300人ジンパも引き受けた新京ヂンギス館

 いまの中国吉林省の長春市は満洲国時代は新京特別市、略して新京と呼び、首都でした。大正2年に中村満鉄総裁が北京で食べた烤羊肉を韃靼式すき焼きなどと称して大連の邦人に紹介し、そこからジンギスカン愛好者が拡がっていったと仮定すると、当然新京より大連に近い奉天、いまは瀋陽と昔の地名に戻されているが、奉天の方が在住邦人も多かったから、奉天情報がほしいところですが、いかんせん、まだ少ない。平成3年に瀋陽に半年滞在して奉天時代に発行された日本語の新聞を研究してきた明大の故池田一之教授が書いた「記者たちの満州事変」という本には、そのころ遼寧省図書館の倉庫に「奉天毎日」「奉天日日」「奉天新聞」などが未整理のまま放置されていた(1)とあります。いま遼寧省図書館のホームページで、例えば「奉天日日」で検索して出てくる短文をグーグルで訳させると「レコードを取得できません!」となる。どうやらずーっと放置された儘らしい。こういう事情なので奉天は後回し、新京のジンギスカン事情を取り上げます。
 新京については新京日日新聞の広告が実にいい情報源でした。いま配る資料のほとんどは、ざっと5年分の新京日日から抜きだした記事と広告のコピーです。はい、後ろへ渡して。
 奉天にいた詩人木下杢太郎が「瀋陽城内の回回教の料理屋」で何度か食べた(2)と大正15年に出した本に書いているのと、歌人の斉藤茂吉は「大成潔君を憶ふ」という追悼文に「私もまた昭和五年の暮に満洲を旅したとき、奉天でいろいろ世話になつた。ジンギスカン料理といふのを大成君が私に馳走した。また同級生の森川千丈君がまだ丈夫の頃なので、三人で酒も飲んだ。今の宣撫班長八木沼丈夫氏が私の案内役だつたので『齋藤は偉いよ。満鐵の高級社員をお伴にしよる』などといつて笑つたりした。また大成君の自宅で満洲鍋をつついた時にも、支那語の話がいろいろ出たし、教室の話などもいろいろ出た。(3)」と書いてます。木下の本職は医師であり大正9年に帰国しているが、木下が見付けた料理屋が医師の間で伝わり、茂吉さんと東大医学部の同期生の大成さんは、そこへ招いたことが考えられます。
 奉天のジンギスカンについて書いたものは、もう1点、濱田恒之助と大山長資共著の「わが植民地」が見付かったので資料その1にしました。濱田は前内閣拓殖局長、大山長資は前内閣拓殖局嘱託という肩書き(4)でね。内容は大正13年に内閣拓殖事務局長になったばかりの濱田が大山をお供に連れて、張り切って受け持ちの関東庁と朝鮮、台湾両総督府、樺太庁とそれぞれの管内(5)を視察した記録です。ほとんど大山が書き、濱田は意見と俳句を少し書き加えた程度です。
 日記スタイルではないけれど、ジンギスカンを食べた日は「明くれば二十三日今日は割合に暖かい、又元の外套いらずの暖かさに帰りさうである、空も一碧に晴れた。」とあり、午前中泊まった瀋陽館で濱田が民間有志と会って事情聴取をしており、それから鎌田の案内で料理店へ出掛けた(6)ことになっています。
 「日本人物情報大系」の飛び飛びの満鉄社員録と職員録によれば、案内した鎌田は満鉄奉天公所長で大正10年から所長で昭和4年の名簿にも載っています。(7)
 大山は「鎌田さんは満鉄の支那通で、張作霖を始め奉天官場の人とは古い馴染である、従つて満鉄と張作霖との関係は一人で背負つて立つてゐると謂つてもよい位、支那に長く居るだけに、その生活も全然支那化し、支那食を食ひ、支那服をつけて、悠々迫らざる處は、慥かに支那大官の俤がある。さういへば容貌まで支那化したやうに思はれる、しかしその精神や気魄までは支那化して居るまい。(8)」と書いているから、カオヤンローは飽き飽きしていたかも知れませんね。
 濱田と大山は午後2時まで食べ、3時発の列車で安東に向かい、24日に朝鮮入りした(9)とあるので、食べたのは11月23日ですね。細かいことですが、濱田の肩書きが拓殖事務局長ではなく拓殖局長になっているのは、大正13年12月に官制が変わった(10)ためです。ともあれ大正13年に奉天の日本人社会ではカオヤンローをジンギスカン鍋と呼んでいた確実な証拠です。

資料その1

      氣分を味ふ成吉思汗鍋

<略> 正午から城内に入つて、鎌田さんの御案内で、満洲氣分タツプリな成吉思汗鍋なるものを試食することになつた。
 又しても小西邊門から小西門の雑踏の中を潜り抜りて、到着したのが大きな三層樓の飯店、そこは羊の料理で有名なのだといふ、グル/\と廻廊見たやうな恐ろしく高い階段を登つて腰を卸したのが一角の二室、そこに大きな丸卓を据ゑて、大きな神仙爐が中央に置かれる、酒は矢張り昨晩のやうな氷砂糖を入れて飲む支那酒、焼肉のやうに大きく剥いだ羊の肉、夫れに寄せ鍋のやうにいろ/\な野菜を入れる、何んな支那臭を嫌ふ人でも舌鼓を打つて食べられる、お酒がいゝ加減にまわつて顔がボツトなる頃、愈々我<原文のまま>吉思汗鍋の準備が出來たとあつて、一同下の土間に降りる。
 三間に五間ばかりの土間、そこに大きな腰高の鐵鍋が据ゑられて、その鍋を爐の代りにしてどんどん焚火をする、その焚火の上に渡し(がね)をかけて、その焚火でヂカに羊の肉をヂリ/\焼く、脂が垂る、ボツト黒烟を立てゝ燃え上る、肉は煤けながら()ける、焚火の煙りと脂の烟りとが、家の中を一ばいに立ち昇る、その中で眼をこすり乍ら、長い箸を採つて、その煤けた燻り臭い肉に、味噌のたれとか醤油のたれをつけて食べるのである。
 その昔、成吉思汗が蒙古に起つて、北支那一帯を征服するに當り、四顧茫漠たる砂原に陣を張り、斯ういふ風な鍋を露天に並べて、羊の肉を焼いて食べた、といふのが抑々濫觴で、此の古事に倣つて奉天に此の鍋が残てるのだといふ、いかにも原始的な處、それが蒙古砂漠の夕暮れ、煙のの高く立ち昇る光景なども想像されて、成吉思汗の当時の俤も偲ばれるやうな感じがする。
 鎌田さんは、肉の味よりも、氣分を味はつて下さいといふ、無論氣分は充分に呑み込めたが、肉の味そのものも中々棄てられない、何れも舌鼓を打ち乍ら、思はず二椀三椀と御飯の量も進んで、満腹になるのも知らずに食べてしまつた。

  

参考文献
上記(1)の出典は池田一之著「記者たちの満州事変」62ページ、平成12年4月、人間の科学新社=原本、 (2)は木下杢太郎著「支那南北記」158ページ、大正15年1月、改造社、同、 (3)は斉藤茂吉著「斉藤茂吉全集」10巻90ページ、昭和29年1月、岩波書店、同 (4)は濱田慎之助、大山長資著「我が植民地」1ページ、昭和3年2月、冨山房=原本、 (6)は同230ページ、同、 (8)は同203ページ、同、 (9)は同255ページ、同、 (5)は内閣印刷局編「職員録 大正13年7月1日現在」3ページ、大正13年10月、内閣印刷局=国会図書館インターネット本、 (7)は芳賀登ほか編「日本人物情報大系 第16巻満洲編6」197〜471ページ、平成11年10月、皓星社=原本、 (10)は内閣印刷局編「職員録 大正14年7月1日現在」官制1ページ、大正14年9月、内閣印刷局=国会図書館インターネット本

 さて、新京ですが、私が見付けた新京で最も古い記録は昭和7年。資料その2は満鉄長春検車区で働いていた宮沢章氏が昭和7年暮れ、独身寮の仲間と寒中に食べたその思い出です。満州で発行された新聞、雑誌をもっと調べれば、より古い話が見つかるような気がするけど、目下はこれだけです。

資料その2

 又その年の暮も迫ったある日の朝、戸田兄の音頭で前記の仲間の他寮員に呼び掛け有志二十名ばかり我慢会といって零下三〇度の寒さの中、近くの敷島公園の屋外で成吉思汗料理にビールの忘年会をした事があった。昔蒙古の成吉思汗が遠征の途次、軍の志気鼓舞のため行った、屋外で木炭を焚きその廻りに胡坐し鉄板の特殊な用具で部厚な輪切りの羊肉を焼いて食するもので、皆防寒装備であったが、冷たいビールも結構飲めた覚えがある。季節外れの催し物に通行人の見世物となった。<略>

 昭和10年の暮れの新京日日新聞に繁華街、祝町2丁目に地下1階、地上5階建ての雑居ビルが完成し、そのテナントを募集する広告が出ます。「本ビルハ新京附属地の中央ニ在位シ唯一ノ鉄筋『コンクリート』建築ニシテ、三階四階、五階共屋上に遊歩場を設ケ冬季ハ『スケート』場ニ夏季ハ納涼『ホール』ヲ設備ス」とうたい、3階から上は36室のアパートは「「凡テノ要素ヲ具現スベク意ヲ用ヒ新京市ニ於ケル最低ノ価格(11)」だと入居者を募っています。このときビル地下に公衆浴場、遊戯場、1階と2階は飲食店14軒を入れたいとしていましたが、新京日日新聞の広告を見ていくと次々と飲食店が入居したことがわかります。
 12月24日に1階の角に喫茶店白十字が開店(12)翌25日に惣菜店みづやが開店、開店記念奉仕として7寸角4重詰めを8円で売り出したらすぐ売り切れて、後でお詫び広告(13)を出しています。さらに27日には1階のさくら屋布団店が開業(14)しています。
 昭和11年は元日から開場と青陽写真場の広告(15)が登場、1月17日にはおでんの千太郎も入居して「いよ/\開店」(16)の縦5段の広告を出し、浪花寿司が新築移転したと広告(17)を出します。また十五屋という菓子店の移転は市井の細々した記事を並べる「街の日記」で「福だんごと徳いなりで有名な十五屋は二十九日華々しく開店披露をした(18)」と取り上げられています。
 この青陽ビルに日の出湯が開業したのがきっかけだと思うのですが、新京にこんなに風呂屋が増えては、やっていけないと湯屋組合が新規開業にブレーキを掛けてくれと陳情した記事があります。青陽ビルは2月下旬から「医院、美容院、会社。商店 等恒久営業に最適」と2階から上のテナント受け付けを始め(19)、7月まで全部埋まったようで、資料その2にしたビルの絵に各入居者の名前を入れた大きな広告を新京日日新聞に5回も出しています。
 この広告の中にある名簿によると、ビルに入ったのは地下は日の出湯、撞球場、バーの3軒、1階は浪花鮨、天麩羅の国天、総菜店のみづやなど9軒、2階と3階には写真館や歯科医院など7軒でした。このビル屋上に、後にジンギスカン料理店が開店したので、せめてビルの写真でもと探したのですが、見つかりませんでした。
 それから新京日日新聞の12月の広告で私が注目したのは中央飯店の開店広告(20)です。この店の昭和13年の「北京料理・西洋料理献立表」(21)が国会図書館の近代デジタルライブラリーで見られますが、その熱菜類の中に烤羊肉(22)が載っている。開店当時のメニューではないのが惜しまれるが、劉店主の挨拶に北京からコックを呼んだとあるから、北京の日本人はジンギスカンと呼んで烤羊肉が好きだという情報がコックを通じてもたらされ、メニューに加えたことが考えられます。ただ献立表についている建物の写真を見ればわかるが、2階建てで窓が20以上並ぶ堂々たるホテル風で、とても煙もうもうのジンギスカンも食べさせる料理屋には見えないので、日本人はあまり寄りつかなかったのではないでしょうか。

資料その3

  

  

参考文献
上記の資料その2の出典は宮沢章著、宮沢逸夫編「満州回顧 苦節、満鉄の二十年」90ページ、平成9年5月、南信州新聞出版局=原本(私家版)、 (11)は昭和10年12月2日付新京日日新聞夕刊3面=マイクロフィルム、 (12)は同年12月26日付同夕刊4面、同、 (13)は同日付同朝刊7面、同、 (14)は同日付同夕刊4面、同、 (15)は昭和11年1月7日付同夕刊2面、同、 (16)は同年1月17日付同夕刊3面、同、 (17)は同年2月24日付同夕刊1面、同、 (18)は同年3月2日付同夕刊2面、同、 (19)は同年2月23日付同朝刊1面、同、 資料その3は同年7月13日付同夕刊2面、同、 (20)は同年12月14日付同夕刊7面、同、 (21)と(22)は中央飯店編「北京料理・西洋料理献立表」86ページ、昭和13年8月、中央飯店=近デジ本

 このころ新京の日本人は6万3000人、うち、内地出身者は5万6700人(23)に達しており、県人会が盛んに活動していました。東文雄の「朝鮮・満洲・支那・大陸視察旅行案内」によると、主要都市の府県人会数では新京が38でダントツ、2位奉天の22、大連でさえ18(24)ですからね。
 思うに、首都で政府関係者、主要会社の本社が集まっている割には、建国後間もないので横のつながりがなかったので、こうした組織を通じて雑情報を仕入れようとしたのではないかなあ。3月になると新京日日新聞には「何々県人へ」「何々県人にお知らせ」「何々県出身者に告ぐ」と加入呼びかけの広告が沢山載ります。そして4月に入ると西公園、大同公園などで県人会主催の野遊会、家族会を開く。そのほか職場とか団体の野遊会も盛んなので、テント張りなど会場作りの専門業者は春秋この時期、ご用命をと広告を出しています。何円かの会費を取り弁当を配るとか、おでんなどの模擬店でたべられるようするなどやり方はさまざまですが、昭和11年春はジンギスカンを食べるというお知らせは見つかりません。
 そこに目を付けたと思われるのが、精養軒というカフエーです。新京日日新聞の昭和11年5月23日付夕刊1面に資料その4にした高さ2段のジンギスカン提供の広告を出したのです。新京で初めてのこの地味な広告は左端にありますが、その右側には翌24日に開く福岡県人家族会、石川県人野遊会の案内広告が並んでいるのですから「野外料理に好適」というキャッチフレーズは効きますよね。今や公主嶺まで行かなくてもジンギスカンは新京でも食べられるよという画期的な宣言だ。ただ「野外料理の好適」といいながら、東一条通の我が精養軒まで食べにきて―という捻りが、はっはっは。おかしいよね。

資料その4
         

  

参考文献
上記(23)の出典は昭和11年5月10日付新京日日新聞夕刊2面=マイクロフィルム、 (24)は東文雄著「朝鮮・満洲・支那・大陸視察旅行案内」附録303ページ、昭和14年6月、東学社=原本、 資料その4は昭和11年5月23日付新京日日新聞夕刊1面=マイクロフィルム

 ここから新京のジンギスカン合戦が始まったのです。カフエーというと、女給が客を楽しませながら酒をどんどん飲ませるというイメージで、ジンギスカンなんか食べさせる場所とは思えないのですが、新京ではカフエーと一般の飲食店の区分けがはっきりしていなかったのです。新京日日新聞の昭和8年元旦号に精養軒は「西洋料理」と住所と電話番号だけの名刺広告(25)を出しています。まるで東京の精養軒の新京支店かと勘違いしかねません。
 ところが1月10日になると「◎酒よし◎味よし◎女よし」とカフェー丸出しの広告に変わった。最上階にサッポロビールの看板があり、建物の前に10人ぐらいの人と犬1匹が並んでいる写真付きです。(26)西洋料理どこへやらのこれを1月だけでも15回,2月は14回も出したんだなあ。スライドを用意してきたから、見せましょう。左が年賀広告、右がカフエーとしての広告です。とても同じ店の広告とは思えないよね。ふっふつふ。

     

 どうしてレストランだかキャバレーだかわからん営業ができるのかと紙面を見ていたら、資料その5の記事があったのです。昭和8年ですから単位は円じゃなくて銭ですよね。定食A150は1円50銭。飲食店の定価表が見つからないので違いをきちんと指摘できないのですが、続けて記事を読んでいくと、飲食店の定価表はカフェーの洋食を丼物、麺類などの和食に置き換えたものと推定されました。
 昭和9年の広告なんですが、カフエー世界という店が大きな開店広告を出している。それには「店主 榊忠宗/日本料理主任 榊忠良/マネージヤー 林松夫/バーテンダー 萩原登次郎/司厨士長 尾崎武夫/原口兼清/相川武夫/岡田新太郎/清水秋生/堀田浅夫(27)」とある。つまり日本料理主任と司厨士長がいて、肩書きのない男たちはその配下だとすると、和洋両料理を提供し、定価表は洋食が多いことからから当時はカフエーでは、酒よりも食べる方にウエートがあったのかも知れないのです。

資料その5

カフヱーの
 飲食物定価表配布
  新京署の取締嚴重

新京署保安係では市内のカフ
エー、飲食店で最近に至るも
未だ料金表の掲示或メニユー
の設備を怠り、又は舊定価表
を掲示する等当局の指導に従
はぬ處が多々あるので、左記
の通新定価表を印刷し、各営
業者に配布すると共に同様の
価格表を必ず掲示する様嚴達
すると

カフエー飲食物料金表
品目   価格   品目     価格  品目     価格
定食A  一五〇  ハムエツグス 四五  ロールキヤベツ四〇
同B   二〇〇  チキンカツ  四〇  コロツケー  四〇
同C   二五〇  チキンシチユ 四〇  ビーフテキ  五〇
ランチ   七〇  タングシチユ 三五  ハーシビーフ 四〇
スープ
 コンソメ 三〇  ビフシチユ  三五  ポークカツ  四〇
スープ
 ポタヂユ 四〇  コキユール  四五  ポークチヤツ
                     プ      五〇
フイツシユ 四〇  チキンソーテ 四五  ライスカレー 三五
 フライ
エビフライ 時価  チキンロース 四〇  チキンライス 三五
力キフライ 四〇  チキンチヤツ 四〇  ハヤシライス 三五
          プ
オムレツ  三〇  ビフカツ   三〇  トースパン  一五
ビフオムレツ四〇  ミンチポール 四〇  フルツ    五〇
ソーダ水  三〇  コゝア    二〇  ペハーメント 四〇
コールチキン四五  カルピス   二〇  ベルモツト  四〇
コールハム 四五  レモンチー  二〇  カクテル   七〇
コールビーフ四〇  レモンスカツ 三五  ミリオンダラ 一〇〇
          シ
ヤサイサラダ四〇  シトロン内地物三五  ホツトウ一杯半六〇
              満洲物二五  イスキ
アスパラ  四〇  ゼ子ウオーカ 四〇  ポートワイン 四〇
          赤ウイスキ
コーヒ   一〇  ブランデー  四〇  日本酒内地物 三五
紅茶    一〇  ヂン     四〇     満洲物 二五
ミルク   二〇  キユラソー  四〇

 資料その5の広告を見て下さい。カフェーの定価表にない食べ物飲み物は絶対に提供してはいかんということではなかったらしい。故に資料その5(1)と(2)のような、どっちがどっちなのかわからん広告になってしまうんですなあ。カフェー・ミカサに行けば鋤焼きなども食べられたし、外国のレストランみたいに常時チップを置かせていたレストラン二葉はランチタイムはチップ不要とうたって、カフェーに差を付けたわけです。でも結局は(3)の記事でわかるように組合を分けることになったのです。

資料その6

(1)
御待シテ居リマス<横書き>
水焚・スキ焼・鍋物類
  朗かなホールと刷新なるサービス嬢が
   カフエー  ミカサ
    電話二四六八番


(2)
ノーチツプタイム開設
  開店早々に拘らず毎日満員の盛況を蒙り厚く御礼申上ます
  就きましては皆様の御昼食の御便宜を計る為め左記の時間
  をノーチツプタイムとし御奉仕致しますれば精々御利用の
  程願ひます
      午前十一時より
      午後二時まで  ノーチツプタイム
      二葉ランチ(紅茶附)金五十銭
   レストラン 二葉  電話三九四二番
        吉野町三丁目(長春座前)


(3)
カフエー組合
  飲食店組合と分離
    きのふ総会で決定

飲食店、カフエーは首都新京
の大発展とともに激増また激
増現在七十三軒、カフエー二
十五軒の多数に上つてゐるが
営業状況からみて飲食店カフ
エーは分離すべきが妥当であ
るとの論擡頭し其筋の意嚮を
質したる處、取締上よりして
も分離するが可とのことであ
つたので八日午後二時から料
亭開花で総会を開き分離を附
議し手続きを終り懇親宴に移
り同夜十時頃散会した、なほ
両組合主なる役員は左如くで
ある
 飲食店組合
組合長藪虎、副組合長丸長、
同一富士、会計奴ずし
 カフエー組合 
組合長、ミカサ 副組合長 
精養軒会計 東洋軒

 翌9年4月、カフエー組合長のミカサ経営者、阿曽市太郎は景気を聞かれて昭和4年は4軒だったカフェーが42軒になり、景気のいいとき女給は毎月チップで300円は稼げたけれど、いまは最高100円最低30円ぐらいで生活が苦しい(28)と新京日日新聞の記者に語ったのですが、9月には45軒になったため、たまりかねて新京警察署にカフエー組合は新規営業者の制限を陳情したほか、飲食店組合にも洋酒を飲ませたり洋食を出すなと抗議した。資料その7はそれらの事情を伝える記事です。(1)の既報はカフエー組合役員会で陳情を決めたという9月6日付朝刊2面の記事を指します。

資料その7

(1)
 カフエーの
  新規制限正式陳状

 既報=新京カフエー組合で
はカフエー制限問題につき役
員連中はより々々協議を重ね
てゐたが更に八日午後七時か
らカフエー箱根で最後の役員
会を開催し協議の結果制限陳
情書を作製し新京署保安係に
渡辺組合長の名をもつて正式
に届出た、同係では右陳情書
に基きり加藤保安主任が自ら
現在の五十八軒のカフエーの
揚高並に生活状態につき調査
を開始したが同係の調査の結
果制限の可否が決定されるわ
けである

(2)
 不況が呼んだ
  カフエー
   飲食店の縄張り争ひ
    飲食店で洋酒、洋食を売るな
    じやカフエーで丼売るな
     サテ軍配はどう?

雨後の筍の如く簇出するカフ
エーに脅威を感じ出した同業
組合は取締當局に向つて此上
許可してくれぬやうにと嘆願
したと傅へられるが今度は飲
食店組合に飲食店で
 洋酒   を呑ませたり洋
      食を喰はせぬや
うにして欲しいと抗議を申込
んださうである、すると飲食
店組合の方ではカフエーで親
子丼なんか出す家があるが、
あれはどうなりますと反駁す
る、結局カフエーと飲食店も
客に出す飲食物にハツキリし
た制限といふものがあるので
ないから、話は有耶無耶に終
つてしまつたらしい、お互に
景気がよければ、他が少しく
らゐ無理をしてもまアまアと
知つて知らぬふりで過すが不
景気になると些細なことでも
角目だつて争ふことになる、
涼しくなつて来て酒の味のう
まくなつて来てけふこの頃、
飲食店とカフエーもこれから
だ、勉強さへすれば店は
  繁昌  する、さうして
      自然淘汰が行は
れてゆき、飲ませたり食はせ
たりするものゝ数などで店の
盛衰があると思ふのは間違ひ
だらう

  

参考文献
上記(25)の出典は昭和8年1月1日付新京日日新聞朝刊11面=マイクロフィルム、(26)は同8年1月10日付同夕刊1面、同、 (27)は同9年6月22日付同夕刊3面、同 資料その5は同8年2月6日付同夕刊3面、同、 資料その6(1)は同年1月22日付同朝刊4面、同、 同(2)は同年1月23日付同夕刊3面、同、 同(3)は同年5月2日付同夕刊3面、同、 (28)は同9年4月17日付同夕刊2面、同、 資料その7(1)は同年9月11日付同朝刊2面、同、 同(2)は同年9月14日付同夕刊3面、同

 カフェーと飲食店は客の奪い合いをしながら昭和10年は過ぎたのですが、その間も官公庁や会社団体はちょいちょい列車を借り切り、ジンギスカンを食べに公主嶺へ出かけたと思いますね。精養軒は新京でジンギスカンをやれば、貸し切り列車を仕立てられない小さい団体や県人会がお得意になると読んだのでしょう。しかもカフエーと飲食店の飲食物定価表にない料理だからね、値段は経営者の胸三寸で決められる。先んずれば人を制すと、寒いうちから準備して県人会や野遊会が始まるや、資料その3のジンギスカン鍋の広告をバーンと出した。これで精養軒は後々新京のジンギスカン鍋の元祖と胸を張れるようになったのです。
 精養軒は昭和11年8月に開業8周年と入った広告(29)を出しているので昭和3年開店ということになります。昭和8年のロートルというサロンが開業したとき「こゝは元露西亜料理のヤマトの跡で東二条通り精養軒主藤井甚作氏が舎弟同勇助氏に経営せしむるため巨費を投じ殆ど原形を止めざるまでの大改築を行ひ内部の調度、女給さんに至るまで遺憾なき準備を終へ十日華々しく開業披露を行つた、精養軒の方も内外の大改築全くなり東二条通りに子オンの光りまばゆく群星の中に明星の如く燦爛たる光輝を放つてゐるが外観の整備に伴ひ、調進する料理飲料の精選は勿論サービス万点の女給を増聘し断然斯界の王座を占るに至つた(30)」という記事があるし、つぶれたという記事も見当たらないから、ジンギスカン鍋をメニューに取り入れた経営者は藤井甚作さんでしょう。
 精養軒の1回目の広告出現に気付いて、すぐ追いかけたのは飲食店の吉野食堂でした。吉野食堂は資料その8(1)の「自慢の板場新聘」とうたった高さ1段で横長の広告を新京日日の5月3日付朝刊7面、6日付朝刊4面、20日付夕刊3面に出していたのですが、精養軒の広告の1日後の5月24日朝刊7面にそれと同じサイズで「成吉斯汗鍋/出前迅速」とした広告を打った。資料その8(2)がそれです。日にちにしてたった1日後れを取ったばっかりに、後々精養軒に新京での「元祖成吉思汗鍋」と威張られることになったのです。先んずれば人を制す。1日でも入門が早ければ兄弟子、先輩というのと同じですね。
 私はね、吉野食堂の主人丸山義一郎はかねがねジンギスカン料理を研究して鍋を持っていたので羊肉の仕入れより、まず広告と走ったとみますね。とにかく早業でした。また大新京日報にも「パン/ロシヤ菓子/洋食/ジンギスカン鍋」とした広告(31)を出しています。吉野食堂が昭和10年5月の開業。資料その8(3)は吉野食堂と住所との間に1回目にはなかった丸山義一郎と名前が入っている2回目の広告です。それは26日朝刊7面にも使われました。
 丸山さんはよほど悔しかったのでしょう。精養軒が5月27日夕刊1面に「野外料理の好適」と2回目の広告を出すと、吉野食堂は27日付朝刊7面に「成吉斯汗鍋」と2回目の広告で追いかけます。夕刊は翌日の日付だから26日夕方配達の紙面に精養軒、27日朝配達の紙面に吉野食堂となるんだから誤解しないようにね。
 吉野が3日付朝刊5面で3回目を出すと、精養軒は5日付朝刊2面で応じ、吉野が6日付朝刊7面でお返しした。でも6月11日付夕刊3面の精養軒の広告に対して、吉野は少し間を置いて6月23日付夕刊2面に突然、資料その8(4)の広告を出しています。ジンギスカンの元祖はあきらめ、パンホールという新京最初の飲食店形式での本家になろうとしたのかも知れんが、ともあれ同じ広告をもう1回出ています。
 8月に入ると、今度は吉野食堂が14日付夕刊2面、15日付夕刊1面、16日付朝刊7面と3連発で同(5)の広告を出しますが、精養軒は資料その8(7)の開店8周年という全幅の広告を9月7日付夕刊1面に出すまで完全に沈黙した。両店の広告の出し合いを1目でわかるようにしたのが同(6)ね。(7)の輪の中には毎晩10時と12時にコーラスタイムがあり、来店すれば喜ばれそうな景品を進呈するとあり、ジンギスカン鍋はまったく出て来ない。この後、精養軒は一度も広告を出さずに年を越したのです。

資料その8

(1)
    

(2)
    

(3)
         

(4)
       

(5)
       

(6)
 精養軒       吉野食堂

5月
23日夕刊1面
          24日夕刊3面
27日夕刊1面 × 27日朝刊7面

6月
           3日朝刊7面
 5日朝刊2面

7月
 両店ともなし

8月
           14日夕刊2面
           15日夕刊1面
           16日朝刊7面

9月
 両店ともなし


(7)
  

  

参考文献
上記(29)の出典は昭和11年9月29日付新京日日新聞朝刊7面=マイクロフィルム、 (30)は同8年8月11日付同朝刊3面、同、 (31)は昭和11年7月7日付大新京日報朝刊8面、同、 資料その8(1)の出典は昭和11年5月3日付新京日日新聞朝刊7面、同、 同(2)は同年5月24日付同朝刊7面、同、 同(3)は同10年5月22日付同夕刊2面、同、 同(4)は同11年6月23日付同夕刊2面、同、 同(5)は同年8月14日付同夕刊2面、同 同(7)は同年9月7日付夕刊1面、同

 精養軒と吉野食堂のジンギスカンの売れ行きを書いた記事は見つかりませんが、いい商売とみられたらしい。もう1店が割り込んできたのです。300人のジンギスカン宴会でも引き受けるという、その名もヂンギス館、カンは汗でも片仮名でもなく館と書く大型飲食店が青陽ビルの屋上に出現したのです。資料その9がその開業広告です。なぜ3つも予約承り所が同じビル1階にあるのか。ヂンギス館はこの3店による合同経営と私はみましたね。
 浪花寿司は昭和8年7月に「此度大連より参りまして(32)」と吉野町2丁目で開業、松前寿司などを売り物にしていた店。大連の浪花鮓は大正4年開店の老舗で、昭和10年に大連初の冷房付き3階建て店舗を新築(33)という勢いをみせており、この店はその新京支店でしょう。
 みづやは鯛のちり鍋ならという料理店青柳の直営店で、薩摩芋を内地から取り寄せての焼き芋も売っていた。販売品目に「からまむし」という私の知らない惣菜(34)があったので、インターネットで検索したら炒めた牡蠣と炒めた卯の花の和え物が見つかった。牡蠣のおからまぶしの略なんだね。おっと脱線だ。天ぷらの国天はただ「てんぷら/食道楽」という愛想のない広告ばかりで開店年月などはわかりません。

資料その9

     

 私はこの広告を見て新興都市らしいと思いました。一度講義で話したと思うが、阪急出身の実業家清水雅が神戸六甲山のジンギスカンテラスを開いた経緯を知っていたからです。清水は初め大阪のビルの屋上で開こうとしたら、酔っ払った客が炭火の入った七輪を投げ落とすと大ごとだからやめてくれと所轄の警察署長に泣かれて断念し、六甲の山に持っていった(35)と書いているのです。飲食店に目を光らせる新京警察署保安係はもちろん、署長もジンギスカン店が増えたと喜び、七輪投げによる事件発生なんて取り越し苦労はしなかったのですなあ。
 この広告は9月9日から始まり、10日、11日と夕刊1面で、12日と13日は夕刊4面と5回続きました。魚心あれば水心、新京日日は資料その10にした記事を載せたのです。蒙古式と名乗る以上、本物のパオを置き、それを眺めながら食べるようにしたのですね。なぜ公主嶺の山羊肉なのかわからんし、調味料も蒙古そのままといっても、草原のあちらでは醤油は使わないはず。取材に行った記者は聞かされたいい加減な説明通り書いたと思われます。

資料その10

蒙古その儘の
    成吉斯館

青陽ビル屋上ヂンギス館の成
吉斯汗鍋は十一日から華々し
く開業されたが市内のネオン
を一望に収める眺望絶佳の屋
上には蒙古そのまゝの包が設
けられヂンギスカン鍋に使用
の肉はわざ/\公主嶺と特約
して取り寄せた二才山羊の去
勢肉それに配する調味料も蒙
古そのまゝといふ本格的なも
ので開業早々予約申込み殺到
の繁昌ぶりを見せてゐる、月
明の夜など鍋をつゝき支那酒
を傾けばその身蒙古に遊ぶが
如き野趣を覚へるなどたしか
に新京の名物として観光客に
も喜ばれるであらう

 かくしてジンギスカン料理は新京市民に知られるようになり、西公園で開かれた少年団交歓会でも食べるようになったのですね。資料その10(1)と(2)の記事がそれです。小学生のとき新京にいた星河青魚という方が書いた「満洲良男の旅」という本に西公園が出てきます。星河さんの父親は建設会社に勤めており「想えば支那事変(日中戦争の当時の呼称)が始まる前までが、楽し我が家であった。西公園へのピクニック、会社野球部の他倶楽部との応援、試合後、径が一メートル程のジンギスカン鍋を囲む野外宴、等々。(36)」とあります。交歓会の鍋も小さな卓袱台ぐらいありそうですね。
 ビル屋上のヂンギス館は同(3)のような広告を2回出して、大連みたいに名月を仰ぎながら飲み食いするよう煽った。さらに同(4)にした鍋の広告が10月8日付朝刊2面、10日付夕刊4面、12日付朝刊4面と3回、新京日日に載りました。この「家庭用化」という添え書きに注目だ。わざわざこう書いてあるということは、それまで新京で買えた鍋は日本人の家庭で使いにくいサイズだった―と受け取れます。少年団の写真のように七輪からはみ出す大型の鍋だった。それでだ、資料その18でわかるが、関原洋行は大連の山下商会の特約店ですから、売っている鍋は当然山下の製品であり、それが普通の七輪に合うサイズであることを強調したのですね。
 ところが、新京日日の広告をよく見たら、この広告は単発じゃなかったのです。新京日日新聞社の主催で10月16、17、18と3日間、新京公会堂横で第5回優良暖房器具展覧会が開かれた。この広告は関原洋行は新京日日の朝刊8面の「日日案内」という雑多な広告欄に出した鍋の3行広告と連動していたのです。
 それが同(5)ですが、大きな活字の「ジン」で読者の目を引きつけ、その下を読むとジンギスカン鍋を一個三円で関原洋行が特売中とわかる。9月23日から10月13日まで17回出しており、10月8日は重複したが、後の2回は重ならないように出ていました。
 ジンパ学では鍋は重要な研究対象です。前の年、昭和10年から売っていたかも知れん。調べましたね。昭和10年10月12日から3日間、東三條橋北詰で開かれた第4回暖房器具展覧会に向けて関原洋行は山下式ストーブの内部構造を示す図を付けた広告を3回使っている。10、12,13日の朝刊だが、山下式の製品は炊事竈と長州風呂と改善金物と置ペーチカの4種しか書いておらず鍋はない。(37)よって新京で山下式成吉斯汗鍋を売り出したのは11年からですね。昭和12年に料理の友社が売り出した鍋は1枚1円でしたから、3倍もしたことになる。当時文芸春秋が50銭(38)でしたから半年分。いまの文春は880円だからその半年分は5280円となる。通販ではないけれども、南部鉄器の有名メーカーのカタログには5000円を超える鍋がありますよ。

資料その11

(1)
 ジンギスカン鍋囲み
    仲良く舌づゝみ
     東京聯合少年団滞在三日目

二十五日來京した東京聯合少
年団在満皇軍慰問並見學派遣
團名誉団長三島子爵一行は二
十七日午前九時頃宿舎松屋新
館を出で宮内府に敬意を表し
南嶺の戦跡を見学倉本少佐を
始め戦没将兵の英霊に心から
感謝の誠を捧げ城内の満人街
拡がり行く新市街各方面を見
學、午後五時牛から西公園海
軍忠魂碑前廣場で催された日
満少年団の歓迎会に臨み膝を
交へてジンギスカン鍋をつゝ
き交驩に時を惜しみ午後七時過
盛況裡に閉会した(写真は
西公園でジンギスカン鍋を囲
む少年團)

   


(2)
  慰問の旅終へ
    東京少年團帰る
     今朝駅頭日満少年団お別れ

二十五日來京以來皇軍慰問、
各機関見學、新京日本少年團
満洲国童子團と交驩などあは
たゞしい日を送つてゐた東京
聯合少年團在満皇軍慰問團名
誉團長三島通陽子爵、團長米
本卯吉氏一行卅一名は国都に
つきぬ名残を惜しみて二十八
日午前七時二十分発京図線列
車で清津経由裏日本を経て帰
京の途についた、
<略>昨夜
催された西公園の歓迎宴で日
満健児が仲よくジンギスカン
鍋をつゝいてゐる本紙に見入
るなどつきせぬ交驩を惜しみ
つゝ七時二十分”彌栄”に送
られて元氣よく帰京の途につ
いた


(3)
    


(4)                      (5)
    

 資料その11(3)と資料その12(1)のヂンギス館の広告に「降雨防寒の用意あります」と入っている。寒くなっても営業しようとしたのですね。しかし、大陸性気候の満洲です。冬はうんと寒く夏はうんと暑い。昭和11年11月15日朝は零下17・7度まで下がったけど、七五三で子供たちが新京神社にお参りにきた(39)と伝えています。テントの中で七輪を囲むぐらいじゃ耐えられない。それで11月から2月近く休んで屋上に100人ぐらいが入る大宴会場と称する建物を造ったことが、資料その12(2)と(3)からわかります。この年末はヂンギス館としては初めての忘年会シーズンだったので(2)の広告が12月24日付夕刊、25日付夕刊、25日付朝刊と3回続きで使い、これからはヂンギス館での忘年会という新形式もあると訴えたのですね。
 同(3)の「常設ジンギスカン料理」は、夏でも冬でもジンギスカンが食べられる店という意味でしょう。精養軒は忘年会、新年会と入った広告は出しましたが、ジンギスカンは入れてないし、吉野食堂も音沙汰無しですから、休んでいたかも知れません。わがジンギス館は年中食べられる体制をちゃんと整え、今後長く営業すると宣言したわけです。

資料その12

(1)
     


(2)

    


(3)
   御挨拶

謹んで新年を賀し上ます
陳者當ヂンギスカンは昨秋九月青陽ビル屋上に於て
開業致しましたが、大方諸彦の御好評を得まして連
日満員の盛況を呈して居りました、然る處追々極寒
に向ひましたので去る十一月防寒設備を整へたる大
宴會場新設の為工事に着手其の間休業致して居りま
した處去る十二月末漸く竣成致しましたので愈々新
京に於ける唯一の常設ヂンギスカン料理として永久
に営業継続致します事に相成りました、既に御承知
の通り當館は公主嶺畜産研究所の後援を得まして原
料羊肉は同所より補給を受けて居りますから材料の
優秀なるは素より料理法を始め設備萬端特に意を注
ぎ純蒙古式ヂンギスカンとして全満に誇るに足るべ
き自信を有して居ります、由來支那には洗練された
る技巧的料理の数多き中に全く原始味豊かに而かも
美味にして滋養に富む料理は此のヂンギスカン鍋に
比すべきものはないのであります、希くば新京の一
名物として幾久敷く御引立の程伏して御願ひ申上げ
ます、猶多人数様御宴會の節は前以て左記へ申入下
され度く御願ひ申上ます
                敬白
     於青陽ビル屋上
       ヂンギス館
女中数名     みづや
至急募集      電話(3)四二六五番
         國天
          電話(3)四三九五番
         浪花鮨
          電話(3)三二八三番

 資料その12(1)は防寒体制完備をうたっており、1月16日、18日、21日、24日、29日、31日と1月中の新京日日の朝夕刊に6回、2月は3日と5日の各朝刊8面に掲載されました。ところが突然、総菜店のみづやが閉店したのです。「昨年秋より俄かに同業者続出致しまして今日ではデパー卜を始め各消費組合までがお惣菜の店を兼営致します状態になりました斯くては所謂舟人多くして舟山に登るの譬へ通り徒らに競争のみを事としてお互に業績挙りません<略>就ては私と致しまては此後の見苦しい競争の煩に堪へませんので、本日を以て潔く閉店致します<略>(40)」という広告が2月21日付夕刊1面に出たのです。
 宴会承り所3店のうち1店が抜けたら予約受付はどうなるのかと紙面に見ていったら、資料その13(1)の広告に太い枠を掛けた同(2)に取り換え、出稿頻度を上げるように宣伝方針を変えたことがわかりました。みづやの電話番号はそのまま残っているので、みづやの親店である料理店青柳が代行することになったのでしょう。この広告は2月23日に始まり、26日と2回、3月には2日、6日、9日、12日、16日、21日と頻繁に掲載されました。広告の高さはどちらも2段で同幅になるよう処理したのに、こう高さが違う画像になってしまいました。
 「文芸春秋」4月号は新京の様子の1コマに「○甘党なら青陽ビルの十五屋。そばは帝都そば。天婦羅は青陽ビルの國天。ランチはハリウツド。フルーツパーラーの焼りんごは洒落れたものだ。(41)」と書いています。青陽ビルに入居して1年たち、十五屋と國天は新京市民に知られるようになったけれど、冬も頑張って営業したヂンギス館は見逃されてたんでしょうね。

資料その13
     (1)              (2)

    

  

参考文献
上記(32)の出典は昭和8年7月13日付新京日日新聞夕刊2面=マイクロフィルム、 (33)は同10年6月13日付大連新聞夕刊2面、同、 (34)は同年12月26日付新京日日新聞朝刊7面、同、 資料その9は昭和*年*月*日付新京日日新聞*刊*面、同、 (35)は清水雅著「六甲だより」82ページ、昭和54年6月、清水雅=原本(非売品)、 (36)は星河青魚著「満洲良男の旅」45ページ、平成17年9月、文芸社=原本、 資料その10は昭和11年9月12日付新京日日新聞夕刊2面=マイクロフィルム、 資料その11(1)は同11年8月28日付同朝刊7面、同、 同(2)は同年8月29日付同夕刊2面、同、 同(3)は同年9月25日付同朝刊1面、同、 同(4)は同年10月8日付同朝刊2面、同、 (37)は同10日付同朝刊3面、同、 (38)は同年*月*日付同*刊*面、同、 (39)は昭和11年11月16日付同夕刊2面、同、 資料その12(1)は同年10月15日付同朝刊7面、同、 同(2)は同年12月24日付同夕刊4面、同、 同(3)は同12年1月9日付同夕刊1面、同、 (40)は同年2月21日付同夕刊1面、同、 (41)は文芸春秋社編「文芸春秋」15巻4號421ページ、「都市欄」より、昭和12年4月、文芸春秋社=館内限定近デジ本、 資料その13(1)は昭和12年1月16日付同夕刊2面=マイクロフィルム、 同(2)は同年2月23日付同、同

 端午の節句の5月5日になり、なりを潜めていたヂンギス館の広告が新京日日の朝刊に出ました。資料その14(1)です。細長い広告の全体が見えるようにしたため、宣伝文の字が小さくなり読めないと思うので私が読もましょう。「国都に/誇る/味覚の王座/ヂンギスカン鍋/改修なり再び/開園」横書きの純蒙古式、ヂンギスカン鍋は読めるでしょう。その次は「一望全新京を俯瞰す/野趣満々として/くめども尽きぬ/千古の味覚/観光團の御招待に/御家族會の御利用に/天下の味覚」です。「青陽ビル屋上/大庭園/ヂンギスカン鍋」縦線があって「御宴会の申込は前以て左記に御用命願います(42)」で、浪花寿司と国天だけで、もう1軒の名前が入るくらいの変な空白があります。なぜ空白なのか考えましたね。私の仮説はね、みづやは閉店して青陽ビルから去ったので、浪花寿司と国天は団子の十五屋か喫茶の白十字か新しい店を誘い、3店に戻して広告を作った。けれども土壇場になって仲間割れしたため広告の店名を削って掲載した―です。掲載日が決まってからだったため、広告の作り直しができなかったとみます。まあ、いろいろ考えられますよね。
 翌6日朝刊2面にも同じ細長広告が出たので、いよいよやる気を起こしたなと思ったのですが、よく見たら予約承り所が浪花寿司と国天の2軒だけになったので、それに合わせて左半分を組み替えたものでした。「一望全新京を俯瞰す」の次に、後ろにあった「青陽ビル屋上/大庭園」の2行を持ち出して入れたので「野趣満々として」からはそのままに左に寄ったため、しっぽの「天下の味覚」が「ヂンギスカン鍋」に被せた形になり、かえってよかったかも知れません。また女中募集の枠を外して字を大きくして空白を減らしています。この改良広告は8日付夕刊2面と2回使われました。
 ここに至って青柳は浪花寿司・国天組と完全に別れたのですね。多分この3回は空白のない(2)を使いたかったのだが、間に合わず5日だけお見苦しい(1)を使わざるを得なかったということでしょう。
 「今年の団体園遊会のトツプを切つて暖房商組合、徳島県人会、代書業組合等約五百名の団体が三ケ所に陣取つて野趣を満喫してゐる(43)」と5月10日の新京日日が西公園の賑わいを伝えました。同(3)のコラムから西公園で小グルーブでジンパをやるようになったのでしょう。おしまいの「いや僕はそのあの、パピプペポー」は昭和11年の映画「うちの女房にゃ髭がある」の主題歌の歌詞。まともに答えられずごまかそうとするセリフで、それを使ったんですね。
 前の年「精養軒独特のじんぎすかん鍋」と新京のトップを切ってジンギスカン料理を始めたカフエー精養軒は黙っていません。5月13日の新京日日新聞夕刊に堂々と「元祖 成吉思汗鍋」とうたった高さ4段の縦型広告を出したのです。資料その13(4)がそれですが、焜炉にロストル鍋で羊肉を焼いている絵の上の元祖の2字が実に利く。角張ってハネを尖らせたこの字体は元祖と名乗って悪いかという威圧感があるねえ。
 静養軒は「満洲独特野外料理」と入れたこの縦型広告を中国制作の新京日日新聞のマイクロフィルムのおしまいまで、つまり昭和15年10月末日までの3年余り使い続けました。この年は11月まで27回もこの縦長の元祖広告を新京日日に出して、新京に於ける元祖の地位を固めたのです。
 広告の下の表はその掲載日一覧です。数字は掲載日、aは朝刊、yは夕刊、その後の数字は掲載面。1a1なら1日付朝刊1面にこの元祖広告を載せたということです。精養軒は元日と天長節と明治節の付き合い広告と10月28日の支那事変の「祝漢口陥落/祈武運長久」という祝賀特集広告に「カフエー 精養軒/割烹 千鳥」という無愛想な広告(44)を出したほかに広告を出していません。まるでうちはジンギスカン鍋の元祖、お色気を売り込む並のカフエーと違うよと宣言したような営業振りに徹したのです。
 (5)は廣島県人会の県議会視察団歓迎会の呼びかけです。どうしても会費が高くなるせいでしょうが、ジンギスカン鍋をやる県人会はほとんどない。6月13日に西公園で開く新潟と大分と宮崎の3つの県人会の家族野遊会の広告をみると、新潟は弁当持参、酒・ビール・サイダー・菓子などを配るが会費不要。大分も弁当持参、酒・ビール・サイダー・菓子のほかおでん、焼き鳥、うどんの用意ありで会費1円。宮崎も弁当持参、酒・ビール・サイダー・菓子に寿司の用意ありで会費1円50銭(45)です。これに比べると広島の3円は食べ物飲み物たっぷりにしても高い。会費を下げて沢山集めるか、どうせ常連しか来ないから高くても屋内では食べにくいジンギスカンでいくか。毎年同じ趣向と決めている県人会ならぶつからない難問です。

資料その14
(1)
     


(2)



(3)
 [プレンソーダ]
去ぬる日警察の高等関係者だけが集つて西公園でギンギス
カンなべの懇親會を催したが新京署のおやぢ中島さん盛ん
に人々に飲め/\と奨める宴も終りに近づいた頃今様貫一
お宮張りで公園の池のほとりで妙齢の婦人とサンポと洒落
れてゐた姿をみた某氏口惜しがるまいことか「サテは今の
酒俺等の目をくらますためでありしか」と更に「あ云ふヨ
キ風景を奥さんにみせたら」と云へば▼大分酔の廻つた某
公司其の時は「いや僕は別にそのあのパピプペパピプペ、
パピプペポーー」とやつたとか


(4)
       

5月
13y2,14a7,20a2,22a8,28y3,29y3,計6回
6月
4y3,5y3,11y2,12y3,19y1,20y3,26y3,27y4,計8回
7月
3y4,4y3,計2回
8月
30y3,計1回
9月
4y2,18y3,計2回
10月
2y3,8y1,16y2,29y4,30y1,計5回
11月
5y1,12y1,18y1,計3回
合計27回


(5)
 廣島縣人各位に告ぐ

今回廣島縣会議員満洲視察団一行の來京を機に左記の如
く歓迎会を開催仕候間県人各位の御参会を御願申上候
日時 五月十二日午後六時
場所 西公園海軍記念碑裏
会費 金参圓也(當日会場迄御持参の事)
    (ヂンギスカン鍋)
尚準備の都合も有之候間御出席の有無十一日午後九時迄
に左配へ御一報賜度し(電話にても可)
     東ニ條通り
   洋品雑貨   現代号
          電話(三)二一八八番
備考 視察団員人名
 縣会議員  松阪昭二(賀茂郡竹原町)
 同     福万徳三郎(神戸郡福永村)
 同     寺野直一郎(世羅郡上山村)
 同     森三郎(御調郡三原町)
 縣庁庶務課 真野真平

 さて、ヂンギス館ですが、5月18日付夕刊に縦4段の新しいデザインの広告を出しました。それが資料その15(1)です。右上に煙ホヤホヤの鍋と焜炉の絵かあり、焜炉に成吉斯館と入っている。また左下にパオの略画があり、予約承り所は浪花寿司と国天でその電話番号がパオの壁に書いた形になっています。宣伝文は「魅力的な味覚と/捨て難き野趣を/満洲小女のサービスで満喫あれ」と「野・山・の御清遊運動会等には是非ヂンギスカン鍋を出前は特に御相度に応じます」と「鍋を囲んで/非常時に偲ぶ! 英傑成吉斯汗(義経?)の偉業」と3本入っていますが、絵といい、文といい、素人が作ったみたいな広告ですよね。
 しかし、浪花寿司と国天の仲もここまでだったようで、1週間もたたないうちに承り所は浪花寿司だけになった広告が載ります。昭和14年発行の「新京案内」に「ダイヤ街の天平、青陽ビルの国天あたりが評判だ。――江戸前の海老をさも惜しそうに揚げてくれる、あそこが如何にも新京らしくて嬉しいのさ、ある友達が云つた。(46)」と出てきますが、本業に専念すると手を引いたらしい。国天はこの後、水害で列車が止まり内地産の海老が来ないと店を休んだり、車海老が手に入らないから大正海老を使うとか、海老にこだわり続けたことが広告から読み取れます。
 となると、浪花寿司は今後ヂンギス館の予約受付はうちだけだよと一度は広告を出さざるを得ず、絵は下手でも制作費の安い5日前の広告と同じデザイナーに発注したのでしょう。焼き面からのぐにゃぐゃ煙は本数が2本少ないけど、その形や焜炉の塗り分けがそっくりです。

資料その15

  (1)              (2)


 資料その15(2)のラーメン屋みたいな広告は6月中に続けて7日夕刊1面、9日朝刊2面、12日朝刊2面、15日朝刊1面、22日朝刊1面、25日夕刊4面、29日朝刊5面、30日朝刊3面と続けて出していました。7月は途切れるが、8月に入ると19日朝刊7面、21日夕刊4面、23日夕刊3面、26日夕刊4面、28日朝刊2面、31日朝刊2面に出てます。こう固めて広告を打つということは、浪花寿司がヂンギス館にかなり力を入れていた証拠ですよね。9月も4日付夕刊3面、7日付夕刊3面、8日朝刊4面、11日付夕刊3面、13日付朝刊2面、16日付夕刊3面、26日付朝刊3面と5回。10月と11月と12月は2回ずつ出しました。秋も過ぎ雪が降ったのに「新緑の国都」という広告をそのまま使い続けたあたり、なげやりな感じですね。
  

参考文献
上記(42)の出典は昭和12年5月5日付新京日日新聞朝刊2面=マイクロフィルム、 (43)は同年5月10日付同夕刊2面、同、 (44)は同年10月28日付同朝刊6面、同、 (45)は同年6月12日付同夕刊2面、同、 資料その14(1)は同年5月5日付同朝刊2面、同、 同(2)は同年5月6日付同朝刊2面、同、 同(3)は同年5月9日付同朝刊7面、同、 同(4)は同年4月13日付同夕刊3面、同、 同(5)は同年5月11日付同夕刊2面、同 (46)は永見文太郎編「新京案内」131ページ、康徳6<昭和14>年1月、新京案内社=原本、 資料その15(1)は昭和12年5月29日付新京日日新聞夕刊4面=マイクロフィルム、 同(2)は同年6月3日付同朝刊7面、同

 8月になると、もう1軒ジンギスカンを出す店が増えました。昭和10年2月に新京梅ケ枝町で「味覚の本陣」というキャッチフレーズで開業した割烹あたご(47)は県人会、野遊会の会場になるこの西公園に目を付け、8月30日夕刊3面の広告の中にが西公園でジンギスカン鍋を始めたと、資料その16(1)の目立つ広告を出したのです。あたごは既に西公園では売店を開いており、そこメニューに加えたとみられます。100人も入る建物があったのではなく、公園内で開くなら100人の宴会でもサービスできるということでしょう。
 あたごは更に9月1日付夕刊2面、3日付夕刊3面、4日付夕刊3面、7日付夕刊3面、13日付朝刊2面、16日付朝刊4面、18日付朝刊4面、19日付夕刊3面、22日付朝刊2面と連発しますが、10月以降はありません。ヂンギス館と西公園あたご売店は広告で張り合う形になっていたので、あたご売店が開業した8月以降の出稿振りを表に纏めたのが資料その16(2)です。

資料その16

(1)
       


(2)
 ヂンギス館     あたご売店
8月
19日朝刊7面
21日夕刊4面
23日夕刊3面
26日夕刊4面
28日朝刊2面
          30日夕刊3面
31日朝刊2面

9月
           1日夕刊2面
           3日夕刊3面
           4日夕刊3面
 7日夕刊3面 ×  7日夕刊3面
 8日朝刊4面
11日夕刊3面   
13日朝刊2面 × 13日朝刊2面
16日夕刊3面 × 16日朝刊4面
          18日朝刊4面
          19日夕刊3面
          22日朝刊2面
26日朝刊3面 

10月          
 5日朝刊5面      なし
16日夕刊3面

11月
22日夕刊4面
27日夕刊4面

12月
17日朝刊3面
20日朝刊4面


(3)
    

 資料その16(2)の×印は同じ日付の紙面にヂンギス館とあたご両者の広告が出た日です。9月4日付夕刊3面でよその広告1本を挟んで並びましたが、遂に7日付夕刊3面ではぶつかっちゃった。同(3)がその証拠です。9月13日付朝刊2面でもよその広告2本を挟んで同じ段に並んでいます。日本では東京高円寺で成吉思荘が開店した年の夏、満洲の首都新京では、こうした4店による暑い競争が続いていたのです。
 あたご売店は9月末で終わったようで、10月5日の新京日日新聞は西公園の様子を取り上げ「時局を反映してか/野遊會も少ない/賑ふのは遊戯場だけ」という見出しで「例年ならばヂンギスカン鍋を囲んで逝く秋を惜んでのいろ/\の會合で賑ふ新京西公園も時局を反映してさうした催しは更になく人目を憚るアベツクも影をはらひ、繋がれたボートの姿が一しほ淋しみを増すのみ、日あたりのよい草原に寝転んで読書してゐる閑人が二三あるのみで日中の公園は実に閑散そのものだ、(48)」と書いています。これは平日のことで、少なくても野遊会は全く途絶えたわけではなく、資料その17にしたような集会があり、肉を焼く煙が立つこともあったのです。広島県人会は5月にも3円会費でジンギスカンを食べる県人会を催しており、ジンギスカン好きの役員が多かったのかも知れません。

資料その17

  廣島縣人各位に告ぐ

近く某方面に出動する○○部隊中我が
廣島縣出身者の慰問會(ヂンギスカン
鍋)を左記に依り開催致候間御出席度
賜御案内申上候

日時  十月十日(日曜日)午後一時
場所  西公園海軍記念碑前
會費  金参圓也(當日御持参の事)
申込所 東二條通り現代号
    電話B二一八八番
準備の都合も有之候間御出席の向きは
申込所へお電話にて御一報度賜、尚時
間を御励行被下度重ねて御願ひ申上候
     新京廣島縣人會

 11月になると、前年も成吉思汗鍋の広告を出した関原洋行が、大連の山下商会の石炭ストーブをメインにした広告を4回続けます。資料その17がそれですが、新案特許と横書きの下の6つの名前の左端に注目だ。同成吉斯汗鍋、つまり山下式成吉斯汗鍋が入っていますね。資料その10で説明した大連の山下商会の鍋がこれだ。サイズはわかりませんが、値段が据え置きだったら3円のはずですね。
 山下式の鍋でもなく、サイズも違うかも知れませんが、昭和14年に出た「新京案内」の土産物に「変つたところでは支那料理のよせ鍋につかふ火鍋(九・〇〇)、ジンギスカン鍋(七・〇〇)、箸とナイフを兼ねた蒙古刀(三・〇〇)などはどうだらう。(49)」とあるので、同じ鍋なら値段は3年で倍以上に値上がりしたことが考えられます。この広告は11月22日付夕刊4面、同27日付朝刊8面、12月17日付け朝刊3面、同20日付朝刊4面と年末までに4回出ていました。

資料その18

       

  

参考文献
上記(47)と資料その16(1)の出典は昭和12年8月30日付新京日日新聞夕刊3面=マイクロフィルム、 同(3)は同年9月7日付同夕刊3面、同、 (48)は同年10月5日付同朝刊7面、同、 資料その17は同年10月8日付同夕刊2面、同、 資料その18は同年11月22日付同夕刊4面、同、 (49)は永見文太郎編「新京案内」161ページ、康徳6<昭和14>年1月、新京案内社=原本

 昭和13年になると、雪が残る3月からジンギスカンの記事がありました。資料その19(1)のコラムでは雪中行進とあるが、実態は観光地でのジンパ大会のために歩いたということでしょう。また(2)でわかるように、親善行事の料理としても提供されました。
 新京日日のジンギスカンの広告は精養軒の独壇場。ずーっと広告がないから、やめたのかと思っていたら、4月13日夕刊3面に「満洲独特野外料理/元祖/成吉思汗鍋」という例の縦4段の広告を出してきた。その後は14日付朝刊7面、20日付朝刊2面、21日付朝刊8面、22日付夕刊3面、28日付夕刊4面、29日付夕刊3面と4月中に7回。5月はなかったが、6月に入ると4日付夕刊3面、5日付夕刊3面、11日付夕刊2面、12日付夕刊3面と15日迄に4回出稿していました。

資料その19

(1)
[プレンソーダ]
新京郊外に大虎の群現る……かういつたら新京市民は忽ち
不安と恐怖のどん底に陥るわけだが▼実際これはあつた話
です、先日市公署の全員が浄月潭附近に雪中行進をやり、
適当につかれたところでヂンギスカンなべをやつた▼風光
明媚な浄月潭、羊の肉でくんだ冷酒は忽ちキユーツと全身
に廻る忽ち人変じて虎となる▼大虎関屋副市長が逆立ちを
やれば鯉沼中虎踊り出し小虎連中唯わけもなく騒ぎ立てゝ
全山全く虎の饗宴場と化して仕舞つた▼このほゝゑましき
光景に都合があつて一足先きに帰らうと思つて、立ち上つ
た徐副市長、一歩進んでは後振り返り一足行つては振り返
り逡巡低徊去る能はずいかにも名残惜し相であつたと▼さ
て虎大會、翌日物語り……鯉沼さんは氷まくらでウン/\
うなつてゐるし、副市長は逆立ちをやつた記念に上着を浄
月潭に忘れ人を使はして探したがないばかりとは…当日の
盛会や思ふべし


(2)
東陵の大野遊會
 伊使節團歓を盡す

森厳宏壮な、英傑清の太祖の山陵に感激の参拝を終へたイ
タリー使節団パウルツチ大使一行は四日午後零時半東陵西
門外の風光絶佳な老松の下で開催された鉄道総局の大野遊
会に臨んだ
これより先き親善使節団を心より
迎へる同会場は春光麗かに新緑に
燃えて日満伊の大国旗美しく飾ら
れ万国旗はなごやかな春風にはた
めきペン・ベヌートの大アドバル
ーンは青空高く陽光に輝くその下
一行の旅情を慰めるため仮設され
た舞台を中心に総局自慢の成吉思
汗鍋のほか、やきとり、包子、酒
場、洋食、天ぷら、すし等各種取
揃へた心盡しの模擬店がずらりと
並でゐる
   ◇……◇
<略>

 昭和13年も秋になると満洲の帝国ホテルともいうべき新京ヤマトホテルも庭園でジンギスカンを始めたのです。永見文太郎編「新京案内」は「現在の大和ホテルは国際ホテルであると共に、新京上流人の社交場でもある。殊に昼食時のグリルには、オエラ方の顔は大概揃ふ。夏期の納涼園は古くから有名であるが、今年(昭和13年)は八月二十七日閉鎖後、更に三十日から庭園を利用して『ヂンギスカン料理』を始めた。一人前三圓五十銭(赤出し、飯付)、五人以上の予約に限る点が些か不便だが、北京の正陽楼のやうに新京の一名物としたいものである。(50)」と紹介しています。開園の予告からの記事を集めたのが資料その20です。ヤマトホテルの広報係は新京日日の記者と仲良くして次々と書いてもらったらしい。
 資料その20(5)の写真は夜間撮影なので全体に暗く、コントラストを変えたのでグレーに近いけど、6人いて、鍋は大きそうだということぐらいわかるでしょう。

資料その20

(1)
 風流ヤマトホテル
  納涼園跡に成吉思汗鍋
   来る廿日頃から開園の運び

近年稀有の酷暑にあへぐ市
民のオアシス新京ヤマトホ
テル納涼園は連日超満員の
盛況を見せてゐるがこの納
涼園も本月廿日頃には閉鎖
することゝなるのでその後
の活用につきホテルでは種
々研究中であつたが思ひつ
いたのが成吉思汗鍋、早速
準備に取りかゝり納涼園に
引続き樹間に羊肉をつゝき
ながら酒を酌む風流と満洲
味たつぷりなヤマト成吉思
汗鍋を開始する運びとなつた
が国都名物の一として観
光客を喜ばすであらう


(2)
 ヤマトホテルの納涼園
  二十五日限り
   引続き成吉思汗鍋を開始

六月二十五日から開場した新京
ヤマトホテル納涼園はいよい
よ二十五日限りで閉鎖しその
あとへ新試みのヤマト成吉思
汗鍋を開始することになつた
今期の納涼園営業日数は四十
三日間、一日平均五百人、延人員
二万一千五百人といふ昭和十
年開始以来の新記録を出した


(3)
 ヤマト成吉思汗
  卅日店開き

新京名物の一として最初の試
みヤマトホテル庭園のヤマト
成吉思汗鍋は衆人待望のうち
にいよ/\三十日から開場の
運びとなつた、場所は納涼園
跡の樹間で婦人家族連れには
座敷き一般向には純蒙古立食
式の卓子が設備される筈で十
一月一杯開場するといふから
各地からの観光客はもとより
市民にも充分風趣を味はれる
であらう


(4)
         


(5)
 野趣満溢!
  ヤマト成吉思
  汗店開き

新京ヤマトホテルの新しい試
み納涼園あとの成吉思汗鍋は
三十日から開場した、広大な
る庭園の鬱蒼たる樹下には婦
人家族向きの茣蓙敷と純蒙古
立食式な卓子が並べられ蒙古
直移入の羊肉の香りは野趣掬
すべきものあり初日から満員
の盛況であつた、期間は十一
月一杯継続の予定であるが、
紅葉散り敷く頃ともなれば更
に風趣を添へるであらう【写
真は開場したヤマト成吉思汗
鍋】
     


(6)
 [プレンソーダ]
今年から初めて始めた新京ヤマトホテル庭園のヤマト成吉
思汗鍋は予想外の大繁昌に川原支配人相恰を崩して大ほく
ほくこれも一に勧請せる稻荷大明神の御利益なりと毎日御
燈明を點してお祈りをつづけてゐる▲ところが世の中のこ
とはなか/\甘くゆかぬもので毎夜店開きする頃になると
何処ともなく数千羽の烏がホテルの杜にねぐらを求めて飛
来するため折角の野宴場は気分を壊されることが尠くない
▼営業妨害と怒つて見ても相手が鳥では問題にならず一つ
威嚇発砲をやつて追払はうといふ案を立てたが市中の発砲
は御法度とあつて支配人こゝもと鳥追払い策に頭を悩まし
てゐる

 ヤマトホテルに対して精養軒はマイペースという感じで、新京日日の10月2日付夕刊3面、8日付夕刊1面、15日付夕刊3面、16日付夕刊1面、29日付夕刊4面、30日付夕刊1面と10月に6回、11月は5日付夕刊1面、12日付夕刊1面、18日付夕刊1面と3回出したきりでした。
 昭和13年を振り返ると、浪花鮓経営とみられるジンギス館の広告が1回もなかったことがわかる。新京日日の紙面を遡っていくと8月18日に青陽ビルは変わっていませんが、店内改装のため休業という広告があり、9月22日に「新趣向完成」と広告を載せていました。「店内には食通街を彷彿せしむる立喰専門の新天地、焼鳥、天ぷら、おでん、寿しの御好み立喰(51)」とあるけど、ジンギスカンはないんですなあ。こうなるとジンギス館は12年末には閉店していたとみるしかありません。
  

参考文献
上記資料その19(1)の出典は昭和13年3月6日付新京日日聞朝刊7面=マイクロフィルム、 同(2)は同年5月5日付満洲日日新聞朝刊7面、同、 (50)は永見文太郎編「新京案内」100ページ、康徳6<昭和14>年1月、新京案内社=原本、 資料その20(1)は昭和13年8月5日付新京日日新聞夕刊2面=マイクロフィルム、同(2)は同年8月19日付同、同、 同(3)は同年8月29日付同、同、 同(4)は同年8月30日付同、同、 同(5)は同年8月31日付同朝刊7面、同、 同(6)は同年9月14日付同、同、 (51)は同年9月22日付同夕刊1面、同

 昭和14年に行きます。精養軒は新京日日元旦号の「謹祝皇軍連勝新年/皇紀二五九九」というタイトル付きの広告面でに精養軒は「カフエー 精養軒/料亭 千鳥(52)」と簡単、無愛想な広告を出した後、ほかのカフエーはいろいろ大きな広告を出しているのに沈黙を続け、突如4月1日付夕刊1面に資料その21(1)にした満開の桜の木々にたなびくは春霞かという派手なジンギスカンの専門店みたいな全幅の広告を出しました。
 2日付夕刊1面、2日付朝刊2面、6日付朝刊2面とこの全幅を4回続け、それから資料その18(3)の元祖広告に切り替えて4月15日付夕刊2面、16日付夕刊4面、23日付夕刊1面、28日付夕刊3面と続けます。5月に入ると7日付夕刊4面、13日付夕刊2面、27日付夕刊2面と3回出したっきりで9月末まで音沙汰無しでした。
 資料その21(2)はそのころの精養軒の写真です。昭和8年に改築しており、そのときの広告の外観図と比べると、看板の字の位置や大きさなどが違うけれど、丸窓や玄関周りは同じだし、建物の写真を入れた広告は不鮮明でね。「新京案内」という本のこれが最もよろしい。
 一方、児玉公園と大同公園の売店問題で、ちょぃとした事件が起こりました。新京市は児玉の2売店、大同の1売店の年間営業権を入札で決めていたのに、ある大会の期間中新京飲食店組合と大新京旅館下宿飲食店組合が両公園に16軒もの臨時売店を1週間開くことにしたので既得権の無法な侵害と営業権取得者が反対。結局臨時売店は取りやめたのですが、これで8月から児玉公園で新たにジンギスカンを売り出した魚一売店の経営者は加藤ハルか石井キミ(53)という2人のどちらかとわかったのです。その魚一の広告を資料その21(3)にしましたが、精養軒とそっくり、よくも同じ新京日日で児玉公園独特とやったもんですね。この広告は8月16日付朝刊7面、22日付朝刊3面、26日付夕刊3面と3回出して終わったのです。
 資料その21(4)の漫画家佐久間晃さんの思い出は、児玉公園の売店で出していたジンギスカンだったかも知れません。饅頭みたいに盛り上がった鍋で焼いている漫画が本に載っています。
 同(5)は翻訳家の望月百合子が昭和13年から新京に住み、満洲新聞の家庭部記者だったころの思い出です。その前は北京にいたので、さっそく新京の烤羊肉を試すのだが、臭く駄目。やはり烤羊肉は北京に限ると思いつつも、郷に入れば郷に従え―で豚肉を焼くジンギスカンが楽しめるようになるんですねえ。

資料その21

(1)
 


(2)
      

(3)
         


(4)
   ■烤羊肉(カンヤンロウ)(ジンギスカン鍋)

 むかし、成吉斯汗が陣中で食った野戦料理からこの名がついたというが、名付け親は石原巌徹氏。満人は烤羊肉といっていた。
 蒙古では、牛や馬の糞を燃料にしたということだったが、満洲では炭火をおこし、その上に剣道に使う面のような穴のあいた鍋をかぶせるように置き、羊肉の油身を鍋に塗ってその上に肉をのせ、焼けた肉をタレにひたして食うのである。
 私たち日本人は、雁が渡るような月のきれいな秋の夜など、五、六人の仲間と連れだって、新京の児玉公園あたりの野天で炭火をおこし、韮、蒜、刻み葱、エビ油などで作ったタレの中にひたした焼肉をほおばりながら、白乾児(パイカル)の杯を汲み交わしたものだ。
 成吉思汗鍋は野天に限る。特に寒い夜など、オーバーやシューバのえりを立てて、長い竹バシで鍋にはりついている肉をつっつくのは、野趣満点で大陸的風情があった。(佐)

(5)
   青草に想うジンギスカン鍋

<略> そんなわけで日本人向の中華料理にいやでも馴れて来た頃新京のあちこちの公園で、炭火をおこしたり薪を燃やしたりしてジンギスカン鍋を楽しむ人々があることに気がついた。
 むろん北京の羊肉が手に入るわけではないので豚肉を代用する。焼き方は烤羊肉と全く同じだ。ただ丸のままブツ切りにした葱や、ほうれん草なども一緒に焼いて食べるところが一寸変つている。
 秋ならば黄色く色ずいた芝草の上に坐り、春ならば萌え出した青草の上に坐つて焚火をかこみ一日ゆつくりと遊ぶのである。<略>
 私の家の前は白山公園という小さいけれど杏子林のある美しいスロープを持つた公園だつた。四月になるとたんぽぽが一面に咲き出し杏子林は桜そこのけの美しさで一杯の花をつけた。私たちは花の下に坐つて一日ぼんやり花をみて暮らす休日もあつた。そんなときの御馳走はきまつてジンギスカン鍋だつた。
 豚肉は羊肉ほど軽くないのでむろん一人で一斤も食べるわけには行かないけれど、それでも野外で焚火をしてめいめい自分で焼いて食べる野性味は同じように楽しい。殊に美しい春景色の中だつたり、暖かな小春日の手をあげれば指まで染まりそうに碧い空の下での焚火料理なのだから一層心あたたまるわけだ。<略>

 昭和14年の12月12日付日日夕刊1面に突然、浪花鮓のの近日開店という大きな予告広告が載った。つまりその前後は店を閉じていたのでしょう。12月24日朝刊1面になって開店御披露という全幅広告が載り、初めて青陽ビルから興安大路にある臥龍ビルに移転し、新趣向とうたった立ち食いはやめて、割烹と寿司の店として再スタートしたことがわかりました。その後、浪花鮓の広告は記事面の中に入る記事中が多くなっていました。
 新京の邦字紙としては満洲新聞社が満洲新聞を発行していました。ここまで満洲新聞について話しませんでしたが、それはジンギスカンを食べさせる飲食店の広告がさっぱり見当たらなかったからなんです。でも記事としてはなかったわけではなく、特に14年の暮れになってジンギスカン料理の解説を2回連載したのです。平成29年になってから「本や雑誌にジンギスカン料理はこう書かれた」という講義をやり、満洲新聞のその記事の一部を紹介した序でにね、一部重複(スクールカラーの緑色の個所)するけど資料その22として、ここに全文を追加することにしました。
 新聞記事としては長いので紙代節約のため1行15字の組み方を変えました。鍋と焜炉の挿絵は1回目に付いていたものです。記事にはどこの店のものとは書いていないが、私の言う牛や羊の糞を燃やす満蒙型ではなく、北京などの固定型だから、多分厚徳福の一式をみて描いたのでしょう。


資料その22

(1)
  野趣のある
   ヂンギスカン鍋(一)
    満語では烤羊肉といふ

 成吉思汗の由来

 今より七三〇年前の皇紀一八六六年我が帝国■御門天皇■永元年に、内外蒙
古の地を一統した鉄木真が黒竜江上流のオノン河の源に於て、大汗(王)とい
ふ位に即いて成吉思汗と号したのが、元の太祖であります、元の太祖成吉思汗
は音に聞えた人で、年僅か二十二歳で一部族の旗頭になつた豪傑英雄でありま
した、これも母の■■倫が頗る賢夫人であつたからであります、このヂンギス
カンがどうしたものか近時「成吉思汗は源義経なり」とか「源義経の墓が興安
嶺にあり」と墓の形まで明記され、十五日許り前にも鎌倉時代の歯が依蘭県か
ら発見された等と数々の■■が挙げられてゐる、義経は果してヂンギスカンな
りやと今それを云々するのではありませんが、斯くいはれる主なる理由は、義
経と成吉思汗とは時代が同じであり、又子供の時分の生立が酷似してゐるから
であります、それだけ義経も偉ければ又成吉思汗も歴史上において有名な人で
あります、その成吉思汗が始めた料理であるから、ヂンギスカン鍋といふのだ
と一般にはいはれてゐますが、これは余り当てにはならないのであります、今
のヂンギスカン鍋が蒙古の料理であるかどうかさへ怪しまれるからであります、
又「ヂンギスカンが義経なり」といふ事が立証されたら今後は義経鍋と改名さ
れるでありませう、義経鍋が出来たら清正鍋が出来ませう、加藤清正は事実■
■省には足跡を印してゐる人ですから今に清正鍋も生れるかも知れません、か
うなるとヂンギスカン鍋は益々興味のある料理であります、日本人にとつて最
も因縁浅からぬヂンギスカン鍋について述べませう

 満語では烤羊肉

 ヂンギスカン鍋とか料理とかは物好きな日本人が命名したもので、本名を烤
羊肉――羊の肉を木炭や焚火でアブつて食ふ料理――といつて居ります、原始
的な而も野趣のあるいはば、野人、食道楽が好む料理でありますから、雅趣愛
好の日本人が烤羊肉の起源をたずねたところ、蒙古より起つたものであるとい
ふことから、蒙古の太祖の名をとりこれをヂンギスカン鍋と命名したのであら
うと思ひます、ヂンギスカン鍋というた起源は何時頃から始まつたかはつきり
致しませんが恐らく早くて二、三十年前のものではないかと思ひます、併し其
本名の烤羊肉は前清末頃であらうと満人は語つて居ります、それにしてもせい
ぜい四、五十年前位のことでありませう

 烤羊肉の起源

 烤羊肉とは文字通り羊肉をあぶつて食ふことで、その起源はあながち蒙古か
ら起つたものとは一概に首肯し難のであります、現在北京、満洲に於て行はれ
てゐる烤羊肉の料理法は蒙古にはないのであります、蒙古では猟師が猟をした
ものを野原で或は包の中で火を焚きながら串に差してそれをあぶつて食ふ風習
があります、一般にはその風習が支那に入り、支那の野趣人が今の料理にした
のではないかともいはれて居りますが、いかもの食ひを好む支那人のことであ
りますから、恐らく彼等が創始したのであらうと思ひます、而らば烤羊肉とし
てどんな食法が美味しいか、最近日本人が蒙古の烤肉に起源を発したものとし
て、蒙古ならば成るべく野卑なグロテスクな方が如何にもヂンギスカン料理で
あるかの如く考へ、人を侮辱したやうなものを食はせる所があります、あの方
法は烤羊肉の本旨に違反してゐる訳であると思ひます、あれでは一寸御婦人を
案内する訳には行かないからであります、北京では烤羊肉といふものゝ実に上
品で而も真の羊の肉を味ふことが出来ます

 


 北京では大抵の大きな北方支那料理屋に参りますと烤羊肉はありますが、正
陽門外の正陽楼が一番美味しいとされて居ります、最近新京では駅前のヤマト
ホテルでもヂンギスカン鍋として好評を博してゐる通り美味しいは美味しいが
真の烤羊肉の味を味ふことが出来ないやうな感じが致します、何故かと申しま
すならば、上品過ぎると申しますか、余りに日本人化し過ぎてゐるからであり
ます、それかといふて粗野であればその気分が味へる等といふて、テキやカツ
にするやうな大きな厚い肉で、太い丸太の長いまゝの葱を出されても、これ又
その味を味ふことが出来ません新京でその味を味ふことず出来るのは南広場附
近にある厚徳福といふ満人の支那料理屋があります、厚徳福は北京が本店で、
奉天にもその支店がありますが、此処では稍北京に似て真の肉の味合を味ふこ
とが出来ますが、味に尤も関係ある薪木に注意せず、ビール箱を壊して薪にし
たやうなものを焚いてゐるため、折角の烤羊肉の味覚を臺なしにしてゐること
ゝ、今一つにはその気分を味ふ連中ばかりで、味の人がないためか、肉につけ
る醤油、所謂タレが辛過ぎる傾向はあるが、あれならまあ/\といふ所であり
ませう、場所も悪いからではあるが、あれを公園か野ツ原にでも出して一献参
つたら、それこそ申分はなからう

    

(2)
  海拉爾附近の‥
   得肉が一番よい
    ヂンギスカン鍋の話(二)

 烤羊肉への知識

 烤羊肉は烤羊肉特有の鉄製の丸い網で普通には鍋というふゐるが鍋ではなく
て太い大きな金網である、これを家庭に備へるといふ事も出来難いから、一切
満人まかせにするのであるが、どんな方法で調理して焙つたら美味しいかその
知識を申し上げませう
 羊肉 新京では海拉爾附近の羊肉が尤もよいとされてゐる、その羊の後脚の
腿の肉を紙のやうに薄く切る、肉は薄ければ薄い程よい
 醤油 満人が使用する甘口の醤油の中に蝦油、紹興酒、芝麻醤とを少量に加
へ、その中に香菜といふ野菜を五分位に葱を細長く輪切れにしたものと、好み
によつては韮を細く切つたものとを加へ、その中に薄く切つた生の羊肉が、全
部浸る様にして十分か十五分間位そのタレにつけてから烤る
 薪木 新京では厚徳福を除く外は木炭を使用されてゐるが、一番よいのは樫
か柏のやうな固い薪を燃すのがよい、それのない時には■■か楊柳の樹以外は
余り感心しない、薪木を使ふのは恰も土佐の名物である鰹のいぶしに似たもの
で、鰹のいぶしには藁でなくてはならないとされてゐるのと同じである
 焼酎 烤羊肉にはビールは禁物で、その外紹興酒、日本酒がよいがどうした
ものか烤羊肉にはパイカル(焼酎)が尤も口に合ふやうである、満洲には余り
よい焼酎がないやうであるから、その代用としてウオツカかウイスキーが合ふ
やうである
 焼餅 烤羊肉でと焼餅(胡麻をつけて焼いた饅頭に似たもの)とはつきもの
で、その味は又格別である、焼餅の尤も有名のものは北京の正陽楼のもので正
陽楼が烤羊肉で有名なのもこゝにあるとさへいはれてゐます
 以上が烤羊肉即ちヂンギスカン料理として尤も大切な材料であります、先づ
鉄鍋を暖めてから油を布きその上に(羊肉を嗜好まれざる方は牛肉)を醤油の
中につけておいたものをのせて烤るのです、勿論肉も香菜も一緒に烤ります、
余り*り過ぎないことです。酒を召上る方は酒を、好まざる方は焼餅を片手に
しながら肉を烤りつゝ食ふ風情は到底日本では味へません、如何にも大陸的の
気分がします、月夜の晩などは又格別です、正陽楼では屋外で烤羊肉を腹七分
目に味ひ、その後屋内であつさりとした二、三品の料理に甘■(■の味醂漬)
をそへながら満腹になるといふのが烤羊肉としての食通らしいやうです。(終)

 戦時色が強まり英語を敬遠するようになり、社会面のコラムの「プレーンソーダ」という題名は「七分搗」に変わる。経済統制によって米屋が白米ではなく7分搗きの黒っぽい米を売るようになったことへの皮肉が込められているとみますね。カフエーの広告も少なくなり、夕刊に「カフエー案内」が毎日載るようになり精養軒は「伝統を誇る精養軒/女給募集」という5行広告を続けるようになります。
 昭和15年1月12日の「七分搗」はお偉方の羊肉試食会を取り上げ「▼畜産振興に重要な位置を占める緬羊の飼育及び羊毛、羊肉の研究に多年辛酸を積んだ公主嶺農事試験場では漸くその増殖改良の成果を得た▼まづ十五日午後六時ヤマトホテルに産業部畜産科の斡旋で総務長官、畜産会社、満拓及び軍關係の首脳部を集め緬羊肉の試食會を催すことになつた▼そこにお歴々か緬羊肉鍋をつゝきながら戦時下の食糧問題や羊毛國策につき隔意ない意見を交さういふ会合である(54)」と書いていました。
 戦争のせいでどんどん物資不足が進み、米は配給制、ガソリン欠乏でタクシーは相乗りどころか、いまもどこかの国で走っている人力三輪車、バスは木炭ガスで走るやら乗合馬車になっちゃう。新聞用紙も足りなくなり、新京日日は7月31日の朝夕刊を休んで活字を入れ替え、それまでの朝刊8ページ、夕刊4ページを8月1日付夕刊から朝夕刊とも4ページ建てにした。さらに同じ1行13字詰めでも活字を小さくし、14段組みを16段に切り替え記事が極端に減らないようにするためです。
 それで精養軒の元祖広告も低い高さ、なんだか変だが、縮まった4段の広告になっちゃた分も合わせて、昭和15年10月末までに38回、元祖広告を出していた。資料その23(3)の下がその掲載日一覧です。新聞社のミスらしいけど、9月27日付夕刊は3面と4面の同じ広告が載った。だからといって2回分の掲載代金は請求できんだろうから、これは1回と数えましたよ。はっはっは。
 最前線の兵隊さんは命を懸けて戦っているというのに、酒を飲み女給や芸者と遊ぶなんてとんでもないと花柳界は目の敵にされ、遊びにきてよという広告も出しにくくなり、資料その23(1)にした高さ2段の「人気カフェー案内」の見出しをつけた一括広告がちょいちょい載るようになります。3月23日付朝刊8面から始まったこの広告に参加したカフエーは上段右からイナリ、銀波、亜細亜会館、赤玉、精養軒、マルセーユ、興亜、プランタン、新世界、銀パレス、大新京、ニユウシンキヨウ、雅寿園、ノラ、銀水、アリス、花園会館、日輪、キング、銀座会館、ブリーズ、推背図の22軒が並んでいます。精養軒は「伝統を誇る」と「女給募集」であり、元祖ジンギスカンの広告はこれとは別に出していました。
 16段組みになってからは縮めてからは店の数が変動するようになり、10月19日からは2段のカットをやめ、同(2)に示したような1段になり活字で「人気カフヱー案内」と変え12軒に減っていました。精養軒は右から3番目で頑固に「伝統を誇る」と「女給募集」です。新京日日のフィルムは15年10月末までしかないが、それまでの掲載日一覧を下につけました。

資料その23

(1)
 


(2)
 

3月 23,23,29,31,計4回
4月 3,6,7,8,13,14,20,21,27,28,計10回
5月 1,2,3,5,19,24,25,26,計8回
6月 1,2,8,9,16,17,22,23,30,計9回
7月 6,7,8,13,14,15,20,21,22,25,26,27,28,計13回
8月 1,11,13,17,18,19,20,24,25,30,31,計11回
9月 1,8,14,15,22,27,28,29,計8回
10月,1,6,19,20,21,22,計6回
合計69回


(3)
         

4月 15a3,23a4,27y2,30a3,計4回
5月 4a6,8a5,9y4,13a7,16a8,計5回
6月 5a6,7y4,9y3,11a6,13a8,14y3,21y4,計7回
7月 6a6,7y4,13a8,17a5,24a6,28a5,計6回
8月 1y4,3a4,6y3,7a4,8y4,10a4,11y4,13y1,31a4,計9回
9月 2y1,3a4,6a4,16a4,25y3,27y3,27y4,計6回
10月 6y4,計1回
合計38回

 新京日日が16段組みになってからですが、山茶寮という料理店が蒙古鍋という改良したジンギスカン料理を始めるという広告「山茶寮のメモ」を8月10日付夕刊2面、12日付夕刊2面、14日付夕刊2面と3回出したのです。山茶寮は昭和13年10月にダイヤ街で開業した。開店に当たり「手前共姉妹三人にて」経営すると泉旭春という人が挨拶しているので、この人も女性なんでしょうが、とにかく1階は酒場、2階は割烹(5548)でした。翌年吉野町に移転して1階は立ち食い寿司、2階は割烹(5649)にしたのですが、蒙古鍋は多分1階で食べさせたと思われます。
 資料その24(1)が広告「山茶寮のメモ」のスタイルで(2)はその中身です。その後(3)にした割烹の広告が3回あり、9月4日付夕刊2面から右側の広告を6回続けました。石焼き料理は開店以来ずーっと宣伝していた料理です。10月は何もないので、広告は9月末でやめたのでしょう。

資料その24

(1)
       

(2)
  山茶寮のメモ

満洲名物『ジンギスカン』の味覚を屋外ならぬ御座敷で簡易に
味へたなら季節を問はず御客様へ喜んで戴けるかと考案致しましたのが『蒙古
鍋』と命名致しましたジンギスカンの改良鍋です、牛、豚、羊の肉等知らず知
らずにいくらでも召上れる程お美味しいものです、鍋の形は蒙古人の帽子より型
りました座敷で煙も立たずジンギスカンそのまゝの風味を味へるのが特徴です
満洲の新名物として近日発表御好評をを戴き度準備を急いで居ります


(3)                  (4)
  

  

参考文献
上記(52)の出典は昭和14年1月1日付新京日日新聞朝刊第3部2面=マイクロフィルム、 (53)は同年4月19日付同夕刊2面と同20日付朝刊7面、同、 (54)は同15年1月12日付同朝刊7面「七分搗」、同、 資料その21(1)は同年4月1日付新京日日新聞夕刊1面、同、 同(2)は永見文太郎編「新京案内」*ページ、康徳6<昭和14>年1月、新京案内社=原本、 同(3)は昭和14年8月16日付新京日日新聞朝刊7面=マイクロフィルム、 同(4)は佐久間晃、富山衛著「想い出の満洲」*ページ、昭和46年7月、恵雅堂出版=原本、 同(5)は女性教育社編「女性教育」197号38ページ、昭和30年6月、女性教育社=館内限定近デジ本、 資料その22(1)は昭和14年12月27日付満洲新聞5面=マイクロフィルム、 同(2)は同年12月28日付同、同、 資料その23(1)は同年3月23日付新京日日新聞朝刊8面、同、 同(2)は同年10月19日付同朝刊4面、同、 同(3)は同年8月1日付同夕刊1面、同、 (55)は昭和13年11月22日付同朝刊2面、同、 (56)は同14年9月8日付同夕刊2面、同、 資料その24(1)と同(2)は昭和15年8月10日付同夕刊2面、同、 同(3)は昭和15年8月25日付同夕刊2面、同、 同(4)は同年9月4日付同夕刊2面、同

 山茶寮は資料その24(2)で蒙古鍋の準備中と予告しておきながら、開始のお知らせ抜きで同(4)のように、ずっと以前から蒙古鍋と一緒に食べさせていたような広告を出すのはおかしいと思いませんか。
 見落としかと何度も(1)と(4)の広告の間の新京日日を調べたけど、ないんだなあ。それで別の新聞、つまり昭和15年8月から9月末にかけて新京で発行されていた満洲新聞と奉天で発行されていた満州日日新聞を調べてみました。
 満洲新聞は紙が悪かったのかマイクロフィルムの画面は真っ黒で、フィルムリーダーの明るさを上げてもまだ暗いし広告も小粒で読みにくい。それでも「著名カフエー案内」があり、精養軒はこっちでも新京日日と同じく「伝統を誇る/精養軒」だっが、元祖成吉思汗鍋の広告はありませんでした。また満洲日日新聞の各種広告は奉天物ばかりで、しかもジンギスカン関係の広告はありませんでした。
 黒い満洲新聞を丁寧に見ていったら、8月24日付と29日付の夕刊2面に山茶寮のメモ広告があったのです。新京日日と同文で「準備を急いで居ります」だったが、2週間も遅い。こりゃ脈があるぞと見ていったら、9月20日付朝刊8面にお知らせ広告があったのです。それが資料その25(1)で、高さは1段ながら紙面全幅を取り、2本の宣伝文の間に鍋らしい黒い写真があります。同(2)に全体を書き出しましたが、茶色の文字は右からの横書き分です。
 写真をフィルムリーダーで拡大して、明るさ100、コントラスト0という極限状態で見たら、ジンギスカン鍋にフライパンみたいな柄を付けた鍋と生け花の水盤みたいな鍋の2枚を写したものとわかりました。資料その25(3)はその写真コピーのトーン調整したものですが、右の低い四角錐の焼き面に溝を付けた鍋が蒙古鍋だね。御座敷で煙も立たずというから、4つの面の溝には脂落としの隙間はなかったらしい。
 インターネットの通信販売でこんな鍋の写真があるし、講義録の「札幌・レトロスペース坂の鍋コレクション紹介など」にある某氏の鍋コレクションにもあり、某氏が「造型的に面白い『ピラミッド』です。平面を組み合わせて立体化した無謀さが何とも言えません。」と紹介している昭和30年代の角形の鍋は、この蒙古鍋の末裔だったんですなあ。これは鍋の歴史にとっても重要な写真なんですよ。はっはっは。

資料その25

(1)



(2)
御知らせ

いよ/\
 始めました!

ジンギスカンの味覚を屋外な
らぬ御座敷で簡易に戴ける
新案蒙古鍋  当店自慢の
石焼料理と共に原始的な御
料理です

満洲名物
蒙古鍋
ジンギスカン


(石鍋と蒙古鍋の写真)

名物
石焼料理 蒙古鍋
   山茶寮
長春座前 電話(3)六七〇〇番

┌―――――――――――――――――――――――――┐
| 鍋の型は蒙古人の帽子より型を取りまして御座敷で |
| 煙も立たずジンギスカンそのまゝの風味を味へるの |
| が何よりの特徴で御座ゐます。           |
└―――――――――――――――――――――――――┘



(3)
    


(4)
    


(5)     山茶寮の広告掲載日

8月       新京日日    満洲新聞
10日付夕刊2面 メモ
12日付夕刊2面 メモ
14日付夕刊2面 メモ
24日付夕刊2面         メモ
25日付夕刊2面 満月
28日付朝刊2面 満月
29日付夕刊2面         メモ

9月
2日付夕刊2面  満月
4日付夕刊2面  石鍋蒙古鍋
8日付夕刊2面  石鍋蒙古鍋
12日付朝刊3面 石鍋蒙古鍋
13日付夕刊2面         蒙古鍋開始
15日付朝刊3面 石鍋蒙古鍋
16日付夕刊2面 石鍋蒙古鍋
21日付朝刊3面 石鍋蒙古鍋
28日付夕刊2面         鍋写真
29日付朝刊7面         鍋写真

 更に見ていったら、この写真に「名物/石焼料理/蒙古鍋」「割烹/山茶寮」と名前を焼き込んだ広告、資料その25(4)が9月28日夕刊2面と29日付朝刊7面と2回出ていました。
 昭和15年8月から9月にかけて山茶寮は新京日日に12回も広告を出したのに、なぜ蒙古鍋鍋開始の広告と鍋写真の広告は満洲新聞だけにしたのか。私は山茶寮のスリーシスターズは、鍋の写真を大きく見せるために満洲新聞を選択したとみます。新京日日は8月から16段組みに変わり、1段の広告の高さが低くくなっていた。当然鍋の写真は小さくなり、より見えにくくなる。高さ2段の広告にして新京日日でも鍋を見せるには予算が許さない。それで新京日日の読者は開始がはっきりわからないが、開始広告は満洲新聞に絞った。満洲新聞に蒙古鍋の写真が載ってたぜといった口コミに期待したと考えています。
 昭和15年の新京日日では、公園で開く県人会や団体の野遊会、懇親会の広告がばったり途絶えてしまいます。9月14日夕刊2面に「自粛哀悼日満点」という見出しで「公休の日満紅灯街藝酌婦並びに従業員二千余名に首都警察庁保安科当局が初の精神教育を行つた昨十二日の自粛哀悼日は当局の指導と市民の自覚宜しきを得て哀悼日設定以来の好成績に終始し銃後の護り愈々全きを思はせた(57)」という記事が載っていました。命を的に戦う兵士や靖国の英霊を思い、飲んで遊ぶことは慎む日があったのです。
 そんなときに和歌山県人会が建国忠霊廟にお参りしてからですが、ジンギスカンの懇親会を開くというという大胆な広告を出していた。珍しいので資料その26にしました。

資料その26

 和歌山縣人各位ニ告グ

 建国忠霊廟参拝並ニ定期総会兼家族懇親会ヲ左記ニ依
 リ開催致シマスカラ奮ツテ御参加下サイ
一、日時 十月六日(日曜)但シ雨天ノ場合ハ中止
一、順序 午前十時 新京駅前観光協会ニ集合
  同十一時 建国忠霊廟ニ参拝
  午後一時 南湖北岸ニ於テ総会兼懇親会
       (ジンギスカン鍋)
一、会費三円 但シ御家族ハ半額

 準備ノ都合モアリマスカラ十月三日迄ニ左記事務
 所ヘ御出席数御通知相成度
 尚未入会ノ方ハ名簿作成上出欠ノ如何ニ拘ラズ御一報下サイ
  市内豊栄路一三三田村電気商会内
 和歌山縣人會事務所
    電話(二)二八五二番

 国会図書館の新京日日新聞のマイクロフィルムは昭和15年10月末で終わり、その後はないので昭和15年で一区切りしたいのですが、16年にジンギスカンを食べた記録が2件見つかったので資料その26を設けました。その(1)は満州文話会の世話役だった山田清三郎氏の思い出。文学者らしく立ち食いはジンギスカン焼き、座るとジンギスカン鍋と呼び分けている点に注目しますね。外でやるときは「平たい大鍋の下に薪を燃やして焼」くからジンギスカン焼きで、室内でやるときは「卓をかこんでの成吉思汗鍋」として2回食べたとある。室内のは「薪の燃え火に肉をあぶり、立食い」はせず、炭火で焼くジンギスカン鍋だった。つまり熱烈歓迎ということで、特に外と部屋に入ってからと2回食べさせたのかも知れません。
 ただ店の名前の康徳福は厚徳福の誤り。北京に本店があり、支那事変が始まってから満州国の奉天と新京とチハルに支店を作ったようで、新京支店では屋上でも鍋をやれるようにしていたのでしょう。この記事は川端とジンギスカンの関係を含んでいるので「本や雑誌に書かれたジンギスカン」というような講義でも使うつもりです。
 資料その26(2)は元農林次官小平権一の年譜からで、新京にあった興農合作社中央会理事長の公宅の庭でのジンパです。たった1行しかありませんが、緬羊と縁のあった人なので取り上げました。小平さんは大正7年、34歳のとき農商務省農務局緬羊課員になり、出世して昭和13年に農林次官になったのですが、1年足らずでやめて満洲の興農合作社中央会理事長に就任した。昭和16年にやめたので、漱石の親友橋本左五郎さんの娘さんの夫である畜産OB松島鑑さんがその後任理事長になったのです。
 敗戦後は戦犯として追放されたのですが、昭和26年に追放解除となり、東京の緬羊会館で「小平先生追放解除祝賀会」が開かれた。緬羊会館は日本緬羊協会が湯島に建てた建物で、いまもあります。祝賀会に出た顔ぶれをみると農政界の錚々たる人たちでね、別の講義で詳しくやりますが、小平さんが緬羊課にいた当時の岸良一技手が日本緬羊協会理事長で祝賀会に出た
(58)のですから、緬羊会館で売っていたジンギスカン料理を食べないわけがない。ちょっと脱線だがね、数学のノーベル賞といわれるフィールズ賞を日本人として初めて受賞した数学者小平邦彦東大教授はこの人の長男でした。

資料その27

(1)
<略> 話はかわって、それは一九四一年(昭和一六年)四月のことであった。作家の川端康成と劇作家の高田保が、たずさえて新京にやってきた。二人は満州から中国の華北への旅を志し、まず新京を訪うたのであった。
 二人のために、満州の文芸団体文話会と政府弘報処が共催、城内の康徳福飯店で歓迎宴をひらいた。屋上に出て、平たい大鍋の下に薪を燃やして焼く蒙古料理の成吉思汗鍋は、分厚な羊の肉を、いかにも原始的に味わせて、客たちをよろこばせた。
 二人を主賓に集ったのは、新京在住の文芸団体文話会員、政府弘報処の役人、協和 会中央本部文化関係者など四十人ほどで、文話会員ではつぎの名がかぞえられた。 <略>
 それが特異の味覚とされていた煙の匂いをしませて、薪の燃え火に肉をあぶり、立食いする成吉思汗焼きのあと、席は卓をかこんでの成吉思汗鍋にうつった。このとき、吉野治夫の司会で、型のような宴席のコースがはじまって、しょっぱなからわたしは何かしゃべるように指名された。<略>


(2)
10・5 公館の庭にて、仲秋名月のもとジンギスカンの夕を催す。

 まだ詳しく調べておりませんが、昭和18年には太平洋戦争が激しくなり、食肉統制が行われ、いずれ羊肉も配給制だったかどうか調べますが、新京では牛肉、豚肉が姿を消したと満洲出版協会業務課長だった松井武州という人が書いるので、資料その28にしておきました。私はそのころ南満洲の田舎にいたので、そういう統制の実態を知らないのです。
 没有法子という中国語が出て来ますが、日本人的発音ではメーファーズ、仕方がない、やむを得ないという意味で、私もよくいいました。それからね、満系の料理屋は満洲人が経営している料理店。満洲人同士の独自ルートを通じて、鼻の長い黒豚ぐらい仕入れてるだろうと期待して行ったのでしょう。

資料その28

  肉食獣衣
           松井武州

 さきごろ支那料理を喰べに行つたら、前菜に油揚の煮付が出てきた。四皿の前菜だから従采ならこの皿は冷肉のはずである。
 元來、油揚の煮付といふのは日本特有の料理ではないのだし、萬事につけて困苦欠乏にたへなければならぬ時代だから冷肉の代用品に油揚が出てきたくらいのことで驚くにはあたらないと思つたが、それでも満系の料理屋にゆけば、牛か、豚の肉が喰へるだらうと、内心あてにしでゐただけに、ちよつと考込んでしまつた。その油揚をひときれはさみあげてみると、箸ざわりがいやに柔かくつて、輕るかつた。大袈裟にいへば、感無量といふきもちである。
 案定、十余皿の全卓が白菜湯に終るまで、つひに魚鳥の類をのぞいては、牛も豚も肉らしきものは出てこなかつた。鶏肉が葛かけになつたり、ころもをかぶつたり、ときには正面きつて、から揚げにされて出てくるのである。鮮やかな代用化といふよりも、むしろ料理人の苦心のほどがしのばれた。所謂、食肉統制といふことも、こゝまで徹底してくると、なかなかこゝろよい感じがする。もつとも統制が巧妙に徹底したといふよりも、どうにもかうにも食肉がなくなつたので、流石の満系料理店も没有法子になつたのかもしれない。<略>

 最後にスライドを1枚。山茶寮の「鍋の形は蒙古人の帽子より」かたどった鍋はどんな形か気になるでしょう。はい、これがモンゴルの帽子の写真です。かつて満鉄が出していた写真雑誌「満洲グラフ」からです。「礼装用帽子と頸飾」の奥に置かれた3個の真ん中の帽子は折り返しの縁があり、私が周環と呼んでいる汁だめが広い形の鍋に似てます。これなら我々が使っている鍋とあんまり違いはないね。右端は縁なしの饅頭型で、遅塚麗水が描いた鍋の絵に似てますね。山茶寮の鍋は、強いて言えば奥の左端かなあ。


     

 ただ、この写真だけを以て蒙古の帽子を云々できない。というのは部族によって異なっているかも知れないからです。モンゴル教育界に貢献している我が北大の名誉教授を知っているが、その方が毎年蒙古から教育関係者を招くのです。いつだったか、子供たちを招いたことがあった。そのとき我々には同じように見えるけど、ネッカチーフの色で何々族を示していると説明があった。ですから、これら5個は別々の部族の帽子かも知れん。ましてや、ジンギスカン鍋は蒙古兵の兜をかたどったなんて、いい加減なことをいっちゃいかんのです。きょうはここまでで終わります。
  

参考文献
資料その25(1)と同(2)と同(3)は昭和15年9月13日付満洲新聞夕刊2面=マイクロフィルム、 同(4)は同年9月28日付同朝刊7面、同、 (57)は同年9月14日付新京日日新聞夕刊2面、同、 資料その26は同年9月30日付同夕刊2面、同、 資料その27(1)は政界往来社編「政界往来」48巻1号178ページ、山田清三郎「私の生きた明治・大正・昭和史 」より、昭和57年1月、政界往来社=館内限定近デジ本、 同(2)は楠本雅弘編著「農山漁村経済更生運動と小平権一」631ページ、昭和58年7月、不二出版=原本、 (58)は同630ページ、同、 資料その28は畜産満洲社編「畜産満洲」3巻3号106ページ、康徳10<昭和18>年3月、畜産満洲社=原本、 スライドは満鉄会監修「満洲グラフ」4巻202ページ、「蒙古土俗集」より、平成20年9月、ゆまに書房=原本、底本は南満洲鉄道株式会社編「満洲グラフ」5巻8号、昭和12年8月、南満洲鉄道株式会社