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2002. 1/ 8




ふたりきり-前編- 〜Side Stories From ClassMate2 #2〜


 高校二年の夏休みももうすぐ終わり。両手の指で十分足りるぐらいしか残っていない。
暑さも少しづつやわらいではきていたが、それでも部屋の外には出たくなかった。
玄関にクーラーがあるわけでもないから、けっこうな温度になっているのだが。
…お母さんって、どうして汗かかないのかな?
喪服姿の美佐子を見ながら、ふとそんな事を思う唯。黒い服だって暑そうなのに。
靴をはきながら、美佐子は娘にいろいろと留守中の注意を与えていた。
「晩ご飯のお金、キッチンにおいてあるから」
「うん。ところで…ね、お母さんいつ帰ってくるの?」
「今夜には帰ってくると思うけど、遅くなりそうだったら電話するわね」
「うん…」
…なんだ、帰ってきちゃうんだ。
ちょっと残念な気もする。めったにない、ふたりきりのチャンスかな、と思ったのに。
「あ、そうそう。お昼になったらりゅうのすけ君を起こしてあげて」
「お兄ちゃんを?」
「今日はアルバイトだって言ってたから。よろしくね」
「うん」
子供のように無邪気に返事をする。美佐子は扉を開けると、もう一度唯の方を向いた。
「じゃあ、あと頼むわね」
「ちゃんとやっておくから、心配しないで大丈夫だよ」
少し不安そうに唯を見たが、すぐにいつもの笑顔。それでも今日はさすがに暗かったが。
「いってきます」
「いってらっしゃーい」
唯はぶんぶんと手を振ってお見送り。母が葬儀に出る事を気にしないような感じで。
…それでも、夜まではふたりきりだもの。
くすっ、とひとり笑う。唯の頭の中は、今日一日の事でいっぱいだった。

 どんどん、どんどん。
「お兄ちゃん、もうお昼になるよ。アルバイトあるんじゃないの?」
りゅうのすけの部屋のドアを唯はたたく。勝手に部屋に入るな、と言われているから。
「お兄ちゃん、部屋に入るよぉ」
「…」
返事はない。
「入っちゃうからね。お兄ちゃんが起きないのがいけないんだからね」
言い訳を大声でならべて、ドアを開ける。りゅうのすけの部屋は鍵がかかっていない。
カーテンを閉めきった暗い部屋。寝息とクーラーの音だけしか聞こえない。
唯はカーテンを一気に開け放つと、りゅうのすけのベットに近づいた。
日差しはりゅうのすけの顔を直撃しているのに、起きる気配はない。
そっとりゅうのすけの顔をのぞきこむ。
「おにい…ちゃん?」
すーすー、と気持ちよさそうな寝息。口元からよだれが垂れている。
…お兄ちゃんの寝顔って…かわいいっ!
ねぞうの悪さにはちょっとあ然とさせられたけど、でもいつもと違う雰囲気。起こさないでこのまま見ていたい気もする。
でも、約束がある。美佐子との約束だ。
「お兄ちゃん、起きてよ。もうお昼だよ」
「…うーん、うるさいなぁ」
ゆさゆさと体をゆすってみる。すると、毛布を巻き込んで幼虫状態に変形してしまった。
「お兄ちゃんてば! 起きないなら…こっちだって考えがあるんだからねっ!」
「…どんな考えだよ…」
「え…起きてるの?」
「…だから、どうしようと思ってたわけ?」
幼虫からかえったらしい。ぼさぼさの頭をかきながら半身を起こす。
「えっとね、ら・けぶらーだの後にね、スリーカウントをとるつもりだったの」
「ふーん。…ところでさ、なんで唯が俺の部屋にいるんだ?」
ぎろ、っとにらむ。さっきの寝顔とは大違い。いつものとんがったりゅうのすけ。
「お母さんにね、お昼になったらお兄ちゃんを起こしてって、頼まれてたんだもん!」
だから唯もつんとする。声が大きくなる。わざわざ起こしに来てあげたんだからね!
もっとも、唯はりゅうのすけの部屋に入る事を楽しみにしていた部分はあったから、強気にはなれなかったりする。
だが、りゅうのすけは唯を見ていない。あくまでぼお、っとしている。
悪気があるわけではなく、単純にいつものとおりなだけである。それに気がついたから、唯は落ちついた。
「…わかったわかった。二度寝はしないから、部屋の外に出てろよ」
「…うん。また寝ちゃだめだよ」
言われたとおりに部屋の外に出て扉を閉める。そして、そこに寄り掛かる。
…また…お兄ちゃんの寝顔見たいな。
うれしそうに目を細めると、りゅうのすけの寝顔を思い出す。唯だけの、秘密。
「おい、唯」
突然、ドアの向こうから声が聞こえた。その声も、とってもやさしい気がした。
「なーに?」
「…ちゃんと起きてるから、下に行ってろよ」
「うん」
はずんだ声で返事をする。そして、鼻歌まじりのスキップで、唯は階段をおりていった。

 鳴沢家のリビングには唯ひとり。
小さなテーブルの上を学校の教科書やきれいにまとめたノートでうめて、未来に向けての勉強中。
夏休み中のこの時間はいつもこういう状態。
だけど今日はいつもと違う雰囲気。痛快ウキウキな感じが部屋全体を包み込んでいるから。
ノートの上をはしるペンも軽やかに。少し頬を赤らめて、唯はなにやら書きだした。
"今日はふたりきり"
唯がノートに書いたのは英文でも数式でも化学式でもなく、ウキウキしいている理由。
ふたりきり、と言ったって、別に何かあるわけではない。
りゅうのすけはアルバイトに出てしまうし、美佐子だって夜には帰ってくるらしい。でも。
…お兄ちゃんといっしょだもん。ちょっとの間だけだって…いっしょだもん。
それだけでもいいから。夏休みだというのに、話すどころか、お互いの顔を見る事すら少なかった。
りゅうのすけの時間と、唯の時間が微妙にずれていたから。唯にはそれが不満だった。
同じ家に暮らしているのに、お互いの距離が離れている事。
それは、お互いが意識しあっている結果なのかもしれない。
「勉強なんてしてるのか?」
右手でぼりぼりと胸のあたりをかきながら、リビングに入ってくるりゅうのすけ。
いつ二階からおりてきたのか、唯は気がつかなかった。それくらい自分の世界に入っていたのだ。
「う、うん」
現実にもどってりゅうのすけを見る。まだ眠たそうな顔をして、大きくあくびなんてしている。
ランニングに短パンのりゅうのすけ。いったい昨日は何時ごろ寝たのか、唯はちょっと聞きたかった。
少しでもりゅうのすけの事を知りたかったから。
だが、りゅうのすけはそんな唯を気にもとめずにキッチンの方に向かう。
起きたてで、お腹がすいているのだ。
「…っと、朝飯は…」
いつもなら、ラップをかけてキッチンのテーブルの上に置いてあるはずなのに、今日にかぎってそれらしい物は置いていない。
困った顔をして、思わず唯の方を見る。
「えっとねぇ…お母さんね、準備していかなかったんだ」
「美佐子さんが? 珍しいな」
よほどの事がない限り、自分の仕事はきっちりとこなす人である。
つまり、よほどの事があったという事だろう。
だが、今のりゅうのすけには、美佐子の事より朝ごはんの方が大切であった。
空腹は昨夜からのものだけに、生死にかかわるような気がしたのだ。
「…ま、いっか」
りゅうのすけは困った顔をやめた。そして、別に何を考えるわけでもなく、冷蔵庫の扉に手をかけた。
冷蔵庫には食べ物があるという、条件反射的な行動である。
そんな様子を、唯は教科書やノートを片づけながら見ていた。
本当なら、もう少し勉強をするつもりだったが、今日は特別な用事が入ってしまった。
「唯が準備してあげるね」
自分の片づけが終わり、唯はすっと立ち上がってキッチンに向かう。
りゅうのすけは冷蔵庫から顔を出すと、不思議そうに唯の動きを眺める。
「…いいよ、自分でやるから」
「ううん。お兄ちゃんは座ってて。唯だって、お母さんのかわりくらいできるもん」
りゅうのすけは、勝手に動きはじめた唯をみて、戸惑いながらもキッチンのいすに座る。
「すぐにできるよ」
「…」
「アイスコーヒーでいい?」
「あ、ああ」
なぜか嬉しそうな唯の横顔を疑問に思いながら、一番最初に準備された飲み物に手を伸ばした。
このアイスコーヒーは、喫茶店で使っている一流品。りゅうのすけは最近このアイスコーヒー以外は飲んだ記憶がない。
「もうお昼なのに朝ごはんなんだね、お兄ちゃんには」
「このあと、昼ごはんも食べるぞ」
「そんなに食べるとふとっちゃうよ」
「俺は働いてるからいいの」
そんな会話をしながらてきぱきと準備をする唯に、ふと美佐子がだぶる。
…唯も、美佐子さんみたいな主婦…になるのかな?
包丁で野菜を切り刻む。ボールにそれらを飾りながら作っているのは、どうやら野菜サラダらしい。
包丁の使い方や体の動かし方が、どことなく母親に似ている気がした。
…でも、雰囲気は子供のままなんだろうな、唯の場合は。
「…そういえば、美佐子さんは?」
「えっ?」
唯は最後の皿をテーブルに置き終えて、自分もいすに座ったところだ。
ちょうどりゅうのすけの目の前に座るかたちになる。
「いつも美佐子さんが起こしにくるのに…なんで唯だったんだ?」
「あ、お母さんはお葬式にいっちゃった」
「だれの?」
「学生時代のお友達、って言ってたけど…」
ふーん、と、相槌を打ちながら、きれいに盛ってあるサラダのボールにフォークを突き刺す。
きゅうりとレタスがさきっぽについてきた。ぱくっと一口。
新鮮な野菜の味とあまり味わった事のない和風ドレッシングの味が、口いっぱいに広がる。
…このドレッシング、オリジナルっぽいな。
野菜の味を損なわず、かといって自己主張をしないわけではないドレッシングに、りゅうのすけは思わずうなってしまった。
満足げな表情が自然とでてしまう。
そんなりゅうのすけの反応を内心喜びながら、唯は話を続けた。
「夜には帰ってくるって」
「そっか」
いいかげん、食べる事に集中しはじめたりゅうのすけは、会話をする余裕はないらしい。
口の動きは激しくなるが、言葉を発する事はなくなっていた。
唯もまた、りゅうのすけの動きを楽しそうに見るだけだった。
ただ、そんな事をされれば、さすがに集中しているりゅうのすけとて、唯を気にするものだ。
「な、なんだよぅ」
「ううん、別になんでもないよ」
「食べたいんだったらやるぞ?」
自分が食べるところをじっと見ていた唯に、りゅうのすけは今使っているフォークをさしだす。
だが、唯はなんとなくうれしそうにして、 二度三度首を振った。
「いいの。唯はダイエットしてるんだから」
「ダイエット?」
そう、と返事をしようとした瞬間。
ピンぽーん。ピンぽーん。
「あれ、誰かな?」
インターホンの呼び出し音に唯はすっくと立ち上がり、玄関に向かっていく。
「唯が出るね」
…もっと話してたかったのにな。
でも、まだお昼ご飯食べるっていってたっけ。
もう少し話す時間がありそうな事に、唯はほっとした。

 焼きたてのトーストはママレードがたっぷりの、りゅうのすけ好みのものだった。
…何で唯が知ってるんだ、俺の好み。
一口かじりながら、りゅうのすけはふとそんな事を考える。
しかも、その微妙な分量にまたりゅうのすけは感心してしまう。
たいてい自分で塗るから、他人にはわからないはずなのだが…。
唯はそんな事を見ていたのか? あまりよくない趣味だな。
もう一度ほおばり、ママレードを十分に味わう。苦みと甘み。二律背反。今日の、唯。
…そういえば、唯の雰囲気、なんか変だったな。
いつもの感じと違う唯。
なんとなく、いつもの唯は苦みが多くてときどき甘みを出すのだが、今日は逆。
甘み先行の…やわらかい唯。女の子、っぽい感じだ。
…なるほど、唯はママレードガール、か。
ばかな事を思いつく頭脳に、我ながらあきれるりゅうのすけ。また集中力を朝食にそそぐ事にする。
次の目標は特大の目玉焼き。当然三つ目である。そこにしょうゆをたっぷりとかける。
「えー、鳴沢美佐子さんはおいででしょうか?」
玄関から聞こえたのは男の声だ。
…美佐子さんのお客さんにしては若そうだな。
手は目玉焼き、耳は玄関、である。目玉の部分を切り取り口にはこぶ。半熟状態の黄身が何とも言えないうま味を引き出す。
…唯が作ったのか…これ。美佐子さんが作ったのと同じだぞ。
もう、今日の朝食はうなりっぱなし。
簡単な料理だけに、細かい点で違いが出るのだが、本当に美佐子の物と同じような気がする。
ある部分では抜いているんじゃないのか?
りゅうのすけの知らない唯の特技。いつの間にか…こんな事をできるようになってたんだな。
その唯は、まだ玄関で客人とやりとりを続ける。
「お母さんですか?今出かけていて留守なんですけど…」
「あ、そうなんですか…」
「あの…どのようなご用件ですか?」
…セールスマンなのか?
りゅうのすけは、デザートをフォークの先で確認しながら玄関の様子をうかがう。
どうも男の声が商売用の物に聞こえるのだ。
ただのセールスマンなら問題はないのだが、危なっかしいセールスマンなら、唯ひとりにさせておくのは非常にまずいからである。
「えー、私、こういうものでして…」
「…」
どうやら男は名刺を差し出したようだ。
だが、唯は反応しない。名刺を受け取ったはいいが、どうしたらいいのかわかっていないらしい。
それとも…漢字が読めないのかも…
「株式会社北味の吉田と申します」
「あ、きたみ、って読むんですね」
…漢字が読めなかったのか。あれ、北味って…
どこかで聞いた事のある単語だが、急には思い出せない。
とりあえずキューイフルーツを口に含ませて、その酸っぱさを堪能する。適度の歯応えが心地好い。
「今日、鳴沢さまのお宅にお伺いさせていただいたのはですね、我々の商品を紹介させていただきたいと思いまして…」
「はぁ」
今度はどうやらカタログを受け取ったらしい。ぱらぱらと、ページをめくる音が聞こえる。
「これらの商品はですね、お客さまにとりまして実にいい商品でして…」
…あ、北味って…
キューイフルーツを全部食べ終わり、ていねいに折りたたまれたナフキンで口元を拭く。
そしてのんびりと立ち上がると、りゅうのすけは玄関に向かっていった。

 「おいおい、子供相手に何やってるんだよ」
玄関になれなれしく座り、唯にいろいろ説明しているセールスマン。
りゅうのすけは唯からカタログを奪うと、ちらりとも見ないでセールスマンに投げつけた。
だが、カタログはあらぬ方向に飛んでいく。セールスマンに当たらなかったのは幸いだったのかもしれない。
「お兄ちゃん!」
「な、何をするんだ」
「子供だまして何言ってるんだか…」
当然、セールスマンは怒ろうとするが、見下す格好のりゅうのすけはなぜか迫力がある。思わずおじ気ついてしまった。
だが、ここで引くわけにはいかない。
「私は普通のセールスマンだ。キャッチセールスみたいに言わないでくれ!」
「あんた、北味の人間だろ? 最近よくテレビに出てるじゃないか」
「テレビ?」
唯の間の抜けた声に、りゅうのすけは何となく拍子抜けしてしまう。
だが、セールスマンの表情は少しこわばる。正体がばれてしまったからだろう。
「法律ぎりぎりのセールスで、かなり悪どい事やっているってな」
「悪い事などやってはいない」
「年寄り子供に、お涙頂戴の話や理解できないような難しい話を聞かせて、無理矢理契約するんだろ?」
「そんな事は…していない」
「そりゃ、唯は見た目は子供だけど…子供だなぁ」
りゅうのすけとセールスマンの視線に気がついた唯は、まるで裸を隠すように両手で全身を丸め込む。
顔を赤くするのもその時の動作そっくりだ。
「とにかくだ。いらないものはいらない。とっとと帰ってくれ」
「…」
機嫌の悪そうな声。セールスマンを一瞥すると、りゅうのすけは背中を向けてリビングに戻っていった。
「お兄ちゃんっ! …あ、あの、と言う事なので…今日は…」
後に残された唯は、気落ちしているセールスマンに少し同情しながら、はやくりゅうのすけに文句を言いたくて、うずうずしていた。
セールスマンを追い返すように玄関からつまみ出すと、リビングに飛び込んでいった。

 「お兄ちゃん!」
「なんだよ」
リビングのソファーに寝そべって、テレビをつけた時である。
チャンネルをぱらぱらと変えていく。つくづくリモコンは便利だなぁ、なんて考えていたのだが…
「あの人に失礼だよっ!」
主電源を切られてしまうとリモコンは弱い。
真っ黒になった画面の前に、唯の、怒ってるよぷんぷんポーズ、が映し出される。
りゅうのすけは大して気にもせずそのまま唯を見上げる。
こうすると、けっこう唯も背が高いような気がするから不思議だ。
「あのなぁ、あいつは悪者なんだよ。それを正義の味方がやっつけただけだろ?」
「そうやって…いつも唯を子供扱いするんだね」
わざと、正義の味方、なんて言葉を使った事に唯は気がついたらしい。
露骨に嫌な顔をする事はなかったが、それでも声は荒くなる。ほっぺたが膨らむ。
「当たりまえだろ? あんなやつの話を聞いてる時点で子供だよ」
「だって一生懸命話してくれてるんだもん。それに…あの人かわいそうだったし…」
「かわいそう? 本気で言ってんのかよ」
りゅうのすけは、ふん、と鼻をならすと唯に近づくために立ち上がった。
背丈の差で、今度は唯が見上げる立場になった。
だが、唯はおじける事もなく、頬をぷくーっとふくらましたまま、りゅうのすけの視線を受け止める。
「どこまで聞いたんだよ。あいつの話」
「途中までしか聞いてないけど…貧乏だって言ってたよ」
「じゃあ、あの後どういう話だったか、教えてやろうか」
「…」
唯はセールスマンの話の冒頭部分しか聞いていなかった。だからこそ、助かったとも言える。
全部聞いていたら、ひっかかっていたかも知れないのだ。
唯がこういった話に弱い事を、りゅうのすけは知っていたから。
「うちは泣くも泣けない貧乏で不幸な家でしたが、このカタログの品物を買って、家に飾りはじめたらあら不思議。
今までの不幸がうそのよう。もう、最近は幸せな事ばかりが続いているんですよ。もうあの貧しさなんて、今思うと信じられませんよ」
「…」
「これらの商品は、本当はなかなか手に入らない物なんです。今回、ようやくみなさまにお分けできる事になったんです。
ぜひ、この機会にいかがでしょうか?」
りゅうのすけは、さっき投げたカタログを広げ、唯に中身を見せる。
そこには、いかにも怪しげな壺やら印鑑やら蹄鉄やら遮眼帯やらが、きれいな写真で紹介されていた。
思わず唯は黙りこくってしまう。
考えてみたら、そんな話でだまされた人の事、よくテレビでやっていた気がする。
「よくあるセールスだよ。特に、あの北味のやつらは子供や年寄りばっかり狙うからな」
「そう…なんだ」
「留守番なんだからしっかりしろよな。美佐子さん…いないんだからさ」
「う…ん」
…ひとりで大丈夫なのかよ…
うつむいて、何も言わなくなった唯を見ていると、ものすごく不安になる。
あの様子だと、もしほおっておいたらひっかかっていただろう。
やっぱり子供なんだよな、唯は。
「もう、誰が来ても玄関開けるなよ」
「…」
自分の部屋に戻って、ゆるゆるとアルバイトの準備でもしようかと、りゅうのすけが動き出そうとしたとたん。
唯の見慣れない動きに気がついた。それは…久しぶりに見た光景。
「…な、なんで泣くんだよ」
「だって…」
肩が小刻みに震えている。手でときどき目を拭くしぐさなどは、りゅうのすけになぜか罪悪感を味あわせる。
それこそ、子供をいじめた時のような気分だ。
「…唯、やっぱり子供なんだね。お兄ちゃんと並ぶ事なんて…できないんだよね」
「…そ、そんな事ないぞ」
「だって…お兄ちゃんみたいに…大人になんてなれないもん」
顔を上げる。唯の赤い目に、何をどうしていいのか、りゅうのすけは混乱した。
いまさら唯を泣かすなんて思ってもいなかったのだ。
だいたい、泣いている唯を助けた事は多くても、泣かした事などほとんどないのだから…対処に困る。
「お、俺だって大人じゃないぞ」
「…」
唯はじわっとたまる涙を拭いもせずに、りゅうのすけの目をじっと見つめる。
痛々しい、子供の泣き顔そのまま。それに…ほんの少しの色気が隠し味。
りゅうのすけの動揺はどうしようもない。あたふたと、さっきまでの強気はどこにいったものか。
苦笑もできない。
「唯は…もう大人みたいなもんじゃないか」
「…」
「ほら…炊事洗濯なんだってできるだろ? 一人暮らしだってできるじゃないかよ」
「…」
「俺なんて…何もできないぞ」
…一言でいいから、何かしゃべってくれよぉ。
唯の事で泣きを入れるとは、まったく無様だ。
だが、唯はそれくらい黙っているのだ。
話そうとする様子もなく、さっきからりゅうのすけをただ見つめるだけ。涙目はかわらない。
「…さっきの朝飯だって、唯が作ってくれただろ? 目玉焼きとかサラダとか、さ」
「…うん」
ようやく、本当に一言だけ口にしてくれた。だから、おそらく効くと思われるフレーズを唯に撃ち込んでみる。
失敗したら…後はない。
「朝飯、うまかったぞ」
「…本当に?」
「あ、ああ」
ころころと変わる唯の表情に、りゅうのすけはあ然とさせられた。笑顔にあと一歩ではあっても、とにかく涙は止まったらしい。
…まぁ、本当にうまかったしな。
それくらいの感想を言ってもいいと思っていたから。うそをつくわけでもなく、唯をなだめられた事に心底ほっとできた。
「お兄ちゃん…」
「あ、俺…やる事あるから、部屋に戻るぞ」
さっさと切り上げたい。りゅうのすけは自分の気持ちにしたがい、話を強引にまとめた。
なんとなく唯といっしょにはいたくなかったのだ。そのわけは、りゅうのすけにもわからない。
そうして、そそくさとキッチンから出ていった。
背中に、唯の視線を感じて。

 電話をとる。記憶をたどりながら、ひとつひとつダイヤルしていく。
…間違ってないよな。
自信はないけど、半分より高い確率で当たるだろうと確信している。
「もしもし…」
「毎度ありがとうございます。しらきや八十八駅前店です」
「あ、水野さん? 俺、りゅうのすけですけど…」
「なんだ、どうした」
ビンゴ!
かかったのはりゅうのすけのアルバイト先。いわゆる居酒屋である。
出たのはどうも苦手な先輩。いい人ではあるのだけど…
「あ、今日休みたいんすけど…」
「…」
「あの…水野さん?」
先輩の沈黙は、りゅうのすけになぜか圧迫感を与える。
そして、その沈黙の中から先輩の重低音が響く。
「休む、だぁー? しかも今日? 理由によるな」
「いや、いろいろありまして」
「なんだ、女か?」
内心、ぎくっ、とする。当たらずとて遠からず。唯がからんでいるのはたしかなのだ。
「な、なに言ってるんですか。だいたい…女ってなんですか?」
「店の客のかわいい子に、手当たりしだいに声かけてるって聞いたぞ」
「それとは関係ないじゃないですか」
「ふーん、本当だったとはなぁ」
「えっ…あ、いやー…その…」
「一人くらいひっかかったとか…」
「違います!」
たしかに、先週アルバイト中にナンパした女の子とデートはした。
だが、後にも先にもそれ一回きりだ。しかも、その時は夕飯のあとに逃げられたのだ。
この夏休み、どうも恋愛運がないような気がする。まぁ、アルバイトばっかりしていたから、しかたないのだろう。
「と、とにかく、休みにして下さい」
「駄目だ。今日は似たような理由で、中舘と栄ちゃんが逃げちゃったんだから」
「的場さんは?」
「トミーやカトさんといっしょに北海道旅行だってよ。
だいたい、的場さんのかわりに今日出てるんだぜ。俺だって本当なら…」
長々と先輩の愚痴を聞かされながら、りゅうのすけはタイミングをはかる。
そして、一段落ついたところで、また自分の話に戻す。
「…あの、俺も休みに…」
「理由をちゃんと言えよ」
…ちゃんと、ねぇ。
考えてみれば、別にやましい理由でもなんでもないのだが、なんとなく言いにくい。
少しためらって、いっその事だれかを殺してしまおうかとも考えたが、しゃれにならない気がして、正直に言う事にした。
「…留守番です」
「は?」
「いや、だから…留守番です」
ワンテンポ遅れて、電話越しに大きな笑い声が聞こえた。りゅうのすけは思わず受話器を遠ざけてしまう。
「おいおい、天下のりゅうのすけが留守番とは…いやはや」
「…本当なんですよぉ」
「わかったわかった。それじゃあしょうがない。そんな言い訳考えてるとはなぁ…俺の負けだ。休みでいいよ」
「言い訳じゃないんですけど…」
「彼女によろしくな」
「…は、はぁ」
「あっ、留守番だったな。しっかり留守番しておけよな」
最後は笑いっぱなしの先輩に、少し閉口気味になったが、とにかく休みはもらった。
…ひとりには…できないよなぁ。
後頭部を軽くかいて、りゅうのすけは苦笑いをした。唯は…まだ下にいるのだろうか。
…彼女、ねぇ。
いやに手間のかかる彼女だな。りゅうのすけは、さっきの泣き顔を思い出す。
今日わざわざアルバイトを休んだ理由。まるで子供みたいなあの表情や涙声。だからこそ、ふと思う。
…お守りだな、こりゃ。
りゅうのすけは部屋を見回して、何をしようかと考える。とりあえず、今日は家にこもりっきりになる事が決まったのだ。
…とりあえず…データでもまとめておくか。
りゅうのすけはパソコンに向かうついでに、時計を確認する。
データを打ち込む時間はまだたっぷりとありそうだった。

 りゅうのすけの朝ごはんの後片づけを、唯は手際よくやり終えた。
…少しは、お母さんに近づいたかな?
みやむーざるがらのエプロンで手を拭くと、ぴかぴかと光るグラスを見つめた。
さっきまで、りゅうのすけがアイスコーヒーを飲むのに使っていたグラスも、今は水切りの中、逆さまにおいてある。
…うまかったぞ、だって。
さっきのりゅうのすけの一言は、唯にとってものすごくうれしい一言だった。
…お兄ちゃんにほめてもらえるなんて…
うつむきかげん。何も言わないけど、全身からうれしさが込み上げてくる。
ほんの少し前の涙なんて忘れてしまうくらい、唯の心に染みこんでいた。
「あっ!」
唯は、ちらりと時計を見ると思わず慌ててしまった。
もうこんな時間だなんて…ぜんぜん気がつかなかった。
たしかお兄ちゃんがアルバイトに出かける時間って…
二階へぱたぱたとかけ上がると、りゅうのすけの部屋の扉を開けた。
「お、お兄ちゃんっ!」
そのお兄ちゃんは慌てている様子もなくパソコンの前に座り、マウスを軽やかに転がしている。
ドアが開いた事にはさすがに気がついたらしい。面倒くさそうに声を出す。
「ノックもなしに…なんだよ」
「ア、アルバイトの時間じゃないの?」
…怒らないんだ。
りゅうのすけの様子に正直ほっとしたけど、モニターを見る目は少しとがっている。
「あー、今日は休みだった」
「だって…」
「まちがえてたんだよ」
唯の方を見ようとはしない。モニターに釘つけである。だから、真意はつかめない。
「本当に…まちがえてたの?」
「…」
「そういえば…さっき電話してたよね」
りゅうのすけの部屋にあるコードレス電話の親機は一階においてある。
そして、さっき親機の通話中のランプがついていたのを唯は見ていた。
りゅうのすけが自分から電話をするのは珍しいから、唯は覚えていたのだった。
「…」
無言で、マウスをかちゃかちゃとクリックする。もちろん唯には何をやっているのかはわからない。
ただ、さっきよりも動きが少しぎこちない。目もまたきょろきょろ。
「あれ…アルバイト先への電話だったの?」
「…」
「お休みもらうために電話してたんだよね」
「…ちがうぞ」
「唯のために…休んでくれたんだ」
「…ちがうって」
りゅうのすけの横顔で、唯にはわかる。うそをつく時の癖、わかっているから。
ずっといっしょだったのは伊達ではない。
「ごめんね、お兄ちゃん」
「…」
嘘と沈黙。りゅうのすけはおもむろにパソコンの電源を切ると、何事もなかったかのように立ち上がった。
「唯ひとりじゃ…あぶなっかしいからな」
ほとんど一人ごとに近い、ささやくほどの小さな声。おまけにあさっての方向を見ている。
でも。
唯には聞こえていた。りゅうのすけのそういう一言、聞きのがすはずがない。
「ありがとう…お兄ちゃん」
「…」
結局、唯の方を見る事はなくその横をすっと抜けて一階に降りていく。
…何だか今日のお兄ちゃん…やさしい気がする。
そんなりゅうのすけの背中を追いかけるように、唯もまた階段を降りていった。

 「お兄ちゃん、夕ご飯どうしようか」
外の明るさと、時間の関係が不規則な時期。
まださんさんと照っている気のする太陽も、店じまいの準備をはじめている。
もうそろそろ夕ご飯の時間。
準備をしなくちゃ、と気がついた唯は、りゅうのすけに尋ねてみた。
リビングのソファーにねっころがってテレビを見るりゅうのすけは、起きあがりもせずにまた声だけを唯にかえした。
「唯はどうするつもりだったんだよ」
「唯は…あるもので適当に済ますつもりだったけど…」
「じゃあ俺もそれでいい」
ぶっきらぼうな答えに唯は少し困ったが、よくないのはわかっているから。
「よくないよ。だって…唯のためにアルバイト休んでもらったんだし」
「だから…唯は関係ないって言ってるだろ?」
今度はしっかりと顔を見て返事をする。眠たそうな目をいかにも面倒くさそうにこする。
「そうだ! 何か食べに行こうよ。お母さんがお金おいていってくれたし…」
「それ、一人分だろ?」
「…足りない分は唯が出すから、ね」
「そんな余裕ないだろうが…」
たしかに。なんだかんだ言ってもけっこう使っているのだ。
アルバイトをしたわけでもないから、おこづかいの残金くらいしか使えないけど…
「大丈夫だよ。お兄ちゃん一人分くらい何とかなるって」
「なんでそんなにこだわるんだ? あるものでいいんだってば」
「それは…」
…お兄ちゃんといっしょにどこか行きたいから…
そんなセリフを口にできたら、どんなに楽だろう。でもそれは…この状況でも言いにくい。
「だいたい、唯はダイエットしてるんだろ? 外食なんかしたら太るぞ」
「…」
うつむいて、考え込んでしまう。どちらかといえば、怒られて落ち込んでるような雰囲気にも見える。
だけど…考えついた。
「じゃあ、何食べたいかリクエストしてよ。唯が作ってあげる」
「はぁ?」
自信の表れは笑顔に出ている。これ以上いい案がないと言うような表情。
「そうすれば、お金も何とかなるし、唯だってダイエットになるもん」
「何でダイエットになるんだよ」
「それはね、お兄ちゃんとお買い物にいくから」
「…」
「だって…本当はね、冷蔵庫の中からっぽなんだ。だから、いっしょにお買い物行こうよ。
その間にお兄ちゃんは食べたいもの考えてくれればいいから。ねっ!」
まくしたてられて、りゅうのすけは何も言えなかった。
ただ、だだをこねる唯がみょうにかわいく見えた事を、自分らしくもないと思うくらいだった。

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