家族


菜月、1歳11ヶ月。
現在、おじいちゃん、おばあちゃん、とーしゃん、かぁしゃん、おねえちゃん(とー しゃんの妹)、菜月の計6人家族。
それに、犬のロビンと金魚がいる。
「核家族化」が叫ばれる昨今の日本においては、この人数は、まー、わりと多い方なのではないかと思う。

とはいえ、最初からこうだったわけではなく、私たちも、菜月が生まれて生後6ヶ月までは、親子3人+ハムスターだけの、一般的によくある「核家族」だったのだ。
6人家族が「普通」のように慣れきってしまった今となっては、3人家族なんて、ずいぶん寂しいような気がするけれど、その当時は、もちろん、3人家族であることが「普通」だったわけで...
それを寂しいなんて思ったことなど、もちろんなかった。


みんなで紅葉狩りにいきました

(1歳7ヶ月)


菜月が生後6ヶ月の時、とーしゃん転職。

広島勤務になったのと同時に、とーしゃん念願の広島での生活が始まったわけだけど...
それは、同時に、とーしゃんの両親との「同居」生活の始まりでもあり...
ただただうれしいばかりのとーしゃんに反して、当時、かぁしゃんの思いは、少し複雑でもあった。

どんな女性にとってもそうだと思うけど、結婚してダンナの両親との「同居」という形態をとるというのは、「結婚」することと同じくらい、一大決心を要することなのではないかと思う。
飛び込んでみれば何ということはないのだけれど、いざ、そこに入っていくのは、とてもとても勇気がいることなのだ。

なんせ、とーしゃんにとっては、そこは、小さいころから慣れ親しんだ「家族」であり、もとの古巣に「戻る」ことに他ならないのだけれど、私にとっては、まったくの「未知の世界」に入っていくということなのだ。
しかも、私だけが、1人「よそ者」という状態。
これは、ひがんでいるわけではなく、実際、最初はほんとにそういう状態なのだ。
長い間の習慣、というのはこわいものだ。
あらゆる物のやり方が、育った家庭によって違うのだということを、まずは改めて思い知らされる。
ご飯を食べる時間、朝は和食かパン食か、おかずは大皿に盛るのか、1人1人に分けるのか、肉と魚の割合は?、何が好きで何が嫌いか、みんなでそろって食べるのか、食事中のテレビはいいのか...
食事ひとつとってもみても、何もかもが違う。

食事だけではない、もっと身近な生活一般の細々としたことすべてにおいて、とーしゃんも、他のみんなも、ごく普通にやっていることが、私にとってはちっとも当たり前じゃなかったりするのだ。


神奈川のアパートで

(生後2ヶ月)



菜月が生まれて生後100日

(生後3ヶ月)



この頃は、まだ3人家族でした

(生後4ヶ月)


夫婦2人だけなら、
「じゃー、これはこうすることにしよう!」
ということになるのだけれど...もちろん、そうはならない。
やはり多い方に「あわせる」形になるわけで...
それは
「自分たち2人で新しい生活を創り上げていく」
結婚式の挨拶でよく言われるような形にはほど遠いわけで...
「同居」という形態をとると、少なからず「家族」のあり方が少し変わる。

しかも、女手が増えたせいか、自分の家に戻ったせいか、なんだか、とーしゃんは、当たり前のように家事なんてまったくタッチしなくなり、私が手が離せない時は、とーしゃんではなく、当たり前のように、お義母さんが菜月のオムツを替える。
それは違うのではないかと、文句の1つも言いたいところなんだけど...


この当時はオムツも替えていた

(生後4ヶ月)


ま、それはさておき、家族が多いということはどういうことか?
よく
「家族が多いとたいへんね。」
と言われるけれど、それも一理あり。
「家族が多いと楽でしょ?」
の言葉も一理あり。

たしかに、お義母さんと私。
女手が多いと家事も分担できる分、楽といえば楽であり...
でも、家族が多いと、ご飯にしろ、洗濯にしろ、買い物にしろ、なんせ量が多いので、たいへんだといえばたいへんであり...
一長一短だ。

食事を作るのだって、洗濯物するのだって、けっこう時間がかかる。
買い物だって、週末に段ボール3〜4箱、山積みの食材を買うけれど、1週間はもたないのだ。
シャンプーだって、石鹸だって減るのは早い。
買い物はいつもいつもけっこうな量になる。
いつもいつも、冷蔵庫の中身の心配ばかりしていなければいけない。

買い物に行けば、カートに買い物かご4つ、手に1つ、山盛り積んでレジに並んでいて、後ろのおばさんに
「どうされたんですか?」
と怪訝そうに言われたこともあった。
い、いや、別にいつもこうなのだけれど...(^^;;;


このカートに山盛り買うのだ〜

(生後11ヶ月)



菜月は「菓子棚」の心配ばかり...

(1歳11ヶ月)


だけど、
「子供を育てる」
ということにおいて言えば、家族が多いということは、実にありがたいことに違いない。

私とお義母さん。
「家事をする人」と「菜月を見る人」
2人いるということは、ほんとにありがたいことなのだ。
私が菜月を見ている間に、お義母さんがおふろのそうじをし、お義母さんが菜月を見ている間に、私がご飯の支度をする。

子供ができてたいへんなのは、家事の「量」ではないのだ。
子供がいると、何1つ、集中してやらせてもらえないというところに、たいへんさがあるのだ。
まだ2時間おきにお乳が必要だった頃、お乳をあげる合間に何かをやっているような、お乳の時間を中心に生活がまわっているような毎日だった。
お乳を卒業してくれたら、どんなに楽になるだろうと思ったもんだ。
それが、いつからだろう。
お乳を卒業し、その分、ずいぶん楽になったはずなのに、気づいてみれば、今度は、思うことが、思う時に、思うようにできなくなっていたのだ。
歩けるようになれば、絶えず危なくないか気を配ってないといけないし、しゃべれるようになれば、
「一緒に遊ぼう!」
と言ってぜったにきかない。
子供は日に日に行動範囲を広げ、自我が芽生え、人の言うことなんてちっとも聞かない。
人の都合なんて考えない。

子供はどんどん成長していくけれど、それに比例してどんどん楽になっていったりはしないのだ。
むしろ、反対に、かえってたいへんになっていく気すらする今日この頃。


必ずちょっかいを出す菜月しゃん

(1歳5ヶ月)



電子レンジに興味しんしん

(1歳10ヶ月)


ところが、一般的な核家族においては、「家事」の担い手も「育児」する人も、一手に担って、母親がたった1人でしなければいけない。
そんなこと、できるわけないのだ。(きっぱり!)
そのたいへんさに比べれば、子供を一時でも見てくれる人が家族の中にいるということは、たとえ、大家族のすべての家事を1人でやらなければならなかったとしても、それよりはずいぶん楽だ、と思うのだ。

家事の分担だけではない。
人手が多ければ、子供をおふに入れた後、お迎えに来てもらって、自分も少しは落ち着いておふろに入れる。
食事だって、交代で菜月の相手をすれば、自分もゆっくりと食べれる。


とーしゃんとおふろなのだ〜

(1歳10ヶ月)


そして、何より
「いつでも家に誰かがいてくれる」
ということの安心感は大きい。

子供が病気の時、私が体調の悪い時、また家族の誰かが病気の時。
誰かがそばにいてくれる、とりあえず、私が倒れても、代わりに菜月のめんどうを見てくれる人がいるということは、ほんとにありがたいことだ。

しかも、お義母さんは、2人の子供を育てた育児の経験者だ。
「でもねぇ、もう忘れてしまったことのほうが多いのよ。」
とは言うけれど、とーしゃんの小さい頃の話も聞ける。
相談もできる。

しかも、もともとお義母さんは看護婦さんだったので、とても心強い。
食べたものをのどにつまらせそうになった時。
公園で足の裏に画びょうを踏み抜いた時。
下痢が長く続いた時。
体に湿疹が出た時。
あやまって歯ブラシで口の中を切って出血した時。
熱が出た時。
突然吐きはじめ、理由もわからず半日吐きどおしだった時。
菜月に何か起こるたびに、どれだけ、お義母さんに助けられてきたことか。


はじめて熱を出しました

(1歳0ヶ月)


家族が多いと、365日、家事をしなくていい日はないかもしれない。
「今日はとーしゃんがいないから、夕飯は簡単にすませよう。」
というのはない。
「今日は、外食にしようか?」
そういう身軽さも、今はない。
一長一短。
いいところもあれば、悪いところもある。
便利なところもあれば、不便なところもある。

家事の仕方、考え方、育児の方針、テレビの趣味、料理の味付け、おふろの温度、食事の時間、休日の過ごし方...
たくさんで住んでいれば、いろんなところで、考え方の違いが出てくる。
とまどうこともあるし、自分はこうしたいのに、と思うことだってある。
それを窮屈だと思うこともある。正直なところ。

でも、生活のあらゆる場面において、みんながみんな同じ考えであるはずがないのだ。
個々人でそれぞれ考えが違う。
そして、親子ほど年が違うとなれば、なおさらだ。
世代が違えば、それは違っていて当たり前なのだ。

そして、やはり、そんな諸々のことをすべてクリアできたとしても、3人で生活する ことの「自由さ」に比べれば、大勢で暮らすことの「わずらわしさ」「不自由さ」が多少つきまとう、ということは仕方のないことなのだ。
ふと、3人暮らしがなつかしい、と思うことだってよくある。


だけど、菜月にとってはどうなのか?
私だって、四六時中、菜月と一緒だと、イライラすることもあるし、いつもいつも笑顔ではいられない。
私が、ちょっとくらい菜月からの「逃げ場」が欲しいと思うように、実は、菜月だって、私以外の「逃げ場」があったほうがうれしいはずなのだ。
1対1でうんざりしているかぁしゃんの顔から逃れたい時だって、子供のほうにもあるはずだと思うのだ。
いろんな人がいた方が、菜月にとっては楽しいことなのではないだろうか。
そういえば、風船をふくらませてもらう時は、菜月は必ずおじいちゃんのところに行き、お義母さんが新聞を読んでいると、必ずとなりに座って、自分も広告を広げる。
ご飯を食べるのは私とだけど、アメの袋を開けてもらうのはおじいちゃんで、お茶をもらう時はおばあちゃんのところに行く。
お菓子の袋を開けると、みんなに配って歩く。


おばあちゃんの横で自分も広告を広げる


(1歳7ヶ月)


見てないようで、よく観察していて、洗濯物を干していると、
「おじいちゃんの。」
「あ、おばあちゃんの。」
ひとつひとつ指で指して教えてくれる。

玄関先では、並んでいる靴を見て
「かぁしゃんの。」
「なっちゃんの。」
「おねえちゃんの。」
指さして言う。

何気ないことなのだけれど、そんな菜月の姿を見ていると、「家族」ってこういうことなのかな、と思ったりする今日この頃。
早いもので、広島に帰ってきて6人家族になってから1年半がたとうとしている。
春も、もうすぐそこまで来ている。



ロビンに興味しんしん

(1歳0ヶ月)


1年でこんなに大きくなりました

(1歳10ヶ月)