裏切りに遭った時、奇妙なことに俺にはたいした感情は涌かなかった。  戦友たちが一度に死んでいったあの戦いに較べれば、俺の破滅など些細なことに 過ぎなかったからも知れない。  まだガキとしか言いようのない若僧から引退間近の老雄まで、無二の親友から 犬猿の仲の論敵まで、……ほんの僅かの悪夢の瞬間に、みんな劫火の中に消えていった。 戦場に生きる死ぬはつきものだが、あんなにあっけなく人が死ぬ所など、 俺は見たことがなかった。 『フェリクス、すまん……俺はどうしても、お前をかばうわけにはいかない』  ローランドはそう俺に言った。いつも悪趣味なビーヴァー帽に高そうな生地の服、 そして服の下に見え隠れする甲冑――顔はまあまあの伊達男で、やたら女にもてる、 調子のいい男だった。だが、俺は奴を好きにはなれなかった。調子がいいことと 愛想がいいこととは違う。  軍事査問会なるものが開かれたのは、ロルカ王国開闢以来はじめてのことだった。 一ヶ月の間牢獄に幽閉されていた俺は、その豪華な広場の眩さに目を細めた。 扉から入って正面には巨大な紋章旗――翼を拡げた火竜が鎮座する、赤い玉座を あしらった深紅の旗だ――が、薄暗がりの中で松明に照らされ、ほとんど鳶色に 近い色で輝いている。その下には議長席。覆面をした男が、一段高い所から部屋を 睥睨している。左右にも覆面をした査問委員が、やはり高い席から俺を見下ろしている。 ローランドだけが素顔のまま、議長の傍らに厳粛そうに直立していた。 窓のないその部屋は、これだけ金や黒檀、絹やビロードに囲まれていながら、 奇妙なことに俺が幽閉されていた石壁の牢獄とさほど変わらぬ空気で満たされていた。 『まず初めに、……』  議長が何を言っていたか、俺にはその一言しか思い出せない。俺に発言する 機会と権利がまるで与えられていなかったからかも知れない。きっと、俺の罪状を ずらずら並び立てることに終始していたのだろう。俺はずっと、エリンカという 馴染みの女のことを考えていた。赤みがかったブロンドに菫色の瞳、 ちょっとそばかすが濃くてよく笑う娘で、……酒場で働いていて、彼女の作る ベーコン料理は赤ワインによく馴染んだ……。最初は俺もほんの火遊びの つもりだったのだが、じきに俺は他の女に見向きもしなくなった。騎士団長と 酒場の娘ではいかにも遊びに見えるが――事実、俺の副官のホルヘはそれを 酒の肴にご機嫌に飲んでいたようだ――、あんなに気立てがよくて優しい娘を、 おもちゃのように扱いたくはなかった。あの娘が俺との関係でとばっちりを 喰らわなければいいが、……俺はそのことだけが気がかりだった。 『……であるから、被告人フェリクスなる者の罪は、王の輔弼の臣たるべき立場に ありながら、その必要とされる瞬間にその義務をなしえなかった点にあり……』  一通り彼女の身を案じ終えた瞬間に、検事官のその言葉が耳に飛び込んできた。 その通りだ。要するに、俺はなすべきことをしなかった。  俺は、生き残ってしまった。  俺は、死ぬべきだったのだ。王に誅殺されることと引き換えに、死を以て 諫言すべきだったのだ。  だが、負け犬に後悔する自由はない。幾多の友人や仇敵の死の横たわる荒野で、 それから目をそらす自由さえない。すまない、と一言詫びることすらできない。  それから査問会は数時間にわたり、微に入り細に穿ち、俺の生い立ちや 経歴を検討し、糾弾し続けた。並の人間なら、あまりの退屈と陰険な言葉の 極細の針に音を上げていただろう。だが、……俺にとって、苦痛ではなかった。 ……俺は、生き延びてしまったのだ。そう、あの一瞬、阿鼻叫喚の死の嵐と絶望の 数時間のこと――目の前で起きたことなのに、その実感は薄く、儚く、 俺には悪夢の中の瞬間にしか思えない。その程度の感情しか持てないのだ。 もはや、人間と呼べる最低の線からも大幅にはみ出している。俺は、 むざむざ生きてここにいる。なぜ? なぜ!  ローランドは酷薄な目で俺を見ていた。この、壊れようとしていながら ふんぎりもつかず、無様に躊躇している惨めな俺の心を見透かすような目で。 やがて、奴はタイミングを計って、傍らの議長に諮った。 『議長、これまでの議論の通り、フェリクスの罪状は明白です。これ以上 論を進めても、いずれ落ち着くだろう結論に変化はないと思われます。 ですからして、むしろ重要なのは、罪人を今後どのように用いるか、です』 『……そう言うからには、君のことだ、何か良い案があるのだね、ローランド君』  奴はうやうやしく頭を下げた。ほんの一瞬のことだったが、俺は見た。 その目には、何かあざ笑うような――俺だけでなく、この場の全ての 人間をだ――光がともっていた。 『この者は確かに罪人です。王を諫めなかったことによって、不忠の罪を犯し、 かつ味方の壊滅を招き、挙げ句、敵をして領地を侵略せしめた重罪犯です。 ですが、この者の罪はそれにとどまりません』 『では、何だね』  ローランドの持って回ったような言い方にしびれを切らした査問委員の 一人が、いささか刺のある口調で訊いた。 『無論、敵にとっての戦犯です』  おお、と査問委員たちはどよめいた。後で知ったことだが、この査問会は そもそもがローランドがしかけたものだった。委員たちは、ここにきて ようやくこの査問会の意図に気づいたのだ。 『私は厳粛かつ神聖、畏敬されるべきこの軍事査問会の名において 提案いたします。被告人フェリクスをただちに戦犯として敵国アルファートに 委ねましょう。彼らも先の戦闘によって、少なからず被害を受けました。 城一つ、町一つ占領したところで、手負いの獣の貪欲さは満たされることは ありません。但し、戦いの責任者を引き渡し、裁決を敵に委ねてしまえば、 敵は口実を失います。王族は法を統べる、王に処罰なし、とはこれ世界の 常識です。まさか、敵も王にまで不埒な要求はしますまい』 『ふむ、だが、それは弱腰すぎまいか。……我ら弱しと見て、さらに要求が 露骨なものにならぬとも限らぬ。それに、先の戦いにおいて、優秀な 野戦の将軍があまた死んだ。それはさらに我が軍を弱めはしないか』  議長がローランドに訊いた。奴は動じることなくすぐに受け答えた。 『下手に出た相手に対して嵩にかかるのは礼儀知らずなことでございます。 それによって少ない利益を得たとしても、長い目で見れば大きなものを 失うことになります。王は、敵味方に関わらず、寛大であるべきものです。 そのことは敵も承知してございましょう。さらに、この者は敗軍の将です。 いまさら語るべき口など持ち合わせてはおりません。将軍など育てれば育ちます』  ローランドは今回は守備隊に配属されていたため出征はなかったが、 これまでの数度の戦に勝利を収めた実績を持つ将軍だ。この一言は 説得力を持ち、査問委員は全員納得した。  奴は俺の方を見てニヤリと笑った。その笑いが意味するものが何か、 そのときは俺にはわからなかった。ともかくそのとき俺は、奴の 裁決通りの罰を受けることを願っていた。俺は、生き延びた。そして、 これ以上生き延びたくはなかった。俺が無事でいたりしては、 死んでいった者に対して申し訳ない。詫びることももはや俺には叶わぬ連中に、 俺はどんな形でもいいから詫びを入れたかった。  再び牢獄に入ってから輸送の馬車に乗せられるまで、さして 時間はかからなかった。雪の朝、空気がしんしんと澄んで、 雲も太陽もまだ凍っているような時刻に、その馬車は来た。 黒塗りの護送用の馬車で、窓には鉄格子が入っており、鍵も外から かけるようになっている。俺は木の手枷をはめられたまま、馬車に 押し込まれた。白い息の中で、震えを抑えられぬままに、俺はやっとの思いで 窓の外を見た。鉄格子の入った、小さな窓からのぞく全てが、俺の故郷との 最後の別れだった。俺は、鎧を着せられていた。俺の鎧――肩に牡山羊を あしらった鎧だ。戦場には鎧兜に身を包んだ男どもがそれこそわんさといて、 敵味方の判別が難しくなるため、盾や鎧に自らの続柄を示す紋章や パーソナルマークをつけるのだ。敵にはそれが悪魔の紋章に見えただろう。 そして、アルファートにつけば、この鎧が、誰が憎むべき殺戮者の親玉だったか わかりやすく表示する標識となるわけだ。  どれくらい走っただろうか。規則的に響く蹄の音と車輪の芯棒のきしみは、 俺を眠りの泥の中に引きずり込む。途中、俺は何度もウトウトしては、 頭をぶつけて目を覚ますといったことを繰り返していた。御者が不機嫌そうに うなりながら俺を蹴飛ばし、無造作にパンとベーコンのサンドイッチを 俺に投げ与えるまで、その単調なしらべはやむことがなかった。  敵国アルファート。俺は、どんな扱いを受けるのだろう。それが、 楽しいものではないことはわかる。拷問が苦しいもので、俺の傷を 塗りつぶしてくれればありがたい。そう考えて、俺は暗然となった。結局、 俺は自分のこと以外考えられないのか。皮肉っぽい笑みが、思わず俺の顔を ほころばせた。それは、笑うべきものでしかなかった……。  次の瞬間。その笑みはいとも簡単に凍てついた。  いや、拷問以外にも……アルファートには選択肢がある。俺がこうやって 護送されているのは、少なくともアルファートが俺を受け入れたからだろう。 どういう形で?  ……自国の兵を撃滅した憎い敵。すなわち、良将だ。  アルファートは、俺を抱え込むことで、簡単に祖国――ロルカ王国の面子を ぶち壊せる。挙げ句、俺に兵を任せ尖兵とした場合、……ロルカの民は 俺一人だけを恨むだろう。アルファートは、住民の怒りを買うこともなく、 ロルカを国土とできる。  俺は、馬車の中を見渡した。なんと、そこには――剣があった。囚人の 護送車の中にはあるはずがないものだ。そう思っていたから、多分何度も 視界に捉えていながら、見てはいなかった。  つまり……査問会のメンバーも、そのことには気づいていたのだ。だから、 この剣を渡した。万一、アルファートが俺を召し抱えようとしたならば、 剣で自殺するようにだ。ダガーではいかにも恥辱の自殺だ。剣士が自害するなら、 剣以外に考えられない。アルファート王の面前で堂々と死ね。そういうことだ。 長剣では目立つ――護送される囚人が寸鉄でも帯びていること自体ナンセンスなのだが ――ので、乱戦用の片手剣を用意した。アルファートの兵士も将軍も王も、 それを見れば俺の意図に気づくだろう。死にゆく者への礼儀として、 この程度は許されるに違いない。王の前でそんなものを振り回したところで、 せいぜい槍ぶすまに盛大に針刺しにされるのがオチだ。  俺はローランドに感謝した。あのにやけた仮面の下に、そこまでの配慮が 隠れていたのか。そのときは、俺は心から奴の行為をありがたいと思った。  そして、夜になった。宵になると風も出て、ただでさえ寒い空気が更に 切るように冷たくなる。御者はずっと罵声をあげていたが、ここへきて 更にボルテージを上げたようだ。声は一層大きくなり、馬車の中の俺にすら 聞こえるまでになった。その内容とくるや、弱虫騎士に対する侮辱から 始まって、そんな重罪人を運ばせるお偉方、残虐な敵、頭の悪い馬や 慈悲心のない神にまで及ぶ叙事詩だった。俺はその壮大な詩吟に眠気を誘われ、 再び船をこぎはじめた。今度は、けじめをつけるべく定められた未来のおかげで、 さしたる不安もなく、眠りはやってきた。  その刹那だった。  だしぬけに、ガタンと大きな音がして、馬車が止まった。硬く冷たい 木の座席に背中をたたきつけられて俺は目を覚ました。御者の声は 聞こえなかった。普通の馬車と違って、この囚人用の馬車には前方への 覗き窓などないから、俺には彼の安否を確認する術はない。無論、 外から鍵のかかった扉を開けて、直接彼の様子を見るわけにもいかない。  表には、数人の戦士の気配がした。武装した兵士の鎧の鳴る音は、 いわば俺の職業に密接な音だ。厚い扉ごしだろうと、間違えようはずもない。 俺は、反射的に剣を抜いていた。乱戦用の剣だ。少なくとも、この狭い 馬車の中で戦うには向いた剣だ。  奴らが入ってきたら。  俺は……斬らざるをえないのだろうか?  恐れが、俺を支配していた。  まさか。まさか――。  扉の鍵が叩き壊される音がした。扉が開くと、ひんやりとした空気が室内に 流れ込んできた。雪明かりと月の輝きが逆光となって、扉を開けた男の姿は よく見えなかった。  だが、俺にはわかった。 『……お迎えにあがりました、フェリクス様』 『……貴様……よくも、早まったまねを……』  それは、かつての俺の部下だった男だった。ハイメ――先の戦役で生き残った、 数少ない騎士の一人だ。癖のある金髪をかきあげひっつめた、一見 女じみた風貌の若い男で――実は、軍の中でも最も頑固な男だった。 その屈託のない笑顔に、俺はことさら衝撃を感じた。  彼らは……俺を救出しにきたつもりなのだろう。総勢八名。みな、 俺の部隊の生き残りで、一兵卒から騎士まで、さまざまな階級の 軍人ばかりだった。  ……ローランド、め。  こいつらが単独でこんなまねをするはずがない。奴が背後にいる。 そのとき、俺は全てを悟った。俺は、絶望よりも悪夢よりも、 はるかに悪いものが世の中にあるのだと気がついた。  瞬間、矢がハイメの頭を貫通した。クロスボウ用の、短い鉄製の矢だ。 ハイメには、その瞬間まで何が起こりつつあるのか理解できなかっただろう。 知らないで死んだのは、勿怪の幸いだ。  俺は反射的に馬車の中に身を隠した。絶叫が響き、状況をどうしても 把握できないまま、兵士たちは怪訝そうに死を迎えていった。 『馬鹿野郎……』  思わずつぶやいた俺に、奴は続けて言った。 『……信じた相手が悪かったな』  月明かりの中、黒ぐろと浮かぶそのシルエットは、悪魔そのものだった。 ビーヴァー帽に金ぴか趣味の服の悪魔。俺は―― 『筋書き通り。ここまであっさりうまくいくとは思わなかったよ。 唯一の生き残りの野戦の将軍を、ロルカから引き離す。ロルカに 守りの壁はなくなる。護送中、フェリクスが逃亡。手引きをした連中は 皆殺しにしたが、戦犯の本人は逃亡に成功。ロルカは敵に口実さえ 与えてしまうわけだ。おまけに、アルファートがロルカを滅ぼした後も、 宣伝次第では民衆の不満はあんた一人が引き受けてくれる』  ローランドに目には、嘲笑が踊っていた。この野郎は、わざわざ俺を 追いかけてきて、馬鹿にするためにここにいるのだ。唆した「反乱分子」を 自ら消す必要があったからだろうが、この瞬間、奴は俺を侮辱するために そこにいた。  俺を負け犬と笑うために。 『貴様……祖国を売るのか?』 『あんたの口からそんな陳腐な台詞が出るとは残念だよ。どうやら、 時代が見えないようだから、ひとつ教えてやる。物価がやたら高いのはなぜか?  小国が乱立してあちこちに関所があるからだ。……そのことからだけでも、 旧い時代はその生涯を終えるべきだとわかるだろう』  奴は芝居っ気たっぷりに俺に指をむけた。 『貴様は遺物だ。旧い時代の中で朽ち果てるべき遺物だ。祖国などという 概念で、変わるべき世界を縛ろうとする錆だ! ……もはや、貴様の面など 見たくもない』  そこだけ抜き取ればまったくの正論を、奴は吐いた。そう、騎士は常に 正義と共にある。 『さっさと殺せばよかろう。さっきから、何をほざいてやがる。 俺に納得でもしてもらいたいのか? あいにくだな……俺も、 貴様の作るよき時代など、見たくない』  奴は肩から力を抜いた。一瞬、奴は苦笑したようだ。何に対してかは 知らない。とにかく、奴は最後にこう言った。 『……まあ、いいさ。君には死の名誉すらくれてやるつもりはない。 消えうせろ。さっさと逃げて、惨めな野垂れ死にのぬかるみへと 這いずって行くがいいさ』            *           *           * 「っ、ててて……」  どうやら俺は、気を失っていたようだ。リディアの方が俺より長く 気絶していたので確認する術はない。落ちた先が川の中で、しかもカエルの 死骸の上だったこともあって、俺とリディアはたいした怪我もなくすんだ。 しかし打ち身が痛むことは事実であり、当面はこの「幸運」を喜ぶ気にはなれなかった。 「…………」  目を覚ましたリディアは、そのまま後頭部を押さえてうずくまった。 そして、とんでもない表情で悶えていた。俺は何かまずいものを見たような 気がして、彼女が立ち直るまで目をそらしていた。 「おーお、鎧がびしょ濡れだ」  鎧だけではない。下着の奥までびしょ濡れなのである。俺は背中のリュックを 探ろうとして、それを宿屋に置いてきたままであることを思い出した。 これでもう、鎧を乾いた布で拭くことも、火口で火を起こすこともできない。 もっとも、もし仮に俺が荷物を持っていたとしても、川の中に落ちれば どちらも不可能だ。俺は、せめて俺の荷物を宿屋の親父が 有効活用してくれることを願った。  幸いなことに、俺は剣をまだ持っていた。俺は剣士だ。たいがいの敵は、 これ一本であしらえる。俺は剣を抜いて、濡れた服の端でそれをぬぐった。 ま、ひどい状態には違いないが、少しはましだ。 「…………」  ようやく痛みから立ち直ったリディアが、不安そうに辺りを見回す。 「大丈夫だって。とりあえず、追手は振り切ったんだし」  多少脳天気に元気づけた俺を、逆に不安にさせるようなことをリディアが言った。 「……そうかしら?」 「…………?」 「あの雷撃覚えてる? あれは魔法だった。こんな距離を攻撃できる 魔法使いは、あたしは父さん以外には知らないわ。そして、それが 父さんの攻撃である以上、それだけではすまないでしょうね。多分、 あたしたちを足止めして、その間に追手を追いつかせるつもりなのよ。 当然、父さんはあたしたちの位置を把握してるわ」  刹那。俺はそいつに気づいたが、遅かった。


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