私の障害4


階段の上り方

さてここで、どんなふうに階段を上っていたか?というと書いてみたいと思う。

まず出来るだけ手を伸ばして、手摺りの上の方を両手で掴み、
左足(わりあい良い方の足だった)を、外側から振り回す格好で上の段にあげ、
上がった左足をつっかい棒にして、
手摺りを持った腕の力で、一気に身体を持ち上げ、
右足まで段に上がったとみるや、右足を着地させ身体を安定させる。
これで一段の動作、それを繰り返して、階段を上っていく。

病院でも習った階段の上り方だが、学校では病院よりも長い階段を、
”わずか数分”で、上りきらなければいけなかった。
このわずか数分にするために、 足を振り回す時も、身体を引き上げる勢いも、身体のエビぞり方も凄いもので、 身体全体で、階段を上っていったのだ。 時には力尽きて、這うように登った。
まあ、この格好が、笑われた要因でもあったが・・・。

必要や思いは、心や身体を酷使するが、真から鍛え上げもする。

だんだんと腕力の強さも手摺りを掴む力(つまり握力)も強くなり、
どうしても必要な反動を片手でつけるために、 手摺りは片手で掴み、片手で身体を引っ張り上げられるようになってきた。 振り回して上げる左足も、股関節から腿から膝まで、力が付くようになってきた。
このようにして階段上りは、わずかながらに数分ずつ短縮していった。

しかし、振り回して上げる左足の目測をあやまり、 階段の段差に足を強烈にぶつけることもしばしば、
しかも変な角度でその足をつっかい棒にするわけで、補装具の痛まないわけはない。

歩くこと・転ぶこと・そして階段を上ることには、
無理も無茶もしたので、補装具の鉄の支柱は、予想以上に痛み、ヒビや折れることもしばしばになってきた。その修理もしながら新しい補装具への時期もやってきた。


新補装具は膝から・・・

2年生になる頃の私の写真 一年から二年になる頃、
新しい補装具作成の時に、病院の先生から、
「これ以上、補装具を丈夫にするには、
さらに太い鉄の支柱が必要になり、重さも倍くらいになる・・・。
それよりも君の左足の膝には、前にはなかった力が付いてきている。
その力の可能性に期待して、左足だけ膝下だけのものにして、
その補装具を頑丈にしてはどうか?」
という話が出た。

僅かに自分で曲げて伸ばすことが出来た左足の膝は、
鍛えられてはいたが、さすがにそれは大きな賭だった。
もし、それで膝の力が体重を支えられなかったら、
支えられても長くもたなかったら・・・、
麻痺であっても残されている足は、もう使えなくなるかもしれない。

しかし、私は左足は膝下の補装具を選択した。
作成の仮合わせ・本合わせの時から、不安定な補装具に心配もし、当たる箇所の痛みはさらに倍加したが、 それでも、自分の膝の力への希望は大きかった。

そして左足だけ膝下の補装具は完成し、その補装具で学校に通うこととなった。

左足は軽くなった。 それは、感動を覚えるほど、軽さだった。
実際には、何度も転び、転ぶ事への不安はさらに増したが、それよりなにより、その感動は絶大だった。

特に階段上りの左足の振り回しは、膝の力が伴うようになり、しかも軽くなったので、
意外と簡単に足を上げることが出来た。
下手をするとその勢いで、一段抜かした上の段まで足がいってしまうこともあった。
しかしその時私は心の中で、「これだ!!!」と思うようになっていった。。。


必殺一段抜かし

実際にそれが出来るまでには、さらなる腕の力、膝の力が付くまでの時間がかかったが、
必ず訪れる時があると、確信していた。
階段は毎日毎日上るのである、それこそ日に何回も上ることもあったし、
その一段一段に、左膝に気持ちを集中し上るようにした。
腕で引き上げる力、手摺りを掴む力も、より強く力を使うことを心がけた。

何度目か、いや何十回目か、何百回目かのトライの時に、
一段上の段に左足をかけ、膝の力、腕の力を一気に爆発させて、棒高跳びのように身体をエビぞり、
右足まで上手く引き上げることが出来て、一段飛び越しての一段抜かしが・・・、出来た。

上り方としては危険は伴うが、階段にいること自体が、実はものすごく危険なわけで、
階段を上る時間の短縮は、階段にいる時間、つまり危険な時間の短縮になる。
その危険のやりとりは、時間を短縮できるか?にかかっていた。

しかし一度できると、あとはその反復、
もともと足を上げる動作、身体を引き上げる動作の一回一回は、
一段ずつでも一段抜かしでも、力と引き上げる距離以外には、たいして差はない。
それから私は、途中で一段抜かしを入れながら、階段を上るようにして、
最後には(手摺りの高さや段数で違ってきたが)、ほとんどすべてを一段抜かしで上れるようになった。
階段上りのスピードは、それまでの倍以上にアップしていった。


右の補装具も

その時はしっかり覚えているが、小学校3年の時の誕生日の日から、
右足の補装具も、膝下のものにトライしている。
前年まで使っていた右足の補装具を、膝から下を切断してもらい、 それを履いてのトライだったが、
さすがに右足の膝は力が無く、曲げ伸ばしの動作はいっこうに出来なかった。
しかし、まっすぐ伸ばした状態での維持は僅かながらに出来たので、
補装具の重さとの兼ね合いで、次の年から右足も膝下の補装具になることとなった。

ちょっとした小石や段差が右足の補装具の靴の踵にきてしまうと、
右膝がかくんと曲がってしまって、後ろ向きに倒れてしまうという、
新たな恐怖と隣り合わせになってしまったが(それは今でも)、
それは細心の注意を払いながら下を見て歩くことで、乗り切りることにした。
やはり軽さには感動だったからだ。

実際にその当時の補装具の重量がどのくらいだったか?記録はないのだが、
今使っている膝下の補装具がほぼ3キロくらいなので、
その倍以上はあったと思ってよいだろう。

ちなみに今現在、私の使っている補装具も、まだ軽くできるようだが、
素材の耐久性の方を考えると、
「今の方が安全」と長年僕の補装具を担当してくれている方は言ってくれている。

話は戻るが、
小学校3年の頃、両方の補装具がとりあえず膝下のものになり、
そのお陰で、いつかはというか、小学校高学年になってからは、同級生とさほど変わらずの時間で、階段を上れるようになった。。。
一段抜かしは、エレベーターのない中学、高校、そして針灸の専門学校まで行った。


手摺り(てすり)に感謝

階段上りについて最後になってしまうが、 私は、そこにあった大事な存在に感謝したいと思う。

それは、階段にある手摺りだ。

それが有るか無きかで、私の人生は変わったと思う。
手摺りがなければ、2〜3段、それ以上の階段は、 今でも人に手を引いてもらわない限り上れない。
一段でも、ちょっと高い段差になると上れない。

小さい頃は、きっと這ってでも階段を上っただろうと思うが・・・、
たぶんそれには限界があっただろうし、
下りる時の危険も増し、また膝下の補装具までには至らなかっただろう。
もちろん手摺りのない階段は、あらゆる場面で遭遇してきて、今でも有るところを見るが、
手摺りが無きことを悲しむより、有ることへの感謝・賞賛を私はしていきたい。


さて、私の障害に関して一気に書いてきたが、 ここまでに登場し、深い関わりのあった人についても、
遅ればせながら、次に書いてみたいと思う。
はたしてどんな人となりなのか?
私の感じたままであるが、興味深い人は次を。。。


2005.7.08.記

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