「失礼ながら丸耳殿。その娘を渡していただきたい」  騎士どもは五、六人。かなり上の身分の男どもだ。さもなくば、この金属嫌いのアールヴの村の 中で、バケツをひっくり返したようなあの兜とチェインメイルを着込んでいるはずがない。 形式だけは慇懃なその声に怯え、娘は一歩身を引いた。 「俺は無関係だ。卿らは卿らの責務を果たすがよかろう」  俺も言葉遣いだけは慇懃に答えた。騎士どもが無言で一歩踏み出すと、小娘は器用に俺の裏側に 回り込んだ。 「さあ、リディアさま。ききわけなさいませ。あなたは大切な……」  騎士が躍起になって小娘の脇につこうとするのだが、小娘がうまく俺を間にはさむので、 思うように手が出せないでいる。 「……お体なのですぞ!」 「体だけ必要と仰せですか? それではあたしは……」  娘はそれ以上は言わなかったが、その場にいる者は全員省略された部分を察した。兜の下の 騎士どものその顔は、かなり困惑している様子だ。俺は少しだけ同情した。いくら「栄光ある」 騎士とは言え、その実体は中間管理職。ずっと兜をかぶっていることとストレスとで、 中年騎士はすぐに禿げあがる。かつて、この俺も騎士だった……。 「……すけて……」 「……え?」  小娘が俺の耳元に何かつぶやいた。呆気にとられた俺を見て、小娘はここぞとばかりに 大声を張り上げた。 「お願いします、騎士殿、助けてくださいませ!」  アールヴ騎士は、小娘のその一言で俺を敵と認識したらしい。先程までの無造作な歩みが、 摺足に変わった。こんなシチュエーションは前にも五度ほど体験している。陳腐だが、 無頼漢にはよくあることだ。もっとも、そのうちの三度ほどは娘が実は美人局で、相手と グルだった。今回はそういうことはあるまい。こいつらは騎士だ。騎士とは本質的に 血統のよい、優秀な猟犬だ。騎士は常に正義と共にある。これは時代が変わろうが いつも真実だ。正義のためであれば、騎士はどんな悪役でもやってのける。正義とは、 たとえ善でなかろうとも正義なのだ。  娘は俺にしがみついた。やや弾みのついたその吐息が蠱惑的だ。少女のその態度に、 騎士どもは丸耳野郎の俺を完全に敵対者と捉えた。少なくとも、目的のための障害物だ―― この段階で、俺の意志は完全に埒外に置かれている。 「さあ!」  騎士どもは得物を抜いた。大型の斧だ。森の住人は森を壊す斧を嫌う、というのは誤った 認識だ。森の中では弓矢と斧状武器――斧や山刀、鉈といった武器が一番効果的なのだ。 確かに結果は手段を肯定しないが、その結果次第ではそれもやぶさかではない、 ということだ。それに、斧は鎧を着た敵にも効果的だ。  俺は左足に体重を乗せた。  騎士は斧を振りかざす。斧は、大きく振りかぶらなければ相手にダメージを 与えられない。そこが、狙い目だ。  俺は、鞘のまま剣を一薙ぎした。 「俺をナメるな!」  騎士どもはあおられて、ひっくりかえった。逃げ延びるためには、必要な条件と いうものがある。相手を刺激しないことと、相手の目的を成就させてやることだ。 まあ多勢に無勢でいずれ小娘は敵に捕まるだろうから、なるべく俺は目立たぬように…… するべきだったのだが、そのときは少々キレていた。 「なんだてめえら! 普段騎士だとエバりくさっているくせに! 小娘一人を武器で 追い回すたあ! この程度でかんべんしてやるからさっさと消えろ!」  言わなくてもいいことを言って、俺は内心しまったと思った。さっきの一撃さえ、 まずかったのだ。もしあれが真剣で、奴らのうちの誰かが怪我でもしていれば、 少なくとも奴らの面目は立った。しかし、奴らは鞘に収まった剣に驚いてしりもちを ついてしまった。騎士にとって、これほどの醜態はない。奴らには怪我がなくて よかったとか、そういう意識はない。奴らは、今や本気だ。奴らは、騎士なのだ。 「く、曲者だ――ッ! リディアさまをさらって逃げるつもりだッ!」  兵どもが、どんどん集まってきた。中には棒っきれを抱えた市民も混じっている。 もはや、鞘から剣を抜く余裕もない。 「おいお嬢ちゃん、逃げるぞ!」  俺は一番手前の騎士にフェイントをかけ、逃げ出した。小娘は俺の手を引き、 路地裏へと逃げ込む。多数を防ぐにはいい手段だが、それも勝手知った 土地ならばのことだ。俺は知らない。ただ、小娘に引っ張られるままにやみくもに 逃げているだけのことだ。 「ごめんなさいね、巻き込んじゃって」  俺はこの今さらのような台詞に少々ムッとなった。 「俺の意志など関係ないんだな、君にかかっては」  無論、こんな安っぽい皮肉の通用する相手ではない。悪戯っぽくちょろっと 舌をのぞかせて、娘はすまなそうに謝った。 「ごめんなさい。でも、あなたが怒鳴ったとき、あたしの手を振り払う素振りは しなかったから……」  そう。口では散々罵りつつ、俺は娘を邪険に扱うことはできなかった。見透かされて、 俺は余計に不機嫌になった。悔しくて、何でもいいから思いっきり蹴飛ばしたい気分だ。 「気にするな。いつものことだ。それより、この村を逃げ出そう」 「語尾が震えてるよ……うん、そのつもり」  やがて、路地を抜けると……何と、そこはさっきのところだ! 少女は路地を 一周して騎士をまいたのだ。騎士をまくのには慣れているらしい。この少女はよほど 悪い育ちをしているのだろうか? いや、彼女の服を見る限り――この、ふんだんに アールヴ紬を使った贅沢な服。いくら原産地の住人とはいえ、悪い育ちで着られる 服ではあるまい。すると……? 「フライングリーパーに乗るの!」 「…………?」 「あの大通りにいるカエル! 重い荷物を運ぶのに使うやつで、乗り心地悪いけど…… あれなら森の外れまで誰にも邪魔されないで逃げ切れるわ」  それは見れば見るほどグロテスクな生き物だった。フライング……リーパー?  空を飛んで跳ね回るやつ? 完全に陸上生活に適応したらしく、カエルのくせに 皮膚はぬるぬるしてはいない。だが、このイボだらけの肌――あのテラテラとした いやらしくぬめる皮膚のてかりは決して拭い去れない。おまけに手にまとわりつくような 不気味な冷たさと奇妙な温もり――それは明らかに両生類の触感だ。俺がその感触に 狼狽している間に、小娘は平気でカエルによじ登り、手綱をとった。俺の手の下で、 気持ち悪いそれがダイナミックに蠢動する。俺は慌てて前を見て――凍りついた。 カエルの無頓着な――そして無表情な、冷血動物の胡乱な瞳と、一瞬だが視線が 絡まったのだ。自分の置かれた状況のあまりの居心地の悪さに辟易したが、後ろから 必死で追いすがってくる騎士を目にしては、選択の余地はない。俺は粘着感のある ぶよぶよしたそれに、半ば投げ遣りにしがみついた。 「はいよぉ!」  娘が威勢のよい掛け声をあげた。それは、今この瞬間にこの道路にいる不幸な アールヴの連中に対しての警告だったに違いない。のほほんとこちらを見守っていた やじ馬も、何も気づいていなかった奴らも、一斉に道をあけた。必死に逃げ散る人々の 尻をかすめて、カエルはドタドタ跳ねはじめた。最初は文字通り這いずり回る程度の 速度だったものが、次第に加速してゆき――皮翼を拡げると、その振動が 軽いものになった。固い大地に弾き飛ばされるような感触が次第におさまり、それが 水面を踏むような柔らかい頼りないステップになったと思った瞬間、――カエルは 宙を飛んでいた。一〇メートルほど飛ぶとカエルは再び地面を蹴ったが、今度は わずか二、三歩の接地だった。突風に吹き飛ばされる、と思わず目をつぶったそのとき、 カエルは大空高く舞い上がっていた。 「…………」  俺は呆然とその景色を見ていた。鄙びた村がたちまちのうちに点となり、木々の塊に 呑まれる。緑は絨毯となって地面いっぱいに拡がっている。空の青、雲の白、大地の緑!  世界はその三色だけで塗りつくされている。だが、木々の翳り、地平線と空の接するきわ、 雲の境……一つとして同じ色はない。さまざまな青、さまざまな白、さまざまな緑…… 俺はそれを表現する言葉を持たない。そこには、世界の本質しかなかった。ほんの 数瞬前まで、俺が想像もしていなかった光景だ。  立ち上がりかけてバランスを崩し、俺は再びカエルにしがみついた。視線はおのずと 手綱を取る娘に向いた。それは、不動の影だった。思わず俺は口笛を吹いた。俺が 無様にカエルにしがみついている間、彼女はずっとそうやって手綱を取っていたのだ。 「あたしねぇ、リディアっていうの」  娘は深呼吸したらしい。肩が大きく上がって下がると、震える声が自らの名を そう告げた。僅かに振り返ったその瞳には、涙がひとしずく光っていた。 「……ああ、ただのリディアになってしゃべれるって、初めて」  それからリディアはしゃべりはじめた。村のこと、父親のこと、兄のこと、 姉代わりの侍女のこと、そして結婚のこと……。 「シャナラというのは、アールヴで最も優秀な戦士たちを揃えた村なの。この森でも 一、二を争うくらい。……男の人の世界はよくわからない。丸耳が――あら、 ごめんなさい、でも事実丸耳は森の破壊者ですもの――攻めてきたなら、同盟だか 何だかの儀式や取り決めを交わす前にやっつけなきゃ、森がみんな消えちゃうと 思わない? でも、父は……」 「――政略結婚の話に乗った、と」 「ええ……」  リディアは口ごもった。どうやら、政略結婚という行為自体、アールヴにとって いかがわしく恥ずべきことであるらしい。 「あたしはアールヴの村長の長男の妹。価値は高いけれど、妥協の余地がないくらい 貴重だというわけではない。むしろ、使ってこそ有効な存在――お腹がすいたときの レレムブリアラスみたいに。でも、でも――アールヴは、昔はそんなじゃなかった。 人質みたいな結婚に頼らなければいけないほど、脆い結束はしていなかった。 いえ、いえ――あたしは、あたしは……単にわがままなだけかもしれないけど……」  どうやら俺たち丸耳との接触が、アールヴの社会をも否応なしに変化させているらしい。 そこにあるのは力ある者となき者との対立か、あるいは戦力の低下に伴う焦燥か…… いずれにせよ、この娘はアールヴを取り巻く環境の激動に未だ対応できていないようだ。  村のため、アールヴのため、森のため……。生き残り戦術、当面の課題、百年の計……。 あらゆる大義名分が、時代を変えてゆく。リディアには悪いが、彼女に大義名分はない。  そう、勝手なものだ。そもそも、生きるということは理不尽で身勝手なことなのだ。 大義名分や諸々の看板をぶら下げてまでして、人は生きてゆく。結局、大義名分など、 理由ではなく言い訳に過ぎないのだ。俺は、充分見てしまった……。 「あなたは? ……フェリクス、て言ってたね? あたし、丸耳なんて初めて見るし、 しかも騎士様だなんて思いもよらなかったの」 「俺の身の上なんて忘れたね。毛虫は昨日の事なんか覚えちゃいないさ」  しかし、結局俺はべらべらとしゃべった。リディアが得体の知れない微笑みを 浮かべながら、手綱をぐいと引っ張ったのだ。この女……! 俺はなぜだかとても おかしくなって、ほんの少しだけ気を許すことにした。 「昔な、どこかの王国に騎士団長がいてな……自分の責任でもない敗戦の責任を 取らされて、処刑されそうになった。んで、逃げた。おしまい」 それだけ?」 「……充分だ。それだけでも、見るべきものは見てしまったさ……」  リディアはしゅんと沈み込んだ。少し、きつく言い過ぎたようだ。 「それで? これからどうするんだ?」  俺は無理に作り笑いを浮かべて訊いた。 「ええ、そうね……とりあえず真下のヨクソール川に沿って北上するつもりよ。 この先、聖なる森を挟んだ向こうの森に出て……どこか匿ってくれる村を探すか、……」 「……あるいは丸耳の世界に自由を見いだすか。だが、そいつはやめといた方がいい。 丸耳の世界だって似たようなものさ。むしろ、悲惨な選択肢しか残ってないぜ」  リディアはちょっとした美人だ。黒い髪、浅黒い肌、つぶらな黒い瞳……まあ、 彼女にエキゾチズムを感じる丸耳の男も多かろう。そして、丸耳は村長の娘などという 地位には敬意を払いはしないだろう。人間界の薄汚い現実。まあ、そんなことは 言う必要もないので言わなかった。 「……あたしって、ばかね。とりあえず飛び出しただけなんて」  リディアは笑った。だが、その笑いには卑屈さはなかった。少なくとも、俺には 感じられなかった。彼女の胸には、自由への憧れが燃えているのだろう。俺は 羨ましいと思った。同じものを見ていながら、俺と彼女の存在する場所はまるで違うのだ。 「……ああ、ばかだな」 「あ……!」  いつの間にかしゃがんで俺の隣にきていたリディアは目を丸くして怒った。 「……村に戻ればあなた誘拐犯よ! 凶悪犯罪者がそんなこと言うの?」 「……そ、そこまで……」  くっくっと笑いをこらえていたが、じきに我慢できなくなり、リディアは 笑い出した。けらけら、屈託なく。それは、暗い世界をも幸せにする笑みだった。 俺も、つられて笑った。俺は、自分が笑っていることに内心驚いていた。 そんなことは、――もう久しく忘れていた。 「笑うと、すべるな」 「うん」            *           *           *  薄暗い部屋の中で、男は跪き、頭を下げた。 「父上、不始末です」  生えている樹木を大黒柱にするという様式や、住居を密集させて路地を 複雑にさせるという村の作り方などから、アールヴの住居は一般的に薄暗い。 村長の部屋は、その中でもとりわけ薄暗かった。雑多な呪術道具がきちんと 整理されたその部屋は、見る者に言い知れぬ圧迫感を与える。 「……仕方なかろう。あの丸耳は計算外だ」  なだめるような村長の声に、ヒューゴーはかえって憤った。 「いえ、あの丸耳は逃走に際して特に役に立ってはいません。リディアが 逃げたのは、ほかならぬ……」  ヒューゴーの脳裏に、ナディーヌの安堵したような心配顔が浮かんだ。 リディアが逃げたと真っ先に知らせてきたのはナディーヌだった。逃走経路は…… そう、いつもヒューゴーとナディーヌが密会するときに使う、二階窓から 降ろした「秘密の」蔦。別にわざと逃がしたわけではないとナディーヌは言うが―― まあ、多分あからさまに逃走を手伝ったわけではなかろうが―― ほのめかしぐらいはしたか。  ヒューゴーが目を上げると、父はリンゴの大きさほどの水晶球を操っていた。 まるでそれを転がして座標を探るがごとく、繊細な手つきである。ほの暗い部屋の中に、 それはうすぼんやりとした奇妙な輝きを放っていた。  村長は先ほどから水晶球で逃亡者の様子を窺っていたのだ。その速度、その的確さ。 ヒューゴーは新たな驚異の念を胸に抱いて、父の姿を仰いだ。白い髪、皺の寄った ふしくれだった指……肉体には、歳月に見合うだけの充分な経験が刻まれるものだ。  父は何やら呪文を唱えている。指の動きは複雑さを増し、それにつれて水晶の 輝きも強くなっていった。部屋の中に、言いようもないピリピリした刺激が走る。 外部から切り取られたように、部屋の湿り気が急速に失われていく。 空気が張り詰めきった瞬間、村長の手の内側が淡く光った。手より発せられた光は 意志ある不定型の生き物のように水晶にまとわりついた。流体のように水晶の表面に 展開した光は、次の瞬間静電気のかすかなスパークに変わった。火花はほんの 二、三秒ほど水晶の表面を踊っていたが、徐々に内部に浸透してゆき……突然、 水晶の中の映像に重なった。  ヒューゴーは驚嘆のうめきをもらした。共感魔法だ。魔法により対象と相似の空間を 造り出し、そこにさらに魔法的ファンクションを外挿してやることによって対象に 遠隔操作をかけるのだ。数段階の手順を必要とするため、その難易度は直接魔法を 使用するときとは比較にならない。だが、水晶球の中で、カエルが落雷に脳髄を 灼かれて落ちてゆく。落ちた先は川の中だ。この遠距離を、的確にしかも タイミングよく魔法で攻撃できる者など、ヒューゴーはこの父をおいてほかには知らない。 「リディアはヨクソールの川に落ちた。これから足止めをかける。殺すもよし、 連れ戻すもよし……ヒューゴー、妹は自分のやり方で裁くがよい」 「は」  さらに共感魔法を連発する気か。ヒューゴーは父の底知れぬ力に、畏怖すら覚えた。 「剣士の剣は封じる。奴は捨て置け」 「はい、父上」  ヒューゴーはすっくと立ちあがり、父の部屋を出た。だから父のつぶやきを、 彼が聞くことはなかった。 「……だがヒューゴー、果たしてお前は窮鼠の妹に勝てるかな?」  水晶球はすでに別の対象を映し出していた。サダルメリク――強大な軍事力を持つ シャナラの村の長で、リディアの婚約者だ。水晶の中に映ったその顔は あくまで無表情で、その心を窺うことはできない。  そして、村長のその笑みからも、彼の内心は読み取れない――。


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