新潟まつりと商工祭の一口メモ

 
 
住吉祭はもともと下町の回線問屋網干屋が大阪の住吉神社からご神体を授かり屋敷神にしたが、地域住民からも信仰されるようになり、享保11年(1726年)の港の繁栄を祈って祭り行列を繰り出した。
江戸時代は「湊祭」とよばれ、町民の祭りとして賑わった。
明治5年に楠本正隆県令が「無駄な金は使うな」と中止させたが、22年の市制施行で一時復活し、新潟と沼垂が合併した大正3年には川開きとともに盛大に催された。
昭和12に日中戦争でとぎれるなど、火事、不景気、戦争などで中止と復活を繰り返した。
川開きは明治19年に初代万代橋が完成した際、八木朋直が「橋まつり」として花火を打ち上げたのが最初だった。
しかし、明治41年に新潟市が2回の大火にあった後、新潟川開き協賛会を結成して43年9月に万代橋下流の中州で花火大会を催したのが、今日のルーツとされる。
商工祭は、昭和4年8月13日に第1回が催され、8月23日の川開き当日の住吉祭みこし巡行に併せて企業や商店の宣伝山車を繰り出し、全市の小売り商店の連合大売り出しを行った。
開港記念祭の行事は、昭和5年10月19日に第一回を催した。
この時第2回商工祭を併祭している。記念日は明治元年11月19日だが、気候の関係で行事を一ヶ月繰り上げて実施し、その後は9月21日に変更した。
この4つの祭りは太平洋戦争後の昭和22年にそれぞれ復活したが、昭和30年に統合し、期日を8月22、23日に定着させた。
昭和30年(1955年)に住吉祭、川開き、商工祭、開港記念祭の4つの行事を統合して、県都を代表する「新潟まつり」が催されることになった。
まつりの運営主体は新潟まつり協賛会で、新潟市、新潟商工会議所、新潟青年会議所、新潟市漁業協同組合、新潟三業協同組合、白山神社、白山神社氏子が加わり、会長は新潟市長、実行委員長は新潟商工会議所会頭が兼ねた。
行事を一本化した理由は、それぞれの主催者が異なり、無駄な経費がかかったからで、ようやく官民合同の大イベントにすっきりまとまった。
民謡流しは新潟地震が起きた昭和39年に復興の心意気を示そうと実施し、踊りの輪が日本一の規模まで広がった。
万代太鼓の登場は昭和44年である。

(新潟商工会議所百年史より)

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