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龍口寺境内を歩く

 夏の終りの、日曜日の黄昏時に日蓮上人の法難の地である龍口寺の寺域をそぞろ歩くのが、数年来の慣習になっている。8月の27日、最後の日曜日に茅屋のある腰越の室が谷から、津の紆余曲折した裏道を選んでゆったりした足取りで、腰越と片瀬の境にある龍口寺に赴く。

 偶々この日は片瀬の諏訪神社の祭礼で、神社から繰り出して来た山車が、龍口寺の門前に集結する頃合いで、一基一基と西向きに整列するのであった。男女の子供たちの叩く太鼓の音で、如何にも祭りの雰囲気を盛り上げている。沿道には見物客が大勢いて、中には物珍しそうに、カメラにこの海浜のお祭りの風景をおさめているのは観光客であろうか、この辺りは普段なら江の電を撮る鉄道マニアをよく見かけるところだが、今日は山車や御輿にお株を取られた格好だ。

 山門を潜って一歩境内に入ると、山門前のお祭り騒ぎとは違って、蝉時雨が耳を聾する別天地、参詣客とも観光客ともつかぬ人影が二三あるばかり。

 日蓮上人は時の執権北条時頼に、内憂外患を予想し「立正安国論」を奏上したが、執権の逆鱗に触れ、斬首される寸前に天地を揺るがす雷鳴のため、奇跡的に一命を取り留めた。1271年9月13日のことである。このことでも判るように、ここは長らく刑場跡であった。

 境内の左手には、その後佐渡に島流しになるまで、日蓮が幽閉されていた格子の嵌まった土牢がある。その前に植えられている百日紅が、今を盛りと咲き誇っているのが目を惹いた。

 本堂の銅の屋根が緑青になり、その右背後に聳立する五重塔の緑青と境内を囲繞する濃緑に映えて、楚々とした百日紅の喩えようもない美し花の下にしばし佇む。

 亭々と聳えている銀杏、楠、樫、松等の数百年を閲した巨木に遮られて西に傾く斜陽は、境内どころか、本堂の屋根すら射さない。龍口寺に限らないが、暮れなずむ寺の境内に殊のほか心惹かれる。腰越や片瀬界隈は、腰越状の満福寺、密蔵寺等有名な寺が数多いことで知られる。特に龍口寺に魅せられるのは、その古い寺歴と本堂を取り巻く自然の美しさ、仏舎利塔からの眺望、全山の静寂さによるのである。

 この寺を初めて訪れる以前の四半世紀前に、当時懇意にしていた老歯科医から、龍口寺に入れ歯師の墓の存在を教えられた。本堂の脇の坂道を上って行く途中にある円筒の歯骨供養塔がそれである。湘南地方で長く診療にあたったその歯科医は、10年程前に他界したが、その脇を通って、全山で一番高い仏舎利塔に行く時、歯骨塚の脇を通るので、自然に老歯科医と親しく話した在りし日を想い出すのである。

 この歯科医には長男の歯科医がいたが、晩年には親子の確執が絶えなかった。そして最後には老父に長男が暴力を振ると言う抜き差しならぬ事態になってしまった。ところが、或る日その息子が頓死してしまう。直腸がんに冒されていた老歯科医は、久し振りに訪れた小生に言った。

 「こうして庭を眺めていると、毎日のように白い蝶が、私の前のガラス窓のところにやって来るんです。それが何だか息子の化身のような気がしてならないので、もういいと心の中で言ってやったんです。すると、翌日からは姿を見せなくなったんです」

 その歯骨塚の前に島村采女の墓がある。この島村采女と言うのは、龍口寺が創建される際に寺域を寄進したということで、その遺徳によって、本堂脇のところに埋葬されているのである。この島村うねめの末裔が、室が谷に今も住んでいて、我が家と懇意にしているので、仏壇に安置されてあるその采女の位牌と伝えられるものを見せられたことがある。

 腰越、津は古い村であったが、その村の遍歴を知る手がかりの一つに「島村文書」「金子文書」があったが、いまではその行方が杳として知られない。

 龍口寺は海岸に近い一種の谷戸になっていて、寺の境内にいると絶え間なく、山門に対峙している江ノ島の方角から涼風が吹いてくる。海岸などに海原から吹いて来る、強い潮風と違ってここまで来る途中で、塩分が風化して仕舞うかのような爽やかな微風なのである。

 境内にはベンチが散在しているが、それでなくとも腰を下ろして小憩する場所に事欠かない。境内を一巡して、ベンチに腰を下ろして、携えて来た江戸時代の漢詩人の詩集を紐解く。夕陽山上望方奇人界蒼蒼欲暮時 唯有水光分地脈 某州某郡可推知と詠んだ詩人は大窪詩仏、江戸で活躍したが、その晩年は女婿が藤沢の産であることから、藤沢に改葬された。墓は藤沢本町の藤沢小学校裏にある。

 しばし本堂と五重塔を仰望しその調和のとれた背景美は喩えようもなく見事な一幅の絵となって現われる。

 志賀直哉の小品に「鵠沼行」と言う作品がある。大正元年に発表したものであるが、一家そろって大人数で、鵠沼の「東屋」に行って、妹達と「東屋」の広大な庭にある池に舟を浮かべて遊んだり、庭続きの片瀬海岸の渚で遊んだりした一日を描いたものである。

 その帰りに、鎌倉に出る途中で、龍口寺に立ち寄るのである。その時志賀直哉と思しき順吉は、新しく出来た五重塔の横から皆が裏山に登るのを祖母と二人で登らずに待っている。そして初めて学習院の水泳で家を離れて、生活したので淋しくて毎日二本も三本も手紙を出したことを語る件がある。

 この記述から推すとこの五重塔は、今から90年位の歳月を経ている計算になる。どんな建築物でも、風雪に堪えて生き続けているうちに周囲の環境と渾然一帯になって、見る者をしてそれが自然な風景となって心を和ませるのである。

 順吉は「学習院の水泳で初めて来た時に、今はありませんがあの山門の右に法善房という小さな家があって、そこへ泊まっていたんです」と言う。

 今はそこは大書院になっているが、現在のこの偉容を誇る建物は、松平藩のもので松代から移築された由緒あるものであるが、見上げるほど高い屋根を覆う大きくて分厚い瓦は、一見に値する。近寄る者をして威圧するような重厚な建築物である。

 この庫裏の一室で国木田独歩が、「運命論者」を執筆したことがある。明治35年のことである。この作品は発表当時、どこも出版してくれる所がなかったが、窪田空穂の斡旋でやっと日の目を見るに至ったのである。年の暮れと言うこともあってこれで餅代が出来たと独歩は、空穂を徳とした。

 山門の前のところは細流があり、それがいつのまにか暗渠と化した。いつか土地の古老と称するひとにそのこと確かめたが、はっきりしたことは判らずじまいであった。

 その山門の前から江の電に乗って鎌倉に行ったと志賀直哉は回想しているところをみると、ここに江の電の停留所があったことがわかる。現在でも江の電の江ノ島駅と腰越駅は一キロ足らずである。以前は江の電の駅間はずっと短かく、現在の倍程の駅があったことが、古い江の電の地図をひもとけば判る。

 諏訪神社の祭礼が済むと夏も終りである。池上本門寺のお会式は10月13日であるが、龍口寺の法難会は9月12、13日である。この日龍口寺で雨が降ると、池上では晴れる、晴れると、雨になると言うようにいつも逆の現象が、起きると言う昔ながらの口伝がある。その龍口寺の法難会が済むと本格的な秋を迎えるのである。片瀬の海岸を歩めば、空の色、海の色、釣り人によってその秋の気配が感じられる。湘南の海岸は夏も秋も他の処より一足早いのである。

 

腰越通信 (1)

 少しく歴史に通じているむきには腰越と言えば、義経の腰越状を思い起こすが、一般には江ノ島に対峙している海岸地帯と言ったほうが分かりやすい。日蓮上人の法難の地、龍口寺を挟んで西側が片瀬(藤沢市)、東側が腰越(鎌倉)である。

 従って腰越は鎌倉市の西部にあり、藤沢と隣接していることになる。もともとは漁民と農民の町であったのが、明治時代の末葉に長与専斎の長男、称吉     が龍口寺の隣の長山に別荘を新築することによって、この界隈には福沢一族など大正時代の政財界人の別荘が出来た。中でも、原 敬日記で知られる原 敬の別荘があった。現在は郷里岩手県盛岡に移築。

 これで分かるように古くから、この地に住んでいる者は漁民と農民であったが、近年は漁師は釣り舟宿に転業し、農家は町の北部にあり昭和46年に大船−江ノ島間にモノレ−ルが開通し、谷戸がブルト−ザ−で切り崩され、造成され宅地となり昔の田園の面影が一変した。土地の人々は隣接する鎌倉山的開発をえがいていたのとは違って、完全な住宅地と化してしまった。

 腰越と津の境界線が判然としないが、この地域だけでも諏訪ヶ谷、へいぞん谷、加持谷、子の神谷、室ヶ谷、丹後谷、御嶽谷、御所谷、蟹田谷、北谷、後立、初沢谷、猫池谷などの谷戸が点在していたが、現在その谷戸の景観を偲べるのは室ヶ谷だけである。

この室ヶ谷は数年前までは、田圃で米を作っていたが、現在は休田となり、畑で野菜を作っているだけ。この室ヶ谷の入り口はこの十年の間に畑の宅地化が急速に進んだ。

 腰越通信の発信地はこの室ヶ谷の奥まった所にあり、周囲が山に囲繞されているので、どんなに強風が吹いても風当たりが少ない。土地の者は通称「もろやと」と言って昔、もろ鯵の骨が出て来たからだと言う。室ヶ谷には津と腰越が共存していて、境界線が定かでない。津は腰越と同じくらい古くからの呼称であるが、この辺一帯まで古代には海であった証拠である。ここで農作業していた人が言うには、風がちっとも入ってこなくて、夏など室(むろ)で働いているみたいだと。

 室ヶ谷は言わば鎌倉や藤沢の中心街に出るには同じ位の距離にあり、鎌倉の西部の位置する最も「僻地」と言うことになる。鎌倉に田舎ありといったところである。 

 龍口寺

腰越通信(2)

 昨年の3月1日に腰越の中央に行政センタ−が新築され、その3階に図書館が完成した。これまでは腰越の西のはずれの保育園の一室に間借りしていてその名も貸出所で、本の数も少なく第一閲覧室がなかったから、ここに借覧にくるひとは稀であった。ここに目当ての書籍がなくとも、鎌倉市の他の図書館から借り出した本を、ここに返却すればよいので、返却場所として専ら利用してきた。

 鎌倉市で最も古いのは中央図書館であり、その他に玉縄、大船、深沢の行政センタ−に付随して図書館が設けられてあるが、腰越地区が新たに貸出所から図書館に昇格した訳である。

 県道沿いで、バス停の前という立地条件がいいことと、快適な図書室、それに所蔵数もこれまでと違って多いことから、利用者数は格段に多い。子供、学生、老人、女性とこれまでこれらの本愛好家はどうしていたのかと思われるくらいに、連日この一年間は盛況である。

 室ヶ谷の入り口の所にあり、三階の閲覧室の窓際にそって机が設置されているので、眼前に丘が見渡せる点、読書に疲れた目の保養にはもってこいである。

 筆者は若い時分、東京にいるころ、上野の図書館に通うに、もっとも近い場所として、谷中に下宿したことがあった。当時は東京には国会図書館(現在の迎賓館)、日比谷図書館などが都心にあり、各区に図書館が区役所に付随してあった。例えば京橋区役所に京橋図書館のごとく。

 当時は都内の住宅状況が悪く、勉強部屋代わりに図書館を利用する受験生や学生が多かったこともあって、開館9時前から長蛇の列をなしていた。そして定員になると、一人退出者が出るまで、館外で待っていなければならなかった。炎天下や寒空の時は難儀したものだ。

 上野図書館の場合は、地下室の下足番のところで、草履に履き替えて館内に入っていく規則になっていた。閲覧室のフロア−がコンクリ−トであったので、靴の足音が閲覧者の妨げになるからとの配慮からか、ともかく今考えると妙な格好である。昭和30年代のことである。

 菊池 寛が若き日に上野図書館に通っていた頃のことを回想して、地下の下足番で草履に履き替えたことを記しているところをみると、その当時から、連綿とこの規則が引継がれていたわけである。この上野図書館が、近年児童図書館に生まれ変わったようだが、当時は国立図書館の支部であった。しかし大正、昭和と読書人に親しまれたのは、この上野図書館である。鴎外の「青年」の中で、主人公が、この上野図書館に入館するのに列に加わっている描写がある。

 上野図書館の旧館は、東京芸大に隣接していたが、木造であり、床も板張りであった。当時の床のきしむ音が今も耳に残っている。

 腰越図書館の床も板張りであり、一年たって、いつ行っても綺麗に磨き清められている。コンクリ−トだといつまでも腰掛けていると足が冷えてよくないが、板張りだと足によい。   冷暖房が完備していて、ある種の書籍は館内閲覧ではあるが、いつでも貸し出しが可能であり、ここに無ければ、コンピュ−タ−で市内の図書館の有無を検索して、あれば数日の中にとり寄せてくれる。ちょっと時間がかかるが、県立図書館をはじめ県内の図書館の本でも取り寄せて借覧出来る。

  今では腰越通信の発信地の前に図書館が移動してきてくれた感じである。いながらにして、万巻の書が読める環境にある。

 この図書館の裏を神戸(ごうど)川が流れているが、今は護岸されて往時の自然の美しさはみられないが、それでも河口には白鳥がとんでくることがある。その近くに大正の末期からト居した歌舞伎の研究家であった飯塚友一郎は、この神戸川の周辺の自然の美しさを愛で、よく散策した。その腰越の美を逸早く紹介した彼の「腰越帖」は絶版ではあるが、三階の書棚から美しい谷戸を眺めている。飯塚友一郎は東京生まれではあったが、終焉の地は腰越で、墓も自宅の背後の眺望の良い丘の上にある。

 

腰越通信(3)

 室ヶ谷の裏山の山中に一本大きな桜の木が、今を盛りと咲き誇っていた。暫し山に沿った小道に佇んで、絢爛たる桜花を飽かず眺めた。誰にも見られず、散っていくこの桜の木の宿命に心惹かれる。

 この桜の木の下は三反程の田圃であるが、今休田になっている。最近、この田圃で70年前に稲こぎをしている母と娘の写真を見せられた。その娘さんが今は老婦になっているが、通りがかりの人がカメラに収め、後日送って来てくれたものであるという。周囲の谷戸や田畑は大手の土地開発業者に買収されたが、あまりにも谷戸の奥だったので、買い手がつかなかったものであろう。

 一体誰がこの桜の木を植えたのであろうそんなことを空想しながら、急な坂道を上がって、鎌倉高校の裏に出て、広い校内を通って七里ガ浜の海岸に出た。正しく春の海の典型とも言うべき見晴らしである。海に向かいて言うことなしである。

 七里ガ浜は、稲村ガ崎から、腰越の小動岬までを言うのであるが、この場合一里は約4キロではなく、中国風の500メ−トルである。

 三好達治が昭和13年に、稲村ガ崎に住んでいたころ、七里が浜の海岸を、よく小動まで散歩したと言われる。最初の随筆評論集[夜沈沈]を出版したころである。

 三好達治は終生、自分の家を持たず、間借り生活であった。最後の下宿先は東京世田谷の代田で、ここには16年の長きにわたった。この家主から、三好達治直筆の半切の「惜春」を頂いたのを茅屋の玄関に掲げてある。

 この仮寓先で三好達治は64年の生涯を終えたのであるが、その通夜に井伏鱒二と共に、長年の友人であった河盛好蔵が枕頭で見守った。河盛好蔵はあまり淋しいので、帰りそびれてしまったということを追悼の記で回想していた。河盛好蔵の人物回想起の中でも、三好達治のは屈指のものである。

 その河盛好蔵が、97歳の高齢で死去された。 中央沿線に住む作家、評論家の集りであった阿佐ヶ谷会の唯一の生存者である。河盛好蔵の随筆は、雑誌で目にすると真っ先に読んだものである。河盛好蔵は翻訳や仏文学の該博な知識と人間探求によって学界や読書界を啓蒙しただけでなく、近代日本文学の優れた理解者でもあった。

 河盛好蔵は、最晩年に至るまで、生前交友のあった文学者や作家、文化人の回想文を多く書くことによって、それらの人々の偉大さや親近感を広めた功績は類がない。又河盛好蔵は、同時代の各分野の人物に恵まれたことは、生涯の幸運と言ってよかろう。戦後日本文学の黄金時代と共に歩んでこられた。

 河盛好蔵は1989年に脳梗塞で倒れたが、各地で懸命なリハビリによって、不自由な体で研究を続けられ、「パリの藤村」を完成された。これによって京大から文学博士号を贈られた。又終生内外の新しい文学の潮流に深い関心をよせてこられた。亡くなるまで筆の衰えは感じられなかった。

 根っからの文学好きで、人間通であった河盛好蔵は、極端な意見に組せず、常にバランスの取れた考え方で押し通した。

最後まで書物を愛し、人間を愛したエスプリの利いた文章が、読めないのは淋しい。ご自分も楽しみ、読者をも楽しませてくれた見事な一生であった。永遠の文学青年であった。

 三好達治の部屋を知っているので、河盛好蔵の文章によって、通夜の光景が一幅の絵のようになって、脳裏にある。三好達治の終焉の地から程近いところに、代田川があり、その両岸に美しい桜並木が植えられてあって、桜の季節にはお花見には絶好の場所であった。その後、川は埋め立てられてしまい、美景は半減してしまった。30年余りも行っていないので判らないが、今でも美しい桜はあるであろうか。

  その桜並木の近くに、終生の師と仰望した萩原朔太郎の終焉の地がある。朔太郎が代田で死去したのは昭和17年であり、三好達治が他界したのが昭和39年である。従って朔太郎の死後22年にして後を追ったことになる。この下宿の女主人は宇野千代のフアンであったことから、三好達治を世話することになったのである。

 七里ガ浜の渚を歩いて、小動神社に詣でた。ここも境内の桜が見事に参道の頭上を覆っていた。

 「あはれ花びらながれ  おみなごに花びらながれ おみなごしめやかに語らいあゆみ うららかのあしおと空にながれ おりふしに瞳をあげて 翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり み寺の甍みどりにうるおい ひさしびさしに 風鐸のすがたしずかなれば ひとりなる わが身の影をあゆまする甍のうえ」という三好達治の「甍のうえ」が自然に口をついて出てきた。

 小動神社から神戸川にそって上流に足を運ぶ。数本の見事な桜が川べりに咲いていた。ふと横を見ると、道の脇にベンチが一脚置かれてあった。この近間のひとが花見をするのに、持ってきたものであろうか。こんなところに偶然あるのが嬉しい。歩きながら時々立ち止まって、カメラのシャッタ−を切っている人がいる。

 川の中ごろのところに、緋鯉や真鯉がいるのであるが、しばらく見ないうちに小さな鯉が沢山繁殖して、そこだけ賑やかである。道行く人の眼を和ませる点景である。

腰越通信(4)

 鎌倉高校前の坂は日坂として地の人々に親しまれている。江の電の鎌倉高校前の駅の前身は日坂であったことからもわかる。この日坂を上りきった所に聖テレジア病院がある。現在は以前の旧病棟を立て替えて、総合病院になっているが、最初は結核患者の療養所であった。

 昭和の初頭に鎌倉材木座に聖テレジア結核療養所として、当時見捨てられていた結核患者の救済を目的として開かれたのが最初。軽費もしくは無料を目的とした社会事業であった。

 この聖テレジア病院の濫觴は、訪問童貞会のシスタ−達が大正4年にロスアンジェルスの司教に招かれて、教育事業、保育、医療の社会事業に従事、研究をして大正10年に帰国したことに始まる。

 その頃東京大森カトリック教会のブルトン司教の指導を仰いで、幼稚園を開園、社会事業の一つとして大森入新井町に聖マリア共同医院を開院している。

 もとは大正時代にこの七里が浜に営利事業として、病院の建設工事が進められていた矢先、大正12年の関東大震災で、被害を蒙り出資者は損失し計画が頓挫してしまった。

 その後、腰越の有力者、岡田薬局の主人公と話がまとまり、聖テレジア七里ガ浜療養所が誕生したのである。敷地面積一万坪、病棟千坪であった。昭和4年。世界大恐慌の年である。サナトリウム完成と同時に魂の救済を求めて、仮聖堂のヨゼフ館が出来た。

 社会保障制度が確立していない時代で、「無料低額福祉診察」をおこなったので、財源は患者の治療費と寄付によって賄われた。財源確保のため、裕福な患者や華族のための特別室を設けた。

 昭和10年に待望の聖堂が落成市、小さき花の聖テレジアの美しい像が安置された。これは土地の人々に「テレジアのおみどう」として親しまれた。昭和13年に社会事業法が制定され、社会事業団体として公認されたので宮内庁から下賜金が与えられ、財閥系慈善財団から寄付も受け易いようになった。日支事変後は傷病軍人や県の救寮患者も委託されるようになった。 

 昭和27年に抗結核剤が実用化されるに及んで、急速に結核患者が減少史、昭和36年に一般内科患者の収容を開始し、昭和59年全病床が一般病棟となるに及んで、サナトリウムの使命に幕を下ろした。

 「テレジアのおみどう」も長年の風雪のため老朽化を免れず、平成4年に解体され、その後聖テレジア病院内にオラトリオ(御聖体安置の祈りの場所)が設けられていたが、平成10年に多くの人々の善意によって、待望久しい「丘の上の小さなチャペル」が落成した。

 ここにはかって「鎌倉の海」の著者、田代安子が入院静養していたことがある。田代安子は聖心女子大学の前身である高等専門部の英文科の卒業生。専門部は大正5年に出来、田代安子は9年に入学し、3年の本科を卒業する時は4名であった。田代安子はこの期間に英語を学ぶと言うより、英語で学ぶと言った方がいいと回想している。

 一方、マザ−達の貧民に対するチャリテ−の姿に対して、中世の領主奥方が領民に対する施与している風なやり方に馴染めなかったと言う。田代安子には若い時から、すでにものの感じ方や見方に対して平行感覚が具わっていたようだ。

 母校の聖心女学院で、1924年から45年まで21年間教壇に立った。曽野綾子は小学校の教え子であり、最近死去した田中澄江は、5歳年下の同僚教師であった。田中澄江は新任教師で、公私ともに色々アドバイスを受けたりして、親しかった。

 教師を退職後、神山復生病院、国立駿河療養所など22年間ハンセン病患者の病院に務めた。そして多年の夢だった修道院に入ったのは60代にはいてからである。

 聖テレジア病院内の構内にある修道院の中には、田代安子が戦後キリスト関係の雑誌に寄稿していた頃に、愛読したしたシスタ−がいる。そして田代安子が七里ガ浜を見渡せる三階の病棟に入院していた時の様子を恰も昨日の出来事のように話してくれた。

 田代安子は晩年の心境をこう書いている。「ほそぼそと、よくも七十の坂を越えた。みにくく衰え、しかも不具である。骨折の手術がうまく行かなくて、片足は使えなくなり、無事な方の足腰も弱いから、片足とびもならず、松葉杖をつかっても、不快な痛みなしには歩けない。眼は白内障、耳は内耳のカリエスと老人性難聴、声も衰え、体力もなくなった。

 家族も、頼りになる身寄りもないから、病院暮らしをしているが、持病が軽快しても帰る家がない。お医者から口の楽しみを封じられて、ビスケット一つ自由に食べられない。二十代から六十代までの勤労生活も年金につながらなかったから、わずかの貯えと生命とどちらが後まで残るかと気にしている。あわれな年よりではある。」

 40年間人のため、社会のために働いても年金制度が完備していなかったので、現在の年金生活者のように老後は保障されなかった。その上数度に及ぶ手術をし、人の手を煩わさなければ生活が、出来ない境涯になった。しかしこの世はやはりよいところ、人は愛すべきものと思うと言っている。

 三階の二重窓越しに、空と相模湾の波が見える。春霞がかかっていなければ、正面に大島が見えるはずである。日は左手の三浦半島の後から、昇り、右手の江ノ島の向こうに沈む。朝焼けから残照まで、一日中陽光は窓に親しい。カ−テンで日差しを加減しながら、具合のいい高さの椅子にかけて楽に足を伸ばしていれば、心はほのぼのと楽しいとその不自由な日常座臥の中にも、人生に失望せず努めて明るく生きた。この「鎌倉の海」が出版されたのは1977年である。

 その後、聖心関係の人によって引きとられ、退院していった。そして1989年に他界している。

 いまでも病気の種類は違っても、晴天の風の無い日には、ガウンをまとった患者が、無言で眼前の七里ガ浜の海を眺めている光景を目にする。

 昭和24年、創立20周年にあたって、サナトリウム内で発行していた「文苑」に金井某と言う患者が、開設以来20年間世話になったとして、草創期の様子を活写している。故人となっているが、今となっては貴重な資料である。

 聖テレジア病院の創立者、ブルトン司教が帰天して46年、いまも朝夕谷戸にチャペルの鐘が響き渡っている。その周囲はマンションや住宅が立ち、開発が進んでいるが、前方が海浜なので辛うじてありし日の景観を保っている。

腰越通信(5)

 先日藤沢の古本屋の店先にある特価本をのぞいていた時のことである。別段探している訳ではないが、身についた習慣で古本屋の前を素通りできない。ざっと目を通すと意外な本に遭遇することがある。久し振りに古い本を目にすると、著者に懐かしさを覚える。生存している時から、殆どと言っていいくらい面識がないのであるから、著者が他界していても同じことである。

 だが著者の謦咳に接したことがあり、その著者の本を持っていて、その本が自分の目の前に現れた時は、さすがに懐旧の念を抑える事が出来ない。

 このところどの町でもマンガやアダルト本を主に扱う古本屋が多くなっているから、従来の古本屋とは趣が違う。今風の古本屋は急増していても従来の古本屋は増えていないようだ。それに店主が若いか、雇われ店員が一般的である。

 古本の値段と言うのは、探求者には価格の高低はそれ程問題ではない。不要な人にはいくら安価でも買わないし又反面探している本だと相場より高くても買うものである。それに同じ古本でも店により値段がまちまちなのもこの商売の不思議なところである。

 どんな本にしろいざ探すとなると、そう簡単に見つかるものではない。高価な本ならしかるべきところに行けば、入手出来るものである。だがあまり話題にならない廉価本となると、かえって難しい。

 特に雑誌となると、破棄、処分してしまわれるケ−スが多いから、まとまって探すとなると、絶望的といっていい。

 おやこんなことを調べた本があったのかと思い、並べてあった一冊の本を抜いて脇に置いておいた。そして他の本をひとわたり見渡しているスキに後からきた老人が、いつの間にか自分の前にもっていっていた。「あれっ!この老人もなかなか古本に目の肥えた読書人だわい」と思って、先輩に敬意を表して譲ってもいいと思った。タッチの差で自分には縁がなかったものと諦めた。これまでの経験で、本を買うのも読むのも全て、一種の縁であると信じてきたから、かえなくとも、特に残念に思ったことはない。

 一度はそう思ってはみたのではあるが、念のため「その本お買いですか」と尋ねると「いいですよ」とあっさり譲ってくれる様子を示した。その態度がいかにも物事に執着しない恬淡としていたのに、清々しさを覚えた。と同時にここに同好の士がいることを知ってなんとなくその老人に親近感を寄せた。

 恐らくこの老人も町に出たおりに長年の習慣で、古本屋を覗いたのであり、特にこの本を探していたというものではなかろう。その点で私と同じである。

 これだけの事を調べて一冊の本にまとめるには、著者は大変なエネルギ−を注入したに相違ない。本の裏に著者の写真が載っていた。だが本の性格からベストセラ−どころか、多くの部数が出るといった本ではない。色々な場所を転々として古本屋の均一本に紛れて、買い手を待っていた。

 その本は読まれて、手垢がついて汚れていると言うよりは、店頭にさらさえれ、埃をかぶって本全体がくすんだ色になってしまっていたと言ったほうがよい。それが不思議なことに同時に二人の買い手がみつかったことは、不思議な現象である。古本とはそうしたものである。

 昔東京にいた頃、江戸時代の著名な儒学者の末裔が、古本屋をしていた店に時折立ち寄って、自然に顔見知りになった。ある時古本屋の主人の複雑な心境を明かしてくれたことがある。売れない本だと何年も棚にあるままで、早く買い手がつかないかなあと思うが、いざ売れてしまうと何となく寂しいような気もすると言う。

 この古本屋は寄る年波には勝てず、東京の土地を去って、先祖代々の房総に居を移すといって、まもなく店を畳んだ。高名な儒学者の名前を目にすると、あの背筋をピ−ンと伸ばした古本屋の主人に似つかわしくない、端正な顔つきと高雅な風貌が思い起こされるのである。

 今古本を買って代金を支払う時にこの老店主のような感懐を懐いてカウンタ−に坐っている者が、どれだけいるであろうか。本を他の物品と同じような感覚で扱っている店主が多いのもご時勢である。昔の古本屋の中は何となく心気くさかったものであるが、今はBGを流して新刊書店風なのも出現して総じて明るい雰囲気である。

 

  腰越通信(6)

 久し振りに東慶寺に行ってみた。連休も終っていて観光客も至って少なく、寺域も閑散としていて名士の展墓には最適であった。この寺はかっての駆け込み寺であったので、いつ行っても女性の参拝者が多いような印象を受ける。

 足下が危うい80才を越えたと思われる人品骨格の卑しからぬ老人が、夫人と娘とおぼしき婦人に支えられて石畳をゆっくり歩いてくるのに遭遇する。こうまでして来られるのは単なる観光ではあるまい。この東慶寺ほど著名人の墓が、胃集しているところも少ない。祖先の墓参か恩師の墓に詣でたのであろうか。もう今回が最後の墓参となるかも知れない。そんなことを想像させる三人連であった。

 この寺には高見 順の墓があり、その墓前に名刺受けが設置されていて、その引き出しの中に手帳が置かれたのは30年余り前である。この手帳に書かれてある文章を本にまとめて数冊出版されているが、こんど行ってみてその名刺受けが新しくなっていた。

 墓地の掃除をしている老人の話によると、余り古くなったので、最近、周囲の木を切って遺族に依頼された訳ではないが、自発的に作ったそうである。

 その手帳をめくってみると、例によって全国津々浦々から、鎌倉に観光に来た折り、高見 順の墓に詣でていることがわかる。それぞれの思いを記しているが、中には25年振りの再訪という女性もあった。森 敦の娘や高見 順賞の受賞者、小池昌代のメッセ−ジもあった。こうしてみると、高見 順の関係者だけでなく、今もなお幅広い根強いフアンがいることが見て取れる。

 東慶寺本堂の入り口の右手に植村定光師慰霊塔があるのに今回初めて気がついた。俗名は植村定造、明治8年(1875)に生まれ、長岡中学卒業後旧制一高、帝大哲学科卒業、学生時代から円覚寺に参禅、釈宗演の弟子となり、円覚寺僧堂にて専心修禅、日露戦争に応召出征、満州義軍で活躍中、捕虜になり明治38年(1903)8月、露軍営中において断食、座禅自決す。師友この英才の戦死を惜しみ、この塔を建て永く英霊を慰めむと刻されている。

 1905年9月に日露戦争が終結しているから、あと2年すれば俘虜の身から開放されて、無事帰還出来たであろう。だが当時は兵士は「生きて辱めを受けず」の教育が授けられていたがゆえに、敵軍の露営で生き長らえることを、潔しとしなかったのであろう。惜しいかな天与の才能を生かさず戦地で絶命したことは、明治時代の軍人教育のしからしめるところであり、痛ましい限りだ。今さらながら教育の恐ろしさを痛感させられる。

 この慰霊塔は、明治40年2月に花田陸軍中佐が中心になって、植村宗光師を知る人々に呼びかけて、建立されたものである。恐らく、僧籍に身を置いていたこととその死が壮絶であり、将来嘱望されていたことを惜しむ余りに、釈宗演が住まいの前に置いたものである。釈宗演は植村宗光師の最期を知り、こんなことになるなら生前もっと優しくしてやればよかったと落涙したと言う。

 東慶寺は関東大震災で、本堂始めすべて倒壊してしまい、鐘楼とこの慰霊塔だけが残った。釈宗演の住まいが今の本堂になっているので、最初からその場所にあることになる。

 鈴木大拙は今川洪川、続いて釈宗演に師事して海外に禅の普及に努めたことにより、広く内外で知られるようになった世界的禅の大家であるが、もし植村宗光師も天寿を全うしたなら、大きな業績を残したに違いない。釈宗演も鈴木大拙も東慶寺に眠っている。

 因みに今年(平成12年)の2月に釈宗演の日記などを基にして、井上円了師が「釈宗演伝」を上梓した。

 腰越通信(7)

 最近所用でその近くまで行ったついでに、久し振りに鎌倉山崎にある北大路魯山人の遺跡を訪れた。大船駅と北鎌倉の中間地点を5、6丁西南の山懐にあるが、ちょっとわかりにくい場所である。山崎小学校を目標にしていくとよい。

 ランドマ−クとも言うべき茅葺き家屋が姿を消していた。不審に思って広大な周囲を歩いていた時に、犬を連れて散歩していた老人がいたので、聞いてみたら、一昨年の夏に焼失したと意外な返事が帰ってきた。

 そして魯山人が生きていた頃は周囲に人家がなく、その老人の家と近所付き合いをしていて、よく遊びに出入りしていたと言う。それで、魯山人の性癖の一端を話してくれた。一日の中で機嫌の良い時とそうでない時が極端であったことが印象に残っているそうだ。

 ガソリンをかぶって自殺した管理人とも知り合いであったので、その動機の推測を語ってくれた。後日神奈川新聞のバックナンバ−を調べてみると、1998年8月4日に第一報が報じられていたが、最初は身元が判明しなかったが、5日、7日と日を追うごとに、遺体の身元が確認されたことが書かれていた。2棟200平方メ−トルが焼失と小さく掲載されていた。動機は違うが、歴史的建築物と共に自らを消滅する例は法隆寺、谷中の五重の塔が直ぐ思い出されるが、今回も由緒ある建物だけに、惜しまれてならない。

 かってこの周辺の山には樹齢200年にも達する赤松が数百本あった。魯山人はこれを伐材して薪に貯えて窯の燃料にした。ひと窯焼ける毎にその所有者と松材の代価の一割を作品で払うと言う契約をしたのであるが、途中でいざこざが生じて、不仲になってしまった。

 魯山人を評して「富士山見たいなもんで遠見では素晴らしくても、近くで、見ると複雑な人間である」と生前親しかった人の弁。

 魯山人は大正14年夏から秋にかけて、6000坪のこの場所に窯を築いた。通称星岡窯といわれるものである。山裾の岩石を切り拓いた切り通しによって、村道につなげられた山懐である。この切り通しのことを魯山人は「臥龍きょう」と命名した。その前の菜の花畑をへだて、星岡窯一帯の眺めは別天地の興趣があった。一本の桜の大樹の幹から派生して数本の桜のように見えて、春には爛漫と咲き誇り、観る者をして陶然とさせた。

 囲繞された山と田畑の地形の妙を生かし、自然と人工の調和からなるこの秀抜な環境に、魯山人は小山の頂きに詠帰亭のあずまや、窯屋、職人住宅、魯山人の安息所夢境庵、第一、二参考館、来賓用慶雲閣、富士見亭、工場を建設した。

 勿論最初は荒涼たる山里であったのを一棟一棟増やしていったものである。一応完成をみるのに15、6年を要した。

 イサムノグチと山口淑子が昭和24年に、手斧削りの田舎屋で新世帯を持った。そこでアトリエを造り、陶土で形造った作品を魯山人の窯で焼いて貰った。この二人は、気難し屋の魯山人に気に入られて、魯山人の友人は殆どケンカ別れするのが常なのに最後まで親しい関係が続いた。一つにはイサムノグチの芸術的才能を買っていたこともその一因であろう。

 昭和26年には鎌倉在住の文士を招待して、盛大の招宴の会を催した。東京から一流のすし屋や天ぷらやが出張し、魯山人の作った小鉢や皿で山菜の佃煮が盛られて豪勢なものであった。

 魯山人は明治16年に京都の神官の家に生まれたが、生まれ落ちる前に父親は自害していて、幼児の時に里子に出され、親の味を知らずに成長した。魯山人の味覚は養父母を喜ばせるために、触発されたと言ってよい。晩年、魯山人は一度も母親の乳を貰わずに、転々とさせられたと言って周囲の人に語った。その顔には両眼から涙が伝わっていたという。

 傲岸不遜の魯山人は、書家としても優れているが、それも子供の頃に、書道の展覧会に出品して賞金欲しさから出発したものであった。人間的には欠点だらけで、男女関係も紊乱であって妻や友人とも関係が長続きしなかったが、絵画、作陶、料理、てん刻、造園と何れも名品を残したことで異論を唱えるものはいない。

 昭和34年に魯山人が淋しく世を去った後、晩年付き合いのあった野村証券の北裏喜一郎が、人を介して魯山人の旧居の引継ぎを依頼された。窯は「其中窯」として河村喜太郎が引き継いだ。そして今はその子息がその後をやっている。

 そのご桃山期の豪族の住居とみられる書院造りの慶雲閣は、その後地方に移築された。この星岡窯を訪れた人々は皇族から各界の名士、その多彩なことと数は夥しい。しかし今となっては、ここを訪れる人もいない。由緒ある邸内の建物はなくなってしまって、睡蓮の池に遊ぶアヒルも絶えていず、短冊型の庭石が雑草の間に敷き詰められているのが、往時の栄華の片鱗を偲ばせる。

 かって桜の満開の時期にここを訪れた人々の嘆賞の的になった桜も伐採され、その切り株もコンクリ−トで埋められてしまいその痕跡すら留めない。この老人にその桜の木が植わっていた所を教えられなければ、判らない。因縁めくが、この名木を伐採した人がその後まもなく死亡していると言う。田圃は埋め立てられ、グラウンドになり周囲の景観も当時とは違ってしまっている。魯山人旧居跡は現在は野村不動産が管理しているという。

 

         浜辺の歌の碑

                                                                             

 「浜辺の歌」の碑が、建立されたのは平成21年3月の早春である。鵠沼海岸と辻堂海岸の丁度中間点(境川の西五百米)の海岸の遊歩道脇に建てられているので、その脇を通ってもうっかりすると見落としてしまいがちである。「浜辺の歌」の作詞は林 古渓であるが、古渓の父親が藤沢市の羽鳥の小学校の教師をしていたことから、古渓が幼き日に辻堂の海岸に父親によく連れられて来られた。古渓は後年回想して、不朽の作詞をしたのである。

左手に江ノ島、鎌倉、正面に大島、西に富士、大山、伊豆半島が遠望出来る秀逸な風景は今も変わらない。作曲は成田為三であり、成田為三の郷里は秋田であり、郷里の人々は故郷をイメ−ジ、作曲したと喧伝しているようであるが、作曲家は明言をさけているといわれる。

 林古渓は今となっては羽鳥と関係あったことは余り知られなくなっていたのであるが、辻堂の有志が中心になって、「浜辺の歌」を顕彰することになったのである。

林古渓が死去したのは、1947年であるから、死後62年にささやかではあるが、作者ゆかりの地にその名がよみがえったことになる。

 碑の除幕式当日は肌寒い、終わり頃には小雨がぱらつく生憎の天気であったが、県知事、県会議長など数百人の出席のうちに辻堂公民館のサ−クルの女性たちの「浜辺の歌」が砂浜に響きわたった。

 国道134号線に雁行した鵠沼−辻堂−茅ケ崎の遊歩道は、散歩、ジョギング、サイクリングによく、この地区の住民に利用されている。それこそ老若男女と時々すれ違うが、みなすがすがしい顔をして、この恵まれた海岸線を満喫している。

 

      

ボランティアの先駆者  本真尼


  かって尼寺として親しまれた鵠沼の本真寺の開祖、本真尼(1845−1928)は布施の行者として知られたボランテイアの魁(さきがけ)である。明治24年、死者2万7千人を出した青森、岩手、宮城の三陸沖の大地震の際に、各方面から物資やお金を集めて、被害地に届け多くの人々を救った。以後大正13年の腰越、鎌倉の火災の救援まで34年間に亘って救援活動を行った。明治36年、本真尼59歳の時布教、日清戦争戦没者の慰霊のために鵠沼に慈教庵を建立。その後細川糸子という信奉者が、別荘の一隅(500坪)を寄進して本真寺が建立され。関東大震災で寺は倒壊したが、本尊と本真尼は無事であり、現在の地に移転。84年の生涯に、天災に見舞われた全国の被害地に赴いた回数は70余。布施行は5万戸に及ぶ。