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エヴァンゲリオンと私




ふしぎの海のナディアを見終えて/1991年春
終章 庵野さんのことが好きだったんだよね/1997年秋
後書き 予定/1998年早春

序:ふしぎの海のナディアを見終えて/1991年春

 「ジャンはいまでも発明に没頭し、ナディアは相変わらず肉や魚を食べません。」

 わたしが、あのエピローグのもつ意味に気付いたのはごく最近のことだ。それは、今でもアニメを作り続ける、そしてベジタリアンである庵野監督の姿そのものなのである。そのことに気付いたとき、氏は本当に自分のすべてをこの作品にたたき込んだのだなと、わたしは深い感銘をおぼえた。

 そして、そのように自分をさらけ出したからこそ、「ナディア」の登場人物はリアリティを獲得したと言えよう。例えば、「ナディアのわがままはなおり、肉や魚も食べれるようになりました」という結末は確かに分かりやすいかもしれない。しかし、それよりも「ナディアは結局、肉や魚を食べることはできなかったけれども、他人の価値観を許容することはできるようになった」と示したあのラストのほうが、どんなにリアリティと説得力をもって人間というものを語っていることか。

 また、この監督の人生観や世界観を作品に込めて行こうとする姿勢は、キャラクターの造形面にとどまらず、大はテーマから、小はパロディを含めた細かな設定の数々に至る作品のあらゆる面に見られる。スタッフはそこに自分たちを育んだ時代の価値観、その中で何を感じ、何に悩みながら生きて来たのか、そんな思いを注ぎ込んだのだろう。(その意味で「ナディア」という作品は、“アニメブーム”を支えた世代が、初めて自分たちについて語ったTVアニメだったのではないだろうか?)

 このように「ナディア」という作品は、作者の人生観や世界観を大いに反映した作品であった。そしてそれ故に、「生きて行くうえで大切なものは何か?」という、ある意味ではありふれたテーマを切実なものとして描き得たのである。「ナディア」がファン好みの要素を単に羅列しただけの凡百の作品と一線を画する点はそこにある。

 「ナディア」という作品は、確かにシリーズとしての完成度は高いとは言えない。しかし、その志の前には、それらのことはほんの些細なことに思えてしまうのである。庵野監督の次回作に期待したい。

P.S. 「ナディア」におけるパロディーを単なるスタッフの自己満足と解する人が多いが、わたしはそんなに単純なものであったとは思わない。それは古典を引用することにより、かつてのアニメが持っていた面白さを掘り起こそうとする作業であったのではないのか。(そもそも、ナディアという作品全体が、日本のTVアニメが30年の間に培って来たあらゆるパターンの集大成なのである。)

 実際、多くの年少の視聴者はパロディの原典を知らないのだから、それらの描写を彼らは原体験として受け止めたのではないだろうか。 わたしはこの「ナディア」のパロディは、アニメに活力を取り戻すための意義ある試みであったと思う。

(当時、某アニメ誌読者欄に投稿した駄文)


終章:庵野さんのことが好きだったんだよね/1997年秋

「【ジャンにナディアに向けた銃を撃たせなかった理由について】もし、僕が戦争にかり出されたとしても、戦艦で艦砲射撃とか飛行機で爆弾を落として帰ってくるとか、そういう事なら出来ると思うんです。(中略)ただ、目の前に人がいてそれを撃つということはできそうもないんです。そこまでの勇気は持てない自分が描けるのはあそこまででしょうね。魚雷戦とかは描けても、白兵戦はまだできないですね。」

「『ナディア』では人の死に関することは気を付けて描いているはずです。人を殺すような行為をした人間はそれなりの扱いをしているはずですし、自殺は否定しているはずです。子どもに見せるものだからこそ、そういうところはとくに気を付けなくちゃいけないと思うんです。」

【ロマンアルバム ふしぎの海のナディア(徳間書店 1991年7月30日初版発行)「庵野秀明総監督 ロングインタビュー」44頁より引用】


私はこの頃の庵野さんが好きでした。作品のクオリティとは別の次元で、作品づくりに対する姿勢に好感を持っていたのです。上記の発言は、好印象を抱いたきっかけのひとつ。

だから、シンジがアスカの首を絞めた時(部屋の中のシーンにおけるそれも含めて)のショックってのは、私にとっては劇中の登場人物に対する思い入れから発生するものというよりも、むしろ庵野さんが「子供に見せるもの」の中で、主人公に首を絞めさせたという事実に対する驚きでした。

そして、私は「ああ、あの頃の”私の好きだった”庵野さんはもういないのだな」と理解したのです。あの頃の庵野さんとは違うことは、彼が自殺未遂を起こしたという話を読んだ時点で感じてはいたんですけどね。いや、それがいけないことだと云っているわけではありません。ただ、「私の好きだった庵野さんはもういないのだなあ」という、喪失感というかなんというか。まあ、人は変わっていくものですし、私が勝手に好きになってただけのことですから仕方がないんですけど。

んー、結局「期待を裏切られた」って感じなんでしょうね。「僕の気持ちを裏切ったな!」っていうか(笑)。(一ファンの気持ちなんて庵野さんにとっては関係ないことは、勿論承知してますよ。)

「あと5年たてばぼくは『ナディア』より5年分未来の話を作れるようになっているはずです。それから、次に新しい作品を作るためには、『ナディア』を過去のものとして否定しなくてはならないはずなんです。そうしないとあそこから一歩も出られませんから。(中略)あれよりおもしろいものを作るには、もう少し未来を見て作らなくてはならないんです。」

【徳間書店 ロマンアルバム ふしぎの海のナディア(1991年7月30日初版発行)「庵野秀明総監督 ロングインタビュー」46頁より引用】

そのまさに5年後に、同じ人物が

「14歳の少年を演じられるくらい僕は幼いんです。」

【太田出版 QuickJapan VOL.9「謎のロボットアニメ『エヴァンゲリオン』とは何か?」/156頁より引用)】

と発言することになるとは思わなかった、そうあってほしくなかったという想いがあるわけです。

「トップをねらえ!」や「ナディア」のあの前向きさに惚れ込んで、同時に前向きに生きていこうとしていたあの頃の庵野さんにも惚れ込んで、私はその言葉に期待していたのです。