あたしは腹を括った。奪い、勝ち取る何かを心に秘めているのなら、そして、守るべき人が そこに倒れているのなら、――兄だろうと容赦なく殺す。そのつもりで戦わなくては、 この頑固な兄は説得できまい。男という生き物は、丸耳だろうが長耳だろうが、 唯一「力」という言語しか理解できない。どうしようもないなあ。 「こいつの命は……」  お前次第だ、というわけね。みなまで言わせたら場は完全に兄さんに支配されるから、 あたしは手早くこっそりと印を切った。ショールさえあれば、両腕を隠したままで もうちょっと強い魔法が使えるのだけど――魔法の焦点たる指輪さえあれば、後ろ手で 魔法の奇襲をかけることくらい、できる。 「……お前し……」  あたしは右手をできうる限りの速さで兄さんに向けた。肘の辺りから何かがごっそり 抜けるような虚脱感――うう、ちょっと焦点が甘くてあたしの気力まで 持ってかれたみたい――とともに、電気の束が兄さんに向かって伸びた。髪の毛が 静電気を帯びてパチパチと音を立て、ばらけた。電気の重槍が過ぎていった後の、 冷たく灼けた大気の臭気が、湿った森の香りと混じってあたしの目と鼻をくすぐった。 一瞬で標的に到達するこの魔法なら、狙いは外さない――はずなのだが、 かろうじて兄さんは避けた。どうせ、あたしには奇襲という手札しか急場しのぎのすべはない、 と踏んでいたのだろう。兄さんはその瞬間に三メートルほど移動して、油断なく ブレードロッドを構えた。昔、流浪の撃剣指南が兄さんのことを「歩法は完璧」と 褒めていたけど、このことね。もっとも、兄さんは冷や汗をたらたら流している……あたしにも チャンスはある、ということかしら。 「重雷槍だと……おいおい、実の兄を殺す気か?」 「実の妹をいやらしい中年オヤジと結婚させようとした人の言いぐさとは思えないわね」 「ふん。誰にだって言いぐさや大義名分はあるさ。肝心なのは、それを相手に認識させる 力さ。無論、言葉も力の一種だが――私に理解できるのは、唯一強さだけなのでな」 「ちっとはあたしの言葉を聞く耳くらい持ちなさいってば……」  あたしは両手を挙げた。この体勢から繰り出せる魔法は皆無なので、アールヴにおいては 「一時休戦」を意味する仕種なのだ。丸耳においても同じ意味らしいが、そっちは 「武器を持っていないことを相手に見せるため」らしい。なんか奇妙な一致だ。  兄さんは肩を落とした。無論、その体勢からでもあたしを斬ることはできる。 だが、兄さんは誇り高い戦士だ。とりあえず、不意討ちなどをする性格ではない (剣呑な性格には変わりないのだが)。むしろ、意外そうな面持ちでこっちを見ている。 平和的に自分の要求が通るかも、などと甘いことを考えているのかもしれない。  そんなわけはない。あたしは兄さんに近寄ると――そのまま脇を素通りして、 フェリクスの身体をずるずると引きずり、離れた茂みの中に置いた。あたしと兄さんの描く 警戒円が、そのままフェリクスを通過していたのだ。……少なくとも、これから先の戦いは、 あたしと兄さんとで決着をつけるべきものだ。巻き込むつもりはない。  それに、辺り一面に立ちこめる血の臭いから、あたしは少しでも逃れたかった。 あたしはこの瞬間だけ、鼻の奥にこびりついた臭いを、深呼吸して吐き出すことができた。 あの臭いを嗅いでいるだけで、わけもなくイライラし、衝動的になってくる。あたしは、 少なくともそんなものに酔いたくない。  もっとも、フェリクスも汗まみれの血まみれで、およそ香ぐわしいとは言い難い 臭いをしていたのだが、こちらは気にならなかった。勝手なものだ。 「……決着をつけましょ、お兄ちゃん」  兄さんは首を振った。心の声が聞こえるようだ――そんなに聞き分けがよければ、 そもそも家を飛び出し、ここまで逃げてくるわけないか。 「やれやれ。あくまで戦うというのか。直接魔法で張り合うなど、剣で肉料理を捌くにも 似た愚行だというのにな。父上も私もお前も、同じ一族ゆえに得意とする魔法も また同じ雷撃。雷撃は、極めて言うならば瞬殺の業。下手をすれば、どちらも死ぬぞ」  はったり――ではない。事実だ――あたしを脅かすには至らないのだが。それにしても、 わざわざ魔法……あたしの土俵で相撲をとってくれるらしい。 「ごめんなさい。あたしが勝ったら、あたしはフェリクスを連れて逃げる。 そのかわり……あたしが負けたら……」  あたしはうつむいた。 「なるようになります」  その瞬間には、あたしは印を切りおえていた。大気を灼く鋭い電気の束が、虚空を奔る。 瞬間、血の臭いは浄化され、断末魔のオゾン臭となって辺りに立ちこめる。無論、 あたしには奇襲しかないと読んでいた兄さんは、ブレードロッドの刃でそれを受けた。  ブレードロッドの刃? 雷の性質上、例え攻撃を剣身でかわそうと、 刀身に身体が接触していて、かつ身体が地面に接触していれば、兄さんは感電するはずだ。 特にあの雷槍は電圧が高いので、地面に接触していなくたって通電する。 ……杖に埋め込まれた宝石の力だ。あたしはいまさらながらにその宝石をまじまじと 見つめた。宝石は、あたしの雷をすべて吸収して、芯を妖しく輝かせている。 「お前からの配当金はもらえないかもな。本当の魔法とはどういうものか、教えてやる」  兄さんは、地面にブレードロッドの先端を接触させた。妖しく輝いていた ロッドの宝石は、火花を散らせながら剣身へ、そして地面へと静電気の小さな雷を 奔らせた。湿気を含んだ重い土の中を、雷はまっしぐらにあたしに襲いかかってくる。 腐葉土や枯れ葉、草やコケがちぎれて宙に舞う。  だが、あたしも馬鹿ではない。雷対雷の戦いでは、どうしても攻撃は直線的なものに ならざるをえない。動き回っているか、適当な避雷針さえ用意すれば、攻撃は かわせないことはない。兄さんが雷撃を放った頃には、あたしは数メートルほど横に走って それを避けていた。地面に雷撃を放つ技は、見た目とは違って非常に効率が悪い。 電気がすべて大地に拡散してしまうからだ。つまりはこれはコケおどしで、本命の 一撃が次に来る―― 「きゃ……!」  兄さんが意地悪くニヤリと笑った。ブレードロッドが宙に翻ると、雷は進路を ねじ曲げてあたしを追ってきた。 「……カーブするの?」 「軌道も変えられぬようでは魔法とは呼べんよ」  冷たい兄さんの言葉と同時に、光はあたしの足を捉えた。刹那、気が遠くなるような激痛と、 足が鉛になるような感覚。あたしはわけがわからぬまま、足がもつれ、地面に倒れた。 頭や肩や胴に感じる衝撃とは裏腹に、足は麻痺し、無感覚になっている。数秒後、 じくじくとした痛みを膝に感じて、あたしははじめて膝を擦りむいたことに気がついた。 足だけではなく、からだじゅうあちこちがじくじくズキズキと痛かったが、 身体がいうことをきかなかった。 「いいかげん、聞き分けろ」  兄さんはなだめるような声であたしに語りかけた。腐葉土と重い土が踏みしだかれる ジャリジャリという音が、耳元近くを近づいてくる。動け、動け……。辛うじて 両手は動く。魔法を発動させるには、印を切る必要がある。印を切るには、 全身の運動が必要となる。全身のリズムで精神を極限まで一点に集中させることで、 ようやく魔法は万全に発動できるのだ。まだ、魔法を使うには全然身体の自由がきかない。  だが、逆に言えば、そのリズムさえ頭の中に再現できれば、あるいは魔法は 発動できる。ただし、中途半端な集中では、先ほどのように不完全な魔法で、 ごっそり気力を萎えさせてしまうことになる。  何か集中するための焦点となるものはない? 指輪以外に、何か。あたしの目に、 光る水晶球が映った。兄さんの腰にぶらさがったそれは、父さんからもらった お気に入りのアクセサリーだ。  球。輝く球体。あたしはそれに集中することに決めた。世界が小さな水晶球に 吸い込まれてゆく。音も、色も、匂いすらその小さな球に凝縮してゆく。やがて、 耳に言葉が響いた。あたしの声、らしい。魔法を綴る、旧い時代の言葉。 別に何語でもいいんだけど、魔法を発動するには旧い言葉が一番しっくりくる。 「ケ・セ・ベンガン・ルス・デ・ロス・アルマス……」  ちっちゃな光の精霊たち、おいで……。兄さんは立ち止まった。あたしの目には 映るはずもない角度で、眉をひそめた兄さんの顔が見えた。まさか、こいつまだ こんな魔法を使う余裕が……! 心の叫びすら、あたしの耳には聞こえる。皮肉ね、 兄さんのその水晶球の中に、世界をまるごと詰めこんじゃったんだから、 もうその世界の中の兄さんはあたしの掌中の珠。無限に続く、入れ子の球体……。  兄さんの目の前に、無数の光球が浮かんだ。一つ一つが、高速でスピンし蠢く プラズマの精霊だ。先ほどの電気の槍のときよりも格段に強烈なオゾンの香りが、 辺り一面を満たした。 「イ・ボルベレ・パラ・ラ・ティエラ・エナモラーダ……」  そしてあんたたちの愛しい土の中へとお帰り……。言葉が終わると同時に、 光の球は線となって宙を引き裂いた。兄さんは慌てて逃げようとしたけど、 もはや退路は塞いである。逃げ場のない兄さんに、光の精霊たちは容赦なく襲いかかった。  光は一点に収束し、やがて辺り一面を包んだ。衝撃波が木の葉と草を薙いだ後、 それは爆発した。腹に響くような、くぐもった爆音。周囲を包んでいた 重く湿った空気は一変して、乾いた熱いそれが支配した。背中と顔の感じる 温度差が激しい。顔は火の粉に焼かれ、玉の汗が吹き出している。まばゆいばかりの 紅蓮の炎が、前方十メートルほどのところで、半径一メートルの円を描いて 燃えさかっているのだ。あたしが場を絞っていた力を緩めると、その炎は急速に縮み、―― 「ク……クク……まったくたいした妹だよ……だが、当たらなければ意味がない」  そして炎の中から兄さんが、漆黒の影となって襲いかかってきた。黒ぐろとした 兄さんの影の中で、ただブレードロッドの剣身と宝石だけが、激しい炎の照り返しを 受けて金色にきらめいていた。 「動けない程度で許してやるから感謝しろ!」  兄さんはそのまま空中で、ロッドを大上段に振りかぶった。動けない程度? 五十センチ近くもあるその刃にこの勢いでかかれば、肩から袈裟懸けに斬られて まっぷたつだろう。あたしは空中に残しておいたいくつかの光球のうちの一つで、 兄さんを狙撃した。 「無駄だ!」  光球は斬られ、宝石はいよいよその妖しい輝きを増した。  だが、あたしはもう、勝った。この土壇場で、あたしは魔法の極意を悟ったような 気がした。この世界を一つの球体に閉じ込めている限り、兄さんはあたしには 勝てないのだ。あたしが光球の一つを、まるで見当違いの方向に飛ばしたことなど、 兄さんには見えなかっただろう。そう、それはフェリクスが仕掛けた罠――あの生木の 大型投射器の一つを作動させるために放ったのだ。そして、兄さんは、その矢の 軌線上にブレードロッドの刃をさらすべく、あたしによって誘導されていたのだ。  風が兄さんの頭上を通り過ぎた。風とともに飛来した生木の矢は、兄さんの ブレードロッドに見事激突。たぶんあらゆる魔法を吸収・反射するその宝石も、 物理的な一撃までは防ぎようもなかった。ブレードロッドははるか遠くの木の幹に、 ふかぶかと突き刺さった。 「ボルベレ!」  戻っておいで……! 最後はあっけなかった。ふりかえる暇も与えず、 光球は兄さんの後頭部を直撃した。 「…………!」  兄さんは何か言おうとしたけれど、その唇が震えるばかりで言葉には ならなかった。スパークが神経系に痛撃を加え、全身の運動を阻害しているのだ。 急速に薄れゆく意識の中で、兄さんは辛うじてあたしに一言つぶやいた。 「……見事、だ」            *           *           *  ワインが革袋に一杯なくなったところで、誰一人気にするもんか。だいたい、 この倉庫にだって入りきらずに、表にまでワイン樽があふれてるじゃないか。 宿の親父はほろ酔い加減で上機嫌にそう考えた。実際、倉庫に無断で彼が 入っていっても、誰一人見咎める者はいなかった。このワインは旨い。 文句なしにうまい。ワインを完全密封する技術など、魔法を使いでもしない限り 存在しない。ヌーヴォー――一番酒こそ、ワインの中のなかで最もうまい。 それがわかっているとは、シャナラのサダルメリクとやら、酒がわかる男だわい――親父は さらにうきうきしながら樽を開けた。だから、樽の中に酒ではない何があったのか、 結局悟らずじまいだった。自分の身に何が起きたかさえ、わからなかっただろう。 床にあふれたおのれの血糊ですら、彼の目には芳醇なワインに見えたかもしれない。 「チ……! 意地汚い爺ぃめ、こいつさえ来なければ夜まで忍んでおれたものを!」 「まあよい、予定は早まったが、不意をつくチャンスはまだまだある! 昼間だろうが夜だろうが、混乱さえさせてしまえば脆いものよ」  サダルメリク直属の近衛部隊、その中でも特別に志願した決死隊数十人が、 親父の倒れる音を合図に、一斉に樽の中から現れた。怪しまれぬために、 同朋の誇り高き近衛部隊は、御者や下男や運送人に身をやつし、この倉庫まで 彼らを運んできてくれたのだ。彼らの恥辱、汲むべし。彼らはいかにも隠密戦に 慣れた様子で、足音一つ立てずに倉庫を飛び出した。その影を人目に 触れさせることなく、彼らは次々と樽の陰に、塀の裏に、木の根元に散開、 配置を完了させてゆく。 「勝利、のみを我らがあるじに!」  部隊は行動を開始した。


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