逃げきることができるなんて、思ってもいなかった。兄さんがいる。兄さんは、 絶対にあたしを許さないだろう――だから、絶対に追ってくる。  でも、ここまで来た。来てしまったから、欲が出てきた。ひょっとすると……。 もしかしたら……。最初は頭の片隅にあっただけのそれが、いつの間にかどんどん育って、 今やあたしの頭の中はそれでいっぱいだった。希望。儚い響きのその言葉は、 羽毛のように軽く弱々しくも、実体を伴ってあたしの手の中にふわふわ落ちてこようとしていた。  それにしても……丸耳の騎士さんには、悪いことしたわね。あたしは、 自分のしたことに今さらながら後悔を覚えていた。村の路地裏の逃走。 フライングリーパーでの逃亡。墜落。サンショウウオとの戦い――そして 剣を失ったこと……はぁ。本っ当に今さらよね。あたしはもっと安直に 考えていたのだけれど、ここまで騒ぎが大きくなるなんて……。このお方―― フェリクスさまって、おっしゃったっけ? ――は騎士道精神であたしを 助けてくださっているのかしら? いずれにせよ、あたしは剣を失うに 値するような女じゃないと思う。……ナディーヌほどの美人で器量よしで 性格温厚の女性なら、ともかく。  でも。なんであたしは、この人と一緒に逃げているのだろう? この人は、 アールヴですらない。ちょっとしゃべっただけで、ちょっとうちとけただけで、 これ以上この逃避行につきあってもらう必要はない。むしろ、あたしといる方が 危険なのだ。多分……兄さんが追ってくる。そして、この人は丸腰。  あたしは立ち止まった。鎧を着て走っていたフェリクスは、大汗をかいて 息をきらせながら、あたしに追いついた。彼の明るい金髪ときらめく甲冑、 そして汗の玉が、辺り一面を覆う暗い緑色に映えて輝いていた。森の暗さは、 生きとし生ける者全ての母の胎内の暗さ。こんなにも明るい光を放つ、 丸耳という種族には、もう森という母は必要ないのかしら? 「あの……、ここまでありがとうございました。ここからは……」 「……別れた方が安全、とでも言うんだろうけど、そうもいかないよ」 「……え?」  彼はニヤリと笑った。あたしはその笑いにドキリとした。あたしは彼を さんざん振り回しただけで、あまりいいところは見ていないけれど、 ――あたしはその笑いをかっこいいと思った。 「――俺は、君に感謝しなければいけないかもしれないな」 「……え? え?」  いったい、何を感謝するというの? あたしは、迷惑をかけただけなのに? 「久しぶりだよ。こんなに楽しかったのは」 「…………?」 「……まあ、いいや。俺は口下手だから、何時間かけたって説明できないだろうね。 とにかく、俺は最後までつきあってみるさ。村に帰れば、死よりも悪い運命が待っているんだろ? いざとなったら、盾になろう」 「……あなたは、まことの騎士なのですね……」 「……家への帰り道を知らない、というのもあるんだがね」  まじめくさった顔をしていた彼は、そういって再び破顔した。顔を くしゃくしゃにして笑う彼の声に、あたしも思わずつられていた。あたしは、 胸が痛かった。あたしは、こういう形で必要とされたことはなかった。対等の人間として、 扱われることは。  そのとき。心凍てつかせるような、森ごと震わせるような、すさまじい叫び声が響いた。 ネコ科の猛獣の雄叫びのような、それでいてさらに獰猛な本性を予感させる、 悪夢のうなり声。それはかなり遠い声だったが、それでも充分に恐怖をかきたてる声だった。 「……何の声だ?」  フェリクスは本能で、その声の持ち主が恐るべき敵であることを悟ったらしい。 あたしは、ほんのわずかばかり前まで抱いていた淡い期待が脆くも霧散したことを知り、 茫然としていた。 「……竜よ」  兄さんだ。どうやら、やはりあたしは放っておいてもらえはしなかったらしい。 それどころか、兄さんはあんなものまで連れてきた。 「家で飼っている竜よ。アールヴには、竜と戦って、それを乗用とするという 習慣があるのよ。……やっぱり、もういいわ。逃げて。下手すると、……いえ、 殺される危険性は大だわ。あたしだって、命の保証はないでしょうから」  あたしは一気にまくしたてた。あたしの目には、もはや何も入ってこなかった。 「竜って、どのくらいのサイズだ? 聞いた話だと、大きいのから小さいのまで……」 「馬の二倍ってところよ。もっとも、手ごわさは馬の比ではないわ。それに、 犬よりも鼻がきくの。もう、あたしの匂いは確認済みじゃないかしら。クマだって、 あの影を頭上に仰いだときは一日中穴の中にいるって話よ」 「……だけど、アールヴは戦って勝っているんだろ?」  フェリクスはあたしの肩を揺さぶり、強引にあたしの視界に入ってきた。目の前で 揺れる金髪が、なぜかとても自信ありげに見えた。 「久しぶりに勝ってみたくなっていたところだ。俺に機会をくれないか」  そして、あたしに耳打ちした。あたしは……到底かなわないと思った。 絶対負けると思った。でも、その言葉がとても気になったから……結局、 首を縦に振った。その瞳はえぐられた心の傷に潤んでいた。その顔には長い放浪生活の 疲れがにじみ、つやを失っていた。にも関わらず、彼は笑っていた。精一杯の気力を ふりしぼって、笑っていた。今になって、やっと気づいた。今日、ずっとあたしが 見てきた彼の笑いは、そんなに痛々しい努力なしには紡ぎ出せないものだったのかしら? 傷つき、疲れ果てながらも、人はこんなに優しく微笑むことができるのかしら? ……あたしには、せめて感謝することくらいしかできない。  轟く咆哮が、次第に近づいてくる。竜は無頓着に枝をへし折りながら 飛んでくるのだろう。ペキペキ枝が弾け飛んでゆく音もそれに混じっている。  あたしは言われた通りにシダの茂みに身を隠した。青臭い湿った茂みは、いかにも薄く 頼りない。どうせ匂いは竜にバレているのだが、今はフェリクスを信じるしかない。 「重要なのは、こちらの望む行動を相手にとらせることさ」  ええい。駄目でもともとだ。あたしが魔法を使うなら、兄さんも魔法を使うだろう。 竜がいる限り、力の拮抗すら望めない。囮でもなんでもやってやるわ。向こうの茂みで、 一瞬だけ甲冑が木漏れ日にきらりと輝いた。  数瞬を置かず、バリバリバリという騒音とともに、竜はフェリクスの仕掛けた舞台へ、 一気にソデから乱入した。凶悪な巨大野良猫の鳴き声――ナディーヌがよく 顔をしかめてこう表現していた――が、音響効果もないホールに響き渡る。 勝ち誇ったような響きの絶叫の後、漏斗に水が吸い込まれるような、 竜の呼吸音が聞こえた。――まずい!  あたしは咄嗟に逃げた。次の瞬間、シダの茂みは丸ごと炎上していた。 ――竜の息吹。ツンときつく、酸っぱい臭いの炎があたしの髪を焦がし、 顔を火照らせる。犬歯の奥の毒嚢から分泌される燃焼性の毒液を、霧状にして 噴射するのだ。直接液体がかかればそこは炎上するし、細かい霧状になった 毒の水滴は急速に酸化発熱するので、呼気も熱風のように加熱する。竜の息は、 文字通り灼熱の嵐となって獲物を焼き尽くすのだ。  ラグをつけて、竜は第二弾の炎を放った――フェリクスの鎧の煌いていたあたりに。 シダは高熱の炎の中で見る間に細り、黒い線となってゆき――消滅。その向こうには、 炎の輝きを表面に映し、赤く輝くフェリクスの鎧だけがあった。 「馬鹿者め! 頭隠して尻隠さずとは貴様のことだ、丸耳! 竜の鼻は、 貴様のぷんぷんする悪臭をとっくに捉えているわ!」  兄さんが大声で嘲笑った。あたしからは竜の腹しか見えない。竜は即座に 長い首を返すと、第三弾の炎を放った――がっしりしたクスノキの梢に向かって。 頭上で木の葉がはぜ、灰と火の粉になってあたしの頭に降りかかってきた。 生木が燃える白煙で、あたしは涙をぽろぽろこぼしながら走った。 くしゃみも止まらない。あたしはさらに夢中で逃げたので、決定的な瞬間は 見逃してしまった――まるで爆発するかのように激しく燃えさかるクスノキから、 あたしのアールヴ紬の絹のレースのショールが灰になって落ちる瞬間を。 多分、兄さんもその瞬間を見てはいなかっただろう。それと同時に、 燃えさかる梢から、生木の枝の太く鋭い矢が飛んできたのだ。フェリクスが、 安全装置の役割をする練り絹の紐が燃え落ちた瞬間に弓を発射する、即席の投射器を 仕掛けていたのだ。彼の腕か偶然か、その弓はまあまあの正確さで竜に襲いかかった ――すんでのところで兄さんはその一撃を避けそこなうところだった――ため、 兄さんは、ほんの一瞬だが、それを避けることに気を取られた。まさにその瞬間、 クスノキの方角を向いた竜の首に、さらに上から落ちてきたフェリクスがかじりついた。 「無敵の竜とて、目玉の奥は柔らかい脳みそさ」  ほんのついさっき言ったフェリクスの言葉が、まざまざとあたしの脳裏に甦った。 普通なら、こんなことを当てにして竜と戦う人はいないだろう。本当に丸耳という 種族は……! あまりのことにフェリクスに炎を吐きかけることも咬みつくこともできず、 折れた剣の束頭を左目からぐいと差し込まれた竜は、たまらずに放物線を描きながら落下した。  あたしは急いで竜に駆け寄った。あの人はなんて戦い方をするの! 竜はその硬い鱗のため、一見、まるで無傷でそこに横たわっているようだった。 だが、折れた剣が左右の目を貫通し、脆い脳髄を砕かれて即死しているのは 明らかだった。よく見れば、その緑の鱗のすき間のいたるところから、 赤い血がにじみ出ている。鼻につく、吐き出しそうになる血の臭い。 未だ巨大な皮翼や剣のような尻尾、後肢などがひくひく蠢いているのは、 巨体ゆえに、身体の末端が脳の死を理解できずにいるからだろうか。  その竜の背中から男が立ち上がったとき、あたしは嬉しさに心臓が止まりそうになった。 「……フェ――」  ……竜の、背中? ……あたしは、ようやく気づいた。何の反応もできないでいる あたしの目の前で、黒髪の男は悠然と竜の背中を降りた。 「……こんなたいした男に遭えて、私はお前に感謝しなければならないかな ……竜を狩るアールヴにも比類なき勇気よ……あいにく、甲冑もなく、 打ちどころも悪かったらしいが、な」  ヒューゴー兄さんはバンダナをずらして髪をかきあげ、同時に額の血を拭った。 落下がこたえたという点では、多分兄さんも同様だ。いや、この出血から見て ――明らかに、竜の返り血だけではない――、フェリクスより兄さんの方が痛々しい。 しかし、確かにフェリクスは打ちどころが悪かったようだ。ぐったりとしたまま、 ピクリとも動かない。 「……ショールに自分の汗をふんだんに染み込ませ、臭いの囮を置く。おまけに、 火を浴びせられたら反応する罠か……まだ、二つ三つ似たような罠がしかけてあるのだろう? まったくたいした奴だよ、こんな短時間によくもまあ、そこまで……」  兄さんはにやりと笑った。その鋭い眼光も衰えておらず、おまけにやんちゃ坊主のような 笑みもたたえている。男って……兄さんは、今の大喧嘩を大いに楽しんでいたようだ ……そして、フェリクスも。意識があれば、だけど。 「惜しい男だが、あいにく丸耳だし、妹を拐かしたのだ。父上は捨て置けと おっしゃったが、こんな男に生きていてもらってはこの先どんな不都合があるか」  突然、兄さんは真顔になった。血を吸ってぼさぼさになった長い黒髪が、 腰のあたりで揺れた。多分、あたしはその言葉を聞いて表情が変わった。 兄さんが再びニヤリと笑ったから。 「こいつの命は……」


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