小説 |
2002. 1/ 8 |
ふたりきり-前編- 〜Side Stories From ClassMate2 #2〜 「おい、時間ないんだろ?」 りゅうのすけは二階に向かって叫んだ。少しだけ、けだるい外出。 結局、唯の意見にしたがう事になったから。 その唯は、自分の部屋で準備をしているらしい。 …なんの準備なんだか。 玄関の扉を開けて。そこから見える空はほんのりと赤くて、夏の夕方らしいにおいがする。 「行っちゃうぞ」 「待ってよぉ」 と階段をばたばたとかけおりてくる唯の姿に、りゅうのすけはあ然とした。 玄関に腰を下ろして、あわただしくサンダルをはく唯に、思わず尋ねてしまったほどだ。 「なんで着替えてきたんだよ」 うすい水色のワンピース。チャームポイントのリボンはそのままに。 りゅうのすけの質問に、唯はしっかりと顔を見上げて答えた。 「だって…お兄ちゃんとおつかいにいくんだよ」 「…だからなんだよ」 「だから、おしゃれしたほうがいいかなって思ったのっ!」 唯はものすごく嬉しそうに答えた。自分を見ていてくれたんだ…そう確信できたから。 さっと立ち上がると、にっこりほほ笑えむ。唯をもっと見てほしいな、と願いを込めて。 「ごめんね、待たせちゃって」 「ほら、行くぞ」 りゅうのすけはさっさと歩き出す。 唯はあわてて玄関から飛び出して戸締まりを確認すると、小走りでりゅうのすけの横に並ぶ。 唯はなにげに足が早い。すぐに追いついた。 「ちゃんと鍵閉めたのか?」 「大丈夫だよ。きちんと確認したもん」 唯は右手の中の鍵をポケットにしまいこむと、かわいらしくウインクひとつ。 「ところで、どこまで買い物にいくんだ?」 「南口の商店街だよ」 唯が真横に並ぶと、あらためてリボンが大きい事がよくわかる。そして、背丈の小さな女の子である事も。 赤と黄のチェックの大きなリボンの隙間、唯の喜々とした声が聞こえる。 いつもはあまり聞かない感じの唯の声。 「…おいおい。なんでまたそんなところまで…」 「歩いていったって、そんなに時間はかからないよ」 「別に駅前までいかなくったってさぁ」 「お母さんも、いつもそこまで買い物に行ってるんだよ。 それに、お兄ちゃんが食べたいものを考える時間も必要でしょ?」 そう言われてみれば、そのためにいっしょに買い物なんぞに出る事になったんだ。 当然なにも考えていなかった。 「…ねぇ、お兄ちゃん」 「なんだよ」 頭の中で、そばとかそうめんとかひやむぎとかを思い浮かべていた時だけに、少し語気が荒くなる。 けれども、唯は別に気にしない様子で言葉を続けた。 「お兄ちゃんといっしょに歩くなんて久しぶりだね」 「そうか」 「そうだよ」 興味のなさそうな返事だから、唯はうってかわってぶすっとした感じになる。 「学校の帰りなんてよくついてきてただろ?」 「あれは…あきら君もいっしょだもん。唯が言ってるのは、ふたりで、って事」 当然、ふたり、の部分はアクセントを強めて。りゅうのすけの表情を興味津々に眺める。 「そりゃ…そうだろうなぁ」 どことなく、ばつの悪そうな感じの返事。視線はきれいに染まる空を向いている。 それは照れたような色に見えた。 「だいたい、唯だってそんなのいつだか覚えてないだろうが」 「唯は…覚えてるよ」 「うそつけ」 「本当、だよ」 思い出の瞳。懐かしい色。それはかなり前の事だから。何も言わないで、りゅうのすけを見つめる。 唯の目を見て、すべてを思い出して…素直に。 「唯はね、お兄ちゃんとのいろんな事、ぜーんぶ覚えてるんだから」 「…」 …なんで…どきどきしてるんだよ… 言葉なんてでなかった。唯の横顔、ふと見とれてしまう。 それくらい輝いているように見えたから。 妹ではなく…女の子としての唯。 「ほ、ほら、急ぐぞ」 「お、お兄ちゃん。ちょっと待ってよぉ」 ピッチを上げて、りゅうのすけは歩きだす。唯はあわててその後を追い出した。 …なんなんだよ…いったい… 認めたくない感情が、りゅうのすけの中にむくむくと出てきた。 それを否定するように頭を二、三度ふる。絶対にいだいてはいけない気持ちなのだ。 少しのあいだ、唯の顔をまともに見るなんてできそうになかった。 またどきどきは…したくなかったから。 だから、りゅうのすけは唯に言おうとしていた一言を口に出す事ができなかった。 「お兄ちゃんって呼ぶなよ」、と。 主婦たちが右に左に歩き回り、りゅうのすけと唯の前を横切っていく。店先からは、威勢のいい安売りの声。 夕方の商店街のにぎやかさを、りゅうのすけは久しぶりに感じた。 こんな時間に買い物に来る事などほとんどなかったし、来る必要もなかったから。 「こんでるなぁ」 涼しくなる時間ではあるけど、人の熱気を感じると、一気に汗が噴き出してくる。 「お兄ちゃんはこんな時間に買い物なんてこないもんね」 のぞき込むようにして、りゅうのすけの表情を積極的に読み取ろうとする。 揺れるリボンがりゅうのすけの鼻先をかすめる。それにすら、りゅうのすけはどきどきしはじめていた。 だから、唯にその事がばれないようにと願いながら、店先の品物を眺めるふりをする。 「すいか、か」 気がつけば八百屋の前。でかでかと自己主張をする夏の風物詩を、りゅうのすけはこつこつと叩いてみる。 店主は顔馴染みらしい主婦と話し込んでいて、唯とりゅうのすけをかまうつもりはないらしい。 すいかの中身は…それほど詰まっていないらしい。 「お兄ちゃん、すいか食べる?」 「そんな余裕ないだろ?」 「…ないわけじゃないけど…」 「無理する必要なんてないぞ」 後ろからのぞき込む唯に、りゅうのすけは首を横に振る。 「…そうだね」 唯は残念そうにすいかから視線を外すと、なにやら突然思い出した。だから、質問する。 「そう言えば、お兄ちゃん。何食べたいか決めた?」 「…決めてないぞ」 重そうに腰を上げて胸を張るりゅうのすけに、唯はため息をつく。 「いばっちゃだめでしょ」 「…なんでもいいよ」 「じゃあ、ハンバーグにしちゃうよ?」 「なんでハンバーグなんだよ」 りゅうのすけにしてみれば、当然の質問だった。 もっと夏っぽいものを考えていただけに、予想でノーマークだったハンバーグには疑問をいだかざるをえない。 「だって、なんだっていいんでしょ?」 「まぁな」 「だから、唯が一番得意なものがいいかなって思ったの。お兄ちゃんに変なもの食べさせるわけにはいかないもん」 「それにしたって…この暑いのにか?」 「家に帰ればクーラーで涼しいよ」 少し考えたが、りゅうのすけは否定する理由を見つけられなかった。 逆に、唯が得意というのだから、それなりのものは出てくるだろう、と納得してしまう。 「ま、いっか」 「じゃあ、さっそく材料の買い出しだね」 唯は狙い澄ましたようにりゅうのすけの手をにぎると、ぐいっとひっぱった。 「お兄ちゃん、行こう」 「ば、ばか。手をひっぱるな…おい、こら」 あわてて手を振りほどこうとするりゅうのすけに、唯はくすくすと笑うだけで、手を離そうとはしなかった。 むしろ、逆に力を込める唯。絶対にはなれないように…今だけでも。 …たまになんだから…許してね、お兄ちゃん! 久しぶりのりゅうのすけの手の感触。 唯はスキップみたいな足どりでりゅうのすけをひっぱっていった。 …八百屋に、肉屋に…おいおい… 両手のビニール袋をふと見れば、なるほど、それなりの重さになっている事に納得した。 別に荷物持ちが嫌なのではない。 むしろ、何らかの理由がないと、唯といっしょにいる事に耐えられなかった。 それは唯が嫌いなのではなく、店で買い物するたびに尋ねられる事がりゅうのすけには嫌だったのだ。 「あれ、今日は彼氏つきかい?」 これぞ肉屋のおやじだ、といわんばかりの体格をした店主である。 唯の頼んだ挽き肉をつつみながら、りゅうのすけをちらりとみた。 いやらしい視線。思わずにらんでしまう。 「うん。今日は唯の手料理食べてもらうんだ!」 否定をする事など念頭にないらしい。だから、りゅうのすけが否定しようとする。 「おい、唯…」 「おじちゃんだって、冗談で言ってるんだもん。だから、いいじゃない」 無邪気にくすくすとされると、りゅうのすけも強くは否定できない。おまけに、 「ねぇ、おじちゃん。だから、ちょっとサービスして、ね」 などとサービスのだしに使われると、なんとなくそれでもいいかな、なんて思ってしまう。 そんな時の唯の無邪気な顔を、りゅうのすけは懐かしく見ていた。 ちょっと前の恋人発言なんてとっくの昔に忘れてしまうほどの懐かしさ。 子供のころを思い出して。まだ、そんな歳には早すぎるのだけれども。 …しかし、唯のうれしそうな顔…久しぶりだな。 夏休み、ときどきしか顔をあわせなかったうえに、あうたびにどこかぎくしゃくしていたのに…今日はそういう感じにはならなかった。 今日の唯を見ていると、そんな気はおきなかったのだ。 たまにはこういう日もあるという事だろうか。 そして今、花屋の前。唯はさっきからうれしそうに店員さんと話している。 その様子を店の前の電信柱によりかかって、ぼおっと眺めているりゅうのすけだった。 ふと思い出す、さっきのやりとり。 「なんで花なんて買うんだよ。予算不足だろ?」 両手に荷物の状態になっていたりゅうのすけ。その荷物の量からして、花を買う資金なんてなさそうな気がした。 だいたい、すいかを買わなかったのだって資金難のせいだ。 「だって、最初から予算に入ってたんだもん。お花のお金は」 唯も一応荷物を持っている。 それは、りゅうのすけに持たすと危ないという事で、割れやすいたまごだけがはいったビニール袋だ。 それをくるんと回して答えているのだから、唯が持ったところで危険度はかわらないだろう、とりゅうのすけは思った。 「気がつかなかった? お母さんね、毎日テーブルにお花飾ってたんだよ」 「…そうだっけか?」 「当たり前の景色だから気がつかなかったんだね」 この時の、唯の言葉に元気がない事には気がついてはいた。 その理由も今日だからわかる気がした。 ふたりの距離が近いから。考えている事が、次の言葉がなんとなく…よめる。 「唯と同じだね、お兄ちゃんにとっては」 「ど、どういう意味だよ」 「お兄ちゃんにとって、唯は空気みたいな存在だって事」 怒るような悲しむような、あまり響きのよくない声は、りゅうのすけの心臓で激しく増幅された。 まったく予想どおりの言葉…りゅうのすけにはどこか痛い。やましい事があるからだろうか。 「…そう思ってるよね、唯の事」 …そんな事は…ないぞ… 心はそう答えても、口から出てきたのは違う答え。うそをつく必要があったから。 ただ、それは唯に対してではなく、自分の気持ちに対してのうそ。 「あ、当たり前だろ。家族なんだから」 「…家族?」 「それに、唯は…」 …妹なんだぞ。 そりゃ、今日はどきどきさせられたり、かわいいなんて思ったりしてしまったけど… それ以上でも以下でもない。心に強く言い聞かせる。唯にも強く言うつもりだった。 言っておかないと、またさっきみたいになりそうだったから。だけど。 「…」 「おにい…ちゃん?」 言葉が出なかった。唯を見るだけで、唇が動かなかった。言い出す前に、どきどきが先行してしまう。 きょとんとして、りゅうのすけの言葉を待つ唯。別に…なんて事のない唯のポーズなのに。 それですら…どきどきしてかわいく見えてしまうなんて… 「…な、なんでもない。ほら、次の買い物行こうぜ」 「…うん」 唯もまた、何か言いそうな気配だけをみせたが、それだけだった。 …何で…言えなかったんだろう。 いもうと、と口に出そうとしたとたんに、なぜか見えたガラスが割れるようなイメージ。 りゅうのすけは、突然考えるのをやめた。 自分の考えがあまりにも嫌な方向へすすんでいたから。 禁断の…なんて、冗談にもなりはしない。 …やめたやめた。ばかばかしい。唯の事を考えるなんて。どうせなら、他の事考えようぜ。 だから、目の前の出来事に注目して。その中でも特に注目できるのは… …あの店員さん…とってもかわいいなぁ… 花屋のにおいが、思い出したようにりゅうのすけの鼻の先ををくすぐる。 久しぶりの草花のにおい。きれいに並べられた花々の前、唯と店員さんのおしゃべりは続いている。 花屋の店員さんは女の子。おそらく、唯やりゅうのすけと同い年くらいではなかろうか。 セミロングより少し伸びた髪。唯の話を聞きながら見せるしぐさがとても女の子っぽい。 笑顔と、唯の注文に悩んだり困ったりする顔。どれもりゅうのすけにはいい表情に見えた。 …もちだ…まほこ、って読むのかな? エプロンについた小さい名札。りゅうのすけは少し目を細めて、なんとか解読する。 どうやらアルバイトらしい。店の奥にいる、年上の人に何事かを相談している。 …唯とじゃなくて、あんな娘とデートならなぁ… ふぅ、なんてため息をついてすぐに、りゅうのすけは頭をぶるぶるとふりだした。 …デートって…なんだよ。 今日は買い物のつきあいじゃないか。けっしてデートしてるわけではない。 それとも…俺はそういう気分でつきあってたのか、今日は。お守りなんてうそ? 唯と出かけたかったのか? ふたりきりの外出。つまり…デート。 たしかに。店員さんと並んでも、唯はかわいい部類に入ると思う。 だけど、それとは別。唯は妹。デートする相手ではない。 唯とデートだなんて、それこそお守りじゃないか。 …なんだか俺、疲れてんのかな… はあぁ、っと大きく息をはいて下を向く。もう考えるのは本当にやめよう。 外は暑いから、わけのわからない事ばかり考えてしまうんだな。 「ところで、あの人は…」 突然、店員さんがりゅうのすけの方を見る。その時もかわいい笑顔のまま。 だから、りゅうのすけは笑顔をかえす。ついでに、小さく手をふってみる。 だけど、店員さんは手を振りかえすわけでもなく、どちらかといえば無視するような感じでまた唯を見て、 「恋人さんですか?」 と尋ねた。 「うん。今日はデートなんだ」 「いいなぁ、デートだなんて…」 嬉しそうに答える唯と、真にうける店員さん。 これにはさすがのりゅうのすけも黙ってはいられない。 小学生のころ、唯もいっしょに習ったはずなのだが。 …うそつきは泥棒の始まり、だっけか。 だけど、本当はちょっと違って。 もし今度、何かの拍子で店員さんとお知り合いになった時に、恋人がいるだなんて思われているとなにかと不便だから。 かわいくないのなら…その方が便利ではあるのだけれど。 とりあえず、電柱の横に荷物は置いておく。 そして、りゅうのすけは唯の横に並ぶと、最初に何を言おうか考える。 場合によっては、このまま店員さんとお知り合いになってもいいかな、と欲張りな考えがうかんだのだ。 でも…まずは唯を注意する事にするか。 「唯、あのなぁ…」 「ねぇ、お兄ちゃん。どの花束がいいと思う?」 「…」 りゅうのすけが何を言わんとするか、とっさに察知したらしい。 りゅうのすけに花束を見せるように、体をくるりと半回転。 きれいな花束を三つほど抱え込み、その隙間から唯の困った顔がのぞく。 季節の花々の中、やわらかい視線はりゅうのすけの考えをどこかに吹き飛ばしてしまった。 「唯はね、これがいいかなぁって思うんだ」 一番右端にある花束のにおいをかぐように、目を閉じて小さく息を吸い込む。 りゅうのすけは何も言わないで、そんな唯のやさしい動きを見ている。 「お兄ちゃんは…どれが好き?」 「…」 「お兄ちゃん?」 唯は小首をかしげて、りゅうのすけの返事を待つ。 だけど、りゅうのすけは何かを言える状況ではなかった。 ただ、見とれているだけ。唯のしぐさや表情に。 そして、自分の感情を抑えるのに必死だった。 唯に対して抱いてはいけない…あの感覚、もう一度。 「お兄ちゃんっ!」 「ど、どれでも…いいぞ」 「ちゃんと選んでよ。自分で選べばお兄ちゃんだって気にするでしょ?」 「…」 「このお花だってね、空気じゃ嫌だよ、ちゃんと見てよって…言ってるんだよ」 複雑な表情は、少し重くて。 でも、りゅうのすけには見られないように、花束の中だけ。 うん、と心の中でワンクッションおいて、またいい表情…ひまわりのような笑顔。 りゅうのすけは唯を凝視できなかった。 輝きすぎるから。心まで、その隙間まで、照らされそうで。 だから、この空気から離れようとする…返事をする。 「…それで…いい」 「じゃあ、これ下さい」 「はい、ありがとうございます。少々お待ち下さいね」 唯の手から、花束たちが離れていく。選ばれた花束以外はもとの花受けに戻された。 悩みに悩んでの選択だけに、唯はちょっと後悔する。 選んだ事に対してではなく、選べなかった花たちに対してである。 「お金あれば全部買えたのになぁ…」 つぶやく唯を、りゅうのすけは横目でちらり。 本当に残念そうな表情や、他の鉢植えの花をしゃがみこんで眺める姿は、今のりゅうのすけにはやっぱり刺激が強い。 店員さんは、唯とりゅうのすけが選んだ花束をきれいなリボンで飾りはじめた。 それに気がついた唯が、あわてて質問する。 「あ、あの、リボンは…たのんでいないんですけど…」 「サービスですよ。おふたりへの」 店員はにっこりと笑うと、また手を動かしはじめた。 唯はほっとしたような、うれしそうな表情で、りゅうのすけに話しかける。 「得しちゃったね」 「…」 「なんか…変だよ、今日のお兄ちゃん」 「…ばか、いつもと同じだよ」 唯はふーん、と疑うような声を出す。だけど、自分の言葉に自信はあった。 …だって…顔、真っ赤だよ? かわいい店員さんを見ているわけでもない。 どこか浮いてる視線がときどき唯をちらりと見ては、顔を真っ赤に染めているのだ。 今まで、そんな事ぜったいになかったもん。 …だいたい…どうして視線をあわせようとしないの、お兄ちゃん。 少しして、花束にリボンをつけ終えた店員さんが戻って来るのを確認すると、唯はお財布の準備をはじめた。 気がつけば、お財布もかなり軽くなっている。 「はい、お待たせしました」 さっきまで注目していた店員さんの表情も、今のりゅうのすけにはどうでもよかった。 自分の横で花束を抱きしめて、どことなくはしゃいでいる女の子の方が気になってしょうがなかった。 その女の子は、くるりとりゅうのすけの方を向いた。花束の中の…花信の願い。 「今夜は…ちゃんとめでてあげてね、お兄ちゃん」 くすっ。唯のとびっきりの笑顔に、りゅうのすけは何も言えなかった。 今日の唯は、りゅうのすけにとって空気のような存在ではなくなっていた。 帰り道。いい加減に空は暗くなりはじめて、星の一つでも見えだしたころ。 ふたりは家に向かって一直線。唯は寄り道をしたかったが、りゅうのすけの歩くペースがそれを許さなかった。 隙がなく、てくてく進んでしまうから。 もっとも、時間がないと考えれば当たり前のペースではあるのだけど。 りゅうのすけは、やはり両手に荷物。花束とたまご以外はすべて担当していた。 唯は何度か申し訳なさそうにしていたが、りゅうのすけには大した負担ではなかった。 肉体労働系のアルバイトをしていた成果である。もっとも本人はそんな事は思ってもいないのだが。 半身ほど前を行く唯が、くるりと振り返って後ろの人の両手の荷物をちらっと見て言った。 「ちょっと買い物しすぎちゃったね」 舌をちょこっとだして、照れ笑いをする唯。りゅうのすけもリアクションを考えてはみたが、どうしようもなかった。 どちらかの手が空いていたら、それこそ照れ隠しに、こつん、とこずいてみたかったのだが。 唯のはにかんだ表情に、りゅうのすけもつられて照れてしまったのだ。 だから、どこか視線を外して唯には見られないようにする。 「ねぇ、お兄ちゃん。この歌知ってる?」 抱えた花束に軽く愛撫をしながら、唐突に唯が口ずさむのはアイドル歌手の曲。 たしか、可憐ちゃんの"マスタールージュ"とかいう曲だったかな、とりゅうのすけはふと思う。 そういえば、歌い方もどことなく可憐のまねが入っている感じだ。 自分の想いを告げられない女の子。相手は近所に住んでいる、兄のように慕っている男の子。 その男の子の気をひくために、告白する勇気をもらうために口紅を覚える、なんて歌詞だったっけかな? 「けっこう上手でしょう。唯、カラオケでいつも歌うんだよ」 「まあ、な」 一番を歌い終える。ちょっとはにかんだ笑顔。いきなり歌いだせば、たしかに恥ずかしいだろうな。 りゅうのすけは、にやにやしながら相槌を打つ。 にしても…なんでそんな話をしだすんだか。カラオケにでも行きたいのかな? 「この歌…唯、とっても好きなんだよ」 「ふーん」 と適当に返事をすると、唯はぷくっと頬を膨らました。 そんな唯に、りゅうのすけはまだ言葉をしっかりと返せないのだ。 さっきよりは普通になってきてはいるけれど。 「どうしてなんだ、とか聞かないの?」 「聞かない」 「…唯ね、この歌の女の子の気持ち…よくわかるんだもん」 「ほー」 唯は、りゅうのすけがいい加減に返事をしているように思ったらしい。 膨らんだ頬は元に戻っても、今度は口をとがらせて不満を表す。 だけど、目もとは悲しげに。 「…お兄ちゃん。唯とこういう話するの嫌なの?」 「どういう話だよ」 「好きとか嫌いとか最初に言い出したのは誰なのかな、なんていう話」 「…いや、別にそういうわけじゃないけどさ…」 …タイミングが悪すぎるんだよ。 口には出せない、心のつぶやき。もっとも、いつもならこんなふうに話す事もないのだが。 りゅうのすけは、自分に話がふられる前に唯だけで完結させようと考える。 「この歌の女の子の気持ちがわかるって…唯もいっちょまえに好きなやつがいるんだ」 りゅうのすけはからかい半分で聞いてみる。唯が恋愛をしてるとはとうてい思えなかった。 だいたい、そんなそぶりは見せてないし…唯のまわりには、適当な相手がいるようには見えないのだから。 「唯だって…好きな人くらいいるよ」 「…ふーん。相手は誰なんだよ」 りゅうのすけの思惑は外れた。 だけど、それはそれで興味があった。 唯の好きな男っていったい…俺の知ってる奴かな? まさか、西園寺なんて…言うわけないよな。 唯は何かを言いかけたが、ワンクッションおいて考えはじめる。 一瞬、唯はそんなにたくさんの恋をしてるのかと思ってしまったが、どうやらそうではないらしい。 「誰だと思う?」 唯の真剣な顔に、りゅうのすけは妙に嫌な予感をいだいた。 だが、好奇心はとまらない。 「わからないから聞いてるんだろ?」 「じゃあ、特別に教えてあげるね。そのかわり…誰にもいっちゃだめだよ」 足を止め、まつげをふせて、唯の頬がほのかに染まる。沈む夕日のような情熱の色。 …なんで俺が緊張するんだよ… ごくっ。生唾をのむ。緊張と不安。なぜか期待。唯の言葉を待つ。 そして…唇が動いた。 「あのね、唯の好きな人はね…」 「…」 「…お兄ちゃん…だよ」 「…なっ!」 それはまるでドラマのワンシーン。夕暮れの後の、まだオレンジ色の残る夜空。 たたずむふたりに動きはなくて、薄いシルエットがもどかしげに話を進めようとする。 りゅうのすけは何もできずに、ただ唯の次の動きを待つしかなかった。 でも、金縛りはほんの少しの間だけ。唯が表情をくるりと変えたから。シルエットも小さく動いた。 「…なんて言ったら、お兄ちゃん…唯とつきあってくれる…かな?」 「ば、ばか。なに言ってるんだよ…」 唯の照れた笑顔はりゅうのすけを少し落ち着かせた。 けれど、りゅうのすけを見つめて離さないふたつのまなこは照れていない。 苦しさは瞳の中。さみしく、痛く、がまんの表れ。 言いたい事や伝えたい事がたくさんあっても…すべては冗談の中に。それが唯の精一杯。 「冗談だよ、お兄ちゃん」 「あ、あのなぁ…」 「驚いたでしょ?」 くすくす、と笑われて、りゅうのすけは憮然とした。 よりにもよって、唯にそんな事で笑われるとは思いもよらなかったからだ。 唯は大して気にもとめない様子で続けた。 「お兄ちゃんが…好きな女の子を教えてくれたら、唯も教えてあげるよ」 「…そ、そんな事…言えるかよ」 りゅうのすけの顔。真横から、邪気もなくのぞき込まれる。唯のほほえみ、ひかる。 「本当はね…唯の好きな人はね…とっても近くにいる人…なんだよ」 そして。心揺れる一言。またどきどきときめく。なぜかそこに自分がいるような気がしたから。 唯の横顔、まともには見れなかった。少なくとも目だけは…あわせられない。 …ばか、唯は…妹だよ。 そう。唯は妹。血のつながりはなくても、そういう関係でいたのだから。 長い長いあいだ、そういう考えでつきあってきたのだから。 妹の顔をちらりとみる。唯という女の子ではなく、妹。 りゅうのすけは何度も自分に言い聞かせる。 その神妙な面持ちの兄を、唯は背中から軽く押す。 「ね、急ごうよ。ご飯遅くなっちゃうよ」 唯は歩くピッチを上げて、りゅうのすけと少し間をとった。 そしてまた、唯は歌いだす。 〜あなたの好きなこの色で きっとつかまえてみせるから〜 りゅうのすけはふと気がついた。唯の横顔は笑顔。その一部。 ととのったかたちの唇に、見慣れない色の口紅。それは、りゅうのすけの好きな色だった。 家に着くなり唯はさっそく着替えて、遅くなりそうな夕食の準備を始めた。 時間がまだ夕方でも、外は暗くなっていた。キッチンやリビングに明かりを灯す。 「ごめんね。すぐ作るから待っててね」 慌ただしくエプロンを身につける。 そして、りゅうのすけが運んでくれた荷物から、肉やら野菜やらをとりだした。 台所に唯なりの考えでまとめて置いていく。 「そういえば…美佐子さんはこんなに遅くなるって言っていたのか?」 唯の動きを見て、自分が手伝わなくていい事を悟ったりゅうのすけ。 さっきと同じように、ソファーにねっころがるような体勢で唯に尋ねた。 帰ってきて、ぱっと見た時計で思い出した。早く美佐子さんに帰ってきてほしい。 今のりゅうのすけのちょっとした願い。 「すごく遅くなりそうなら、連絡するって言ってたけど…」 てきぱきと、という言葉がぴったしなほど、唯の動きは無駄が少ない。 器用にあれやこれやと準備しながら、ちょくちょくりゅうのすけの方をうかがう。 …ふたりきり、なんだ。 今の状況を唯は本気で喜んだ。お母さんは帰ってくるの本当に遅そうだし… テレビのニュースをつまらなそうに眺めるりゅうのすけ。その背中には唯の視線。 帰り道。あの時、冗談でもあんな事を言える間があった。それがとてもうれしかった。 一瞬でも、りゅうのすけといままで感じた事のない間を作れた事。 …もし、あのまま…云えたなら… 自分の気持ちを歌や冗談ではなくて、言葉で伝えられたら…でもそれは、今の唯には踏み出せなかった。 すべてが壊れる事が怖かった。恋のリスクはあまりにも大きいから。 そして今、幸せだから。 りーん、りーん。ふと現実に戻されるベルの音。 「あっ…電話」 唯は持っていた包丁をまな板の上に置き、エプロンに手をかける。 だけど、それより早かったのがりゅうのすけ。ソファーからむくりと起きると、電話機の近くによった。 「いいよ。唯は準備してろよ」 受話器をとりながら、こちらに来る唯をキッチンに引き帰らせる。 ごめんね、と唯はりゅうのすけにぺこりとあやまった。 「もしもし、鳴沢ですが…」 眠たそうな声。よもすれば、あくびまででちゃいそうなりゅうのすけだったが。 「もしもし。あの…りゅうのすけ君なの?」 「…え? うん、いや…りゅうのすけですけど…美佐子さん?」 まさか、美佐子とは思いもよらぬ相手だった。出かけたあくびをむりやりとめる。 「ええ…。あら、今日はアルバイトじゃなかったかしら?」 「えっ…と、あ、うん。今日は休みになっちゃって…」 …うそは言ってないよな。 自分の言葉を振り返りながら、りゅうのすけはなぜかほっとした。 …美佐子さんに…うそはつけないよなぁ… 美佐子はそんな様子を電話ごしに察したようだ。申し訳なさそうな声。一言、お礼。 「…ごめんなさいね。唯の事、心配してくれたんでしょう。ありがとう、りゅうのすけ君」 「そういうわけじゃあ…ないんですけど」 「でも、りゅうのすけ君がいてくれるのなら一安心ね」 「まぁ、唯ひとりよりはいいだろうけど…」 キッチンの方をみれば、自分の名前を呼ばれて反応した唯がこちらを見ている。 美佐子からの電話だけに、内容が気になっているみたいだ。 「遅くなるんですか? その言い方だと」 「あのね、実は…今日はこちらに泊まらせていただく事にしたの」 「泊まるって…」 …じゃあ、唯とふたりきりかよ… りゅうのすけの頭に、ふと出てきた単語。 それは、今のりゅうのすけには甘くて危険な言葉。 思いもよらない展開に、動揺はかくせない。 「唯がひとりだったら無理してでも帰ろうかな、って思ってたの。 でも…りゅうのすけ君がいてくれるのなら大丈夫よね。実はね…」 美佐子の話では、大学時代の友達の旦那が亡くなったらしい。 その友達がとてもショックをうけて、ひとりにはできない状態なのだ。 まだ年端もいかぬ子供の事もあって、泊まりを決めたらしい。 …それにしても…ときどき美佐子さんの感覚がわからなくなるんだよなぁ。 唯が年ごろの女の子だという事、わかっているのだろうか? りゅうのすけも一応は男なのだ。 だからこそ、留守を…唯を任せられると思っているのだろうけど。 …どうなっても知らないよ、美佐子さん。 今日の自分に自信も責任も持てなかった。 こっちを見ながら料理をするという、器用な事をする唯をまた視界にいれる。 すると不安そうな表情で、唯は包丁の動きを止めた。 そんな様子をうかがいながら、りゅうのすけはそろそろ電話を切り上げようとする。 電話の向こうの慌ただしさを感じとったのだ。美佐子の様子も落ち着きがなくて…暗い。 「…唯にかわります?」 「ううん、かまわないわ。もう唯も甘えん坊さんじゃないでしょうから」 電話の向こう、美佐子の声は落ち込み気味だが、それも仕方ない事。 「…まあ、留守番は任しておいてください」 「じゃあ、唯の事、よろしくね…」 …つまりは、いつものとおりやればいいんだろ? 受話器を静かに置き、自分の指の先をしばらくぼおっと眺めた。 …妹の…お守りだよ。 また包丁を動かし始めた唯。料理をしていても、おさなげな雰囲気はかわらない。 唯はあくまでも妹なんだ。さっきまでは…たまたま唯がかわいいと思ってしまっただけなんだ。 シチュエーションとかムードとかがよかっただけなんだろ? そう自分に言い聞かせて、ようやく唯に話しかけられる気がした。電話の事を伝える。 「唯。美佐子さん帰ってくるの、明日になるってさ」 「…えっ…そうなんだ」 唯の言葉の中に、喜怒哀楽の最初が多く含まれていた事にりゅうのすけは気がついた。 朝のリビングで見せていた、ウキウキした気分。 「だから、美佐子さんの分の料理、俺にまわしてくれよな」 りゅうのすけは何事もなかったかのようにさらりと言った。 だけど、唯の顔をみる事だけはできなかった。 おいしそうなにおいとともに、テーブルの上に料理たちが並んでいく。 さっき買ったお花を飾り、豪華なディナーの準備は整った。 BGMは唯の十八番、"マスタールージュ"。 それは耳に心地好くて。唯の心を強く映し出す…想いのメロディ。 「よし、っと」 エプロンの後ろに手を回して、するするとちょうちょう結びを外していく。 満足気な笑みは、唯の自信の表れ。 …これなら、きっとお兄ちゃんも喜んでくれるよね。 時間はなかったが、その中でよく作ったと自分でも思う。 誰かが、料理は愛情なんて言ってたけど、愛情ならとってもたくさん入れてあるから。 とっておきの隠し味。りゅうのすけは気がついてくれるだろうか。 その味の…本当の意味。 「お兄ちゃん、ごはんだよぉ」 ソファーの上で、半ば眠りの魔法をかけられていたりゅうのすけは、目をこすりながら上体をそらした。 逆さまの世界に、唯と湯気をたてた料理がうつる。 「お兄ちゃん…起きてる?」 「…うん? あぁ…」 軽く伸びをして大きなあくびをすませたあと、ようやくもぞもぞと立ち上がる。 「時間があんまりなかったから…完璧とはいかなかったんだけどね」 「にしては…なんだかすごそうだなぁ」 「それはそうだよぉ。唯の持てる力のほとんどを出し切って作ったんだもん」 「なにもそこまでしなくたって…」 りゅうのすけがキッチンのいすに座ると、唯もまた向かい合っていすに座った。 そこではじめてテーブルの上の料理を眺める事になった。 りゅうのすけは率直に感想を述べる。 「…質素なのか豪華なのかよくわからないな」 「そういわれると…そうだね」 唯がくす、っと笑う。 たしかに、りゅうのすけの言うとおりだ。 品数が多いわけでもないし、ありふれたハンバーグとサラダ。あとは、ライスとお味噌汁。それにおしんこが少々。 まるで、ファミリーレストランのセットメニューみたいだが。 「でも、味に関しては自信あるよ。だって唯は量より質で勝負だもん」 あごの上、親指と人差し指をのせてまずはポーズをとる。そして、目をきらりと光らせて唯は言い切った。 今回の売りは、なんといってもハンバーグの特製和風ソースである。 美佐子から引き継いで、その上オリジナルアレンジを加えてあるのだ。 正直、本家にだって負けないくらいの出来だと思っている。 「ほぉ…」 これまた、りゅうのすけも挑発にのるかのように、にやりと笑うと、ナイフとフォークに手をかけた。 「いただきます」 「めしあがれ」 りゅうのすけは、さっそくハンバーグに手を伸ばす事にする。 なにせあんなに自信ありげなのだから、よっぽどの出来なのだろう。 それに朝食の実績もある。ファミリーレストランよりもいいものを作っているはずだ。 唯をもう一度ちらりとみると、少し緊張した面持ちでりゅうのすけの動きに注目している。 ナイフをハンバーグにいれる。すると、気持ちいいくらいの弾力が手に伝わる。 すぅっと切れて、フォークに一口サイズのメインディッシュがついてきた。 ごく、っとのどがなる。そして…口に入れた。 「どう?」 「…うまいぞ…」 唯はほっと胸をなでおろすと、自分でも食べてみる事にした。 「あ…本当だ。これおいしいっ!」 「…味見もしなかったのか」 「だって…自信はあったから」 …作ってよかった。 こんなにおいしいとは自分でも思わなかったから、本当に驚いてしまった。 時間があればもう少し手の込んだ事ができたのだけど、りゅうのすけはおいしそうに食べてくれている。 それだけで十分であった。なのに。 …また…ほめてくれた。 もう、唯にはたまらないほどの幸せだった。はかない夢であっても、うれしい出来事。 ひとり、かみしめて。だから思い出す。今日の幸せの原因を。それと、お礼言わないと… 「あの…お兄ちゃん。今日は本当にありがとう。唯のために…」 「…誤解するなって言ってるだろ」 口をもごもごと動かして、唯を見ようとはしなかった。 でも、なぜか赤くなるりゅうのすけの耳。 唯には、料理がそんなに熱いとは思えないのだけど… 「だから…唯、ちゃんとお礼したかったんだけど…」 「これで十分だよ。これだけうまいもの食わしてくれたんだから、さ」 りゅうのすけの一言は、それはそれでうれしいのだけど。 だけど…唯にはまだお礼が足りない気がしている。 「ううん。唯が納得できないもん」 納得できないのではなく、りゅうのすけといる理由を作りたいだけ。 実はさっきから…夏休み前から思っていた事。 夏の思い出、せめて一つだけでも。昔と同じように…ふたりきりの夏休みの秘密、作りたい。 「あのね、だから…明日、いっしょに海に行こうよ。唯がぜーんぶ…出すから、ね」 …言っちゃった。 今度は唯がうつむく順番。りゅうのすけより、さらに顔まで赤くなってしまった。 「…なんだよ…海、って?」 「だって、お兄ちゃん…アルバイトばっかりでどこにも行ってないでしょ」 「…そりゃ、そうだけどさ」 「だから、唯といっしょに遊びに行こうよ。唯もね、夏休みどこにも行かなかったし…」 ふたりきりどころか、友達と遊びに行く事すらほとんどなかったのだ。 いわゆる大学受験に向けての大切な時期だから、誘う事も誘われる事も少なかった。 だけど、本当の理由は違って…いっしょに遊びたい人を誘えなかったから。 その人を誘う機会はなかなかなかった。誘われる事はなさそうだったし。 だから、今日はいい機会。唯から、積極的に。 「唯とじゃ…だめ?」 伏し目がちに、淡い期待と色濃い不安と。唯は水着の事を思い出す。 夏休み前、ふと立ち寄ったお店で思いっきり恋におちたパステルイエローのワンピース。 何ともいえないかわいらしさに、一目惚れしてしまったのだ。 もしかして、なんて思って買った、しゃれのような水着だったけど。 もし今年着られるのなら…お兄ちゃんといっしょに行く海で着られるのなら…最高なんだけどな。 「…別に…だめってわけじゃないけどさ」 「それじゃあ!」 「けど…今日の食費だってあぶなかったんだぜ」 ナイフとフォークを皿に置いて、りゅうのすけはようやく顔を上げる。 一瞬、期待させる発言をしておいて、結局だめらしい。 だけど、せっかくのチャンス。今が仕掛け時。引くわけにはいかないから、食い下がって。 「大丈夫だよ。唯…へそくりあるんだもん」 「…くらげだって出てるぞ」 「唯はへっちゃらだよ」 「それに…もう水も冷たいだろうに」 「…」 りゅうのすけは唯に反発するように、不安材料を上げていく。断るため? それとも… 「お兄ちゃんは…嫌なんだね…」 …なんだかんだ言っても…お兄ちゃんは唯といっしょにいる事… 今日の雰囲気なら、今日のお兄ちゃんなら、って考えた自分がいけなかったのかな。 やっぱり唯を女の子として見てくれていなかったんだ。 幸せなんて、長続きしない。そういう事だったのかな。 自分の目が、少し湿ってくるのがわかった。悲しさなのかくやしさなのか… 「…い、嫌じゃないぞ」 りゅうのすけは思わず一歩引いてしまう。なんだってそんな事で目を潤ませるんだよ。 「だって…一生懸命やめようやめようってしてるじゃない」 「…」 断ろうとしているのは、自分の本心なのか、それとも欺瞞なのか…わからない。 唯が誘ってきたのは本当にお礼だけなのか、なんて考えてしまうから。 唯の考えの、心の底が…わからない。 だから、とりあえず無難に断りたかったのだが… …唯と…海に行く、か。 中学生の時、一度だけふたりで行った事があった。理由も…似ていたような気がする。 あの時は素直に言えたのに。 「ねぇ、お兄ちゃん。唯と海に行こうよ」 「ふたりでか?」 「うん。お母さんもね、お兄ちゃんといっしょならふたりでいいって言ってたから」 「…けどなぁ」 「唯、今年一回も行ってないんだもん。だから連れてって、ね」 「…八十八海岸でいいのか?」 「うんっ」 「しょうがないなぁ。唯ひとりじゃ危ないもんな」 「ありがとう、お兄ちゃん!」 だけど、今は違う。そう言ってはいけない気がした。後ろめたい事など何もないはずなのに。 妹と海に行くだけ。それだけの事なのに、素直になれない。理由は…たぶん。 唯の瞳、潤みながらりゅうのすけをとらえて離そうとはしない。そして、それが理由。 …わかってるけど…認められないぞ、そんな気持ちは。唯だけには…だめなんだから。 だからこそ、りゅうのすけは結論を出した。唯と行くのではなく、妹と行くのだと。 「…わかったよ。じゃあ明日、行くか」 「本当?」 …これだから… 内心、ため息をつく。唯の表情の変化の速さに苦笑いする。結局、唯は子供で妹なのだ。 今のではっきりと、少なくとも理屈では理解した。 「やめたきゃやめるぞ」 「ううん! 約束だからね。もう、キャンセルはきかないんだからね!」 興奮してしゃべる唯の顔がかわいく見えても、もうどきっとはしない事にした。 兄と妹、なのだから。 (続) (1996. 9/ 1 ホクトフィル) |
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