2004年
4月
私も同様に、小さな、あるいはきわめて大きな愚劣がわが身に加えられても、
いかなる対抗措置も取らず、防衛措置も講じない。
――当然またいかなる弁護も、いかなる「弁明」も自己に禁じてしまう。
私の流儀の報復は、愚劣のあとを追ってできるだけ早く賢明を送り出すことにある。
なんとか追いつけるかもしれない。
比喩で言えば、いやな酸っぱい話を免れるために、
砂糖漬けの果物一瓶をおくるのである……。
私に何かけしからぬことを企ててみるがいい。私はそれに「報復する」。
それは確実だ。私はすぐその「悪人」に(時にはその悪行に対してさえ)
私の感謝の意を表する機会を見出す、
――あるいは私はかれに何かを乞う機会を見出す。
このほうが何かを与えるよりもさらに慇懃なやり方にになる……
また私は、粗暴きわまる言葉、粗暴きわまる手紙でも、沈黙よりは気立てのよい、
尊敬すべきものだと思っている。
沈黙する人々には、ほとんどまず心のこまかさと鄭重さが欠けている。
沈黙はひとつの抗弁であり、いいたいことを呑みこむのは必然的によくない性格をつくる、
――それは胃まで悪くする。沈黙家はことごとく消化不良だ。
――こういうわけで、私は粗暴というものを軽蔑してもらいたくないのだ。
粗暴は、抗議のもっとも人間的な形式であり、
近代の柔弱化のさなかで、われわれの第一の美徳の一つである。
――それに負けない豊かさを備えている場合には、
不当なことをするのも、一つのいいことですらある。
もし神が地上に来るとすれば、不当よりほかにはまったく何もすることがあるまい、
――罰ではなくて、罪のほうを引き受けてこそ、はじめて神らしいのある。
(ニーチェ この人を見よ)
過去の「美加奈のみつけた文章」
2004年2月 武原はんに寄せて 渡辺保
2003年3月 −師よ 萩原朔太郎−   三好達治
2002年11月 保田興重郎文庫19  「日本浪漫派の時代」より
2002年10月 「うしろ姿のしぐれてゆくか」 山頭火の句集