世界でも最も美しい都市イスタンブ−ルはアジアとヨ−ロッパの文化の接点、夜の夜景は見応えあり
。イスタンブ−ルが歴史の舞台に登場したのがB.C.2000年の末期。黒海と地中海の交易の接点でもあり、軍事
的、地理的条件の自然港「金角湾」は都市としての必要条件が全てそろった古代都市である。トルコの人口は
6,200万人(1997年)で、国土は日本の2.1倍の78万kuである。トルコ人口の99%がイスラ
ム教徒である。政治の世界では政教分離、一院制で550議席の国会議員は国民の投票で選出される。徴兵制
あり。イスタンブ−ルの人口740万人。ロ−マ帝国時代、ビザンチン帝国時代、オスマントルコ時代とトル
コイスラム文化が混ざり合った異色の街である。
- 視察建造物と地震状況デ−タ。
地震から5ヶ月余りのトルコのイズミット市の復興状況は、1995年に経験した淡路阪神大震災の状況(当時五声会で1ヶ月半後に御影高校周辺の現地視察とボランテア活動に食料支援。)と重なる部分もあり、テレビや新聞報道での被害状況は、トルコ北西部で1999年8月17日午前3時(現地時間)にM7.4の大地震が起こり、イスタンブ−ルより高速で1時間20分余りの工業都市イズミットとその周辺部に大規模な被害が発生した。
当時五声会で1ヶ月半後に御影高校周辺の現地視察とボランテア活動に食料支援。 1995
地震から5ヶ月余りのトルコのイズミット市の復興状況。 2000.2.6
震源から100km離れた観光・商業都市イスタンブールでも数十のビルが倒壊し、イズミット市内の石油
精製所では大規模な火災が発生し、鎮火に時間を要した死者は15,135人以上、負傷者は23,983人以上に及
んだ(1999.9/6被害状況)。未明の地震だったため,就寝中の住民多数が建物の崩壊により被災した。救
助のため日本や欧米各国から多数の緊急援助隊が派遣されたと報告されている。
イスタンブ−ルより東、高速で1時間20分余りの一番被害の大きかったイズミット市に車を走らせる。
イズミットに近づくにつれ、マルマラ海峡を右手に見ながら左側山間部に仮説プレハブが多く目立つ。
市内に入った第一印象は、5ヶ月と言う時間の流れか、ほとんど倒破された建物が目に入らない。撤去の
早さにビックリ。道路の復旧や、中層建物の補強や瓦礫の撤去作業が一部進む。トルコの6.7階建ての
平均的な中層アパ−トの構造は、純ラ−メン構造に外壁・間仕切り壁をレンガ積みしている。開口部も以
外と小さい。気候風土の関係か?柱スパンの支点間も以外と短い。残っている中層の建物の1.2階の柱
の挫屈の痕は見られるものの、つぶれた形跡がない。ラメン内部は開口部は小さく必ず壁を作り、耐震壁
も十分施されているように見える。ただ柱断面が小さいのに驚かされる。(柱スパンが短いだけ軸力が小
さいので柱断面も小さいのか?)起源前より多くの地震に見まわれている事で耐震設計が進んでいるよう
に思える。
トルコの98年の経済成長率は3.8%で行く先々に個人.公共を含めて住宅政策が目立つ。ただ高イ
ンフレの為工事が中断して放置されているのがほとんどではあるが、発展途上国であることは間違いない。
又、仮説プレハブに入所すると3度の食事と手当がもらえなくなるので、テント生活をしているのが目立つ。
(まだまだ、仮説プレハブが不足しているのか?一度冬を越したのに?)そのテントから衛星放送のアン
テナがニョキニョキ出ている異様な光景であった。
通訳の現地ガイドも地震後初めてイズミットに来たが、こんなに復興が早いとは思わなかったと。
トルコ政府がマルマラ海域の流通機構で石油精製工場をイズミットに持ってきたが、過去にも大きな地震に
見まわれている。トルコ政府の施策が間違っていたのではとのコメント。少しうなずけるが話は話だ。トル
コの産業構造は96年のGDP比はサ−ビス業58%・工業27%・農業15%で、日本の国土の約2.1
倍の78万ku。人口6,200万人である。東西に1200kmにわたって北アナトリア断層が走る上にたつ、
イスタンブ−ルの近郊都市イズミットは、工業誘致で今も人口が増幅している街である。
- イズミット周辺の地震状況デ−タ。
- 《トルコ北部には,ほぼ東西に1200kmにわたって北アナトリア断層が走る》
- 1999年( 11/12) M7.3の地震発生 少なくとも死者300名以上、けが人数千人が出た
- 1999年( 8/17) M7.4の地震発生 死者15,135人、負傷者23,983人。
- 1992年 M6.8の地震発生 犠牲者498人の死者が出た。
- 1939年 M7.8の地震発生 犠牲者は3万人を超えた。
- U、過去の北アナトリア断層における地震発生状況デ−タ。
- 地震発生状況デ−タ。
- 1999年(M7.4)
- 1992年(M6.8)
- 1967年(M7.0)
- 1957年(M7.0)、1947年(M7.0)、1943年(M7.0)、1942年(M7.0)、
1939年(M7.8)、1939年(M7.0)
- V、参考資料(1999.11/12)(1999.8/17)
- ●1999年11月12日午後7時(現地時間)に、8月17日の大地震の震源から約110km東、ドゥズジェ付近を震源とするM7.3の大地震が発生しました。この地震で少なくとも死者300名以上、けが人数千人が出た模様です。USGSによる速報震源は次の通りです。
- 発生時刻 震央 深さ M
- 99/11/12 16:57:20 (UT) 40.79°N 31.11°E 10 km 7.3
- ●1999年8月17日 地元の研究所(ボアジチ大学地震研究所KOERI)による震源情報は次の通りです。再解析にあたっては、この情報を用いています。
- 発生時刻 震央 深さ M
- 99/08/17 00:01:40(UT) 40.77°N 29.97°E 17km 7.4
トロイは紀元前3000年後半からキリスト生誕まで都市文明が栄えた都市で、時代によって第1から
第9市まで区分(BC3000〜AD600)される。トロイ戦争時代の起源前1200年の遺跡は第7A市にあたるとされている。
トロイは古代ギリシャ時代、ホメロスが書いた世界で最も古い叙事詩イ−リアスに書かれた「トロイ戦争」
の舞台として伝説の都市として信じられていた。しかし、1873年、ドイツ人インリヒ・シュリ−マンの
発掘により一躍世界的に有名になった都市である。
遺構は東の塔、東の城壁、メガロン式居住区、貯蔵庫、北東の塔と貯水槽、アテネ神殿、城門、西の門、聖
域、音楽堂、議事堂、列柱式住居、そしてすぐれた防御設備があった。
- 視察建造物
アレクサンダ−大王の死後、その総督がセレウコス朝シリアより自立した「ベルガモ王国」の首都と
してヘレニズム文化の一中心となった。がやがてロ−マの属州となった都市である。約3世紀にわ
たるなかでオリエント文化と融合したギリシャ風の世界的文化で、世界市民主義・個人主義的傾向が特徴。
自由で現実的・合理的な精神はルネッサンス以後の近代文化の主流となた。キリスト教の流行以降次第に
弱体化した。
- 視察建造物
- アクロポリスのトラヤヌス神殿(T・U)・
- アクロポリス劇場・アクロポリスゼウスの祭壇(ベルリン博物館蔵)
- アスクレピオン(精神治療所)
- リハビリ劇場・聖なる泉・トイレ・治療用の地下通路・テレスフオロス神殿
- ゼウスアスクレピオス神殿・商店街(薬販売)
- ドイツ、ベルガモ博物館(ベルガモン祭壇) 2004.11
イズミ−ルは人口約270万人トルコ第三都市。エ−ゲ海の貿易港である。ホメロスの故郷でもる。
エフエソスの初の考古学発掘調査は1869年、英国博物館の技術者J.T.WOODによって行われた。現在もオ
−ストリア考古学研究所によって進められている。世界最大の遺跡である。紀元前7000年にエフエソス
のアルテミスの女神像は祈りの対象として7000年人々の上に君臨してきた。彼女は全ての母でありなにより
も強く全ての支配者でアナトリア・メソポタミア・エジププト・アラビア、スカンジナビアに多大な影響を
与えた。
- 視察建造物
●パムツカレ村の長い年月をかけて造り上げられた自然の石灰棚に溜まった温泉水が青く光る光景は見事である。
当地の背後にロ−マ時代の遺跡「ヒエラポリス」がある。劇場・神殿・居住跡・浴場・城壁の遺構が数多く残っている。
特にアナトリア地方の最大級規模の墓地跡「ネクロポリス」がある。
●コンヤは12世紀〜14世紀にかけて多くの神学校やモスクが造られ、アナトリアの政治の中心として栄え
た。イスラム神秘主義の一派メウレウ−イ−教団創設の地であり国中の多くの巡礼者が訪れる。見所は、セ
ルジュ−ク建築の傑作である教祖直筆のコ−ランやマホメットのあごひげを保管した「メウレウイ−博物館(くるくるまわる旋舞の衣装や楽器)」
や、「カラタイ神学校(現在陶器博物館)」等である。
●カッパドキアは数百万年前に起きた火山灰と溶岩が降り積もり、長い年月をかけ浸食されたタケノコ形の
奇岩がいたるところに突き出ている。アラブの迫害を受けても信仰を捨てることなく、その奇岩をキリスト
教徒の隠れ家や教会、修道院として11世紀後半に最も栄え今日に至った。1923年、トルコとギリシャ
の住民交換政策により幕を閉じる。トルコ政府は新しい住まいを用意し、浸食が進む奇岩に居住していた住
民に撤去を命じた。ギョレメ谷、ギョレメ野外博物館、トカル・キリセ岩窟教会等圧巻。
又、1964年に発見された巨大な地下都市「カイマルク」もイスラム教徒の迫害から逃れるための地下都
市(深さ85m地下7階)には居室・キッチン・学校・教会を通路で結び1万5千人のキリスト教徒が住んで
いた。
●最も保存状態が良いア−ズカラハン隊商宿跡(キャラバンサライ)は13世紀に建てられた。砂漠の砂嵐を防
ぎ、旅の身体を休める宿、シルクロ−ドの交易路として栄えた。隊商宿は古いトルコ建築でセルジュ−ク期の装飾
を施された門が圧巻である。
- 視察建造物
- 石灰棚のパムッカレイ
- コンヤ(メブラ−ナ博物館T・U・カタライ神学校)
- カッパドキア・ギョレメ峡谷(T・U)・ウチヒサ−ル・ゼルベ
- 地下都市カイマクル
- シルクロ−ド隊商宿跡(キャラバンサライ) T・U・V
Copyright© T.Kiku Office 2002,
Web pages Created by tamio kiku
菊たみお OFFICE
|