2001年沖縄の旅5(2001.6.21 - 25)



6月25日(月)晴れ

朝起きてみたら、左目が腫れていた。

「あちゃー、やっぱりダメだったか」

一晩眠ればおさまってくれるか……という期待はみごとに打ち砕かれました。こうなってしまっては、医者に行くしかないようです。

昨日のバーベキュー会場に顔を出してみると、ちやんぷるーMLスタッフの祖堅さんがホットドックを作っていました。宿泊組の何人かもそこにいて、朝の海を見ながら朝食としゃれこんでいます。わたしも早速仲間に加わりました。

朝食後、荷物をまとめて出発、流れ解散。わたしは安里さんの車に乗せてもらうことになりました。まずとにかく、那覇空港へ。搭乗手続きをして大きな荷物をあずけ、ついでに結局使わなかったシュノーケルのセットなど、当面不要なものを自宅宛に発送してしまい、すっかり身軽になって安里さんの車に戻りました。前回は三線ハードケースだったので、空港内の手荷物預かり所に預けて市内観光したのですが、今回はショルダーケースでさほど邪魔にもならないし、そのまま背負って歩くことにします……それにこれなら、どこかいい場所を見つけたら、即席ライブとしゃれこむことができるしね。

午前中まだ時間があるので、瀬長島に行きましょうということになりました。空港のすぐそばにある、道路でつながっている島で、別に何があるというわけでもないけれど、海をみながらぼーっとするにはちょうどいい場所です。島をぐるりと一周して景色のよさそうな場所を探し、自動販売機で買ったさんぴん茶を飲みながら休憩。安里さんのリクエストにより、三線タイム。

車の助手席に座って、窓から三線の先っぽが突き出した状態で三線弾くってのははじめてだけど、目の前に広がる青い海を見ながら「小浜節」なんぞ歌っていると、気分はほとんど「ちゅらさん」の古波蔵恵文……
沖縄のタクシーの運転手さんの中には、車に愛用の三線のっけて仕事している人が本当にいるらしいけど、乗務の合間に、こんなふうに海を見ながら三線弾いている人もいるのかもしれない。うらやましいなあ。

お昼を食べてからタウンページで眼医者を探し、開南の古謝眼科がよさそうだ、ということで、近くまで安里さんに送り届けてもらいました。実はそこは那覇高校のすぐ近く(ということは「コバルト」荘のすぐそば)。ぐるっと回ってもとの地点に戻ってきたみたいで、なんだかおかしい。
古謝眼科 診察券

沖縄みやげの診察券(笑)。
二度と使う機会がないことを祈りたい。
午後の診察時間にはまだ間があったので、涼しいロビーで休憩させてもらい、少し元気回復して診察を受けました。いちおう初診ということになるので、視力検査からなにから全部また受ける羽目になる。こういう時、やっぱり個人の医療記録が全部入ったカードか何かあればいいのになぁ、と思います。幸い、見た目のハデさのわりには症状はたいしたことはなく(要はでっかいモノモライみたいなもの)、目薬と軟膏を処方してもらいました。目の腫れは帰宅後2日ほどでおさまりました。抗生物質の力は偉大です。

診察を終え、近くの薬局で薬をもらうと、そこからぶらぶらとアーケード街を公設市場のほうに歩き、国際通りへ出ました。そしてまた、安里T字路右手の「仲嶺三線店」へ。
お兄さんから改造済の三線のバチを受け取って、店を出たわたしは、さてどうしようと考えました。実はこの後の予定をなんにも立てていないのです。帰りの飛行機は17時50分発。もっと早い便にしたかったのですが、これしか空席がなかったのです。かといって、今からまたどこかに遠出するエネルギーも時間もない。とりあえず、前に弟とふたりで乗ろうとした水中観光船に再挑戦してみるか、と、泊港に向かって歩き出しました。
安里T字路を通り抜け、しばらく歩くと祟元寺石門があります。以前来た時は、ここの門の扉は締切になっていましたが、今では開いています。でも、中に入ってみても、大きなガジュマルの木と原っぱがあるだけ。建物は、太平洋戦争の時に、跡形もなく焼けてしまったのです。

中の橋 またしばらく歩くと、「中の橋」というバス停がありました。それを見たとたん、頭の中で始まってしまった……あの唄が。

「美栄地高橋うち渡て 袖を連ねて諸人の 行くも帰るも中之橋……」

このルート、三線でもさんざん習った「上り口説」の中でうたいあげられている、首里城から港へと行く道順なのです。
こうなるともう、「とまりん(泊港のターミナルビル)」まで「工四乙四、工四乙四……」のイントロ・メロディに付き合うより仕方ありません。まあ、暑い中をひたすら歩くのには、BGMでもないとやってられない気分でもあるのは事実だけど。

汗をふきふきようやく「とまりん」にたどり着いてはみたけれど、残念ながら水中観光船は団体の予約が入っていっぱいでした。さてどうしよう。今からじゃ慶良間諸島に行くというのも時間的に難しい。
ふと思いついたのが「識名園」でした。那覇に着いた翌日(実質的な沖縄初日)に「斎場御嶽」に行ったことだし、「世界遺産シリーズ」でしめくくるのもいいか、ということで、タクシーに乗って移動。

「識名園」は平日昼間ということもあってか、ほとんど人がいませんでした。入ってすぐがガジュマルの林になっていて、そこを抜けると、芝生の庭と池がひろがり、そのかたわらにこじんまりとした御殿(うどぅん)があります。京都の庭のあるお寺にどことなく似ているけれど、どことなく違ったたたずまい……

識名園

御殿にあがってみました。お座敷の中には入れませんが、廊下伝いにいくつかの部屋を見て回ります。王様の別荘とはいっても、基本は赤瓦の琉球建築で、ただそれがちょっとばかり大きくて立派になっただけ。前に首里城にある総漆塗りの「正殿」を見てまわり、なんだか巨大な重箱の中を歩いてる気分になったわたしとしては、たまにはここで、庭でもみながら「とぅるばって(ぼーっとして)」みたくなる王様の気持ちも、わからんではないなぁ。

出るんですかねえ、やっぱり。 ハブ注意

庭のはずれには「観耕台」という見晴らしのよいポイントがあります。この「識名園」はちょっと高台にあるので、そこから南部方面の眺めはなかなかのもの。沖縄にはめずらしく、海がぜんぜん見えない場所でもあります。中国からの使節を接待したときにここへ連れてきて、「ほら、沖縄だって結構広いでしょ」と自慢して見せたという話があるのですが、中国の広さを考えると、カワイイというかなんというか。

観耕台からの眺め 観耕台からの眺め

そうそう、ここにはもうひとつ、面白い話があります。ある時王様がここで月見をしていたら、眼下にひろがる風景のどこかから妙なる三線の音が……
さてあの三線はいったいどこで弾いているのであろうか、ということで、家来が音をたよりに訪ねていくと、すぐ下のどこかだと思っていたのが、行けば行くほど音が遠ざかり、野越え山越えたどりついたのが数里離れた東風平(こちんだ)のある家だった……その三線は王様のたっての所望ということで献上され、王家の宝として大切にされていましたが、今はありません。太平洋戦争の空襲にあって消失したとも、戦時の混乱に紛れて何者かに持ち出されたとも言われているそうな。
数キロの距離を超えて届くという伝説の三線の音、聴いてみたかったなぁ。

「識名園」からバスに乗って久茂地へ戻ります。この「識名園」の隣は「識名霊園」という那覇の一大墓地タウン。道の両側に、沖縄独特の大型の墓がえんえんと続いています。なかなかの壮観でした。

久茂地からバスを乗り換えて空港へ。空港のレストランで夕食をすませ、売店を端から端までじっくりと見て回って、おみやげをいくつか買い込んで飛行機に乗りました。なぜか今回は、いつもほど「もう帰るのか〜」というブルーな気分になりません。まるまる4日間、ディープな沖縄をしっかり堪能したからか……まあ、どうせまたすぐに来ることになるさ、という予感があるから、というのが正解かもしれない。

さて、次回はいつ……?


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