俺は……どうすればよいのだろう?  途方に暮れるというより、俺はむしろ腹立たしかった。木の根に全身を貫かれ、 締めつけられて死んでいるグリフィンを前にして、俺はただ呆然となるしかなかった。  その時、リディアはしばらくの間、半狂乱でもがいていた。彼女は兄に裏切られたのだ。 無論、ヒューゴーの気づかいや気持ちは痛いほどわかっている。要するに、彼は リディアに生きていて欲しかったのだ。だから、グリフィンに命じて、あえて彼女を 落ち延びさせたのだ。無論、打算もあろう。少なくともリディアさえ生きていれば、 村は滅びることはないのだ。ご丁寧なことに、護衛に俺まで添えてある。  だが、それでいてなお、彼女にとってそれは裏切りでしかなかった。言質を違えることは、 アールヴにとっては深刻な大罪であるのだ。彼女は泣いた。そして、俺の胸以外に すがるべきを知らなかった。最初は後頭部が偶然触れた程度の距離だったのだが、 なし崩しに俺にしなだれかかり、ついには俺の胸に頬をうずめて泣きじゃくった。 「……もう、ずっとこのままでいたい……」  それが、はじめて俺が聞いた、彼女の泣き言だった。俺は意識的に、彼女の方を 見ないようにした。甘やかな体温が、俺の鼻をくすぐったからではない。 その嗚咽に混じった、うつろな自嘲の笑い声を聞きたくなかったからだ。 それは、俺に近親憎悪めいた怒りすら沸き上がらせた。それは、俺の肌に染みついた、 嗅ぎ慣れた負け犬の臭いだった。腐臭のごとく俺の感性を逆なでするその刺激に、 俺はすんでのところで怒号を発するところだった。だが、幸いにも彼女は すぐに理性を取り戻していった。俺の掌の下で、彼女の背中が徐々に呼吸を 整えつつあるのがわかる。 「たぶん、このグリフィンが目指しているのは、聖なる森だと思うの……」  いや、彼女はぜんぜん回復してはいない。表面上は理性的だが、相当無理している。 「……目的は変わったけど、当初の目的地は変更なし、ね」  困った。こんなとき、その無理に気づかない馬鹿のふりをすればいいのだろうか、 それとも無理するなと忠告する、デリカシーのない馬鹿のふりをすれば いいのだろうか? 沈黙だけが雄大に時を刻み、俺はただ困惑するばかり。 その俺の困惑ぶりを、リディアは無表情に、しかし何かを渇望するような視線で観察している。  突然、彼女は崩れ落ちた。彼女の吐息の温もりが急に冷たい風にとってかわる。 俺は、ますます狼狽し、何かを叫んだ。叫んだといっても風に押し戻されたような くぐもり声で、しかも半分裏返った情けない奇声だ。おまけに、言葉に直せば、 おそらくは一番近いのが「ひっ」という悲鳴だ。 「……うれしいの。そんなにあたしのことで困ってくれる人って、周りになかなか いてくれなかったんだもん」  彼女は小刻みに震えている。笑っているのだ……たぶん。その表情は この角度からはうかがうことはできない。また突然、彼女はばっと俺の胸に飛び込んできた。 「リディア……」 「だめ。……しばらくこうしててもいい? こうしてると……とっても落ち着くの……」  知的生命体だというのに、よくもまあグリフィンはこんな痴話が背中で 展開されていても文句ひとついわないものだ。ややあって、リディアはつぶやいた。 「……兄さん、勝てると思う?」 「大丈夫だ」  俺は躊躇なく答えた。まるで根拠はなかったが、その点についてはなぜか 確信めいたものを持っていた。 「あたしもそう思うの。……で、ね、村を再建したとするでしょ……」  風の音が、俺の髪をなぶって通り過ぎていった。 「……あたし、絶対邪魔者になると思うの……」 「…………」 「……兄さんにはナディーヌがいるもの……明日にだって、彼女、兄さんの 子供を身篭ってもおかしくないわ……」 「…………」 「どっちにしろ、今回の戦だって、あたしが発端になったのは事実でしょ?……」 「…………」 「……あたしを連れてって。お願い」  彼女は顔を上げて俺を見つめていた。顔が赤らみ、視線もその熱を帯びてか熱い。 漆黒の髪をかきあげて彼女の耳を探ると、その長い耳も真っ赤に染まって、触れた手に熱かった。  リディア。 「ついて来い。とは言わない」  俺は呼吸を整えた。 「俺と道を探してほしい。……一緒に」  みたび胸に飛び込んできた彼女を抱きしめながら、俺は自分の気持ちを必死で整理していた。  もう、見失いたくはないから。 「……もう、聖なる森に着いたのね……」  彼女はポツリと、なぜか残念そうにつぶやいた。さっきまで一直線に飛んでいた グリフィンが、とまるべき枝を探して旋回をはじめたのだ。横方向に重心が傾く感触。 馬で地上を駆け巡っているときにはあまり感じることのない感覚だが……やはり、 あまり知らないほうがいいものかもしれない。頭がくらくらする。  空から見る森の色が、あからさまに違っていた。くすんだ緑――老いた緑――不死身の緑。 もはや、その緑は貫禄すらたたえている。  まさに、ここは聖地だ。 「……ち、よね? ここ……?」  俺は、そのただ圧倒されるような雰囲気に呑まれていて、リディアの言葉の 前半分を聞きそびれた。 「何だって?」 「…………」  彼女は形のよい眉根をひそめた。あからさまに不安がっている。 「……なぜ、こんなに……」  リディアが俺の手を探り、ぎゅっと握りしめてきた。彼女は何をこんなに 警戒しているのだろう? 所詮、森の外の人間・丸耳の俺には理解できない。 俺にできるのは、彼女の手を力強く握り返してやることだけ。 「フェリクスの手って、案外冷たいんだ……」  そんな無駄口をつぶやいたのも、無論不安に耐えきれなくなったからだ。 声は上ずり、か細く、とても軽口とは思えない重々しさだった。  突風が、俺たちをすり抜けていった。 「! ざわめいている!」  今度は俺にもはっきりわかった。木々を渉る風が、不自然なほどの重低音で どよめいているのだ。まるでドクダミとカキドオシとクローバーを生のまま ごちゃまぜにすりつぶしたような強烈な草いきれが、風に乗って俺に襲いかかってくる。 見れば、たいした風もないのに、俺の腕よりも太い枝が触手のように蠢いている。 「トレントが! ……何かを怨んで……いえ、悲しんで……!?」  木々が一層大きくざわめいた。俺は、見た。木々の葉の陰影が、異形の顔となって こちらを睨むのを! 「きゃあぁ!」  悲鳴が最初だろうか。それとも、握った手の感触が最初だろうか。俺は一瞬 それにぎょっとなり、思わずリディアを見ることをためらった。そして、 血も凍るような恐怖を覚えた。  何かが彼女の皮膚の下で蠢動している。彼女を突き破らんばかりにそれは膨れ、 縮み……彼女の皮膚を無残なひび割れだらけにしてゆく。そして、ひび割れた肌は、 もともと色の濃い彼女の肌色よりもさらに黒ずみ、くすんだ褐色へと変色してゆく。 「……いや! ……見ないで……」  彼女は半狂乱に泣きじゃくる。俺にはどうすることもできず……ただ彼女を 抱きしめることしかできなかった。トレント……樹霊? そう言えば、樹霊の森に 迷い込んだきこりが、呪いによって木に変えられるというおとぎ話を、 子供のころ聞いたことがあるが……まさか! 「リディア……リディア!」 「……だめ……危険よ……離れて……」  彼女のいたるところから突き出してきた枝が俺に突き刺さるのを見てだろう。 彼女は俺を突き放した。硬化しつつある彼女の力は意外に強く、 俺はやすやすと引き剥がされた。 「……この手も……!」 「いやだ! この手だけは――」            *           *           *  俺は――。  グリフィンが死んだことを思えば、いくらリディア=木がクッションに なってくれたとはいえ、俺が無事でいることが逆に不思議である。だが、 俺の感覚は麻痺していた。現実感が遥かに遠のき、俺にはその場のすべてを 受け入れるだけの気力が消滅していた。彼女は……俺の目の前に、グリフィンを 苗床にしたまま俺の二倍くらいの高さの若木となって「生えて」いる。周囲の 古ぼけた巨木たちに比べると、断然瑞々しい。それだけに――。 「……リディア」  俺は地面を叩いた。重く湿った土の感触、それに混じる腐葉土と石ころの 硬く尖った感触。何よりも、痛みが俺を再び現実へと引き戻す。 「リディア……リディア!」  俺は狂ったように地面を叩き続けた。俺がついていながら……! 俺は……一緒に いてやるんじゃなかったのか! 彼女は、あの時確かに助けを求めていたのだ! この、俺に! 「俺は……!」  俺は吠えた。それは、獣の断末魔の叫びだった。まさに、喉笛を喰いちぎられた 負け犬の絶叫だった。無力だった。俺は、あまりに無力だった! 涙が地面を濡らす。 傷口が破れ、両手から血があふれた。だが、心の痛手は紛れようもなかった。 「――――――――!」  俺は、声にならない叫びをあげると、篭手を地面に叩きつけた。だが、俺の声も、 その音も、こだまとなって齢経た森に響き渡り――やがて吸収されてしまった。


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