怒濤の9月末コンサート攻勢が始まりました。そのうち分かるけど
しばらくの間、猛烈に忙しくなるはず。自業自得。
さて、今日のお題はジャズぢゃありません。
●9/19 ミュージック・ビデオ・シアター ザ・ケイヴ
at Bunkamura シアター・コクーン
音楽:スティーブ・ライヒ
映像・テキスト:ベリル・コロット
これらの人が誰で、何をやっている人なのか論じ始めたら本が何冊も書けるだろうし、 土台、ミミズにはそんな知識は無いから、割愛。ま、煎じ詰めれば、現代音楽作曲家と 映像作家の合作ステージです。(乱暴!)
スティーブ・ライヒについては去年、コンサートに行きました。 これも当時PC−VANに書き込んでます。これです。 よろしかったら、読んで下さい。
これ、どー説明しても結局見ないと分からない代物なので、どーすんべかなー、
と思ったら、
こちらに
企画者による詳細な記述あり。これはビデオ・インスタレーション版の説明
として書かれていますが、ステージ用の作品と内容はほぼ同じです。ご参照下さい。
(将来、このページが削除されていることに気づかれた方、ご一報下さい。
その暁には、何か対策を講じなければなるまい (^^;) )
ところで、そもそもミュージック・ビデオ・シアターって何?という問題ですが、
音楽と映像が組み合わされ、物語性のある作品、という程の意味だと思います。
が、実際はそんなに単純な代物じゃない!横文字を安易に使いたくありませんけど、
mixed media(ミクスト・メディア)
という言葉がこれ程ぴったりくるプロジェクトも無いんじゃないかなあ。
音楽・映像・言葉・照明・人間の立ち居振る舞い・・・・それぞれが細かいパーツに
分けられ、もの凄く精密に再組織されて、一個の芸術品に仕上げられている....。
上演が始まって、まず作品のからくり(仕組み)の精巧さに感激しました。
はじめに言葉ありきな作品であり、ことばが重要な鍵になっています。
その扱い方が本当に面白い。まずインタビューを通して、生の言葉(英語)を
サンプルする。その抑揚・リズム・テンポをモチーフとし、モチーフが組み合わされて
音楽になる。今度はその音楽に合わせて、もとのインタビューの映像と音声が
再構成される。−−人間の言葉が、これ程音楽的に豊かだとは思ってもみませんでした。
そこへ、聖書上の物語がオーバーラップする。物語は音楽のリズムに合わせて、
スクリーン上にリズミカルにタイプされる。(ステージ上にPCが3台ありまして、
リズムに合わせてキーボードを叩くと、単語の固まりがタッタカタッタカ出てくる
仕掛け。)その物語の言葉を、4人のボーカルがなぞる....。
結果、音楽と映像と物語は、どれが主でどれが従でもなく、また、どれも
単独で成り立っている訳ではなく。まさに三位一体の状態に統合されているんです。
完璧にコンピュータ制御された世界のはずです。にも関わらず、
人間が機械に追随している、という印象を受けないことに驚きます。
そして、これらの全てをテンポよくリズミックに、一糸乱れず遂行していく
ステージ上の20もの演奏家、加えてスタッフたちの手腕に、ただただ感動します。
題材は、旧約聖書のアブラハムとその家族の物語。アブラハムの正妻サラ、
二人が年老いてから生まれた末子イサク、サラの召使いでアブラハムの第2の妻
ハガル、彼女が生んだ長男イシュマエル。
イサクはユダヤ人の祖先、イシュマエルはアラブ人の祖先と言われ、
アブラハムとサラが埋葬された(アダムとイブも眠っていると言われる)洞窟は
ヨルダン川西岸地区にあって、ユダヤとイスラム共通の聖地となっている....。
つまりあの、根深ーい中東問題の出発点でございますね。うー。
作品の出発点となっている様々なインタビューの言葉の中に、 アブラハムは後々まで解くことの出来ない問題を残した、 というようなのがありました。それそれ! ザ・ケイヴの端的な印象といえば、それ。 あまりにも色々な問いかけがあって、しかも圧倒的な読後感、は変か、鑑賞後感? なんてものがありまして、何とも私の内部では解決がつかない!
とくに考えさせられたのは、この作品の底流にルーツの問題、があるらしい という点です。
インタビューを受けているのは、イスラエル人・パレスチナ人・アメリカ人
の知識人ですが、中東の人々はアブラハム=ご先祖、という意識が強く、
啓典に現れる人々を自分たちの先導者として身近に感じているらしい。
アメリカ人はさすがに、聖書なんて知ーらない的現実主義者やネイティブ・アメリカンも
登場するものの、やはり、聖書の登場人物を歴史上の人物と捉え、自分の境遇と重ねて
理解しようとしている人が結構いるみたい....。
で、ずっとステージを見ていると、4人の声楽家が単に声で演奏に参加しているだけではなく、
「アブラハムから連綿と続いて、今ここにある我ら」の象徴として機能している
ことに気づくわけです。
彼ら信仰の人に「私は無宗教だ」などと言ったら、それこそ
アナーキストだと思われるでしょう。「無宗教でも信仰心はある」なんて言ったところで、
詭弁にしか聞こえないんだろうし....。
多分、彼ら啓典の民にとって、宗教=自分の根っこなんです。
じゃあ、わしらニッポン人は???
物語は、生け贄として父親に殺されそうになったイサクが神によって助けられる、 という場面でクライマックスを迎えます。タイピングの速度が増し リズムとハーモニーの緊張の度合いが高まっていく。神が、あなた(アブラハム)の 信仰の強さが分かったから、あなたの子孫を真砂の数ほど増やし、彼らを祝福しよう。 と語る....。このくだりは一応知ってるので、この高揚感はある程度理解できますが。
場面は一転、アブラハムの前に神と天使が3人の旅人の姿で現れ、
アブラハムは(そうとは知らずに)精一杯彼らをもてなしましたとさ、目出度しめでたし。
という終わり方なのですね。(この逸話は、聖書では本来、
イサクが生まれる前に位置づけられているのです!)
神に平安あれ、なのか、神はいつも近くにいる、ということなのか。
もっともっと深いメッセージが込められたものか....。
この辺りの収束感というのは、何やら分かったような分からないような。
でも不思議と、分からない苛立ち、が無いんだよなー。見る人の立場によって 性格の異なる作品、という意図がはっきりしてるからかも知れませんね。
ともあれ、今、新宿で上映中というビデオ・シアターの方も是非見てこようと思います。