新潟地震の話 |
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特に新潟地震をしらない若い方たちへ |
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1964年6月16日午後1時2分。当時、関東大震災以来の規模といわれ、新潟の人々と街に鮮明な記憶を焼き付け、深い爪痕を残した新潟地震が起きました。 | |||||
当時、幼稚園の年中組だった私は、大きくゆれる蛍光灯と、「早く机の下へ!!」と叫ぶ先生の姿を、いまだにはっきりと憶えています。所々陥没した、有明線(現国道402号線)を歩いて家へ帰り、昭和石油のタンクから火山が爆発したような黒煙は立ち上るのみながら、祖母に連れられて松林へ避難したのも憶えています。 | |||||
あれから、30数年の時が流れ、いまでは40歳以上の人でないと体験の記憶が無いでしょう。そして、その記憶も年を重ねるにつれて、だんだんと薄らいでいきます。 | |||||
あまりにも刺激の多い最近の世の中で、30年以上も過去の地震が、マスコミにとりあげられる回数、量とも、年々減ってきているような気がします。小学校で毎月16日に行っていた避難訓練は今でも続いているのでしょうか。 | |||||
ここに、父が地震発生後に撮影した写真があります。また、当時の思いでを身近な人々に聞いてみました。 | |||||
天災は忘れた頃にやってくる |
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父の体験談 新潟工業高校(当時は浜浦校舎)で昼休み中に被災。 | |||||
廊下で生徒と立ち話をしていたところ、いきなりグラグラと凄い揺れがきた。慌てて中庭に飛び出して松の木につかまった。大雨が降ったような凄い音で、講堂の窓ガラスが一斉に鳴った。建物が倒れそうなくらい大きく揺れた。 教職員、生徒全員がグラウンドに集合したが、幸い生徒にも学校にも特に目立った被害が無かったので、生徒たちを帰宅させた。山の下の方にものすごい煙が上がるのが見えたのは、地震後まもなくだった。 自宅(現在の関屋堀割町)へ戻ってみると、学校から自宅までの間は全く被害が見あたらなかったのに、自宅の所だけ断層がずれて家が傾いていた。 |
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その日の内に自転車で赤坂町の(父の)実家へ行き、栄小学校に避難していた祖母(父の母)をつれて帰ってきた。下(しも)のあたり一帯は、その時すでに膝くらいまで水がでて、床下浸水の状態だった。下町の浸水は、地震後丸一日ぐらいがピークだったらしい。ただ完全にひくまでは一ヶ月近くかかった。水が引いた後の泥さらいが大変だった。 | |||||
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母の体験談 住友銀行古町支店で被災。 | |||||
ボーナス支給日の翌日だったので、末娘(当時1歳)を連れて古町の住友銀行へお金をおろしに行っていた。ソファーに腰を下ろした途端に揺れがきた。最初はソファーのクッションがいいせいで揺れているのかと思っていたら、周りの人たちがさわいでいるので地震だと気がついた。 隣にいたいい年のおじさんが、小さなテーブルに頭をつっこんで隠れたつもりになっているのがおかしかった。 地震直後に銀行の公衆電話から父のところへ電話をかけた。工業高校にいったんつながったが、取り次いでもらっているうちに切れてしまい、それっきりつながらなくなってしまった。 |
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