2001年奄美の旅1(2001.12.22 - 12.24)



12月22日(土)晴れ時々曇りところによってにわか雨

朝、余裕を持って早起きし、羽田空港へ。
今まで飛行機といえばもっぱら日本航空(JAL)か日本トランスオーシャン(JTA)、たまに全日空(ANA)だったので、日本エアシステム(JAS)は初めて。登場手続きカウンターは、空港ビルの一番端。遠いぞぉ。
テロ事件以来いちだんとまた厳しくなったように感じる手荷物検査を済ませ、搭乗口からまたバスに乗せられて、空港の端まで運ばれて、奄美行きの飛行機にようやく乗り込みました。
ここから奄美まで、おおよそ2時間半。

奄美空港へ近づいて飛行機が高度を下げ始めると、濃い緑の森と青い海面が目に飛び込んできました。那覇空港や石垣空港に降りるときとは違って、埋立地やビルの立ち並んだ市街地が見当たらないので、アプローチの景観に関しては、奄美は那覇や石垣よりも上です。
着陸した飛行機の窓の外にはまぶしい日差しが降り注いでいるので、「これは暑いかな〜」と予想してボーディングブリッジに一歩足を踏み出してみると、意外にも空気はひんやりとしています。冷房は……入れてるはずないよね。
思ったほど奄美は暖かくないなぁ、というのが第一印象。

ベルトコンベアーに乗って荷物が出て来るのを待つ間、わたしはなにげなく柱の張り紙に目をやりました。クリスマスコンサートのお知らせです。まあ確かに今日は22日だから、奄美でだってクリスマスソングくらいは流れるだろうなあ、と思ってよくよく目をやると……なにぃ、島唄ぁ?
なんとそれは、「奄美の唄者たちによる空港ロビー無料コンサート」のお知らせでした。
そこに並んでいる名前もまたすごい。東京にいたら中のひとりふたりしか、たぶん生で聴ける機会はないでしょう。これは絶対聴くっきゃない。24日の夕方に島を離れなければならないわたしにとって幸いなことに、開演時間は14:00。これでこの旅のフィナーレを飾るビッグイベントが決定です。

第3回 島唄ライブ
とき 12/24(月) 午後2時00分から3時20分
ところ 奄美空港1階ロビー内
出演者
 坪山 豊(つぼやま ゆたか)
 当原 ミツヨ(とうばら みつよ)
 貴島 康男(きじま やすお)
 西 和美(にし かずみ)
 中 孝介(あたり こうすけ)
 中村 瑞希(なかむら みずき)
賛助出演 一条流 他
ポスター

幸先のよいスタートに気分をよくして、わたしは名瀬市街行きのバスに乗り込みました。バスの走る道は国道58号線。沖縄本島の西海岸を走り、国頭村奥集落で終わったはずの道が、海を越えてここにつながっているのです。道の両側にはサトウキビ畑が続き、沖縄のヤンバル地方にどことなく似てどことなく違った山並みがその向こうに見えます。バスの運転手さんが車内に流すラジオが耳に入ってきます。沖縄の離島だったら、こんなシチュエーションなら間違いなく沖縄民謡のひとつも聞こえてくるのだけど、ここで流れてきたのは……

♪母は来ましぃ〜たぁ〜 母は〜来ぃ〜たぁ〜

こ……これってもしかして……「岸壁の母」ってやつか?
……てなわけで、純日本風演歌の世界をBGMに、バスは名瀬めざしてひた走るのでありました。(^^;)

ここも国道58号線。 国道58号線

バスが名瀬市街に入るやいなや、わたしはバスを降りました。名瀬は一応奄美諸島の首都的存在なのですが、街としてはこじんまりとした地方都市。沖縄で同じくらいの規模というと、宮古島の平良……いや、沖縄本島の名護くらいかなぁ。到着時間はもう1時近いので、とにかくおなか減ったぁ……なんか、いや、鶏飯食べたい。というわけで、まず名瀬の評判の店「鳥しん」に駆け込みました。

「鳥しん」は繁華街からは少しはずれたところにある、外見はどうってことない一軒家の飲み屋さんです。中に入るとお客さんはふたりほど。まず「鶏飯」を注文し、カウンターのお兄さんのすすめでパッションフルーツのジュースを頼みました。出てきたジュースはグラスの底に黒い粒々が沈んでいます。おお、天然ものだ〜。
やがて「鶏飯」が登場。小さなおひつに入ったご飯と茶碗、皿に盛られた細かく裂いた鶏肉・錦糸玉子・椎茸・ネギなどの「具」と、鉄鍋に入ったあつあつの「鶏スープ」。ご飯をよそって具をのせ、その上からたっぷりスープをかけていただきます。あちちち……でも、おいしー。
あつあつの鶏飯をはふはふして食べていると、雨がざざざーっと降ってきました。カウンターのお兄さんの話では、奄美はとにかく雨がよく降るらしい。今ごろの季節は、こんなふうに晴れたかと思うとすぐに曇って雨が降ってくる、ということの繰り返しだとか。雪は降らないけど年に一〜二回、みぞれがちらちら……ということはあるそうです。おまけに「今日はこの冬いちばんの冷え込み」で最低気温が11度だったとかで、「よりによってこんな寒いときに来るなんて……」と言われました。
いやまあ、確かに暖かくはないけど、前日東京は雪降ったものね。それにくらべりゃ、どうってことないっすよ、このくらい。うん。

おなか一杯になったところで、外に出てみたら雨もほとんどやんでいました。街中をぶらぶら歩いて、今日の宿、「たつや旅館」をめざします。この旅館は、島旅マニアなら知る人ぞ知る旅館。素泊まり専門なのですが、部屋はゆったりとして、古びてはいるが清潔、きめ細かくサービスが行き届いていて、なおかつ安い。わたしのようなお金のない一人旅派にとっては、願ったりかなったりの宿です。
宿について、荷物を置いてから再び街中を探検に出かけました。

三味線製作所

「ちぢん」とは奄美独特の太鼓のことです。
肉屋

山羊肉もイノシシ肉もあり。
荒物屋

なんだかわからないけど、
やたらインパクトのあったお店
醤油屋

奄美のお醤油は甘口だった。

名瀬は小さな町ですが、三味線の店は意外にたくさんあります。わたしが見かけただけでも4〜5軒。そのうちの一軒、「阿世知三味線店」に入りました。道路に面したガラス戸をあけると、中では数人の少年少女がここのご主人らしき先生をかこんで練習中。

「あの〜、三味線のバチください」

先生の指示で、わたしにいちばん近い席に座っていた子が、鉛筆立てを差し出しました。中には竹をけずって作った「バチ」が何本か入っています。

「はい、一本100円です」

わたしははじめて「奄美三味線のバチ」を手にしました。思っていたよりずっと小ぶりで薄い竹のヘラ。重たくて固い「ツメ」といったほうがしっくりくる沖縄三線のバチに慣れたわたしにとっては、なんとも頼りなくて、こんなんで音出るのかしらん、と心配になってしまうほど。

三味線のバチ ←これが奄美三味線のバチ。


こんな感じで弾きます。→
バチの持ち方

次に入ったのが、「セントラル楽器」という街の楽器屋さん。店に入るとそこにはピアノやオルガンや楽譜がずらりと並んでいるのだけど、右側の一角にちゃんと奄美の島唄コーナーが設けてあります。さまざまな唄者のCDやカセットテープ、三味線の教本、そしてその端には一本の三味線がぶらさげてあります。値札は確か4万円くらいだったか……

奄美の三味線との「初対面」でした。形は沖縄の三線と一緒。胴皮もわたしのと同じような合成皮革が張ってあります。ただ、弦は沖縄のものと違って鮮やかな黄色。太さもずっと細いようです。
三味線の教本は2冊ありました。ところが2冊の楽譜の表記法は全然違う。沖縄には「工工四」という統一された記譜方式があるのですが、どうやら奄美では、教える教室ごとに独自のものがあるようなのです。そこにあったひとつは、「横書工工四方式」とでも言うのでしょうか、三味線の勘所に番号をつけ、それを横書きにして、数字の下にバチさばきを示す符号をつけたもの、もうひとつは「三線譜方式」で、三味線の弦を表す三本線の上に西洋楽譜と同じような音符を書いてリズムをあらわし、音の高さはその音符が三本線のどれに乗っていて、指の位置を表す数字のどれがついているかによって判別します(バチさばきについてはまた独自の符号をつける)。まあどっちにしても解読には時間がかかりそうだったけど、とりあえず「三線譜方式」のほうの教本を選び、西和美や坪山豊のCDと一緒に購入決定。

買ったものを「たつや旅館」に置いて、今度はすぐ近くのバスターミナルからバスに乗り、奄美博物館へと出かけました。バスを降りて、大島紬の織元の社宅らしい団地の間の道をあるいていくと、やがて公園があり、その中の建物が奄美博物館です。こじんまりとした博物館で、お客さんはほとんどいません。展示物をひとつひとつ見ているうちに……
「ん?」
それは「ユトゥリ」という、船の底にたまった水をくみ出す道具でしたが、製作者の名前が「坪山豊」となっています。坪山って、もしかして、あの「ワイド節」の作者、唄者の坪山さん? えーっ?
坪山さんの本職(?)は船大工だそうですから、たぶん間違いないでしょう。なんだか思わぬ物と対面してしまったなぁ。

さて、夜になりました。噂の郷土料理屋、「かずみ」に出かけます。
外に出てみると、あたりはなんとなくにぎやかになっていました。「たつや旅館」は、名瀬随一の繁華街「屋仁川(ヤンゴー)」の近くにあります。石垣島の美崎町同様、ここも夜がふけてくるほど元気になっていく街のようです。

わたしのめざした店は屋仁川からは少し離れた場所、街の目抜き通り「てぃだモール」を突っ切った先にありました。ここは昼間買ったCDの唄者、西和美さんの経営するお店。中に入ってみると、お店はすでに満員でした。奥のカウンターに座っていた人が席を譲ってくれたので、なんとかもぐりこませてもらいます。目の前には料理を盛った大皿がいくつか置いてあり、そのむこう、カウンターの中では和美さんがお客さんの相手をしながら立ち働いていらっしゃいます。
まず、和美さんが大皿から適当に取り分けてくださる料理をさかなに、黒糖焼酎を一杯いただきます。わたしの隣には、関西方面からやはりバースディ割引でやってきた女の子ふたり組がすわっていましたが、あとのまわりはほとんどが常連さんのようです。

沖縄料理に似ている奄美の家庭料理を中心とした大皿の料理も、バラエティに富んでいておいしいものばかり。いちばん印象に残ったのは「ニガウリの味噌炒め」でしょうか。沖縄のゴーヤーチャンプルーと違って、原料のつぶつぶがそのまま残っているようなお味噌で炒めたニガウリです。どうやらお味噌の風味で苦味がやわらぐらしい。
飲んで食べて、まわりの人たちとしゃべっていると、やがて、座敷に座った数人のグループが「唄遊び」を始めました。中のひとりが三味線の調弦を始めます。

わたしたちが三線の調弦をする時は、音の高さを数字であらわします。調弦に使う調子笛には、それぞれの音に番号がついていて、その音に三線のいちばん高い音の弦を合わせます。だいたい練習の時はいつも「3(B)」くらい。ところが、三味線弾きのおじさんは「6(D)」に合わせています。ということは、わたしがふだん歌うのより3度高い音程。だいたい奄美の「唄遊び」では、「6」くらいで始めて、みんながのってきたら音程を上げるのが普通だとか。この日も、途中で「じゃ、8(E)くらいでいってみようか」と調弦しなおしてました。

そして「では、今日の集まりを記念して、唄遊びをはじめます」というような口上とともに、「奄美の唄遊び」の開幕。
残念ながらわたしはまだ奄美の島唄をそれほど知らないので、どの唄をうたっているのかさっぱり見当がつかないけれど、つぎつぎにいろいろな唄がうたわれていきます。沖縄と違って、ひとつの唄の一番、二番、と座に加わっている人がひとふしずつ変わりばんこにうたっていくので、まるで円形バレーのパス回しのように、唄があっちこっちに飛び交っていきます。どういう順番になっているのかわかりませんが、誰かが唄につまるとヤジが飛んだり、ほかの人がさっとピンチヒッターに入って唄をつないだりと、「唄のキャッチボール」みたいで面白い。時にはカウンターの中の和美さんも魚の下ごしらえをしながら唄に加わったり、ハヤシを入れたりしています。

三線をやっているので、どうしても沖縄の唄と比べてしまうのだけど、奄美の唄はほとんどがマイナー調で、三味線のメロディにも細かい装飾がつくし、おおらかな沖縄民謡に比べると、繊細で哀調をおびた感じに聞こえます。ハヤシの言葉も、沖縄の「イヤササ、ハイヤ」に対して「ドッコイ」とか「ドスコイ」とヤマト風。楽器こそ同じ蛇の皮をはった三味線だけど、音楽としては全然別物だなぁ、という印象でした。

唄遊びの風景 唄遊びの風景
手前のおじさまが三味線担当。
まわりの人たちがかわるがわる唄います。

唄遊びが小休止となり、「ちょっと弾いてごらん」と三味線が手渡されました。プラスチック製のバチがついてきます。言われたとおりに、バチを人差し指と中指の間にはさみ、先端から2センチくらいのところを親指と人差し指でつまんで弾いてみます。あの、パチンパチンという、バチの弾ける音が混じった、奄美の三味線独特の音がします。ためしに、「鷲の鳥節」を一曲……あれれ?

なんか変だな、と思ったら、「奄美音程」のままでは高くて唄えない、と判断したわたしのノドが勝手に音程を一オクターブ下げて唄っていたのでした。普段沖縄民謡は、女性は男性より一オクターブ上の音程でうたいます。ところが、奄美の民謡は、沖縄より高い音程のかわりに、女性は男性と同じ音程で歌います。男性にとってはちょっと大変でもある音程ですが、そのためかどうか、奄美の歌では裏声を効果的に使って、独特の雰囲気をかもしだしています。

とはいっても、いつものうたい方じゃないと落ち着かない。ためしに、調弦をしなおして音程を下げ、奄美のバチのかわりに沖縄のバチを指にはめて、弾いてみました。ところが奄美の三味線の弦は沖縄三線の弦より細く、それをゆるめたわけだから、沖縄のバチだと弦がたわんでしまっておそろしく弾きにくい。
逆に、家に帰ってから三線を阿世知三味線店で買ったバチで弾いてみると、三線の弦は太いので奄美のバチが負けてしまって、ちゃんと音が出ない。声・弦・バチがそれぞれの分野でちゃんとバランスが取れている状態なので、どれかひとつだけ入れ替え、というわけにはいかないものだなあ、と改めて実感しました。

そんなこんなしているうちに、小休止していた「唄遊び」が再開され、こんどはフィナーレの「六調」になだれこんでいきました。店じゅうのお客さんが踊りだす。関西からきた女の子ふたり組も常連さんに教えられながら踊りだす。もちろんわたしも……
この「六調」も、八重山の「六調」と同じ曲なんだけど、テンポがずっと早く、完全に「阿波踊り」のリズムに聞こえます。
この夜の唄遊びには、奄美民謡の人気唄者のひとり、中孝介君のお母さんも加わっていました。お母さん……とはいっても中君がまだ二十台前半なのだから若いし、美人。唄もなかなかのものです。店での話題には当然24日のコンサートの話も出ていましたし、中君のお母さんは「(24日には)ウチの息子も出るのよ〜。聴きに来てね〜」と言って帰っていきました。

「唄遊び」が終わると、また三味線が戻ってきました。今度は奄美音程のまま、「十九の春」や、リクエストにおこたえして「二見情話(歌詞うろ覚え)」など歌います。そのうち、「やっぱり安里屋ユンタでしょ」と声がかかったので、毎度おなじみ「安里屋ユンタ」。ところが、わたしが1番を歌い終わったところで、カウンターの端に座っていたおじさんがいきなり、

♪シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ……

と童謡「シャボン玉」を歌いだしたのです。なんだかわけのわからないうちに、わたしは三味線で「シャボン玉」の伴奏を弾いていました(もちろん即興)。

♪風風吹くな シャボン玉飛ばそ

と唄が終わったところですかさず安里屋ユンタの間奏にシフトして、わたしが2番を歌います。

♪サー嬉し恥ずかし 浮名をたてて……

するとまた、「マタハーリヌツンダラカヌシャマヨ」にかぶせるようにしておじさんが、

♪シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ……

「シャボン玉」が終わるとまた「安里屋ユンタ」にシフト。

(わたし)♪サー田草取るなら十六夜月夜……
(おじさん)♪シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ……
(わたし)♪サー染めてあげましょ紺地の小袖……
(おじさん)♪シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ……

というわけで「シャボン玉」と「安里屋ユンタ」の陣取り合戦は4番まで続き、5番にわたしが「奄美よいとこ一度はおいで……」とうたい収めてこの「プチ唄遊び」は終了したのでありました。
本格的な「奄美の歌掛け」に比べたらこんなのは子どもの遊びかもしれないけど、なんだかとってもスリリングで面白かったです。おじさん、遊んでくれてありがとう。
……なんか誤解を招きそうな発言だな(笑)。

飲んで唄って楽しく遊んでいたら、いつのまにか11時。満員だった店の中もだいぶ空いてきました。関西から着たふたり組も宿へひきあげました。まだまだ元気なおじさんたちに
「沖縄のねーちゃん(いつのまにかそう呼ばれていた)、これからヤンゴー(屋仁川)のカラオケ行こう」
と誘われましたが、さすがに今朝はうんと早起きしたのでもう目蓋が重くなってきた……
「すいませーん、もう眠いです」
と辞退して「たつや旅館」へ戻りました。

外に出てみると、タクシーの多いこと多いこと。こんな小さな町になんでまたこんなに……とあきれるほどのタクシーが、屋仁川かいわいを走り回っています。ネオンとタクシーのライトの光の中を宿に帰り着いてみると、宿の周辺もまたにぎやか。
土曜の夜ということもあってか、この喧騒は明け方ちかくまで続いたようなのですが、わたしはそんなことにはおかまいなく、朝までしっかり爆睡しました。
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