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木造校舎時代の有明台小学校全景 |
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昭和43年(1968年) 卒業アルバムより |
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関屋分水の東岸にある新潟市立有明台小学校は、私の母校です。 私が卒業したのが昭和47年の3月で、第17回生になるので、創立は昭和30年ということになります。浜浦小学校から分離して誕生しました。新潟市の宅地が郊外に広がって行くに連れて子供の数が増え、既存の小学校では収容しきれなくなってきたためでしょう。 兄、私、妹と、兄弟3人ともに有明台小学校へ通いました。私たちが通っていた時代は、生徒の急増、関屋分水工事、青山小学校の分離と、変化のめまぐるしい時代でした。
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木造校舎
私が通っていた当時は木造校舎で、第一校舎から第四校舎まであり、体育館も木造でした。体育館の先にある新校舎と呼ばれる建物だけが鉄筋コンクリートでした。 玄関の上は渡り廊下になっていて、第一校舎と第三、四校舎がつながっていて、第一校舎の図書館へ行く近道になっていました。 第二校舎と第三校舎の間には給食室と中庭があり、鯉の形をした噴水のある大きな池がありました。ここ卒業生たちがつくったいろいろな記念品があったのですが、残念なことに、現在の校舎に改築されるときに捨て去られてしまったようです。改築する人にとっては、ゴミと同じだったのでしょうか。 中庭には、噴水のある池のほかに観察池という1平方メートル位の小さな池が3つぐらいあって、よく児童がどこからかつかまえてきた得体のしれない生き物が入っていました。大きな雷魚がいた時もありました。 体育館の正面玄関側の上の方には校章が付いていて、なぜかいつもボールがはさまっていました。
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マンモス校
昭和46年(1971年)に、浦山地区、青山地区が青山小学校へ分離するまでは、児童数が1500人をはるかに超える市内有数のマンモス校でした。私が入学した昭和41年(1966年)には、全校児童数1703名40学級、うち1年生が295名でした。
そのため、教室が不足して、第三校舎と第四校舎の間にプレハブの校舎をつくったり、体育館の一部を仕切って臨時の教室にしていました。冬はさぞ寒かっただろうと思います。
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石炭ストーブ
冬の暖房は石炭ストーブでした。毎朝、用務員さんが火種を各教室のストーブへ入れてまわっていました。朝のうちは、なかなか教室が暖まらず、教室の後ろの方はずいぶん寒かった気がします。1クラスの使う一日の石炭の量は決まっていて、景気良くくべることは全くありませんでした。
ストーブの上には大きな薬缶がのせてあり、そのお湯を放課後の掃除で床の雑巾がけをするときに使いました。今では床の雑巾がけはほとんど死語でしょう。男の子も女の子も、両手で雑巾を押さえて四つん這いになって、教室や廊下を走りまわりました。掃除に使った雑巾を干して帰ると、翌朝はガチガチに凍るくらい冬は寒かったです。
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