有明台小学校正門(当時) |
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昭和47年(1972年) 卒業アルバムより |
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給食
私のいたころは、給食はすべて校内の給食室で作っていました。お昼になると、白い割烹着を着た給食当番が、給食室まで食器と給食を取りに行き、食後は食器や残飯を返しに行きました。パンは長方形の衣装ケースのような入れ物、おかずは大きなバケツの様な入れ物、ミルク(牛乳ではない)はポットのお化けのような入れ物に入っていました。食器も含めて、すべて金属で、ずいぶん年季の入ったものもありました。 主食のパンは、最初はコッペパンでした。堅くてパサパサしていて全部食べるのには苦労しました。後にソフト麺がでるようになったときは、みんな大喜びでした。米飯給食は私が卒業してからずっと後の話です。 最初、牛乳のかわりに、ポットのお化けのような入れ物に入ったミルクがでました。何ともいえない味でした。脱脂粉乳だったような気がします。コップではなくお椀で飲んでいたのですが、注いだ後に表面に幕のようなものが張り、これを嫌う子もいました。 病気になって休んだときは、家の近い同級生がコッペパンとマーガリンだけ届けてくれました。好きなおかずの日に休んだときは、ため息がでたものです。
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便所
トイレ、いや便所はすべて汲み取り式でした。奥に長く、薄暗くて本当にお化けがでてきそうでした。放課後は特にそうでした。 なぜか恥ずかしいという気がして、学校で大をする男子はいませんでした。どうしてもがまんができないときは、人気のないのを見計らってこっそりと用をたしていました。うっかり人に見付けられようものなら、たちまち大勢集まって来て大騒ぎになるからです。
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通学
当時、有明台小学校では、登校時に上級生がリーダーになった集団登校をしていました。子供が多かった時代なので同じ町内からいくつもグループができていました。男女は別々でした。集団登校をしなければならないという規則があったかどうかはわかりませんが、新一年生はみな、近くのグループに入れてもらっていたようです。
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有明台小学校の校歌は、今でも覚えています。
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あの頃は、明るい未来が待っていると、誰もが信じて疑わない時代でした。 |
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みんなどうしているのかなあ。
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