小説 |
2002. 1/ 8 |
夏の終わりに-ふたりきり・番外編-〜Side Stories From ClassMate2 #2〜 目覚めれば、そこは海。いつの間にか出ていた月。青白い光はふたりの影を包み込む。 ムード、絶好調。見つめあい、感じあい、想いあう。目の前のひと、優しさをたたえて。 何も言わなくても、今はふたりわかりあえた。だが、目と目の会話さえ余計に思えた。 だから…目を閉じて、少し背伸びして。両肩にある大きな手が、優しく力強く引き寄せる。 …ん… それは…甘く、とろけるようなふれあい。潮で冷えた唇。お互い、ぬくもりを得る。 そして、唇の先で想いが伝わる。閉じた瞳から見えるひとの顔。いとおしい。 そのタイミングをわかっていたかのように、花火がひとつふたつと上がりだし、華を作る。 まるで映画のラストシーン。影を伸ばし、色をつけて。水面に反射して、華麗に輝く。 静かにふれあいをやめ、照れながら近くに距離をとる。うつむいて、また顔を上げる。 唇にあてた右手。まだ残る感覚は、鼓動をはやくさせたまま。 「お兄ちゃん…」 「唯…」 虹色にシルエットが染まる。ようやくひとつになれた事、花火たちに祝福されながら。 ふたり、押し黙ったまま見つめあう。次の言葉はもうわかってはいても…口にしてほしい。 目の前の男の子、それを悟ったから。意を決したように、生唾を飲む。 もう、ためらう理由は何もない。ふたりの間の壁は…もう取り壊されていた。 「俺、唯の事…好きだ」 「唯もね…お兄ちゃんの事、ずっと前から好きだったんだよ」 想う事。変わらない事。大切な事。初めて会った時から。今も、これからも。 瞳が潤む。ようやくかなった夢。願い。想い続けて、今結ばれて。幸せの涙。真珠のように光るから。 想う人の指、やさしく涙を拭ってくれた。ほほ笑んでくれる。 「ずっと…いっしょだよね」 「ああ」 「もう…離れないよ。絶対に離れないよ…お兄ちゃん」 そっとほほ笑み返し。見上げて、抱きついて。もう一度、想いの為に唇を重ねて。だが。 「…」 目を開ける。お兄ちゃんの唇のはずなのに…なにか違う気がした。なんだか…柔らかい。 「…カトリーヌ?」 抱きしめていたのは温泉ペンギンのぬいぐるみ。キスした相手も当然… …夢…だったの? 寝ぼけ眼が右に左に泳ぎだす。自分の部屋、自分のベッド。相手は…やっぱりカトリーヌ。 大きなため息。ふぅっ、と不満げにはきだす。表情もくもり気味。でも、ひとつ。 …正夢かもしれないよね。 くすくす笑う。夢の中のほほ笑みに戻れば、きっと今日もいい事あるはず。 だって荷物が置いてある。朝、ひそかに準備した小さなバッグの中には水遊びの道具たち。 展開ひとつで夢はかなう。そう信じている。昨日や今朝の出来事は夢ではないのだ。 …もうそろそろ起こしてもいいよね。 思わぬ居眠りだったけど、まだ早朝と言える時間。 ソファーで寝ている人を起こして、準備させて、夢の舞台へ。思い出の場所へ。 …おにい…ちゃん。 心落ち着くまで、カトリーヌをぎゅっと抱きしめる。 そして、家族の横に並べて、唯はベッドの上に大の字になる。目を閉じて、風を感じて。 鼻の下、ほんの少しだけ磯のにおいがする。思い過ごしでも…心はもう海。 今日はデート。あこがれの人と…ふたりきり。 「ただいま」 なんとなく疲れた声。玄関に腰をおろして美佐子が靴をぬぐ。ふぅ、とつく息も元気がない。 久しぶりの朝帰り。もっとも理由はお葬式。美佐子は少しけだるい体に自嘲する。 変なところで歳を感じてしまった。考えてみれば、唯やりゅうのすけはもう独り立ちの時期。 ゆっくりと、せわしない。自分もまた、そんな時の中にいるのだ。 …まだ唯も起きてないのかしら。 りゅうのすけ君は起きるの遅いから、起きているとすれば唯だけよね。 頂き物の中から塩を取り出し、体を清めながら聞き耳を立てる。どうにも人のいる気配はない。 美佐子は、黒い服についた結晶を軽くはらい落としてリビングに入る。だが。 「あら…りゅうのすけ君!」 驚いて、思わず大きな声を出してしまった。 リビングに入るや否や、ソファーでタオルケットをかぶって、うずくまっている男の子… りゅうのすけを見つけてしまったのだ。 「…寝てるの、ね」 小さな寝息。うっすらと開いた唇から、よだれをたらしている。まるで子供のようだ。 …変わらないのね、りゅうのすけ君も。 美佐子はくすくすと笑いをこらえるのに必死になる。 微笑ましくて、かわいらしくて、いつものりゅうのすけとのギャップがおかしかったのだ。 …でも…なんでソファーで寝てるのかしら。 窮屈に丸まっているりゅうのすけを疑問に思う。唯と何かあったのかも… 「りゅうのすけ君。こんな所で寝ているとかぜをひくわよ」 美佐子は余計なおせっかいかも、と思いながらりゅうのすけを起こす事にした。 昨日の唯と同じように体をゆする。うーん、とりゅうのすけは小さく鳴く。これならすぐに起きそうだ。 いつものりゅうのすけだと、こうはいかないのだけれども。 「りゅうのすけ君」 「…うーん」 まだ眠たいと言うゼスチャー、寝返りをうったのはよかったのだが、寝ぼけた頭のりゅうのすけ。 ここがソファーであるという事を理解しているわけもない。 「うわっ!」 「きゃっ」 激しい音と共に、りゅうのすけは素直に重力に従った。 ソファーから転げ落ちて、したたかに腰をうってしまったのだ。 ソファーだけに高さはないが、受け身をとれなかっただけに痛そうである。 心配そうに美佐子は手を差し伸べた。 「大丈夫? りゅうのすけ君」 「…たぶん」 腰の辺りをさすりながら、りゅうのすけは立ち上がる。美佐子の助けはいらないようだ。 「ごめんなさい。余計な事しちゃったみたいで」 「そんな事ないけど…どのみち唯に起こされてただろうし」 美佐子の弱った顔に、りゅうのすけは苦笑い。 とりあえず、おもいっきり背伸びをする。体のあちらこちらが気持ち良く感じる。そして、深呼吸。 「にしても…こんな時間に帰ってくるなんて、どうしたんですか?」 美佐子の頭越しに時計を見る。朝帰り、という表現がぴったりすぎるのだ。 始発にでも乗ってきたのだろうか。そうでなければ、こんな時間には帰ってこれないだろう。 「だってお店があるじゃない。二日間も続けて休むわけにはいかないわ」 いつものやわらかい表情を見せる美佐子。 お店は三が日と日曜日以外は休まない、と美佐子自身が決めていた事だった。 住宅街の喫茶店。そうでもしないと採算があわないのだ。 「お店って…美佐子さん、大丈夫なの?」 と、りゅうのすけが心配するのも無理はない。やはりどこか疲れている。 りゅうのすけと同じように寝不足なのは確実である。 「心配してくれてありがとう。でも大丈夫だから」 「…無理しないほうが…」 「本当に大丈夫。それより…どうしてソファーで寝てたのかしら?」 「えっ?」 美佐子は食器棚からコップをふたつ取り出す。 そして冷蔵庫から冷えきった麦茶を取り出して、それらに注いだ。 どうも、とりゅうのすけは手に取ると、何かをごまかすように一気に飲み干す。 「別に、理由なんて…」 「もしかしたら…唯が何かしたのかなって思ったから」 「何もなかったけど…」 「そう。それならいいの」 「…」 うつむいてしまうのは、りゅうのすけが正直だからなのだろう。 美佐子はそれ以上は突っ込もうとはしなかった。 ただ、りゅうのすけをまじまじと見つめたまま、くすりと笑う。 「…ありがとう、りゅうのすけ君」 「へ?」 「唯がけっこう迷惑かけちゃったみたいね」 「…別に迷惑だなんて」 言葉につまるりゅうのすけを微笑ましく眺める。娘のした事だけに責任を感じるのだ。 だが、目の前の男の子は何も言わないで自分の中にとどめておいてくれた。 やはり昔と変わっていないのだろう。それとも…言えないような事があったのかしら。 美佐子はそんな事を思いながら、娘のやらかした事をもう少し聞き出そうとした途端。 だんだんだんっ! 突然階段が激しいリズムを叩きだした。 母親の帰宅に気がついた唯が、自分の部屋から飛び出してきたのだ。 そして勢いそのままでリビングに駆け込んできた。 「お母さん、お帰りなさいっ!」 「ただいま」 「あっ…お兄ちゃん、おはよう。起きて…たんだ」 急に赤くなる唯を、美佐子はなんとなく嬉しそうに見つめた。 もっとも唯の見つめる先は美佐子ではないのだが。 「あ、当たり前だ。俺は寝起きはいいんだぞ」 と、見つめられたほうも紅葉色に染まりきる。 どこかたどたどしくて、どもるふたりに美佐子はなるほどね、と心の中でつぶやいた。 「…」 「…」 「あらあら、どうしたの? ふたりで見つめあっちゃうなんて」 「えっ?」 「み、見つめあってなんて、いないけど…」 くすくす、と美佐子は何かいいたげな表情をする。 母親の直感は、ふたりの距離をわかっていたから。ふたりの心を思っていたから。 だから美佐子もまた、嬉しい。 「お、お兄ちゃん。起きたなら、さっそく行こうよ」 「…シャワー浴びてからでもいいだろ。朝飯だって食ってないんだぞ」 「そうだよね…じゃあ、その間に準備しておくね」 りゅうのすけは少し慌てたように、リビングを出ていった。 そして、背中を見送る唯の姿が美佐子には心地好かった。 ふたりが急に近づいた理由はわからないけど… ふたり仲良くしているのを見るのは、美佐子にとって最高の幸せだった。 「それでソファーで寝ていたのね」 「うん。お兄ちゃんには悪いかなって思ったんだけど」 唯の話す昨日の出来事を、美佐子はにこにこしながら聞いていた。 年ごろの娘と男の子の接近遭遇の話なのだから、本来なら冷や冷やしそうなものなのだが… 美佐子はあれやこれやと、面白そうに聞きだしていた。 唯もまた、嬉しそうに照れるものだから、美佐子の興味は尽きないのだ。 もっとも唯は、肝心の部分を抜いて話してはいるのだが。 「でもまぁ…りゅうのすけ君も意外に奥手なのねぇ」 「えっ?」 「ううん、別に何でもないけど」 言葉を終わらすと同時に朝食の準備も終わった。 ぽんきっきーずには間に合ったから、唯はほっと胸をなで下ろす。 今日はらんらんの絵描き歌の日。ビデオだって完璧だ。 キッチンを軽く片づけて、りゅうのすけが来るのを待つ。 シャワーだけなら時間はそれほどかからないだろう。 「でも久しぶりでしょう。ふたりで出かけるなんて」 「うん。だからね、すごく楽しみなんだ」 娘が見るのは近い未来か遠い過去か。母親のまなざしは、静かに同じものを見る。 「お兄ちゃんが…唯とデートしてくれるなんて思わなかったんだもん」 「デート、ねぇ」 美佐子はキッチンのイスに座り、どこかからかうような口調で言った。 そんな、少しやきもちの混ざった言葉に唯は敏感に反応した。口をとがらせて反論する。 「デートだよぉ。だってふたりきりで海に行くんだもん」 むきになるのは、心の中に不安があるから。 デート、かどうか。唯にだって、それくらいはわかっている。 りゅうのすけがそんなふうには思わないだろう、という事。 そんなふうに戸惑う唯を、これ以上いじめるつもりは美佐子にはなかった。 だからほほ笑んで、一言。そして…これもまた、本音。 「まぁ、楽しんでらっしゃいな」 「うん!」 うなづき、リボンが揺れる。すがすがしい笑顔。 唯の素直な感情を見たのは久しぶりだった。けれども次の一言は、美佐子にはいかんとも不満だった。 「でね、お母さん。その…お小遣いを前借りさせて、ね」 「ふわぁぁ」 お腹一杯になれば、どうしたって眠気がおそってくるもの。昨日のベッドは今日のソファー。 りゅうのすけは身体を横たえて、隙さえあれば寝てしまいそうな雰囲気になってくる。 「お兄ちゃん。寝ちゃだめだよ」 唯は朝食の後片づけ。ときどきりゅうのすけの様子をうかがっては、寝ないように注意していた。 美佐子はお店の掃除を始めていたから、いまはリビング、ふたりきり。 「ばか言うなよ。俺はとにかく眠たいの」 「寝たらさすけすぺしゃるだからね」 「…なんだよ、それ」 「海に行ったらやってあげるね。そうだ! でるふぃんくらっちもおまけしてあげる」 忍び笑い。唯の頭はもう海の中。朝から考えるのはそんな事ばっかりだった。 そして、そんな楽しげな表情が、りゅうのすけにはなんとなく嬉しかった。 もっとも、唯の言っている単語は理解できないのだが。 「…ところで準備は終わったのかよ」 「うん。あとはお兄ちゃんの荷物を入れるだけ」 「俺は何もいらないぞ」 「水着はどうするの?」 「唯のを借りる」 「お兄ちゃんには小さすぎるから着れないよ」 …冗談の通じんやつだ。 真顔で困られたらどうしようもない。 唯はそんなりゅうのすけに気がつかないのか、なにやらぶつぶつとつぶやく。 口元に手をあてて、考えているポーズも真剣そのもの。 「あのビキニじゃきついかな? ワンピースは似合わないかもしれないし…」 「…そ、そうか。合うのがないか。それなら現地調達するから安心しろ」 「うん。それがいいよ」 そう言って、唯はエプロンを外しながらソファーに近寄る。 そして、りゅうのすけの前で止まると、もじもじと恥ずかしそうなしぐさをした。 だからりゅうのすけは思わず引き気味になる。昨日の今日。何をしだすかわからない。 「唯、すごく楽しみなんだ。お兄ちゃんと海に行くの」 「そ、そうか」 「だから…お兄ちゃんには、特別サービスしてあげるね」 「さすけなんとかってやつか?」 「ひみつだよっ!」 …新しい水着なんだよ。お兄ちゃんに一番最初に見せてあげるね。 唯は急に恥ずかしくなったのか、顔を真っ赤に染めた。 それでいて、含み笑いをするものだから、りゅうのすけからは不気味にうつる。 いったい唯の特別サービスって…なに? 「…そ、それは楽しみだな」 少し不安げに、冷や汗ひとつ。だるそうに身体を起こすと、唯の横に立った。 「さてと、俺も着替えてくるか」 「ねぇ、お兄ちゃん。ひとつ…聞いていい?」 「なんだよ」 「唯と海に行くの…どう思っているの?」 唯の質問に、りゅうのすけはどう答えていいのか考えてしまった。 表情をうかがえば、冗談や試そうとしているのではなく…本音を知りたそうな感じ。 甘えるような瞳は、まるで伝説の樹の下で告白を待つ女の子みたいだ。 「遊びに行くんだぞ。楽しみに決まってるだろう?」 そう言って、唯の頭をぽんと一回。手の平で、撫でるように、叩くように。 普段なら、絶対にやらないコミュニケーション。本音を口にした照れ隠し。 もぉ、と怒ったふりで頭を押さえる唯。けれども、表情は言葉とはぜんぜん違っていた。 「ベッドで横になっちゃだめだよ、お兄ちゃん」 「寝てたら起こしてくれよ」 そう言って、もう一度唯の頭をぽん、とする。 見上げたりゅうのすけは、いつもよりも笑顔に近いような気がしていた。 「おまたせ」 階段をてくてくとおりてリビングに入れば、落ちつきなく動き回る唯がいた。 おめかしして、心はシャッフル。飛びつかんばかりに近寄ってくる。 「あっ、お兄ちゃん。早く行こうよっ」 「…何をそんなにはしゃいでるんだよ」 「だって…ものすごく楽しみなんだもん!」 唯のそわそわした感じは、まるでどこかにお出かけする時の子供のようで。 りゅうのすけは苦笑いひとつして、相方の用意した小さなバッグに手をかけた。 「いいよ、唯が持つから」 「これぐらいは持ってやるよ」 今はそんなに重くないバッグも、帰りにはそれなりの重さになっているのかもしれない。 「あ、ありがとう。お兄ちゃん」 「別に大した事じゃないだろうに」 「だって…お兄ちゃんが唯に優しくしてくれるなんて」 「…誤解を招くような言い方するなよな」 ぶすっと外を向くりゅうのすけ。 だが、唯は嬉しそうにりゅうのすけの右腕に手をかける。 「行こ、お兄ちゃんっ」 「お、おいっ」 りゅうのすけの右腕をぎゅんとひっぱる。ニトロ一発、出ムチ二発。 唯は止まらないし止まれない。今の唯にはブレーキなど存在しないのだ。だが。 ぷるるるるる。ぷるるるるる。ぷるるるるる… 電子ぎった音を奏でる電話機に、りゅうのすけの動きが止まってしまう。 しかし、唯は気にしていないのか、両手に力を込めて強引に玄関に連れ出そうとする。 「行こうよぉ」 「ちょっと待てよ」 「お母さんがとってくれるよ」 「美佐子さんは準備で忙しいだろ?」 手を伸ばせば届く距離に電話があるのだ。 唯を軽くにらみつけ、りゅうのすけは受話器を手に取った。 さすがの唯もしゅんとしてしまう。 「もしもし、なるさ…」 「あ、俺だけど…まだ家にいたか。助かったぁ」 「水野さんじゃないっすか。なにか?」 あせったような、忙しいような声。それだけで用件はわかってしまった。 相手はバイト先の水野先輩である。 少し強ばる表情に、隣で様子をうかがう唯は不安を隠せない。 「わるいっ! 昼だけでいいから店に来てくれ。人がいないんだよ」 「いつもいないじゃないっすか」 「今日は特別だ。俺と大知と牧原しかいないんだよ」 「そりゃ…」 「おまけにみんな電話つながらないしさ…りゅうのすけしかいなんだよ」 「…」 お昼時はランチをしている居酒屋である。それでけっこう客が入るのだ。三人体勢では… 「お前が今日、休みなのはわかっているけど…特別な用事、あるのか?」 ちらりと唯を見る。不安と強気の入り交じった顔で、りゅうのすけを待つ。 …ものすごく楽しみなんだもん、か。 心の中のつぶやきは、ため息に似ていて。視線を落として考える。結論はでていたが… 「いや…別に何も…」 「そうか、それなら今すぐ頼むわ。悪いけど…よろしくな」 「はい…」 りゅうのすけはゆっくりと受話器を置く。 唯にこの事を伝えようとするが…言葉が思いつかない。視線を…あわせられない。 「あの…な」 「なーにっ!」 「その…海に行くの…」 「いやっ!」 りゅうのすけの言葉を途中で遮る。 それは、驚くほど大きな声だった。構えていても思わずびくっとする。 唯には電話の途中でわかっていたのだ。りゅうのすけの会話の端で…自分がふられた事。 強い意志。りゅうのすけをにらみつける。目尻の涙がふたりの間に舞う。 思いもよらない激しい抵抗に戸惑いながら、りゅうのすけは何とか説得しようとする。 「…バイト先、人いないんだってさ。俺が行かないと大変なんだよ。だから…」 「そんなの関係ないもんっ」 「代わりに明日行こうぜ」 「今日じゃなくちゃ、いやっ!」 「…明日なら一日中つきあってやるから。どこでも連れていってやるって」 「…今日じゃなくちゃ…やだ」 「なんでだよ。明日だってかわらないだろ? 海は逃げないぞ」 「…」 うつむいた唯。どんな顔をしているのかわからないが、かみしめた唇が痛々しかった。 床で飛び散る大きな粒も…唯のくやしさの表れ。それは、りゅうのすけにも苦しかった。 そして…ぼそぼそっとつぶやいた唯。心の奥で響きわたる、つらい重低音で。 「…他の女の子だったら、海に行っていたよね」 「はぁ?」 「…唯だから、約束やぶるんだよね」 「…」 「お兄ちゃんにとって…唯との約束なんて…どうでもいい事なんだよね」 「…」 「唯の事なんて…どうだっていいんだもんね」 黙って唯の話を聞いてはいたが、りゅうのすけにも限界はある。 子供のだだにつきあっている暇はないのだ。 ぷちんと切れた、心のなにか。声も自然と大きくなった。 「いい加減にしろよっ!」 だが、うつむいたまま唯も語気を荒くした。もう、顔を上げられる状態ではない。 「お兄ちゃんが先に約束破ったんだよ!」 「だから明日つきあってやるって言ってるだろうが」 「…唯の事、何もわかってないからっ」 唯は顔を上げた。涙目が寂しく、唇を震わせて。 だが、りゅうのすけに見せたのは一瞬。 くるりと背を向けると、リビングを飛び出して行った。 一言、残して。 「お兄ちゃんのばかっ!」 「勝手にしろっ」 唯の背中に言い放つと、りゅうのすけは床を見た。 思い出を入れるためのバッグが、ただぽつんと置いてあった。 大きくため息をつくと、もう一度、唯の出ていった扉を見る。 「…勝手に、しろ…」 唯の涙を思い出す。りゅうのすけは、ほんの少しだけせつなさを覚えていた。 「何かあったの?」 美佐子がリビングに入ってきた。もちろんふたりの大声を聞いたからである。 だが、いるのは出かけようとしていたりゅうのすけだけ。 ぱっとあわさった視線の先はさみしげで。 「…美佐子さん」 「どうしたの? あんなに大きな声出して」 「別に…」 りゅうのすけの歯切れも悪い。美佐子と顔をあわそうともしない。 ただ、足元には唯のバッグがひとつ。わかってはいるけど、とりあえず確認。 「…けんかしたの?」 「…」 「珍しいわね。ふたりがけんかをするなんて」 りゅうのすけは上目つかいでちらりと見る。美佐子の表情は、どことなくうれしそう。 本当は…責めてほしかった。唯を、娘を泣かした事を。だが。 「それだけ距離が近づいたって事かしら」 「…美佐子さん?」 顔を上げたりゅうのすけに、美佐子はまだほほ笑んでいる。まだ…優しいままで。 「埋め合わせはしてあげるの?」 「唯さえよければ…明日にでも…」 「そう」 埋め合わせは本当にするつもりだった。もっとも、唯は許してくれないかもしれないが。 それでも…りゅうのすけなりに謝らないと気が済まなかった。 「アルバイトでしょう? いってらっしゃいな。唯の事は心配しなくて大丈夫よ」 りゅうのすけが先程から時計を気にしているのはわかっていた。 だから、美佐子の方から開放してあげる。 責めたところで仕方ない。美佐子には、直接関与はできないのだから。 「…すみません」 何に謝ったのか、りゅうのすけにもわからなかった。 つかまらない自分の感情が、そのまま面に表れる。 ただ…本当に謝る相手が違うという事くらい、わかっていたけど。 りゅうのすけがリビングから出ていくと、美佐子も玄関まで見送りに出る。 靴をはき終え、扉を開けるまで…ふたり、黙ったままで。 口を開いたのは、体半分外に出してからだ。 「夕方には帰ってきます」 「わかったわ」 「それじゃあ…お願いします」 「はい、いってらっしゃい」 美佐子のいつもと変わらぬ笑みと声。りゅうのすけにはたまらなく痛かった。 ただ、これから仕事だと思うと少しは楽だった。唯の事を考える余裕はなさそうだから。 小さな天窓からのびる光。強い午後の日差し、階段をのぼりながら感じる。 お店もとりあえずお昼休み。 本来ならこういう事はしないのだけど、ふたりの間のエスコート役も楽しそうだと思ったから。 そして…母親、であるから。 …なによりも仕事、ね。りゅうのすけ君も。 苦笑いして、りゅうのすけの父親の事を思い出す。 いまどこぞの外国にいる考古学者。最後に来た連絡は、一ヶ月前のエアメール。 それ以来、音沙汰はなかったが、いつもの事だけに心配はしていない。 …血は争えないのね。 りゅうのすけも、その父親も。そしてまた、唯も、自分も…そうなのだろう。 待つ事、待たせる事、待たされる事。慣れすぎているのだ。 唯の部屋の前に程なく着く。 ドアノブに手をかけて、さっそく開けようとしたが…いきなりはどうかと考えた。 まぁ、どのみち部屋には入るつもりなのだが。 「唯、起きてる?」 「…」 ノックしながら気配をうかがう。 唯がいるのは確実であっても、泣き疲れて寝ているかもしれなかった。 子供の頃から、いつもそうであったから。くせ、みたいなものだろう。 「入るわよ」 「…だめ」 唯の声を気にせずに、美佐子はノブを回す。唯もりゅうのすけも部屋に鍵はかけないのだ。 素直に開いたドアの先。案の定、ベッドの上に唯はいた。 デートのためにしたおしゃれも、うつ伏せでぐちゃぐちゃ。 うずめていたまくらから顔を上げ、怖い顔をする。 まるでぞんびーぞーさんのように、もっそりと。 「唯…」 「出ていってっ」 真っ赤な目と興奮気味の言葉が、美佐子には、やっぱり、 だった。入り口から一歩進み、部屋の中に入る。 唯は敏感に反応した。身体を起こし、頬をぷくーと膨らませて、まくらとひざを強く抱きしめる。 口元をまくらにかくして…涙目だけが美佐子に見える。 「唯…少し話をしてもいいかしら」 「いやっ!」 おとなしく、口でしか反抗してこない。 決して、まくらやカトリーヌを投げてこないあたりは、美佐子の教育の賜物なのだろう。 そんな娘の成長と抵抗を、美佐子はおかしく思いながら口を開いた。 「りゅうのすけ君だって、仕方なしにアルバイトに行ったのよ。人が足りないからって。 わかってあげないと…りゅうのすけ君がかわいそうよ」 「うそだもん。お兄ちゃんはね、唯といっしょにいたくないから約束やぶったんだもん」 うめくような声。おろした髪がおどおどしく揺れる。うらめしい。ただそれだけ。 「でもね。昨日は唯といっしょにいるために、アルバイトの約束をやぶったのよ」 「だけど、今日は…今日のデートは唯の方が先だったんだよ」 「アルバイトの約束は、もっと前からでしょ?」 「今日は休みなんだよ。だから…」 「昨日の分の埋め合わせみたいなものじゃないの」 「…」 しばしの静寂。顔を上げた唯。瞳がいたたまれないほどで。自嘲気味の笑顔がつらい。 「…お兄ちゃん…唯の事、嫌いなんだよ。だから…」 そんな言葉が唯から出てくるとは思わなかった。 距離はおいていたって…嫌いとは違うのだ。灯台下暗し。 美佐子は少しあきれた表情を見せる。 「…嫌いな女の子のためにアルバイトを休むかしら。海に行く約束なんてすると思う?」 「唯の事、妹としてしか見てくれてないもん」 「…だったら、わざわざソファーで寝ると思う? 妹、だとしたら」 「…」 「あなたの事、しっかりと見てくれているじゃないの」 唯は黙ってしまった。 そう。確かに言っていたのだ。女の子として見てくれていると。 だけど…ふられた。魅力がないから? それとも… 唯の戸惑う様子が、美佐子にはよくわかる。けれど。 「それにね、埋め合わせするって言ってくれたでしょ。また誘ってくれてるのよ」 「駄目なの…今日じゃなくちゃ…駄目なの」 「どうして?」 「どうしても…今日じゃなくちゃ駄目だったのに…」 「…」 また泣き出しそうな唯のしぐさ。美佐子は戸惑う。 今日である理由。こだわる理由がよくわからない。 海は逃げるわけでもないし…埋め合わせしてくれるのに。 抱きしめたまくら。また、ぎゅっと力がはいった。唯の瞳、光だす。 「ねぇ、唯。どうして今日じゃないといけないの? 理由を教えてくれないかしら」 まくらに顔を埋めた唯。ぼそぼそとしか聞こえない声。けれど…肝心の部分はわかった。 …八十八海岸…約束… 美佐子は小さく息をはきだすと、母親の愛情で唯を見る。何となくでもぴんときた。 「お兄ちゃんと約束しちゃったんだ! 今度いっしょにね…」 そう言えば、ずっと前にそんな事を話していたっけ。 確か…ふたりが中学生の頃かしら。 あの時の唯は忘れられない。本当にうれしそうに自慢していたから。 照れの混じった、見た事のない笑顔だったから。 そして、その表情に…淡い恋の色を感じとったから。 でも…今は涙。小刻みに肩が震える。 まくらで顔を覆い、また泣き出した唯だけど、美佐子はその場で見るだけ。 「わかったわ。私の部屋に来なさいな。いいものをあげるから」 「…物じゃ…だまされないもん」 「何を言ってるのよ。だます、だなんて。時間はあるじゃないの。今日はまだ終わったわけじゃないでしょ?」 「…終わってるもん」 「りゅうのすけ君ね、夕方には帰ってくるって言っていたわ」 「…」 「泣き終えたら来るのよ。待ってるからね」 「…お母さん…」 「なに?」 「本当に…いいものじゃなかったら怒るからね」 「はいはい」 美佐子は苦笑する。唯の声に明るさが混じっていたのだ。 …現金なのは誰に似たのかしらね。 唯の部屋を静かに出ていく。自分の部屋に戻って…準備をしなくちゃ。 鼻歌まじりに階段をおりていく美佐子は、うれしそうにほほ笑んでいた。 地獄のような、という表現を使ったのは誰なのかは知らないが。 「なんで今日にかぎってあんなに混むんだよ…」 最後のふたり組が会計を終えて出ていく様子を見ながら、りゅうのすけは腰をおろす。 客席のイスは少し硬いのだが、いまはどうでもよかった。座ると同時に疲れが出てきた。 テーブルにうつ伏せになる。寝不足でこんなハードな事するもんじゃないな… そんな事を考えていると、人の足音が近づいてきた。さっきレジにいた娘である。 「とりあえずお昼は終わりですね、先輩」 「…俺はこれでおしまいだぞ」 「そんな事言わないで、最後までつきあいませんか?」 「牧原だって夕方までだろうが」 てへっ、と舌を出して、無邪気に笑う後輩。りゅうのすけにはそんな元気はなかった。 もっとも、そんな事をしたら気色悪いと突っ込まれてしまいそうだが。 「にしても…牧原は元気だなぁ」 「じゃあ、これを飲んで元気になってください」 うんざりした表情で見上げると、彼女は片手に持っていたコップを差し出してくれた。 受け取ったかと思うと、一瞬にして中身を飲み終えてしまった。そしてまた、うつ伏せ。 味もへったくれもない飲み方に、牧原は思わず笑みをこぼす。 牧原はりゅうのすけの対面のイスに座ると、コップの中の液体を一口、含んだ。 すかっとさわやか、が売りの飲み物。炭酸が喉に心地好い。 りゅうのすけは疲れ切った目で、その様子を眺めていた。 「水野さんと大知は?」 「奥で片づけしてます」 「そっか…」 起き上がろうとするりゅうのすけ。だが、牧原はりゅうのすけの右手を押さえた。 「休んでていいって、水野さんが言ってましたよ」 「…じゃあそうする」 またうつ伏せになって目を閉じる。このまま寝てしまいたいくらい気持ちがいい。 のんびりとその様子を見ていた牧原は、少しためらい気味に口を開いた。 「先輩」 「…なんだ?」 「もう今日はくたくたですか?」 「…まともに寝てないからなぁ」 「そうなんですか…じゃあ、お誘いしても無理ですよね」 残念そうにする牧原だが、りゅうのすけは大した感情ももたず、まだぼおっとしている。 「今日、八十八海岸で花火大会あるんですよ」 「花火…大会?」 はっと思い出したように牧原の顔をじっと見る。そらす事なく、笑顔でうなづく牧原。 「気がつきませんでした? 入り口にポスター貼ってあったじゃないですか」 「そっか、花火大会か…」 「毎年見に行っているんですよ。最後の昇り龍乱れ七変化がすごい綺麗なんですよね」 「…ふーん」 「もしよかったら、って思ったんですけどね」 一転してもじもじする牧原を視界には入れていたが、見えているのは違う女の子だった。 りゅうのすけは思い出していた。昔の事。今の事。そして…ふたつに共通の鍵。約束。 …そういう事か。 ここにはいない、大きなリボンの女の子。涙でこちらを見ている。痛々しい…涙の跡。 「やっぱり…だめですか?」 「…悪い。今、用事ができた」 「あー、もしかして彼女と行くつもりじゃ…」 「彼女なんていないぞ」 「でも、女の人ですよね」 「…そうむくれるな。今度デートしてやるから」 ぷくっと膨らむ頬を人差し指で軽く一突きして、りゅうのすけは立ち上がった。 いまそうしないといけない気がした。先輩に頼んで、少しでも早く帰らせてもらおう。 今日はまだ終わったわけではないのだ。それに…たぶん、家で待っている人…いるから。 「ただいまー」 玄関の扉をやっとこさ開け、両手からはみ出るほどの大きな荷物を降ろす。 重いものではないのだが、取り扱いが難しいだけに、けっこう神経を使ってしまった。 …慣れない事はするもんじゃないか。 玄関に腰掛け、猫のように丸まって一息つく。本当はほうけていたいのだが、そうもいかない。 信じられないくらいにゆっくりした動作で、靴ひもに手をかける。 結局、人がいないのに変わりはなく、夜の準備を手伝ってきたのだ。 おまけに、少々遠回りして買い物もしてきた。 家に着いたのは遊び疲れた子供が帰るころだった。 「あら、お帰りなさい。けっこう早かったのね」 リビングからひょこっと顔を出す美佐子は、りゅうのすけの荷物を見て少し驚いた。 「それ…唯に?」 「えっ、まぁ…」 靴ひもをほどきながら、背中の美佐子に声だけかえす。 けれど、その耳は真っ赤に染まっていた。手の動きもどこかぎこちない。 「唯は…部屋に?」 「たぶんいると思うけど…さっき一回下りてきて、それっきりだから」 美佐子の言い方だと、唯はとってもご機嫌ななめだわ、らしい。 りゅうのすけはようやく靴を脱ぎ終えると、荷物を手に取り立ち上がる。 「でも…りゅうのすけ君の誠意ならきっと通じると思うわ」 「誠意、ですか」 あまりに自分に似合わない言葉に、りゅうのすけは苦笑いする。 「美佐子さん。ひとつだけ聞いていいですか?」 「なにかしら」 「どうして俺の事、怒らなかったんですか」 「もうふたりとも大人ですもの。私の出る幕はないわ。それに、りゅうのすけ君なら…」 「美佐子さん?」 美佐子は言葉を止めてリビングに戻ろうとした。気になってりゅうのすけは背中に尋ねる。 「とりあえず…がんばってね、りゅうのすけ君」 そう言って振り返った美佐子に唯がだぶる。いたずら顔まで、ふたりはそっくりだった。 扉の前、ノックしようとした手が止まる。うーん、と小さくうなって苦しい表情をする。 こういう事にはそれなりに慣れてはいたが、唯が相手となると少し勝手が違うのだ。 とはいえ、黙って立っているのもばかばかしかった。 りゅうのすけは意を決したように口を動かす。いつものりゅうのすけより、おとなしくてやさしい声で。 「おい、唯」 「…」 「寝てるのか?」 「…」 とりあえず、声をかけてみた。だが、返事は予想どおりだった。 そして、その事にむっとするのもまた予定どおり。 ただ、悪い事をしたという意識はあったから。 「…約束やぶって悪かった。謝るよ」 「…」 「言い訳するつもりないけどさ、人が足りなかったんだよ。俺入れてたった四人だぞ。 バイトばっかりで…よくこなしたと思うよ」 「…」 …もしかして本当に寝てるのか? りゅうのすけは自分の部屋の扉によりかかるようにして、床に座り込む。 考えてみれば、泣き疲れて寝る、というのは唯の得意パターンだった。 リビングに下りてこなかったというのも、単純にそれだけが理由なのかも知れない。 だが…だからこそ、りゅうのすけは気楽にしゃべれた。唯の部屋の扉を見つめながら。 「なぁ…花火見に行かないか? 八十八海岸の花火大会」 「…」 「なるほど、かわいい浴衣着てる娘が多いわけだよ。帰り道、驚いちゃったぞ」 アルバイトからの帰り道、色とりどりの浴衣を身にまとった女の子たちを思い出す。 この時期の、こんなイベントでもなければきっと着ないだろう浴衣。 だからこそ、可憐にうつるのだろう。 もっとも、彼氏付きばっかりだったのはおもいっきりつまらなかったが。 「唯…」 「…」 「…唯ちゃんってば」 自分で言ってひきつる表情。なんとなく、いやらしいおやじみたいに響いてしまったのだ。 唯に聞かれていたら嫌だし、聞かれていなかったら…ばかみたいだ。 …もう少し続けてみるか。それでもだめなら… それこそいやらしいと思いつつ、扉に耳をあててみる。人の気配はしなかった。 だから、唯の部屋の扉の横にプレゼントを置く。 もし寝ていても、起きて廊下に出た時に気がつくはずだ。たぶん…喜んでくれるだろう。 意味くらいわかってくれるはずだ。 「わかった、わかった。じゃあ一人で行ってくる」 「…」 「浴衣っていいよなぁ。特にうなじとか色っぽくてさ。こういう日はガード緩いし…」 心が少し揺らぎ始める。自分の言葉に同意し始めたのだ。 ご機嫌をとってまで唯を誘うのなら、海岸でナンパしたほうが…よりどりみどり。 疲れている事も忘れて、一年に一度のチャンスを堪能するのも悪くはない。 唯が言っていたように、アルバイトばっかりだった夏休み。最後ぐらい楽しむか… そう思って腰を上げようとしたとたん、りゅうのすけの部屋の扉が開く。 つまり、背中のよりかかりがなくなってしまったのだ。当然、そのまま自分の部屋に転げてしまう。 「…なっ!」 ごろりんと世界が変わる。重力を無視した世界だ。視界に真っ先に飛び込んできたのは… 「お、お兄ちゃん」 逆さまに映る、驚いた唯の顔。ぱっと嬉しそうに見えたのは一瞬だけで…無表情。 「…なんで俺の部屋にいるんだよ」 「…」 開きかけた唇が閉じる。怒っているような泣いているような、そんな感じに変わる。 りゅうのすけは身体を戻し、床にあぐらをかいた。唯を見上げる角度だ。 ここでりゅうのすけは初めて気がついた。鮮やかな、朝顔がらの浴衣。手にうちわ。 幼く感じる赤と黄のリボンもおかしくはなく…むしろぴったりに見える。 浴衣がとてもよく似合っているのだ。唯のかわいらしさを、うまく引き立てていた。 「どうせ唯には似合わない、って言いたいんでしょ」 そんな感想をいだいているのに、唯はさっそく反抗的にやってきた。 もちろん、全身をなめらるように見られている事に気がついたからだろう。 だが、ここで仕掛けては元も故もない。りゅうのすけはまぶしそうに唯を見る。 「それ、美佐子さんのだろ?」 「…唯はどうせ子供だもん。お兄ちゃんの…」 「似合ってるぞ、その浴衣。それとも似合ってないって言ってほしいのか?」 「…う、ううん」 予想していなかったのか、唯はあきらかに戸惑いをみせる。頭をぷるぷると振る。 恥ずかしそうに、裾で口元のあたりを隠す。目だって、なんとなく潤んでいるように見える。 …けっこう化けるもんだな、唯も。 りゅうのすけは、さっき置いたプレゼントを手探りで捜し出すと、ぶっきらぼうに差し出した。 「ほら、お詫びの印、だ」 「あっ…」 唯の目の前に二つの大きな花束。 驚き、言葉をなくして花束を見つめ、りゅうのすけを見つめる。 体の動かし方すらも忘れてしまったようで、受け取る事もできない。 そっぽを向いたまま、りゅうのすけは手を伸ばし続ける。 「…いらないんだったら返せよな」 だが、言葉とは裏腹に、押しつけるようにして唯に受け取らせる。 とりあえず、唯は花束を抱え込んだ。そして、突然とけた金縛りに口を動かす。 「だめっ! 絶対に返さないもん。だって…お兄ちゃんがプレゼントしてくれるなんて…」 まだ信じられないといった表情の唯。りゅうのすけだって信じられないのだ。 唯に花束のプレゼントなんて…そんな事、一生ないだろうと思っていたのに。 「これ…昨日買えなかった花束でしょ。わざわざ、買ってきてくれたんだ」 「…別に、そういうわけじゃ…ないけどさ」 一つ一つの花を見て、唯は気がついた。 りゅうのすけの芸の細かさ。りゅうのすけの…気配りのよさ。 こんなにやさしくしてくれるなんて…嬉しくて泣きたくなるほど。 「ありがとう。お兄ちゃん」 りゅうのすけは、まんざらでもないように唯を見上げる。 両手いっぱいの花束の中、唯が目を細める。 昨日と同じように…女の子として輝いて見えた。 それに、そんなふうに喜ばれれば男冥利に尽きると言うもの。 口元に満足そうな笑みを浮かべる。 そして…本題を口にした。 これだって、一生ないだろうと思っていた事。自分から…唯を誘う事。 「せっかくだから、花火でも見に行かないか? 浴衣着たの、もったいないだろ」 「うんっ!」 …唯と見る花火も悪くはないか…な? 花束の中に見えた唯の顔。かわいかったのは、浴衣や花束だけが理由ではないようだった。 (続) |
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