まぶしい。私はうっすらと目を開けた。青い空が、木々のわずかな隙間からのぞいていた。  きれいだ。私はそう、思った。徐々に明瞭になりつつある私の心を、その美しい青は決して 見放しはしなかった。 「きれいだ」  私は今度は声に出してそう、つぶやいてみた。喉を震わす声。乾いた唇になめらかさを 与える、湿った息。……私は未だ生きていた。緑、木々の茶色と黒、雲の白、 何かの実の赤……世界は急速に華やいだ色で飾られてゆく。焦げたきつい臭いに混じって、 森の優しい湿った香りが鼻をくすぐる。この傷、この痛み……私は未だ生きてここに在る。 ナディーヌに……逢える。 「リディア!」  私は勢いよく跳ね起きた。ぐるりと周囲を見渡してみて、私はリディアが 逃げのびてくれたことを確認した。私は苦笑した……さんざあいつに「村のため」などと 説教をくれておきながら、その実私は心の奥で、あいつに逃げてもらいたがって いたのだ――ナディーヌを喜ばせたかったから。アールヴ族の掟のあの特例があっては、 彼女も気が気ではなかろう。リディアの身とて、命の保証もできない。私は 周囲を念入りに探して、再びリディアがいないことを確認した……そうだ、 ここにいるはずがない。そこにはただ、一面の焼け野原と、一変したねぐらの惨状に あわてふためいた鳥の声、そして丸耳を魔法の力で癒しているアールヴの少女の姿が あるだけだった。  ……アールヴの……少女? 「リディア?」  本来ならば、私は重傷で起き上がれまい。落下による打撲傷、擦過傷、そして 重度の火傷、電気による神経の麻痺。戦いのさなか、自分の身体が ごまかされているうちならともかく、テンションの切れた今では、行動はおろか 生存も難しかろう。……私の怪我も、リディアが治したのだ。私は思わず 勢いよく立ち上がり、貧血によろめいた。魔法の治癒の力で、あと数十分すれば この貧血も治ろう――だが、今は血がたりない。私は地面をぐっと踏みしめ、 平衡感覚を辛うじて取り戻すと、おぼつかない足取りで彼女の方に向かった。 「あ、気がついた?」  ハーブのような香ぐわしい芳香が、リディアの手から漂ってくる。アールヴの女は 皆よい癒し手だ。丸耳の間では、治癒の魔法は傷を塞ぐだけのそっけないものらしいが、 アールヴにとってそれは文字通り「癒し」でなくてはならない。魔法の威力によって 代謝活動を促進、傷を塞ぐとともに細胞の復活も増進、生理機能の復旧を図るとともに、 香りや温熱効果によって精神・身体を安静に保ち、急激な代謝の副作用を抑制するのだ。 ……細かいことはまあどうでもよいが、要するにアールヴの治癒は高度な技術と バランス感覚を必要とするのだ。ゆえに、アールヴは優秀な癒し手を「刺繍の織姫」と たとえる。リディアは……まあ、一人前と呼んでいいくらいの織姫ではある。 「なぜ、逃げなかった?」 「あ、フェリクスが気がついた!」  ちょうどそのとき、丸耳の騎士の意識が戻った。かすかに呻き声を漏らし、 わずかに身じろぎをしたのだ。丸耳を膝枕にかかえたリディアは、私の質問を避け、 あえて彼に気を取られたふりをした。 「おい、答えろ!」  だが、そんなはぐらかしが通用する私でもなかった。私はできる限り厳しい顔を作って リディアをのぞきこんだ。彼女は私から目をそらし、うわごとのように低い声でつぶやいた。 「……あたしが逃げたら、兄さんまた追ってくるでしょ」 「……どうかな」 「え?」  いずれにせよ、わかっていたのだ。リディアが同意しようが反対しようが、 無理な結婚だったのだ。そもそも、アールヴは多数の部族に分かれて生活している。 丸耳が森に侵入してさえこなければ、わざわざ結集などするはずもなかった。しかし、 現に丸耳は攻めてきた。そして、部族連合ができた。……彼らにとって、シャナラと うちの村が手を握るということは、彼らの存在自体が問われる重大な問題なのだ。 彼らは絶対に反対するだろうし、それによってこの結婚話自体が圧力によって潰される 可能性は充分にあった。  事実、圧力はかかってきたらしい。だが、敢えて父上は婚礼の段取りを進めた。 私は、父上の意向を最優先としたかったのだ。だが……もう、充分だろう。無理矢理に 狩人の役目を務めてきたが、限界だ。竜とて、喪ってしまった。私は、別れる間際に 彼に名前を贈ってやるつもりだったのだが、もはや果たせぬ夢だ。妹を狩るなど、 どだい戦士のなすべき戦ではない。 「……殺せばよかったのさ、私を」 「あたしにできるわけないでしょ。もう……たくさん、誰かを傷つけるのは!  村へ帰ります……」 「私はお前と賭けをした。そして、負けた。私は賭けの条件を重んじる。お前も それを享受すべきだし、尊重するべきだ」 「そんな屁理屈を並べたって、もうあたし決心したのよ。村へ帰る!」  私は苦笑した。この天邪鬼め……! 私が帰れと言えば嫌がり、私が逃げろと 言えば嫌がる。私は妹の惨状を、頭のてっぺんから爪先までじっくりと見て、 再び苦笑した。髪は乱れ、焦げ、全身には火傷と打撲傷と擦り傷。そして、 ご丁寧にもその上から見事な泥の迷彩塗装をほどこしている。アールヴ紬の 高級なレースのカーデガンは投射器の止め具と消え、とっくに灰になっている。 そして、そのカーデガンを引き立たせるために下には暗い色の服を着るわけだが、 これもまた雑巾のように汚れ、切れ、とんでもないことになっている。 一族に伝わる魔法の指輪は……古来、ここまで酷い扱いを受けた魔道具は 他にちょっと見当たるまい。ゆがみ、泥をかぶり、傷つき……そもそも、 魔法使い同士の肉弾戦など、ごく初級者の愚かな暴挙、と相場が決まっているのだ。 史上最低最悪の兄妹喧嘩……。 「私は道に迷ってついに妹を発見できなかった。しかたがないので村へ帰る」 「兄さん!」  リディアはぱっと立ち上がり、悲痛な声を上げた。だが、多分、今や状況は一変している。  リディアを早々に引き取ってしまえば、シャナラにとってそれは重要な人質となるし、 部族連合の疑心暗鬼を大いにあおることができる……娘惜しさに、あの村は 決定的な瞬間に裏切るかもしれんぞ、と。できれば中立を保ちたい我々としては、 それは避けたい。だが、滅多なことをしでかしては、シャナラに我々を攻める 口実を与えるだけだ――約束も守れないあんな村など、滅ぼしてしまえ、と。 味方にならない第二勢力など、潰してしまうのが一番だ。私だってそう思う。  そして、多分、リディアが逃げ出したことは、もはやシャナラの知るところと なっている。私は再び空を仰いだ。太陽がすっかり位置を変え、傾いている。 ……時間が、かかりすぎた。リディアの意志など、すでに状況はその意に 介さないところまで切迫しているのだ。 「兄さん! あたし、帰ります!」 『ならぬ!』  突然、その声は響いた。リディアは、そして私さえも、首をすくめた。  父上の声だ。リディアは怯えた子ウサギよろしく、きょろきょろとせわしなく 目を宙に泳がせた。 「これだ」  私は平然と腰の水晶球をリディアに見せた……つもりだったのだが、かすかに 手が震えている。私も度肝を抜かれたのだから。父上は、そのタイミングを 狙っていたのだろうか? 「兄さん、それ……」 「ああ、父上がご自身で魔力を仕込まれた水晶球だ。父上の水晶と同調させて あるので、これを介して父上と話ができる」  水晶球に、父上の顔が映った。不思議なことに、映像はどこから見ても父上の 正面を捉え、ゆがみ一つ見せない。 「さいごの命だ。リディア、生きよ……ヒューゴー、お前もな。そして、 村を再建してくれ」 「…………」  その瞬間に、リディアは怪訝そうに水晶を見返すだけだった。私は、おかげで 眉を逆立てた憤怒の形相を妹に見られずにすんだ。予想した通り……いや、 それ以上のスピードで事態は暴走していた。水晶に映った父上の顔に、 まだ乾ききらぬ傷痕が何条も、そして何か生気を失ったようなやつれた雰囲気が 刻みこまれていた。 「どういうことですか、父上?」  不安に駆られ、リディアはつい声を荒げた。聞くまでもなかろう、 お前のもたらした結果だ……そう皮肉を言おうとして、私は口をつぐんだ。 その問いかけは、心えぐる悲痛な痛みに満ち満ちていたから。 「最初から、こうなることは目に見えていたよ」 「……あたしの、せいで……」 「違う。サダルメリクは、口実さえ求めていなかったのさ」  私は思わず口をはさんだ。 「父上、どういうことです? まあ、戦が起きることは充分予想できました。 ですがしかし、その口実さえ、とはどういうことでしょうか?」 「……口実や形式が必要なら、樽の中に兵を潜ませてはおるまい」 「……樽?」 「リディアの結婚の引き出物のワインの樽の中に、な。すでにそれくらいは 予想しておったし、村の外で樽に身を隠す敵兵の姿を忍び見た者もおった。 樽の中に何時間もしゃがみこむのだ、その前に小用をすませて再び樽に戻る姿を、 な。わざと手薄にしておいたら、村の者に粗忽者がおってな……ワインを 失敬しようと倉に入り、まあ敵の目論見は露見あいなった、というわけだ」 「……露見、って、そうはおっしゃっても無事にはすまなかったのでしょう ……父上、怪我をなさってるではありませんか!」  私は苛立ちのあまり、父上に非難の声を浴びせた。父上の忠実な臣下ぶりを 見慣れたリディアには、それは奇異に映ったらしかった。彼女の目が、驚きと、 多少の非難をともなって私を見つめている。 「……村の者は、落とした。あらかじめ、少しづつ、な。残っていたのは せいぜい貧民街の連中と、館の使用人くらいのものだ。志願する騎士は、残した。 もっとも、志願せなんだ騎士など一人もおらんが。……ヒューゴー、 お前には何も知らせず、すまぬ」  父上の声は、私の耳には届いてはいなかった。まさか、あの掟……。 確かに、父上の意図がそこにあるのならば、かえってナディーヌは邪魔だ。 ナディーヌ……ナディーヌ! 私には、彼女のことだけが気がかりだった。 「……あやつの戦力を考えれば、そもそもからして我々だけでは対抗できぬ。 したが、無論、部族連合など、最初から頼るべくもない。おそらく……いや、 最悪の予想はお前らには語りたくないな。だが……いや、『黒い血飛沫』と リディアさえ……」  水晶球が砕け散った。その瞬間、激昂していた私は、あらんかぎりの力で それを石に叩きつけたらしい。荒い息、わななく膝は、容易にはおさまって くれそうになかった。肺が潰されそうになるほど胸が痛み、呼吸すら ままならない今では。  やはり。  父上は、最初からそのつもりか。  アールヴは長命だ。そして、なかなか子孫をつくらない。ゆえに、 部族は常に断絶の危機にある。あるいは、部族の吸収・併合は、容易なことである。 娘を奪い、しかる後にその家系を攻め滅ぼせば、その領土の正当な後継者は その娘のみ、ということになる。  そこで、その侵略者に対抗する正当事由を、アールヴは考え出した。 「純血の遵守」という荒技だ。……村長の息子と娘なら、他の誰よりも正統性を 主張できる血統を持つ、というわけだ。そこに転がっている丸耳にだけは、 聞かせたくない。リディアにだって、悟らせたくない。多分、彼らにとってそれは、 恥ずべき野蛮な風習なのだ。私は、リディアを盗み見た。後ろめたいことに、 私はリディアをほんの一瞬だが、異性として認識した。ナディーヌ…… お前の恐れていた事態は、そこまで迫ってきている。 「父上は……父上は、私を卑怯者に育てたおつもりなのか!」  私は、叫んだ。叫ぶごとに、息は荒くなり、言葉は獣じみた咆哮に変わってゆく。 それが後ろめたさをごまかすためのカモフラージュだとわかっていたので、 なおさら興奮はその歩調を速めた。 「ち、父上は、私を騎士としてお育てになった! わ、私は、今やガチガチの、 石頭の、芯から騎士だ! それを、それを……それを、に、逃げろだと!」  私は地団太を踏んだ。くそっ! 踏みつけた木の燃えさしが、真っ二つに折れて 飛んだ。 「……リディア、お前は落ちのびろ」 「兄さん!」  私は精一杯すごんで見せた。いや、充分本気だったので、リディアはえらく怯み、 二、三歩後ずさった。その肩を、丸耳が支えた。 「……貴殿、いつから話を聞いていた?」  皮肉った私に、彼も同様に皮肉で応じた。 「妹御が私を膝の上から叩き落としてから。……貴殿が妹御をあまりにも 驚かせなさるから、私も意識を回復した次第でございますよ」  なるほど。リディアが村へ帰ると駄々を捏ねはじめたときか。 「……逃げ出したはずの不肖の妹が、いつの間にか兄の制止をも振りほどくほどに 村に帰りたがっているのでは、さぞや貴殿も驚かれたことであろう。とにかく…… 貴殿は不幸にも、妹と縁が深いようだ。これが貴殿ら丸耳の神の賜物か、 我らがアールヴの神の思し召しかは知らぬ。ご迷惑かとは存じておるが、 今しばらくは妹を守ってやってはくれまいか」  丸耳はそのいやらしいニヤニヤ笑いをやめようとはしなかった。のみならず、 ここへきてその笑みはさらにニッと大きく広がった。 「もうやめようや、兄上殿……。ああ、妹御はまかせてくれ。命に代えても 守ろう。それから、俺は騎士じゃない。『貴殿』と呼ばれる身分は―― とっくの昔にやめたのさ……いろいろあってな」  私は眉をひそめた。 「……では、何とお呼びすればよろしいかな?」 「ただのフェリクスでいい」 「では、フェリクス殿」 「おう」 「……妹をよろしく頼む」 「兄さん!」  フェリクスに肩を支えられながら、私と彼を交互に、目を白黒させながら 見ていたリディアは、この瞬間になって叫んだ。だが、策などあるまい。 無駄に叫んだだけだ。  が、丸耳が余計な口をはさんだ。 「「兄上殿?」 「ヒューゴーだ」 「ヒューゴー殿、俺は確かにあんたから妹御の安全を託された。だけどね、 妹御を拘束せよとまでは聞いていない。妹御が望む限り、その望みが達せられるまで あらゆる敵を排除する――それが、彼女の望みと矛盾するなら……あんたでも、ね」  リディアは、もしかしてとんでもない味方を得たのかもしれない。 私は深いため息をついた。リディアだけならば、多分そのアイデアは実現するまい。 だが、この男がいる限り、どんな突拍子のない思いつきも、実現されかねない。 「兄さん……」  リディアがすがるような目で私を見上げた。ただし……私は知っている。 この目は、いつもリディアが何かしでかそうというときの、悪戯小僧の目だ。 「父上は、『村を再建しろ』って、おっしゃったよね」 「ああ、そうだが? ……お前は長の娘だ。そして、私は長の息子だ。 これから、私はある男をぶちのめしにいかねばならん。そこで私に 何があろうが、結果は変わらん。大それた望みを持った馬鹿者が一人、 この世からいなくなる。この世は少しだけだが、居心地がよくなるだろう。 ……その後に、村を再建するのは、お前の役目だ」  私はかなりくどく念を押した。リディアの後ろで、丸耳が顔をゆがめ、 笑いをこらえていた。私は何か、罠にはまったようだ。 「再建、よね?」 「そうだ」 「再び、村を建て直すのよね?」 「くどいな」 「建て直すということは、その跡地にもう一度同じものを作る、という意味でしょ?」  そこには、勝ち誇った小娘の得意気な顔と、丸耳のにやけた顔だけがあった。 「兄さん、じゃ、あたしはここに置いてゆくわけにはいかないわね?」  あきらかに、二人とも心の中で大爆笑している。私は気分が悪くなった ――激怒のあまり、多分顔から血の気が引いた。私は目まいに襲われた。 深呼吸をして平静を取り戻すと、私は悔しさのあまり吐き捨てるように言い放った。 「……勝手にしろ!」  二人は笑みを交わしあった。と、フェリクスはその破顔を引っ込め、心配気に訊いた。 「だが……今からで、間に合うのか?」  私はありったけの皮肉を込めて、その問いを鼻で笑い飛ばした。それが、 私のあらんかぎりの意趣返しだった。 「くだらん心配だな――天が落ちて来やしないかと心配するのと同じくらい、 馬鹿げた心配だ。ああ、丸耳君には無理もなかろう。だが、些細な技術的問題さ」  そして、私はそれを探して、森の奥へと足を踏み入れた。多少は時間がかかるが、 これが一番手っ取り早い。 「……君の兄さんってのは、いつもああなのかい?」  背後でフェリクスがリディアに囁いたのを、私は聞き逃さなかった。 その問いに、リディアは嬉しそうに答えていた。 「そうなの、あれこそがあたしの頼れる兄さんよ」  ふん。私は、彼らを突き放すように歩調を速めた。


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