この話は私が阪神大震災の災害援助に神戸の東灘区住吉町の公園でキャンプを張っていた時、被災された土地でかつて団委員長をしていた方から直接聞いた話です。その公園の目の前に住吉小学校があり校門のところに棕櫚(しゅろ)の木が生えていました。その人は朝もやの中で遠くを見詰めるように棕櫚の木を見ながら次のように話していきました。いまでもその時の表情を忘れません。
95年1月17日 午前5時45分。たまたまこの日は、仕事の都合で店に泊まっていた。風邪気味だったため妻のすすめで2階で休んでいた私は、いきなり下から突き上げるような激し揺れに目が覚めた。何が何だか判らない数秒が過ぎ、気が付くとあたりは滅茶苦茶に散らかり、どちらが上か下か判らないような状態であった。真っ暗な中、やっとのことで這いだし妻を探し、建物の隙間から妻をベランダへ引きだした。
未曾有の大被害。世に言う阪神大震災である。米屋をやっている私の店は潰れ、隣の時計屋も崩れるように潰れている。声を掛けても答がない。混沌とした時間が過ぎた。
被災者となった私は、母校である小学校に非難した。余震がつづくなか不安と苛立ちをかかえながら、数十日のあいだ母校で夜露を凌ぐことになる。正門には半世紀前に通学した頃と同じように棕櫚の木が立っていて私を見ている。
若い頃、軍隊で敢闘精神をたたき込まれていた私は、震災の苦労など何ほどのこともない。呉では飛行機の機銃掃射を足に受けたこともあったが、その時でさえ敢闘精神で「なにくそ」とへこたれもせず涙を見せることはなかった。
また、軍隊にいたころは員数点検の時に数を合わせるため、そこいらからサイズの違う靴でも失敬してくるようなこともやってきた。
私はかつていろいろなボランティアをしてきたこともある。しかし振り返ってみると本当にいいことはなかった。ボランティア活動で養老院へ行こうとすれば、折角こちらが行こうとしているのに単発できてもらっても困ると断られ「人の親切をなんだと思っているのだ」と憤慨しボランティアなど馬鹿らしいと思ったことさえもある。
被災者に対して配給が始まった。良い物を人より多く受け取ろうと朝早くから配給の列に並ぶ。ふと見ると棕櫚の木がじっとこちらを見ている。私も棕櫚の木を見返した。いつも見ている棕櫚の木だが、こんなにも長い時間対峙したことがない。
配給が始まると皆我先にと配給品を漁る。私の前にいたおばさんなどはパンティーストッキングを5枚も6枚も持っていく。敢闘精神で鍛えられた私もこれに負けじと「嫁のために」3枚ほどもらってきた。ふと見ると棕櫚の木が私を見ている。
震災から1カ月が過ぎた。顔はすすけ髪はボサボサになっている。やっと床屋が開設された。もちろんボランティアである。髪を切っている時、ふいに心の底からこみ上げてくるものがあり止めどなく涙が頬を伝わっていく。機銃掃射を受け、傷を負っても涙一つ流さなかった敢闘精神で鍛え上げられた私がである。人の真心というものはこんなにも人の心を打つものなのか。
ふと見上げると棕櫚の木が今までのあさましい私を見つめて笑っている。
人の心を打つものは、心の中より湧き出る真心なのである。60数年生きてきて、はじめてそれに気付いた。