昔話を続けていた俺は、居心地が悪くなって腰をゆすった。リディアは無論気づくはずもない。 それは、確かに昔話であったが、同時にそれは未だ俺に苦痛を与える、癒えきらぬ生々しい 傷痕だった。笑いで誤魔化そうが、話術ではぐらかそうが、それは俺が負け犬だという 確たる証拠だった。  きらきらと輝く目が、とても痛かった。近くに感じる吐息のほのかな温もり、やわらかさ、 そして甘い香り。ふうわりと太陽にきらめく黒髪、そして浅黒いがきめ細やかな肌。 ふわふわ、きらきら、ぽかぽか……まるで砂糖菓子のような彼女は――俺にとって、 こんなに近いのに限りなく遠い、あまりにもせつない存在だった。栄光は、捨てた。 エリンカは、――もう過去という向こう側の世界に咲く、未練という花だ。  だが、彼女は――俺は、自分がみじめったらしく思えてくる前に、話を打ち切った。 「……もう、昔の話だ。これ以上話してもおもしろくないよ」 「ううん、とんでもない! とっても興味深いわ」  その黒い瞳が、ふっと翳った。 「あたしね、……話したよね? 政略結婚の話。それ以前も、ずっと、ずうっと…… いい子で生きてきた。みんなに喜んでもらえるように、ほめてもらえるように、 迷惑にならないように……。それはそれでいいと思う。むしろ、そうしなきゃ いけないんだよね。でも、ね。あたしが自分で生きていくって何なのかなあ、って 思ったとき……あたしの人生って、何なのかなあ、なんて思ったとき、……」  リディアはあわてて向こうを向いた。その語尾は震え、上ずっていた。だが、 俺には彼女に渡すハンカチ――正確には代用品のぼろ布――一枚さえない。 装備品はすべて宿屋においてきたのだから。 「……あたし、バカだからうまく言えないや……ううん、本当はわかってるの……あたしは、 わがままで、単に……してみたいと、思って、……」  俺は、指先で彼女の涙を拭ってやった。彼女は最初はひどく驚いたようだったが、 ビクリと大きく身を震わした後、目を閉じてそのままにしていた。  結局、俺が思っているほど世界はまぶしくはないんだな。俺は深くため息をついた。 ほんのついさっきまであんなにまぶしかった少女が、今はこんなにも小さくなって 震えている。その温もり、柔らかさ、甘い香りは全く衰えてはいない――だが、それも、 彼女を包む広大無辺のこの世界の中では、すぐに霧散してしまう儚い存在でしかない。 「……莫迦でもない。わがままでもない。結局、人は、自分の望むものにはあらがえずに、 一生それを追って生きてゆくのだから、ね」  ……望むもの。俺の望むものは何だろう。俺には見つからない。昔はあったような気もするが、 今は思い出せない。 「あなたの望むものは何なの、フェリクス?」  その言葉に、俺はドキリとした。直前の自分の台詞からすれば、冷静に考えれば そうくることも予想できるのだが、俺は問い捨てただけで、勝手に自分の心の中の 迷いの泥沼で足をとられていたようだ。リディア……? 俺は彼女を見た。だが、 そのきらきらする目は、先ほどの無邪気な輝きは湛えてはいなかった。そこには、 しっとりとした炎がくすぶっていた。少女の笑みは消え、そこには女の顔が微笑みを 浮かべていた。俺はたじろぎ、身を引こうとする衝動を、すんでのところで抑え込んた。 ……多分、ここで引いたらリディアはものすごく怒る。 「よお、ただい……あ」  そして、絶妙のタイミングでヒューゴーが帰ってきた。そして、リディアの視線に 直撃されて、たじろいだ。そして、俺は、彼がこっそりつぶやいたその一言を聞き逃さなかった。 「チ……まだだったのかよ」  ……どいつもこいつも。  ヒューゴーの後ろには……巨大な鳥の頭が二つ並んでいた。猛禽類の鋭い視線、 分厚く鋭利な嘴が、無言のうちに俺を威嚇していた。ヒューゴーが僅かに進むと、 その全貌は明らかになった――俺の身長の二倍はあろうかと言う体高、トラのそれを 思わせる太くたくましくしなやかな肢、そして巨大な翼。その肢からは鳥類特有の 長い指と鋭い爪がのぞいている。多分、シカか何かを餌としているのだろう。 クマと格闘しても互角、いや、それ以上にわたりあえるのではなかろうか。だが、 そのあからさまに狂暴なフォルムの中に、何か優雅で洗練された気品が漂っている。 よく見れば、茶色一色に見えたその羽毛の色も、黒や赤褐色のまだらが複雑な 幾何学模様を織りなしているのがわかる。そして、羽毛が陽にきらめけば、 淡い七色の輝きが光のベールとなって彼(もしくは彼女だろうか?)を覆う。  グリフィンだ。俺は悟った。鷲の頭と翼、ライオンの胴体をもつという伝説の怪物が、 そこにいた。伝説とは細部が違うが、まあ誇張だろう。王者の風格は、否めない。 この森はいったい何なのだ! アールヴをはじめ、竜やグリフィン、その他の 得体のしれない伝説の生き物が、平気でひょこひょこあらわれる。その昔、アールヴと 人間が激しい争いを繰り返していたころ(そう、今のような断絶状態での 小競り合いではない)、敵――つまり、アールヴの竜乗りと獅子鳥乗りが味方に 大敗北を与えたという話も、あながち嘘ではないらしい。 「……手間取ったな。だが、これで村に素早く帰れるというものだ」  ヒューゴーが誇らしげに言った。俺は何か途方もなく悔しい気持ちに襲われたが、 何も言わなかった。要するに、お互いガキなのだ。背後で、独り取り残された リディアが、ものすごくむくれている。振り返りはしないが、何となくわかる。  俺はおずおずとグリフィンの背に手をかけた。馬のたてがみよりも柔らかく、 ふさふさした感触が心地悪い。何よりも、馬よりも数段高い体温が気持ち悪い。 馬に乗るときは鞍越しに感じる感触が、今度はじかに感じられるのだ。おまけに、 体を支えるあぶみも手綱もない。だが、先ほどのカエルに較べれば、数段ましだ。 そして、俺は無表情で棒立ちに立っている――やはりむくれているらしい――リディアに 手をさしのべた。数秒の間、彼女は身じろぎひとつしなかった。ややあって、 彼女は、どちらとも視線を合わせずに、俺とヒューゴーとを見比べた。そして、 俺のほうに手をさしのべた。おずおずと差し出された手を、俺は握った。 柔らかな体温が、俺には心地よかった。数呼吸の間、俺とリディアはそのまま 手を握りあったまま、じっとしていた。……そして、彼女は俺の後ろにまたがった。 彼女は後ろから、俺の体にきゅっと腕を回した。柔らかな彼女の感触が、 呼吸のたびに背中で上下した。 「……悪いんだがな、ヒューゴー。……俺、こいつの乗り方を知らないんだ」  腰に回された腕がきつくしまり、息が苦しくなった。ヒューゴーは何か 含み笑いとともに答えた。 「グリフィンは頭がいい。命じればそうしてくれる――契約の有効な間は。 ……それより、妹を頼むぞ」  そして、彼のグリフィンは颯爽と飛び立った。何も命じなかったのに、 俺の乗るグリフィンも飛び立った。  命じれば? ……簡単に言ってくれたものだ。確かにグリフィンの背中は、 広い。馬ほども大きく、やすやすと俺とリディアをおさめることができる。 だが、手綱も鞍もあぶみもない。そして、その飛び方の荒っぽさたるや先ほどの カエル以上だ。アールヴの娘が、人間のお上品な姫様のように、片鞍乗りするような 生活をしていなくてよかった。もしそんな乗り方をされていたら、グリフィンの 離陸直後に、梢ほどの高さからぽんと跳ねとばされている。今だって、 つるつる滑る羽毛の上で、風にさらわれまいと必死でしがみついているありさまだ。 「なあ、ヒューゴー、もう少し控えめな……別の手段はないのか!」  たまらず俺は叫んだ。上空へ向かう風をつかんだのだろう、グリフィンが 羽根を大きく拡げると、視界が急速に眼下に遠ざかってゆく。森ばかりか、 俺を取り囲む青い空の遠くにへばりついている白い小さな雲までが、目線の下に消える。 軽い目まいと嘔吐感で、危うく俺は倒れそうになった。そういえば、昔、 あの魔術師が、空を飛ぶ呪文で吐瀉物まみれになった失敗談――彼の師匠の話らしい ――を酒の席で披露していたが(あまりいい趣味ではないと思う)、そのときは ホラ話だと思っていた。カエルの時は素晴らしいものだ思っていたが、こうしてみると、 空の旅というものはあまりいいものではないかもしれない。  俺は、ヒューゴーがじっとこちらを見ていることに気づいた。……何か、 笑われているようで腹が立つ。視線が絡まってから数秒して、やつは鼻を フンとならして笑った。やっぱり……。 「ちょっとちょっと兄さん、グリフィン乗りは男の専売特許でしょ? あたしも ヒューゴーも、こんなものに乗ったことないんだから、も少し愛想よくしたらどうなの?」  後ろからリディアがヒューゴーにかみついた。 「……おまえこそ、最後ぐらい笑顔を見せてくれてもいいんじゃないのかな」 「……やめろ、俺は行くぞ!」  俺は叫んだ。ヒューゴーめ……! わざわざグリフィンを二頭連れてきたのは、そのつもりか! 「フェリクス殿。私の妹は至らぬ娘だ。浅薄と言ってすらよいかもしれない。 だが……父上も私も、そして私の未来の妻も、みんな妹を愛している。 ……妹を幸せにして欲しい。そうでなくては困る。貴殿ならそうしてくれると 信じているのだから……これが丸耳とアールヴが平和になるきっかけになれば、 なおさらうれしい」 「……馬鹿なことを言うんじゃないっ!」  だが、やつは俺の知らない言葉で何か叫んだ。俺の乗るグリフィンは、 その言葉を聞くやいなや、身を翻して逆方向へと飛びはじめた。 「聖なる森なら、おまえらを守ってくれるはずだ……」  それが、そのとき聞いた、やつの最後の言葉だった。


続き(3章4へ)    小説のメニューへ