11月7日付
    満洲日日新聞夕刊5面       満洲日日新聞朝刊5面

 いい相棒だった濱田主任を失いはしたけど、兼任ではなく大連ヤマトに専念することになった田中支配人は新しい司厨員にジンギスカンを勉強させ、ルーフガーデンも改装し、天体望遠鏡を置いて月や星を自由に眺められるようにした。そして12年夏のガーデン開きを迎えたことが、資料その23からわかります。

資料その23

(1)
夏 パラダイス!

夜  ヤマト
の   ホテルの納涼ルーフ開き

         ◇…真夏の
         夜に明滅する
         大廣場ヤマト
         ホテルの電飾
も成つて七月三日納涼ルーフ開き
を行ふが、今年の屋上構成は藤棚
に水車、池、庭園、こゝにカジカ
を配し、鈴虫を鳴かせる趣向、例
に依つて    ・
◇…酒場あり、アイスクリーム、
 みつ豆店、おでん、焼鳥、屋台
 から一品料理、定食の外、和食
 のサーヴイス、すき焼、家族鍋
 ジンギスカン等、胃袋のヴアラ
 エテイー
 ◇…その他地方色豊なお土産品
売店を備へ、和英青赤で明滅する
スカイネツトの清涼美を放つてゐ
る、新らしき試みとして天体望遠
鏡を据ゑつけ、夏の夜の星月を探
る科学設備を施してゐる、土曜日
の夜には街の青年天文家河合氏の
説明がある筈で、子供の娯楽設備
をも計画中<略>


(2)
 今年初の屋根の客
   昨夜ヤマトホテルのルーフ開き
       納涼は超満喫

夏の夜空を飾る大廣場ヤマトホテ
ルのルーフ・ガーデン成り、二日
大連鉄道事務所主催の満鐵大荷主
招待屋上園遊会がルーフ開きを兼
ね行はれた
     ☆
午後七時から一階下広間で芸妓の
手踊を身て下津所長の挨拶を聞い
て招かれた日満有力荷主、各傍系
会社、外人代表約二百名は今年初
めての屋根の客となつた、オーケ
ストラの伴奏で新装のルーフ入り
和洋料理で舌づゝみ、祝杯をあげ
た、音楽の余興、満鐵製作の映画
などあつて主客歓を尽した
     ☆
この夜南東の風チト強く一同納涼
は超満喫であつた、午後九時半か
らスカイネツトに燈が入つて赤青
明滅の大廣場の夏空は美しかつた
夏の夜の星月を見る天体観測設備
は喜ばれてゐた(写真は歓を尽く
すお歴々)

 ルーフガーデンは8月末に終わっても、毎年あそこで宴会をやりたいというリクエストがあるのでしょう。「当分の間成吉斯汗鍋と鋤焼の御宴会に限りルーフガーデンを御利用願います(56)」と一言付け加えた広告を出したのです。資料その24から閉園後もジンギスカンとすき焼きは食べられるようにしていたことがうかがえます。

資料その24

(1)
  月と天体
  観望の夕
    十八・九の両日
    ヤマトホテルで<横見出し>
     
大連ヤマトホ
テルでは東亜
天文協会満洲
支部と共同主
催の下に、十
八、十九両日
午後七時より同ホテル屋上庭園に
於て月及び天体観望の夕べを催す
ことゝなつた
 三時半ニユートン式反射望遠鏡
 二台を据ゑつけ、東亜天文協会
 員河合孝一氏より天体に関する
 講演があつた後、同氏指導の下
 に秋空にきらめく天体の神秘を
 心ゆくまで探究する、尚天体写
 真展、天体に關する音楽等もあ
 り特にヂンギスカン鍋、スキヤ
 キ、お月見団子、お茶等の需要
 にも応ずることゝなつてをり同
 好者多数の來会を希望してゐる


(2)
  月と天体
   観測の夕
    大連ヤマトホテルで

大連ヤマトホテル並に東亜天文協
会満州支部主催「月と天体観測の
夕」は仲秋節の十九日午後七時半
から大連ヤマトホテルに於て行は
れた、熱心な天文フアン数十名集
合東亜天文協会員河合孝一氏の懇
切な興味深い「月の話」に聞き入
り予備知識を得た後煌々と中天に
輝く明月、木星等を同氏の指導の
下に交る/\観測秋空に煌めく天
体の神秘を心ゆくまで探り天晴れ
天文フアンとなつて同九時すぎ盛
会裡に閉会した(写真は天体観測)

  

参考文献
上記(46)の出典は昭和11年9月30日付満洲日日新聞朝刊7面「けふのメモ」=マイクロフィルム、 資料その20(1)は同年8月29日付同朝刊5面、同、 同(2)は同年9月20日付同夕刊5面「秋日随想」より、同、 同(3)は同年9月29日付同朝刊5面、同、 同(4)は同年9月30日付同朝刊7面、同、 同(5)は同年10月1日付同朝刊11面、同、 同(6)は同年11月22日付同朝刊5面、同、 資料その21は同年6月28日付同朝刊3面、同、 (47)と(48)と(49)は新天地社編「新天地」16巻10号100ページ、同年10月、新天地社=館内限定近デジ本 資料その22は昭和11年9月22日付満洲日日新聞朝刊3面=マイクロフィルム、 (50)は南満州鉄道株式会社編「南満州鉄道株式会社社報」8875号90ページ、昭和11年12月11日発行、南満州鉄道株式会社、同、 (53)は同8983号5ページと10ページ、昭和12年5月1日発行、同、 (51)は川副保著「灯」43ページ、昭和11年5月、ホテルタイムス=館内限定近デジ本、 (52)は小沢愛圀編「三田評論」472号61ページ、「各地三田会」より、昭和11年12月、三田評論発行所=慶應義塾、 (54)は南滿洲鐡道株式会社編「規定類纂第一編通規第二類庶務抄本」11ページ、昭和19年発行月不明、南滿洲鐡道株式会社、同、 (55)は伊藤和夫ほか著「銃後の花」107ページ、昭和12年発行月不明、陸軍画報社=近デジ本 資料その23(1)は昭和12年6月25日付満洲日日新聞朝刊5面=マイクロフィルム 同(2)は同年7月3日付同朝刊5面、同、 (56)は同年8月31日付同朝刊7面広告、同、 資料その24(1)は同年9月18日付同夕刊2面、同、 同(2)は同年9月20日付同朝刊7面、同

 次は昭和13年の大連。この年は9月半ばから雨が降らなかっっため、貯水池が干上がって、大連市民は花より団子じゃない月より豪雨。節水に悲鳴を上げ、工場では新規の井戸掘りをはじめるやら飲み水が心配で、名月とジンギスカンはどうでもよくなっていたらしい。資料その25(1)と(2)は定番の記事で、家庭欄には北京市民の袁遼済氏に解説してもらった「今夜は中秋名月/満支人の風習を聴く」が載っていますが、ジンギスカンを食べながらの名月観賞会の予告記事はなし。10月8日から毎日14時間断水になる直前、待望の雨が降り始めたことを同(3)が伝えています。

資料その25

(1)
 事変下に
  再度迎へる『中秋節』

菊花の酒を飲む、十月に入れ
ば満洲国人喜びの明月、いよ
/\今夜に迫つた秋の節句を
控へて昨日の小崗子寺児溝の
満人街は雑沓だ――この日百
果を餡にした餅を作つて食べ
る秋の風味に果物屋の屋台は
大繁昌、兎が餅をつく中秋月
餅のほや/\が軒に下つて客
を呼ぶ、梨、蓮根、棗の実が
売れる、子等は蟋蟀を闘はせ
て遊ぶ、時局下の満洲に再度
迎へた観月の節句も悠々風趣
ある友邦国民の頼もしさ……
明け方の露を受けて墨をすり
文字の國の上達を祝ふ日だ
(写真は満人街の雑沓・検閲
済み)


(2)
 けふ中秋節
  寂しい大連埠頭

兎が餅をつく中秋節の八日、街に
は着飾つた姑娘や小孩連が三々五
々打連れて散策してゐるが、この
日ばかりはさすがにゴツタ返す大
連埠頭の岸壁荷役もピタと止み、
約一万人近くの苦力が毎日出動す
る作業陣営も寥々たる寂しさ、急
を要する仕事だけが続けられてゐ
るばかりだ、ウヰンチの音もなけ
ればトラツクの轟きもなくミナト
大連の心臓の鼓動を休止した


(3)
  降つた雨は
   タツタ一日分
    大連の水飢饉解消せず

ザーツ、ザーツ♂ス十日間か、
大空を眺めては、心憎いまで澄み
とほつた空の色に絶望を感じてゐ
た大連市民の頭の上へ、胸に沁み
入るやうな慈雨が、八日の午後一
時から降り始め、秋雨の癖として
むら気の降り方だつたが、兎も角
九日の朝七時まで続いた、この日
は水飢饉の苦しみから逃れるため
最後の対策たる時間給水≠フ第
一日であり、年に一度の中秋節だ
つたため、五十萬の市民は窓外に
こゝちよく降る雨の音を聴き乍ら
明け方まで、まんぢりともしなか
つた、このため九日の街々は樹木
も大地も舗道を行く人々も何カ月
振りに溌溂と動いてゐた<略>

 支那事変が2年続き、9月1日から毎月1日は興亜奉公日といって「戦場ノ労苦ヲ想ヒ、自粛自省、的確ニ之ヲ実際生活ノ上ニ具現シ、一億一心、興亜ノ大業ヲ翼賛シ、以テ国力ノ増強ヲ図リ、強力日本ノ建設ニ邁進スルノ日(57)」となった。「おやじの昭和」という本に「奉公日には、バー、料理屋などは早仕舞、ネオンを消し、酒も売らぬという。何事も非常時である。煙草屋でバットを買って、家に急ぐことにする。それに八月の半ば「回覧板」ができ、隣組の往来がさかんになって、とかく不自由な世のなかになったのである。(58)」と書いてあります。もう何でも節約あるのみになったから、資料その26のように、中秋節の紙面にはジンギスカンのジの字もありません。

資料その26

(1)
 港もけふ許りは
  シーシと静り返る
   仲秋節で苦力は休み

秋色濃く稔りの秋酣なけふ二十七
日の仲秋節、一年三百六十五日殆
ど休日なしに入船、出船で賑ひ、
荷役作業のクレーン、ウインチの
響音が世界経済の脈拍の如く高ら
かに響き轟く大連埠頭も今日だけ
は休業だ、埠頭事務所も要所々々
を固める監視係を配置したほかは
臨時休業、それに二万数千名の福
昌華工の苦力等も十五夜お月様
≠迎へるために碧山荘で観月の
宴を張り精一杯の御馳走
 入港船は奉天丸、遼河丸のほか
 十二、三隻、出帆も大阪商船日
 満航路の扶桑丸、天津航路北京
 丸と諾威船ハイビング号の三隻
 といふいつもの五分の一位の出
 入港振りであつた(写真は静か
なけふの埠頭=検閲済)


(2)
  明粧隠す憎い薄雲
   この夜お月さん頬冠り

 ◇…秋足短い大陸の蒼空に懸る
二十七日仲秋節の月は生憎と昼
間から懸念された薄雲が晴れず、
芝居の畫割の如く朧に淡く中天に
浮く月は遂に笑顔を見せず、宵待
月にお月見団子、尾花に託した乙
女の純情も出渋つた月に感傷の色
のみ濃く物淋しい仲秋の名月だ
つた
 ◇…ただ小崗子、寺児溝の満人
街だけは店頭に飾られた仲秋月餅
に満洲情緒を湛へ一号系統、四号
系統は月はなくとも電車増発して
の賑ひの裡に暮た

  

参考文献
上記資料その25(1)の出典は昭和13年10月8日付満洲日日新聞朝刊5面=マイクロフィルム、 同(2)は同年10月9日付同夕刊2面、同、 同(3)は同年10月10日付同朝刊7面、同、 (57)は「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A02030125700、公文類聚・第六十三編・昭和十四年・第五十八巻・官職五十五・任免二・分限・雑載、族爵・記章、儀典(国立公文書館)」、 (58)は遠藤一夫著「おやじの昭和――戦前の暮し方と日章旗」175ページ、昭和56年10月、ダイヤモンド社=原本、 資料その26(1)は昭和14年9月28日付満洲日日新聞夕刊2面=マイクロフィルム、 同(2)は同日付同朝刊7面、同

 大連の中秋節の新聞記事にジンギスカンが出てこなくなっては仕方がない。昭和14年で打ち止めにして新京の講義で取り上げた山下商会のジンギスカン鍋を話しましょう。山下商会は暖房器具の製作販売が本職で、同じ大連の佐々木商会と激しく特許争いをしていました。資料その27の(1)と(2)は、その経緯と頑張っても無登録では勝てず山下が負けたという記事です。同(1)には釜を上から見た写真が付いているが、風呂場の排水孔をのぞいたように見えるだけなので省きました。

資料その27

(1)   山下式
   ペチカ の特許争ひ
    今度は釜へ火
     實用新案権侵害で告訴

「山下式ペチカ」をめぐる大連市
対馬町一一佐々木熊太郎氏と大連
市監部通一二〇山下卯之助氏の新
案特許争ひは三年來告訴ごつこを
続け目下関東地方法院民事部で係
争中だが今度はペチカから釜へ喧
嘩が進展、佐々木氏は木原弁護
士を代理に山下氏を実用新案権侵
害で六月十日大連検察局に告訴し
た犬猿も只ならぬよう睨み合つて
ゐる二人は一緒に軍隊の飯を食ひ
合つた無二の親友で山下氏の考案
でペチカをつくり売り出したが当
時山下氏は軍属で表面に名を出せ
ず共同事業で数年間販売して大い
に名声を博したが間もなく利益金
の分配から意見衝突し山下式ペチ
カの本家争ひが起り昔の親友が仇
敵視する険悪な仲となり告訴とな
つた問題の釜は、佐々木氏が昭和
七年六月卅日出願、昭和八年三月
十七日実用新案の登録した落し蓋
と形態同一の作用効果を有するも
のを二重落しと名づけ山下式置ペ
チカに対応して販売し製作販売の
中止を内容証明で警告したが応ぜ
ず大量の注文を引受け製作してゐ
るといふ佐々木氏側では刑事告訴
のほか地方法院に仮処分を申請、
差押へて了ふといきまいて居る【
カツトは山下氏販売の二重落】

  眞似は向ふ様
   山下氏側の談

山下卯之助氏は新京出張中で妻女
サト子さんは語る
 佐々木さんから内容証明が來て
 ゐましたが、實用新案の釜だと
 いふ佐々木さんのものはあの人
 が造られる一年ばかり前から私
 の方で造つて売り出してゐたの
 を佐々木さんが真似て造り登録
 したので私の方では登録こそし
 て居ませんでしたが今頃かれこ
 れ言はれる理由はないと思ひま
 す


(2)
  昭和竈に軍配
   山下式との實用新案権争ひ

奉天鐵西に工場を有し満蒙北支に
廣く販路を開拓しつゝある大連市
対馬町十一番地昭和竈発売元佐々
木商会主佐々木熊太郎氏は先きに
類似品の発売をなしてゐる山下式
竈の山下卯之助氏に対し実用新案
登録無効訴訟を提訴勝訴となつた
ので被告側では抗告中であつたが
第二審においても山下式竈の実用
新案登録は実用新案法第四条本文
の規定に違反してなされたるもの
にして同法第十六号第一次第一号
の規定により無効の審決あり佐々
木氏の勝訴に帰した

 山下式ペチカとストーブはさておいて、山下は昭和11年に肉焼器の実用新案を申請していました。その書類が資料その28です。数年前にね、研究仲間が山下の2つの出願書類と山下と同じ大連の大信洋行が出した焙焼器の出願書類を見付けて私に送ってくれたのです。それで私は自分のデータべースにそれぞれの要点を保存し、構造図などのプリントはビニールの資料袋に入れて保存したのですが、申し訳ないことに實はその資料袋が行方不明になっちゃった。
 約200袋に5種類ぐらいずつ資料が入っているので、総当たりで探すのは容易でない。おまけに特許情報プラットフォームサービスが平成26年春から変わったため、どうも独りでうまく捜せない。思い切って特許庁の中にある独立行政法人の工業所有権情報・研修館に行き、相談員の方から検索法を教わりました。
 これは非常に勉強になりましたね。出願された実用新案を地図に見立てると、ジンギスカン鍋は「A47J」県の「37/06」町の「351」番地にあるのですね。A47Jは「台所用具;コーヒーひき器;香辛料ひき器;飲料を作る装置」、37/06は「ロースター;グリル;サンドウイッチグリル」、351は「ジンギスカン鍋(焼き調理以外にも使用できる場合は27/00も付与)」に区分けされる。それで351を見たら大正15年から平成27年春までで合計161件もあるんですね。戦前分は昭和13年より後がなく11件出ており、山下の出願は昭和12年の9番と同13年の10番目なっていました。
 最初に出願して特許7824号になったのは横濱の川口一夫氏考案の焙器です。これはL型の隙間の角が頂点になるよう4つ組み合わせたドーム形の焙り台の上に、同じような隙間の焙り板を重ねて、火が直に肉に当たらず、また油が火の上に落ちないようにした二重鍋でフライパンのような柄付きでした。(59)名前こそ違うけれど、ジンギスカン鍋の特徴といえる焼き面の中央がこんもり高い形は、もう初めからだったんですね。
 出願したときの器具名は焙焼器か肉焼器のどちらかで「実用新案ノ性質、作用及効果ノ要領」でジンギスカン用とはっきりうたったのは昭和8年出願の東京の山岸八造氏の肉焼器が初めてで「本案ハ主トシテ支那料理中ノ肉焼会食(蒙古『ジンギスカン』焼)料理ニ使用スル器具ニシテ(60)」と説明していました。
 資料その28は山下が先に出願した肉焼鍋の説明と構造図です。深皿を伏せたように中高になるように曲がった鉄格子を並列させたロストル型です。ある程度幅のある格子の上面は、狸小路の横綱店主の合田正一氏が考案したのと同じく脂をなるべく火中に落さないように凹レンズ型になっているんですね。格子のこの凹みを伝わって流れる脂は周環に設けた脂溜めと私が呼ぶ4つの窪みにたまるようなっています。
 この焼き面では、格子の隙間からぼたぼた脂が火の中に落ちて煙が立ちますね。北大に入って何度もジンパをやっているから、よくわかるでしょう。そこです。山下さんは肉からの「油ハ滴下セスシテ」とだけ説明して煙について書いていません。良心的な説明というべきですかね。はっはっは。

資料その28

昭和十二年 実用新案出願公告第八一五五號
  第百二十九類 三、焙焼器     願書番号昭和十一年第一九七八三号
                   出願  昭和十一年六月十七日
                   公告  昭和十二年六月九日

                関東州大連市監部通一二〇番地
                  出願人 考案者 山下卯之助
                東京市麹町区丸ノ内三丁目二番地
                  代理人 辮理士 中松盛雄
                           外二名

       肉焼鍋

圖面ノ略解
 第一圖ハ本實用新案肉焼鍋ノ部分縦断面圖第二圖ハ同平面圖ナリ

実用新案ノ性質、作用及効果ノ要領
 本実用新案肉焼鍋ハ上面ニ凹溝(1)ヲ有スル湾曲格子(9)ヲ周囲ニ凹溝(8)ヲ有スル鍋(4)ノ中空短筒(5)ノ上部ニ並列シテ橋架シ周囲ノ凹溝(3)ノ適所ニ凹窩(7)ヲ設ケ且鍋ニ提柄(6)ヲ附シタルモノトス
本實用新案ノ肉焼鍋ハ焜炉(8)ノ上部ニ載置シテ使用スルモノニシテ焜炉ノ火熱ニヨリ格子(2)ヲ加熱シ其上ニ肉ヲ載スレハ肉ハ格子及其間隙ヲ通ル火気ニヨリテ焼カレ其際生スル油ハ格子上面ノ凹溝(1)ヲ通テ鍋ノ周囲ノ凹溝(3)及凹窩(7)ニ集リ充分焼ケタル肉ハ之ヲ周囲ノ凹溝(3)又ハ凹窩(7)ノ熱油中ニ置ケハ永ク柔味ヲ保チ特殊ノ風味ヲ有ス而シテ鍋ハ提柄ニヨリテ容易ニ掛ケ外シ得ヘシ
本實用新案ノ鍋ハ構造簡単ニシテ格子及其間隙ヲ通スル火氣ニヨリ熱ヲ損セスシテ極メテ迅速ニ肉ヲ焼キ得ヘク然モ油ハ滴下セスシテ周囲ノ凹窩ニ溜ルヲ以テ焼ケタル肉ヲ之ニ漬ケ永ク柔味及風味ヲ保タシメ得ルト共ニ提柄ニヨリ掛外シ自在ナル効果アリ

登録請求ノ範囲
 圖面ニ示ス如ク上面ニ凹溝(1)ヲ有スル彎曲格子(2)ヲ周囲ニ凹溝(3)ヲ有スル鍋(4)ノ中空短筒(5)ノ上部ニ並列シテ橋架シ周囲ノ凹溝(3)ノ適所ニ凹窩(7)ヲ設ケ且鍋ニ提柄(6)ヲ附シタル肉焼鍋ノ構造

   

 研修室の相談員の方の調べによると、この肉焼鍋は昭和12年9月15日付けで実用新案242109として登録されたのに対して、資料その29にした2つめの出願は、なぜか出願無効扱いになっているそうです。こちらは格子ではなく襞のような焼き面の頂点に煙突を付けたものでした。これなら隙間がないから完全に肉と火は隔離され、ぼた落ちの煙は立たないですね。山下がこういう鍋も考え出したということで取り上げました。
 山下は昭和11年10月に新京で開かれた暖房器具展覧会の広告から製品名に成吉斯汗鍋を入れており、昭和14年の大連での器具展広告でも、ちゃんと入っているから、多分242109の方を造り販売は続けていたとみられます。鍋の写真は残念ながら見つかっていません。

資料その29

昭和十三年 実用新案出願公告第五三六九號
  第百二十九類 三、焙焼器     願書番号昭和十二年第一五〇九五号
                   出願  昭和十二年五月七日
                   公告  昭和十三年四月十四日

                関東州大連市監部通一二〇番地
                  出願人 考案者 山下卯之助
                東京市麹町区丸ノ内三丁目二番地
                  代理人 辮理士 中松盛雄
                           外二名

       肉焼鍋

図面ノ略解 
 第一図ハ本實用新案肉焼鍋ノ一部切欠セル正面図第二図ハ同平面圖ナリ

實用新案ノ性質、作用及効果ノ要領
 本實用新案ハ成吉斯汗鍋ト称スル肉焼鍋ノ考案ニ係リ中腹部(1)ヲ上方ニ向ヒ球面状ニ彎曲スル突條(2)及凹溝(3)ヲ放射状ニ設ケ其周縁部ハ周鍔(4)ヲ有スル環状凹溝(5)ニ連絡セシメタルモノナリ
尚図面ニ於テ中腹部(1)ノ中心ニハ上方ニ突出スル管(6)ヲ形成シ之ニ筒管(7)ヲ嵌装シ其上端ニ湯沸臺(8)ヲ設ケ之ニ取外シ自在ニ蓋(9)ヲ嵌合セシメ其通氣孔(10)ト一致スル通氣孔(11)ヲ有スル蓋(12)ヲ更ニ其上方ニ重置セリ(13)ハ凹溝(5)ニ設ケタル凹窩(14)ハ焜炉(15)ハ其把手ナリ
本實用新案ノ肉焼鍋ハ焜炉(14)ノ上部ニ載置シテ使用スルモノニシテ混炉ノ火熱ニヨリ鍋ヲ加熱シ其上ニ肉ヲ載スレハ肉ハ突條(2)及凹溝(3)間ニ跨リテ熔焼セラレ其際生スル油ハ放射状凹溝(3)ヲ通シテ鍋ノ周囲ノ凹溝(5)及凹窩(18)二集リ充分焼ケタル肉ハ之ヲ前記ノ凹溝又ハ凹窩ノ熱油中ニ置ケハ永ク柔味ヲ保チ特殊ノ風味ヲ有ス又臺(8)ニハ湯沸ヲ載置シ通気孔ヲ加減シテ湯沸カシ或ハ酒ヲ暖ムルコトヲ得ヘシ
本實用新案ノ鍋ハ中腹部カ上方ニ球面状ニ膨出シ之ニ放射状凹溝ヲ備フルヲ以テ肉油ハ四周ニ均等ニ流出シ肉ヲ平均ニ焼キ得ルノミナラス格子状ノ彎曲桟ヲ用ヒサルヲ以テ桟ノ間隙ヨリ灰又ハ塵埃等ノ飛散シ又ハ肉ニ附着シ油ニ混入スル等ノ虞無ク家庭用トシテ頗ル適切ナリ

登録講求ノ範囲
 図面ニ示ス如ク中腹部(1)ヲ上方ニ向ヒ球面状ニ彎曲セシメテ之ニ波状ニ彎曲スル突條(2)及凹溝(3)ヲ放射状ニ設ケ其周縁部ヲ周鍔(4)ヲ有スル環状凹溝(5)ニ連絡セシメタル肉焼鍋ノ構造



   

 戦前の出願の最後、11番目は東京蒲田の堀内初馬という人の考案した鍋と焜炉です。これは私がUFO型と呼んでいる鍋と焜炉でね。それを大連の大信洋行という商社が出願(61)していました。書類は略して鍋と焜炉の説明図を資料その30にしましたが、どこかで見たような気がしませんか。
 それそれ、ちょっと脚の長さが違うけど、大井春秋園が「痛快無比 成吉思汗料理」と出した広告の鍋の絵に似てるでしょう。忘れた人は私の講義録の「力士が春秋園事件で食べたジンギスカン鍋」を見なさい。春秋園が開店してから5年も後なので、案外堀内さんは春秋園の鍋を見て思い付いたのかも知れませんよ。大信洋行は日露戦争の後、製銅所を稼働させ(62)、それで発展して大正8年からは特許煖炉の製造販売など手広く商売をしていた商社(63)だったし、大連市内でも山下商店に近い所にあったから、堀内のアイデアを生かして、山下よりスマートなジンギスカン鍋を手掛けようとしたのではないでしょうか。これが製品として売り出されたのかどうかはわかりませんが、このように鍋や外箱から特許の番号がわかれば出願人まではたどれるのです。

資料その30

     

 山下鍋はどちらも私が周環と呼んでいる平らな縁「鍋ノ周囲ノ凹溝(3)」があります。私は周環が付き、それがめくれ上がって縁が出来たのは、戦後ね、女子供もジンギスカンを食べるようになり、がさましに野菜を入れるようになってからだと公言してきたが、昭和10年代から現れていたとなると、使い方は別としても変遷の過程は考え直さねばならん。
 恐らく山下は満洲で軍務に服しているとき、周環の幅の狭い大信洋行の鍋みたいな鍋と焜炉を手に入れて使ってみた。それで、もっと幅が広ければ「充分焼ケタル肉ハ之ヲ周囲ノ凹溝(3)又ハ凹窩(7)ノ熱油中ニ置ケ」るから便利だと、こういう構造を思い付いたのではないかな。山下の新案出願は「肉焼鍋」だけで、焜炉は入っていない。繰り返しになるが、日本人は満洲式の鍋と焜炉の鍋だけを取り入れたという尽波説を補強してくれる点で、山下鍋はまことにありがたい鍋なんだ。はっはっは。終わります。
 (文献によるジンギスカン料理関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、正当な権利者のお申し出がある場合やお気付きの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)
  

参考文献
上記資料その27(1)の出典は昭和10年6月28日付大連新聞朝刊7面=マイクロフィルム、 同(2)は同13年6月29日付大新京日報朝刊1面、同、 (59)は「大正十五年出願 特許第六八二八二號 第百二十九類 三、焙焼器」書類より、 (60)は「昭和八年 実用新案出願公告第六六八九號 第百二十九類 三、焙焼器」書類より、 資料その28は「昭和十二年 実用新案出願公告第八一五五號 第百二十九類 三、焙焼器」書類より、 資料その29は「昭和十三年 実用新案出願公告第五三六九號 第百二十九類 三、焙焼器」書類より、 (61)と資料その30は「昭和十三年 実用新案出願公告第一三三九二號 第百二十九類 三、焙焼器」書類より、 (62)は芳賀登ほか編「日本人物情報大系 11」484ページ、昭和平成11年10月、皓星社=原本、 (63)は同12365ページ、同、