小説
2002. 1/ 8




ふたりきり-後編- 〜Side Stories From ClassMate2 #2〜


 唯はとりあえず待つ事にした。
ただ、手ぶらなのはどこか不安。だから。大きめのまくらを両手で抱いて、階段の上、ひとりたたずむ。
灯りもつけず、静止した闇の中で。
暗闇は、唯の体を覆い、心を覆う。
さっき部屋で考えた事。おそらく…たぶん反発されるだろう、なんて思いながら。
でも、実行してみたかった。裏目に出ても仕方ない。
それに…そうじゃないと、今夜は眠れない。ひとりはさみしすぎる。
…おにいちゃん…
一階の、玄関の明かりが消えたのがわかった。そして階段が淡く染まり、きしきしと木のきしむ音がする。
それはつまり、だれかが二階にくるという事。人の気配が近づいてくる。
…おにいちゃん。
小さな踊り場をまわり、その人が視界に入る。唯はほっとして、無意識に笑顔を見せた。腰を上げる。
踊り場で彼は止まり、唯を見上げた。表情は複雑でよくわからない。
…おにいちゃん、だ。
ふぅ、と軽く息をはくりゅうのすけ。やれやれ? それとも…やっぱり?
「どうした、唯?」
…わかってる、よね。
りゅうのすけは目をそらさない。むしろ、挑発的に唯を見ている。
どことなくいつもの雰囲気だけど、唯はいつもと違うから。
一度うつむく。目を伏せて、心の中で考えていたフレーズをつぶやいてみる。
そして、小さく深呼吸。たとえこんな距離でも、言い出すには勇気がほしい。
唯だって、言葉の意味は理解しているつもりだ。
「お兄ちゃん…いっしょに寝ていい?」
つぶやきは、静けさが増幅させて。心臓のどきどきする音すら聞こえていそうな空気の中。
もちろん、聞こえていてほしい人にもはっきりわかるほどに。
階段の明かりは暗いから、お互いの顔色はよくわからない。
自分の顔の…体の熱っぽさはわかっているけど。
「あのなぁ…」
しばらくの沈黙の後、りゅうのすけは頭を二、三度かいた。
唯の視線を一度外して、また見上げる。理解できない。そういう空気、
ふたりの間。見えない壁。
「怖くて…眠れないの。だって…さっき、あれ見ちゃったから」
うそではない。だが、怖いのは映画ではなく、りゅうのすけと離れてしまう事。
明日の朝、さっきの距離が保てない事。
たった一晩で、その距離は想像できないほどに離されているだろう。天の川のふたりのように。
たぶん…りゅうのすけが大逃げしてしまうから。
演技ではない、本当に不安げな表情に、りゅうのすけは気がついてくれただろうか。
「もう…大丈夫なんだろ?」
「だけど…ひとりじゃ眠れないもん」
「目ぇつぶって、羊数えてればねむっちゃうぞ。なんだったら、羊数えてくれるゲーム貸してやろうか?」
面倒くさい。それだけしか伝わらないりゅうのすけの言葉。反発は当然。
唯を…これ以上懐にいれるわけにはいかない。
だから、演技でも唯を離す。距離をとろうとする。
「…お兄ちゃん…」
「…」
…なんなんだよっ!
もう、それは色仕掛に近かった。
ほのかな明かり、唯の瞳を悲しく輝かせる。抱きしめたまくらを口元まで近づけて。
今にも泣き出しそうな声は、りゅうのすけを困惑させる。さっきの唯の感触を、どことなく思い出す。
久しぶりの…やわらかく、やさしい感触。甘いにおい。
だけど…それはだめ。さっきまでで止めておかなければ…本当にまずい。
りゅうのすけは舌打ちすると、表情をこわばらせた。自分を強く持つための…ポーズ。
「だいたい…自分で言ってる事、わかってんのかよ」
「わかってるよ」
今度はまくらで鼻先まで隠して、小さくうなずく。リボンもさみしげに揺れる。
「こんな時間に男の部屋でいっしょに寝たいなんて…何考えてるんだか」
「だって…ひとりじゃ眠れないもん。お兄ちゃんがいけないんだよ!」
唯は語気を荒くする。原因はりゅうのすけ。
今日の態度がいけないんだもん。唯にチャンスを与えるから…自業自得だよ。
「…とにかく…だめ、だ」
りゅうのすけはようやく動き出そうとした。強制排除してでも、自分の部屋に戻るつもりだ。
とてもじゃないけど、つきあってはいられない。
だが、唯がまた口を開いた。だから足を止め、また見上げる。唯の目尻が少し光っていた。
きれいな真珠の…光の反射。
「…唯、だからでしょ?」
一転して低い声。階段に視点を移して、りゅうのすけからは表情が見えなくなった。
元から暗くて、下を向いてしまえばどうしようもない。
だけど…背中に映る強い意志。
「どういう意味だよ」
「…相手が唯だから…だめなんでしょ?」
「…あのなぁ。子供みたいな事言うなよな」
「だって唯は子供だもん。だからいいでしょ? 子供と寝たってどうって事ないよ」
「…」
唯のよくわからない理屈に、りゅうのすけは何も言えない。
たしかに精神年齢は低いだろうけど、そうではない部分だってある。
だからこそ、危険を感じ、抑制しているのだ。
「だだをこねるなよ。唯だって大人じゃないか。心はとにかく…だ」
あんまり言いたくはなかった。自分の本音。本当の理由。なんとなく、いやらしい響き。
そして、唯を女の子として感じている事を知られたくなかったから。なるべく間接的に。
「…」
「わかっただろ?」
「別に…いいよ。お兄ちゃんが…望んでいるのなら…いいもん」
うつむき、顔はまくらにうずめるようにして、小さくなる声。それでも聞こえる静けさ。
…本当だよ、お兄ちゃん。
りゅうのすけの言葉が、どういう事かくらいは理解できる。
だから、覚悟はしてるもん。お兄ちゃんがどんな事をしたって…かまわないよ。
本当に、いいんだよ。
唯は、本人が気がつかないくらいの小さな深呼吸をする。そして、まくらから顔を上げた。
「だから…いいでしょ? お兄ちゃんの部屋に入っても」
りゅうのすけには、唯の笑顔がふと見えた。小さな光だから、もしかしたら見間違いかもしれないけど。
でも、無邪気な、子供の時と同じ顔。りゅうのすけの抵抗をやめさせるぐらいの表情。
だから、それに逆らう事はやめた。
…唯がいいっていうなら…
言い訳はできた。自分自身に対して、感情に対して、逃げ道を作ってくれた。そして。
「しらないぞ…どうなったって…」
唯の深呼吸よりも小さい、こごえるようなつぶやき。
それですら、もしかしたら唯には聞こえていたのかもしれない。
「お兄ちゃん。先に…入るね」
唯の喜々とした声の中に、もうひとつ、唯の言葉が入っていたような気がしたからだ。
「…唯は…本当にかまわないんだよ。お兄ちゃんとなら…」
唯がりゅうのすけの部屋の扉を開ける。それは禁断の扉のような、そんな重さをみせる。
今夜の事は、唯にもりゅうのすけにも…わからなかった。

 りゅうのすけの部屋に明かりを灯す。
いままで闇で寝ていたものが、起こされたがごとくうつしだされる。
そんな中、唯は真っ先にベッドに向かうと、まるで水泳の飛び込みのようにジャンプする。
着水は静かなもので、反動で唯が弾かれる事はなかったが…
「こら、人のベッドで何やってるんだよ」
りゅうのすけが怒るのも当然。人の部屋に入るなり、いきなりする事とは思えなかった。
「だって、唯のベッドとどっちが柔らかいか気になったんだもん」
唯にだって理由はある。とにかく動いていたかったのだ。
沈黙は嫌だったし、何かをしていないと、心臓が飛び出してしまいそうだったから。
「だからってなぁ…」
「お兄ちゃんのベッドの方が柔らかいね。なんかいいなぁ」
唯はあくまでマイペース。さっきのシリアスがうそのように、ベッドの上で無邪気にはしゃぐ。
本当に…無垢な女の子のような、そんな感じで。
少なくともりゅうのすけにはそう見えていた。表面的である事はうすうす気がついてはいたが。
でも。
…本当に…ふたりきりなんだ…
唯の内心は全然違う。息もできないほどに心がしめつけられている。
そして信じられないほどのハイテンション。
りゅうのすけといっしょにいるだけ。ただそれだけの事。
だけど、とても劇的な事。ふたりきりの家。りゅうのすけの部屋。ベッドの上。
思い出すと赤面するような、うれしいような事件の後。
そして…夜。唯にとってはこれこそ一夜の夢。幻想の一場面。そんな感じに思えた。
だけど、夢でも幻想でもなくて…現実の中なのだ。
「…お兄ちゃん」
「なんだよ」
りゅうのすけは唯にかまうのをやめて、とりあえず自分の日課を果たそうと思った。
パソコンの電源を入れて、HOSが立ち上がるのを待つ。パソコンデスクのいすに座る。
「…お兄ちゃんのベッドって大きいんだね。これなら…並んで寝られるよね」
唯は自分のまくらをベッドにおいてみた。ひとりで寝るには少し大きめのりゅうのすけのベッド。
ふたりのまくらがちょうどいいくらいに並ぶものだから、唯ははしゃいでみたが。
「…俺、リビングで寝るから」
「えっ?」
「いや…親父みたいにさ、ソファーで寝るわ」
「でも…」
「やっぱり変だよ、どう考えたって。たとえ…唯が…」
りゅうのすけはマウスの動きをとめると、いすをくるりと回転させて唯と顔をあわせる。
ベッドの上で動きの止まる唯。また、自分のまくらを抱きしめる。
「唯が…なに?」
「だからさ…」
りゅうのすけは、言葉尻が伝わらない事に少しいらだつ。さっきとは大違いだ。
唯はまだ釈然としない顔をしている。
「こんな時間に…ふたりきりなんて…恋人でもなんでもないのに、さ」
りゅうのすけは言葉を変えてみた。朝からひっかかっている事。つまり、妹と女の子。
唯もどうやら気がついたらしい。それでも、唯は納得のいっていない表情を見せて。
「だって…お兄ちゃんは唯を妹だって思ってるんでしょ? だったら…妹といっしょに寝たって変じゃないよ」
「…妹だとしたって…もう小学生じゃないんだぞ。変だよ、やっぱり」
「だから、唯は別にかまわないもん」
…俺がかまうのっ!
自分の部屋。ベッドの上にパジャマのかわいい女の子。大きめのまくらを抱いて、こっちを見つめてくれている。
もし、ちょっと気のきいた言葉なんぞをかければ、ほほ笑んでくれるだろう。
こんなにおいしいシチュエーション、めったにない事なのに…
相手は唯。もし、いっしょに寝て"なにか"があったらどうなってしまうのか。
ふたりだけではない。すべてがかかわる事だから。無難に安全に。さっき決めた事。
だいたいこんな時間に、唯を部屋に入れただけでも…りゅうのすけにとっては変な事なのだ
「それとも…お兄ちゃんは唯の事、女の子として見てくれてるの?」
「…」
「答えて…くれないんだ…」
…やっぱりお兄ちゃんにとっては妹なのかな?
唯はなにげに聞きたかった。りゅうのすけの本当の気持ち。自分はどう見られているのか。
もし女の子として感じてくれているのなら…自分の本当の気持ちを見せるつもりだ。
「おにい…ちゃん」
「…見てるから…困るんだろうが…」
ぶすっとして、ぼそっとつぶやくりゅうのすけ。だがつぶやきすら、今は大きく聞こえてしまう。
唯はうれしさを心の中に閉じ込める。そして、予定どおりにじっくり攻めてみる事にした。
焦る必要はそれほどなかったし…正直怖い部分だってある。
でも、ぎりぎりまで仕掛ける事に変わりはない。唯の…駆け引き、つまりそうな気持ちとともに。
「じゃあ、唯の恋人になってよ。そうしたら…いっしょに寝てもいいんでしょ?」
「ばっ、ばかな事…言うなよな」
「…ばかな事じゃ…ないよ…」
唯は胸元にまくらを強く寄せた。自分の気持ちをつかむように。伏せたまつげの影、想い光って。
恥ずかしそうに揺れるリボンが、薄明かりの中で鮮やかに映える。
「このリボンだって…お兄ちゃんになら取られたっていいって思ってるんだよ」
「な、なんだよ。意味がわからないぞ」
自分の鼓動に動揺するりゅうのすけ。瞬間、心重ねて。はっきりと感じとっていた。
唯の何か…心の中にある、りゅうのすけへの何か漠然とした期待のようなもの。危険な…何か。
「唯が髪をおろした姿はね…特別な人にしか見せないって…決めてるの」
「…ど、どういう意味だよ」
一呼吸おいて、唯の瞳に決意が映る。
だから、りゅうのすけは唯の次の言葉に異常なほど敏感に反応した。
何を言い出すのかはっきりとよめなくても、完全に危険を感じたのだ。
「だって、唯はね…お兄ちゃんのこ…」
「だーっっつ!」
「お、お兄ちゃん?」
だが、言葉を止められた唯は、残念そうな安心したような、そんな微妙で複雑な表情をみせた。
りゅうのすけなぜか背中に冷や汗をかいていた。言葉の予想が当たった事を確信したから。
間違いなく…当たっていた。
だから…正直悔しい気持ちもどこかにあった。
「と、とにかくだ。これが終わったら、俺は下にいくからな」
りゅうのすけは慌ててパソコンをいじりだすが、マウスがうまく動かない。
あせって違うアイコンをクリックしてしまう。日課のバックアップ。
大切な、唯にはとても見せられないようなデータが入っている。
もっとも、唯にはパソコンのいじりかたはわからないが。
「唯と寝るの…そんなに嫌なの?」
「そういう事じゃないっていってるだろ」
「だって…」
…まだ…だめなんだ。
女の子として見てくれている。それはわかっても…やっぱり壁はあるんだね。
縮めるのが難しい、お互い素直にならなくてはどうしようもない距離。
でも、その壁や距離にどこかほっとしている自分もいる。
酔っているようにはしゃいでいる唯と、気持ち悪いほど落ち着いている唯。
自分自身をとらえきれない。
だけど…確実にひとつだけわかる、今の本音。
「お兄ちゃんがいなくちゃ…ひとりになっちゃうんだよ。そしたら…眠れないよ」
「そんだけはしゃいでれば…もう怖いもへったくれもないだろうが」
「でも…」
「でも…なんだよ」
「…いっしょに…いて」
りゅうのすけが思わずうなずきそうになるほどの、それは誘惑いっぱいの声。
今はただ…いっしょにいてほしい。唯の隣じゃなくてもいいから。
ふたりきりで、たあいのないおしゃべりを朝までしていたい。
お母さんに見つからないようにして、ふたりで夜更かしした子供の時のように。
もう、お兄ちゃんが困るような事は聞かないから。わがままも言わないから。
唯の今一番の願い。今の…思い。一番…大切な事。
演技でなく、本当にさみしそうな表情。それは女の子だけの強い武器。
気がつかないうちに使っていた。自分の今の願い…かなえてほしいから。
「…」
「お兄ちゃん…」
りゅうのすけはパソコンのバックアップが終わった事を確認すると、
いすから立ち上がり、手を伸ばしてパソコンの電源をおとした。
しかし、唯には背中を向けたまま。
頭を四回ほどぽりぽりとかくと、りゅうのすけはようやく振り返り、ひとつのアイディアを提案してみる。
なにげに、りゅうのすけも眠たくなってきていた。
「…わかったわかった。じゃあ唯が寝るまでここにいてやるよ。それでどうだ?」
「…それじゃあ…お兄ちゃんに悪いよ」
唯にはそれでもよかったが、りゅうのすけに本当に悪い気がした。
ここまでわがままにつきあってもらい、さんざん困らせてしまったのだから。
それに…まだいっしょに寝たいという気持ちだってある。
だけど、りゅうのすけは唯の言葉を待たなかった。
「それ以外の案は却下だぞ」
「でもでも…」
「明日海に行くんだろ。さっさと寝ないと、溺れちゃうぞ」
りゅうのすけの強い言葉。機嫌を損ねて海行きまで却下されては困るから。
唯はベッドの上でちょこんと座ったまま、一応の願いを述べる。
「唯の枕元にいてくれる?」
「枕元って…まぁ、それでもいいぞ」
「唯が寝るまでだよ」
「ああ、ちゃんといるから」
「それなら…いいけど…」
「ほら、さっさと横になれよ」
「うん…ありがとう、お兄ちゃん」
唯は自分のまくらとりゅうのすけのまくらをまた並べる。そして、毛布をさっとかぶって横になった。
うれしそうに、りゅうのすけがベッドの横に来るのを待っている。
りゅうのすけは、やれやれと、唯の表情を苦笑いしながら見る。
もう、怖いとかさみしいとか、そんな事はなさそうだ。
…ま、これでいいんだよな。
唯の希望どおり、枕元に向かうりゅうのすけ。
心のどこかにあった期待はなんだったのか。ふと自分自身に尋ねてみたくなる。
…唯とは…こういう関係でいいんだよな。
ベッドの横にじかに腰をおろすと、りゅうのすけの視線は唯の視線と重なりあった。
無邪気に笑う唯。
だから、りゅうのすけは恥ずかしくなる。
…俺…何を期待していたんだか。
「お兄ちゃん、顔が赤いよ」
「ばか、さっさと寝ちゃえ」
りゅうのすけは、唯のおでこを軽くつっついた。いじわるぅ、と唯は子供っぽく怒る。
だけど、目は笑いっぱなし。
ふと、まだ明かりを消していない事にりゅうのすけは気がついた。
だから、また立ち上がる。明かりのスイッチを消しにいく。
「ほら、消すぞ」
「うん」
ライトが消えたとたん、りゅうのすけは明るく柔らかい光が窓から入り込んでいる事に気がついた。
月の光だ。
ベッドの端を、唯の顔を少しだけかすめている。
…こうしてると…女の子、なんだよな。
唯は、月の光をよけるように顔の位置をずらす。うぅん、と小さく鳴きながら。
そのしぐさに、りゅうのすけはふと唯という女の子を感じていた。
ふたりきりをようやく認められた気がした。ごく、自然に。昔のように、唯と…いっしょ。
…ま、お月さまの下じゃ、怪しい事はできないもんなぁ。
りゅうのすけは、また枕元に座り唯を見た。静かにほほ笑む唯。
だから、りゅうのすけもほほ笑んだ。月はまだ、ふたりを見つめていそうだった。

 「ねぇ、お兄ちゃん。手、つないでもいい?」
「ばかいうなよ。俺、ベッドの下なんだぜ。疲れちゃうだろ」
「じゃあ、唯の横においでよ。そうしたら…」
「無駄口たたいてると、リビングにいっちゃうぞ」
「お兄ちゃん、待って。あのね…ちょっとだけ、おしゃべりしようよ」
「寝るために…俺のベッドにいるんだろ?」
「ちょっとつきあってくれたら…ちゃんと寝るから、ね」
「…ちょっとだけだぞ」
「うん!」
暗くはない。月光が、りゅうのすけの部屋を包んでくれているから。
その心地好い光の線の上、りゅうのすけは唯に横顔を見つめられながら、
自分たちの声の小ささに思わず笑いそうになる。
別に小声である必要はないのに、ふたりの会話はひそひそ話。
お月さまに聞かれないように。それとも、笑われないように?
「…お兄ちゃんのまくら、お兄ちゃんのにおいがする」
「…趣味悪いぞ」
「だって…懐かしいんだもん。昔はよくいっしょに寝てたのにね」
「離れるのが自然なんだよ。みんな…いつかはばらばらになっちゃうんだ」
「そんなの…唯はいや」
「しょうがないだろ? いつまでもこのままでいられるわけ…ないんだから」
「…」
唯は寝返りをうつと、天井を見つめる。見知らぬ、天井。
でも、昔は何度も見ていたのに。
何かを考え、思い出して、言葉にする。
「…唯は…このままでいたいな。今のまま…ずうっと続けばいいのに」
「今のまま?」
「うん。この家にね、お母さんがいて、お兄ちゃんがいて…ずうっと高校生なの」
「ふーん」
「お兄ちゃんは…どう思ってるの?」
「自然にしたがうだけだよ。なるようにしかならないからな」
りゅうのすけも、唯と同じように天井を見上げる。もう十年もの間、お見合いしてきた天井。
いつもと違うかおりがそばにいるからか、天井すら今日は新鮮に見える。そして、懐かしく感じる。
すべてが昔のまま。自然でいられれば…こんなふうに感じられるのだ。
「だったら…唯はこのままでいられるように…がんばろうっと」
「どうやってだよ」
「…毎日お祈りするの。どうか…このままでありますように、って」
「ま、がんばれよ」
「それとね、もうひとつお祈りするの」
「ついでにか?」
「うん。だけど…とっても大切なお願いなんだよ」
近くて遠い人を見て。優しい視線をおくる。
月の光はメッセージ。祈りと光と。もっともっと…続きを聞かせてほしい。
ふたりきりの、おしゃべりの先。見えない扉の向こう側。
「どんなんだよ」
「…お兄ちゃんとね…」
「俺と?」
「…」
「なんだよ」
「…やっぱりないしょ。ありがとう、お兄ちゃん。つきあってくれて」
「ちょっ…」
「じゃあ、おやすみなさい。お兄ちゃん」
「おいっ…」
唯はりゅうのすけに背中を向けると、肩をふるわせた。
くすくす、なんて聞こえると、りゅうのすけもさすがに気になる。
だけど、すぐにまた寝返り。りゅうのすけを見つめて。
やさしい笑顔。透明で、心地好くて、昔よくみた気がする表情。
唯は小さく口をひらく。
「今度、教えてあげるね。願いが…かなったら」
「…」
月光の明暗が、唯の表情をかわいくうつしだす。最後は笑顔でしめるのも悪くはない。
「ああ、忘れるなよ。それじゃ、おやすみ、唯」
「おやすみなさい」
唯は目を閉じる。そしてすぐに小さな寝息をたてはじめた。興奮しすぎて疲れたのだろう。
…唯に「おやすみ」なんて…久しぶりだな。
立ち上がり、おもいっきり身体を伸ばす。自分もまた、疲れているのがよくわかった。
…いい加減、俺も寝るか。
唯を起こさないように、忍び足で部屋を出ようとする。
だけどその前に、もう一度唯の顔をのぞき込む。どうやら本当に寝たみたいだ。
りゅうのすけの気配に気がついた様子はないから。
唯の寝顔、しばし眺める。
結局つけたままのリボンがなんともかわいらしい。
そして、表情は無邪気で無垢で…離れるのが、少し惜しい気がした。
…唯の寝顔、か。こうやって見る事って…もうないんだろうなぁ。
それは未練なのか希望なのか、今のりゅうのすけにはわからなかったし、どうでもよかった。
答えを急ぐ必要はない。きっと、いつかわかるから。唯が教えてくれるから。
さっきの約束を忘れていなければ、だが。
月明かりの部屋を静かに出ると、りゅうのすけは今日の寝室、リビングに向かって階段をおりていく。
まだ夜明けまで時間はあるはず。とりあえず、ほんの少しは眠れそうだ。
朝起きたら、海。唯との…約束。

 一度寝返りをうち、もう一度ごろりんとする。
「う、ん」
朝日が唯を直撃している。自然のめざましは容赦がない。
足の方から照らしていき、そろそろ顔に当たる頃、唯はいいかげんに目を覚ました。
「ふぁわぁぁ」
大きくあくび。ただ、ぐうは入りそうにはない。
光の元の方を見ると、なるほど、カーテンが閉まっていない。
でも、唯には好都合。早くから準備したかったから。
もう一度、ベッドの上で体を伸ばす。今日もどうやら元気いっぱい、さわやかな朝。
…夢じゃ…なかったんだ…
部屋を見回して、少したってから頭が働きだした。
そこは、唯の見慣れた部屋ではなかった。考えてみれば、ベッドの感触だって違っている。
…お兄ちゃんのベッドで…寝ちゃったんだ。
恥ずかしいようなうれしいような感情が、急に唯を包み込む。
まくらに突っ伏して、頭や頬を冷やそうとするが…
…お兄ちゃんのまくらだ…
やっぱり…懐かしいにおいだもん。お兄ちゃんの…においだもん。夢じゃなかったんだよね。
お兄ちゃんとおしゃべりしたのも、お兄ちゃんといっしょにいたのも、お兄ちゃんに抱きしめられたのも…
夢じゃなかったんだよね。
真っ赤になって思い出した。飛びついて、抱きついて、抱きしめられた事。
もう絶対に忘れられない出来事は、まだ感覚が残っている。
唯とはぜんぜん違う、厚い胸板や、たくましい背中。
撫でてもらった頭も、なんだか気持ちよくて…またしてくれるかな?
…また…お兄ちゃんに抱きしめてほしいな…
いつの間にか抱きしめていたまくらは、りゅうのすけのまくら。
昨日と手触りは違っても、あのにおいは変わらない。
「じゃあ!」
唯は毛布を蹴り上げて、りゅうのすけの部屋の扉をどん、と激しく開けた。
そして、ぱたぱたとリビングに急ぐ。
突然思い出した。それじゃあ、お兄ちゃんはリビングで寝ちゃってるんだ。
風邪でもひいちゃったら…どうしよう。今日の約束…中止になったら…
リビングのソファーには、タオルケットを抱え込んで丸まっているりゅうのすけがいた。
まだ寝ているらしく、小さないびきをかいて気持ち良さそうにしている。
どうも風邪をひいているようには見えない。もしかしたら、寝不足かもしれないけど…海には行けるはず。
…大丈夫…みたい。
とりあえず一息。唯はへなへなとソファーの手前の床に座り込む。
そして、りゅうのすけの寝顔をじっと見つめた。昨日の夜とは逆の視点。
そして昨日の朝と同じ、無邪気でかわいい寝顔。
昨晩のやさしさは…やっぱりお兄ちゃんだから。本当の…姿だよね。
…まだ…時間あるから…起こさなくてもいいよね。
時計を見る。夏の朝日に起こされたのだから、まだまだ早い時刻。
午前中に出られれば、十分間に合うから。海と…思い出と。ふたりの時、今日はたくさん。
だから、またりゅうのすけの寝顔を眺めて。ふと、いたずらごころが芽生えてきた。
でもそれは、昨日のお礼もあるから。
唯は音もなく立ち上がると、りゅうのすけの耳元に唇を近づけた。
そして、最初にお礼をささやく。起こさない程度の小声ではあるけど。
「ありがとう、お兄ちゃん。唯のわがまま聞いてくれて…」
そして、唇がまた動く。だがそれは…何かをつぶやくためではない。
澄んだ瞳、りゅうのすけをただ見つめる。何も知らない純真な寝顔。
その頬に、唯は近づこうとする。しかし…ためらい。
りゅうのすけの体温を敏感に感じとったから。
迷いを見せる唯の唇。
だけど、どうしても贈りたかった。りゅうのすけへの…プレゼント。
…受け取ってくれるよね、唯からのプレゼント…
ためらうのはもうやめて。とっておきのプレゼント、あげるのに悩む必要はないのだ。
目を閉じて、りゅうのすけに近づいた。
寝る時も乱れなかったリボンが、りゅうのすけの顔に触れたのがわかった。
それほど敏感になっているのだ。
そして…まばたきのあいだだけ、唯とりゅうのすけは重なりあった。
頬に…キス。
触れたかどうかわからないくらいに、かわいらしいものだけど。りゅうのすけは感じたようだ。
頬を何度かぼりぼりとやっている。
そして、唯もはっきりと感じた。りゅうのすけの頬の熱っぽいやわらかさ。
一生忘れない、この感触。
いつか言う時がくるのかも知れない。
お兄ちゃんとキスしたの二度目なんだよ、なんて…祈りが通じた時に。
…おにい…ちゃん…
またちょこんと床に座り込む。
興奮した小さな胸は、当分の間激しく鳴り続けるのだろう。
紅潮した顔。熱い視線。はにかむような表情で、唯はまたつぶやいた。
それはちょっとした願いを込めて。意識してほしいから。
そして…また何か起きる事を期待して。ふたりの距離をなくしてしまうような、そんな出来事。
夏の終わり、最後の海。最高のチャンス。
小さく寝返りをうつりゅうのすけには、たぶん聞こえていないだろうけど。
「今日もふたりきりだよ、お兄ちゃん!」
窓からのぞく色はあお。海に行くにはもってこいの天気だった。

()


(1996. 9/29 ホクトフィル)

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