*           *           *  それは、コーバルスと呼ばれる生き物だった。性質は臆病で、めったに人の目に触れるところに 現れることはない。森の深奥や洞窟の暗闇の果てに住む、身長は一メートルに足るか 足らないかという、小さな生き物である。前肢が極端に長く、全体的に猿に似ているが、 顔はどちらかというと鼠のように尖っており、ゆえに「犬猿」という異名まである。 成長した雄の個体は頭頂部が禿げ上がっているものも多く、それが妙に人間くさい雰囲気を 醸し出している。  いつの頃からか、この臆病な猿は突如として凶暴な怪物に豹変した。アールヴの生活圏が、 彼らのそれと接触しすぎたからかもしれない。伝説では、あるとき彼らは暗闇に潜む 悪霊と出会い、その手下となるかわりに「地獄の短刀」を授けられたことになっている。 彼らの前肢の親指には長く鋭い爪が生えており、それを武器に使うのだ。普通の猿よりも 遥かに賢く、時々アールヴの乳幼児などを攫って喰らったりするので、アールヴには 蛇蝎のごとく嫌われている。コーバルスといえば、アールヴにとって悪鬼の代名詞なのだ。  サダルメリクは、どうやってかその悪鬼を手なずけたらしい。背後から襲いかかった コーバルスの集団は、次々とその鋭い爪を、アールヴの騎士の鎧の継ぎ目から突き立てた。 甲高いが、何か人間の言葉を思わせる声で鳴き叫びながら、禿頭の黒い影は次々と 獲物を代えてゆく。新たな血の匂いが、戦場の臭いをさらに息詰まるものにする。 踏みにじられた草原は、いまや赤と緑の毒々しいまだら模様に塗りこめられている。  動く死者どもにすくみ、密集隊形を保っていただけに、アールヴ騎士団はさらに 混乱した。かろうじて一軍となって戦場に粘っていた騎士団は、その瞬間 各部族・氏族単位にばらばらに逃走を試みたのだ。 「見苦しい!」  そのとき、分裂しかかった騎士団を裂いて、彼らは逆にコーバルスに襲いかかった。 盾に刻まれた天を衝くイトスギの紋章――勇猛果敢で知られる、グリハルバ家の当主、 ペドロとその郎党――が、血を吸う。すでに血で判別しにくいその紋章が、 ますます見えにくくなってゆく。「戦場では赤一色が彼らの紋章」と謳われる所以である。 「己はアールヴであると多少なりとも思っているものは、我に続け!」  そして、顔の半分を髭に覆った巨漢・ペドロは、巨大な斧をやすやすと振るい、 平然とコーバルスを打ち殺した。バルディッシュと呼ばれるその斧は、 三日月型の刃をそなえた、むしろ槍並みのサイズの無骨な武器である。尋常の人間に 扱えるものではない。バターでも裂くかのように、コーバルスどもは黒い熟柿となって 地面に叩きつけられる。 「なんだよ、犬猿野郎かよ!」 「猿風情が、いきがりやがって!」  こうなると、逆流した戦場の空気はもはや押しとどめられない。そもそも動く屍にも コーバルスにも、挟み撃ちという戦術の利益を利用できるだけの頭脳はない。 反転したアールヴ騎士団は、猛反撃を開始した。そもそもが身長がアールヴの 六割弱程度の小さな敵である。いかな猿臂と鋭い爪といえども、剣に勝るほどには 長くはない。もはや、それは虐殺と呼んでもよい。黒い毛に覆われた腕が、脚が、 禿頭の生首が戦場に転がり、次に騎士の鉄鋲つきの軍靴に踏みにじられた。 「サダルメリク閣下、いかがいたしますか」  帷幕の内で、シャナラの参謀が恭しく問う。だが、形式だけだ。サダルメリクには、 参謀はいらない――常に策があるのだ。参謀の仕事は、主に軍の指揮系統を 管理することと、怪物の召喚だ。コーバルスを操っているのは、実は彼である。 「コーバルスは役に立っておる。命の使い道はふたつ。すなわち、 生かして使うか殺して使うか、だ」 「…………?」  参謀にはわからない。 「人とは、丸耳でも長耳でも、勝っている間はそこに留まりたいものなのだ。 敵を釘付けにしたいのならば、敗軍を囲むよりもむしろ、味方を敵に 囮として捧げた方が確実なのだ」  参謀はたじろいだ。主君に恐怖することは何度かあったが……。 「では……敵を釘付けにするために……奴らを殺戮に酔わせて状況判断を させないために……コーバルスを……!」  サダルメリクは鼻で笑った。自明の理だと言わんばかりに。 「……酒を持て」 「は?」 「酒を持て。儂の言葉に三度目はないぞ」 「は!」  参謀は慌ててグラスとワインを運んできた。サダルメリクは革袋の栓を 無造作に開けると、ワインをグラスに注いだ。そして、深紅の色合いと香りを しばし愉しむと、口に含む。ガラスは貴重品だ。特権階級にふさわしい 贅沢品である。やおらグラスをテーブルに置くと、サダルメリクはやはり静かに参謀に命じた。 「……確かこの村の小娘が、捕虜になっておろう。連れて参れ」 「は!」  参謀は走るように帷幕を抜け、急造りの簡素な監獄テントへ向かった。それは、 生木と土嚢で作った単純な檻に、布をかぶせただけのものである。そこには 逃げ遅れた村人が厳重に縛られ、放りこまれていた。傷を負っている者も多く、 中にはぐったり動かない者までいる。くだんの小娘は、比較的元気だった。 もっとも、シャナラの軍がこれほどまでに手ひどく被害を受けていなければ、 彼女は今晩くらいの命だったかもしれない。 「立て。妙なそぶりを見せれば無事ではすまん」  参謀は無造作に腕の縄を切った。短刀の刃が腕を掠めたのだろうか、彼女の腕から 血が滴った。だが、そんなことにかまう彼ではない。 「来い!」  参謀は彼女の髪の毛を引っつかみ、引っ立てながら思った。こんなときに ……閣下もお好きだ! しかし……閣下の性格では、この小娘、すぐに飽きて 殺されてしまうのだろうな。せっかくの美人なのだが、もったいない……。  軍隊において、略奪と強姦は日常茶飯事である。参謀には、人を哀れに思うとか、 そういう人間らしい感情は持ち合わせてはいなかった。むしろ、喜々として 狼藉をはたらくような男だった。さもなくば、この軍の野戦の参謀などつとまろうはずもない。 「もう一度だけ、教えてやる。……妙なまねをすれば、殺す。いいな」  参謀は再びすごむと、小娘を手荒く突き出した。 「閣下、仰せの小娘です」  機能本位の戦闘陣地は殺伐としている。長サダルメリクのいる本陣も例外ではない。 そのテーブルにかかったテーブルクロスと作戦地図だけが豪華で、かえって 殺風景の感をそそっている。その張りつめた雰囲気に圧倒され、小娘は 怯えきって逃げ出すそぶりも見せない。突き飛ばされても、地面に崩れ落ちたままだ。 「小娘、名は?」 「……ナディーヌ」 「ナディーヌ、私の酌をしろ」  ナディーヌは一瞬身をびくつかせたが、ワインの革袋を取ってグラスに酒をついだ。 サダルメリクは一気に酒を飲み干す。  瞬間。参謀にも、ナディーヌにも、なにが起きたのかわからなかった。 理解できたことはただ、サダルメリクの手にあったグラスが剣に変わっていることだけだった。  ナディーヌは何かしゃべろうとしたが、こみ上げてくる血にゴブゴブ咳き込むだけだった。 彼女の体が小刻みに痙攣し、先ほど突き飛ばした際にこびりついた枯草が 彼女ののひざからはらりと落ちた。参謀の目にも、彼女の腹に刺さった一撃は 致命傷だとわかった。多分、剣は彼女の内蔵をすっぱり断ち切っているに違いない。  ナディーヌは仰向けに倒れた。彼女の目には涙が滲んでいた。人間らしい 情というものを持ち合わせていない参謀でさえ、一瞬その涙に同情した。  サダルメリクはテーブルクロスで剣をぬぐった。真っ白なテーブルクロスが 血で赤黒く汚れる。地面には血を吹き上げる、もはや動かぬ小娘。それを見て、 サダルメリクは酒を楽しんでいる! さすがに参謀は、自分の置かれた 立場の危うさを悟った。この男に不要だと思われたらさいご、命はない。 「先ほども言った通り、人の利用価値はふたつ……生きているうちに使うか、 殺してからか、だ」  目を合わせることすらできなかった。その言葉が誰に向けられたものかも、 考えたくない。心臓をじわじわ握りつぶされるような圧迫感のなか、参謀は ただただ最敬礼を続けるだけだった。彼の頭の中は真っ白で何も考えられず、 従って彼にできることは意味のない間抜けな最敬礼だけであった。


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