日本共産党「五〇年分裂」はいかに語られたか
50年分裂、軍事方針、所感派、コミンフォルム
田中真人
(注)、これは、田中真人同志社大学人文科学研究所教授が、『キリスト教社会問題研究・第55号』(2006年12月)に載せた研究ノートである。その冒頭に、キーワードとして、日本共産党、50年分裂、軍事方針、所感派、コミンフォルムと書いた。このノートは、50年分裂における旧所感派、中間諸派、一兵卒たち、騒擾事件と被告、中央幹部など全体の出版物を網羅し、分裂と武力闘争時代の日本共産党像を浮き彫りにしている。それらの全体を見通した文献データ・解説集が出版されたのは初めてと言えよう。このHPに全文を転載することについては、田中氏の了解をいただいてある。田中さん
〔目次〕
3、旧所感派の確信犯
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『逆説の戦後日本共産党史』武装闘争、50年分裂問題を含めファイル多数
田中真人HP『1930年代日本共産党史論』(あとがき)
『1930年代コミンテルン日本支部方針の検証』田中著書の見解をかなり引用
日本共産党中央機関紙『赤旗』は二〇〇六年七月二三日号でもって、一九二八年二月一日の創刊以来の紙齢が二万号を数えた。一九三五年二月二〇日付の第一八七号までは非合法刊行物であり、一九四五年一〇月一〇日に府中の予防拘禁所から解放された徳田球一・志賀義雄の声明を掲載したものを復刊第一号とした。その後、党創立40周年記念日とされた一九六二年七月一五日付でもって、前日までの紙齢から一気に一八七号分をとばして、戦前の非合法紙『赤旗』の紙齢を加えた。
現在の『赤旗』は一九五二年五月三〇日付で第三種郵便物の認可を得ており、毎日の第一面欄外に明記している。合法紙として復刊した『赤旗』は一九四五年一二月五日付けでいったん第三種郵便物を認められたが、朝鮮戦争勃発の翌日一九五〇年六月二六日に三〇日間の、やがて無期限の発行停止命令がGHQよりなされ、この間に第三種認可資格を喪失した。対日講和条約が発効した二日後の一九五二年五月一日のメーデーを期して、発行停止命令の根拠が失われたとして『アカハタ』を復刊した日本共産党は、ただちに第三種認可再取得の申請を行い、その承認されたものが今日に至っている。二年近くの発行停止中に、日本共産党臨時中央指導部などによって『アカハタ』の後継紙として『平和と独立』などの定期刊行物が、半非合法的に刊行されているが、これらは現在の『赤旗』の紙齢には加えられてはいない。
この『アカハタ』が占領軍命令によって発行停止されている時期は、日本共産党のいわゆる50年分裂時代である。現在の日本共産党は、一九五〇年代前半の時期の、いわゆる徳田主流派による「臨時中央指導部」や、そのもとでの「四全協」(一九五一年二月)「五全協」(一九五一年一〇月)の決定を、分裂した一方の側、『日本共産党の70年』や同『80年』の表現を使えば「徳田・野坂分派」が勝手に行ったもので、日本共産党としての活動ではなく、関知しないとの立場をとっている。しかし同紙誌の紙齢のカウントの仕方や、第三種認可日付を見れば、この「徳田・野坂分派」によって発行された『アカハタ』や『前衛』などの機関紙誌は、その後の現在に至る継承・継続関係を維持しているといっていい。東京代々木に所在する中央委員会の土地や建物についても同様のことがいえよう。
* ただし一九五二年五月一日に復刊された『アカハタ』は発行主体を「日本共産党中央指導部」とし、「日本共産党中央機関紙」と明記された。発行名義が「中央指導部」から「中央委員会」に変わるのは、六全協直後の一九五五年八月三日付からである。
つまり紙齢や第三種認可日付を見るに、宮本「公式党史」においては党の正史としてオーソライズされていない、一九五〇年代前半の日本共産党分裂期の徳田主流派=「所感派」の活動も、その正閏に関わらず、現在の東京代々木に本部を置く日本共産党が、正負ともに歴史的継承と責任を有することになる。その再統一の過程であった第六回全国協議会(一九五五年七月)や、第七回党大会(一九五八年七月)が、両派の妥協、旧両派の均衡人事であったことからも、必然化されよう。そして一九六〇年代以降の日本共産党内においては、公式には否定された過去の戦術の実行責任者の多くが、なお幹部クラスにも、平党員にも存在した。これらの、所感派ないし、非国際派的な動きをとった党員たちが、一九六〇年代以降、分裂期をどのように回顧していたかをまず検討してみよう。
50年分裂の回復と再統一のための日本共産党の公式の大会が「第六回全国協議会(六全協)」という形式であったことが、この会議の中間的性格を物語る。本来ならば党大会として、一九四七年の第六回党大会選出中央委員会の責任でもって召集されねばならないものだが、現実には第六回大会選出中央委員会は分裂の過程で機能せず、この一部と第五回全国協議会(一九五一年)選出中央委員とで、六全協は準備された。四全協や五全協は、のち宮本顕治らの主導する日本共産党中央によって、分裂組織が一方的に召集した、正統な手続きを経ない会議としてその正当性を否定されているものであり、この会議が採択したという「51年綱領」は、のちの一九九三年になって、同じ理由から「51年文書」と、公式には言い換えることとなった曰く付きのものである。主流派の志田重男と、国際派の宮本顕治の二人三脚で、「六全協」という形で準備され、その決議において、五一年綱領の正しさを再確認するというところに、六全協が持つ折衷的性格がよく現れている(51年綱領の廃止が公式に確認されたのは一九五八年の第七回党大会である)。
六全協と、それに続く第七回党大会が、分裂の克服を第一義課題としたために、旧国際派主導下の一九六〇年代以降の日本共産党中央にも、多くの旧所感派幹部が残った。このうち参議院議員にもなった河田賢治と春日正一に関わる文献を見てみよう。
河田賢治が一九九五年に逝去した際、追悼会の記録や思い出を綴った数編からなる小冊子として『夜明けを目指して−河田賢治さんを偲ぶ−』(河田賢治追悼文集編集委員会、一九九七年)が刊行されている。執筆者はほとんどすべて共産党関係者で、さらにその大部分は京都府委員会関係者。したがって叙述のほとんどは戦後の京都での活動に限定され、河田のもっとも華々しい活動期といえる一九二〇年代の評議会時代についての語り手はない。また「北京機関」での活動は、党内事情ではばかるところあってか、年譜の二行の記述でもって、一九五六年にいたる二年間は北京にいたことがかろうじて知られるのみである。河田は一九五七年に公然活動に復帰して以来、京都府委員長、そして第九回大会からは幹部会員であり、一九五八年以来、京都府知事選挙や参議院選挙の共産党候補者、一九六八年からは参議院議員(京都地方区選出)としての経歴を有する。しかしこの間に理論的主導論文を発表したということもなく、宮本執行部の伝声管としての公式発言以外の肉声を開いたという印象もない。幹部会員という共産党序列の中での最高の地位は、河田の沈黙の代償として与えられた均衡人事というところか。宮本執行部に対して恭順し、所感派時代のことに沈黙するならば、相応の処遇を与えるという典型例であり、河田は十分にそうした注文に応えた。この薄っぺらな追悼の小冊子は、河田の晩年の三〇年間の姿勢をよく表している。
河田と似た位置にいたものとして春日正一がいる。主流派による「臨時中央指導部」員であり、統制委員長であった春日は、やはり第七回大会以後に中央委員、幹部会員、そして一九六五年以降は全国区選出の共産党参議院議員であった。その春日が、現役を引退したあと、その妻ミツの死ののちに、ともに共産党のもとに暮らした四六年間を追想した春日正一『おばさんのこと』(一九八四年、私家版)を書き下ろしている。すでにともに検挙歴のある三〇歳代となっていた男女が、生活と活動の必要から同志の斡旋で見合い結婚ををしたのは一九三六年のこと。正一はいわゆる京浜グループ事件で敗戦までの五年余を獄中に過ごし、一九五〇年代前半の三年余も徳田派幹部として勾留された。正一は本書「あとがき」で、ミツの生涯が党に忠実であり、夫の党活動にささげられ、その点で正一のよき協力者であり、理想的な家庭との友人の評を肯定的に記す。見事なまでに「内助の功」としての妻への賛辞である。いわゆる「50年分裂」でのみずからの政治的位置については、淡々と事実を述べるのみで、価値評価のともなう自己反省的文章は全くない。妻と過ごした党生活と私生活の身辺雑事から叙述が大きくそれることはない。旧主流派という、現党執行部が否定的に見ていることについて、価値評価しない、つまり居直ることも懺悔することもしないという姿勢をうかがわせる。
なお春日正一の上記著では、ほとんどその内容にふれていないが、春日が一九五〇年代の数年を獄中に過ごしたのは団体等規制令違反に問われたからである。一九四九年制定の団体等規制令と法務庁特別審査局は、一九五二年の破壊活動防止法と公安調査庁の直接の前身として、いわゆるポツダム勅令の一つとして制定された。「占領軍に対して反抗し、若しくは反対し、又は日本国政府が連合国最高司令官の要求に基づいて発した命令にたいして反抗し、若しくは反対すること」など七項に該当する「政党、協会その他の団体は、結成し、又は指導してはならない」とし、さらに公職の候補者を支持したり、日本と諸外国の関係を論議したりする政党は届け出義務を負うことが義務づけられた。一九五〇年七月一四日、春日正一、松本三益ら日本共産党九幹部に対して団規令違反で逮捕状が発せられ、春日については講和発効直前の一九五二年四月に有罪が確定した。起訴されたもう一人の松本三益に対しては講和後の一九五三年から一九五六年にかけて東京地裁で二二回の公判が開かれ、一九五四年、一九五六年、一九六一年の東京地裁、東京高裁、最高裁の判決を経て免訴が確定した。最高裁は大法廷で審理が行われ、教判官の判断の内訳は免訴九名、無罪二名、有罪四名であった。『松本三益団規令事件公判記録』(あゆみ出版、一九九一年)は地裁の公判記録、および地裁、高裁、最高裁の判決文を収めたもので、団規令違反の裁判自体が限られた事例しかなく、貴重な記録である。しかし特審局への党員名簿の届け出実施をはじめとする当時の共産党のとった戦術についての価値判断は一切避け、裁判記録の収録に徹している。
このほか旧所感派の人脈で、宮本体制下の指導部を形成し、一九八〇年代末には、不破哲三の病気による代打とはいえ党委員長となった村上弘がいるが、一九六〇年代以降の党内序列が高いことに比例して、五〇年分裂期の沈黙度も高くなる。
3、旧所感派の確信犯
日本共産党の「50年分裂」といわれるものは、「所感派」と「国際派」に大別され、徳田球一と宮本顕治がそれぞれの代表的人物であるというのが、きわめておおざっぱな一般的区分けであろう。その収拾と再統一の過程は、徳田が一九五三年に北京で客死した後の所感派を引き継いだ志田重男(一九一一〜一九七一)と、宮本との間の手打ちとして一九五五年の六全協を迎えた。志田本人はこの直後に「トラック部隊」「人民艦隊」事件や党の公金使い込みなどが問題とされて失踪=除名となるが、所感派の流れをくむ旧志田派が、宮本体制が確立しつつあってもなお、党内で隠然たるグループを形成したのは、このような50年分裂修復過程の党内均衡の力学の産物であろうか。しかし一九六〇年代後半に日中共産党の全面対決を迎える時期には、志田派の多くは中国派として党外に放逐された。『志田重男遺稿集』全二集(志田重男遺稿集出版編集委員会、一九七五〜七六)は、六全協後の日本共産党が「精算主義」に陥り、徳田時代の経験の成果まで否定している実情を憂え、徳田時代の積極性を評価した志田論文が、ほとんど未発表のまま放置されていることを憂慮するとして、志田派の旧同志たちによって刊行されたものである。六全協から第七回党大会を迎えるころ、一九五六年八月から一九五八年九月の時期の論文が集められ、第一集と第二集に時系列の連続関係はない。
その志田の忠実な同志の岩本巌に『風鳴り止まず』(一九九三年、私家版)という晩年の手記がある。堺刑務所に下獄中の一九三六年に志田重男と邂逅したことは、以後の岩本の人生を大きく規定し、岩本は志田と義弟の関係にもなった。一九四六年二月の日本共産党第五回党大会で中央委員候補、大阪地方委員、続いて一九四八年には統制委員として党本部勤務となる党歴は、志田との関係を抜きにしては考えられない。共産党50年分裂期において、志田派の首切り役人として国際派や神山派への圧迫の下手人であったことは多くの被害者の証言(たとえば浅田光輝『激動の時代とともに』)があるが、本書ではこうした反対派党員への圧迫の誤りを認めつつ、それを逆手に取った主流派党員への、六全協後の不当な圧迫、志田への「個人的な醜聞をでっち上げ」ての攻撃を「清算主義」として不満を漏らす。一九五七年に志田とともに共産党を離れた頃と同じ理屈が、岩本が80歳を過ぎて本書を書いた一九九〇年代にも貫徹しているわけである。
徳田球一については『徳田球一全集』全六巻(五月書房、一九八五年〜一九八六年)が刊行された。『全集』が準備された直接のきっかけは、一九八三年一〇月に志賀義雄・黒田寿男を提唱者として開催された徳田球一没三〇周年記念の集いと、そこから組織された「徳田球一記念の会」で、同会は一九八三年七月創刊の「会報」を少なくとも、二〇〇三年四月の第七七号まで継続刊行している。全集編集委員会の代表は、かつての臨中議長の椎野悦朗であるが、旧徳田・志田派にとどまらないより広い人脈を世話人とする配慮を見せている。さらに徳田球一顕彰記念事業期成会編『記念誌 徳田球一』(教育資料出版会発売、二〇〇〇年)は、沖縄県名護市をはじめとする徳田の郷里の関係者が中心となった郷土の名士の顕彰録としての色彩を強く持っている。記念事業会の事務局は名護市立中央図書館内におかれた。だが「徳田球一記念の会」の渡部富哉らの全面的な協力もあって、徳田の年譜や著作目録は、「全集」第六巻収録のものよりもより充実したものになっている。これらの徳田関係事業に現役の日本共産党関係者はまったくタッチしていない。
50年分裂において所感派と国際派のいずれにも属さない、あるいはいずれからも疎外された独立諸派も存在する。もともと国際派に属しながら、中ソ友党の勧告という国際権威主義によって、所感派=主流派の軍門に自己批判して下るということを潔しとしなかった「国際主義者団」をひきいた野田弥三郎の『共産主義者の責任』(新輿出版社、一九六六年)や、野田の自伝「マルクス主義の60年」を収めた『野田弥三郎著作集』第五巻(小川町企画、一九八八年)、この時期には孤高の独立分派をつらぬいた福本和夫や中西功、波多然『気品と真実』(新泉社、一九八三年)など、その数は少なくはないが、それぞれの自伝において、当該時期のことについてはかならずしも詳述していない。とりわけ野田弥三郎は、宇田川恵三とともに志賀義雄「意見書」をを散布して主流派から真っ先に規律批判のやり玉に挙げられ、志賀自身が「意見書」を撤回するということもあって、五〇年分裂期の主要な配役の一人であり、野田の論集はこれらの問題点について『火花』など「国際主義者団」の機関紙に多くの論考を寄せたものが収められている。
栗原幸夫『革命幻談 つい昨日の話』(社会評論社、一九九〇年)は、共産党員、ベ平連、日本アジアアフリカ作家会議で活躍した栗原幸夫の半生を、ドイツ文学者の池田浩士と、反天皇性運動などの市民運動家の天野恵一が聞き取ったものであるが、神山茂夫の一派と見なされた共産党50年分裂時代、編集者として勤務した青木書店や三一書房といった左翼出版社の内情と共産党との関係が具体的に生き生きと語られている。
所感派、国際派のいずれからも疎外圧迫され、党の再統一過程において復帰がもっとも遅れたものは、栗原もその一人であった神山茂夫らのグループであろう。浅田光輝『激動の時代とともに』(情況出版、二〇〇〇年)は、その神山派への政治的圧迫の悲喜劇のもっとも詳しい証言である。マルクス経済学者にして『日本帝国主義史』『天皇制国家論争』などの著書のある浅田光輝(一九一八〜二〇〇六)は、中学生の時に日記の記述から不敬罪に問われ、慶應義塾大学在学中にも治安維持法違反事件で勾留される。本書は左翼学生時代、中国大陸での戦歴、戦後の中央労働学院・静岡大学での共産党員大学教師時代、長期にわたる破防法裁判傍聴記を書き記すことになる新左翼へのシンパシーを抱く立正大学教員時代と、ほぼ時系列に回顧したもので、雑誌 『情況』に一九九六年から一九九九年にかけて連載されたものである。なかでも圧巻は一九五〇年代前半の日本共産党分裂時代における「神山茂夫派排除」キャンペーンの悲喜劇的な実態を、中央労働学院を主な舞台として、克明に描いた部分である。著者は『アカハタ』一九五四年九月二七日号が、「全党が断固として闘う」とした「神山派」一一名のうちの一人、このなかの川島優の自殺、茂木六郎の自殺未遂、党主流の線で神山派の抑圧に動いた菅間正朔の自殺という多くの悲劇を生み出した。この排除劇を通じて、特高警察の様式と変わらぬ党内査問と自己批判要求、天皇制国家官僚と変わらぬ責任回避と権威主義、ご都合主義を著者は共産党内にも見る。記述の多くは実名である。また神山茂夫派と目された日本経済機構研究所の設立過程とその実態、その間の神山本人の動きにも、コミンテルン的、スターリン的「党」を乗り越ええなかったものとして批判的な論評を加えている。のちの一九六〇年代後半には、革共同中核派などの新左翼への、シンパシーと同時に日本共産党と変わらぬ体質への批判的視点を隠さないが、荒畑寒村に比べれば、新左翼への愛憎の起伏は緩やかといえよう。
『死んでも命があるように−宇佐美清治追悼作品集』(宇佐美清治追悼集編集事務局、一九九八年)を残した宇佐美清治(一九二〇〜一九九八)は東京都の青梅、福生、立川などにおいて、日本共産党によるいわゆる「武装闘争」を展開した中心人物の一人。一九五〇年には、中央に先立ち非合法軍事組織結成方針を地区委員会で決定、一九五一年には小河内地区での山村工作隊の受け入れ準備、西多摩軍事委員長に就任、五一年一二月の関東軍事委員会が警察の手入れを受けた「柴又事件」には難を逃れ、一九五二年に三多摩地区軍事委員長となり、武蔵野署火炎瓶攻撃事件で全国指名手配中、一九五二年のメーデー事件において独立遊撃隊長として人民広場の最前線で指揮を執る。同年七月逮捕、獄中から『人民文学』などに詩作品を投稿、一九五八年刑期満了で出獄。一九六三年日本共産党除名、以後も立川=砂川や三里塚での運動を支援するとともに、詩雑誌『原詩人』に参加し、妻の野口清子とともに『新日本文学』などに関わる。幼少のころに奉公で修行した鋸鍛冶職人を生涯の大半の生業とし、また一時手がけたらんちゅう養殖の試行錯誤を作品化した文章も収められる。
本書前半には詩を中心とした宇佐美の作品を収める。さらにメーデー事件は日本共産党が明確に武装闘争の一環として、意識的な軍事闘争として積極的に展開したとする宇佐美の体験談(『文芸春秋』一九九二年八月号)と、これに対して権力側の謀略であったとするメーデー事件弁護団長の反論も収める。日本共産党自身がみずから否定した「軍事方針」を、その実践者として肯定擁護する姿勢を堅持し、それを市井の一市民職人として生計を維持しつつ、文章にし、発言し続けた点で、宇佐美はまことにユニークな存在であった。武装闘争と軍事方針の正当性を貫いた所以は、宇佐美が政治的には一匹狼的存在であったこともあって、本書では十分に伝わらない恨みがある。
大窪敏三『まっ直ぐ』(南風社、一九九九年)は、戦前は中国戦線の前線で、戦後は日本共産党の戦列において、いずれもノンキャリアのミリタント(戦士)として、つまり一兵卒として活動した者の回想記、その息子による聞き書きである。敗戦、六全協といった、それまでの自己を突き動かしてきた基本理念が大転換したときに露呈する同志たちの身の処し方を描きつつ、思想の内容ではなくてその質のあり方を問う。大窪も、前記宇佐美と同様に、日本共産党が武装闘争方針をとった時期の、首都圏の中核自衛隊のキャップの一人で、宇佐美が逃れた「柴又事件」で検挙される。宇佐美と違うのは六全協後の日本共産党に党員として残ったことである。六全協が宮本顕治と志田重男の手打ちによってもたらされたゆえに、志田派は(志田本人を除いて)再統一後の日本共産党内において、事実上の公然たる分派組織を維持するという希有の存在となる。自身の属する新しい党指導部によって完全に否定された「武装闘争方針」という活動歴を持つ党員の身の処し方を知るうえでも興味深い。
千曲川最上流の信州川上村の豪農出身の由井誓は、五五歳の生涯を終えたあと、『由井誓 遺稿・回想』(由井誓追悼集刊行会、一九八七年)が多くの友人たちによって編集された。戦後版早稲田「人生劇場」の青成瓢吉といえる学生生活、日本共産党の方針にもとづく小河内村での山村工作隊、六全協後の『アカハタ』記者、ならびに除名後に関わった党派の機関紙『新しい路線』『統一』、そして『労働運動研究』の編集者としてすごした。早稲田での学生運動の時代のあとの由井の政治生活は目立たないところで獅子奮闘する裏方、それも義務感に奮い立たせてというよりは、少年のようにあっけらかんと、しかし細心の配慮をしのばせながら、兵站乏しい戦線を守ったことが、多くの証言に共通する。由井自身には「私の山村工作隊体験」(『運動史研究』第四号、一九七九年)が詳しいが、問題党員が懲罰的に工作隊に派遣されるという実態などにも言及されている。
思想の科学研究会とその周辺で活動し、また京都市職員としての体験をふまえた『方法としての現場』(社会評論社、一九七四年)などの著書のある北沢恒彦(一九三四〜一九九九)の論集『隠された地図』(クレイン、二〇〇二年)には、京都の高校生時代に体験した一九五二年の共産党「武装闘争」の体験談が収められている。市民生活の日常性の中に降って湧いたような「武装闘争」が出現する悲喜劇を具体的に描く。
「武力闘争」の中でも三大騒擾事件のひとつといわれる闘争の体験を検証した大著、脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』(明石書店、二〇〇四年)は、武力闘争体験者の著書としては最大の検証の成果である。著者の脇田氏は一七歳の高校生の時に、共産党の武装闘争の一環として企てられた大阪府枚方の軍需工場への攻撃闘争と、朝鮮戦争への軍用列車妨害のための陽動作戦などに参加して検挙される。保釈後、大阪、奥吉野などで山村工作隊や基地工作活動に参加。六全協後、共産党を離れ、労働組合運動に参加、総評のオルグとなる。
本文七七〇ページ、それに伊藤晃の二〇ページの解説論文などを付す。のちの共産党の主流から否定され、なかったこととされている歴史の体験者が、自らの情熱と体験を歴史化するというのはどういうことかを自問し、半世紀ぶりの再調査に乗り出す。著者が直接参画しなかった吹田事件についても、詳細な現地調査と聴き取りが行われている。本書は回顧録と言うよりは、過去の追体験の検証の旅の記録という趣がある。
伊藤晃は本書の解説で、共産党の軍事方針はコミンフォルムによる野坂占領下平和革命論の批判を驚喜して迎えた宮本や志賀ではなく、批判された徳田や野坂の所感派によって主導されたことに注意を喚起する。占領下平和革命論へのひそかな党員の不満を所感派は引きつけ、なによりもこうした不満が強かった関西の現場活動家を基盤にしていた志田重男一派が、所感派をリードしていた。つまり武力闘争は、党内権力闘争におけるスローガンであった。武力闘争がスローガンたり得たのは、党員とその周辺における、理不尽な現状を打破せんとする熱情と、それに対する荒々しい権力への対抗への「本気」が存在したこと、たとえ現実に武力闘争を実行する力が党組織になかったとしても、日本共産党主流派はこうした革命への破壊衝動の「本気」を代弁していたと見る。
脇田の書は、戦後の左翼運動史の空白も、ようやく歴史化されてきたとの感を抱かせる書である。体験者の執筆にありがちの「執念の書」ではあるかもしれないが、それを感じさせない、淡々とした事実の検証と追及の姿勢に好感を持てる。
一九五二年の三大騒擾事件の一つであるメーデー事件の被告としての20年の苦闘を回顧したもののひとつに山本朗『ある被告の自分史』(白石書店、一九七七年)があるが、事件当日のことは記述は少なく、その救援運動と被告たちの「力強い人生」を検証する叙述が中心である。その救援運動が日本共産党やその系列の多くの人々が支えてきたことが強調されても、事件そのものが日本共産党といかなる関係にあったのかということについてはまったく言及されない。
岡本光雄『メーデー事件』(白石書店、一九七七年)の著者は、二百数十名にのぼるメーデー事件被告団の団長として、一九七二年の控訴審での騒擾罪無罪にいたる20年間の裁判闘争の中心で活動した。いわば被告としてのメーデー裁判通史というべき書である。巨大被告団を理由とする分離裁判攻撃への反撃、第一審だけで一七九二回にもおよぶ公判への対策のひとつとしての「常任被告」制度の設置、事件の「指導」があったはずの日本共産党が責任を取らないなかで、長期裁判に耐えきれず、裁判闘争打ち切り宣言まで出さざるを得なかった一九五七年前後の低迷期と、そこからの再起の過程。長期の裁判闘争をめぐる当事者としての詳細な記録である。
一九五二年五月一日の皇居前広場(人民広場)での事件、いわゆるメーデー事件の刑事裁判は、同じ時期の大須事件・吹田事件とならび、騒擾罪が適用されるかどうかが最大の争点となった。それにしても裁判闘争の主目標が無罪を目指すということの確認がなされたのが事件後10年を経た一九六二年にしてようやくであったこと、検察側の論告が、敗戦後の国内外情勢のなかで日本共産党の軍事方針の形成に膨大なスペースを費やしているのに、被告側はこれらを事件と無関係、ことさらに日本共産党と関連づける恣意的論告としりぞけているにすぎないとしていることなど、「事件」そのものと切り離された「裁判闘争」という、この時期の国民救援会や日本共産党系の裁判闘争の典型を示している。
メーデー事件裁判闘争史編集委員会編『メーデー事件裁判闘争史』(白石書店、一九八二年)において、日本共産党がメーデー事件にたいしていかに冷淡な態度をとったか、被告人たちが共産党にたいして激烈な批判を展開し、人民広場突入軍事方針の実態を公表せよと要求したのかを、かなり詳細に記述している。この点では、日本共産党の軍事指導についてまったく不問に付し、これを問題視しし、追求しようとした党員被告を除名処分とした名古屋の大須事件裁判と比較すると、その対応でかなりの違いがある。
一九五二年七月七日の名古屋の大須事件は、唯一騒擾罪成立を認めた上告審が確定(一九七八年九月)したもので、有罪二六名(うち実刑五名)、この間、被告の自殺三名、変死一名、事件現場の警官襲撃による死亡二名を数える。関根庄一編著『被告−大須事件の二十六年』(労働旬報社、一九七八年)は、大須事件被告を守る全国連絡会の委嘱を受けた元福島県高校教員によるルポ風の記録で、権力側の陰謀による意図的弾圧事件、被告たちはまったく受動的に事件に巻き込まれたという立場を取る。したがって日本共産党名古屋市軍事委員会の存在とその組織実態、名古屋市委員長・愛知ビュローキャップ永田末男の、裁判過程における共産党からの除名、党中央軍事委員岩林虎之助の存在、その軍事命令の有無など当時の共産党の政治指導についてはまったく言及していない。日本共産党にとって触られたくない、無関係を装う過去について、一九七〇年代に事後対応的に言及するとすればこのようにしかならないだろうというものの典型といえる。上告審判決を目前に控えて、事件の当事者やこの間の裁判闘争の被告でもない関根を聴き取り役として急遽作成したルポは、あらかじめ定められた構図の中に事件を押し込めようとするにはむしろ好都合な編成だったかも知れない。
被告人永田末男は、大須事件における現場での日本共産党の軍事方針の指導者であったが、その公判陳述において、大須事件とはせいぜい抗議デモ、官憲の弾圧には貧弱な火焔瓶をもって身を守るというささやかな抵抗運動であったとして、騒擾罪の無罪を主張した。そのような限定的主張であっても、法廷の場でもって「武力闘争」指導を容認するという永田被告の立場を、日本共産党は容認できなかったのである。なお大須事件の究明の作業は、宮地健一「謎解き・大須事件と裁判の表裏(一)」(『象』第五五号、二〇〇六年、並びに同氏のサイトhttp://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/osu1.htm)などで本格的に始められようとしている。
なお大須事件弁護団の一人の天野末治に『ある現代史』(東海タイムズ社、一九七一年)がある。天野(旧姓柴田)末治(一九〇一〜一九七六)は、愛知県を中心に、戦前は全農全会派系農民組合の顧問弁護士、全協の組合員による三信鉄道争議の弁護などで活動し、共産党被告への弁護士活動を治安維持法違反とした「日本労農弁護士団事件」で有罪とされ、一時、弁護士資格を剥奪された。戦後も郷里岡崎に弁護士事務所を構え、大須事件や愛大事件をはじめとする多くの事件を弁護し、また一九五〇年の参議院選挙では愛知地方区から共産党公認で立候補した。ただし大須事件の裁判が佳境に入った頃、天野は病床にあり、十分な弁護活動を展開できなかった。本書の大部分は労農弁護士団事件で検挙されたさいの一九三三年一一月から一二月にかけて八回にわたって、名古屋の鍋屋警察署で行われた特高刑事への聴取書であり、本人自身による回顧録が残されていないことが惜しまれる。
脇田憲一の前掲書は、戦後の左翼運動史の空白も、ようやく歴史化されてきたとの感を抱かせるものと書いたが、その少し前に自費出版された川口孝夫『流されて蜀の国へ』(一九九八年、私家版)を読むと、この時期を歴史として叙述することの困難さをなお強く感じる。かの一九五二年一月の白鳥警部殺害事件当時に札幌地区の中核自衛隊の責任者として「知りすぎた男」であった著者は、六全協後の統一指導部の手によって、口封じのためにか、だまし討ち的に中国奥地への島流しならぬ「陸流し」にあう。彼が一七年もの中国での生活を終えて帰国できたのは、日中両共産党が断絶状態となり、かつ日中国交が回復した後の一九七三年のことであった。伊藤律と類似の運命をたどった著者は、革命党の、組織第一の論理の持つ非情さを自身の姿に写す。しかし著者はこの本でも、白鳥事件の真相については曖昧にしている。白鳥事件について、知っている事実関係を詳述せよとの出版社側の要請を、著者は拒否したがゆえに、出版契約は成立せず、自費出版となったと聞く。こうして著者は本書でも、白鳥事件の真相については明確な説明をしていない。しかし検事側証人となった元共産党員高安知彦の検事調書を、ほぼみずからの見聞と一致すると証言するなど、白鳥事件が共産党関係者の実行にかかるものであることを示唆している。また本書は大躍進期から文化大革命期における中国社会の実相の貴重な見聞記でもある。
白鳥事件から五〇年以上が経過し、中国に亡命した、事件関係者とされる共産党員の幾名も、すでに多くは客死した。その中で、白鳥事件が権力による謀略であり、共産党は無関係であるとの立場で書かれた代表作というべき山田清三郎『白鳥事件研究』(白石書店、一九七七年)が文庫化されるにあたり、事件の共同被告であった元共産党員高安知彦の長文の証言を収録した和多田進の一〇〇ページもの「解説」は、実行行為者の特定を含む共産党員による犯行を述べるものであった(『白鳥事件』新風社文庫、二〇〇五年)。しかし下山事件が、関係者の証言をつなぐだけでは真相に迫れなかったのと同様に、白鳥事件も証言を裏付ける実証が必要となろう。刑事手続きとしてでなく、歴史研究としての究明のあり方が問われる。この点で佐藤一らによる『下山事件全研究』(時事通信社、一九七六年)の先駆例を思い起こすべきであろう。
まず亀山幸三『戦後日本共産党の二重帳簿』(現代評論社、一九七八年)を取り上げよう。亀山幸三(一九一一〜一九八八)は、一九四七年の日本共産党第六回党大会で中央委員となり、書記局員・財政部長を担当するが、一九五〇年に公職追放。以後、国際派七中央委員の一人として50年分裂期を過ごし、一九六一年に綱領問題で主流と対立して離党する。本書は、戦後初期の一九四〇年代後半における日本共産党の再建過程を、財政担当者として回顧した部分、並びに一九五〇年のコミンフォルム批判をきっかけとする共産党50年分裂が、六全協と第七回党大会で修復されていく内情を当事者として記録された部分からなる。とりわけ一九五〇年代の動きについては、徳田主流派と対立した国際派が、中ソ友党の勧告を受け入れて自己批判して復帰していく過程での、個々のメンバーの動き、「北京機関」と国内指導部との連絡の精粗、再統一の場となる六全協の準備過程、そこでの宮本顕治と志田重男の野合の実態と、他の主要幹部の対応など、「そのとき責任ある党幹部として何をしていたか」を、究明する姿勢で書いていることである。ただしこれらの記述は当事者としての著者の記憶と体験の比重が高く、資料的裏付けが十分とはいえず、関係者からの異論の表明も少なくない。第七回党大会前に日本共産党内に設置された、著者も関わった「日本共産党50年問題調査委員会」についても、その公表文書さえも十分には活用されていないように思える。なおこの調査委員会の活動は、日本共産党中央委員会五〇年問題文献資料編集委員会編『日本共産党五〇年問題資料集』全三巻として一九五七年二月に刊行され、さらに文献集『日本共産党の五〇年問題について』を加えた四巻として復刊された(新日本出版社、一九八一年)。
元日本共産党副委員長、戦後は一貫して宮本顕治とともに歩んできた袴田里見の自伝のうち、戦前編『党とともに歩んで』は日本共産党理論機関誌『前衛』にまず連載され、戦後編というべき『私の戦後史』(朝日新聞社、一九七八年)は一九七八年の『週刊朝日』に二〇回にわたって連載されたものがもととなっている。この間の一九七七年暮れに袴田は日本共産党を除名された。本書は、党員、党幹部という制約から離れた時点での証言であるが、周知のものが多く新事実はそれほど多くはない。それでも50年分裂期、あるいは中ソ対立期において、各国共産党との交渉という国際舞台で活動した機会が多いだけに、その現場証言は具体的である。武力闘争方針をすすめた「51年綱領」を採択するというスターリンの裁定が下る場面、その間の「国際派」代表という微妙な立場での北京とモスクワでの七年間、一九六〇年の81カ国共産党代表者会議と中ソ対立の予兆を示す水面下の激論、一九六四年の旧ソ連共産党、一九六六年の日中共産党会談とその破綻に至る経過、「自主独立」路線にたいする心情、関わったスースロフ、ホーチミン、毛沢東、フルシチョフらの世界の共産党の指導者群像の描写などを、現場の空気とともに伝えている。
一九六〇年代から四半世紀にわたる宮本顕治の日本共産党の党史に関わる重要論文を集めたものが宮本顕治『党史論』(上下)(新日本出版社、一九九三年)である。一九五八年の第七回党大会以来、宮本は党の書記長、委員長、議長として、文字通りの最高指導者として、その後の三五年間を君臨してきた。宮本個人署名の論文も、党の公式見解として扱われてきた。宮本顕治の多くの論集の中で、党史に関わるものが含まれているものは、この以前にも少なくない。『わが党のたたかった道』(一九六一年)、『宮本顕治現代論』全三巻(一九七五年)、『宮本顕治文芸評論選集』第四巻(一九八〇年)、『五〇年問題の問題点から』(一九八八年)などの宮本の論集や、『科学的社会主義の不滅の党として』『歴史に背く潮流に未来はない』『現代史の中の日本共産党』といった党関係者の論集にもかなりのものが収められている。『党史論』はこのなかで、党創立五〇周年、六〇周年などの節目における宮本演説など基調的論文を収める。また宮本党史としての完成形態といわれた『日本共産党の70年』におけるものとまったく同一の文章が、本書に収められた宮本の個人論文に登場するなど、『70年史』のいくつかのパラグラフは宮本が直接手を加えたことの傍証ともなっている。なお本書には東欧=ソ連の社会主義体制崩壊後における唯一の論文「著作集『五〇年問題の問題点から』の「まえがき」再録にあたって」(一九九三年)が収められているが、日本共産党50年分裂の実態を示すモスクワの文書庫からの新資料に言及はあっても、ソ連崩壊についての言及はない。
前述の亀山幸三もそうだが、50年分裂期の党中央委員クラスの幹部たちは、一九六〇年代になってから日本共産党を離党、もしくは除名となった人びとが少なからずおり、その関係書も少なくない。『追悼春日庄次郎』(刊行委員会、一九七六年)、『内藤知周著作集』(亜紀書房、一九七七年)、『濁流を悠々と−山田六左衛門とその時代』(山六会、一九八一年)、小森春雄『共産主義運動の原点』(ウニ夕書舗、一九八六年)、野田弥三郎『自伝 マルクス主義六〇年』(小川町企画、一九八八年)、『片山さとし遺稿集』(同編纂委員会、一九九五年)、『一柳茂次−著作・回想』(社会評論社、二〇〇二年)などを容易に数え上げることができる。しかし50年分裂期にそれぞれが何をしていたかの叙述は、いずれも平板である。
そうした離党した元中央委員の関係書のひとつとして『彦さんの本領−西川彦義の回想と遺稿−』(西川彦義遺稿集刊行会、一九八二年)を取り上げてみよう。野武士のようなストライキマン、「組合主義者」が日本共産党の中央委員であり得た時代があった。たとえ一匹狼、異端の存在であったとしても。西川彦義(一九〇五〜一九七九)はそうした象徴的存在だった。党機関においても、産別会議金属労組などの労働運動においても、中央=東京での活動期間があるのだが、西川は生まれ故郷の大阪のにおいが染みついている。庶民性、柔軟さ、弾力性−西川の追想文にはこうした用語で西川の特色が語られることが多い。そこでは「党」さえもが、大衆運動、労働運動における有用性においてのみ量られるかのごとくで、西川においては党の物神化、絶対化とは無縁であった。しかし全協以来の赤色労働組合主義の発想は強く、それゆえに一九五〇年代までは党と組合主義は両立し得たのかもしれない。本書は、西川の生涯を時期区分して全協時代、戦時下の党再建時代、産別金属時代、六全協後の党中央委員と社会主義革新運動時代、地域住民の一人としての住民運動時代に分け、それぞれの時期についての西川自身の文章、関係者の回想、そして一九七〇年代に行われた数次の聴き取り会の記録を再編集したもので、時期別、テーマ別にまとめられている。
同志社大学人文科学研究所では二〇〇四年度より共同研究班「近代日本の社会運動家−その書誌的総合研究」を立ち上げ、その作業の中心の一つとして、近代日本の社会運動家の自伝回顧録、追悼録、著作集などの目録の作成を手がけている。書誌のそれぞれには短い解説コメントを付すことになっており、メンバーは分担してこの執筆にあたっている。本研究ノートはこうしてできあがったコメント原稿をつなぎ合わせて論文調のものにしたものである。
つとに自伝や回顧録は、みずからの執筆時の立場を正当化する指向が強いことがかねてから指摘されており、とりわけ社会的に一定のステイタスを築き上げた人物においてはいっそうその危険性が高い。本誌第五三号井上史論文がとりあげた片山潜の自伝記述の変遷においてもその傾向が顕著であるし、野坂参三『風雪のあゆみ』は、今となっては回顧録がどのような作為をもって書かれたか、功成り名を遂げて、その位置を保持した人物の晩年における自伝や回顧録が、その時点の立場から敷衍し、合理化して叙述されることがいかに多いかの代表事例とさえなっている。
日本共産党創立の直接のきっかけとなった、コミンテルンのもとで開催された一九二一年の「極東勤労者大会」の日本の代表団の構成とその発言について、参加者の多くの証言がなされ、それぞれの発言証言の食い違いや齟齬についてさまざまな議論が展開された。当初は複数の証言に共通する内容を真実とする推論が行われたこともあったが、その後、山辺健太郎による独文報告集、隅谷三喜男・山極晃による英文議事録、高屋定国による別の英文議事録などの、大会の報告集・議事録が紹介されるようになり、この解釈をめぐる論争が、岩村登志夫・犬丸養一・松尾尊允・川端正久らによって、一九七〇〜八〇年代にわたって展開された(犬丸義一『第一次共産党史の研究』青木書店、一九九三年、第二部二参照)。極東勤労者大会をめぐるこれらの論争は、旧ソ連文書が発掘される以前の一九七〇年代より、コミンテルンの原史料にアプローチできた数少ない事例であり、関係者の回顧録にのみ依拠した研究の危険性はすでに十分に共通認識となっていた。
日本共産党50年分裂期の問題についても同様のことがいえる。少なくとも関係者=党関係の直接当事者の証言をつきあわせただけでは、容易に実態に到達しえない。党内でのタブー視がいっそう、その傾向を助長している期間が長く続いていたし、それが完全に過去のものとなりきってはいない。当事者以外の観察者の証言、たとえば古くは大井廣介『左翼天皇制』(拓文館、一九五六年)、同『革命家失格』(同、一九五七年)、あるいは公安筋の情報、警察庁警備局『日本共産党の六全協をめぐる諸問題』『日本共産党の第七回党大会党大会をめぐる諸問題』などを傍証とすることも試みられていた。また小林勝『断層地帯』『影のなかの火』、高史明『夜が時の歩みを暗くするとき』『闇を喰む』、窪田精『ある狂人の手記』などの「武力闘争」体験者による創作作品もある。
本稿に紹介された文献は、ほほすべて同志社大学人文科学研究所に資料として配架済みのものである。また社会運動家の記録は非商業的、非流通的な形態での刊行が多く、入手にはさまざまな情報の入手と取り寄せ手段を必要とする。予算においても、労力においても筆者の勤務先であるこの研究所の寛容な体制に依拠することができていることに感謝する。
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〔関連ファイル〕
『逆説の戦後日本共産党史』武装闘争、50年分裂問題を含めファイル多数
田中真人HP『1930年代日本共産党史論』(あとがき)
『1930年代コミンテルン日本支部方針の検証』田中著書の見解をかなり引用