★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★  [Renewal:1999.07. 09]  ★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


シェルドン・・・・・・・・ 忘れ得ぬその名


人の創造力を喚起する為に

ロータリーにスローガンをもたらした人

ジョン O. ナットソン(ロータリアン誌1955年3月号)





この小文は、『ザ・ロー夕リアン』1955年3月号所載の「SHELDON・・・ a Name to Remember」を訳したものです。
アイオワ州スー・シティー・ロータリークラブのロー夕リアン、ジョン O.ナット ソンが、リーランドD.ケース(『ザ・ロータリアン』の元編集長)に口述したもの です。ナットソンの職業分類も年齢も不詳です。
文中に、1906年にシェルドン・スクールの塾生になり1908年にはシェルドン のために職業科学クラブを創ったとあることから推測すると、1955年には80歳 に近かったと思われます。彼は『ザ・ロー夕リアン』の1937年2月号にシェルド ンの訃を報ずる短い追悼文を寄せています。

訳:神崎正陳会員(第2780地区 1994〜95年度P.G.)


職業は社会の最良の利益に奉仕しようという願望

ロータリアンの皆さん、私のうぬぼれを大目に見てください。私は幸せ者です。長い人生の間にかかわりのあった、多くの友人たちの中に、次の三人を挙げることができるのですから。

【ポール・ハリス】
もの腰の柔らかなシカゴの弁護士、1905年に最初のロータリークラブを創った 人。

【チェスリーR.ペリー】
ロータリーの事務総長を長く務め、1942年に称賛をあびながら引退した人。
そして、"アーサー・フレデリック・シェルドン"です。
ポールやチェスについては、国際ロータリーが、その偉大な50周年を祝賀している折から、本誌上(訳注1)でいろいろお読みになったことでしょう。

(訳注1)(原注)フレッド・ラインハルト「ロータリーをもたらした人:ポール・ハリス」、「チェス:ロータリーの施工者」。いずれも『The Rotarian』1955年2月号所載。

私はアーサー・フレデリック・シェルドンを、上の二人と同じように遇します。なぜならば、彼もまたロータリー運動に永遠に消し去ることのできない精神的な影響を残したのですから。
大柄の、たくましい人でした。思い切り左よりのところで髪を分け、豊かな髪が広い額にかかっていました。彼は、いつも人なつっこさを漂わせ、家族の人達もそうでした。
シェルドン夫人は才能豊かなピアニストで、アーサーはチェロを弾きました。それぞれに色々な楽器を演奏する子供さん達とファミリーオーケストラを編成していました。そのダイナミックなハーモニーは、シェルドンを特徴づけていた人間関係のハーモニーを象徴しているようでした。

今でも思い出します。アーサーの声は朗々としていて、彼がしゃべると人々は良識と博識と理想主義に裏付けられた彼の言葉に聞き惚れ、そして思いを巡らせたものでした。彼の理想主義は往時のフレンチ−インディアン戦争(1755〜1763年)に従軍した人もいる、ニューイングランドの祖先達から受け継いだのです。
1868年ミシガン州ヴァーノンに生を受けた彼は、ミシガン大学を卒業すると、当時の多くの学生と同様に、教育書を販売することによって生計を立てることにしました。
『幸せな家庭とそのつくり方』という表題の重い本を、彼はいつも用意していました。もし、ワイオミングの牧場主の家などでこの本を偶然に見つけたとしたら、あなたは、かってアーサーがたどった道に遭遇したのです。
彼は自転車を駆ってワイオミング州の人里離れた大草原で働く孤独な牧童達に情操を培う書物を売って回ったのでした。しかし、轍(ワダチ)は深く、丘は険しかったので、彼は自転車と多分その上に1〜2冊の本も加えて牧牛用の子馬と交換したこともありました。
彼の売り上げは上々だったので、1893年にワーナー商会は彼により有望なテリトリーを与え、百科事典を販売させました。6年後には彼はシカゴで自らの出版会社を経営するようになりました。そして、この会社は成功しました。
しかし、大学での理論上の心理学と、現場での実践的なそれとによって調和された彼の精神には、深遠な思想が醸成されつつあったのです。

その思想は、商人が日常「買い主注意せよ(訳注2)」の原則にしたがって事業を管理し、商売上の賄賂(ワイロ)のやり取りが横行していたというような時代においては、未聞の考え方でした。

(訳注2)原文はこの部分では英語(let the buyer beware)、後に出てくるチェスリー・ペリーのスピーチの部分ではラテン語(caveat emptor)で表記されている。
売買のような単純な商取引においてさえ商人は相手をだまして粗悪な商品を売りつける事が、日常茶飯事であった頃の買い主の心得を示す言葉(小堀憲助氏の訳を使わせて頂いた。ポール・ハリス『ロータリーの理想と友愛』の原文にも同じラテン語が使われているが米山梅吉氏はこれを「消費者は自ら守れ」と訳しておられる)

というのは、アーサーは利益というものは利己主義よりも深い人間性に根差した目的と結びつくべきだと信じたのですから。
彼は、職業は社会の最良の利益に奉仕しようという願望にほかならないという新たな強調を必要としていることを確信したのでした。商人が、この原理を適用すれば彼は利益を得るでしょう。これらのことは1902年に彼がシカゴに設立した"シェルドン式販売学専門学校"で教えてきた考え方であったのです。


シェルドンとポール・ハリスの出会い

ちょうど、同じ場所、同じ時期に、ポール・ハリスがいました。彼もまた無情な商業主義と膨張を続ける大都市の生活の没人間性に対して反抗していました。
生活が友情と融合されるようにしようという信念を実践する為に、ポールは1905年2月23日に数人の友達を集めました。このようにして最初のロータリークラブが緒についたのです。
古老たちの中には、メンバー同士がお互いに商売をすることが支配的な様相であったと主張する人もいます。多分そうだったかもしれません。
しかし、ポール・ハリスの著書(訳注3)やスピーチによれば、彼がロータリーの草創期から会員間の経済的相互扶助や遊興的親睦に満足していなかったことは疑いの余地のないところです。彼はロータリーは何かもっと他の意義を持つと感じていたのです。

(訳注3)前述『ロータリーの理想と友愛』第6章等参照。

彼が、いつアーサー・フレデリック・シェルドンと会ったかについては記録がありません。1905年か1906年であったかもしれませんが、確かに言えることは1907年より遅くはないということです。なぜかといえば、1908年1月にアーサーは世界で唯一のロータリークラブの会員になったからです。
二人とも、いかに急速に友情が深まったかについて話してくれました。混雑して荒々しくて騒々しい町で彼らは善きことを為すために大学で訓練された若者でした。
ポールは大理石の販売員をしたことがあり、商取引について、これを正当化するアーサーの哲学理論に敏速に共感を寄せ、そしてその中に彼が注意深く探し求めていた理想主義を見つけたのです。
「シェルドンは私たちの仲間にうってつけの人だった」。ポールは、彼の没後に出版された『ロータリーへの私の道』の中で書いています。
「彼は販売技術の学校を創立したが、その理念は・・・"職業の成功は奉仕を与えるか否かにかかっている。そして職業というものは、それにかかわるすべての当事者が、その取引によって利益を得るものでなければ正当化されない"・・・というものだった。
シェルドン博士は職業における私たちの奉仕の責務について、よりはっきりと理解を得させてくれた。
私たちは "最もよく奉仕する者、最も多く報いられる" というスローガンをもたらしてくれたことに対し彼に感謝しなければならない(訳注4)」

(訳注4)ポール・ハリス『抜粋・ロータリーへの私の道』P40〜65、『My Road to Rotary』P.233.P.251に同旨の記述がある。


最も高度な職業水準の設立

1916年から<超我の奉仕>と一対になったこのスローガンは、実に感謝に値するものでした。


この言葉は、ミネソタ州セントポールの床屋で蒸しタオルが顔にかかっている間に思いついたのだとアーサーが言っていたとチェスリー・ペリーは回想しています。
しかし、このスローガンの底辺に広がる思想は、アーサーがワイオミングの平原を自転車のペダルを踏んで書籍の行商をしている間に蓄積した彼の新約聖書や古典に対する思慮深い学識によって醸成されたものだと私は思いたいのです。
彼がこの言葉を最初に表明したのは、いつだったのでしょうか。シェルドン・スクールの塾生との雑談の中であったかもしれません。
私は彼の販売技術コースの名簿に登録された人たちに送られるハンドブックに印刷されていたような気もするのです。しかしロータリーの後援のもとに彼が最初にこの原理を発表した時期については疑いの余地がありません。
それは1910年のことでした。友情に満ちてはいたものの、根気強いポール・ハリスの勧誘によって、シカゴ・ロータリークラブは15の子クラブをつくっていました。
シカゴで開かれたロータリー(全米ロータリークラブ連合会)の最初の大会に参加するため13のクラブが代議員を送り込みました。29人の代議員がチェスリー・ペリーを議長に選出し、チェスはその会議で話し始めました。
「私たちは、世界人類のために、為さねばならぬ事業において、私たちの役割を喜んで果たすべくここに集まっているのです。それは、市民の道徳的向上に大いに貢献し、最高度の職業水準の確立に努力することなのです。ロータリーは、すでに驚異的な勢力ですが、その未来の発展を予言することはだれにもできません」
ところが、ニューヨークのダニエルL.ケーディ(訳注5)が、このチェスの言葉に挑戦しました。ビスマルク・ビアガーデンにおける野外の晩餐会の最中に、彼は「80年以内にロータリーは世界に拡大されるだけでなく1000クラブになるだろう」と予言したのでした。
誰もがまさかと思うような数字、それがわずか11年後に達成されてしまったのでした。

(訳注5)ニューヨーク州の弁護士でこの大会の代議員。ウィリアム・ジェニングス・プライアン一門の雄弁家の一人だった。ロータリーについても優れた理論提唱をした(Oren Arnold "The Golden Strand" P.39)


経営の科学は人間的な奉仕の科学

チェスは、ポール・ハリスによって力説された理想主義的な考え方を反映させながら、さらに話を続けました。
「職業と兄弟愛は一体となるでしょう。"買い主注意せよ"という言葉を追放しましょう!シカゴの町は、農村地帯が雨を欲するのと同じくらい正義を渇望しているのです。皆さんが健康でありすぎるということがないのと同様に、役に立ちすぎるということもないのです。皆さんの職業を良心をもってしっかり調整しましょう。皆さんの優れた頭脳に少量の愛情を加味しましょう。」
あのテーマは、著名なコングレス・ホテルの黄金の間における最後の宴会において、アーサー・フレデリック・シェルドンによって雄弁の極致に導かれたのでした。

彼は、こう語りました。「20世紀の曙の光の中に立つことが出来るということは、真に喜ばしい特権であります。新世紀の上に知恵の光明が照り始めています。20世紀におけるこの商業主義の特徴的な指標は協調することでなければなりません。なぜならば、知恵の光明に照らされることによって、人は他者に対する正しい経営の科学のみが引き合うのだということを理解するに至るのです。人は、経営の科学は人間的な奉仕の科学だということを理解するに至るのです。人は、仲間に最も良く奉仕する者は、最も多く報いられるということを理解するに至るのです。」

宴会参列者たちは持っていたスプーンを取り落とし万歳をもってこの言葉を歓呼で迎えたでしょうか。そうではありませんでした。
シェルドンは、あの蒸し暑い8月の夜(訳注6)の16人の講演者の中の1人でしかありませんでした。ジュピターですら、しくじることあり(訳注7)。

(訳注6)1910年から1913年までは、ロータリーの大会はロータリー年度の初期の8月に開催された。

(訳注7)「弘法も筆の誤り」に類した英文の言い回し。当然称賛を受けてしかるべき1910年のスピーチが、大きな反響を呼ばなかったことを、ジュピターのしくじりに例えた。

しかし慎重になったジュピターはシアトルの材木商ジム・ビンカムに姿を変えて1年後のオレゴン州ポートランドで開かれたロータリーの第2回大会に出席したのです。
ジムは、新任の企業経営問題検討委員会の委員長のアーサー・フレデリック・シェルドンによって書かれた委員会報告書を幹事のチェスリー・ペリーが朗読するのを熱心に聴きました。
報告書の中の「最もよく奉仕する者、最も多く報いられる!」という言葉を聞いたとき、ジムは躍り上がったのでした。
そして彼は主張しました。「ロータリアンは黄金律(訳注8)や商業上の悪弊(訳注9)について多くを語ってきました。ロータリアンが探し求めてきたものはこれです。6つの単語からなる実証的な格言、この言葉はロータリーが発行する "ロータリー宣言(訳注10)"に入れられるべきです。」
大会参加者たちは、爆発的な拍手をもって彼の発言に同意したのでした。

(訳注8)黄金律:新約聖書マタイ伝第7章第12節「さらば凡て人に為られんと思ふことは、人にも亦その如くせよ。これは律法なり、預言者なり」のことをいう。
米山梅吉氏は己の欲せざるところ人に施す勿れ」という論語の言葉をよく引用した。

(訳注9)商業上の悪弊:上記の「買い主注意せよ」等に象徴される当時の非倫理的商慣行を指す。

(訳注10)The Rotary Platform ロータリーの理念を簡潔にまとめた綱領的文章。ジム・ピンカムが起草した。
彼はこの大会の決議委員会の委員長であった。『ロータリー通解』に全文が収録されている。

これが起こったことのあらましです。
今振り返って、私はあの瞬間がロータリーの発展において決定的瞬間であったと思わざるを得ません。私たちが読んで知っている旧約聖書のイザヤ書に「声聞こゆ云く、呼ばはれ、答へていふ、何と呼ばはるべきか(訳注11)」とあるのを思い起こしてください。

(訳注11)旧約聖書イザヤ書第40章第6−8節に次の記載がある。「声きこゆ日く、よばはれ、答へていふ何と呼ばはるべきか、いはく人はみな草なり、その栄華は、すべて野の花のごとし、草はかれ花はしぼむ、エホバの息そのうへに吹きければなり、実に民は草なり、草はかれ花はしぼむ、然どわれらの神のことばは永遠にたたん。」

ロータリーは、「呼ばはるべきもの」・・・スローガン・・・を探し求めてきたのです。それが、その時そこにあったのです。
1916年以来<超我の奉仕>によって敷衍(フエン)され、スローガンはロータリーのモットーとして受け入れられ、競合同業者、雇用者・被雇用者そして国際的商業問題という「荒野」の中を騎兵隊の三角旗(訳注12)さながら、ロータリアンを先導しているのです。

(訳注12)guidon 軍隊用語で騎兵隊の旗手が持つ小旗または吹き流し。隊の行進の指標ということから、一般の集団的行動の標識の意にも使われる。



xxxxxxxxxxxxxxxxxx 【 後 編 】 xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx


倫理訓の起草


「最もよく奉仕する者、最も多く報いられる」このスローガンがロータリーのモットーとして受け入れられ、ロータリアンを先導しているということについて、私は次のような事実を示すことができます。
1913年のことです。ラッセル F.グレイナー会長は、ロータリーのための倫理訓を起草することを命じました。彼は、アイオワ州スー・シティのロバート(ボブ)W.ハントに、この委員会を率いる代表になることを求めました。
その年の冬の終わりから1914年の春にかけて、ボブ・ハント、J.R.パーキンス牧師、そして、そのほか私たちスー・シティ・クラブの何人かは、調査、記録、討論、起草の試行錯誤に楽しい多くの日々を費やしました。
そして、6月14日のヒューストン大会がやってきました。私たちスー・シティ代表団が出発の準備をしている時に、委員長のボブ・ハントが、大会に出席で出来なくなったので、彼の委員会の仕事が私に回ってきたのです。
日曜日の朝、その時私たちはまだヒューストンから約4時間のところにいましたが、一緒に汽車に乗り込み、倫理訓に最後の筆を加えました。
私たちのグループは、ジェイク・パーキンス、トム・ハットン、ジム・ウイットモア、フランク・マーフィー博士、オーガスト・ウィリゲスと私でした。列車がヒューストン駅に入るまでに、その仕事は終わっていました。ホテルの速記者によって筆記され、倫理訓は翌日の大会で発表する準備が整いました。

倫理訓は、賛成と称賛を受けました。ところが、後で少し問題が出たので、次年度会長のフランク L.マルホランドは、翌1915年のサンフランシスコの大会に報告するように、別の委員会に命じました。
私たち「アイオワの仲間たち」がっくり上げたものと全く同一の文書(倫理訓)が委員会から提出されました。ジェイク・パーキンスと私は、会議場の後ろの方に座っていましたが、代議員たちが立ち上がって熱中して大声を上げて、私たちの「ロータリー倫理訓」 を採択した時のことを、決して忘れることは出来ません。


同業者団体への大使

今は、すっかり忘れられ、隅に、それも大抵は年輩のロータリアンの事務所で見られるだけになりましたが、倫理訓は予想外の後日談をもたらしました。
後に国際ロータリーの会長になった、フィラデルフィアのレストラン経営者ガイ・ガンデーカーが、あの(倫理訓が採択された)1915年のサンフランシスコの大会で、一 つのアイデアに火を付けたからです。
そのアイデアとは、一人ひとりのロータリアンは、私たちが倫理訓において発展させた、アーサー・フレデリック・シェルドンの奉仕の概念を、教え込まれるべきであり、そうすることによって「同業者団体への大使」になるというものでした。

ガイは、彼の属するレストラン協会を説得して、倫理訓を採用させました。そして、1年も経たないうちに、四つの他の職業団体が同じように倫理訓を採用しました。
また、1921年から1933年の間に、主としてロータリアンである会員の影響力を通して、合衆国内の300以上の職業人あるいは専門職業人の協会が、倫理訓を制定したということが記録されています。

倫理訓は、廃れてしまったように見えるかもしれません。しかし「利益を得たいという動機と奉仕の精神とは調和させることができる」というシェルドンの考え方が、ロータリーのいわゆる職業奉仕を発酵させ続けてきました。
典型的な例は、国際ロータリーが12万5000部以上発行した『奉仕こそわがつとめ』という小冊子です。
またロータリーが広く流布させた「4つのテスト」について思いをいたすとき、私はシェルドン博士が「売り主のためになるのと同様に、買い主のためにもなるのでなければ、その取引は無益なものです」と言っていたころのことを思い起こすのです。


ロータリーで生き続ける

ポール・ハリスだけが、ロータリーの運命を、シェルドンの強力な影響力の下に入れるようにしたのではありません。
幹事(1913年から事務総長)のチェスリー・ペリーは、シェルドンの門下生の一人でしたし、初代の第一副会長ロバート・ロイ・デニーもそうでした。シェルドン・スクールは、合衆国と同様、英国や英連邦諸国で25万人もの人々が名簿に載っていたと言われています。
彼らはロータリー葡萄園(訳注1)で働くために、理想主義によって訓練された人たちでした。

(訳注1)ロータリークラブを葡萄園にたとえている。聖書では、葡萄園は約束の地の象徴。
例えば、「皆その葡萄の樹の下に坐しその無花果樹の下に居らん之を懼れしむる者なかるべし」(旧約聖書ミカ書第4章第4節)、「我は真の葡萄の樹、わが父は農夫なり」(新約聖書ヨハネ伝第15章第1節)など。


私は、あの人…シェルドンから受けた恩義に対し謹んで謝意を表するものです。
1906年の昔、私にとってあまりにも大きすぎた仕事を維持しようと試みていたころのことですが、私はシェルドンの広告を偶然のことから見つけ、684番の塾生として入会しました。入会金10ドル、月謝5ドルで、6ヵ月の問にポケットサイズの40冊の教材を受け取りました。
2年後に私は2週間ほどかけて、私の先生(シェルドン)と職員と一緒に、15エーカーの湖のある美しい農場を見に行ったことがあります。
そこはエバンストンにある新しいロータリーの本部から北西に20マイルほど離れた所でした。
シェルドンは、そこに職業総合大学のキャンパスをつくることを望んでいたのでした。しかし、その計画は彼の健康不調のために日の目を見るにいたりませんでした。
シェルドンは、1935年にテキサス州のミッションで亡くなり、ニューヨーク州のキングストン(訳注2)に葬られました。彼は67歳の生涯において、彼の思想が他の人たちに影響を与えたことを知るという、一教師として得ることのできる最も高価な報酬を得たのでした。
私と同世代の多くの指導的立場の職業人が、青年時代に彼の指導を受けました。

(訳注2)ニューヨーク市北方百数十キロ、ハドソン川沿岸の小都市。
かっては鉱石の搬出港として栄えたという。シェルドン夫人アンナ・グリフィスの出生地。シェルドン夫妻の墓は、この町の南部のモントリポーズ・セミトリーにある。
シェルドンの墓碑には、生年1868年5月1日、没年1935年12月21日、経営の科学者、著述家、講演者と刻まれている。


しかし、彼の影響力が最も長く生き続けたのはロータリーを通してでした。
1908年に私が初めて彼を訪ねた時には、恐らく彼は、このこと(彼の思想とロータリーとの関係)に気付いていたのでしょう。彼は入会したばかりのロータリーと呼ばれる職業人のクラブについて、さらにそのクラブの創立者であるポール・ハリスと話し合うことを通じて、いかに彼(シェルドン)の奉仕についての考え方が、この新しい組織の中に浸透させられつつあるかについて、私に話してくれました。
私はこの目で、どのように自然に、シェルドン・スクールが、ロータリーを育てたかを見ることができました。なぜなら、私は、1908年と1909年にシェルドンのためにアイオワ州のデ・モインとネブラスカ州のオマハに、2つの職業科学クラブ(business science clubs)を組織したことがありましたが、1年も経たないうちにそれらはロータリークラブになりました。
シェルドン自身も、ロンドン、そしてマンチェスターに、イギリスで最初のロータリークラブを発足させています。
しかし、彼のロータリーに対する最大の貢献は、表面的な記録の中にあるのではありません。それは彼が言葉に置き換え、人々の心に植え付けた発想の中にあるのです。つまり、「人の事業・専門職務生活は、まさにその人の在るがままの表現である」。また「人は物質的な利得が、相手に与えた奉仕に釣り合っているときにのみ、人生の真の意味の価値において豊かになり得るのである」という考え方なのです。



1952年のメモリアルデー(5月30日)にシェルドンの墓前に花輪を捧げる、キングストンRCの会員たち(^-^)/~

(ロータリーの友1999/01&02月号より転記)





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