中村満鉄総裁が大連に持ち込んだ烤羊肉

   はい、始めます。きょうは夏目漱石とお前とか、こいつだのという仲だった満鉄総裁の中村是公(よしこと)、漱石はゼコウと呼び捨てにしてますが、是非の是とハムの公と書く。そのゼコウさんが大正2年、満洲の日本人社会にジンギスカン料理を初めて紹介した事実を取り上げます。それは漱石が満洲を訪れてから4年後のことなので、漱石の「満韓ところどころ」には書いてませんよ。でも「満韓ところどころ」からゼコウさんの太っ腹なところや豪傑振りがわかるので、その抜粋などの資料を配ります。ではここから、はい、一部取ったら後ろへね。それから資料の日付と何々新聞何面という説明はね、すべて図書館所蔵のマイクロフィルムによるということを略してます。
 後ろの人にも渡りましたね。前の講義で旧満洲国の満鉄公主嶺農業試験場のことなどを取り上げましたが、その公主嶺がどの辺にあったのか、今度はマンガ的な昔の畜産分布図で説明しましょう。資料その1を見なさい。白い羊と黒い豚が9頭ずつ描いてあるが、羊が左の蒙古寄りに多いことがわかりますね。満鉄本社のあった大連は一番下の赤丸、公主嶺は下から3つ目の豚が描いてあるあたりで、その直ぐ上の赤丸が新京、いまの長春。どうでもいいことだが、私が終戦のときいたのは一番下の豚のあたりなのでね、それでジンギスカンは豚肉でやるものになっていたのかも知れん。はっはっは。

資料その1

     

 

 ここらはいまは遼寧省となっていますが、満洲国当時は錦州省という省名でした。満鉄が出した「満洲風物帖」の「支那料理」の章で、羊肉について「一種の臭味があるが柔くて美味である。満洲では西南部錦洲省に最も多い、蒙古人や回教徒は盛んにこれを食ふ。日本人間にヂンギスカン料理と云はれてゐるのは(カオ)羊肉のことで、野外で松の木を焚いて鉄搘子で羊肉を焼いて食ふのである。(1)」と書かれています。
 「最も多い」と「蒙古人や回教徒は」の間の読点が微妙ですが、蒙古人、回教徒が占める割合が満洲にあった16省のうちの最多という意味ではなく、素直に羊肉の消費量が最多と受け取っておりますがね。この解説を読んで、私がその錦州の田舎へ転校する前にいた新京、いまの長春の小学校の同期生が一様にあのころジンギスカンなんて食べたことはなかったと答える理由が少しわかったのです。
 でも緬羊は羊マークのある地域でしか飼っていなかったわけではないので、羊マーク一帯では中国人や回教徒の経営する料理店で本場のカオヤンローを食べる機会があったでしょう。だからストーブのロストルみたいな焼き面、いわゆるジンギスカン鍋を使うと知って、日本人も市販の同じ鉄鍋を買うとか、自作したりして羊肉のジンギスカンを食べていたと思いますね。
 錦州については、昭和16年錦州市にいた小谷章さんという元TBSプロデューサーの方のホームページ「My Media」に「こんな時代でも錦州は平和なところだった。休日には家族で城内の支那町に食事に行ったり、社宅の庭でジンギスカン鍋をつついた。満鉄の運動会や家族会には欠かさず参加した。大相撲の満洲興行で双葉山、安芸の海、羽黒山、照国の四横綱の一行が錦州に来たのもこの頃だった。」とあるのを見つけてね、鍋の形をお尋ねしました。
 小谷さんは錦州で使った鍋はロストル型だといい、お姉さんは休日には家族がでよくジンギスカンを食べたのは覚えているが、残念ながら鍋の形についての記憶はないとのことでした。そこでお返しに、あなたのご両親の結婚披露宴のことが昭和5年11月29日付満洲日報朝刊2面「安楽椅子」に載っていると私は小谷さんへお知らせした。そのために調べたのではなくてね、婦人はもっと社交性を豊にして将来はもっとこうした席に出るようにせよという珍しいコラムだったので覚えていたのです。
 今回の講義にあたり、小谷さんのホームページがまだniftyにあるかどうか確かめたところ、それはなくなっていて、別に「おだに あきらブロク」があり、平成23年9月に亡くなったと小谷真弘氏によるお知らせがありました。そのブログの中には尽波とは書いていませんが、平成22年7月24日の書き込みで「突然舞い込んだメール」という題で私が送った満洲日日新聞の記事(2)が載っていました。こうなると、私は小谷さんより3つ年上なんだから大変だ。命短し、とにかくジンパ学の成果について一通り講義しておきたいので、皆さん真面目に聞いて下さいよ。
 さて、資料その2ですが、是公さんが漱石に向かって満洲に連れて行ってやろうと言いだした「満韓ところ/\゛」の冒頭です。漱石は南満鉄道会社と書いていますが、正しくは南満州鉄道株式会社。初代の後藤新平総裁の下で副総裁を2年務めた是公さんは、後藤さんが逓信大臣になったためその跡を継いで総裁事務取扱になったときでした。
 漱石と是公さんとは学生時代、同じ部屋に1年ほど住んだ仲でした。「丁度予科の三年の時、一九歳頃の事であつたが、私の家は素より豊かな方ではなかつたので、一つには家から學資を仰がずに遣つて見ようといふ考へから、月五圓の月給で中村是公と一所に私塾の教師をしながら予科の方へ通つてゐたことがある。これが私の教師になつた初めで、其私塾は江東義塾と云つて本所に在つた。或有志の人達が協同して設けたものであるが、校舎はやはり今考へて見ると随分不潔な方の部類であつた。(3)」と漱石は回顧しています。
 「中村是公さんと二人、今でいうアルバイトで、或る塾の教師をしていたのだが当時の予備門の月謝が二十五銭、食費が月二円だったとかで、二人共五円ずつの給料を貰うと、先ずその中から月謝と食費と湯銭を差引き、残りの金をごちゃまぜにして、金のある間は、毎夜の様に蕎麦だの汁粉だの寿司などを食い歩いていたと述べている。(4)」と漱石の次男伸六さんは本に書いていますが、これは漱石の「永日小品」の中の1編「変化」とそっくり。予備門から帰って塾で2時間教えればよかった。「だから、夜などは無論落ち着いて、自由に自分の勉強をすることも出来たので、(5)」と別の本に学習に励んだように書いてますが、それは「共同財産が尽きると二人とも全く出なくなった。(6)」からだったはずで、よく言うよ―ですよね。ふっふっふ。
 明治26年、ともに東京帝国大学を卒業したのですが「中村はすぐ台湾に行つた。それぎり丸で逢はかつたのが、偶然倫敦の真中で又ぴたりと出喰はした。丁度七年程前である。其時中村は昔の通りの顔をしてゐた。さうして金を沢山持つてゐた。自分は中村と一所に方々遊んで歩いた。(7)」。何年も音信不通だったけれども、会えばすぐ予備門時代と同じ付き合いに戻れたのですね。
 この「変化」の結びに漱石は「昔の中村は満鉄の総裁になつた。昔の自分は小説家になつた。満鉄の総裁とはどんな事をするものか丸で知らない。中村も自分の小説を未だ曾て一頁も読んだ事はなからう。(8)」と書いてます。身分とか職業は変わっても、性分とか友情は昔と同じだといいたかったのでしょう。それで馬鹿とか阿呆と言われるのを承知で漱石は満鉄とは何だと尋ねたし、是公さんは例によって連れて行ってやろうといい出し、結局満洲に連れて行ってもらうことになったのでした。

資料その2

 ●滿韓ところ/\゛    漱石

    (一)

 南滿鐵道會社つて一體何をするんだいと眞面目に聞いたら、滿鐵の總裁も少し呆れた顔をして、御前も餘つ程馬鹿だなあと云つた。是公から馬鹿と云はれたつて怖くも何ともないから黙つてゐた。すると是公が笑ひながら、何だ今度一所に連れてつて遣らうかと云ひ出した。是公の連れて行つて遣らうかは久いもので、二十四五年前、神田の小川亭の前にあつた怪しげな天麩羅へ連れて行つて呉れた以来時々連れてつて遣らうかを余に向つて繰返す癖がある。其癖未だ大した所へ連れて行つて呉れた試がない。「今度一所に連れてつて遣らうか」も大方其格だらうと思つてたゞうんと答へて置いた。此気のない返事を聞いた總裁は、まあ海外に於る日本人がどんな事をしてゐるか、ちつと見て來るが可い。御前見た様に何にも知らないで高慢な顔をしてゐられては傍が迷惑するからと頗る適切めいた事を云ふ。何でも是公に聞いて見ると馬關や何かで我々の不必要と認める程の御茶代抔を宿屋へ置くんださうだから、是公と一所に歩いて、此庬大な御茶代が宿屋の主人下女下男にどんな影響を生ずるか一寸見たくなつた。そこで、ぢや君の供をしてへい/\云つて歩いて見たいなと注文を付けたら、そりや何うでも構はない、一所が厭なら別でも差支ないと云ふ返事であつた。<略>

 私は現場主義のジンパ学と唱えているからには、大文豪漱石に敬意を表して「満韓ところ/\゛」のこの書き出しぐらい原文通り正確に紹介しようとだ、1回目を掲載した朝日新聞の紙面と大正7年8月に出た「漱石全集」第9巻のそれを比べてみたらですよ。天麩羅屋になっていたり4カ所、昭和11年1月に出た「漱石全集」第10巻も天麩羅屋と尨の2カ所それぞれ違いを発見した。資料その2にしても「遣らうか」などのシンニュウが全部「辶」で「辶」でない。フォントがないためで、だからどうというわけではないけど、並のウィンドウズでは正確な再現は難しいんですなあ。
 是公さんから誘われたとき漱石は朝日の連載小説「それから」を執筆中でした。最終回は10月14日で、その4日後の18日に漱石は帰宅したのだが、旅日記には「それから」の原稿を送ったという記述はないので、最終回「十七の三」までそろえてから出発したのでしょう。42回分、毎日3回分ずつ書くとして2週間かかる計算で、胃が痛くなるわけですよ。
 「それから」の最終回のすぐ後ろに「明日よりの小説/白鷺 泉鏡花」と予告が付いていて、翌15日から「満韓…」と同じページに挿絵付きで載ってます。それぐらい連載小説は大事な読み物であり、1日たりとも穴を開けるわけにはいかないという圧力があったんでしょう。50日近く遊んできたといっても「それから」とはわずか6日、帰宅して4日後に「満韓…」の掲載が始まったのですから漱石もたまりませんよね。
  「満韓…」は撫順炭鉱の坑口に入ったところの51回、12月30日で突然終わり、朝鮮の見聞が全くないことは知られています。「大晦日になつた。二年に亙るのも変だから一先やめる事にした。(9)」と、いきなり終わる方が変だと思うのですが、なぜかリセットしちゃったのです。
 脱線ですがね、撫順で打ち切った理由です。朝日新聞の紙面を見ると10月21日から始まった翌日の22日は休み、26、28、29、31日と休んだため10月は11回まで進むはずが6回で終わっています。11月に入ると2日から7日まで6連休になったので漱石も頭にきた。
 「此間の御相談にて御約束致候処伊藤公が死ぬ、キチナーが来る、国葬がある、大演習がある。――三頁はいつあくか分からず、読者も満韓ところ/\゛を忘れ小生も気が抜ける次第故只今渋川君の手許にてたまりゐる二三回分にてまづ御免を蒙る事に致し度候(10)」と主筆池辺三山に手紙を出したんですね。それでか、16回続くけど、24日からまた休みだ。漱石は留学中の寺田寅彦あての手紙で「どうも其日の記事が輻輳するとあと廻し〔に〕される。癪に障るからよさうと思ふと、どうぞ書いてくれといふ。だから未だにだら/\出してゐる。其所へもつて來て此二十五日から文芸欄といふものを設けて小説以外に一欄か1欄半づゝ文芸上の批評やら六号活字で埋めてゐる。(11)」とぼやいています。
 紙面を見ると、11月25日から区切りみたいな文芸欄という1段の見出しを付けて3面の中段から下は普通の記事は載せない組み方になり、初回は漱石が「『煤煙』の序」を書いています。その下には泉鏡花による連載小説「白鷺」があるので、その間にクッションになる「柴漬」というタイトルの短いコラムを設け、初回は独逸の詩人の逸話を入れています。これで論文とか評論と小宮豊隆が書く「柴漬」の組み合わせで、連載小説の上の1段半を埋めるという文芸欄の形が決またんですなあ。「柴漬」はその後も一貫して欧米の話題を取り上げたり「ホトゝギス」や文芸雑誌の目次、新刊紹介を極く小さい活字で入れたりしています。
 それで3面の小説の上に載せてきた「満韓…」をどこへ持っていったかというとね、伊藤博文暗殺事件をきっかけに渋川玄耳が6面に書いていた連載の「恐しい朝鮮」の跡に移した。 渋川が仕方なく打ち切るように「一先づ茲に筆を置いて又折を見て『面白い朝鮮』を書かう(12)」と一言付け加えたので、余に文芸欄を作らせておいて、まるで「満韓…」は邪魔だといわんばかりで「癪に障る」と、漱石はわざと「一先やめる事にした」と渋川に似た書き方にして止めたと見ましたね。「満韓…」は旅日記であり、連載小説ではなかったから、こうした気儘な終わり方が許されたのでしょう。
 それから青空文庫の「満韓…」を使って、ちょっと名詞検索をしてみた。ジンギスカン鍋、ジンギスカン料理、支那料理という名詞は皆無です。明治42年ごろは、まだ満鐵社員など満洲の日本人社会にカオヤンローが知られていなかったし、そんな呼び方もなかったという裏付けでもある。その代わりみたいにね、スキ焼が11回出てきます。名前は是公72回に対して撫順まで付き合ったため橋本は122回も出る。羊は皆無だけど、馬鹿は除いても、馬車を使うので馬は沢山出てきます。
  

参考文献
上記資料その1の出典は南満洲鉄道株式会社編「満洲グラフ」10巻3・4合併号40ページ、昭和17年4月、南満洲鉄道株式会社東京支社=原本、 (1)は満鉄鉄道総局旅客課編「満洲風物帖」117ページ、藤田勘一「支那料理」、平成19年10月、慧文社=原本、底本は昭和17年12月、大阪屋号書店、 (2)はhttp://yaplog.jp/
a_odani_001/archive/4055 (3)は漱石全集刊行会編「漱石全集」別冊583ページ、大正9年12月、漱石全集刊行会=近デジ本、底本は「中学時代」明治42年1月号、 (4)は寺下辰夫編「味の味」160ページ、夏目伸六「漱石と蕎麦とすき焼」より、昭和42年3月、ドリーム出版=館内限定近デジ本、 (5)は漱石全集刊行会編「漱石全集」別冊666ページ、「私の学生時代」より、大正7年8月、漱石全集刊行会=近デジ本、 (6)と(7)と(9)は同9巻144ページ、「永日小品」の「変化」より、大正7年8月、漱石全集刊行会=近デジ本、 (8)は同145ベージ、同、 資料その2は明治42年10月21日付朝日新聞朝刊3面、漱石「満韓ところ/\゛」(一)より、縮刷版、 (9)は縮刷版 (10)は漱石全集刊行会編「漱石全集」16巻744ページ、昭和11年12月、漱石全集刊行会=近デジ本、 (11)は同749ページ、同、 (12)は縮刷版


 漱石はそれぐらいにして是公さんだ。彼は今風に言えばスポーツマンで、学生時代はボートに打ち込み、学内レースで賞金をもらったとき、それで英語の原書を買って漱石に進呈した(13)という話は「変化」にありますが、体力自慢で、宴会での武勇伝が新聞ダネになっています。記事の「一団にはまだ独眼でなかつた御大を筆頭に」という記述に注目してバンカラ副総裁の逸話として資料その3にしました。

資料その3

牛飲馬食は成吉斯汗の鋤焼鍋がお気に召す程の蛮殻だ低酌微吟などには一向趣味を持たない畳をメクル、障子を破る、三味線がヘシ折られる、そんな事は決して珍しらい事ではなかつた、尤もそれはまだ野戦時代のホトボリが覚めない頃▲ある日千勝館へドヤ/\と二次会か三次会で繰り込んだ一団にはまだ独眼でなかつた御大を筆頭に精力家として知られた副将軍も加はゝつて居る▲誰かの力自慢から始まつて話は色気抜きの腕力比べと来脛押し、腕押し、坐り相撲とまで進んでとうとう本相撲となつたが座敷の中では土俵を築く訳にも行かない座布団を並べその、畳を引繰返せのと名案百出したがどれもこれも否決されて結局屏風を引繰返せとなつた▲それあ面白ろからうと早速横倒しにして拡げたのが金屏風の六枚折ヨイシヨと四股を踏めばプスリ、サアコイと四股を踏めばメリ/\メリツ勝負は一番も片附かない内に名案の土俵は滅茶々々になり登場力士からは折れた組子が甚だ危険であると云ふ至極尤もな不服が出て其番の相撲は物言附きで芽出度く打出したが土俵にされた金屏風丈けは今でも其儘千勝館にある

 是公さんは明治41年2月から東京で眼病の治療を受け「▲中村是公氏 軽症トラホームに罹り今日桐瀬病院に入院の筈(14)」と朝日新聞に載りました。3月になり読売新聞は「▲中村関東民政長官 追々快方に赴きたる由(15)」と書いたけれども、東京で通院を続けたんですね。副総裁とは違う肩書きは当時、関東都督府民政長官も兼ねていたからです。7月14日に後藤さんは満鉄総裁を免ぜられて逓信大臣になり、東京で治療中だった是公さんが総裁事務取扱に任命(16)されたんですな。
 是公さんは「今回後藤総裁閣下逓信大臣ニ任セラレタルニ付不肖副総裁トシテ社務ヲ処理スルノ已ムヲ得サルニ至レリ然リト雖本日発布セラレタル勅令第百七十九号ヲ以テ本社ノ監督権ヲ逓信大臣ニ移サレタルニ因リ将来モ尚ホ前総裁閣下ノ方針ニ依リ諸般ノ計画ヲ遂行スルヲ得ヘキハ明瞭ナリ<略>(17)」という訓諭を7月22日付の社報に載ってますが、完治してなかったらしい。8月16日大連に戻った是公さんは翌日、本社の社員を集めて「私モ病気ノ為永ラク滞京致シ漸ク昨日帰リマシタガ久シク執務ヲ廃シマシタノハ諸君ニ対シ甚タ申訳ガ御座イマセヌ此段ハ偏ニ御許ヲ願ヒマス<略>(18)」と前置きして訓諭をしています。
 そんなわけで是公さんは独眼龍といわれるようになったけれど頓着せず、翌42年9月、漱石が大連に着いたとき野球を見てから舟を漕いでいて(19)、総裁公邸にはいなかったくらいだ。また、乗馬を始めたようで、漱石より一足遅く現れた左五と呼んだ旧友、東北大学札幌農科大学教授の橋本左五郎と会うと「是公馬の話を橋本とする。自分の馬に乗つて見ろと云ふ。二人して馬場に行く。余は途中から腹が痛くて引き返す。(20)」と漱石は日記に書いています。
 これを読むと是公さん個人で馬を持っていたみたいですが、そうではなくて新聞に「満鐵には乗馬会から引受けた乗馬が六頭あつて中村総裁や先頃欧州から帰つた粕谷技師、富永技師などの乗馬は少なからぬ趣味を持つて居る人たちは此頃の暖かさに乗じて日曜日なぞに所々乗り廻して居るのを見受けるが…(21)」とありますから、満鐵の馬らしい。それにしてもこれは2月の「暖かさに乗じて」なんですから、相当熱中していたとみえます。
 是公さんは大正13年に東京市長になるのですが、九州日報の記者だった夢野久作は連載記事「街頭から見た新東京の裏面」に、関東大震災の後始末と復興を図る新市長の「<略>第二候補はこれも前の満鉄総裁、文豪夏目漱石の友人で女好きで酒好きでウソかホントか梅毒で片目をつぶして居ると云ふ中村是公のオヤヂさんであつた。其処へ水を向けると一も二もなく承知して『オヤまあ』と思う間も無くノコ/\サイ/\永田秀次郎氏があと釜に座わつたのが丁度十月の初旬のことであつた。(22)<略>」と書いたけれど、九州の新聞だから是公さんの目に触れなかったでしょうね。
 ともあれ市長時代も「素晴らしい新馬を一二頭飼つていて、毎朝乗馬を楽しんだ。乗馬ズボン姿で登庁することもかなり多かった。」「宴会で隠し芸を迫られると」僕のは表芸だと芸者を並べて「ピヨンピヨン馬跳びの実演」をやった。それどころか東京市長をやめるとき、朝早く馬に乗って掛かり付けの医師を起こしに行き、辞任願に付ける診断書を書けといった(23)そうだから、徹底してたんですね。

  

参考文献
(13)は漱石全集刊行会編「漱石全集」9巻144ページ、「永日小品」の「変化」より、大正7年8月、漱石全集刊行会=近デジ本、 資料その3は大正2年12月22日付満洲日日新聞朝刊5面=マイクロフィルム、 (14)は明治41年2月18日付朝日新聞朝刊2面=聞蔵U、 (15)は明治41年3月19日付読売新聞朝刊1面=ヨミダス歴史館、 (16)と(17)は南満洲鉄道株式会社鉄道総局文書課 編「歴代満鉄総裁訓諭抄」23ページ、昭和15年12月、鉄道総局人事局養成課=近デジ本、 (18)は同29ページ、同、 (19)は漱石全集刊行会編「漱石全集」9巻177ページ、「満韓ところどころ」より、大正7年8月、漱石全集刊行会=近デジ本、 (20)は同11巻511ページ、「日記(明治四十二年九月一日より十月十七日まで)」より、大正8年3月、漱石全集刊行会=近デジ本、 (21)は明治42年2月15日付満洲日日新聞朝刊5面=マイクロフィルム、 (22)は大正13年10月22日付九州日報朝刊5面、杉山萌圓「市長更迭の表裏 ◆市政の巻(三)」より、マイクロフィルム、 (23)は都政人協会編「都政」26号37ページ、昭和27年4月、都政人協会=原本


 是公さんが台湾総督府の役人だったとき、民政局長後藤新平に仕事ぶりを認められ、初代満鉄総裁になった後藤さんに引っ張られて副総裁になったのだし、集められた首脳陣は皆後藤派ということになる。ところが、満鉄の定款第36条は正副総裁の任期5年、理事4年、監事3年(24)と定めてあり、いつまでも重役の椅子に座っておられん。正副総裁の任期は大正2年12月18日までだったので、政財界のいろいろな派閥が後藤派からポストを取り戻そうと動き始めます。
 是公さん更迭に至る事情はジンパ学の研究対象ではないのですが、ざっと説明しておきましょう。姫野徳一著「満鉄総裁論」には「満鉄が伏魔殿と称せらるゝに至つたのは、余りに全社員が温室化する政党的色彩が濃厚に満鉄に潜入したからであつた。後藤男去り、中村是公氏次ぐに及び、満鉄は創業から守成に入つた。而して中村総裁は能く後藤男の遺図を継承して、依然として満鉄を後藤王国ならしめたのであるが、任期の充つるに及びて再び継承することも、又たその推薦する国沢副総裁の昇任も、何れも時の攻府の容るゝ処とならずして退任した(25)」という程度に留めています。
 だが、吉野鉄拳禅著「党人と官僚」によると、満鉄の要部は後藤閥が押さえ、その利益をほぼ独占している。後藤は関東都督府を守る長州閥を支えながら、三井財閥とも組んで満鉄事業を請け負わせ、後藤の満鉄か三井の満鉄かわからないくらいだ。後藤が逓信大臣として去っても、同心一体の子分中村是公を総裁に据えたので後藤閥は健在。三井物産出身の犬塚、田中両理事がいるから三井の勢力も変わらない。しかし、第2次桂内閣に代わって山本内閣が成立して薩摩閥が力を取り戻し、まず満鉄と東拓の重役を更迭し、両社内の長州閥を制圧して利益を得ようとした。それで満鉄の「総裁以下の更迭を断行せるは、世人の記憶に新たなる所なり。(26)」とあからさまに書いています。
 新聞も春からあれこれ取り沙汰しています。非満鉄系の新聞、満洲新報は「昨今大連ではこんな噂がある其一は満鉄総裁の交替談で今の中村総裁は矢張退隠して後藤内閣創立の時まで悠々病体の保養を為し養ひ鍛へし手腕はこゝ暫らく秘め留め置く事とし其後任として伊集院公使を以てする事と決定した然も其時期は五月末なりなんど誠しやかに言ひ傅へ居れど事実如何にや満鉄の総裁なら伊集院氏も今の収入と差異も生ずまいから別段出来ぬ相談でもあるまい(27)」と書いた。資料その4は新聞記事の一部で、総裁候補は沢山挙げられたけれど、結局は殆ど噂にならなかった「純然たる技術専門家として温厚篤実の聞えある(28)」鉄道院副総裁の野村竜太郎が総裁、政友会の代議士伊藤大八が副総裁に任命されたのです。

資料その4

 ●満鉄總裁更迭か
政府は来る十月現満鉄總裁中村是公氏の任期満了を期とし更迭を行ふことに決定せる由なるが之れと同時に同社の組織其他に亘り根本的改革を断行するやにて目下密々調査中なりと云ふ尚中村總裁の後任には伊集院現駐清公使の任命を見るべしと取沙汰するものあり
(大正2年4月28日付読売新聞朝刊2面)

 ●満鉄總裁は重任
満鉄總裁中村是公氏が本年十一月を以て期限の満了となるを機とし総裁の更迭あるべしとの説は先頃来屡伝へられたる処なるが過日の本紙に於て既に報道したるが如く種々の事情により政府に於ても今回は更迭を行はざることゝなり依然現任總裁の重任を見るべしと云ふ
(大正2年8月28日付読売新聞朝刊2面)

 ●總裁後任は誰
中村満鉄總裁が来十二月十八日の任期満了と同時に更迭せらるべきは最早動かすべからざる事実なるが其の後任につき其筋に於ては大に苦心しつゝあり今日まで候補者として数へられたるは平岡定太郎、伊集院彦吉、大沢界雄、押川則吉、野田卯太郎、鶴原定吉、中橋徳五郎の諸氏なるが最近に至り或る一派より林権助男を推しつゝあれども床次総裁は実業界の或る有力者を推薦し居れるを以で多分前記諸氏は浮名儲けに過ぎざるべしと
(大正2年9月27日付読売新聞朝刊2面)

  後藤男大に鳴らす
例の男爵時事新報記者に語つて日く満鉄総裁問題を以て薩派内閣が予の地盤を荒し自己の勢力を扶植せんと試むるに至つては予は寧ろその迂を笑はざるを得ず満鉄問題は勢力の問題にあらず真に該鉄道の発展を図らんがため総栽を更迭するの必要あらば予又何をか云はんされど若し之を以て薩派分子にパンを与ふるに過ぎざるに終らんと予は鼓を鳴らしてその非を鳴らさゞるべからず予は現在の中村総裁を以て最も公平に又最も其職に忠なるものと認むるを憚らず山本内閣が如何なるものを以てその後任ならしむるかは今後興味ある問題なり思ふに従来の満鉄は其営業振りに於て嘗て外国の非難を受けたるを聞かざるのみならず露国の如きはその鉄道経営の人を更迭せざるを最も策の得たるものとせるに非ずや予は言はんとす山本伯が少しく予の台湾満洲に於ける殖民政策に学び然る後大勢を掌握するの必要あらざるかと
(大正2年10月11日付満洲新報朝刊2面)

  満鉄総裁と新候補
満鉄革新の期は愈迫り同鉄道内部の動揺漸く甚しきものあり中村現総裁以下躍起防圧運動を試み居れるも而かも其の決行は床次鉄道院総裁出発前既定の事實なれば総裁の更迭と共に國澤副総裁以下四理事は必然連袂辞職すべく新幹部に付ては各方面よりの自称候補者尠からざる模様なるが最近臺銀総裁柳生一義氏の如きも又其の一人にて頃來樺山伯を通じて一部薩派を動かし一面原内相に迫ると共に山本首相を説かしめ且つ政友會幹部に突撃しつゝあるも柳生氏対後藤男の関係よりして同會の最高幹部は容易に動くべき模様もなく内相も亦頗る淡々たる態度を持し居れば其運動の猛烈なるにも係らず到底は無効に終るべき形勢なりと確聞す(東洋通信)
(大正2年11月2日付満洲新報2面)

  

参考文献
上記(24)の出典は保脇常吉著「新鉄道法令集」448ページ、明治40年3月、鉄道時報局=近デジ本、 (25)は姫野徳一著「満鉄総裁論」7ページ、昭和7年10月、日支問題研究会、同、(26)は吉野鉄拳禅著「党人と官僚」61ページ、「政争渦中の満鉄劇」より、大正4年4月、大日本雄弁会、同、 (27)は大正2年4月8日付満洲新報朝刊2面「其の時折」より=マイクロフィルム、 (28)は大正2年12月20日付読売新聞朝刊2面、同


   こういう政界情報から是公さんは自分の再任はないと読んだんですね。日本に戻る前に、せめて北京と南京ぐらい見物して帰ろう、北京には予備門で同期だった山座が公使でいることだしと、上田秘書役、尾見医師らを伴い清国に出掛けたのです。半月も留守にするのだから満鉄総裁の外国出張だと思うのですが、大正5年までの記録である「南満州鉄道株式会社十年史」の「重役外国出張」を要約すると資料その5(1)の通りで、是公さんは記録されていません。あくまでプライベートな旅で通したのですね。
 資料その5(2)は満洲日日新聞に載った是公さん一行の動静です。上田秘書役とは上田恭輔。陸軍の英独語通訳から関東都督府翻訳官を経て満鉄入りした。満鉄創業当時の社内の雰囲気など、この人が書いたり語ったりしたものに負うところ頗る大です。私の講義では、アメリカ渡航のときの船上で牛を殺す情景の思い出を紹介してますが、いずれ羊肉消費の発言も取り上げるつもり。またこの人はドクトル・フィロソフィーを名乗り「生殖器崇拝教の話」、「趣味の支那叢談」などの本を書いているが「大正人名辞典」でも「壮年米国に遊学し励精研鑽業成りて学位を受く(29)」という程度ではっきりしない。でもアジア歴史資料センターに資料その5(3)の履歴書がありました。これは31歳で台湾総督府に就職したところまでだが、Ph.Dは嘘ではなかった。日露戦争で陸軍の通訳官として満洲に呼ばれ、戦後、関東州都督府の通訳官を経て満鐵に入ったのです。
 尾見医学博士とは尾見薫で満鉄の大連医院外科部長兼一般治療部長(30)でした。翌大正3年に院長に昇格「霊腕を振ひ社内外の信頼の萃め神医の名を恣まにす。(31)」といわれてね。大正11年には満鉄職員だった詩人安西冬衛の足の手術をしてます。
 一行が大連に戻ったので、記者団が久保田理事などを取材したけど「予ら今次の旅行を以て重大なる使命を帯べるが如く伝ふれど事実は総裁以下支那に職を奉じながら北京を見ざるを遺憾とせし折柄宛も好し二週日許りの閑を得たるを以て多年の希望を満たせるのみなり他にあらず勿論北京にては袁大総統に三海の瀛臺にて接見し熊国務総理にも各部総長にも所々にて接見し会談せるが問題は借款に関するものには非ず一般の懇話にして此間単に日支親善の徴章の益々著しきを覚えたり云々と更に要領を得ざりし(32)」というのですから、本当に観光旅行だったんですね。

資料その5

(1)  重役外国出張

明治40年5月23日から北京 後藤総裁
明治41年4月28日からモスクワ 後藤総裁、岡松理事(岡松はさらに欧米)
明治41年9月1日から欧米 久保田理事
明治43年4月15日からモスクワ 田中理事
明治44年9月13日から欧米 岡松理事
大正元年11月2日からモスクワ 田中理事
大正2年6月30日から欧米 野々村理事


(2)満洲日日新聞に載った記事

 ●中村総裁北京行
中村満鉄総裁は來る十四日當地出発の済
通丸にて天津に赴き以て北京にも旅行す
る由其往復日数は未だ決定せざるも臨時
総会を眼前に控え居る事とて成るべく急
速に其要務を済し帰連を急ぐに至るべく
而して此度の旅行は会社の業務上京津地
方と交渉を要すべきものもあり又一方天
津に於ける海運上の状況をも視察するに
在りて因に最近に帰連したる久保田理事
も多分同行するとも聞けり
(大正2年10月10日付満洲日日新聞朝刊2面)

 ●中村総裁出発
中村満鉄総裁は既報の如く今十四日午後
二時出帆の済通丸にて天津に赴き北京よ
り漢口、南京各地を視察すべきが一行は
久保田理事、佐藤奉天公所長、尾見医学
博士、上田秘書役にて旅程確定し居らざ
るも天長節前に上海経由帰連すべき予定
なりと
(大正2年10月14日付満洲日日新聞朝刊2面)

 ●総裁 北京行内容
別項記載の如く中村総裁の天津及北京行
は表面に表はれたる満鉄経営上の要件の
外に尚重要なる要務を齎せるかの如くに
伝ふるが或は新協約の成立したる東蒙諸
鐵道に関する案件に付て山座公使及北京
政府の当局大官との間に何等か交渉す
るところあるべしと云ふ
(大正2年10月14日付満洲日日新聞朝刊2面)

 ●総裁一行出発
中村満鉄総裁久保田理事尾見博士等の一
行は既記の如く十四日午後二時発の済通
丸にて天津に向へり埠頭には安川三井支
店長原田正隆銀行重役相生由太郎本社員
森沙河口工場長犬塚満鉄理事各課長等以
下多数の見送ありたり
(大正2年10月15日付満洲日日新聞朝刊2面)

 ●中村総裁消息
中村満鐵総裁久保田理事上田秘書役尾見
医学博士の一行は大連汽船会社の田中末
雄氏と共に済南丸にて十五日午後六時半
天津着常磐ホテルに投宿し十七日北京に
入れりと
(大正2年10月19日付満洲日日新聞朝刊2面)

 ●総裁理事上京
目下北京其他に旅行中の中村満鉄総裁及
び久保田理事は本月二十九日乃至三十日
頃帰連の上両三日の後臨時総会出席の
為め上京する由
(大正2年10月19日付満洲日日新聞朝刊2面)

 ●中村総裁動静
中村総裁は十九日夜孫外交総長主催の歓
迎会に臨み二十日袁総統に会見の筈
(大正2年10月21日付満洲日日新聞朝刊2面)

 ●中村総裁消息
中村満鉄総裁久保田理事尾見博士佐藤奉
天公所長一行は廿二日朝北京発廿三日漢
口着の筈なり
(大正2年10月22日付満洲日日新聞朝刊2面)

 ●総裁一行帰程
中村満鉄総裁一行は北京よりの帰途二十
三日朝漢口に到着したる由通報ありたる
が予定に依れば二十七日上海出帆の榊丸
に乗船し二十九日着連の筈なり
(大正2年10月24日付満洲日日新聞朝刊2面)

  漢口電報(廿四日着)
 中村総裁     中村満鉄総裁一
行は二十三日來漢二十四日夜大冶鉄山
を経て上海へ向ふ
(大正2年10月25日付満洲日日新聞朝刊1面)

 〔小筆縦横〕
▲北京電 中村満鉄総裁は新約鐵道に対
して土地買収を約束せりと、チト受取
難き節なきにあらず、左れど氏の北京行
や固より尋常事に非ざる事、當時本紙こ
れを報ぜり、帰來氏が齎すところの土産
物は、対満蒙上刮目に値するものならん
唯これを発表するに時あるのみ▲<略>
(大正2年10月27日付満洲日日新聞朝刊1面)

 ●中村総裁帰連
北京にて袁総統を訪問したる後漢口、南
京地方の旅行せる中村満鉄総裁、久保田
理事、尾見医学博士、佐藤奉天公所長、上
田秘書役の一行は廿六日上海発の榊丸に
搭乗し廿八日午後9時無事帰連したり
(大正2年10月29日付満洲日日新聞朝刊2面)

 〔小筆縦横〕
<略>▲中村総 裁の一行が北京より齎
し帰れる手提カバンの中には定めし有益
興味ある御土産あらん而して氏は又これ
を提げ近く上京すべきが全都の新聞記者
は今より鶴首して総裁の着京を待たん
(大正2年10月30日付満洲日日新聞朝刊1面)


(1) 上田恭輔の履歴書

位勳爵
博士     <空白>        氏名 上田恭輔

族籍 平民   旧藩 龍野藩    旧氏名 梶原恭輔

生年月日 明治四年十二月廿四日   産地 兵庫県揖保郡龍野

原籍 大阪市西区八幡屋町三百十一番地の三

現住所 <空白>

年号月日       任免賞罰事故                官衙

明治十九年      北米合衆国ニ渡航ス
同年         インデアナ洲パーリングトン市ハイスクールニ入校ス
同廿一年       同校卒業ス
同廿一年ヨリ     コー子ル大學梵語教授ロークツキ博士ニ
同廿五年マデ     就キ梵語及比較言語学ヲ専攻ス
同廿六年       加洲桑港ラーシアー外国語学校ニ聘
           セラレ西班牙語ノ教師タリ
明治二十八九月ヨリ  加洲々立大學医学部ニ職ヲ奉ジ
同三十一年三月マデ  教授ライフコゲル氏ノ助手タリ
           此年マスターオブアーツノ学位ヲ得タリ
           次デイリノイ洲ナショナル(シカゴ)大學
           ノ博士試験ノ候補生トナリ
明治三十二年五月   ドクトルオブフヰロソフヰノ学位ヲ取得ス
明治三十五年八月一日 覆審法院事務ヲ嘱託ス月手当金五十円給与 台湾総督府
<略>

  

参考文献
上記(29)の出典は東洋新報社編「大正人名辞典 上 第四版」復刻版616ページ、昭和62年1月、日本図書センター=原本、 (30)は芳賀登ほか5人著「日本人物情報大系 満洲編6」16巻107ページ、平成11年10月、皓星社=原本、 (31)は同11巻354ページ、東方拓殖協会編「支那在留邦人興信録」より、同 (32)は大正2年10月30日付満洲日日新聞2面=マイクロフィルム、 資料その5(1)は南満州鉄道株式会社編「南満州鉄道株式会社十年史」127ページ、大正8年5月、南満州鉄道株式会社=近デジ本、 (3)は「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09121990300、明治37年自2月至5月 大日記 副臨人号 自第1号至第212号 共4冊(防衛省防衛研究所)」


 ところで是公さん一行は北京に着き、北京居留民会による歓迎会に臨んだ。資料その5(2)の10月19日夜の孫外交総長の宴会は断ったか時間を変えてもらったらしい。歓迎会に出て、なんとジンギスカンを食べたんですよ。是公さんは勿論初めてだったが、煙濛々、銘々が羊肉をジュージュー焼いて食べるこの料理がすっかりお気に召したんですなあ。大連に戻るや、北京直伝のジンギスカン時代の鋤焼きとか韃靼式鋤焼き鍋と称して、大ジンパをやって大連の有力者たちをあっといわせた。久保田万太郎らが鎌倉・由比ヶ浜でやる17年も前にだ、是公さんは満洲の日本人社会にジンギスカン料理を初めて持ち込んだ人でもあったのです。これはね、青柳達雄氏の「満鉄総裁中村是公と漱石」にも書いてない史実ですぞ。わっはっは。
 しかし資料その5(2)の満洲日日新聞には北京ジンパの記事はありません。どうしてそれを知ったか―そこが現場主義です。そのころ北京と天津で発行されていた邦字紙は総裁一行の清国旅行をどう扱ったかと探しましたね。少なくとも2紙あって、北京で発行されていた「新支那」という新聞の紙面が東大と京大と東洋文庫に少しずつ保存されていることを知り、まだ全部読み終わっていないのですが、やっと見つけましたね。資料その6が新支那の記事です。歓迎会の1字空白は、多分「周」で周旋でしょう。

資料その6

○個人消息

▲満鉄会社総裁一行を迎ふる為め下津せし鎌田
弥助氏は十七日午前着列車にて総裁一行と帰京
せり
(大正2年10月22日付新支那80号6面)


京津雑報

○中村総裁の八達嶺行
中村満鉄総裁及一行は二十一日八達
嶺見物に赴き帰途は交通部より特別
列車を出だされて非常なる厚意を受
けたり因に総裁一行は本日午前八時
京漢線にて漢口に赴かる
<略>
○中村総裁の歓迎会
 十九日午後七時より大和倶楽部に
於て中村総裁の一行を招待し盛宴を
張り來会者六十余名にて発起人代表
平井博士は歓迎の辞を述べ中村総裁
は其に答辞し紅裙酒間に 旋し又酒<一字空白>
肴として吾社が曾て広く紹介せし例
の三千年以上連綿として今日に伝は
れるの料理即ち羊肉の烤焼を倶楽部
の庭上にて神代式の振ひたる珍味を
試みたり寒空には結構なる思付の御
馳走なりと云ふべし
(大正2年10月22日付新支那80号8面)


京津便り  鈍角坊

▲中村満鉄総裁一行の赴漢 過般帯
京中なりし中村満鉄総裁以下の一行
は去二十二日午前八時発京漢線にて
漢口に向け出発せられたり見送者は
山座公使を始め在留官民の重立者及
び支那交通部員等多数なり
(大正2年10月29日付新支那81号8面)

 この記事でもっとも重要なことは「酒肴として吾社が曾て広く紹介せし例の三千年」という言い方です。週刊の「新支那」の記事なんですから、当然吾社とは即ち新支那社であり、大正2年10月22日より前に、カオヤンローの紹介記事を載せたということになりますよね。その記事探しについては、別の講義でやりましょう。歓迎挨拶をした平井博士というのは、當時の北京居留民会会頭、平井晴二郎工学博士で、7月28日に開かれた新旧公使送迎会でも代表として送迎の辞を述べています。(32)
 3番目の記事に山座公使こと山座圓次郎が出てきます。是公さんと山座は、まず、いまの東京開成高校の前身の共立学校の同窓生でした。(33)さらに大学予備門でも同期。明治17年に1000人ぐらい受験して合格したのは117人だったそうで、その期の著名人として「<略>外交官として錚々の聞えあつた上田圓次郎(後の山座圓次郎)<略>満鉄総裁、鉄道院総裁であつた柴野是公(後の中村是公)<略>夏目金之助(漱石)、正岡正規(俳人、子規)<略>(34)」と大正時代に内務大臣と文部大臣を務めた水野錬太郎が書いています。
 東京帝国大学を出て山座は外務省に入ったのですが、若いときから無類の酒好き、いまでいうアルコール依存症だったらしい。外務省政務局長のデスクの引き出しにはいつもビール瓶が入っていて、気の合う客が来ると、ガブ飲みしては外務省の松の木にオシッコを掛けるので、小使いが木が枯れてしまうと注意してもやめなかった(35)という豪傑でした。
 日露戦争の賠償として日本はロシアから南満州鉄道を受け取り、その経営をどうするかと明治39年4月、西園寺首相が非公式、こっそり満州を視察したとき、政務局長の山座が付いていったのです。その結果、六月八日、勅令第百四十二号を以て、直ちに南満洲鉄道株式会社設立に関するの件を発布したり、越へて、七月十三日、文武官僚、貴衆両院議員、及民間の実業家等八十名を任命して創立委員となし、参謀総長児玉源太郎之が委員長たり、<略>十一月二十六日を以て創立総会を開き、創立委員長寺内正毅以下委員一同は茲に其任を解きて、総裁には後藤新平、副総裁に中村是公の共に任命せられたるあり、更に理事の任命せられたるありて、南満洲鉄道株式会社は茲に全く成立を告げたり<略>(36)と後藤・中村の台湾総督府コンビの起用が決まったのです。
 山座と是公さんが公式の酒席で顔を合わせたのは、翌40年2月17日に首相官邸で開かれた満鉄創立委員長主催の慰労会でしょう。招待された21人の中に山座と中村の名前があります。(37)
 その後、山座は明治45年に満洲と北京視察に行ったのですが、是公さんは内地出張中ですれ違ったのです。でも 山座は西園寺首相に随行したとき、いろいろ奇行をやったようで前回は珍談をたくさん残したが、今回はどうかなどと書かれていてね、人気は絶大。満洲日日の「大観小観」は「▲山座勅参は天下の酒豪、何故大和ホテルの様な究屈な旅館に陣取られたかと云ふと▲勅参の曰くが面白い何時までも飲んで酔つ払つたら其儘ごろ寝が出来るからなーとは成る程(38)と」と書いているくらいです。
 北京では9月からがカオヤンローのシーズンであり、山座は7月27日に着任したばかりですがね、山座の年譜を見ると明治45年の清国視察では9月から11月まで北京などに滞在している(39)ので、もしかすると、そのときに北京在住の日本人からカオヤンローを教わっていたかも知れません。
 新支那にもありませんが、後の記事に是公さんが「山座公使に一夜勧められ其の珍味なるに驚く(40)」うんぬんと出てくるので、北京にいた5日間のうち、21日は山座が袁世凱大総統から晩餐に招かれたことが資料から明らかなので、17日、18日、20日の3晩のどれかで2人は正陽楼あたりでジンギスカンで一杯やったと思われます。
  

参考文献
上記(32)の出典は 大正2年7月31日付新支那70号13面=原本、 (33)は明治41年4月1日付朝日新聞朝刊4面=聞蔵U、 (34)は文芸春秋社編「文芸春秋」15巻9号198ページ、水野錬太郎「青年時代」、昭和12年7月、文芸春秋社=原本、 (35)は長谷川峻著「山座圓次郎 大陸外交の先駆」69ページ、昭和42年6月、時事通信社=原本、 (36)は国府犀東著「大日本現代史下巻」1591ページ、明42年6月、博文館=近デジ本、 (37)は明治39年11月17日付朝日新聞朝刊2面=朝日新聞データベース聞蔵U、 (38)は明治45年10月4日付満洲日日新聞朝刊2面=マイクロフィルム、 (39)は一又正雄編著「明治時代における大陸政策の実行者」*ページ、昭和49年10月、原書房=原本、 (40)は大正2年11月9日付満洲日日新聞5面=マイクロフィルム、

   大連、大ジンパですが、是公さんは2晩続けたのですが、満洲日日新聞は2回とも結構大きく取り上げたのです。余程珍しかったのでしょうね。私はその記事の書きっぷりからね、これが大連の日本人では初めてのジンパだったとみますね。大連初ということは、明治38年からの租借地関東州、資料その1の地図でいえば、一番下の牛の足元までぐらいだが、主に大連と長春を結ぶ満鉄の線路沿いに住んでいた日本人たちの間で初めてとみてよいと思うのです。
 大正2年度の統計によると関東州と満洲には9万4451人の日本人がいました。(41)この中に支那料理好きのグルメがいて、満洲日日の記者にカオヤンローという羊の料理は美味いから一度試してご覧と熱心に勧めるので、その記者が食べてみた紹介記事が載っているかも知れないと思ってね、北大図書館でせっせと大正2年のこの記事が出る前、元旦号から10カ月間の満洲日日新聞を読んだのですが、何も見付かりませんでした。
 今後ね、大正2年より前に旧満洲で食べていたという例が見付かるかも知れないけれど、大連にいた日本人に初めてカオヤンローを紹介した、いや北京の真似でも作って食べさせたのだから技術導入というべきかな。ともかくこういう美味しい羊肉料理があると初めて知らせたのは満鉄総裁中村是公だったとして話しを進めます。勿論、大正2年より前に関東州と満洲でジンギスカンを食べていたという記録のレポートはいうことなし、例え見付からなくても探索したとわかるレポートなら、その努力はちゃんと評価しますよ。
 さて論より証拠、資料その7(1)が中村総裁の催した1回目のジンパの記事です。これを書いた記者もご相伴しており、羊肉の味を思い出しながら、講談のような口調にしようと楽しみつつ書いた様子がうかがえます。
 満洲館とは満鉄総裁の公邸で、明治32年、ロシアがダルニー市と命名し「サハロフを技師長として商港都市の建設に着手したが、其の技師長公舎として先づ建てられたものが、我々の所謂満洲館であり、其の頃塔部の側壁に1900と建設年号が鮮かに刻されている。(42)」と元満鉄社員の貝瀬謹吾さんが思い出に書いています。
 出席者の中の宮尾前拓殖局副総裁は、後藤新平が台湾民政長官だったとき是公財務局長の下で税務課長兼専売局長を務めた仲で(43)、たまたま大連にきていたのです。大正10年に北海道庁長官(44)になりました。在職中、畜産を組み合わせた農業、有畜農業の振興を図ったけれど、ジンギスカン普及までは手が回らなかったようです。
 正陽楼は別ですが、北京の多くの羊肉料理店のカオヤンローの鍋と焜炉は、簡単に動かすような作りではないのです。ここでは「総裁の合図に担ぎ込みたるは直径三尺余りの大鍋」という鍋ですから、これは北京で求めてきたのではなく、当時の言い方では満蒙で調達した持ち歩きできる鍋、焼き面だったと思いますね。
 (2)は満洲日日の2面左下隅にあるコラム「大観小観」に同じ日に載った記事です。別の催しのことを書いていますが、末尾の6行に注目ね。三島博士というこのお医者さんは満鉄重役ではないと思うのですが、最初のジンパに呼ばれたけれど、先約があって残念とでも断ったのでしょう。さっと読んだとき成吉斯汗ときただけで「すき焼」が目に入らず、ドキッとしましたね。陳平流の陳平とは食肉を素早く公平に分配して有名になったという中国の古事の人名です。

資料その7

(1)
   ●珍饌山賊料理
       総裁の北京土産

 拝啓益々御清祥奉賀上候。小生過般旅行
 の際、燕京に於て成吉斯汗時代の鋤焼鍋なるも
 のを発見致し候處、幸ひに今朝右に要する材料
 到来候に付今夕六時拙者庭園に於て鋤焼会
 相催候。太古蛮風の料理聊か風情なきにも
 あらずと被存候間、御多用の際とは存上げ候へ
 ども、御繰合の上御來臨被下度候はば幸甚の至
 りと存候敬具
   七日の朝中村総裁より右の蒟蒻版刷の招
   待状を受け取つた満鉄重役連、庭園の鋤
   焼会とあるからは園遊会でもあるまじ、
   この寒さに庭園は聊か恐れ入り奉れど、
   折角の御厚志反きてはと何れも思ひ思ひ
   の晴衣厳めしう太古蛮風の四字を審かし
   みながら、総裁邸に車を走らすれば、満
   洲館の中庭に五個の篝火焔々として燃え
   上り、パツと吹く寒風に黒煙ぐる/\渦
   巻いて襲ふものから、重役連の驚き一方
   ならず、成程太古蛮風の遺風こそ忍ばる
   れ、さるにても如何なる珍料理の出る事
   と待つ間程なく総裁の合図に担ぎ込みた
   るは直径三尺余りの大鍋に太さ人差指位
   もあらむと思はるゝ疎らなる金網を掩ひ
   たるが庭前に据ゑられ、羊の脂を草箒に
   て幾度か件の金網に塗りて烈々たる薪火
   を大鍋の中に盛り上げたり、いざ御遠慮
   なく……と勧むるは是はしたりと芝居の
   山賊宜しき態らくに呆れ果て暫しは言葉
   も無かりしが総裁及び尾見博士は然らば
   御毒味仕ると一尺大の太箸握り手頃の羊
   肉を網にかけては支那酒をあふるに其様
   子の如何にも美味さうなるに、何れも恐
   る/\箸を取り口に入るれば其味文明の
   料理に似もつかず、頗る珍味なり我も我
   もと飲む程に食う程に、いずれも山賊と
   なりすまし、寂しき露西亜町の一角を賑
   はしけるが、今其土産の由来を聞くに、
   総裁が此程北京滞在中蛮カラの聞えある
   山座公使に一夜勧められ其の珍味なるに
   驚くと共は其の美味を頒ち旁々淫風吹き
   荒む大連人士を覚醒せしめむと態々齎ら
   し來りたるものと知られたり不知其の蛮
   味に総裁の心意を解したる人ありやあら
   ずや▲八日六時中村満鉄総裁は官民の
   重なる者を満洲館に招待して鋤焼会の饗
   応をなせり出席者來連中の宮尾前拓殖局
   副総裁、加藤管理局長、立花税関長、石
   崎商船、原田正隆、相生、長浜氏等三十
   余名

(2)
    ●大観小観   七日夜児玉町の錫寿
   堂で雅集が開かれた一名つぐみ会とも称
   するそうで吉倉旺聖君が網猟のつぐみ進
   上に起つたからである▲お客分は孰れも
   大連奇人名簿の第一頁にある変人連、コ
   ロポツクルの吉倉君、木魚庵主の竹内君
   トロロ仙人の森泉君と黙食上人の小観子
   雪齋老の見えぬのは遺憾であつた▲蛙原
   博士は八十何歳の三島博士、八十余歳の
   小野湖山等唯見て居てさへ寿命の延びそ
   うな書画を掛け並べた所謂錫寿堂の一隅
   に二十貫優かのお神輿をどつかと据え令
   夫人令嬢を指揮しての主人振り▲いや奇
   人に奇談其の振つた事は夥しくコロポツ
   クル君の生蕃的育児法は最も傾聴され令
   夫人が思はず乗り出して『其の御子さん
   を見せて頂戴』とはよく/\感服された
   と見えた▲撤宴後は書画骨董の品評に移
   り博士御自慢の硯が出るとも出るとも大
   小凡そ三十余面孰れも博士掘出しの逸物
   奇人連をあつと言はせた▲応診カバンを
   見て呉れ給へと出した革袍を開いて見れ
   ば聴診器や応急薬と思ひの外大木硯に筆
   墨と印と肉是れには流石の連中も開いた
   口が塞がらず▲此夜は満洲館で中村総裁
   が蛮カラを発揮した成吉斯汗のすき焼会
   があつたがそれに博士が欠席した為め羊
   肉を贈つて來た▲博士が陳平流に之を五
   分して来賓の土産に贈つた抔は流石は仁
   術の本場と感心した

  

参考文献
上記(41)の出典は外務省政務局編「関東州並満洲在留本邦人及外国人人口統計表(第十回)」63ページ、大正7年6月、外務省政務局=近デジ本、 資料その7(1)は大正2年11月9日付満洲日日新聞5面=マイクロフィルム、 同(2)は同2面、同 (42)は大陸社編「大陸」2巻4号4ページ、貝瀬生「満洲舘の面影」、昭和26年4月、大陸社、同、 (43)は印刷局編「明治39年職員録(甲)」702ページ、奥付なし、印刷局=近デジ本、 (44)は同「 大正10年職員録」911ページ、大正10年12月、印刷局、同、

 どうです、面白いでしょう。本州からきた諸君の中に、初めてジンパを見たときみたいだと思った人がいるかな。是公さんは羊肉の烤が気に入ったけれども、ジンパ大好きの皆さんと違って、このころの日本人は羊肉は臭いと嫌っていたので、まず満鉄の重役や親しい友人を招いてテストしたんですね。酒の勢いもあってか、頗る珍味と喜んで食べることがわかった。それから鉄棒を並べたような大型の焼き面を何枚かを使ってみて、多分3枚だと思うのですがね、皆が恐る恐る羊肉を食べてみるわけだから、この焼き面なら30人に対して2枚で間に合うことを確かめたのですなあ。
 そうして肉を焼く場所取りごっこみたいな状況にすれば、ついつい張り合って焼いて食べるだろう。それからいきなり肉を食べるのではなく、室内で先ず軽くもてなし、それから庭に出てジンギスカンを食べる。満腹したらまた室内に戻るという正陽楼に似た接客方式にすることに決め、予定通り翌日、大連のオピニオンリーダーとみられる有力者をジンパに招いたのです。その様子を伝えるのが資料その8の記事です。

資料その8

  ●第二次山賊会
     満洲館庭前鋤鍋会の光景
     主客三十余名の牛飲馬食

   ▲韃靼式鋤焼鍋    の主人公中村是
   公氏の案内で八日の夜も亦前夜と同様の
   山賊会が開かれた鍋の説明は重ねて曰ふ
   の必要もないが兎に角成吉斯汗の愛蔵品
   と云ふ振込みだけに一段振つて居る会場
   は例の満洲館庭前と極まり招きに応じた
   顔振は加藤管理局長、立花税関長、村津取
   引所長、長浜実業会長、石本町内会長、原
   田正隆重役、中村鮮銀支店長、相生由太郎
   各新聞社長等主なる人々三十余名の外に
   目下滞在中の宮尾前拓殖局副総裁、村
   田興銀理事なども加はつて居た鋤の準
   備の出来る間
   ▲食堂で一寸一杯  の催しがあつ
   て卓上には蠣にレモンを添へた例のオイ
   スター料理と支那酒にウオツカの紅白酒
   が用意してある何と云つても満洲蠣は日
   本で有名な広島蠣は愚かのこと世界で誇
   る和蘭のオストエンド産の夫れにも優る
   を賞味されるだけあつて來賓の舌打つ音
   は遙に楼外にまで洩れたとは余りに大袈
   裟なれど兎に角旨かつたに相違ない左様
   斯うする内に庭前の用意も出来
   ▲蒙古羊を乗せた  二個の大鋤鍋
   を取囲んで六十何本かの箸は盛んに鍋に
   向つて突撃を始め支那酒と日本酒とは数
   牛飲し馬食し尽した三十幾個の布袋腹が
   庭の各所に転がると云ふ極めて色消の光
   景を見せ就中大食を以て名をなしたは
   相生、宮尾の両氏で相生氏は到底宮尾氏
   の仲たらざるを得なかつたとは懸値のな
   い報道と聞くべし
   ▲庭前の光景  は宛然これ日末武(やまとたける)
   の東征宜しくの古代式に則つたもので鋤
   焼鍋からは盛んに火焔立ち登り数個の炬
   松は天を焦がさんばかりに凄まじく折柄
   南山の彼方に面を出した十一夜の月は酒
   に熱し火に焦がされた会衆の面を照らし
   て居る此催が済むと更に屋内一室に引
   戻つてウ井スキーと果実のもてなしがあ
   つたが流石の連中も今更満を引くの勇気も
   なく暫時にして談話室に引取ったが
   ▲此室内の一幕   が頗る的に振つ
   たもので中村総裁は先づ主人側として來
   賓の健康を祝したに対し一同は総裁の為
   めに海陸の安全を祝すべく來賓中の高齢
   者に其発声を促したところが端なくも金
   子泰東社長と原田正隆との間に年齢争ひ
   が起つた結局調査委員を挙げて調べた結
   果頭は真白だが金子翁は原田氏よりも年
   少者だと知れたので原田氏其光栄者にな
   つたなども振つてるが
   ▲白頭翁のピアノ  弾奏は更に
   一段の光影を添へた大連社交界で随一の
   バンカラである筈の金子翁がピアノの名
   手と聞いては彼の蛮的がと怪しむかも知
   らぬが夫れは/\上手なもので翁の弾奏
   に依て君が代が始まる髯面の面々が唱歌
   を歌つた図なんか大連に幾百幾千回の
   会合ありとも恐らくは其のレコードを破つ
   た訳だと一同が一入鼻を高くしたも尤で
   ある若し夫れ翁をして海老茶の袴を穿か
   せ唱和の一同に二本棒を垂れしめるを得
   ば更に妙であつたらうと云ふ段にて散会
   を告げたは十時過ぎであつたと云ふ

 このピアノのある談話室とは、漱石が「是公の家」を訪ねて「数字の観念に乏しい性質だ何畳敷だが噸と要領を得ないが、何でも細長いお寺の本堂の様な心持がした。(45)」舞踏室でしよう。でも、たったこの記事2本で、これが大連で初めてのジンパだと決めつけていいのかと疑問に思うでしょう。
 当然です。確かにこれだけでは弱い。でも関連記事がまだまだあるんだなあ。それらも読んだらね、私がいうように、やっぱりこのときが初めてだと思えてくるはずです。そもそもジンギスカン時代の鋤焼きという触れ込みと、それを思わせる素朴な道具、これが断然珍しかった。大連の日本人社会で以前から知られていたら、こんな大袈裟な書き方はしませんよ。
 是公さんは2回目のジンパを楽しんだ翌9日(46)、この韃靼式の鋤焼鍋を2枚持って東京へ向かったのです。11月15日に東京商工会議所で開かれる満鐵臨時総会に出席するためで、犬塚、久保田両理事、四倉秘書役(46)が同行しました。どうやら是公さん、クビになる前に漱石たち昔の仲間を集めてジンパをやり、この原始的な料理を教えてやろう。鍋が欲しいというやつがいたら、いいよ、持ってけとくれるつもりで重いのに2枚も持参したのでしょう。
 こんな変に細かい話をどうして私が知っているのかというとね。満洲日日新聞は2面の左下隅に、毎日複数の話題を▲で区切りながら載せる「●大観小観」というコラムに書いてあったからです。旧友の元新聞記者にいわせると、昔はニヤリとするような話題をこうした場所に書いたもので、それ用のネタを常時いくつか持っていて、デスクから声が掛かったら、ハイヨと2つ返事で書けるようでないと、1人前でないといわれたそうですよ。資料その9にした3本の「●大観小観」で、大正2年の書き方を観察してもらいましょう。

資料その9

(1)
●大観小観    如何な風の吹き廻は
しか大連に近頃猛烈な蛮風が吹き荒む
蛮風と云つても戦国時代の豪放な無邪気
な蛮風だから面白い▲満洲館の山賊会が
二晩も続いて独眼龍総裁始め当千の古猛
者共が牛飲馬食を野天でやつた▲山賊会
で用ひた成吉斯汗使用の鋤焼鍋がまだ大
連にあれば其處彼處で以下次号的に山賊
会が続けられる筈であつたが三個の中善
い方を二つとも総裁と久保田理事が東京
へ持つて行き上田秘書方に一つだけ残つ
たから一寸中止の姿だ▲<略>
(大正2年11月11日付満洲日日新聞2面)


(2)
●大観小観     <略>▲旧の十月
は神無月と云つて国々の神様が出雲の大
社に集る月であるが夫れかあらぬか満洲
に於ても都督府を始めとして陸軍部内法
院満鉄など大頭株が揃ひも揃つて上京し
たので此満洲も矢張神無月見た様なもの
だと居残の連中が欠伸をして居る▲韃靼
式の鋤焼鍋が今頃東京で盛んにヂーヂー
やられて居るのだらうと思へば何だか旨
さうな香が鼻に付く様な気がする▲お留
守居番の御同役中には其大向ふを張つて
一夕第三次の山賊会開いては何うかとの
動議が出て居るゲナ
(大正2年11月16日付満洲日日新聞2面)


(3)
●大観小観    大連の気分が大部宮
尾舜治君の気に入つたと見えて御神輿が
却々動かぬ小観子が妖星の評判京童間に
頻りなりと揶揄すれば▲君は例の口を尖
がらかしてそれは怪しからん早々逃げや
う十九日には出発よ併し時間は未定、朝
か午後か夜か其日の風次第だ▲<略>
▲今度満鉄工場へ例
の成吉斯汗鋤焼鍋を五個注文した何程蛮
的の宮尾君でも東京の真中で山賊会を毎
晩するでもあるまいと不審顔で聞けば▲
君曰く否や鍋は高田中学校に寄附して盛
んに山賊会をやらせる積りだ鍋と同時に
肉も寄附するよ▲どうも今日の書生はハ
イカラで薄志弱行で星や菫に耽溺して否
かん蛮的教育を加味して大に生蛮的剛健
の国民を養成する必要がある云々▲高田
中学校長金沢来蔵氏は当世珍らしい有数
の教育家で同校の学風は大に模範的なそ
うだが宮尾君の奨励も與つて力ある事と
小観子が深く感じた
(大正2年11月19日付満洲日日新聞2面)

 はい、私が焼き面と呼ぶ鍋に注目しなさい。鋤焼鍋は皆同じでなくて「善い方」とそうでない方があった。つまり直径か盛り上がりか、不揃いだった。急いで買い集めたり借りたりしたせいでしょう。
 第1回のジンパでは焼き面を何枚使ったのか明記してないが(1)では「三個の中善い方二つ」といっているから、3枚だったのでしょう。2回目のジンパでは3枚のうちの出来のよい2枚を使い、それを東京へ持っていった。だから満鐵には1枚しか残っておらず、それが上田秘書役宅にあるんですな。上田は総裁の北京訪問にも同行し、山賊会の立案開催でも走り回ったからでしょう。
 元新聞記者の友人は、この(1)について、デスクと呼ばれる編集局の部次長たちが、おれたちも山賊会をやりたいから鍋を借りてこいやと満鐵詰めに命じたのではないか。いまは1枚しかないと断られたと報告したら、じゃそれを「大観小観」に書いとけといわれて「一寸中止の姿だ」と書いたという経験者ならではの見方をしましたね。転んでもただ起きないのが、記者根性だそうだ。はっはっは。
 はー、そうですね―なんてぼんやり聞いていては、社会に出てから遅れをとりますよ。いいですか、中村総裁たちが大連から焼き面、つまり鍋2枚を東京へ持っていった。見方を変えて日本国内からみると、このとき、大正2年にだ、現存していないと思うけれど、ジンギスカン鍋2枚が運び込まれた、つまり輸入されたことになる。この記事はれっきとした輸入時期を証明している。これより早くだ、例えば伊藤博文が明治31年に清国を訪問したとき鍋を持ち帰ったというような証言でも見付からなければ、ジンギスカン鍋の初輸入は大正2年と認定し、ジンギスカン年表に書き込みましたよ。
 「成吉斯汗時代の鋤焼鍋」が(2)では「韃靼式の鋤焼鍋」と呼び方が縮まっています。「今頃東京でヂーヂーやられて居るのだらうと思へば」食べたくなるよと、留守番の重役たちが話したのを聞いて書いたのでしょう。
 (3)から、さっそく宮尾が興味を示したことがわかりますね。鋳造もできる満鉄の工場に模造鍋作りを依頼した。沙河口というところにあった満鉄の工場には鉄工、木工、設計の3部がありました(47)からね。製作費は満鉄がいいですと受け取らないという読みもあったかも知れませんよ。この高田中学校とは新潟県立高田中学校で、校長は奏任待遇、正7位の金沢来蔵であり、先生は21人(48)いました。ざっと100年たってますから、もう宮尾寄贈の鍋はないでしょうね。
 でも私は現場主義で進まねばならん。高田中学の後身であるいまの新潟県立高田高校にメールでお尋ねしたところ、校長の若山宏先生がお答えくださった。それによると、高田中学はわが札幌農学校より2年も早い明治9年創立、昭和16年の校舎火災で幾多の資料等が焼失したこと、宮尾が高田中の同窓生でなかったためか校史には寄贈の記載がないということでした。やっぱりね。
 8代目の金沢校長は大正元年から大正6年まで在籍し、学業奨励に熱心に取り組み当時の旧制高校進学者数では目覚ましい成果をあげた。「『大臣大将主義』を掲げて全国トップレベルを指向させ、そのために「奨学会」という後援組織も創設され、現在も進学指導等に援助してもらっております。
(49)」という伝統校だそうです。
 それから奇縁というか、宮尾はその若山先生の「「義母の大叔父」に当たるそうで、世の中、どういうつながりがあるかわからないもんですなあ。それで私は手っ取り早く宮尾の業績を知るための本としては、世界公論社編「進境の人物」の「関東都督府民政長官宮尾舜治」と戸水万頃著「台湾みやげ」が国会図書館の近代デジタルライブラリーにあるとお知らせしました。情報はgive and givenですからね。
 「●大観小観」のジンギスカン鍋は、この3回で終わらず、名前だけですが、年末までにもう2回出て来るのです。それらを資料その3にしましたが、重要なのは(2)の退任した是公さんに対する送別の辞。ここに字面だけですけれども「成吉斯汗鍋」と書いていたのです。昔の新聞は全部振り仮名が付いており、満洲日日も「じんぎすかんくわ」と振ってあり、ジンギスカンナベとは読んでいないけれど、こうしてどんどん呼び方が縮まってしまう。それに振り仮名がなければナベと読んでもおかしくない。
 ですから「成吉斯汗時代の鋤焼鍋」が「成吉斯汗鋤焼鍋」となり、鋤焼きが略されて「成吉斯汗鍋」、もしくは「成吉斯汗の焼鍋」から要は焼くのだからと「成吉斯汗焼」、鍋でわかると「成吉斯汗鍋」となった可能性があるのです。北京に長く暮らしている人たちは、とっくに、そうした短縮形で呼んでいても不思議じゃない。山座公使にしても前の年北京に来たとき伊集院公使から教わっていたでしょう。わずか2回の山賊会でこう縮まるのですからね、納得できるでしょう。
 「成吉斯汗料理事始」の駒井徳三命名説を後で否定した日吉良一さんは、奉天、いまの瀋陽でカオヤンローを食べたけど「成吉思汗料理という名は無かったと記憶している。(50)」と書いていますがね、これは山賊会のもう5年後の大正7年、しかも大連ではなくて奉天の見聞なのです。日吉さんが「シベリア出兵に召集されて奉天に滞在した頃(50)」のことであり、内地から来た兵隊は知らなかったが、奉天在住の日本人の間ではジンギスカン鍋とか焼きと呼んでいたかも知れないのです。

資料その10

(1)
●大観小観  <略>
▲中村総裁の岩瀬御料地陪猟は時々仰せ
付かるので敢て珍しくもないが▲人一倍
狙ひの利く為めか御手際の鋭い点に於て
御料局連中の評判となつて居る▲これで
思ひ付いたが成吉斯汗の焼鍋を持出して
御料地の獲物を味ふなんかは▲都におは
す大宮人に珍しがられることであらう▲
併し総裁が果して此處まで御気が付かれた
か何うかは小観子の推測の限りではない
(大正2年12月2日付満洲日日新聞2面)


(2)
●大観小観  五年間満洲館の主
人公否や満洲の事実的経営者であつた中
村是公氏は今日限り満洲を見捨てて東上
する▲功成り名遂げて去るのではあるが
父母にでも別れる様な心地がして今更ら
惜別の苦痛に堪へない▲古馴染と云ふ情
力から別れが辛いのではない中村氏り高
潔な人格が坐ろに人心を動かすのである
▲台湾淡水の生蕃会、満洲館の成吉思汗(じんぎすかん)
(くわ)、君の為す事は豪壮壮快で君の性格を
発揮して遺憾ない▲君は新聞嫌の評を得
ただけ自家吹聴や自画自賛は決してしな
い新聞や雑誌に何と書かれやうが一笑に
付して居る▲一時流行的に満鉄に関する
捏造の醜怪記事が雑誌に続々出た其の目
的は勿論強制(ゆすり)に在りだが君は一向頓着し
なかつたので彼等は大に失望したそうだ
▲君の人格は此通りで新聞政略に虚名を
博するデモ政治家とは頓と比較にならな
い一方に於てそれだけ君の損だが一方に
於て其れだけ君の人格が高いのである▲
岡松理事は本日登場するが再帰任すまい
との事である若し真実なら遺憾千万だ▲
君が民法に於て当代のオーソリチーであ
る京都大学が講座を空うして君を待ち受
け居らうが君の満鉄を去るのは大なる損
失である▲満鉄の調査事業は匿れたる
有益の大事業、此の調査が満鉄経営の基
礎になるので君の功績は永久滅すべから
ずである
(大正2年12月25日付満洲日日新聞2面)

  

参考文献
上記資料その(8)の出典は大正2年11月10日付満洲日日新聞5面=マイクロフイルム、 (45)は漱石全集刊行会編「漱石全集」9巻174ページ、大正7年8月、漱石全集刊行会=近デジ本、 (46)は大正2年11月9日付満洲日日新聞2面=マイクロフィルム、 (47)は芳賀登ほか5人著「日本人物情報大系 満洲編6」16巻39ページ、平成11年10月、皓星社=原本、底本は大正2年11月現在「南満洲鉄道株式会社 職員録」41ページ、南満洲鉄道株式会社、 (48)は内閣印刷局編「大正二年 職員録(乙)」170ページ、大正2年9月、印刷局=近デジ本、 (49)は新潟県立高田高校若山宏校長よりのメール、平成23年6月27日受信 (50)は北海道文化財保護協会編「北海道の文化」創刊号15ページ、日吉良一「成吉斯汗料理という名の成立裏話」より、昭和36年12月、北海道文化財保護協会=原本

 皆さんはこれまで「旧満洲にいた日本人がジンギスカンと呼び始めた」という説を読んだことがあると思うんだが、何か根拠を示してましたか。何も示さず「誰言うとなく」という想像からだったはずです。
 これらの記事からね、中村総裁が北京でジンギスカン時代の鋤焼きと聴かされて食べたこと、大連の名士も初めて食べたことは明白ですね。カオヤンローとはいってませんが、北京の日本人たちは、こうした原始的な料理なら、羊肉を食べたことのないわれわれ日本人でも食べられる、美味さがわかるはずと心得ていた。北京の日本人社会の方が、大連、取りも直さず満洲よりカオヤンローという料理についての認識では先行していたという見方は納得できるでしょう。
 さて、是公さんは全社員から惜しまれつつ満鐵を去るのですが、鍋の字をカと読むかナベと読むかはさておき、ともかく「成吉思汗鍋」という名詞は、満洲では初めてこの記事で出現したのです。
 是公さんと同じく後藤派と目された理事の沼田政二郎、田中清次郎、岡松参太郎3氏は翌大正3年1月17日付で解任されました。(51)その1人である沼田さんは山賊会で使った鍋かどうかはわかりませんが、1枚持っていたんですね。満洲日日の記者たちが鍋を借りに来たという話を耳にしていたんでしょう。内地に帰ったら使うこともないとみたか、その鍋をプレゼントしてくれた。だがね、残念なのは、さっそく記者たちが羊肉を買ってきて牛飲馬食したぞという続報が見当たらないことです。
 ちょうど、そのころ関東州都督府の福島都督が清国政府を訪問したので、満洲日日新聞の主筆田原天南が同行した。一行は船に乗らず、奉天から山海関を通る京奉線で北京に行ったので、田原は奉天でペンネーム子俊という奉天駐在の記者に会い、石鍋を使ったすき焼を食べた。それを「ハガキ便り」という記事にしたのが(2)です。これで北京土産に石鍋を持ち帰り、ジンギスカンと石鍋鋤焼きを食べ比べてもらおうと約束したことになり、この後、石鍋を忘れないでなどと「編輯日誌」のネタになりますが、石鍋ではなく骨董品を買って帰り「◎天南九日 夜自宅に土産の披露宴を催す(52)」ということで勘弁してもらったらしいのです。でも田原は本当に石鍋の手配はしていたのに(3)でわかるように計画通り進まなかったのですね。
 続きを読んでいったら、遂にジンギスカンナベとルビのある名詞が3カ所になりました。これらをひっくるめて資料その11にしました。でも、これは大連の話であり、先輩の北京を忘れてはいけません。是公さんが北京でご馳走になった成吉思汗時代の鋤焼きを再現してからの動きなのです。当然北京では、もっと前からジンギスカン鍋と呼んでいたことが考えられます。1つの作業仮説として大正3年満洲日日が初めて成吉思汗鍋という名前を使ったとしておきましょう。

資料その11

(1)編輯日誌
◎沼田理事より成吉思汗鍋(じんぎすかんなべ)一箇を贈り來る同
人が牛飲馬食するの時気焔萬丈當る可からざ
るものあらむ◎守屋営業部長編輯局同人を
十七日夜自邸に招き新年宴会を開き一芸一
能に達するものは夜を徹して騒ぐべしとキツ
イ命令なり◎英文の柳沢君爾来小濱村と改名
し大にステツキ振り本家家元の塁を摩さむと
す不知蒼洋君のステツキ振如何ツルカメ/\
(大正3年1月13日付満洲日日新聞朝刊5面)


@ハガキ便り(一月十六日)
大和ホテルに交渉する所あり予想通り不調と
なり今更ながら其の潔癖に驚く鳳南代議士そ
んぢよそこらにしけ込みて帰らず安東の知妓
楽助と妥協したらしく是れ亦活動に驚く▲子
俊君に招ぜられ十間房の食道楽深川に飲む
石鍋(いしなべ)のすき焼は臍の緒切つて初めてなり大阪
金鍋(きんなべ)あり大連に銀鍋(ぎんなべ)あり今また奉天に石鍋
を見る天下の三珍鍋とや云はん石鍋は朝鮮産
なりと色緑を帯び青玉の如し北京帰来の日此
の石鍋を携へ帰りて編輯局諸君に成吉思汗鍋(じんぎすかんなべ)
との批評を請はんとす▲瀋陽館のスチームは
寝心頗る宜し然しながら一室一日の暖房料
七八十銭を要し一日の石炭一噸なりとは茶代
奮発の―必要を感ず(田原生)
(大正3年1月20日付満洲日日新聞朝刊5面)


編輯日誌
◎天南様へ一筆申上候、北京行の大持てに
今日も『今夜大和倶楽部員の都督一行及び小
生歓迎会あり成吉思汗鍋(じんぎすかんなべ)羊肉(やうにく)すき焼に
は都督も大に満足され候』とのお端書頂戴局
員一同垂涎三千丈にて候ひき◎珍味の御健啖
に旅中の御健康も偲ばれて慶賀の至に候へど
もそれが為め健忘にならせられお土産の石鍋
お忘れに相成らぬやう局員を代表し茲に予
め屹度希望いたし置候以上
(大正3年1月25日付満洲日日新聞朝刊5面)


◎見渡す限り銀世界の奉天より乍失礼飛入
致候皆々様愈々御繁栄口涎と共に天南主
筆の石鍋(いしなべ)御待兼の由重畳の至と奉賀上候右
石鍋は當地より輸送方チヤンと呑込み居り
候處桶に底あり鍋に蓋ある譬へに洩れず未だ
其手続を踏まざる次第天南先生に代りてお土
産延着の段一通り御報告申上置候『今暫し
待てよ殿原石鍋は朝鮮より來ずギウの音も出
ず』草々(子俊生)
◎奉天の子俊生から右の如き手紙が来たが昨
夜天南居で天津土産のスキヤキやら漬物やら
で満腹した同人はもう石鍋も忘れたらしい
              (十日)
(大正3年2月11日付満洲日日新聞朝刊7面)

 これら満洲日日新聞の記事は大正2、3年のもの、大正の前半だ。だが、命名は大正の後半だろうと書いた人がいます。「ジンギスカンりょうり ジンギスカンなべともいい,中国料理の烤羊肉(バーベキュー)に,旧満州(中国東北部)に居住していた日本人がつけた名称.屋外で羊を殺し解体して直火焼きして食べる豪快さからジンギスカン(チンギス・ハーン)の名が出たと思われ,おそらく大正末期につくられた言葉であろう.(53)<略>」と書いてる大事典があるんですなあ。平凡社が出している全35巻の「世界大百科事典」です。昭和63年3月に初版が出て、平成17年2月に改訂版、平成19年9月に改訂新版と版を改めてはいるけど、ほぼ同文で、執筆者は3回とも中国料理研究家だった故田中静一さんでした。
 もし田中さんがこれら大正1桁時代の満洲日日を読んでいたら「おそらく大正末期につくられた言葉であろう。」とは書かなかったと思いませんか。また「日本人が付けた名称」はロストル型の鉄鍋のことか、料理の名前なのか、不明確ですよね。どっちであったとしても命名者は「旧満州(中国東北部)に居住していた日本人」と断定した根拠は何でしょうか。是公さんの歓迎ジンパを開いた北京の日本人ではないと言い切れるのですかね。
 それから田中さんは昭和62年に「一衣帯水」という本を出しています。「中国料理伝来史」という副題が示すように、中国から日本に伝わった様々な料理、食品を考察しているのですが、それに「中国料理の烤羊肉(バーベキュー)」ことジンギスカン料理がね、なぜか入っていないのです。
 昭和37年のタウン誌「札幌百点」に味覚研究家という肩書きで日吉良一さんは「ジンギスカン鍋」は「今日では押しも押されもせぬわが北海道の郷土料理のチヤンピオンにのし上つた。全道いたるところにその看板が見られるし、家庭でも盛んに作られる。」「ニユージランドから直輸入の羊肉サウスダウンの真味を知りたい人はサツポログランドホテルの六階に昇つて、大札幌を展望しつつ一喫するのも良い。(54)」と書いている。それぐらい普及していたのに、その25年後に出た伝来史がだ、烤羊肉は日本に伝わりジンギスカン料理とか鍋、羊肉はしゃぶしゃぶと呼ばれている実情を全く無視したのですよ。
 田中さんはかつての満州国政府で働き「満洲野菜読本」などの本を出した研究者であり、昭和63年に開かれた「日本化したアジアの食」フォーラムで「中国でいえば北京の烤羊肉の鍋は、いま日本で使われている鍋状のものを大きくしたものです。しかしもっと前には鉄の桟がタテ、ヨコに入ったロストルのような網で焼いていたようです。われわれが満州にいたときは、零下二〇〜三〇度の原野で炭をおこしてやったものです。ただ朝鮮焼き肉はタレをつけてから焼きますが、中国では焼いてからタレをつける、味つけの違いはあると思います。(55)」と発言している。よくご存じなのです。あれは回教徒の料理だとか蒙古料理であって中国料理ではない。それとも北海道遺産だと頑張るからかね。わかりませんねえ、謎です。
  

参考文献
上記(51)の出典は大正3年1月20日付満洲日日新聞朝刊2面=マイクロフィルム、(52)は同年1月13日付同新聞朝刊5面、同、 (53)は平凡社編「世界大百科事典(改訂新版)」14巻250ページ、平成19年9月、平凡社=原本、 (54)は札幌百点社編「札幌百点」4巻5号25ページ、昭和37年6月、札幌百点社=原本、 (55)は熊倉功夫・石毛直道編「外来の食文化」210ページ、「討論」より、昭和63年10月、ドメス出版=原本

 ところで、今回の講義で参考にさせてもらった本の中に、池上淳之著「改訂 橋本左五郎と漱石」があります。池上さんは2人のことを広く考察した上で、橋本が漱石と一緒にパルピンまで行ったことについて「大学で畜産学を担当していてしかも新学期が始まっているのに、敢えて公務を放棄してまで漱石と共に行動したのは、何であったであろうか。この点には誰も触れていない。(56)」と書いてあります。それでだ、憚りながら私がだ、ここから橋本ではなく左五さんと呼ぶことにして、ジンパ学の観点からその動機を調べてみました。結論からいえば、左五さんは満蒙の畜産事情をより広く知りたかったからだ―と考えます。
 左五さんは満鐵、早い話が是公さんに呼ばれ、夏休みを利用して満洲に渡るのですが、左五さん大連上陸の寸前、満洲日日新聞は7月10日と11日に分けて「奉天農牧界概観」という記事を掲載しました。これは満鐵ではなくて清国政府が奉天に創設した農事試験場の成果報告でしてね。情報源はわかりませんが、内容からみて、試験場長横山壮次郎の卒論ですね。新渡戸さんがその創設、横山らの人事に関わっていたという思いがけないことが書いてありますし、蒙古種緬羊の羊毛改良を提言していたことです。資料その12はかなり略してますが「奉天農牧界概観」です。

資料その12

奉天農牧界概観(上)

去る明治三十九年四月下旬の頃新渡戸博士の献策に基き時の盛京将軍趙璽巽氏が奉省農界の進歩発達を期せん為め直に大規模の農事試験場創設案を一決し横山、角田、石田三学士外技手三名を招聘して其の幹部を組織したる時は既に同年の播種期を経過せし後なりしを以て同年は已むを得ず僅かに官地百畝(一畝は我が二百四十坪)に適宜の種子を播きたる位なりし故に其の成蹟の見るに足るものなかりしは固より当燃のことなりし斯くて三十九年中に幾多民有地の買収を行ふと共に各地方耕地の土壌分析、耕作方法、苗圃、肥培、畜産改良若くは農事教育等総て新渡戸博士の意見に拠りて一切の農牧計画を確立し四十年の農期より既定の方針を着々実際に施し(現在の試作地面積は二千畝則ち我が百六十町歩なり)今日に至る迄僅々二ケ年の短歳月なるも諸般の経営施設頗る好成蹟を奏しつゝあるより該試験場創設の開山たる趙璽巽氏、前任総督徐世昌氏、現総督錫良氏を始め清國の当局者は孰れも深く試験場の幹部たる横山氏其他諸氏の熱誠と手腕とに信頼し該試験場を以て事実上奉省の農業界に多大の進歩稗益を与ふるものと認めたるより清國官民間の興農熱益々熾なるに至りしは満洲生産界の為め最も喜ぶべきの現象なりとす今左に奉省農事の概要を報じて読者の参考に資せむとするも決して無用のことに非ざるを信ず
▲従来の農具と新式農具<略>
▲人造肥料の適否如何<略>
(明治42年7月9日付満洲日日新聞朝刊1面)

奉天農牧界概観(下)

▲選種の必要<略>
▲甜菜栽殖の有望<略>
▲農作物の収穫高<略>
▲畜産改良 牧畜業の最も盛なる満洲に於ては畜産の改良極めて必要の事業たるは言を俟たざるなり、元來蒙古牛は耕牛としては強て改良するの必要なしと雖も、肉牛及び乳牛に適せざる故に奉天農事試験場に於ては昨年ヱーシアー種(原産地スコツトランド附近)牝二頭牡一頭を北海道より輸入し、蒙古牛と交尾せしめ乳牛の改良を企て居れるが蒙古牛の乳量は一日平均二升位なるにヱーシアーは初腹にて既に一日六升の乳量ある故に、優に一日平均一斗を搾り得る由、且其の乳質頗る佳良なり、此のヱーシアー種はホルスタインに比すれば体躯稍稍小なるも能く粗食に堪ゆるの利益あり、綿羊の改良に就ては奉天農事試験場に於て独佛の雑種なるメリノ六十頭を輸入して飼養し居れるが能く此の地の気候風土に適すると見え発育極めて佳良なり、元来支那羊毛の産出地は重に甘粛、峡西、山西を主とし其他は北支那一帯及蒙古地方にして毎年蒙古人が張家口に輸入する羊の数三十四五萬頭、外商が天津に於て毎年買収する羊毛二百数十萬斤位なるが蒙古羊毛は土砂の附着多くして色澤亦佳ならず、漸く敷物或は下等羅紗の製造に適する位なり、然るに農事試験場に飼育せるメリノ種は毛質最も純良にして光沢に富み其毛亦強靱なり五月及び秋期に一年二回宛剪毛し一頭一回九斤毛なり、而かして其価は蒙古羊毛は一ポンド二十五銭位なるにメリノは一ポンド四十銭の相場なれば、之れが改良たる亦畜産界の急務といふべし
(明治42年7月10日付満洲日日新聞朝刊1面)

 左五さんと横山は札幌農学校8期の同期生です。7月12日大連に着いた(57)左五さんは汽車の窓からか降りて見たのかわかりませんが、4日間で安東から奉天まで安奉線沿いの視察をすませ、奉天にいる横山を訪ねた。頼まれた蒙古視察やお互いの仕事について懇談したはずです。招聘されて奉天で3年働いた横山は7月末で任期満了、間もなく帰国するところだったのでグッドタイミング。横山のアドバイスで左五さんは新民屯附近の蒙古牛を見に行ってます。当然、横山から奉天農事試験場の業績をじっくり聞き、牛もさることながら緬羊の改良も大事だと知ったと思われます。
 準備を整えた左五さんは奉天から見て北西の東部蒙古を反時計回りに調査と野営を繰り返しつつ移動して9月8日、大連に戻った。(58)翌9日、左五さんは漱石に会い午後3時から満鉄本社で講話として、満鐵の依嘱で蒙古の各地を廻って見た畜産事情(59)を語りました。資料その12の記事3本から、そうした左五さんと横山の行動がわかります。(1)と(2)は短信ですが、(3)は満洲日日新聞が3回に分けて掲載した左五さんの視察談の1回目で、横山に会ったことと視察コースを説明しています。
 左五さんは東京で旧知の北海タイムス松江記者の取材を受け、10月6日に東京に着き、あした札幌に向かう(60)と語っています。漱石とは10月1日に朝鮮京城で別れた後(61)、東京で何していたのか5日もいたことになり漱石とのハルピン行きを渋った(62)人とは思えないゆっくり旅だ。10月12日と13日に連載された蒙古視察談(63)は満鐵講演と同じ内容で、ハルピンまでいったことには触れていません。左五さんは10月22日、学内で満蒙視察談の講演会を開きましたが(64)、2番煎じになるので北海タイムスは何も報道していません。

資料その12

(1)
●奉天片信  <略>▲農園及
牧畜業の視察 東北大學校の橋本佐五郎氏
は満鉄社員金田一金太郎氏と共に安奉線沿
道の視察を了りて十七日來奉したるが更に
新民屯附近の牧畜業及農園視察の為め十八
日京奉線にて同地に向ひたり▲<略>
(明治42年7月19日付満洲日日新聞朝刊2面=マイクロフィルム、)


(2)
●奉天雑信(廿九日発)
<略>  ▲農事試験場の改革 三四
年間の久しき横山農学士が主として実地経
営し來りたる奉天農事試験場は其の規模頗
る大にして非常の好成績を奏し奉省農界の
改良進歩を促がせしこと少からざることは
実に内外人の嘆賞に価ひするものあり、然
るに横山學士は既報の如く清國との契約期
限満期と為れるより愈々来月二十九日奉天
出発帰国の筈にて清国当局も多少試験場従
来の施設を改革し角田学士をして横山氏に
代り技師長として該試験場を主宰せしむる
に決し既に其の契約を結びたりと因に記す
石田農学士も辞任し来月二十七日頃出発帰
國の筈なり▲<略>
(明治42年7月1日付満洲日日新聞朝刊2面=マイクロフィルム、)


(3)
蒙古視察談(一)
      (於満鉄本社楼上)
          東北大学教授 橋本左五郎氏述

△旅行の目的 此度本社の依嘱に由り蒙古を視察したる大要を物語らむに、
抑も今回旅行の目的は主として余が専攻する畜産に付き実際の状況を調査せ
んと欲するに在り、然るに意外にも満洲各地は到る処開発せられて牧場と称
すべきものなく、又研究の目的たる牛馬其他家畜の類更に見るに足るべきも
の少く、眼に触るゝものは単に豚の点点放養せられあるのみ、余は些か失望
せり、遙々奉天に於て旧友横山農学士と会見するの機を得、同君の注意に依
り新民屯より約百満里の地に清国政府の勧牧場あり、該処に至れば蒙古の牛
羊も多数あるが故に、之を見れば多少蒙古牧畜業の一班を窺知するに足らむ
と、乃ち先づ此勧牧場を視たるに、曾て聞ける有名なる畜産地たる蒙古の牛
羊は比較的小さくして之が蒙古牛なるかと一驚を喫せしめたり
△入蒙の準備 然れども兎に角蒙古内部に立入りて実地に蒙古畜産の状況を
視察せんが為め、横山農学士奉天公所其他諸氏の注意を以て、知府知県訪問
の手続王府への贈物各自の食料の用意万端を整へ、七月二十四日奉天を発し
九月四日奉天に帰着するまで四十日、其内純旅行日数は三十一日にして、其
道程は約二千百清里即ち一日七十清里を旅行したる勘定なり、途中は馬背若
くは徒歩に依らずして、鄭家屯にて馬車四輌を傭切り、之に分乗せる同行者
は若本君上田君蒙古語通訳其他都合六名、之に護衛兵多きときは八人、少き
ときは二人を隨へ、昌図駅より入蒙の途に就けり
△旅行の地方 即ち満鉄昌図駅を出てより先づ八面城に至り、それより鄭家
屯洮南府を経て図世塔王府、達喇哈克王府に入り又西の方蒙古の内部に近き
開路県に至り、それより小庫倫に及び法庫門に出で鉄嶺に帰れり
△土地の状況及地勢 蒙古一帯の地勢は満洲の平野と大差なく概して平坦な
り、偶々山を見るも是れ砂丘のみ、一面草に蔽はれたる土地即ち蒙古と謂ふ
も不可なし、樹木として見るべきものは絶無の姿にして、僅に矮小なる楡樹
の所々に目に触るゝあるのみ、要するに平原が地平線と相接せる単調の光景
なり、唯だ洮南府附近より稍や勾配上りとなり、図世塔王府は謂はゞ山の中
腹又は山上に在る都邑と見るを得べし達喇哈克王府は平原の都城にして開路
県に続く、小庫倫は所謂砂丘多し、而も砂丘は沙漠とは全く異なるを知らざ
るべからず、兎に角小庫倫は蒙古中の山岳地なるが如し、法庫門に来れば其
地勢全く鉄嶺地方に酷似し、河は到る処に流れ居れり、是皆遼河の支流なれ
ども水は多く濁流にして、流域は余り深からず随て徒渉するを得るなり、飲
料水は不良にして且欠乏するが如し、而して地勢は率ね砂地にして粘質壌土
は極めで稀なり、高峯は多く砂地低地はアルカリ質を帯び豊穣肥沃の地と謂
ふべからず、尤も相当の注意を加ふれば善良の飲料水を得る望なきに非ずと
思惟す
(明治42年9月11日付満洲日日新聞朝刊1面=マイクロフィルム、)


(4)
橋本左五郎教授の満蒙畜産事情視察コース

  
(地図は小川琢治編「大正十一年版袖珍改新世界詳図」7図、大正10年11月、冨山房=原本、)

 資料その12(3)の説明だけではわかりにくいと思うので(4)の地図に空色の線を引いて左五さんが馬車で通ったと思われるコースは示しました。真ん中のちょっと下、昌図が出発点です。北上して鉄道にぶつかった辺りが八面城、その左上の鄭家屯を通って更に北上して洮南に行きました。コースが鉄道から離れていますが、この地図が出来る12年前に線路があったかどうか、まあ、ちょっといい加減な線引きです。洮南から左下の開魯、(3)では開路県と書いていますが、この間は地図に地名がないので鉄道予定線に似た道をたどったと仮定してのコースなので点線にしました。開魯からは小庫倫、法庫門を経て鉄嶺が終点でした。法庫門という地名を赤鉛筆で囲んでありますが、これは私の同級生のお父さんが中学生のとき買った地図帳のお下がりでしてね、特に意味はありませんよ。1清里は日本の5町16間ちょい(65)だそうだから、橋本調査隊は1日70清里、毎日約40キロメートルは馬車に揺られて移動したことになります。
 この地図の真ん中の下に奉天があります。その右下に向かって朝鮮と結ぶ安奉線があり、そちらは視察済みだけど、昌図から北東、右上の公主嶺、長春、さらに満鐵の線路ではないけれどハルピン(哈爾浜)までの沿線は手つかずなので、左五さんはいずれ調べに行くつもりだったでしょう。だから大連で漱石に君はどうすると聞かれたとき「僕も哈爾浜位迄行つてみたいのだが、何しろ六月から学校を空けてゐるんだからね(66)」とはいったものの内心、畜産学講座には助教授以下5人(67)いるんだし、奉天以北を見るチャンス逃すべからず。漱石と行こうと即決したと思いますね。
 漱石の9月12日の日記に、是公さんは左五さんに向かって「牧畜をやる望があるならやれ」といった(68)とあります。そこは大学教授、自分がやらなくても教え子にやらせるという手があります。列車の本数が少ないこともありましょうが、漱石の日記にある各地の乗降時刻からすると、奉天―ハルピン間は往復とも昼間走る列車になっている。沿線の地形や牧畜の状況をよく観察できるよう左五さんが日程を組んだに違いない。
 なぜなら、昭和3年の北海道帝国大学新聞に名誉教授になった左五さんにインタビューした記事があり、左五さんがドイツで勉強していたころの留学生は、留学期限が切れても文部省の命令通り帰国しない者が多く、それで3年のところ5年いて帰ったら「佐藤総長に叱られました。その時に佐藤君に約束しましたが未だに果しませんが(独笑)……。も一度留学させて呉れたら今度は命令通りに帰ると言つたもんですが……ハハハ。(69)」と威張っています。以前の講義でも話したんだが、左五さんはこれは満洲に適した農業振興策の3回目の研究視察であり、留学ではないから新学期開始までに帰らなくても佐藤さんに責められる恐れはないとみていたと思います。
 是公さんがやめさせられ、新総裁は野村氏と知った左五さんは、既定の開発方針を変えないようにとすぐ陳情に行き、翌年2月満鉄本社まで押しかけて念押ししたことがわかる記事を資料その13としました。しかしそうした努力にも拘わらず採用されなかった。
 左五さんは満洲農業との関係を振り返って「丁度中村君が満鐵の総裁時代ですが、今の公主嶺農事試験場を作ろうと言ふ様な話で夏目君と一緒に旅行旁々行つたもんてすがあの時僕が建言した様にやつてゐたら満鐵は仲々金持になつてるんですが、中村君が止めてからは、私の意見も採用されず、満鐵も金儲をし損ねた形です。まあ先見の明があつたんですかネ(哄笑)(70)」と北大新聞の学生に笑って語ったのです。

資料その13

(1) 満鉄の産業奨励

 満鉄は来年度より大に産業奨励に力
を用ひる方針にて東北大学農科大学教授
橋本博士に嘱托し之れに関する諸般の調
査計画を為さしめ地方課にては右の方針
に従ひ来年度の予算を編成し当局に差出
したるが未だ予算の認可なきも大体は其
儘さしたる異動なきなき筈なりしに今般
正副総裁以下重役の大更迭を見たれば当
然該産業計画も至大の影響を受くるなる
べしと予想する者あるも確聞する所によ
れば正副総裁更迭の報に接するや橋本博
士は札幌より急速東上して野村総裁に面
会し満鉄産業奨励の現状と将来の計画を
説明し其の意見を述べたるに総裁は博士
の陳述を熱心に聴取したる後予定の如く
遂行する事に賛意を表したりと云へば今
後着々として予定計画の如く実行せらる
べしと


(2) ●橋本博士談

 東北大学農科大学長にして満鐵嘱托なる橋本農
 学博士を遼東ホテルに訪ふ氏は満洲農政に就て
 語つて曰く
▲北海道と満洲<略>
▲来年度の満鉄産業   過般東京に於て野村総
裁に面会せしも満鉄産業の上に就ては何等談ずる
所無かりしより今回來満せる次第にて栃内氏の蒙
古視察と余の以前視察せるものとを打合せ且総裁
も沿線全部を視察して帰還さるゝことなれば其間
公主嶺に赴き試験場を視察したる後大連に於て総
裁と会見打合せをなし而して來年度の方針も決定
する筈なるが多少の変動は勿論免れざるべしされ
ど聞くが如んば総裁も積極的方針なるが如し
▲満蒙産業政策<略>
▲有望と確信す   満洲産業を悲観するものあ
るも余は最も有望なりと確信す蒙古に於ても満洲
に於ても土地の豊饒とすべきは既に明白なり気候
は最も重要なる関係あるが其気候も良好なり駒井
農學士の談に依るも昨年海龍城方面を調査せるに
一二年前調査課員諸氏の調査せる頃は樹木多かり
しに今日は既に其跡を見ずして良田と化せり是を
以て見るも北海道に比較して遙に有望なるを証し
得べし北海道は開墾に着手して後五六年を経ざれ
ぱ効果を見ず尤も収穫比較は北海道に劣る所ある
べきが蒙古方面に於て大規模の器械を装置し大々
的に農業を開始せば愉快なる大事業なるべきを思
ふ何れにするも北部の移民を増進して農村の増大
を期せざるべからず
▲究極の問題 如何に計画するも根本問
題たる土地の開放を俟たざれば如何とも
する能はず奉天に於ける試験場用地さへ
これを得るに困難なる状態にあり是れ支
那の為めにも広く開放して満蒙内地開発
を増進すれば国民の利益を増進し我に於
ては鐵道政策上の利益と内地品輸入を誘
致するに至り両国相共に利する所あるべ
し新満蒙鐵道中不経済線多きを云ふもの
あれど多数の農村を建設し次で市街の続
続建設さるゝに至らば何れが不経済線と
すべき余は農政上より見て日支両国の為
め一日も早く満蒙開放の実行を希ふもの
なり云々

 一方、漱石の旅とは直接の関係はないのですが、この年の2月、長春でハルピン行きの列車への乗り換えがうんと楽になった(71)のです。それで漱石の友人、中村蓊(しげる)がハルピンまで行ってきて、土産話を聞かせに来たことが6月28日の日記にあります。「中村蓊満洲より帰りて來る。ハルピン迄行つた由。露語不通色々失敗。朝鮮団扇をくれる。(72)」とね。
 2人はハルピンの市内見物をして、オーバーを買ったりしたけれど「相談の末翌朝立つ事に決す。(73)」と1泊で長春に戻った。どうやら2人とも外国留学の経験者なので、ハルピンの異国情緒はさして珍しくないし、左五さんはクビが危ない。長居は無用と早々と退散したんですね。
  

参考文献
上記(56)の出典は池上淳之著「改訂 橋本左五郎と漱石」、平成12年12月、池上淳之=原本、 (57)は明治42年7月12日付満洲日日新聞朝刊2面=マイクロフィルム、 (58)は同年9月9日付同2面、同、 (59)は同年9月11日付同1面、橋本左五郎「蒙古視察談(一)」より、同、 (60)は同年10月12日付北海タイムス朝刊1面=マイクロフィルム、 (61)は漱石全集刊行会編「漱石全集」11巻533ページ、大正7年3月、漱石全集刊行会=原本、 (62)は同9巻243ページ、同、 (63)は明治42年10月13日付北海タイムス朝刊1面=マイクロフィルム、 (64)は同年10月22日付北海タイムス朝刊2面、同、 (65)は吉田虎雄著「支那貿易事情」420ページ、明治35年11月、民友社=近デジ本、 (66)は漱石全集刊行会編「漱石全集」9巻243ページ、大正7年8月、漱石全集刊行会、同、 (67)は東北帝国大学農科大学文武会編「東北帝国大学農科大学」27ページ、明治43年5月、富貴堂、同、 (68)は漱石全集刊行会編「漱石全集」11巻511ページ、大正7年3月、漱石全集刊行会、同、 (72)は同449ページ、同、 (73)は同522ページ、同、 (69)と(70)は北海道大学編「北海道大学新聞縮刷版」1の84ページ、平成元年4月、大空社=原本、原紙は昭和2年52年2月6日付北海道帝国大学新聞21号2面、 資料その13(1)は大正3年1月10日付満洲日日新聞2面=マイクロフィルム、 同(2)は同年2月22日付同2面、同、 (71)は明治42年2月21日付東京日日新聞朝刊1面=毎日新聞データベース毎索

 ところで横山壮次郎は帰国して4カ月後の明治42年12月、脳内出血で亡くなったのです。(74)翌年、新渡戸さん、左五さんら同窓生、台湾総督府時代の同僚ら20人が故人を偲んで「横山壮次郎君」という追悼集を作りました。新渡戸さんの「故人を懷ふ」は特に奉天農事試験場設立の経緯を詳しく書いてあります。
 それによると、満洲を統括する盛京将軍ともいう地方長官が児玉台湾総督に満洲農業のコンサルタントの派遣を要請した。それで新渡戸さんと総督府にいた横山さんが満洲に行き現地に合った振興策を考えた。地方長官は新渡戸さんがだめなら横山さんを残してと懇願したため、横山さんは2年奉天に住み、農事試験場と農学校の設置など新渡戸さんと練り上げた振興計画を実行することになった。横山さんはもう1年契約を延ばして3年務め、立派な業績を挙げた。
 1年ほどたってから横山さんは出張で日本にきたとき新渡戸さんを訪ねた。最近教育家2人が清国に雇はれ奉天で教えている。その1人が日本を発つ前に某大臣に暇乞いに行ったら「清國人を教育するなら、なるだけ愚かになるように教えろ」といわれた。それなのに、試験場は清國のために熱心に研究している。後日満洲が発展して日本の経濟的ライバルになったら困るのではないかと聞かれた。新渡戸さんはどう考えるかと尋ねられたので、私はそういう考えが不親切になり信用を失い、日本を衰頽させるのだ。教育家が清國に招聘せられたなら即清國政府の一員であり、手抜きは許されない。僕らも満洲開発の指導者として頼まれた以上、目的に向って突進するのが當り前。我國が競争で苦しむようになったら日本人としてそれを凌ぐ工夫をすべきだと答えたら、横山君は自分と同意見で安心したといった。
 新渡戸さんはさらに横山さんを連れて児玉総督と会い、この話をした。児玉将軍は「そういう馬鹿な奴がおるから困る。清國政府に雇聘された以上は清國の爲に飽くまでも盡すがよい。實際日本に刃を向けるようなことになったら別だが、経濟的競争は避けられないことだから、日本の不利益になっても清國の為にやるのが至當だ」といはれ、横山氏も喜んだ
(75)という。
 これは我が北大の前身、札幌農学校にきたクラークさんはじめアメリカ人の教師たちの立場にも当てはまります。彼等は学生がアホになるような教え方をしましたか。Be Gentlman,Be Anbitiousと誠心誠意、教えて下さった。開拓使顧問のケプロンさんも横山さん同様、北海道、日本のためになるよう尽くしてくれた。だから大通10丁目に銅像を建てて感謝しとるのです。
 「横山壮次郎君」には、もう1つ重要な逸話が収められています。奉天で横山さんの部下だった角田敬司という11期生が書いた「懷友録」で、資料その14(1)はその後半です。

資料その14

(1)懐友録(明治四十三年四月十日)  角田敬司

故農学士横山壮次郎君は余の同窓の先輩即ち札幌農学校(今の東北大帝国大學農科
大学の前身)の出身にして余に先立つ三年明治二十二年の卒業生なり。<略>
君將に奉天を辞せんとする二三日前君は陳専辮に逢ひ嚮きに本試験場に日本よ
り輸入したる「メリイ」種羊は支那官憲に其良種にして有望なるを認められたるを
聞き喜びて帰り余に之を語りたり。
之れを詳説すれば徐総督郵傳部尚書に転任し奉天を辞するの際試験場より「メリ
イ」種の羊毛百斤を持ち去り之を北京の某製絨會社に寄送したり然るに其総辨
之を見て驚きて曰く此の羊毛は濠洲より特に輸入するものと異なるなし、如何に
して之を得たるや此羊毛にして満洲に産せは幾等にても本會社にて購求せんと
徐總督も之を聞き大に喜び之を黄道臺に報じたり、而して黄道臺は之を陳專辮に
語りたるなり如斯くにして日本より輸入したる羊種の優等なるを認められたる
なり満州の殖民事業は「マクアーサル」氏の羊種を輸入したる以來著しく発達した
りと云ふ、若し將來満洲に羊毛事業発達して一の産業となり、羊毛の供給地となる
に至らんかマクアーサル氏と同じ名誉を担ふべきものは君にあらずや、君奉天を
去るに際し羊種を本試験場に入れたる功績を支那官憲に認められたるを耳にせ
られたり、君亦た瞑すべき歟夜色闇々四隣寂々大聲をも聞くこと稀なるの時東塔
の下嘗て君の寓居せし隣室に於て君の來りて語るの時常に坐せらたる椅子に対
して之を記す余情縷々として盡きさゝるものあり。
鳴呼悲哉。


(2) 第四節 満洲に於ける羊種改良事業

 満洲に於て羊種の改良研究に着手されたのは日露職争以後のことである、即ち宣統元年(明治四十二年)奉天省政府が羊種の改良を計画し、省直轄の農業試験場に於てメリノー種を購入して蒙古左來種と交配し改良雑種を得ることを策したるを以て濫觴とされてゐる様である。
 開設當時省政府は千七百四十四両の資金を投じて牧舎を建築し、日本より技師を招聘したが後米人之に代りて場長となるに及び米國よリメリノー種百頭を購入し改良増殖を計つたものであつて其の結果
  宣統二年   産羔   一、二〇〇頭
  同 三年   伺    一、二〇〇頭
  同 四年   同    二、五〇〇頭
  同 五年   同    三、四〇〇頭
の如く改良雑種を得た。民国以後外人を解雇して支那人のみを以て経営に当たらしめたが、爾後見る可き成果をなさず終に有耶無耶に終熄した様である。<略>

 道臺とか專辮とか職名はどうでもよろしい。「日本より輸入したる羊種の優等なるを認められたるなり」に注目です。資料その13(2)から明治42年から輸入を始めたらしい。つまり横山さんが場長になってからであり、まだ調べておりませんが、左五さんと同期生というつながりから月寒から分譲した緬羊かも知れません。緬羊1頭から年3.3キロの羊毛が得られるとすると100斤は18頭強となるので、20頭ぐらい輸入したのでしょうかね。「マクアーサル」氏はマッカーサーでしょうが(2)のいう横山さんの後「米人之に代りて場長となる」の米人かどうかわかりません。満鐵が公主嶺農事試験場を設立したのは大正2年であり「有耶無耶に終熄した」らしい奉天省農事試験場に代わって蒙古羊の品種改良を進めたとみることができます。  左五さんは後に朝鮮総督府勧業模範場長となり朝鮮に尽くしたけれど、満鐵に送った教え子の松島鑑さんが左五さんの娘スミエさんと結ばれ、公主嶺試験場場長(76)や満州国政府の重要ポストに就きました。是公さんの「牧畜をやれ」を松島さんが代行したようなもんだね。
 時間ですね。最後の資料は是公さんです。これは是公市長の下で助役を務めた田沢義鋪の本からですが、やはり、大連の山賊会は忘れられない思い出だったのですね。ラムよりマトン、あの焦げた匂い。ジンパは絶対に北大時代のいい思い出になりますよ。大いにやりなさい。終わります。

資料その15

<略> 中村さんは宴会の席上などで、興がのつて來ると、よく成吉思汗鍋の話をされた。成吉思汗鍋といふのは、満洲の氷点下何十度といふ寒い雪の降る野外で、外套を着ながら、鍋を囲んで、獣肉を焼いて食ふのであつて、満鉄総裁時代の痛快な思ひ出の一つであつたらしい。成吉思汗が蒙古から欧州まで雪原を踏破して征途に上つた折柄、到るところで士卒をねぎらつた饗応の方法であるらしい。中村さんといふ方は、かういふことが最も好きな人、そして復興建築会社の創立は、その成吉思汗の疾風枯葉を捲く戦法を髣髴せしむるものがあつた。台湾の土匪横行中の土地調査の断行、満鉄時代のペスト撲滅、さうした中村さんの痛快な思ひ出の種はいつも成吉思汗の戦法を偲ばしむる。うちわばかりの晩餐會か何かのあとで、ほろ酔ひ機嫌で、かうした思ひ出話が出るときに、酒を飲まない私は「謹んで成吉思汗のニツクネームを市長に献じます」と茶目つたことがあつたが、それも今は悲しい思ひ出の一つとなつた。

 (文献によるジンギスカン料理関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、正当な権利者のお申し出がある場合やお気付きの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)
  

参考文献
上記(74)の出典は新渡戸稲造編「横山壮次郎君」の「横山壮次郎君伝」6ページ、明治43年12月、新渡戸稲造=館内限定近デジ本、 (75)は同45ページ、新渡戸稲造「故人を懷ふ」より、同、 資料その15(1)は同132ページ、角田敬司「懐友録」より、同、 同(2)は桐沢信六著「満洲に於ける羊毛」49ページ、昭和14年3月、満洲輸入組合聯合会商業研究部=館内限定近デジ本、 (76)は芳賀登など編「日本人物情報大系 満洲編1」11巻404ページ、平成11年10月、皓星社=原本、底本は東方拓殖協会編「支那在留邦人興信録」鉄嶺、開原、四平街、公主嶺、鄭家屯の部12ページ、大正15年、東方拓殖協会、 資料その16は田沢義鋪著「旅塵」460ページ、昭和11年1月、日本青年館=館内限定近デジ本