幻のトンブクトゥを訪ね
ドゴンの神話世界に浸る日々
1998.1.27-3.12
ゲルトラ
ゲルバトラック
(英ベッドフォード社製軍用4WD)

ダカールから暑さと埃に
苦しみ抜いて、バマコ着
マラリアの洗礼を受けるも旅は続く
奥深いブラックアフリカの旅

セネガル→マリ
マリ→ブルキナファソ
ブルキナファソ→ガーナ
ガーナ→トーゴ





「We Get BAMAKO」 夕食後にリーダーのダグが思わずつぶやいた
それほどまでに苦しい道のりだった
連日の40℃を越える暑さ、身体に纏わる赤く細かい埃、食糧事情の悪さ

思えば「からだ」も「こころ」も限界だったのかもしれない
こんな時に人は試されているのであろう
やさしい人や嫌な自分が見えてくる

旅を続けるということは、
新しいことに出会うよりも、本当の自分に出会うことかも知れない。




川渡り
川渡り
 『セネガル→マリ 密入国中』 Sueちゃんが持っているプラカードにはこう書いてあります。セネガルSarayaの街からマリKeniebaの街に抜けましたが、両国の国境線は今私たちが渡っている「Faleme川」です。国境事務所はおろか橋さえかかっていません。ゲルトラも渡河に挑みます。ダグの必死の形相がわかるでしょうか?
 一方、ここまで4日間ブッシュキャンプを続けていた私たちは、水を見るとまるで条件反射のように飛び込み身体と服を洗います。ついでに火照った身体をクールダウン。部落の人たちと一緒になってひとときの涼を楽しみました。 実はこのルート、菊池さんが「きっと面白いと思うよ!」の一言で変更になった部分。ミシュランの地図にものらないような赤土のピストを走り続けました。結局、ダカールからバマコまでの8泊まともなキャンプ場に泊まることがありませんでした。
マリ
 セネガルやマリの女性はとても綺麗です。この娘も素敵な笑顔を見せてくれました。
モロッコやモーリタニアでは子供の写真を撮るのは困難でした。一つにはイスラムのせいもありますが、なんといっても嫌だったのは、チップを請求されることでした。お金を払うことに対しては抵抗はありませんでしたが、サービスとして供給する側と供給を受ける側として
対峙してしまうと、もう自然な写真は撮れなくなってくるような気がします。素朴な笑顔は、素朴な村でこそ出会えるのです。
 BAR “Desert Oasis”


 夕食後に開く酒場を私は密かにこう呼んでいました。なにもない、ほんとになにもない荒野の中で、聞こえるのは風の音とみなの静かな話し声だけ。忙しく時間に追われ続けていた自分をとうに忘れてしまい、今をしっかりと感じ生きようとする自分に気が付き始めています。
 静かな晩、語り合える友、とても贅沢なことなのかもしれません。
デザートオアシス
病院
  浩がマラリアで入院したバマコ(マリ)の病院です。ハードなルートでGETしたバマコ、しかし、ここも疲れを癒せる場所ではありませんでした。この巨大な田舎街は、あまりに暑く設備が貧弱でした。街の喧噪、うだる暑さ、そして眠れない夜、このような状況が続けば当然体力が落ちてきます・・・ 待っていたのは「マラリア」でした。
 『風邪のひどいのや!』とは浩の弁。
 強烈な下痢と高熱が続き結局三日間入院の後退院しました。
 黄金の都「トンブクトゥー」 古のサハラ交易中心地トンブクトゥーも今は、砂に埋もれるただの田舎街です。探検家の家を巡るよりも、四つあるモスクをのぞくよりも、陽気なガイドたちと過ごす時間は面白いものでした。中央が、ゲルバの雇った「アレックス」君。彼はバマコからブルキナファソ国境まで一緒でした。現地語・仏語・英語を自由にしゃべり、時には料理を手伝い、またある時は私たちのオーダーのために現地の人との交渉にも時間を割いてくれました。街を歩くと幾人もの‘自称ガイド’が近づいてきますが、彼がいれば大丈夫です。このような国を旅するためには、確実なガイドを雇うのが良いのかも知れません。
トンプクトゥー
ジェンネ
ジェンネ(社長)
 世界文化遺産の一つである「ジェンネの泥でできたモスク」です。ここはモスク自体ももちろんですが、前の空き地で開かれる「月曜市」が有名です。西アフリカはどこでもそうですが、「マーケットマミー」と呼ばれる買い物おばさんたちが(売り手も買い手も)、原色の衣服を纏いマルシェ(市場)に繰り出してきます。そのパワーの凄いことと言ったら・・・  定価や物価水準のわからない私たちはずいぶんカモにされていたことだと思います。しかし、マルシェは活気があって面白かったですね。でも、ここらへんはとっても貧しいあたりで、野菜は「馬鈴薯・玉葱・人参」ぐらいしかありません、運がいいと胡瓜やトマト・ピーマンが手に入ったりします。また、そのいずれもが大きさは不揃いで超ミニサイズです。けど、地面から必死で栄養をもぎ取り水分を集めたこれらの野菜は、形が良くて揃っている日本の野菜などとは較べものにならないくらい味が濃くて美味しいのです。そういえば馬鈴薯もトマトも南米のアンデス山脈が原産だといいます。きっと厳しい環境下で育てるからこそその本来の味が出るのかもしれません。実は、人間も同じで、ぬるま湯の中で依存的に生きていると本来の自分を見つけることができないのかもしれませんね。
 右の写真は、同じ時期に丁度西アフリカを訪れていた道祖神のツアーの人たちとの記念写真です。「道」の字の上の人が熊沢社長です。後は私たちと一行の2名様ですが、汚い私たちに較べて、まだアフリカに来て間もない方々の小綺麗なこと・・・・・!? 泥のモスクが目の前に見えるレストランの中庭で撮りました。
ドゴン

ドゴンの村でのお休みは民家の屋根の上
 マリのバンディアガラ山地に住むドゴン族は、独自の神話体系を持っている民族として有名です。この神話の世界を訪ねるために、私たちもゲルトラを離れ2泊3日の予定でトレッキングを行いました。バマコで体力をかなり落としていましたから、暑さ40℃を越える気温と500mの高低差が心配でしたが、気合い一発、先頭グループに黙々とついていくという作戦を採り無事、ドゴン谷を降りることができました。
 昼頃に着いた私たちは少しの休憩の後、馬車に揺られ隣の村へ、そこにはピグミーハウスと呼ばれる山壁にへばりついた住居が無数にありました。今は、壁をおりて平地で暮らしている彼らも昔は、外的に侵略を繰り返され、身を守るために自らの民族を守るために、こんなに高くて不便な崖の上に住んでいたのです。
 しかし、侵略という言葉を使うことはなくとも、現在では文明という名の異文化の象徴が彼らの伝統的な文化・文明の体系を蝕んでいるような気がしてなりません。あまりに素早く文明が入り込むと、それまで培われてきた文化は脆く捨て去られることもあるのだと思いました。自分たちは決して飲むことはないだろう、コカコーラやファンタが売られ、ランドクルーザーが馬車にクラクションを鳴らしている光景を見ていると、文化と文明の両立の難しさを痛感しました。私たちは気ままな旅行者なのです。彼らの伝統文化を鑑賞することは許されても批判したり、干渉したりすることはできないはずです。でも、そこに文明が入り込み、貨幣経済が浸透してきだすと、文化を売り物にすることがでてくるのだと思います。文化とは関係のないところで文明のために利用されている民族の伝統、ドゴン訪問は複雑な気持ちの中で終わりました。
仮面ダンス

ドゴンの仮面ダンス
激しい動きと特異な衣装が目をひきます

しかし・・・
 一人につき10,000CFA(約2,500円)の
観覧料が必要である
  ドゴンを抜けて南下すると、そこはブルキナファソです。私たちはこの小さな国を3泊4日で駆け抜けました。途中のワガドゥグでは久々のリゾートタイム、ひがな一日中のんびり過ごしていました。美味しい中華料理店もあり、マリで疲れた身体と心と癒すことができました。写真はすっかり仲良くなってしまったホテルのボーイさんとアフリカカップのTシャツの説明を受けながら撮りました。
ワガドゥグ
ガーナ
ガーナ
 さらに南下するとガーナに入ります。初めての英米文化圏です。言葉が英語にかわりどこか自由な雰囲気が漂います。また、暑くなってくるのもこのあたりからです。今までも暑かったけれど、湿気はそうなかったのでなんとかなりましたが、北緯8°線を越し熱帯雨林地区に入ると、日本の梅雨状態、じっとしていても汗がとめどもなく流れます。この中で、火をおこし料理を作らなければなりませんし、寝なければなりません。自分の体力がどんどん消費されていることがわかります。ミネラルウォータは手離せないものになり、ファンアイスやコーラーで身体をクールダウンしながら行動しないとどうしようもありません。また、この時期は乾期にあたりたまにキャンプ場についても断水が多くて水をたっぷりと使うということはまずできませんでした。
 暑いと言えば人もとっても熱いのがガーナです。ゲルトラが停まると写真のように子供たちがワーっと寄ってきます。そのどれもこれもが素晴らしく輝いた顔をしています。日本にいるような色白い白けたような顔をしたモヤシのような子供はここにはいません。あまり、人との写真は、撮らない私ですが、彼らの中に収まってしまいました。しかし、私の笑顔はぎこちない・・・


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