市民権思想の現代的意義

─国家・民族・党派を越えるもの─

久野収・哲学者 (聞き手)武藤功

(注)、このインタビューは、丸山眞男批判キャンペーンの契機になったもので、『葦牙』18号(1993年1月)に掲載されました。久野氏による丸山氏の援用部分については、こちらで拡大文字にしました。ただし、冒頭から四分の一部分の抜粋です。       健一MENUに戻る

  思想的忠誠と政治的責任

   ──『暗い絵』が語りかけること

 武藤  市民権という権利、あるいは市民主権の思想という問題の持つ重大な意味を最近痛感いたしております。「重大な」というのは決して誇張ではなく、文字通り二十世紀末の今日、現在の思想状況において、その持つ意味が重大だと感じるからです。と申しますのは、ぼくたちの前には三つの課題が突き付けられていて、その解明の糸口がこの市民権思想を源流とする市民主権の思想のなかに見出すことができるのではないかと感じているからです。その課題の一つは、言うまでもなく一般的にだれもが感じているとおり、東欧・ソ連の社会主義政権の崩壊そのもの、あるいはその崩壊後の状況のなかで発生した民族的な武力紛争に直面し、その根源のところにある国家と民族本位の思想をどう乗り越えるかの問題がつきつけられているからだと思います。とくに、社会主義の思想態度(それが現存的であれ、実験的であれ国家形態をとって実現したなかにおいては)が、国家と民族の問題を乗り越えられず、むしろそれに躓いたという事情を振り返ると、この「乗り越え」の課題の思想的探究は実に切実であるといえます。

 第二には、近代日本の思想態度にとってのアポリアといいますか、天皇制構造の問題について、そこに通路を見出そうとする探究課題に即して市民主権主義の可能性を考えていくという問題です。これには、一九二〇年代以降の階級闘争の思想がナショナリズムを内側から克服できないままで、外側の大衆が天皇制システムともいうべきもののなかに吸収されていった過程によって敗北を余儀なくされた事情を踏まえて、現在に至るまで色濃く残存している集団的利害への無意識な忠誠という「日本型ナショナリズム」の心情を解析するという問題でもあります。

 三つ目は、やや特殊な問題になるかも知れませんが、私たちの文学団体の経験にかかわっております。私たちの団体の発足当時の同人は、ある左翼政党の強い影響下にあった日本民主主義文学同盟という団体にかかわっておりましたが、その政党の大衆団体に対するコントロール方式が持つ非民主主義的なやり口と対立するなかで、日本の社会主義運動に牢固として生き続けている非市民主権的な政党指導的エゴイズムの要素(その最大のものに民主集中制があります)について改めて考えさせられたという点があります。もう十年も前になりますが、その後、東欧やソ連の社会主義政権の崩壊という事実に直面し、その崩壊の主因となった市民主権的な民主主義の欠如の問題が改めて日本の社会主義政党とのかかわりで意識されたという点も大きく作用しております。

 そこで、戦後一貫して民主主義的立場から思想的な考察を積み重ね、積極的にソクラテス的発言をつづけてこられた先生のお話をお伺いしたいと考えました。

 久野  市民主権という問題が社会主義の陣営で正面から意識されたのは、今回の一連の政変過程日本於いてで、これはたぶん初めてではないか。フランス革命を中心とする市民革命の意味をどう考えるかですね。いままで、社会主義の思想は自分たちの階級主権文化は単純に市民主権文化を超えるものとして主張してきました。社会主義の言葉でいえば、市民革命のところへ戻って市民の権利がどうこう言う態度は歴史の針を後ろに戻す作業で、それらはもう卒業ずみだという意見が指導層から大衆までを支配してきたのと違いますか。社会主義思想の中枢にあるインターナショナリズムは、一九三〇年代、革命を成功させ、社会主義の祖国と仰がれたソ連が一国社会主義、即ちスターリン的全体主義に収縮し、その上、階級運動自身が恐慌と戦争の過程のなかで敗北し、逆にファッシズムの経験を経て、“民主主義”的国家主義の一翼に組み込まれていかざるをえなかった結果、市民的国際主義を越えるはずの社会主義的国際主義が市民的国際主義以前の国家社会主義に退行してしまったわけです。

 その点で言えば、一昨日、茨城の牛久沼の近所にいられる住井すゑさんから招かれ、その抱撲舎に講演に行った時、そこに来ていた二十歳くらいの青年が、ぼくがかつて訳したW.ライヒの『階級意識とは何か』(一九三四年、邦訳一九七四年、三一新書)を読んでいて、この本とあなたの解説はいまでも生きていますね、と言うんです。ライヒが言っている要点は、簡単にいえば、当時のマルクス主義は、革命的大衆信仰、革命的理論信仰、それから革命的前衛党信仰から成り立っていたという。この考え方によれば、経済の大恐慌によって大衆は革命化するので、その時、革命的指導理論があり、加えてその理論によって上から指導する革命的前衛党があれば、社会主義革命に必然的に移行するという考え方であった。しかし、その状況は思いのほかの結果になって、たしかに大衆は革命化下が、それは疑似革命的ナショナリズム、あるいは疑似革命的ファッシズムの方へ逆転し、倒錯して行ってしまった。これは前衛党の失敗、革命理論の失敗であるよりも先に、この革命的大衆信仰、理論信仰、前衛党信仰という三位一体による考え方が現実によって試され、成功しなかったのだ。この問題に直面せずに、結局、民衆支配を巧みに学んだヒトラーのナチズムの狡猾さとか、ドイツや日本の伝統の特殊性とかに言い逃れを求めるだけに終わった。一九三三年にナチスの支配が成立し、日本の場合は同年の京大事件の敗北によって民主主義的な抵抗が窒息させられるのですが、問題なのは、こうして地下に追い込められ、敗北した各国の前衛党と称する組織が戦後もまた以前とあまり変わらない理論信仰、大衆信仰、前衛党信仰という三位一体の思想態度を持ちつづけていった点にあるのではないか。ここにまず第一の問題があるでしょう。

 これは、わが党は正しかったというだけではすまされない問題であって、当時の敗北をナチズムや天皇制の強権的な民衆支配の生にしているだけなら、それは弁解であっても、理由の説明にはなっていない。マルクス主義がこうした厳しい時代の試練から試されたのであって、問題は何かといえば、革命的とか前衛的とかいう言葉によって、市民革命の思想的的、生活態度的伝統を飛び越えてしまった、彼らの理論信仰、大衆信仰、前衛党信仰という三位一体の思想態度にあり、それでは歴史の試練に堪え得なかったのではないかという理論的反省が不足した点にある。だから、戦後の再出発にあたって、その自己批判に立った新しい革命主体、その理論、その市民感覚をどうするかという課題が当然なければならなかったのです。

 この問題を文学に即していえば、親友の野間宏君の描いた『暗い絵』の前衛たちは、そうした大衆信仰、理論信仰、前衛党信仰に一身を賭けた人たちですが、ぼくらはその端っこの方にいて、ラジカル・リベラルとしてマルクス主義に共感を持ちながらも、これだけではどこか大切な点が欠けていると考え、政治や思想の革命の新しい主体を模索するようになったのです。それは新しい民主戦線の構想ですが、『暗い絵』の学生たちのなかでも主人公の深見進介はどちらにも属さないで、公式的な革命理論に疑いを持ちながら、独自に革命の問題を考えていこうとする立場をとる人物として描かれていますね。野間君もぼくたちも、進介の言う“仕方のない”正しさの“仕方のない”をどう考え、どう改めるかの問題をそれぞれ追及してきたといえるでしょう。ぼくらはその延長において戦後かなりはっきりと従来の革命信仰を批判し、態度に表したので、評判が悪いのです。『暗い絵』は野間宏の青春が書かせた青春文学というべきで、気品と気概のこもったいい作品ですね。しかし、当時、革命の旗を守って最後までたたかった『暗い絵』の学生たちのようなマルクス主義者たちや日本共産党の非転向の指導者たちはたしかに思想的には立派にちがいないが、政治的にはどうなのか。彼らは軍旗ごと捕虜になってしまった部隊ではないのか。軍旗を下ろさなかった点ではまことに立派であるが、丸山眞男ふうに言うと、木口小平は死んでもラッパを離しませんでした、というような結果になりはしないか。これは最後まで節を守ったという点では立派ですが、しかし政治というものはどんなに困難な状況であっても大衆を自分の方に引きつけて相手を克服するのが成功ですから、政治家はその任務を果たさないといけないでしょう。その時倒せなくても、今度は歴史と経験に学んで新しい態度、新しい方法を考え出さなければならない。

 武藤  マルクス主義者の戦前・戦中抵抗については確かに二面性がありますね。戦争体制に対して非妥協的にたたかったということの輝きと、しかし同時に抑圧のもとで政治的には無力であったという事実です。問題なのは戦後の再建の中で、獄中十八年、十二年といった抵抗の輝きだけが突出させられ、当時の政治的な無力についての反省が十分に行われなかったことだと思います。これはご指摘の通り、革命信仰に象徴されるようなそのマルクス主義の思想的な質の問題にかかわっているように思いますが、その根底には天皇制やそのもとでの民衆動向を民主主義的に解明する民主主義思想とのある種の断絶があったように思います。これは先生も出られた座談会(「二十世紀思想の性格展開」、一九五〇年一月)で宮本顕治さんが語っていることですが、「ブルジョア・デモクラシーは、……ファッシズムよりはましです」という感覚、また先生も出席された別な座談会(「日本デモクラシーの思想と運動」、一九六〇年十一月)で、古在由重さんにしてからが「民主主義の主張は、ぼくの場合にはなかった。……ブルジョア民主主義革命というものは、全く社会主義革命への過渡的なものとしてしかとらえられず、しかもそれは非常に急速に通過されるものとして理解されていた」と語られているところを見ると、一般的にいって当時のマルクス主義者は革命の可能性を図式的に確信することで、民主主義革命を言いながらかえって、民主主義の論理的な観点を欠落させていたように思います。このことが戦後的な出発にあたって民主主義の問題を飛び越えて現実から遊離した党派性の方へ導く結果になったのではないでしょうか。

 久野  そのあたりのところは戦後文学でもどれだけ掘り下げられているか疑問ですね。ぼくは昭和十二年(一九三七)に捕まってブタ箱生活と未決監房生活のあと、昭和十四年にシャバに出ると、もうその当時はろくな本が出版されていなくて、友人がこれくらいしかないよと言って渡してくれたのが、中野重治の『歌のわかれ』と久保栄の『火山灰地』でした。ここには彼らの自己批判に基づく省察があったと思います。久保栄の場合、その後、『林檎園日記』や『日本の気象』によって良心的な探究を続けていますが、そうした転向者やインテリの心理を描いた作品は少なく、否定的に描く作品が多かったですね。戦後、こうした彼らの反省がどれだけ深められたのか。相変わらずの理論信仰、大衆信仰、鉄の前衛党信仰に立ち戻って、大衆的転向の問題や社会民主主義に対する態度などに対する反省がきちんと行われなかったのは、その後の若い人たちのためにもたいへんまずかったと思います。村山知義の獄中書簡などきちんと出版されているのかしら。心ならずも転向した人たちの肉体から出た声をしっかり受け止めるという点では、戦後の思想は大きな欠落を残しています。

 この点については、ヨーロッパの経験を学ぶ点でも努力が足りなかった。アランの急進的な市民主権主義、レオン・ブルムのような堅実な社民主義、あるいはスペインの亡命者たち、たとえば人民戦線の大統領であったアサニャや外務大臣のデルバーヨの経験など、学ぶところが大きいのに、あまりそれをやっておりませんね。とくにデルバーヨの自伝『自由の指標』は優れた内容を持っていますよ。なぜそうした経験を十分に学ぶ姿勢がないのかといえば、マルクス主義者たちに国際主義が敗北したという自覚が全然ないととってよいくらい浅いからですよ。プロレタリアートのインターナショナリズムを敗北させたナショナリズムとは何であったかという点については、たとえば日本の天皇制についても、それに対してネガティブに評価すれば、それだけますますよいというレベルの議論が横行していました。天皇制などは大化の改新と大宝律令時代から続いているんですから、それに対する勉強も学会や右翼だけにまかせているなどという状況は歴史から学ばないといわれても仕方がないことになります。

 武藤  転向した作家たち、あるいはぎりぎり転向の間際まで追い詰められた作家には、さきほどライヒのお話にありましたような理論信仰や前衛党信仰などによっては現実はどうにも動かせないという切実な体験があったと思われるのですが、戦後になるとそうした作家たちまでが、型通りの革命信仰に回帰してしまうという方向で、ある種の不思議さを感じるのですが、ここには単なる理論的な錯誤というレベルの話ではなく、日本の左翼知識人特有の革命的権威に対する追随的服従があるように思います。そしてそこにもそうした作家たちにおける市民的な考察の不足、つまり政治を相対化しながら物事を民主主義的なフィールドにおいて考えていくという思考方法の欠如を感じるんですが。たとえば、敗戦直後の『近代文学』の側からのプロレタリア文学批判に対しても、あの中野重治にしてからが「批評の人間性」を書いて平野謙などを「非人間」とまで断じてしまうところに抜きがたい革命信仰を感じますね。その中野も後には「反党分子」として党から追放されてしまうわけですが。

 久野  中野はどこが非転向で、どこが転向かはこれからの問題で須賀、いわゆる転向者立ちにとってはたしかに本当の声は革命思想、革命党について行けない肉体を通して出ていましたね。その肉体から出ている声をね、権力の抑圧とか、身内のしがらみのせいにして済ましては、歴史から学んだことにならない。彼らに、半分は公式マルクス主義の声があったにしろ、あと半分の声は確実に肉体から出ていたわけですからね。ただ、あなたの言われる平野と中野の関係については、ぼくは平野が自我の問題ばかり言うもんだから、問題は自我の問題じゃないんだ、自我の問題をだすなら市民の問題としても出さなければ駄目だということを平野にも言ってきたつもりです。平野もぼくの親友の一人ですから。ところが平野たちは自我中心の個人主義の復興の強調になって、市民の問題に届かないし、自我から個人へ出て市民にまでいくプロセスがはっきりさせられない。中野のやり方はたしかに大きな独断もありましたが、彼もぼくらには革命的プロレタリア信仰だけではやれない、それは第二次世界大戦ではっきりしたんだから、という点を自覚していましたよ。羽仁五郎も久保栄もこの点は同じでしたね。市民主権、市民文化の積極的な摂取に努力しなければならないという方向についても、かなり理解していたように思います。しかし、実際に書かれたものを見ると、そうした観点は少なかったという点もまた確かですね。党に遠慮したというか、その点の不徹底さはかなりはっきりしています。それでも、他のマルクス主義者にくらべると、中野や羽仁や久保はそうした側面の意識がかなりありました。

 それともう一つ、非転向派にはオール肯定になり、転向派にはオール否定となるという問題もありますね。それでは、転向派が足をすくわれたのは何故であるか、また非転向派が追い込められる結果に陥ったのは何故であるかというような積極的議論はね、一つの部屋で目と目を見詰めあって心から議論し合わなければ、出てこないんですよ、そういう転向派と非転向派との目を見つめあった話しあいも全然なかったのと違いますか。

(インタビュー、1992年10月6日)

(注)以上が、インタビュー冒頭から四分の一部分の内容です。以下には丸山眞男を援用した個所はありません。

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