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ガンバリましょう! 不自由な者同志 北支部 倉原 タカ |
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今振り返ってみると、右半身は動かないし、口はきけないし、自分の名前はもちろん、 住所もわからない、自分が情けなくて涙がでて、泣いてばかりいました。 幸いにして、長男が、名古屋の福祉大学を卒業して、 その方面の仕事をしていましたので、大助かりでした。 入院中は、医者の言うことを良く聞き実行すること。 そして、リハビリの先生の言うことも実行して欲しい。 「つらいだろうが、毎日の積み重ねが、手足を元通りにしてくれるからね」と、言ってくれました。 その効果があったのか、半年後には杖を使わずに歩けるようになり、 手足のしびれが少しは良くなり、まがいなりのも字が書けるようになりました。 今では、一通りのことはできるようになり、主人も、子供も、ひと安心と思います。 さて、話は変わりますが、北保健所に来られる人が、案外明るく振る舞って おられるので、嬉しくなりました。 春がそこまできています。 春うらら 飛んでいきたい 未知の里 |
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1994年4月、朝食が終わり出勤しようとしたその瞬間母が倒れた。呼吸や心拍に異常はないものの、 呼名反応なく脳出血か梗塞の可能性が考えられ救急搬送、近隣の病院でレントンゲンを撮るも重傷の 判断、再び救急車で脳外科専門病院へ搬送。CTスキャンし「脳内出血」の診断。この頃には、意識な くICU(術後集中管理室)のベッドで点滴を受けただ寝ている状態。 数日後、血を抜く手術を実施。手術は成功するも後遺症は避けられないと医師より話を受ける。さら に数日後ICUを出て、一般病棟へ。意識は戻っているが、話は噛み合わない。しかし、その後PT(理 学療法士)・ST(言語療法士)の訓練を連日受け、日に日に機能回復していった。三ヶ月を待たずして ほぼ機能回復、担当ドクターも驚くほどの快復ぶりであったという。この後、家庭へ戻るためのリハビリ を老健施設や長期療養型病院で受け、2年あまりの闘病生活に終止符を打ち家に戻ることができた。 正直言って、「覚悟した」 これは父はもちろんのこと弟も一緒だったと思います。 母が「大助かり」と記述しているが、大したことはしていません。 ただ、父や弟には「母は、病気ではないので完治することはない。障害を伴ってでも家に戻ってこら れるように待っていよう」とだけ言っていました。心配でたまらない母を、家族が待っていたというのは 入院して一生懸命リハビリに励んでいる本人にとって大きなモチベーションとなったと思います。 4年たった今母は、一人で病院に行き、買い物をし、料理・洗濯をして、私たち3人の帰りを待ってい ます。数々の講座に通い、家族中で一番の社交家なのかもしれません。来年はハワイにいくのだと張り 切っています。 この経験は、机上でしか家族の気持ちを知ることができなかった私にとっては衝撃的な体験でした。 しかし、母と父と弟と共に闘った2年あまりの闘病生活は、まぎれもなく今の私の考え方の礎になってい ます。 |
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