北大のポプラ並木 (北海道初心者おきまりの一枚) |
81年北海道鉄道旅 大学に入った。新しい生活が始まった。 友と出会った。新しい感性に驚かされた。 感受性豊かなこの頃に旅ができたのは幸せだった。 勉強という本分を忘れ、 アルバイトに明け暮れた日々。 そして、なけなしのお金をはたいて旅に出た。 自然に魅了され、人との出会いに感動し、 そして、旅の中で感じたことが、 次の旅へのエネルギーとなっていく。 そんな、気持ちの原点が、この旅にはあった。 |
旅のアウトライン 大阪→新潟→青森→函館 函館→札幌→稚内 稚内→旭川→層雲峡→北見 北見→屈斜路湖・摩周湖・阿寒湖→釧路→根室 根室→釧路→帯広→室蘭 室蘭→洞爺湖→札幌 札幌→函館→青森→東京 東京→名古屋→大阪 81年7月30日〜8月14日 | |
結構使い込んだ「北海道周遊券」 |
日本国有鉄道(JNR)時代の「北海道周遊券」です。北海道までの往復には特急列車が使えないので、急行の「きたぐに」「しらゆき」と乗り継いで青森まで行きました。さすがに「きたぐに」での一気はしんどいと思ったのか、途中新潟で降りて一服しています。 しかし、「きたぐに」は客車でしたが、「しらゆき」はディーゼルカー、それも最後尾の車両は冷房されておらず、長い道のりで首筋あたりが煤煙で真っ黒になったことを憶えています。そして、深夜の連絡船。ドラの音と蛍の光のメロディーに、遠くまで来たと感じたものでした。20年が過ぎた今、JNRはJRに変わり、「しらゆき」と「青函連絡船」は廃止され、「きたぐに」は新潟止まり寝台電車急行になってしまいました。 |
渡島福島駅で列車を待つ |
函館に到着して、名物の朝市を冷やかして、松前に向かいました。今は津軽海峡線となって、高規格化され「カシオペア」や「トワイライトエクスプレス」などの特急列車がビュンビュンと走っていますが、当時は全くのローカル線、津軽海峡を眺めながらの車窓は、のどかなものでした。渡島福島駅での途中下車は、当時横綱に昇進した「千代の富士」にちなんで、なにかイベントがあったからだと記憶しています。 |
宗谷岬「最北端記念碑」を望む |
大阪から急行「きたぐに」、「青函連絡船」、急行「宗谷」と三連続夜行列車(船舶)という強行軍でたどり着いた街「稚内」 そこからさらにバスに乗り、最北端の宗谷岬に到着しました。おきまりの記念写真を撮って、ラーメンを食べ、芝生の上で寝ころんで帰りのバスの待ち時間をボーッと過ごしていました。そこで声をかけられたのが「小倉さん」、何故か今になっても名前を憶えているほど強烈な出会いでした。車に乗せてもらうことになりました。 当時の北海道には結構未舗装路が残っていました。「小倉さん」の駆るTE27レビン(こんな車両形式番号も後で知った)は、そんな道を3桁プラスαのスピードで駆け抜けていきます。衝撃的でした。感激しました。こんな世界があるのだなと思いました。「小倉さん」とは、旭川までご一緒させていただきましたが、このときの乗車経験でラリーにはまり、ダートにはまり、車にはまってしまいました。この強烈な体験が、私のその後の人生に大きな影響を与えているように思います。 |
古いキハが並ぶローカル線のホーム 北海道を感じさせるひとこまです。 |
宗谷本線の音威子府駅ではないかと思うのですが、記憶が定かではありません。自分の乗ってきた上り列車も入線しているわけですから、宗谷本線の上下方面、ここから分岐する天北線の三本の列車の揃い踏みです。国鉄時代には、のんびりしたものがあったように思います。この駅で立ち食いそばを食べたのも良い想い出です。ディパックを背負っての一人旅、なかなかいいものでした。 |
美幌峠にて 腰には初代ウォークマン |
美幌峠から屈斜路湖を望む、おきまりの写真です。前々日は大雨のため網走本線が不通になり、旭川駅舎で泊まりました。(寝袋にくるまり待合室で寝ました。カニ族のようなものです) そして、翌朝列車に乗ったものの、復旧工事の影響からか列車は遅々として進まず、結局北見に着いたのが夕方になってしまいました。仕方なく、網走は諦めてそのまま北見に泊まり、翌日阿寒バスパノラマラインに乗り、美幌峠、屈斜路湖、川湯、摩周湖と観光して阿寒湖に向かいました。こういった観光コースに乗ってしまうと、一人旅は結構辛いものがありますね。阿寒湖温泉に泊まるときなどは結構苦労しました。 さて、腰にストらっぴで留めている当時のウォークマンはヘッドホンジャックが二つあってミュート(一時減音)ボタンが付いていました。今のように音楽を個人で楽しむというスタイルともう一つの機能提案としてカップルで同じ音楽を聴くという考え方もあったようです。けど、実際に二人で聞いている姿はあまり見かけませんでしたが・・・ |
摩周湖第1展望台にて |
摩周湖第一展望台です。「霧の摩周湖」なのでしょうが、すっきりくっきりでした。 |
阿寒湖温泉にて 熊の彫刻にノミをあてる私 |
これも恥ずかしい一枚。阿寒湖温泉のアイヌ(お土産屋集落)ポロトコタンにて、店員におだてられて、ノミを持つ私です。良くあるタイプの写真ですね。この頃はフィルムも高かったし、プリント代も高かったので、今のようにばしばし撮ってセレクトするというようなことはできませんでした。一枚一枚大切に撮っていたように思います景色などもありきたりのショットが多くて遊びの要素に乏しいですね。それと、人物が入った、いわゆる記念写真的なものが多いのも目立ちます。でも・・・、私今に比べてやせていましたね、当時は(笑) 後ろのビーボの自動販売機も泣かせます。 |
昭和新山にて、佐伯氏と |
昭和新山の前にて、佐伯氏と記念撮影です。佐伯亭亭主である彼とは、大学の同級生です。また、この写真を撮っているカメラマンの近藤氏も同級生、近藤氏が室蘭に在住していたことも、私を北海道に向かわせる大きなきっかけだったことは間違いありません。大学で新しい友ができ、新しい人生がひらけていく、「大学に行って何が良かったのか?」「何を得たのか?」と聞かれたら、「友と出会えたこと」「一緒に過ごせた時間を持てたこと」と自信を持って答えることができます。知識よりも技術よりもなにものよりも代え難い、自分自身の感性を育む貴重な時間だったと思っています。今から思うに本当に風変わりな仲間たちの中に身を置いていたと思います。 |
札幌「ラーメン横丁」にて |
近藤氏にはお世話になりました。結局札幌まで送っていただき、ラーメン三昧の案内までしていただきました。ここは札幌のラーメン横丁、めざすは「ひぐま」です。しかし、何件もあるラーメン屋の中で行列のできる店なんて極僅かなのですね。近藤氏のおかげで、ガイドブックに騙されることもなく美味しい店を行脚することができました。やはり、食べ物は地元の人に案内していただくのが一番のようですね。数年後には、佐伯氏に広島を案内していただき広島焼き行脚もさせていただきました。 |
この後、佐伯氏と共に東京経由で名古屋に戻りました。 そして、それぞれの実家のある大阪と広島に向かいました。 夜行を使い、安宿に泊まり、友人の世話になるという、 甘えた学生そのもののような旅でしたが、 人と出会い頼りながらも、 自分の旅のスタイルを作る原点になった旅ではなかったのかと、 今になって思い返しています。 金銭的にも時間的にも無理をしましたが、 あのとき旅に出て本当に良かったと思います。 そして、大阪に戻る高速バスの中で、 免許を取り次の夏には自動車で北海道を駆け回ろうと想いをはせていました・・・ | |
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