1年という月日


そう、去年のちょうど今頃だ。

4月2日、菜月が生まれた。

「赤ちゃん、とても元気ですよ。」

先生からそう言われた時、はじめて、心の底から、ほんとに心の底からほっとしたのを覚えている。

それは、大きなお腹をやっと卒業できた喜びと、何よりも、漠然とではあるけれど、なんとか元気に赤ちゃんを産めたという、なんと言っていいのか、不思議な幸福感に満たされた瞬間でもあったのだ。

 

とはいえ、病院を退院してうちに帰り、しーんと静まり返った深夜。

簡単にこわれてしまいそうな、ちっちゃなちっちゃな菜月の寝顔を見ながら、

「自分は、これからこの子をほんとに育てていけるんだろうか。」

とふと不安に感じた夜だってあった。

退院したばかりの頃の菜月

いとこの拓ちゃんと

(生後0ヶ月)

この1年は、ただ、あわただしい毎日の積み重ねだった。

何をしたというわけではない。

毎日、毎日、おんなじことを繰り返してきた。

お乳をやり、おむつを替え、ご飯を食べさせ、散歩に出かけ、一緒に遊び、家事をし、おふろに入れ、寝かしつけ...

知らないうちに季節が流れ、暖かい春はいつの間にか終わり、暑い夏が来て、秋が来て、冬になり、寒い寒いと思っている間に冬が終わり、また春が来た。

そんな感じだ。

 

わからないことはいっぱいあった。

というか、わからないことだらけだった。

はじめての育児である。

どうしてやればいいのか、何をしなくちゃいけないのか、ほんとにこれでいいのか...

だけど、親の私が「何をしよう」と、また「何をしまい」と、赤ちゃんというのは、勝手にすくすくと育っていくのだという事実。

笑った、泣いた、ハイハイできるようになった、歯がはえた、立った、歩いた...

たったの1年の間に、菜月はいろんなことが出来るようになった。

笑うようになった

(生後2ヶ月)

手がしゃぶれるようになった

(生後3ヶ月半)

そんな中で、私1人が右往左往していた。

「赤ちゃんって1日見ていても飽きないね。」

ってよく言われるんだけれど...

それは、ほんとに、ただ「見ている」だけでいいから言えることであり...

世話しなきゃいけない当事者にとって、

「1日見ていて飽きない」

なんて、そんな余裕などあろうはずがない。

 

私にとっても、この1年間は、「母親」になるという新しい1年だったのだ。

今までずっと「子ども」の立場だった人間が、突然、人1人の「親」になるということは、なかなかどうして、そう簡単ではない。

「母親」になるということは、少なからず時間がかかるものなのだ。

スプーンで果汁を飲む練習

(生後4ヶ月)

寝返りをした

(生後5ヶ月)

子どもが生まれて、人生観が変わったとか、世界が広がったと人は言うけれど...

私の世界が広がったかどうかはよくわからない。

世界はむしろ狭まったという感じもするし、行動範囲に関していえば、それは明らかに狭まったわけだし...(^^ゞ

だけど、とりあえず、この1年でいろんなことを思った。

お母さんって偉いなーと思った。

私もこんなふうにして大きくしてもらったのかなーと思った。

そして、事故や虐待で幼児を死に至らしめたニュースを聞くたびに、母親の「孤独」を思った。

悪いのは全部社会だ、なんて言わない。

だけど、その原因は、よく言われてるような、最近の母親がわがままに育ってきたせいだとか、責任感が足りないんだとか、忍耐が足りないだとか、そういうことだけではないと思うのだ。

自分が母親になってから、はじめてそんなことを考えた。

歯がはえた

(生後5ヶ月半)

なんでもかんでもガジガジ

(生後7ヶ月)

実際、生活の中に、子どもが1人増えるというだけで、今までの生活はがらりと変わる。

夫婦2人で協力して育児する、と言えば、聞こえはいいけれど...

実際は、そんなきれい事では片づかない。

だってたいへんなのだ。

ある日を境に、いきなり、子ども最優先の生活だ。

寝たい時に寝れない。

食べたい時に食べれない。

したいこともできない。

ペースも乱れる。

いくら子どもがかわいいとはいえ、ストレスはたまる。

夫婦の関係だって多少なりとも変わる。

立っておふろに入れるように

(生後8ヶ月半)

今まで普通につき合ってきた友達との関係も変わる。

なんせ、同じペースで行動が出来なくなる。

とにかく、子どもを追っかけて生活している日々。

どうしても行動範囲が限られる。

外界との接触も少なくなる。

自分は、社会から取り残されているような、そんな不安な気持ちになる時もある。

 

友達からメイルをもらう。

大学の友達が、バックパッカーでインドを旅していると言う。

そういう話を聞くと、やはり「自由であること」をうらやましくも思う。

それってわがままなのかな、と思う。

自覚が足りないのかな、と思う。

とはいえ、親となった今でも、捨てきれないものというのはある。

やはり、菜月の「母親」である前に、私は私であり、1人の個人であることにかわりはない。

と、そんなことも考えてみたりする。

笑顔、笑顔、笑顔

(生後9ヶ月)

立った、立ったができた

(生後10ヶ月半)

だけど、とは言っても、やはり...「母親」なのだ。

そして、母親になれたことに、そして菜月が元気に育っていることに感謝している。

余裕なんてない。

ただ一生懸命の毎日。

だけど、今まで考えたこともなかったようなことをすこしだけ考えるようになった。

そういう意味で、いつもとはちょっと違う1年だったという気がする。

かたかた押して歩けるように

(生後11ヶ月)

とりあえず、1年という月日が流れた。

「もし、菜月がいなかったら、自分は今頃どうしているだろうか?」

その”もし”ということさえ、考えられないほど、私たち家族の中に、菜月がいるということは自然なことになっている。

「まぁ、とりあえず、これからも、一緒にやっていこうじゃないか。」

自然とそんなふうに思えるようになったのは、この「1年という月日」があったからだ。

子守もできるようになりました?

(1歳)

「育児って楽しそう。」

と言われれば、こんなにたいへんだと言いたくなる。

だけど、

「たいへんそうだね。」

と言われれば、こんなに楽しいと言いたくなる。

それはどちらも本音であり、楽しくって、そしてたいへんなのだ。

もしかしたら、これからはもっとたいへんなのかもしれない。

そりゃぁイライラもする。

腹のたつこともある。

でも、楽しいことも、うれしいことも、こんなにいっぱいある。

ただいま、階段登りに夢中

(1歳)

1人で生きていくよりは一緒に生きていく人がいたほうがいいかな。

結婚を決めた時、そんなふうに思ったものだ。そして、

一緒に生きていくのは2人よりも、3人のほうがもっといいかな。

今はそういったところだろうか。

 

菜月、1歳のお誕生日おめでとう。

春、なっちゃんの菜の花に囲まれて

(1歳)