「広瀬川と
朔太郎愛用の品」
2003年
3月
−師よ 萩原朔太郎−   三好達治
幽愁の鬱塊
懐疑と厭世との 思索と彷徨との
あなたのあの懐かしい人格は
           ラヴア
なま温かい溶岩のやうな
不思議な音楽そのままの不朽の凝晶体
あああの灰色の誰人の手にも捉へるすべのない影
ああ実に あなたはその影のように飄々乎として
いつもうらぶれた淋しい裏町の小路をゆかれる
あなたはいつもいつもあなたのその人格の解きほごしのやうなまどはし深
 い音楽に聴き耽りながら
ああその幻聴のやうな一つの音楽を心に拍子とりながら
あなたはまた時として孤独者の突拍子もない思ひつきと諧謔にみち溢れて
――――酔つ払つて
灯ともし頃の遽だしい自転車の行きすがふ間をゆかれる
ああそのあなたの心理風景を想像してみる者もない
都会の雑沓の中にまぎれて
(文学者どもの中にまぎれてさ)
あなたはまるで脱獄囚のやうに 或はまた彼を追跡する密偵のやうに
恐怖し 戦慄し 緊張し 推理し 幻想し 錯覚し
飄々乎として影のやうに裏町をゆかれる
いはばあなたは一人の無頼漢 宿なし
旅行嫌ひの漂泊者
ソムナンビユール
夢遊病者
ゼロ ゼロ
零の零
そしてあなたはこの聖代に実に地上に存在した無二の詩人
かけがへのない 二人目のない唯一最上の詩人でした
あなたばかりが人生を ただそのままにまつ直ぐに 混ぜものなしに
 歌ひ上げる
作文者どもの掛け値のない そのままの値段で歌ひ上げる
不思議な言葉を 不思議な技術を 不思議な知慧をもつてゐた
あなたは詩語のコンパスで あなたの航海地図の上に
精密な 貴重な 生彩ある人生の最近似値を われらのアメリカ大陸を
 発見した
あなたこそはまさしく詩界のコロンブス
                                 で  く
あなたの前で喰せ物の臆面もない木偶どもが
お弟子を集めて横行する(これが世間といふものだ
文人墨客 蚤の市 出性の知れた奴はない)
黒いリボンに飾られた 先夜はあなたの写真の前でしばらく涙が流れたが
思ふにあなたの人生は 夜天をつたふ星のやうに
単純に 率直に
高く 遙かに
燦欄として
われらの頭上を飛び過ぎた
師よ
誰があなたの孤独を嘆くか
河出書房新社
 
文芸読本 「萩原朔太郎」より