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2002. 1/ 8




まちあわせ 〜Side Stories From ClassMate2 #1〜


 一月中旬。寒さも少しずつ厳しくなってきた。
八十八駅前で待ち合わせをする人間は、それぞれがそれぞれなりに寒さを表現している。
両手を口の前で合わせて、軽く息を吐く。白くなる息が、わずかばかしの暖となる。
だがそれも一瞬の事。また両手は冷え始める。下を向いたまま、唇は真一文字。
白い息と白い顔。寒さは桜子の顔色を少しずつ悪く…青くしていく。
駅の出口の柱によりかかる様にしていた桜子は、また白い息を吐いてから顔を上げた。
一緒に栗色の髪が揺れる。腰まである髪を一つに束ねて編んで、左肩からおろしてある。
もっさりとした灰色の雲。隙間からも見えない太陽が沈み始めている。外はもう夕方。
桜子は駅前の広告塔の先についている時計をちらりと見る。
…そろそろお母さんが来ちゃう。
確かに。待ち合わせしているのは母親。でも…だからひとつため息。
…今日も会えなかったね。
雲のように白い顔が少しばかり暗くなる。そして、もうひとつため息。
見慣れた車が桜子の前に止まる。そして中から手を振るのは迎えに来てくれた母親。
…次は…会えるよね。
つぶやき、願う。また、あの時のような、小さな奇跡が起きる事を。

 どうしても会いたかった。りゅうのすけ君に会いたかった。
りゅうのすけは入院中の病院で知り合った同い年の男の子。
二階の病室にいる桜子に、木の上からナンパしてきたおかしな男の子。
もし桜子が病気にならなければ通っていたはずの、八十八学園の三年生。
彼は毎日来てくれた。何があるというわけではないのに。そんな彼に心を開いていった。
噂を聞いた。学校ではかなりすごい事をしているとか、同級生と同棲しているとか…
同棲…それが恋人以上の関係かもしれないと、一度は胸を痛めた。
だけど、彼は"恋人はいない"と言った。社交辞令でも信じている…信じたかった。
だから、桜子はそんな噂をあまり気にしなかった。そこにいる彼が桜子の真実だから。
三年間の入院生活。色々な事があったけど、一番の幸せな出来事。一番の奇跡。
もし今も会えるのなら、きっと人生で一番幸せな出来事なのに…
あの時の、急な退院がなければお別れの一つでも言いたかった。その事を謝りたかった。
あの約束も…りゅうのすけ君が忘れていないのなら守って欲しかった。
だから八十八駅で待つことにした。りゅうのすけの住む町の玄関で…

 二月は近い。前回の待ち合わせから一週間。また桜子は駅前に来た。
少し…期待。今日は病院が一応の目的。退院してから一ヶ月ちかく経とうとしている。
それでも週ごとに検査に来なくてはならない身だから。実際まだ疲れやすかった。
寒さだってかなりきつい。
退院後、りゅうのすけが病院を訪れたらしい形跡はあったが、桜子の事を聞かれたという話はなかった。
…忘れられてるのかも…
それでもいい。私は覚えてるから。忘れられないから。会いたいから。そういう気持ちはおさえられなかった。
だからまた待った。母親が迎えに来るのはいつもと同じ時間。
その待ち合わせはもう少しで会える、あてのある待ち合わせ。
あてがないのが桜子の本命。いつ会えるのかわからない待ち合わせ。
もしかしたら、永遠に会えないのかもしれない。
…やっぱり学校で待てばよかったのかな。
何度も考えたけど、何度もやめていた事。
同棲が真実なら…桜子の入り込めない景色がきっとあるはずだから。
その景色は見たくなかった。りゅうのすけと知らない女の子。
自分の事なんかとっくに忘れられていそうで恐い。
いくら否定しても、いくらりゅうのすけを信じていても…恐かった。嫌だった。
そういった可能性が。否定できない自分が。
…もちろん駅前で待っていたって変らないかもしれないけど。でも、学校よりは…
そんな事を考えていると、気が滅入りそうになった。だから顔を上げて前を見る。
…りゅうのすけ君。私を感じてほしいの。神様、もう一度だけ…お願いします。
誰にもわからないようにポケットの中で祈りのしぐさ。奇跡、信じて。

 「彼女、かわいー!」
「誰かと待ち合わせ?」
男の声。だけど彼じゃない。いつの間にか下を向いていた事に気がつく。
顔を上げ、声の主を見る。知らない男、二人。桜子はまた下を向いた。唇わずかに動く。
…りゅうのすけ君じゃ…ないんだ…
「さっきから、ずっと待ってたよね。君を待たせるなんてひどいやつだね」
「ねえねえ、よかったら俺達と暖かいとこにでもいこうよ」
…りゅうのすけ君はいい人だもの。待ってるのも…勝手に待っているだけ。
心の中で答える。目をつぶり、顔を下にしたまま、聞かない様に努力する。
だが、男達は勝手にぺらぺらしゃべり続ける。助けてくれる人なぞいないらしい。
…りゅうのすけ君、どうしたら…
だから…助けて欲しかった。りゅうのすけ君なら助けてくれるはずだもの。
「顔上げなよ。話する時は、相手の顔見るのが礼儀ってもんだろ!」
思わず桜子は顔を上げる。男のこめかみがぴくぴくしているようにみえる。
…りゅうのすけ君! お願い!
「ごめんごめん遅れちゃって。さあ、行こうぜ」
突然桜子は引っ張られた。右腕をつかまれて、強引に持っていかれる。
…何?
力の方向を見ると、小柄の女の子。その後ろには友達らしい、赤と黄のリボンの女の子。
「ごめーん、電車がモロ混みでさ。唯がとろいもんだから…」
…誰? 私の知らない人…
桜子の横に来て、馴れ馴れしく話しかける。本当に謝っているような表情。
「おい、ちょっと待てよ。その娘は俺達とお話中なんだぜ」
「遅れると、りゅうのすけに怒られちゃうんでね」
…りゅうのすけ…君?
桜子が驚く。
…りゅうのすけ君、って…何、なんなの、どうして…
「り、りゅうのすけだと?」
男達がひるむ。マズいものに手を出した、といった感じで。
それでも、わずかな勇気を振り絞る男達。
「そ、その娘はりゅうのすけのなんなんだよ」
小柄な子はにやりと笑う。そしてもったいぶらすように口を開く。
「彼女」
「う、嘘をつくな。大体…」
そこで男は思い出した。りゅうのすけに彼女ができた、という噂の事。
「信じるも信じないも御自由に。さ、行こうぜ。あいつ気が短いからさ」
もはや勝負あった、といわんばかりに小柄な女の子がてくてくと歩いていく。
有無を言わせずに桜子を引っ張って。そしてリボンの子がぱたぱたと追いかけてくる。
ほっとした桜子を連れて、人ごみへ。南口の商店街へ。
りゅうのすけでない、りゅうのすけの奇跡。
…りゅうのすけ君…ありがとう。

 「あ、あの…ありがとうございました」
桜子のきれいなお辞儀。実際、感謝の気持ちでいっぱい。心は空色、晴れわたる。
「よかった。無事で何よりだよ」
「もぉ、いずみちゃんってば。唯すごいどきどきしたんだから」
興奮。リボンの娘が顔を赤くさせる。名前は…唯ちゃん? 小柄な子はいずみ…ちゃん?
「しょうがないだろ。彼女困ってたみたいだしさ」
桜子の方をちらっとみる。いずみの表情は普通に、笑いもせず、怒りもせず。
「本当に…ありがとうございました」
きれいなお辞儀の第二段。心を込めて。いずみちゃんと唯ちゃんに。
「八十八は初めて?」
「あ…いえ…」
突然切り出すいずみ。あわてて否定する桜子。
「じゃあさ、りゅうのすけは知ってるよね」
うなづく。少なくとも桜子に見せた表情は知っている。忘れられるはず…ないから。
「ああいう時はさ、りゅうのすけと待ち合わせ、って言えば、ほとんどは逃げてくから」
「りゅうのすけ…君と待ち合わせ?」 …見透かされているの? 心、揺れて。一つ、鼓動。どくん!
いずみちゃん、と唯がどなる。それ以上お兄ちゃんの名前使っちゃダメ!
唯のちゃちゃは気にせずに、いずみは続ける。
「それでもだめなら、さっきみたいにすれば大丈夫」
…さっき、みたいに…
また一つ、鼓動。心の奥がなる。桜子の本音。希望。今の、未来の、永遠の…夢。
少しいたずらっぽく、一瞬、少女の顔でいずみがささやく。桜子の耳元。心のすぐ近く。
「りゅうのすけの恋人だ、ってね」
いずみがウインク。桜子が動揺、頬が少し赤くなる。そして、もう一人が興奮。
「だめ、それはぜーったいだめだからね。唯は許さないんだから」
「一人のか弱き乙女が助かるんだぞ、あいつの名前で。それくらい、いいじゃないか」
「お兄ちゃんの恋人はね、唯だけなんだからね」
"だけ"、に力が入る唯の言葉。
"恋人"、に奪われた桜子の心。
…こ、い、び、と…
桜子のテープが再生を始める。リピート。くり返し、くり返し、心の中。
「だから、あまり使っちゃだめだよ」
わずかばかしの不安の目の唯。少しばかしの照れた顔の唯。
…この子が…りゅうのすけ君…の…
隠せない動揺色。真っ白。真っ黒。何?
「けちらない、けちらない。まあいくらでも使ってやってよ」
「絶対だめだからね。恋人だけは…だめだからね」
唯は本気。どうしても譲れない、最後の一線。他の人なんかには、譲れない。
約束だからね。唯の手が桜子の手を包みこみ、ぶんぶんと振る。
惰性で答える桜子の両手。だけど心はここにはなかった。
深海の底。深夜の森の奥。見つかりそうにない場所に、心はとんでいた。

 ベットの上。枕のしみ。シーツはぐちゃぐちゃ。朝整えていったはずなのに…
どう帰ったのか。助けてもらった二人から離れた記憶がどうもない。
…お礼、言ったのかな…私。
母親の車に乗った記憶もなかなか思い出せなかった。
…でも、顔色…心配してくれてた。
雪のような、とよく言われる真っ白な顔。きっと真っ青だったはず。
「外が寒かったの? だったら待ち合わせの時間早くするけど」
行き帰りの送り迎え。時間は桜子が決めていた。遅めにしての待ち合わせ。
りゅうのすけ君に会うために遅くしているの、とは言っていない。
学校生活や同棲の噂は母親から聞いたのだ。そんな事を正直にいえば母親がつきっきりになってしまうはず。
…でも、もういいじゃない。彼を待つ理由なんてないもの。
心は後ろ向き。姿勢もうつぶせ。着替えもせず、枕に顔をしずめて。涙は枕に吸われる。
混乱、混沌、心の中。あの男の子と、あのリボンの女の子。仲良く、むつまじく。
男の子の横にいたいのは自分なのに。仲良くしたいのに。むつまじくしたいのに。
…よくわからない。
恋愛関係、恋人、彼女、りゅうのすけ君とリボンの女の子…唯ちゃん。
…なんで、どうして、私…神様ってひどすぎる。私ばっかり…
あの時だってそう。すぐに出られるって、退院できるって…
よくわからない病気。死に至る病ではないとは聞いていた。
でも悩んでばっかりだった。病名も知らず、窓の外を同じように眺めている毎日。
それすら疲れる自分が嫌だった。
学校がうらやましかった。面白くて、楽しくて、新鮮で。
きっとそう。そうに違いない。りゅうのすけ君と同じ学校。同じ学年。もしかしたら、同じクラスかもしれない。
いろいろな姿のりゅうのすけ君を見れたはず。いろいろとあったはず。
学園祭とか、体育祭とか、修学旅行とか。もちろん、普通の授業だって…同じ時間と場所にいれたはず。
もしかしたら…もっともっと仲良くできたかもしれないのに。
…でもそれだけだったのかも…そう、入院してたから…
会えたのは奇跡。仲良くしていたのも奇跡。あの時間が…奇跡。だから大切に、大切に…
…会いたい。もう一度話をしたい。顔を…笑顔をみたい。りゅうのすけ君…
会いたい。恋人がいたっていい。お話して、謝って…そう、謝る。
理由が…あった。思い出した。うそ、忘れようとしてただけ。
…それに恋人だって…本人に聞いてみなくちゃわからないもの。
だるい身体、起こして顔をぬぐう。手にしょっぱい水のにおい。
もう一度だけ、待ってみよう。待って、会えるはず。きっともう少しで…会えるから。

 「ねぇ、聞いてるの。お兄ちゃんてば」
「で、俺の名前も役に立ったんだろ?」
そうじゃなくて、と唯の声、不機嫌。赤と黄色、チェックのリボンがゆれる。
「その娘も俺にほれただろうなぁ。ああ、無敵のりゅうのすけ様ありがとう、って」
ベットの上のりゅうのすけ。見ていた雑誌をぱたんと閉じて、目も閉じる。
「ほれられちゃだめなの」
唯は掃除機で床をなでる。りゅうのすけの部屋の掃除は唯がやってくれている。
二人は同じ家に住む恋人。そして家族。複雑な家庭環境。
少し前まで二人を悩ませた同棲の噂も、そんなところから出ていた。
だけど、今となってはみんなが認める二人の関係。兄妹のようなカップル、だと。
その彼女の方は機嫌が悪い。原因は、昨日の事。いずみの一言。ナンパ対策。
「お兄ちゃんの恋人は…唯、なんだからね」
掃除機の先を見たまま、耳まで赤くなる。ちらっと横目でりゅうのすけを見る。
りゅうのすけと目が合う。二人だけの世界、景色、一瞬。
だから照れ隠し。りゅうのすけが口を開いた。
「一人のか弱き乙女を助けたんだからさ、それくらいで嫉妬するなよ」
「…いずみちゃんと同じこと言ってる」
「ところでさ、かわいかったのか、その娘は」
ふん、と唯はそっぽを向く。お兄ちゃんの浮気もの!いじわるしちゃうんだから。
「おしえないもん」
唇をつんとさせ、あまりに子供っぽいじぐさ。りゅうのすけはぐっと笑いをこらえる。
「…そうか、かわいかったか。それならしょうがないな。俺でも助けてただろうし」
にやにやしながら、唯の方に顔を向ける。まだつんとしている。だから、からかい半分。
「唯もかわいいぞ」
「もぅ。お兄ちゃんの馬鹿!」
唯の照れ隠し。言葉と機嫌が反比例。たまのひと言だから、ものすごく効果的。
そんな単純なところは、りゅうのすけが好きなところの一つ。本当に…かわいいと思う。
それにしても…俺だったら名前ぐらい聞いておいたのになぁ。
つぶやくような大声のような、そんなひとりごと。
かわいいのか…もったいない、とは心の中のひとりごと。
「名前? たしかね…桜子ちゃんだったかな」
あの後、お母さんが迎えに来て、桜子、と呼んでいたはず。彼女の顔色、真っ青だった。
「桜子…ちゃん?」
うん、とうなづく唯。だがその動きはりゅうのすけの目には入っていない。
「知ってるの」
「え、あ、いや。聞いた事があるかもしれないと思ってさ」
「なんでどもるの」
掃除機を止め、ベッドの上に乗る。りゅうのすけの顔をのぞき込む。不信感むき出し。
「ど、どもってなんかいないだろ」
「栗色の髪を編んであってね、腰までのびてたよ。すっごくきれいなの」
「な、なんだよ、突然。大丈夫か?」
少しばかり、思い当たる。表情にでる。唯は見逃さない。続ける、尋問。
「顔なんか真っ白でね、唯よりも少し背が低くてやせてるの…かわいかったし」
完全に思う所がある。だけど、どうしていまごろ…
「知ってるでしょ。白状しちゃいなさい」
「…た、ただの友達だよ。ただの…な」
「どうしてどもったの。やましい事でもあったんだ」
りゅうのすけの瞳の中に、ひとすじの悲しみ。だけど見えたのは一瞬。すぐに唯から目をそらす。
失敗。後悔。聞いちゃだめだったんだ。この顔のお兄ちゃん…ごめんなさい。
「唯…あ、えっとだな、あまり…話したくないんだ」
ベットから起き上がると、上着に手をかけ、はおる。
「あ…」
「悪い。あとでちゃんと話すからさ…掃除よろしくな」
「お兄ちゃん」
呼びとめる。後悔と罪悪感。だから一言謝る。
「ごめんね…」
「…っと散歩行ってくるからさ。夕飯までには戻る」
ギクシャクしたりゅうのすけの笑顔。後ろ姿、階段に消えていく。
唯の知らないお兄ちゃん…そんな顔、見たくないのに…
チェックのリボンが、元気なさそうに揺れていた。

 偶然。ふと前を通っただけ。ふと病院の一室を見ただけ。そして女の子を見つけただけ。
その女の子もこっちを見ていた。表情までは読み取れない。なぜか気になった。
だから病室近くの木によじ登った。驚いた彼女は、恐る恐る個室の窓を開けてくれた。
杉本桜子。表情を、感情をあまり出さない、つまらなそうにしていた同級生の名前。
三年間の入院生活。桜子の心の窓は閉まってた。りゅうのすけは少しずつ開けていった。
毎日通い続けた。同じ時間に木によじ登って、たあいのない話。
疲れやすい彼女とは、あまり長い時間話せなかった。それでもよかった。
やわらかくなる表情。かわいくなるしぐさ。りゅうのすけはそれがうれしかった。
夜中にデートもした。
病院で待ち合わせ。デートの場所は病院の裏庭。
薄いナイトガウンにショール。寒い寒い真冬の夜。病弱な桜子には酷なデート。
だから、りゅうのすけは早く部屋に帰そうとした。だけど彼女から誘ってきたデート。帰ろうとはしなかった。
「お願い…今だけでいいから、私を普通の女の子だと思って…」
彼女の願い。小さな手でりゅうのすけを引っ張った。楽しそうにはしゃぎまわった。
そして…神様のプレゼント。雪、八十八町の初雪。桜子は静かに眺めていた。
すぐにやんでしまった雪。でも、桜子は満足していた。りゅうのすけもまた満足だった。
二人だけの秘密。神様の贈り物。誰も知らない一夜のデート。桜子の心の窓は開かれた。
瞳を見つめて…キスもした。お互いの鼓動の早さに驚いた。今でも覚えてる。
そう、ペンダントをあずかった。開くと中にオルゴール。二人の秘密の証。
桜子と会ったのはそれが最後となった。まだ会いたかったのに、それなのに…
あの時、はっきりと耳にした。
疑いながら、嘘だと思いながら、真実でないはずだと思いながら、夢なんだと思いながら。
看護婦たちのおしゃべりを聞いてしまった。
「三年も一緒だったから…ね」
「検査の結果も良好で、これで元気になれると思った矢先ですもの」
「まさか、急に死ぬなんて…」
現実を聞いた。いつもの様に木に登り、いつもの様におしゃべりでもするはずだった。
検査でデートの次の日は会えないと聞いてはいた。でも二日間もあるとは聞いていない。
窓際にいない彼女を心配して、木に登ってみた結果だった。立ち直れなかった。
強引な気分転換と、忙しい毎日で、無理矢理忘れさせていただけ。今もしこりが残る。
デートの時、彼女からあずかったペンダント。今も持っている。いつか返さなくちゃと思いながら。
中のオルゴールは悲しく響く。心に染み込むメロディを奏でる。
曲名は"Memories"。さみしげではかなげで…思い出そのまま。忘れられない…思い出。
そう…思い出のはず。いい思い出? 嫌な思い出? 笑顔の思い出? 涙の思い出?
まだ整理がついていなかった。唯の事、進路の事、いろんな事で頭はいっぱいだった。
そしてまた、出てきた思い出。現実。いや、現実は…残酷な結末のはず。
いるわけないよな。桜子ちゃんは…死んだはず。もういないはずなのに…
きみの事、はっきりさせずに唯と付き合ってしまったから…怒っているの?
そこまで考えてさすがにばかばかしかった。病院の桜子を思い出して、否定する。
…そんな事、彼女はしないよ。たぶん。
ポケットに忍ばせてあるペンダント、取り出した。そして、ぎゅっと握り締める。
…桜子ちゃん、本当に…きみ、なの?
りゅうのすけの独り言。桜子は…ペンダントは答えてくれなかった。

 確証があるわけでも、確定しているわけでもない。確率も低そう。賭けとしては最悪。
それでも、同じように待つ。泣き濡れた翌日。立ち尽くして、ときおり左右を見る。
雑踏。騒音。人いきれ。街を感じ、人を感じる。病院にはない感覚。そして…時。
あの時、初めてりゅうのすけ君に会った時。はっきりと感じた。
…時計が動き出したの。
自分の中の小さな時計。入院してから動かなかった時計。
待ち遠しい。そう思った。彼が来てくれる事。彼と会える事。彼と話せる事。
木の上の彼をみる。たあいのない話。わずかな時間。すぐに過ぎ去る時間。
心の時計。疲れなければ、病気じゃなければ、せめて退院を伝えられたなら…今も動いてたはずなのに。
後ろ向き。いつもそうだった。だから…前向きな彼が好きだった。
つまらない自分と遊んでくれた。いつも約束を守ってくれていた。デートだって…してくれた。
わがままばっかり言っていたのに…迷惑かけてばっかりだった。
…でも、だから、謝るの。急に退院してごめんなさい、って。
すぐ下を向くくせもなおさなくちゃ。そう思い、頭を上げる。
前を見ていよう。そうしないと気がつかないかもしれない。りゅうのすけ君の事。
奇跡だって、偶然だって、前を向いて自分からおこしにいかなくちゃいけない。
奇跡の価値はものすごくあるから。りゅうのすけと会う事は、とても大事な事。
いまの桜子のすべてだから。退院してからの…入院中からの、桜子の時計そのものだから。
ふと時間を確認する。まだまだ門限まで余裕はある。そして、きょろきょろ見回す。
…えっ?
直感。驚き。何かを感じた一瞬。左の方。視界のはじっこに…一人の男の姿。
…あれ…あの歩き方…髪型…あの顔…
人ごみの中、駅にむかって歩いてくる男。長髪の、少し目立つ背丈の男。独特の歩き方…
…あの人…そうだよね…
見逃すはずもない、大切な人。その姿が少しずつ大きくなる。そして。確実に言える。
…りゅうの…すけく…ん…
目に涙。たった一ヶ月。でも長い時間だった。会いたくて会いたくて、ずうっと待っていたから。
何年も会っていない特別な人に再会した、そんな気分。それ以上の気分。
懐かしさ、いっぱい。もう、どうしようもなかった。我慢できなかった。
走りだしていた。涙をこぼして、いろんな感情を胸にして。やっと会えた待ち合わせ。
「りゅうのすけ君!」
桜子にしては大きな声だった。時計が…動き出した。

 「…りゅうのすけ君!」
こちらにむかってくるりゅうのすけ。それにむかっていった桜子。
ほんのちょっと息をきらして走る。そして彼の名前を呼ぶ。久しぶりに口にした名前。
呼びたかった名前。うれしさが声にも出る。涙もまだ止まっていない。だからぬぐって。
「えっ?」
驚きの表情で答えるりゅうのすけ。足を止め、自分の前の女の子の顔を見る。
その表情は、桜子の事を知らないといった感じ。
「りゅうのすけ君…だよね」
「…うん…」
「あの…やっぱり…忘れちゃったんだ、桜子の事。八十八病院の…覚えてる?」
でも、それでもよかった。覚悟はしてたつもりだった。
「桜子…ちゃん?」
「もう一ヶ月近く経つんだもの。しかたないの…かな」
「本当に、あの…桜子ちゃんなの」
「…えっ…」
信じてない顔。どこかよそよそしくて、病院で会っていた時とは違う顔。
だから。別の涙、ほんの少し。からかっているの? 本当に忘れているの?
「どうして…そんな事…聞くの」
「…だって、桜子ちゃん…死んだって…」
目の前の男の子の瞳には動揺ととまどい。言葉は本気。桜子もとまどう。
「りゅうのすけ君…」
ぎゅっ、とりゅうのすけの手を握る。小さい手で。あのデート以来…ひさしぶり。
「夜の…デートの時と違うかな。私は覚えてるの。りゅうのすけ君の手の感触…」
あの時と同じ、頼りがいのある大きな手。やさしい手。ぜんぜんかわっていない手。
…私は変わってないの。死んでなんか…いないもの。りゅうのすけ君を感じてるもの。
「同じ…のような気がする」
「私ね、今ここにいるの。りゅうのすけ君の前にいるの…天国じゃない」
「桜子ちゃん…」
りゅうのすけが、ぎゅっ、と握りかえした。
「ごめん…てっきり…」
「ね、りゅうのすけ君。説明して…くれるよね」
うなづくりゅうのすけを見て、ほっとした。その顔は病院の時と変らない顔だった。

 「…検査の結果が良好なのに急に死んでしまったって。看護婦が言ってたんだ」
喫茶店"MOMENT"の中。落ち着いた店内。りゅうのすけに連れられて、奥の四人席。
上着を横のいすにおいて、ひと息。コーヒーとアップルティ。暖かそうな白い湯気。
「木から落ちたのってその時?」
その看護婦さんから、木から人が落ちたらしい、とは聞いていた。
当然それがりゅうのすけだろうとも思っていたし、だからこそ会いたかった。謝りたかった。
「そうだよ。あんなショックな話聞けば誰だってああなるよ」
「でもね、検査の結果が良好だって言ってたんでしょ。どうして…死んだなんて…」
「そりゃ…そうだけど」
コーヒーを一口飲むと、ふぅ、と息を吐く。そして桜子の顔をじっと見つめる。
「じゃあどうして看護婦はあんな事いってたんだろ」
思い当たる事はある。でも…なんとなく言いにくい。
「あのね…そのね…たぶん、ターボの事だと思う…」
「ターボって、病室で飼ってた小鳥だろ?」
「そう…ターボが死んじゃったの…私の検査が終わった日にね…」
三年間いつも一緒にいてくれた、大切な友達。狭いかごの中にいてくれた友達。
自分を重ねた事もある友達。かごの中、身動きとれなかったのは自分も同じだったから。
あの日の夜は眠れなかった。次の日の退院の事よりも、友達の死の方が大きかった。
「ターボって…俺の涙っていったい何なんだよ」
「涙って…りゅうのすけ君、泣いてくれたの? 私が…死んだと思ったから?」
なぜかうれしい。ターボが死んだのに…不謹慎。ごめんね、ターボ。
「泣いてなんか…いないよ」
「ごめんね。りゅうのすけ君が、そこまで私の事を心配してくれてるなんて…」
照れて鼻の頭を軽くかく。そんなしぐさがうれしかった。
…泣いてくれたんだ。私のために、泣いてくれたんだ。
恥ずかしそうにコーヒーを飲む男の子、めったな事じゃ泣かないんだろうな。なのに…
「実はね…ずっと八十八駅で待ってたの。りゅうのすけ君に会いたくて」
「俺に?」
「うん。謝りたかったから…いろいろごめんなさい。本当にごめんなさい」
座ったままでも、頭を下げる。そのために待っていたから。それが…目的。
「黙って退院したり、木から落としちゃったり…色々迷惑だったでしょ?」
「桜子ちゃん…別にいいよ。こうしてまた会えたんだから…さ」
落っこちたのは痛かったけどね、と笑いながら付け加える。
少しさめたアップルティがなぜかおいしかった。りゅうのすけの笑顔もなんだか心地好かった。
カップの中の自分の笑顔。久々に見た自分の笑顔。感情を、心を隠せない。
「遅れたけど…退院、おめでとう」
「ありがとう、りゅうのすけ君」
本当にうれしそうに言ってくれたりゅうのすけに、桜子は最高の笑顔でお礼をした。

 門限。一人で出歩くのは制約が多かった。まだ病気であることに変わりはないのだから。
今日の外出にしても、母親がついてきそうになって、桜子はとめるのに必死だった。
今日は検査の日ではないから。結局、早く帰るから、と約束をしてきたのだ。
だから、それほど長い時間、話はできなかった。それでも…満足だった。
会えたから。謝る事ができたから。電話番号を教えてもらったから。
帰り際、りゅうのすけは自分の家の電話番号を書いた紙を渡してくれた。
いつでも電話してきなよ、と笑顔と一緒にメモ用紙。
そして、今、手にはコードレス電話。パジャマに着替えて、ベットの上。桜子の部屋。
でも、どきどきはしていない。つながった。相手の声は、女の子。一応、同級生。
「はい、川部ですが…」
「…もしもし。杉本ですけど…うづきちゃんいますか」
「あ、桜子。私だけど。どうしたの? めずらしいじゃない、桜子からなんて…」
うづきは小さい時からの友達。ずっと仲良し。よくお見舞いにも来てくれた大切な友達。
「うん。ちょっと聞きたい事があって…」
相談。桜子が聞きたいのは男の子の家への電話のしかた。初めての事、どきどきする。
「桜子が? あんたもやるねぇ」
「…うん。自分でも驚いてるの…」
「一つ聞いていい? 相手は私の知ってる人?」
「うん、たぶん知ってると思う。うづきちゃん、八十八学園だし…」
…言ったらうづきちゃん驚くだろうな。うふふ。笑いをこらえる。ぜったい驚くもの。
「りゅうのすけ君。知ってるでしょ?」
うづきは一瞬の黙りこむ。きっとア然としてるんだろうな。口をぽかんと開けてるかも…
「…りゅうのすけって、あんた…どういう男か知ってるの?」
電話ごし、驚きの声は相当なもの。思わず桜子も受話器を遠ざける。
「とっても…やさしい人」
「あんたばかぁ? どこをどう見るとそうなるのよ。もしかして…噂とか聞いてないの?」
「うん…聞いたけど。でもね、そういう人じゃないから…」
「…羊の皮を被った狼だったらどうするのよ」
うづきにはどうも悪い印象しかないらしい。自分が責められているんじゃないかと思うほどの激しい口調。
確かに、桜子も悪い噂しか聞かなかったけど…
「そんな事、ないと思うけど…それでね、うづきちゃんは知ってるかな」
さっき会った時に聞き忘れてた事…聞けなかった事。恐かったから。嫌だったから。
「りゅうのすけ君に…その、ね…恋人いるって噂…」
「…桜子さぁ…一つ聞いていい? 本気の本気なの、りゅうのすけの事」
「うん」
電話の先は沈黙。それがきっと答え。桜子の聞きたくない、答え。
「…噂じゃなくてね…本当にいるわ。同じ家に暮らしてるらしいよ」
「名前…わかる?」
心臓の音がさっきよりもはっきりと、早く響く。少しばかり、受話機を持つ手が震える。
「たしか、唯、だったかな。大きなリボンしてて、なんだか子供っぽい娘よ」
…あの女の子なんだ…やっぱり。
目の前に、助けてもらった時の場面。リボンの女の子。かわいい女の子だったけど…
大きく息を吸う。そして少しとめてから吐き出す。でも胸の高鳴りは止まらない。
「大丈夫?」
「実はね…覚悟してたの。恋人がいるんじゃないかって…だから、大丈夫」
そう、覚悟はしてた。彼女に助けてもらった、あの日から思っていた事。だけど…
「でも…やっぱり…会いたいから。一緒にいたいから」
「…本気なんだ…わかった。これから手伝ってあげる、桜子の事」
うづきの声はやれやれといった感じだった。でもそこにはめんどくささはない。
「…ありがとう。うづきちゃん」
「ま、その前に二人のなりそめってやつを聞かせてもらおうかな」
興味津々のうづき。桜子は出会いから話し始める。どうも長電話になりそうだった。

 ごろり。寝返り。広くはないりゅうのすけのベット。暗い部屋。きしきしと金属音。
ベットの頭に置いた桜子のペンダント。ぱたっと閉める。悲しいメロディも、閉じる。
…桜子ちゃん。
なぜか真っ赤になっている桜子。そんな彼女を眺めながら、いろいろおしゃべり。
急な退院になった理由。この四月から八十八学園に通う事。
そして病院帰りにりゅうのすけを待っていた事。会える保証もないのにずっと八十八駅で待っていたらしい。
…どうして彼女はそんな事したんだろ。
「会いたいなら学校で待っていればよかったのに」
その質問には桜子はあやふやに答えただけ。相づちを打つような返事だけでごまかした。
何かを言おうとしてやめた事もよくあった。そのたびに見せる不思議で複雑な表情。
…女の子ってのはよくわかんないなぁ。
こんこん。ドアをノックするのは誰だ。たぶん…唯だ。
「お兄ちゃん。入ってもいい?」
元気のない唯の声。掃除の時の事、引っかかってるんだろうな。ああ、と返事。
真っ暗な部屋の中、唯はなれた手つきでスイッチを入れる。蛍光灯に光が灯る。
「あの…ね、お母さんがごはんだって」
やっぱり元気のない顔。声そのままに。りゅうのすけはベットから起き、端に腰掛ける。
「なぁ、さっきの事…気になるか?」
黙ってうなづく唯。入り口に立ったまま、不安そうにりゅうのすけの顔を見つめる。
「去年の暮れに会った友達。それが桜子ちゃんだよ」
「…それだけなの?」
「…死んだと思ってた。だから…さっきはどう反応していいかわからなくてさ」
「どうして死んだと思ってたの」
「まあ、いろいろあってな」
ふーん、と唯はそれ以上は突っ込みをいれなかった。でも、一つだけ確認。
「お兄ちゃんは桜子ちゃんの事…どう思ってるの?」
りゅうのすけは沈黙。あまり話したくない内容。自分の心のまだ整理されていない部分。
「…だからさ、友達だって言ったろ」
「唯が聞いたのはお兄ちゃんの…」
「本当に…友達だよ。ただの…」
言葉をさえぎる。思いもしないほど激しい口調。少し後悔。りゅうのすけはうつむく。
見つめたまま、唯は動かない。ただ黙っていた。それは少しだけ。すぐに笑顔を作る。
「…ごめんね、お兄ちゃん。唯、やきもちやいて。お兄ちゃんがそう言うんだから…」
作り笑顔、すぐに崩れる。なぜか…涙。雰囲気のせいかな…なんでだろう…
静かに泣き出した唯。りゅうのすけはベットから立ち上がって唯を抱きしめた。
「心配…するなよ。本当に何もなかったんだから。ずっと…唯のそばにいるからさ」
めったに言わない歯の浮くようなセリフ。唯の耳元で、ささやく。
「お兄ちゃん…」
ぎゅっと抱きしめ返されたりゅうのすけは、ほんの少しうしろめたかった。
その理由は、もしかしたら返せなかったペンダントの視線だったのかもしれない。

 鳴らない、電話。静かに見つめて、心を落ち着かせる。もう夜。中学生の寝る時間。
さっきまでの電話の相手、うづきへの相談の答えは何とも単純だった。
「男の子の家でしょ。だったら簡単よ。いつもと変らないって」
…それができないから…困っているのに。
恋人と一緒に住んでいるのに…もし彼女がでてきたらどうすればいいの?
「彼女がでてきても、普通にりゅうのすけを呼んでもらえばいいのよ」
普通に。いつもと変わらずに。電話すること自体"いつも"からはずれるのに。
でも思っていてもしょうがない。受話器へ右手をのばす。ダイヤルをていねいに押す。
どきどき。緊張した顔。ちょっと震える指。心音はロックンロール。激しく、激しく。
うづきとの長電話の疲れも忘れて、受話器を耳に口に。唇、わずかに動く。
…りゅうのすけ君…出て。
ぷるるる、ぷるるる、ぷるるる…呼び音が二度、三度、四度。
「はい、鳴沢ですが」
声。りゅうのすけの声。うれしさで自分を名乗るのも忘れて。
「あっ…りゅうのすけ君!」
「桜子ちゃん?」
…えっ、あっ…
りゅうのすけがでて安心。緊張の糸が切れた。だからあせった。
「あ、あの、杉本と申しますが、りゅうのすけ君いらっしゃいますか」
用意してたセリフ。順序がむちゃくちゃ。もう大混乱。
「えっ…うん、俺だけど…」
「えっと…その…」
りんごの様に真っ赤な顔。その温度で水が一瞬で沸騰してしまうくらい。
…りゅうのすけ君も困ってるじゃない。
混乱は納まらない。ひと息ついて落ち着かないと…
「桜子ちゃん…ちょっと待ってて」
…りゅうのすけ君…どこ行くの?
電話の遠くで話し声。たぶん…りゅうのすけ君と唯ちゃん。
…一緒に住んでるからかな。うらやましい…
その間に、何とか落ち着いた。冷静に考えられるようになった。
「ごめんね。待たせちゃって」
「…ううん、私こそ急に電話しちゃって…さっきはごめんなさい」
「さっき?」
「あ、うん。男の人の家電話するの初めてで…あがっちゃって」
「そっか…なんか光栄だな」
照れた声。顔が思い浮かぶ。りゅうのすけ君の顔見てお話ししたいな…
「で、どうしたの桜子ちゃん。俺の声が聞きたくなったの?」
「うん…それもあるんだけど…」
「えっ?」
りゅうのすけの驚いた声。どうも冗談のつもりだったらしい。桜子の返事は本音。でも。
電話した理由は別にある。それを考えると、またあがってしまう。照れてしまう。
「あの…えっと…今日はどうもありがとう。付き合ってくれて。本当に楽しかった」
「お礼なんていいよ。俺も十分楽しかったし。桜子ちゃんに会えてうれしかったしね」
そんな言葉にうれしくなる。りゅうのすけが、いとおしくなる。
「でも、桜子ちゃんが電話してきたのって、違う用事だよね?」
「…えっ?」
「いや、その、さっき会ってた時に、言いかけてやめた事、何度かあったからさ」
…りゅうのすけ君、気にしてたんだ…言わないと…
何度も言いだそうとしてやめてた事。言うなら今。手に力がはいる。
「…りゅうのすけ君、覚えてるかな。その…約束…病院での…」
心臓が飛び出しそうになる。手に汗。またりんご色に染まる頬。
…言っちゃった。
後悔はしていない。言わなくちゃいけない事。言わなきゃ…永遠に悔いに残るから。
…忘れてるよ…ね。だって、りゅうのすけ君…唯ちゃんの事でいっぱいそうだし…
覚えていてほしいのに…素直になれない。消極的に、自虐的に考えていた。だけど。
「もちろん…覚えてるよ」
…ああ、覚えていてくれたんだ。
安堵のため息。受話器を抱きしめたくなる。かわりに胸元に左手。ぎゅっと力を込めて。
「りゅうのすけ君。その…もしよかったら…あの…ね…」
ごくん。のどが鳴る。でも声が出ない。言葉にならない自分の想い、自分の願い。
「…えっと…」
「…デート、しようか」
もうこの鼓動をおさえる事はできそうにない。白い雪のような顔も今や溶岩。熱暴走。
「…約束、守ってくれるんだ…」
「約束じゃなくても…桜子ちゃんなら誘っちゃうよ」
「あっ…でも…」
…唯ちゃんは大丈夫?
そんな事聞けない。聞いたらきっと壊れちゃう。全部壊れちゃう。
「ダメかな? 桜子ちゃんがダメって言うなら諦めるけどさ」
「私を誘ってくれるなんて…うれしい」
…だめなんて…言えない。言えるはずないもの。誘ってほしかったから…あの日から。
「…じゃあ、いいの?」
「うん。私でよければ…」
「桜子ちゃんなら大歓迎だよ。で、いつ空いてるかな」
…電話してよかった。本当によかった。
幸せ。桜子の心はその一言で満たされていた。その一言を感じていた。永遠に感じていたかった。
幸せな時間。もう少しだけ、続きそう。

 「退院したら、まず最初に何をしようかしら」
病院のベットの上、うつむく桜子。瞳に色々な思いがつのる。長い長いベットの生活。
「決まってるじゃないか。俺とデートするんだよ」
しゃれでもなく冗談でもなく、しごく本気。本当にデートに誘いたかった。
この頃の桜子はすべてがとってもかわいくなっていた…天使のように見えた。
「私を…誘ってくれるの?」
「もちろんだよ」
「うれしい…」
一人、指を絡ませて照れている天使。そんな彼女を見て、りゅうのすけも照れた。
…デートに誘っただけでこんなに喜んでくれるなんて。早くよくなってほしいなぁ。
そんなふうに思ったのはなぜだったか。りゅうのすけは、はっきり覚えている。
桜子の事を女の子として見ていたから。退院したら…友達以上になりたかったから。
でも今は…
それでも、りゅうのすけには忘れられない約束。桜子にも忘れられない約束。
…だから守らなくちゃ、約束。心がずれていても…約束は約束。
桜子から誘ってきた。彼女にとってはきっと勇気をふりしぼった行動だったはず。
受話器を置くと、どっと疲れた。なぜか後ろめたい感じ。理由は…よくわからなかった。
「お兄ちゃん、桜子ちゃんとデートするの?」
後ろから声。はっ、として振り返る。表情を出さずに、りゅうのすけを見る唯。
さっき、電話がかかってきた時に部屋から出ていってもらったはずなのに。
「…盗み聞きとは趣味が悪いぞ」
「デートするの?」
謝る気はないらしい。でも、どのみち聞かれてただろう。部屋の外で待ってただろうし。
「ああ」
表情、動揺。わずかに涙が光る。唯はりゅうのすけのベットの前。暗い顔で。
「…約束してたんだ。唯と付き合う前から」
「うそ!」
激しい口調。激しく頭を振る。胸の前で握り締めた両手。右のリボンが、落ちた。
「本当に約束してたんだ。約束を守るだけ…だよ」
…約束じゃなくても…桜子ちゃんなら誘っちゃうよ…
それが、うそ。桜子ちゃんに…俺は嘘をついたんだな…でも後悔はしないはず。
「…俺が嘘をつく時のくせ知ってるて、唯、言ってたじゃないか」
それとも、その嘘が嘘。本当はどれ? 唯を見つめる。ただ見つめる。見抜いてほしい…
「それでも…約束でも…他の女の子とデートなんてしてほしくない」
目をそらす事なく、唯もりゅうのすけを見つめかえす。見抜いた答え。自分と同じ答え。
…俺は…やっぱり唯を…
「…してほしくないけど…やっぱりしてほしくない!」
「今度だけは許してくれよ。俺、女の子泣かすような事はしたくないんだ」
「…でも…」
「桜子ちゃん…約束した時すごく喜んでたんだ。彼女を傷つけたくない」
…それが俺の本音?
ガラスみたいに繊細な桜子を傷つけたくなかった。病気ぎみの彼女に同情していただけ。
だから彼女の事を片付ける前に、唯を受け入れられたんだ。付き合っているんだ。
いまは…唯が好きだから。見抜いてもらったように。
だけど、桜子ちゃんを好きだったのも…事実。
桜子ちゃんを女の子として見ていたから。病人ではなく、女の子として…
…よくわからないや…
やっぱり整理しないと…桜子ちゃんを、唯を、自分を、傷つけるから。
「一回だけ…だよ。本当はものすごく嫌なんだから。許したく…ないんだから」
ためらいもせずりゅうのすけに倒れ込む。なれた手つきでぎゅっと抱きしめる。
髪のにおい。体温。涙。感情を感じて、抱きしめて。頭をなでる。
…でも…一つだけ言える。
心の中でつぶやいた。言葉を言うには、あまりに静かすぎたから。
…俺は…唯が…好きだ。
だから、桜子ちゃんのペンダントは返さなくちゃ。彼女とは…
整理する前に、結論だけは出ていた。あとはデートの日に実行するだけだった。

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