小説
2002. 1/ 8




ふたりきり-後編- 〜Side Stories From ClassMate2 #2〜


 …海、だって。お兄ちゃんといっしょにだよ…
さっきからとまらない笑顔。キッチンには幸せがいっぱい。
夕食の片づけもほとんど終わり、洗い終わった食器なんかを拭きながら、
約束の事を思い出してはひとりにこにこする唯。
今だったら、どんな事をされても許せる気がした。
それほど、唯にとってはドラマチックな約束だった。
りゅうのすけと海に行く。
ただそれだけの事ではあるけれど、ふたりで出歩くなんてなかなかない事だから。
今日の買い物だって、つきあってくれるなんて思ってもいなかった。それなのに…
…夢みたい。
本当に。今は夢心地。
とっても不思議な気分なまま、いつの間にかすべての作業を終えていた。
だけど動きたくなかった。夢の舞台から出たくなかった。
覚めてしまいそうで、オチがついていそうで、そんな事になってたら…。
だから、さっきから何度かほっぺたをつねってみたり、頭をこつんとしてみたりして、
夢でない証拠を探していたのだ。
だけど…証拠はなかったから、覚悟を決めて。
…夢なら…ずっとこのままでいいの。覚めなくていいの。それがだめなら、せめて…
明日まで、海から帰ってくるまででいいから…このままで。
一生分の幸せを全部使ってでも最後まで見たかった。
唯にとって、それだけの価値がある事だから。
「唯、先にふろ入っていいか?」
予告もなしに急に声をかけられて、唯は思わずびくっ、と反応してしまった。
さっと振り返ると、右手に着替えを持ったりゅうのすけがつっ立っている。
「えっ…おふろ?」
「…まだ沸かしてないか」
「ううん、ちゃんと洗って沸かしてあるよ」
りゅうのすけの朝ごはんのあと、わずかなあいだにすべて済ましておいたのだ。
それを聞いて、感心した表情をするりゅうのすけ。そんな素振りは見せていなかったのに…
「いつの間にやってたんだ?」
「ひ、み、つ」
いたずらっぽく人差し指をたてて、ちっちっちっといった感じに振ってみる。
呆然と、言葉もなく唯と見つめあってしまうりゅうのすけ。
「…」
「…面白くなかった?」
「…そういうわけじゃないけど、さ」
りゅうのすけは、さっき感心したのがばかみたいだと思った。
さっさとふろに入ろうと、キッチンから出ていこうとする。
そんなりゅうのすけの背中を見て、沈黙を嫌がるように唯はふと思いついた事を口に出した。
「そうだ、お兄ちゃん。背中流してあげようか?」
「…あのなぁ…」
浮かれているから、そんな事も考えてしまう。それがどういう事かは考えないで。
落ち着いてるりゅうのすけは面食らったように、黙り込んでしまう。
…唯は何を考えているんだか…
だけど、りゅうのすけだってさっきと違うから、しゃれをしゃれで返す余裕はある。
今のりゅうのすけからすれば、唯の言葉は冗談だと思っていたし…思いたかった。
「じゃあなにか? 唯もいっしょに入るのか?」
「お兄ちゃんはそうしてほしいの? だったらいっしょに入るけど…」
「ば、ばか。冗談にきまってるだろう」
「別に…いいよ。お兄ちゃんとなら…」
少しうつむき、頬を染める唯。
ここで「お兄ちゃんのエッチ!」なんて言いながら笑ってくれたなら、りゅうのすけも楽だった。
だが、真剣に。しかも、恥ずかしさよりうれしさいっぱいに照れている唯を見てしまうと、
さっきの余裕なんてなくなってしまう。
「と、とりあえずだ。ひとりで入るから…背中流さなくてもいいぞ」
「もし必要なら、いつでも呼んでね」
唯の幸せそうな声を背に、りゅうのすけはふろに向かった。
さっさと汗を流したかったから。
そのほとんどが照れてでてきた汗だった事に、気がつかないりゅうのすけだった。

 せみの声がおさまり始め、気がつけば鈴虫あたりが鳴きだしそうな、そんな感じで。
小さな換気用の窓の外。湯気の白さを引き立てる暗い空が見える。
ちゃぽん、と天井からたれてくる水滴はいかにも冷たそうで、
今あれにあたったら、きっと気持ちいいだろうなぁ、とりゅうのすけは思った。
湯舟の中、肩までしっかりとつかりながら、りゅうのすけはさっきまでの事を考えていた。
正確に言えば、さっきの唯の一言、である。
…本当に…呼んでみるか?
おそらく、呼べばいっしょにふろに入るだろう。
今日の唯なら、伏し目がちに、バスタオルで一部を隠しながら入って来て、
「お兄ちゃん」
なんてつぶやいて、隠していた胸を…
「だーっっっっっ!」
りゅうのすけは自分が怖くなって、そこで考えるのをやめてしまった。
叫ばないと、今のイメージが頭の中に残ってしまいそうで嫌だった。
唯のはだかのイメージが。
「お、お兄ちゃん。大丈夫?」
くもりガラスのその向こう側、心配そうな唯の声。さっきの叫び声に反応したようだ。
「な、何でもないぞ」
「本当に? だって、ものすごく大きな声だったよ」
「何でもないって」
「気をつけてよ…お兄ちゃんになにかあったら…唯…」
「ああ、わかってるって」
りゅうのすけはおとなしく返事をする。唯に心配されるなんて…変な事、言うからだ。
…「お兄ちゃんといっしょなら」、か。
いやらしいイメージに自己嫌悪。
相手は唯。子供のころ、いっしょにふろに入っていたじゃないか。そういう関係じゃないか。
そう。兄と妹、という関係。少なくとも、中学校まではそういう関係だと思っていた。
高校に入って、ふたりがなんだかぎくしゃくしたのだって、「思春期」なんて便利な言葉で説明できるじゃないか。
意味はわからないけど、よくある事。兄と妹、意識しあう年ごろなんだろ。
…だから…唯は妹なんだよ。
だけど違う。そう思っていないのも事実。
唯はひとりの女の子。妹である前に女の子なのだ。
だから、学校で「お兄ちゃん」って呼ぶなって言っておいたんじゃないか。
だから、ふたりで出歩く事に拒絶反応を示したんじゃないか。意識して距離をおいていたのだってそういう事だろ?
思春期ってなんだよ。自分で意図してやった事。それはつまり…
「兄と妹」と見られたくなかったから。そう見られたら…「男と女」にはなれないから。
…そんな事…望んでないはず。
唯がそうした事をほんの少し期待している事は、前からうすうす気がついていた。
今日、いっしょにいて激しく感じた。だけど…自分はどうなんだ? 本当に望んでないのか?
ふと思い出す、さっきの唯。いつもと同じ格好だったけど、他の女の子よりも輝いて見えた。どきっとした。
ときめきの始まりのような、あの感覚。
買い物の時だって、朝だって、今日はそんな事ばっかりじゃないか。自分らしくもない。
確かにそう。今まで、唯には感じた事のない気持ちばかり…それすらうそ、か。自分をだましているだけか。
…唯を…見てるんだよ、女の子として。
結局はそうなのだ。だから、ぎくしゃくしてしまう。家族、友達、妹、幼なじみ、知り合い。
どうとも整理のつかない相手。結論を出せない相手。
まとめてしまえば、すべてが崩れてしまいそうだから。
…今を…壊したくない。
自分と唯と美佐子さんと親父。ほんの少しずれてしまうだけでだめになるような、そんな微妙な関係だから。
もし、結論を出したら、すべての意味がかわってしまうだろう。
だから、今はこのままで。少なくとも、自分と唯はこのままでいなくては…いけない。
…唯が望んでいても…だ。
だからこそ、兄として振る舞わなくちゃいけない。家族としてつきあわなくちゃいけない。
壊したくない。今の関係や今の状態。それがベストだから。
おそらく、誰もが望んでいる事。自分も美佐子さんも親父も望んでいる事。
唯だって…きっとそう。
手で湯をすくい、額の汗を軽く流す。気がつかないうちに、かなりの時間、湯舟につかっていたらしい。
身体がぽかぽかに温まっていた。夏のふろにしては少々長すぎたようだ。
…壊すわけには…いかないんだから…
微妙なバランス。今もこれからも。星みたいに、同じ位置で、永遠にいたいから。
それがだめなら…せめて、ふたりがこの家を離れるまでは…このままで。
りゅうのすけは湯舟から出ると、小さな窓から漆黒の空をふと眺めたくなった。
だけど、そこからは星は見えなかった。白い湯気がじゃまをしていたから。
…まるで…俺の心みたいだな。
自分自身の本音すら、りゅうのすけには見えにくくなっていた。
湯気は、心までくもらせていた。

 唯の部屋。美佐子からもらった、年代物の鏡台の前。唯は黙々と髪をとかす。
毎日行っている、なんて事のないルーチンワーク。
りゅうのすけと入れ代わりにおふろに入り、まだ体はぽかぽかしている。
もうパジャマに着替えて、寝る準備はできてはいるけど。
…寝れっこないよ…今日は。
手を休め、鏡の中の自分をじっと見る。
瞳の中には期待の色。胸元でぎゅっと左手を握る。
いろいろな想い、頭の中を駆け巡って。浮かんだイメージ。指先のふれあい。唇の感覚。
…何を期待しているの?
友達の話を思い出したり、雑誌の特集を思い出したり、自分の経験していない事を空想で作りあげて。
望む事が、それだけじゃないとはわかっていても…
急にぶるぶると頭をふる。何もないに決まってるよ。お兄ちゃんはお兄ちゃんだもん。
自分の事を女の子として見てはくれない。でも、たぶん。妹としても見ていない。
どちらかと言えば、妹寄りの自分の位置。それは…どうとも動けない、複雑な宙ぶらりんな立場。
いつもそうだったから。高校生になってから、微妙に距離をとりだした。
不自然な、不可解な間隔。境界線。少しでも越そうとすれば、すぐにかみついてきたけど。
…今日は…違ったもん。
近くにいる事ができた。物足りないけど、いつもよりたくさんの話ができた。
あまり長い時間ではないけど、手もつなげた。
それは、ふたりの距離が狭まった証拠。たぶん、今日だけ。
でも、明日も望みはある。海へ行くから。ふたりきりで。そして…
…今夜も…ふたりきり、なんだよね。
もし、夕方の距離のままいられたら…がまんできるかな。
なにに、なんて考えない。すべての事柄が対象だから。
同じ時間と空間の中でふたりきり。
それはとても甘い言葉。もしかしたら、前に進んでしまうかもしれなかった。
たしかに唯は恐かった。前に進むのはリスクが大きかった。
だからさっきは歌でごまかしたけど…
だけど、がまんできない事だってある。言いたい事だってある。
一度縮まった距離、また元に戻るのは嫌だから。
一度近づいたら…離れたくない。もっと…近づきたい。
…素直になったって、正直になったって…いいよね。
今以上を求めたくなる。欲張りではなく、それが自然だから。
自分に対して。心に対して。
唯は鏡を見る。不安な表情の自分がいる。緊張している自分がいる。
しばし見つめて、ゆっくりと息を吐きだす。
くしを置き、いつもの赤と黄のチェックのリボンを手にとった。
…お兄ちゃん。
あの日から、ずっと伸ばし続けている髪。
あの人がリボンをした女の子が好きだって言っていたから。
どんなリボンでもつけられるように、ずっと伸ばしていた。
想いの長さの表れでもある髪とリボン。気がついてなど…くれはしないだろうけど。でも。
…もしかしたら取られちゃうかな…リボン。
唯はふとそんな事を考える。髪をおろした姿は、好きな人にしか見せないと心に決めていた。
ぎゅっとリボンを握る。なにがあっても…かまわない。どんな事になったって。
…だって…今日は特別だもん。ふたりきり、なんだから…
唯は髪をまとめはじめた。自分の決意をまとめるようにして。

 「あ、お兄ちゃん。まだ起きてたんだ」
唯の弾んだ声。素直にほっとした感じが響く。まだ、りゅうのすけがリビングにいたから。
目的の男の子は、ソファーでねっころがりながらテレビを見ている。
今日、リビングで声をかけるのは何度目だろうか。
「それはこっちのセリフだ。いつまで起きてるんだよ。もう寝る時間だろ?」
ふと時計を見れば、なるほど、外の暗さもうなずける。
考えごとをしながら髪をとかしていたから、こんなものなのかな?
「唯だってけっこう遅くまで起きてるんだよ」
と、りゅうのすけに言葉を返し、唯は先にキッチンの冷蔵庫に向かっていく。
おふろから時間が経って、おまけにクーラーの効いている部屋にいても、やっぱりのどは乾く。
それでなくても、りゅうのすけといっしょにいるのだから、少し…暑い。
「お兄ちゃん、何かいる?」
「別にぃ」
間延びした声。唯はいつもの紙パックのジュースを取り出して、リビングに、ソファーに向かう。
ちらりとりゅうのすけの左右の空きを確認する唯。当然、りゅうのすけの横に座りたかったのだ。
だがねっころがっているところにむりやりは座れなさそうだった。
しかたなしに、とりあえず空いているところに座る事にした。
「何見てるの?」
テレビの画面はちらりとも見ないで、りゅうのすけの顔を見る。
さっぱりしたような顔だけど、唯の視線を感じてか、わざとそっぽを向く。
「なんでも…いいだろ」
少しどもり気味に答えるりゅうのすけ。
別にやましい事をしているわけではないのだけれど、内容が内容だけにあまりはっきりと答えたくはなかった。
唯は興味津々にテレビを見ると…
「きゃっ!」
子猫が驚くような声。両手で顔をおおい隠す。
りゅうのすけは少しあきれた顔で、その様子を見ていた。
そりゃ、急にこんなの見せられたら…そうなるよなぁ。
「なんでこんなの見てるの?」
「いいだろ。俺が何見たってさ」
唯はまた、指の隙間からテレビを見る。
そこには、さっき見た映像よりも、もっとグロテスクで気持ち悪いものが画面いっぱいに映っていた。
それに付随する重低音と悲鳴と雄叫び。チェーンソーの音すらおとなしく聞こえる。
だから、また指を閉じる。顔を背ける。
「だって、これ…ホラー映画でしょ?」
「夏といったらホラーに決まってるだろ」
唯は少しはおとなしくなったテレビを見ようとするが、凝視する事はできなかった。
りゅうのすけのホラー映画好きは知っていたが…でも、これは違うような気がした。
だから唯は率直に感想を述べる。
「だけど…これ怖いんじゃなくて気持ち悪いだけだよ」
「当たり前だ。B級映画なんだから、質より量。サスペンスよりグロテスク、なんだよ」
「でもでも…」
単純にいえば、飛び散る内臓やこれでもかというくらいにばらまかれる血や死体。
殺しあいの現場の中心にいるような、そんな内容だった。
唯のイメージしたホラーとはどうも違っている。たしかに、恐くて気持ち悪いのは認めるけれども。
「唯にはむりだぞ。これを見るのは」
「だ、大丈夫だもん」
目を細めたり、顔を背けたり、そんな唯には見ろというほうが無理な映画だ。
りゅうのすけにしたって、好きなサンチャゴ・ソト監督の作品でなければ見なかっただろう。
「無理すると、眠れなくなるぞ」
「…今日は眠れないよ」
唯は本音をつぶやく。だけど、映画の中の悲鳴に消えてしまう。そしてまた顔を覆い隠す。
…なんでむりするんだよ。
りゅうのすけには理解できなかった。テレビがあくのを待っているのか?
この時間に見たい番組があるわけではないだろうに。
単純に意地をはってるだけなのか。だったら…
また指の隙間からのぞいては、小さく鳴いて顔を覆う。
そんな唯を見て、りゅうのすけは少しばかり意地悪をしたくなった。
子供っぽくなるりゅうのすけの顔。
「さっさと寝ちまえよ。大変な事になるぞ」
「…どう…なるの?」
体を起こして、唯の座るソファーに移る。そして、唯の耳元でささやこうとする。
ふと近づいた唯の髪。洗いたてのいいかおりがりゅうのすけの鼻をくすぐった。
…唯の…女の子のにおい、か。
よく見れば、うなじなんかはとても色っぽくて。
首から背中におりていくなめらかな曲線も、唯の女らしさを十分に感じさせる。
さっきまでのりゅうのすけなら、そんな自分を受け入れられなかっただろうが、今のりゅうのすけはちょっと違う。
どきどきするのは当たり前なのだ。唯は妹。妹だから女の子。おまけに年ごろ。
色気が出てて当然なのだ、と考えるようにしたから。
だから、ためらわない。愛撫するほど近い距離。大きなリボンのちょっと下へ。低く、ぼそぼそっとした声。
「前、これ見た一人暮らしのOLが呪い殺されたって話があるんだぞ。
夜、明かりを消すだろ。そうすると、ぼぉっとうかんでくるんだってさ。
体じゅう切り裂かれた子供。甲高い叫び声。仕事中もそういった幻覚や幻聴に悩まされて…」
「…」
唯は顔をおおったまま、りゅうのすけの話を黙って聞いている。
手の隙間から、唯の表情を確認しようとしたが、ちょっと無理があった。
ただ、まだいけそうな気はしている。
…まあ、もう少しおどかしちゃうか。
元来の、やんちゃ坊主ぽいところが頭を出してきた。かわいいからいじめたくなる。
小さく見える唯の姿は、りゅうのすけの子供らしさを引き出すには十分だった。
「そういえば、こんな話もあるぞ。唯くらいの歳の女の子がこれを見てて、急に死んだんだよ。
突然体のあっちこっちから血が飛び出して、内臓が口から…」
唯はもう動きを見せなかった。顔を覆ったまま、息もしていないんじゃないかと思うほどに。
一瞬、りゅうのすけもためらうほどの静けさ。
だけど、静は動にかわる。
「お兄ちゃんっ!!」
「な、なんだよっ!」
脅したつもりが脅かされるとは思いもよらなかった。
何の前触れもなく、唯が抱きついてきたのだ。それも、完全に唯を感じとれるほどに密着して。
「…ほ、本当なの? それ」
両手のやり場に困るりゅうのすけの胸の中。唯は顔をうずめたまま、か細い声を出す。
ふと、りゅうのすけは気がついた。唯が震えている事を。本気で怖がっているようだ。
「ば、ばか。うそだよ、うそ。だいたいこんなんで死人が出るわけ…ないだろ」
「…」
脅しておいて、いまさらながらに反省するりゅうのすけ。
唯がこんなに怖がるとは思わなかったから。だいたい、唯の体の震えはとまりそうにない。
「大丈夫だぞ。本当に…うそ、なんだから」
「…お兄…ちゃん」
唯は顔をあげた。それは、りゅうのすけの理性がとんでいってしまいそうな表情で。
怯えきったつぶやき。小さく開いた唇が、かすかに動いて。
潤んだ瞳は不安を映し、りゅうのすけを捕らえて離さない。
そして、どこか青白い顔色。普段なら絶対に見る事のできない顔。
胸の中で震える小さな身体もまた、唯をかよわく…いとおしく思わせた。
…本当に…唯なのかよ。
かわいい。素直にそう感じた。そして、その気持ちをそのまま両手で表した。
唯を…抱きしめた。
抱きしめられた小さな体は、ほんのわずかに、ぴくんと反応する。一瞬の緊張。
でも、すぐになじむように体を預けて。抱きしめ返す。唯の細い腕が、強い背中を求める。
「わるい。唯がこんなに驚くなんて…思わなかったから」
「…」
「まだ…震えてるぞ」
「だって…本当に恐かったんだよ」
りゅうのすけの腕の中で、ほっとした声を出す唯。涙はなくなっていても、まだまだ怯えている。
子供の時と同じ瞳。いじめられていた唯を助けた時に見せた、あの色。
まさか今の自分が、唯を泣かすほどいじめるなんて思ってもいなかった。
しかも…今日二度目とは。
…悪い事しちゃったな。
ためらいもせずに唯の頭を撫でる。さっきの髪のかおりが、またほのかにただよう。
おふろ上がり…唯のにおい。リボンがちょっとじゃまをしても、りゅうのすけはやさしく、ゆっくりと手を動かす。
唯の髪の柔らかさを、何とも言えぬ感触を、ほんの少しだけ楽しみながら。
唯の身体のかたさが、少しづつほぐれてきている。震えも…もう止まっていた。
「本当に悪かった」
「う…ん。もう、大丈夫だから」
ちょっとためらい気味の返事。
まだこうしていてほしかった。りゅうのすけの腕の中にいたかった。
でも、ずっと続くわけではない。その事に気がついているから。
りゅうのすけから、本当に名残惜しそうに離れると、むりやり笑顔を作る。
もうホラー映画は怖くはないから。
ただ恐いのは…りゅうのすけとの関係。
「ゆ、唯、もう…寝るね」
「あ、あぁ」
どうって事のない会話のはずなのに、もうぎくしゃくしている。
りゅうのすけも唯も真っ赤に顔を染めて。
沈黙、静止。初々しい恋人のような、ふたりのあいだの空気。
「…」
「…」
「お、おやすみ。お兄ちゃん」
「お、おう」
「明日の約束…わすれちゃだめだよ」
「…あ…」
りゅうのすけの返事も聞かず、唯はリビングを勢いよく飛び出ていった。
少しづつ冷静に戻りはじめている事が、自分でもよくわかった。
少なくとも、今何をしたかくらいは考える事ができる。
とりあえず、早く自分の部屋に戻ってベッドに飛び込みたかった。
唯は両手で頬を触ってみる。今まで感じた事ないくらいに熱くなっていた。
もう、どうやっても、今夜は眠れそうになかった。

 リビングの片づけを終え、りゅうのすけは上体を後ろに反らす。大きくあくびをひとつつけ足して。
戸締まりは確認してあるから、照明をおとして自分の部屋に戻るだけである。
時計をみれば、さっきの出来事はもう昨日の事なのだと気がつかされた。
思い出して、真っ赤になるような出来事。
別に…どうって事はないのだが。予想も想像もしていない相手だったから。
おまけに今日という、どこか変な日だったから。
…抱きしめちゃったよな、俺。
震えている身体。柔らかな髪。女の子のにおい。
久しぶりの感覚に、りゅうのすけも危ういところだった。唯から離れてくれたから助かった。
でも、あの時はあういうふうにするのが自然。
それで唯も落ち着いたし、たぶん納得していたのから、それでいいのだろう。
…に、したってなぁ…
苦笑い。だけど今は自分を正直に受け止められる。思い出したのは唯の感触。
すべてを感じとれるほどに唯は体をあずけてきていたから。
中学の時、一度だけ唯を抱きしめた事があった。
今日と同じように、唯は怯えていた。そして、同じように唯から抱きついてきたのだ。
あの時に比べれば、当たり前ではあったけど…気がつかないうちに成長していた。
心はとにかく、身体はそうなっていた。
…唯も女の子、か。
そう考えていた。そう思っていた。
けど、しょせんは理論。想像しないほどに唯に近づきすぎたから。
あの柔らかさを胸に感じては…完全に普通の女の子を意識してしまう。
そして自分は…男であるという事実。それは、今日の夜を考えると危険すぎた。相手は唯。
だからなのだろうか。同時に感じたのは罪悪感。
唯でなければきっとそんなふうには思わないのだろうけど。
まぁ、明日はこんな事はないはず。本当に偶然の出来事だったのだから。
もしまた同じような事があったら…自分自身に責任は持てそうにない。
もう一度、大きなあくび。首をこきこき鳴らしてみたり、ふんぞり返って、背骨をぼきぼきならしてみたりする。
簡単なストレッチ運動だ。今日はなんだかんだで疲れていた。
…一日中、唯につきあっていたからかな?
この調子では、明日の海もくたくたになりそうだ。だったら、早く寝たほうがいいよな。
そんな事を思い、もう一度リビングを見回す。
明日の朝、この場所で唯にどんな顔をするのだろうか。
唯は…どんな表情を見せるのだろうか。
…まさか…笑顔なんてないよなぁ。
たぶん…普段どおりだろ?
だが、そんなつぶやきもどこか苦笑い。普段が想像できなかったのだ。
りゅうのすけは後頭部をぽりぽりかくと、考えるのをやめた。
いましがたの舞台のライトをおとし、りゅうのすけは自分の部屋に向かう。
階段に光を灯して、ちょっと急な段々をのぼり、いつもの道のはずだったが…
唯が…いた。
りゅうのすけの部屋の扉の前に、まくらを抱えて。唯にお似合いの、みやむーざるがらのパジャマ。
リボンはまだつけたまま。りゅうのすけの姿を確認すると、音もなく立ち上がり、頼りない笑顔を見せる。
ただ、何も言わない。りゅうのすけが何か言ってくれるのを待っているようだ。雰囲気でわかる。だから。
「どうした? 唯」
いつもよりは優しく。
でも、心のどこかにある悪い予感。言葉はふたつの気持ちをのせて。
「…」
うつむき出した唯を見て、悪い予感が的中しそうだと思う。
たのむから、何も言わないでほしい。
何か話しかけるとしても、おやすみ、とか、明日起こしてあげるね、とか、そんな事にしてほしい。
当たり障りのない言葉、選んでほしかった。
けれど。唯はつぶやいた。顔をあげて、しっかりとりゅうのすけを捕らえた瞳。
静かな家の中。りゅうのすけの心に響く、唯の重い一言。
それは…本人すら気がつかない、りゅうのすけの心の奥底で期待していたフレーズだった。
「お兄ちゃん…いっしょに寝ていい?」

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