三線  安里屋ユンタ (あさどやゆんた)

(三線をクリックしてみてください。メロディが聞こえてくるかも……)
 さて、二番目に紹介するのは「安里屋ユンタ」です。この唄は、もしかすると「てぃんさぐの花」の次くらいにポピュラーな唄かもしれません。

   サー君は野中の いばらの花か
   サーユイユイ
   暮れて帰れば ヤレホニ引き留める
   マタハーリヌ ツンダラカヌシャマヨー

 沖縄民謡にあまりくわしくない人は、「これのどこが安里屋なんだ」、と疑問を感じるでしょう。実はこの歌詞は元々のものではありません。昭和の初め、沖縄民謡を本土にも普及させるために考案された、わかりやすい日本語(?)の歌詞です。

 今ではすっかりこちらの歌詞が定着してしまいましたが、たとえばこの唄が生まれた八重山諸島の竹富島に行けば、水牛車に乗ったおじさんが、三線を弾きながら元唄を聞かせてくれたりします。実はこの唄、300年ほど前にこの島に実在した評判の美人、安里屋クヤマのことを唄ったものなのです。

   サー安里屋(あさどや)ぬ クヤマによぅ (安里屋のクヤマさんは)
   サーユイユイ
   あん美(ちゅ)らさ 生(ま)りばしよぅ (なんと美しく生まれ育ったことか)
   マタハーリヌ ツンダラカヌシャマヨー (美しく可愛い娘さんよ)

 当時、竹富島は琉球王国の支配下にあり、島は首里から派遣される役人に管理されていました。この役人たちは首里に家族を置いて単身赴任し、何年か島で過ごした後、首里に戻って行きます。島に滞在中彼らの身の回りの世話をするのは「賄い女」または「うやんまあ」と呼ばれた島の女性でした。もちろん、衣食の世話をするだけで済むはずはありません。要するに、あの嫌な言葉、「現地妻」の役目を期待されたわけです。

 クヤマも島一番の美人、ということで、役人たちがほっとくわけがありません。16歳の美少女クヤマにまず目をつけたのは、助役クラスの「目差主」(みざししゅ)でした。彼は上役の村長クラス、与人(ゆんちゅ)の「あたる主」を出し抜いて、クヤマにプロポーズしたのですが、あっけなく肘鉄を食わされます。

 実は、八重山民謡の「安里屋ユンタ」にはバージョンがふたつあります。その後のクヤマの運命が違うのです。ひとつは石垣島で唄われているもので、クヤマが「後のことを考えれば、やっぱり島の男がいい」とかっこよくお役人を振ってしまうもの、もうひとつは竹富島で唄われているもので、「どうせ賄い女になるならば、与人のあたる主のほうがいい」と目差主の上役のほうを選んでしまうもの。

 さて真実はどちら……というと、当然というかなんというか、本家竹富島で唄われているほうに近いのですね。当時お役人の意向に逆らうことは不可能に近かったし、承知すれば、税は免除され、美衣美食の生活が待っていたのです。万一子どもが生まれれば、その子どもには士族の身分が与えられました。

 クヤマを賄い女にした「あたる主」は、竹富島を去る際に、クヤマに竹富島の一等地を与えていきました。クヤマは「あたる主」と別れた後、一生を独身で暮らし、78歳という当時としては高齢で亡くなりました。子どもはできなかったので、「あたる主」にもらった土地は、今でもクヤマの弟の子孫が耕作しています。
 

[参考]
「竹富島誌 民話・民俗篇」上勢頭亨著 法政大学出版局
「ヤマトンチュのための沖縄音楽入門」金城厚著 音楽之友社
「沖縄うたの旅」青木誠著 PHP研究所
「新南島風土記」新川明著 朝日新聞社


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