小説 |
2002. 1/ 8 |
春を待つ季節-前編-〜Side Stories From ClassMate2 #3〜 12/27(金) 通勤の人たちの姿がめっきり減って、外の動きが落ち着く頃。 朝の準備を終えた桜子が自分の病室に戻ってきた。 ない口臭を気にして、ていねいに歯を磨きこんだり、 卵入りの洗顔フォームを使って何度も顔を洗ってみたり、いつもよりも念入りにしてみた。 本当なら身体も拭きたいところだけれど、ねまきと下着を替える事しかできなかった。 洗面道具やら洗濯物やらを簡単にしまうと、今度は乱れているシーツをなおした。 昨日、どうやら変な夢を見たらしい。 詳しくは覚えていないけど…彼、の夢だった。 淡々と動かしていた手が止まる。 ふっと昨日の事が、彼の真剣な表情が頭をよぎった。 覚えてもいない夢と重なって不安になるけれど、信じるしかない。 外に目をやれば、彼が座る枝をお日様が照らしていた。 そして午後にはあそこにいるはずだ。 あのやさしい笑顔を、桜子の為だけに見せてくれるはずだ。 …今日は…一日が長そう。 ターボを見れば、のんきにえさをついばんでいた。 だから、少し救われた気がした。 「おはよう、桜子」 ノックもなく、いきなり病室に入ってきたうづきに、桜子はただただ驚くばかりだった。 「お、おはよう。うづきちゃん」 反射的にあいさつを返していたが、桜子の動きは完全に止まってしまった。 「…もしかして、おじゃまだった?」 ばつが悪そうな表情を見せるうづき。 ドアを急いで閉めて、そこにもたれるようにしている。 桜子は、ベッドの上でようやく自分を思い出したように返事をした。 「う、ううん。そんな事ないけど…」 手にしていたブラシをサイドテーブルに置き、肩からストレートに垂らしてある栗毛を背中にはらった。 いつもとは違う髪形は、髪をとかしている最中だったからだ。 「それより…どうしたの? こんな早く」 身の回りを片づけながら、まだどこか信じられない、といった表情で尋ねる。 大体、面会の時間になっていないのだから…どうやってここまで来たのだろう。 「えっ…まぁ…これ、借りるよ」 「うん」 うづきはハンガーを手に取り、赤いダッフルコートをかけた。 そして、この前と同じようにいすの上であぐらをかいた。 短いスカートがなんとなく寒そうに見える。 「…講習前に時間あったから、顔見ていこうかなって思ったの」 要するに、時間つぶしらしい。 うづきの言葉は決してそう意味でないにせよ、桜子にはそう聞こえてしまった。 だから素直になれなかった。 「遊んでる時間、あるの?」 「厳しいなぁ、桜子ちゃんは」 そう言いながら、うづきは左手でおでこを軽くかいた。苦笑いをした。 そんな仕種に、桜子の心に罪悪感が芽生えた。 ちょっとでもすねた自分に自己嫌悪してしまう。 逆に言えば、そこまでして会いに来てくれているのだから。 「…ごめんなさい」 「別に気にしてないから…ほら、そういう顔しないの。本当に何とも思ってないから」 「…本当に…ごめんなさい」 桜子はシーツをぎゅっと握った。 さみしそうにうつむくだけで、言葉はなかった。 冬のお日様が病室にいる時間はそれほど長くない。北国の晴天のように貴重な物。 ターボの鳥かごも、この時間は窓際に移動して、日の光をいっぱいに浴びてもらう。 そして、桜子とうづきもささやかな日光浴をする。シングルベッドの上にふたり。 「髪…伸びたね」 楽しそうな声が背中からした。 そして、後ろ髪をとかす音が耳の下から入ってくる。 桜子は女座りに少し猫背。あごを引き気味にしているのは、うづきからの注文だ。 「うん。入院してから…三年も切ってないから」 ベッドの先を照らす光を、ぼんやりとうつむいて眺める。 清潔そうな色に光が反射して、少しまぶしい。まるで山に積もった雪のようだ。 恥ずかしげに歌を口ずさむうづき。立ち膝で、桜子の髪を丁寧にゆっくりととかしていく。 のんびりとした時間。心がやんわりと休まる気がする。 「…桜子の髪ってやっぱりきれい。うらやましい…」 「そんな事…ないよ」 ブラシが止まった。うづきの指先が髪をすくうと、絡む事なくさらさらと流れていく。 栗毛はきちんと手入れされていて、同性のうづきがうらやむほどに柔らかい。 病人には時間がたくさんあるから、暇さえあればいじっていたのだ。 ひとに髪を触られて、不思議と気持ちいい。 まるで頭を撫でてもらっているようで。うっすらと目を閉じて、このまま寝てしまいたいほどだった。 「自信もちなさいよ。私、中学の頃から憧れてたんだから」 また、ブラシが動き出した。優しく髪を押さえる右手。 その音で中学時代を思いだす。 体育の後や休み時間、泊まりに行った時。ことあるごとに桜子の髪をいじっていた。 中学生の桜子はボブカットだった。ちょっと伸びてはすぐにはさみを入れていた。 そのたびにため息をつくのはうづきだった。もったいないなぁ、と。 「あの頃、うづきちゃんよく言ってたよね。髪伸ばしたらって。似合ってるかな?」 恐る恐る、とった感じで桜子は尋ねた。 彼は褒めてくれたけど…友達はどうなのかな。 うづきは腕組みして、何度も何度もうなづいた。目を閉じて、なんだか偉そうなまね。 「私の目に狂いはなかったって、自信もって言えるわよ」 「…本当に?」 「あんたねぇ…私が男だったら、後ろから襲いかかっちゃうくらい似合ってるわよ」 そう言いながら、実際に抱きついてしまうあたりがうづきなのだろう。 きゃっ、という悲鳴もとても嬉しそうな桜子。 どこか変な答えでも、今は満足。 りゅうのすけの好みかどうかは別としても、似合っていないよりはよっぽどいい。 …そう言えば、うづきちゃんも八十八学園よね。 ふとそんな事を考える。 タイプかどうかは別としても、彼みたいな人、うづきちゃんならチェックしてるかも知れない。 あとで聞いてみようかな…どういう人なのかなって。 嬉しそうにのどを鳴らして、静かにほほ笑む。 そんな仕種が少し不自然に写ったらしい。 「あー。もしかして本当に声かけられたんじゃないの?」 疑惑いっぱいの声が耳に吹きかかってくる。 抱きつかれたままだから、うづきの息がくすぐったい。 ちょっとどぎまぎしながら、桜子は正直に答えなかった。 「そんな事…なかったもん」 「本当に?」 「う、うん」 窓の外、あの枝に目をやる。 病院の外から声をかけてくれた人の顔が思い浮かぶ。 正直にはうなづけない。意地悪、と言うわけではないが、秘密にしておきたかった。 「ま、病院じゃあ出会いなんて少なそうだから…しょうがないか」 「うん」 友達にうそをついたから、少し胸が苦しい。 横顔をじっと見られると、ばれてしまいそうでひやひやしてしまう。 だけど、うづきはそれ以上は突っ込んでこなかった。少し残念。けどほっとする。 「でも、男の子なら看護婦さんと…なんてありそうだけどなぁ」 「…そういう事ってあんまりないみたい」 マフラーのように、細い首筋に巻かれたうづきの手首。桜子の指がそっと撫でる。 気持ちいいよりもくすぐったいから、うづきは桜子の両肩に手の平を移動させた。 「うっそー。じゃ、惚れた弱みにつけこまれて先生にいじめられちゃう女の子とかは?」 左肩越しにうづきの顔が伸びてきた。 すがるような表情に、桜子は苦笑いしてしまう。 「変な本の読みすぎだと思うよ、うづきちゃん」 「もぉ…」 図星だったのか、うづきは桜子の両肩に手を置いたまま、がっくりとうなだれる。 背中にそんな気配を感じとって、くすくすと桜子は笑った。 両手が器用に動く。 左肩から下ろした髪が、桜子の両手の中でひとつになっていく。 ボリュームのある髪だから、束ねて編むにしたって手間がかかるし時間もかかる。 だけど、彼もうづきも褒めてくれたから、これくらいは何とも思っていない。 うづきはじっとその手さばきを見ていた。 感心したようにうなっては、桜子に照れ笑いを浮かべさせる。 「そんなにじっと見られると恥ずかしいよぉ…」 「女ってね、見られる事で綺麗になるんだってよ」 うづきはからかうようにそう言うと、いすから立ち上がって鳥かごに近づいた。 お日様に包まれて、ターボはうたた寝をしている。 とろんとした目、止まり木の上。 さっきの桜子のように可愛らしくて、思わず忍び笑い。 飼い主に似るのかしらね… 「うづきちゃん。ちょっと聞いていいかな」 その声に振り返ると、桜子の作業は終わったようだ。 いつものように、綺麗に編み上げた栗毛が肩から下りている。 純白のカバーのかかった毛布を腰まで上げて、上半身だけ起こして、ちょっと複雑な表情でうづきを見ている。 「なぁによ、そんな顔して」 「あの…りゅうのすけ君って知ってる? 八十八学園らしいから、うづきちゃんなら…」 うつむき加減は恥ずかしそうに、上目使いにちらちらとうづきを見る。 ほんのり火照る頬が、自分でもわかる。 冷静なつもりだったけど、なんでこんなになるのかな… 「りゅうのすけ…くん?」 「うん!」 嬉しそうに弾む声。見上げた顔に輝く瞳。それは今までに見た事のないくらいの光。 その固有名詞にうづきが冷たく反応した事なんて、気がつきもしなかった。 「うづきちゃん、やっぱり知ってるんだ。ねぇ、どういう男の子なの?」 まるで子供のようにはしゃぐ桜子に、うづきは戸惑ってしまった。言葉が出なかった。 見つめたまま、少しの間呆然として、自分でもよくわからないまま尋ねてみる。 「あんた…もしかして、りゅうのすけに興味があるの?」 「…そういうわけじゃないんだけど…ただ、ちょっと気になったから」 ちょっと、のわりには期待いっぱいの口振り。 知らない事が多すぎるから、どんなに些細な事だってかまわない。 教えてほしい、と目が甘える。 なるほど、とうづきは納得した。いつもと違う桜子の理由、そういうわけか。 冷めた瞳で桜子を捕らえたまま、窓の縁によりかかった。 隣のターボがぴーと鳴いた。 「ふーん。桜子ちゃんにも春が来ましたか」 「えっ?」 うづきの言葉の意味はよくわからなかったが、ちゃん付けで呼ぶ時は、からかっている時がほとんど。 だが、うづきの瞳は先程よりも冷たい。 その事が桜子を少し混乱させた。 「それって…どういう意味?」 「りゅうのすけの事、好きなの?」 「ち、違うよ。別に…そういうわけじゃないけど…」 手を振って、あわてて否定する桜子。よりいっそう、恋の色に染まる目の下のあたり。 指でパジャマやシーツをこねこねと遊ぶ。そんな仕種がうづきの心をもやもやさせる。 窓から桜子のベッドの脇まで距離なんてないのに、ブーツの足音がいやに大きく響く。 「本当に?」 「…まだ…違うもん」 まだ…ね、と、うづきは心の中でつぶやいて、息を大きくはいた。凍てつく瞳。 完全に見下ろす格好で、桜子の真横に仁王立ち。 怒っているのかと思ってしまうほど、その雰囲気は重く、真剣。 だから、桜子はしゅんとしてしまう。うつむいてしまう。 「じゃあ、友達として忠告しておくわ。本気になる前にやめなさい、あいつだけは」 ようやく桜子は顔を上げた。 不安そうにうづきを見つめて、口元に手を当てる。 うづきの反応がどうにも理解できない。どうしても彼と引き離したいらしいけど… だとしたら…やっぱりあれが理由なのかな。空いているわけ、ないもんね。 「どうして? りゅうのすけ君、恋人はいないって言ってたもん。もてそうだったけど…」 「言ってたって…あんた、りゅうのすけをまさかこの部屋に入れたんじゃ!」 「部屋には来てくれないもん! いつも窓越しにおしゃべり…あっ…」 ふたりだけの秘密のつもりだったから、答えて思わず口を手で隠した。 だがもう遅い。 うづきは人を馬鹿にしたように、ふーんと鼻を鳴らした。 「窓越しって、木に登ってくるわけ? まったく、あいつならやりかねないわね」 うづきは振り返ってあの木を、枝を見た。 あの太さなら、たしかになんとか登れそうだ。 おまけにけっこう葉が残っている。適度にりゅうのすけを隠してくれるのだろう。 …と言う事は、本当にまだふたりで話す程度なんだ。 不幸中の幸い、なのだろうか。 にしても、りゅうのすけはやはり節操がなさすぎる。 入院中の女の子にまで手を出そうとするなんて…信じられない。 「ねぇ、桜子。りゅうのすけとの事、全部話してくれないかな。友達としての、お願い」 「…どうして…話さなくちゃいけないの?」 「どうしても、よ」 妖艶な笑み、とでも言うのだろうか。 桜子と唇を重ねられるほど顔を近づけると、甘い声を出した。 けど、その裏の表情も見えている。 だから桜子の目がちょっと怖くなる。 ほっぺたを不満そうに膨らまして、反発する。 「い…いやっ! だって…そんな事聞いて、うづきちゃん、どうするつもりなの?」 「やめさせるの。だいたい非常識にもほどがあるじゃない。あいつ、病院の窓越しにナンパしてきたわけ? 女の子の部屋をのぞくなんて最低よ。そんなの変態がやる事だわ」 「…りゅうのすけ君の事、悪く言うのはやめてっ! うづきちゃんでも…私、怒るよ」 「あんたもそうよ。そんな変な奴の相手なんてして…箱入り娘にもほどがあるわよ」 「…うづきちゃんにはわからないよ」 あきれた、とため息といっしょにはきだすうづき。 そして、また窓に向かった。 閉まっている窓。前はよく空を見ていたらしい。 だけど今は…りゅうのすけ、か。 桜子のように空を見上げる。 真っ青な中に、変なかたちの雲がふたつ。 もう少し風に流されれば、くっついてしまいそう。 ひとつに重なって、いつか消えるのだろうか。 「りゅうのすけの事、なんでもいいから聞きたいって言ってたわよね」 「う、うん」 「…おじさんでもおばさんでも看護婦さんでも…誰でもいいわ」 「誰でもいい?」 「そう。りゅうのすけってどういう人、って聞いてごらん。たぶん教えてくれるから」 「なんで…お母さんが知ってるの?」 背中を向けたままのうづき。桜子の疑問には答えてくれないらしい。 見上げる事に疲れたように、がっくりとうなだれる。 そして、肺の中の息を全部出し切ってしまうほどに大きな深呼吸をした。 頭だけで振り返る。桜子には冷たい左目が見えた。 「いろいろとある男なの。あんただって噂のひとつくらい知ってると思ったんだけど…」 「うづきちゃん…」 「人の恋路のじゃまなんて、がらじゃないけど…今回だけは横やり入れさせてもらうわ」 うづきは振り返ると、胸の下で両腕を組んで、首を少し傾けた。 予想していた展開と全然違っていた。 期待していた答えと全然違っていた。だから。 じっと見つめられた桜子は、視線を合わせにくくなったのか、またうつむいてしまった。 「ごめん。強く言い過ぎたかもしれない。でもね、桜子を本当に泣かせたくないから」 「…わかってるけど…」 「恋するにしたって、相手を考えないと…だから、わかって」 うづきは少し罪悪感を覚えた。 だけど、意地悪しているわけじゃない。ちょっとは妬いているかもしれない。 でも、本音。 桜子じゃあ、りゅうのすけに遊ばれるだけだもの… …だったら、そのうわさをちゃんと教えて… 桜子は強い意志を瞳にのせた。 けれど、すぐにうつむいて何も言えなくなってしまった。 うづきもそれ以上、何を言うつもりもなかった。 ただ、時計をちらりと見て、そろそろ引き時だなと感じただけだった。 「桜子。私、そろそろ行くね」 ベッドの先をずっと見続ける桜子の背中は、普段よりもさみしそうだった。 「うづきちゃん。ひとつだけ答えてほしいの」 赤いコートが鮮やかに宙を舞う。袖を通して、ホックを止めて、帰る準備はできた。 床に手を伸ばして、参考書の入ったブルーのクリアケースを軽くつかめばもう完璧。 「なに?」 うづきが振り返るのを確認して、桜子はようやく話しだした。 それくらい、重要な事。 「あのね…もし私が、本当にりゅうのすけ君の好きだって言ったら…どうする?」 桜子の目は真剣。 まばたきさえ忘れているように、じっとうづきを見つめている。 …言ったらもなにも…気がついてないだけでしょうが、この娘は。 おどけたように大きく目を開いて、肩をすくめて、鳴らない口笛を吹いた。 「これから好きになるから?」 「…意地悪しないで、うづきちゃん」 ぎゅっと握った毛布。困りきって潤んだ瞳。声は、か細く、弱々しい。 意地悪をした本人が、守ってあげたい、と思ってしまうほどに、桜子は切ない雰囲気を見せていた。 だから、と言うわけでもない。 もともと、意地悪や冗談で答えを返すつもりはなかった。 怖いほどに真顔で、冷たさを感じるほどに真面目な瞳。あごを引き気味に話し出す。 「桜子が本当に本気なら応援するわ、友達として。 でもね、少しでも本気じゃないようなら諦めさせる。友達としてね」 やれやれなのか、なんなのか。 三歩分もないドアの前まで移動すると、くるりと振り返った。 クリアケースを右腕で抱え込んで、空いた左手はうなじのあたりをぽりぽりとかく。 そして、いきなり笑顔を見せた。雰囲気の全然違う、うづきらしい笑顔。 「信じてるから、桜子の事。好きな人ができたらさ、私に言ってくれるって」 「うん」 桜子がほっとしたようににこりとほほ笑む。 その顔に、うづきも胸をなで下ろした。 いじめすぎたかな、なんて今さらながらに反省していたから。 ドアのノブに手をかけて、ゆっくりと白い扉を開く。 そして、廊下の様子を確認する。 …よし、と。 桜子にはその仕種が不自然に見えたが、理由までは推測できなかった。 「じゃあね、桜子。また暇があったらくるからさ」 「うん。勉強がんばってね」 右手を二度三度と振ると、ドアを開けてうづきは部屋から出ていった。 その背中が消えて、かたんと扉が閉まった。だから、桜子は小さくため息をついた。 「まだ面会の時間じゃありませんよっ!」 「あっ…すみませーん」 廊下に、看護婦さんの声が響く。桜子は思い出したように、こっそりと笑った。 …わざわざありがとう、うづきちゃん。 でも、少し憎く思った。 りゅうのすけという男の子の事、全然見えなくなったから。 もっともっといっぱい、彼の事が気になるようになってしまった。 「そろそろお掃除の時間ね、ターボ」 桜子はベッドから下りると窓際の鳥かごに手をかけた。 あの枝が、風に揺れていた。 不安に心が激しく揺れる。 緊張から、お腹のあたりがちくちくと痛みだす。 …りゅうのすけ君。どうして… 花瓶の横に置いてある、小さな置き時計。そして、壁の大きな掛け時計。 両方とも、同じ時間を指し示している。時計が狂っているわけではないらしい。 この時間なら、とっくに木を登り終えて、ぜいぜいと息を切らして、 それでも優しい笑顔を見せているはずなのに。手の平の傷を、ぺろっとなめる頃なのに。 枝はむなしく風に揺れ、その先の葉がひらひらと回転しながら落ちていった。 …やっぱり…来てくれないのかな… それでなくても落ち着かない。 午前中のうづきの言葉が頭を巡って混乱させる。 窓の外に目をやった。 彼はいつも正門に立ち、桜子の病室をじっと見つめて、本人がいる事を確認してから登ってくる。 だから、桜子も正門をじっと見つめる。 両手を重ね合わせて、神様に祈るようなポーズ。 何分でも…もし来てくれなければ、永遠に祈り続けるかもしれない。 とにかく会いたかった。せめて顔だけでも見たかった。 おしゃべりして、自分の知っている彼が本当の彼だと感じたかった。 どきどきと、鼓動の早さを感じる。唇が微かに震えているのを、指先で感じとる。 …何か急用ができたのかな。それとも…風邪ひいちゃったとか… 一生懸命理由を考えてみる。一番嫌な理由は頭に浮かべないようにがんばる。 だって…同情でないのなら、絶対に今日は会いに来てくれるはずだもん。絶対に… 毛布を強く握ったのは、心を強く持とうとするため。彼を信じる力をなくさないため。 もろい関係だから、一日でも会えないと、一生会えなくなるような、そんな気がしていた。 まだ終わりたくない。もっともっといっしょにいて、いろいろとおしゃべりしたい。 …でも、やっぱり…昨日の事、怒って… 自分に自分がつぶされそうになった。自然と下を向こうをしていた。だが。 右目の端に…人の影が見えた。 だから、慌てて顔を上げ、ベッドから乗り出すように窓の外を見た。 強ばっていた表情が一気に崩れ落ちて、緊張していた全身の力が抜け切った。 「りゅうのすけ君!」 時間が違った以外は、いつもと同じ。 桜子を確認して、のんきに手なんて降っている。 だからちょっとすねる。ほんの少しだけ口を動かして、音にならないほどのつぶやき。 「…ばか」 思わず口をついた自分の言葉の響きに、桜子の顔が真っ赤に染まってしまった。 12/28(土) 冬の晴天、青空がまぶしすぎる。窓から見上げても、雲なんてどこにもない。 昨日だってたくさんだったけど、今日はもっともっと時間をかけて髪をとかした後。 道具をしまい、全身に少し疲れを感じても、桜子は満足そうな笑みを浮かべている。 「いつもよりも時間をかけてとかしたの」 昨日、遅れてきたりゅうのすけに言ってみた。 直接は褒めてくれなかったけど、あの笑顔は…そうだよね。 長い髪が好き。そう言ってくれた時と同じ笑顔だったから。それで満足してしまった。 …もし…りゅうのすけ君が触ってくれたらなぁ。 ぼん、と溶岩流のように真っ赤になってしまう。けど、昨日まじめに考えた事。 彼とこうしていられるのも、冬休みの間だけ。 学校が始まってしまえば、おしゃべりどころか会う事だって難しくなるだろう。 だから…せめて、ささやかな思い出だけでもほしかった。 彼と手をつないでみたい。そして、どこかにふたりきりで行ってみたい。 静かな公園のような場所…病院の裏庭だってかまわない。そんな場所で…おしゃべりしたい。 そうして、肩なんて抱き寄せられて、見つめあって、キス、なんかして… …なに考えてるのかな、私。 自己嫌悪にうつむいて、毛布をぎゅっと握ってしまう。 でも、夢くらい見たってばちは当たらないだろう。 叶えられないまでも、彼と会う時くらいはそんな気分でいたい。 だから、自分なりに精一杯の事をして彼を迎えたいって思っている。 髪をとかすのだって、自分にできる数少ないおしゃれのひとつ。 …うづきちゃんだって…褒めてくれたんだから。 けれども、それよりも。 昨日のうづきがふっと頭をよぎった。昨日の言葉がひっかかり続けた。 前からの疑問がずっとずっと深くなった。自分が何も知らない事を痛感した。 …りゅうのすけ君って、どういう男の子なの? 約束は守ってくれるし、おしゃべりは楽しいし…だから、うづきの敵意がわからなかった。 どう考えても…少なくとも、悪い人とは思えなかったから。 …うわさ、って言っていたけど、やっぱり悪いうわさなのかなぁ… 本人にそんな事は聞けないし…大体、どう聞いていいのか桜子にはわからなかった。 深刻な顔をして、桜子はターボを見る。 どこか助けを請うような、いたいけな目で。 「ねぇ、ターボ。りゅうのすけ君って…本当に、どんな人なのかなぁ」 小さくため息。今はそればっかり。 あまりにも、ふたりの時間が少なすぎたのだ。 見上げた空の青さ。桜子には、ひどく目に染みるような気がした。 そろそろ来てくれる頃かな、なんて思っていたから、予想どおりではあったけれど。 やっぱり嬉しさは隠せない。りゅうのすけやうづきの時とはまた違う喜び、覚える。 「身体は大丈夫? 寒い日が続いたから心配してたの」 「うん! 最近ね、不思議と調子がいいの」 「そう、それならよかったわ。退院も近いかしらね」 午前中。昨日のうづきとは違い、正式な面会の時間。母親がお見舞いに来てくれたのだ。 大きなバッグを肩から下ろすと、疲れた息をひとつ。ベッドの横のいすに腰を下ろした。 けれど、その顔は疲れていない。娘に会えるから、なのかもしれない。 「ねぇ、お母さん。お父さんは元気?」 「うん。桜子に会いたがっていたけど…毎日残業で忙しいの。休みは寝っぱなしよ」 そんな事を言って笑っているけど、忙しいのは母親だってまったく同じなのだ。 両親共働きで、父も母も忙しい人だから、こうやって時間を割くのも大変らしい。 それでも、母親は月に二回は必ず来て、いろいろと面倒を見ていってくれる。 入院したての頃は、寂しさが母を求め、母を恨んだ事もあったが…今は慣れた。 「私も、もっと来てあげられればいいんだけど…ごめんなさい。年末も忙しくて…」 「ううん、大丈夫。うづきちゃんがちょくちょく来てくれてるし」 「あら。いつも悪いわね。ちゃんとお礼言っておきなさいよ」 「うん!」 その返事に、なるほど元気そうね、と母が笑う。 桜子は恥ずかしそうに黙ってしまった。 ベッドの下からカラーボックスを取り出して、持ってきた着替えをしまっていく母。 単純に顔を見に来ているだけではなく、こうした日常品を持ってくるのも母親の仕事。 たまにしかない家の匂い。母の匂い。優しく包んでくれるような、心地好い感覚。 パジャマやタオルや下着。決まった場所に、小綺麗に。その横顔はどこかやさしい。 桜子は、そんな様子をベッドの上から見ているだけでほっとしてしまう。 「あ…はいこれ、いつもの」 着替えを入れてきたバッグの最後の荷物は、本屋の雑誌サイズの紙袋。 振り返って、桜子のおなかのあたりにぽんと置いた。 「ありがとう、お母さん」 声を弾ませてお礼を言う桜子に、少々苦笑いのお母さん。 娘は待ちきれないように、その袋から雑誌を取り出した。つやつやの表紙が気持ちいい。 「他に欲しい物ないの? 毎月その雑誌ばっかりでよく飽きないわねぇ」 「うん。これだけでいいの」 それは、毎月買ってもらっている、ティーンエイジ向けのファッション雑誌だった。 今月号のグラビアを飾っているのは、今をときめくスーパーアイドル、舞島可憐。 ベレー帽で鼻から下を全部隠し、真剣で、あるいは冷たい瞳だけがのぞいている。 …綺麗な人よね。 そんな事を思いながら、ぱらぱらとページをめくっていく。 今月号の特集はコート。 その特集のページに、可憐がたくさん写っていて、桜子はなんとなく得した気分になる。 可憐のファン、とまではいかなくても、知っている芸能人の中では一番好きだった。 歌がヒットしても、ドラマが好評でも、アフレコがよくても…桜子には関係なかった。 歌わない。動かない。しゃべらない。 そんな写真の彼女だけしか知らないのだから。 桜子は可憐のセンスが好きだった。 この雑誌を毎月買ってきてもらっているのも、可憐がモデルをする事が多いからだ。 このスーパーアイドルを見ると、必ず思う事があった。 かわいい、というより綺麗な、整った顔だちの女の子。 自分とは違う世界の女の子。 いろいろな服を着て、笑ってみたり、真面目な顔をしてみたり…何をやっても絵になる。 気落ちはしないが、ちょっと悔しい。 同い年の女の子なのに…こんなに違うなんてね。 「なにを愕然としてるのよ。可憐ちゃんはアイドルだから綺麗に決まってるでしょう」 「…でも」 「まったく…ところで、洗濯物はこれで全部?」 不満そうな娘に苦笑いしながら、母親はきちんとまとめられた紙袋を持ち上げた。 「うん。でも、いつもありがとう、お母さん」 「お礼なんてやめてよ。そう言えば、可憐ちゃんの家ってこの近所にあるの。でね…」 別に照れているわけではない。桜子のお礼は口ぐせくらいに思っている。 母親は空いたバッグに紙袋を詰めていく。そして、口は可憐の噂をぺらぺらしゃべる。 大豪邸で、可憐御殿と言われているとか、中には十八金でできたおふろがあるとか、 四本足の化け物が出るとか、大きな庭の古ぼけた倉に老婆の死体があるとか… 「お母さんって、よく知ってるね」 「ま、伊達に主婦はしてないわ。もっとも兼業だけどね」 家事をこなし仕事をこなす母親を、桜子は正直尊敬していた。 だから、自分がとても負担になっているようで…少し心苦しかった。 だけど、そんな素振りは見せた事もない。わがままだってある程度は聞いてくれる。 ぱんぱんに膨れたバッグ。ファスナーを強引に閉めると、出てもいない額の汗を拭った。 「そうそう。新しいパジャマ買ってあげる。遅れたけど…クリスマスプレゼント」 「えっ…本当に?」 一応の片づけが終わり、いすに腰を下ろしながらそんな事を言う。 桜子が半信半疑の表情を見せると、母は不思議そうに首をかしげた。 「あら、前におねだりしていなかったっけ? 欲しい欲しいって言ってたわよね」 「うんうん! ちょっと待って」 我ながら現金とは思ったけど、もっとかわいいパジャマが欲しかったのも事実。 自分のできる唯一のおしゃれだから。 それに今は…りゅうのすけにかわいく見られるような、少しでも気に入ってもらえるような、そんなパジャマが欲しかった。 桜子は引き出しから二ヶ月前の雑誌を取り出すと、しおりのはさんであるページを開く。 「実はね…こういうのいいかなって思ってたの。だめかな」 少しだぼだぼの、薄い水色のパジャマ。大きな水玉がなんだか可愛らしい気がした。 枕をわきに抱きしめて、眠そうなポーズ。 モデルは当然、スーパーアイドル。 「わが娘ながら…こうも趣味が違うのかしらねぇ」 母親は雑誌を手にとり、まじまじと眺めては、少しあきれた口調でそう言った。 「い、いいでしょ。私がどういう趣味してても」 桜子は怒ったふりでほっぺをぷくり。 苦笑して、母親は両手を上げた。 「はいはい。探してみるけど…あんまり期待しないでよ」 「うん。楽しみにしてるから」 母と娘。見つめあって思わず笑い出した。 お土産に、いつも果物を持ってきてくれるお母さん。今日の果物はりんごのようだ。 いすに座って、どこか不器用に皮を剥いている姿がなんとなく素敵に見える。 もっとも、お皿の上のりんごはでこぼこ。 それがいかにも母親らしくて、思わずほほ笑んでしまう。 つまようじに一切れ刺して、一口かじれば甘い甘い蜜の味。 「そう言えば、うづきちゃんは元気なの? 最近遊びに来ないから、顔見てないのよ」 二個目のりんごを切り終えると、自分でもひとつつまみ食い。これは…当たりね。 「元気だけど…今は受験勉強で忙しくて、遊ぶ暇がないってぼやいてた」 「あ、そうよねぇ。今度、勉強に疲れたら遊びにいらっしゃい、って言っておいて」 「うん、伝えておくね」 また一切れ、つまようじに刺しながらそう返事をした。 そして、うづきの顔を思い出す。 ふと頭をよぎったうづきのあの瞳、あの言葉。 りゅうのすけに対してのあきらかな敵意。 「りゅうのすけってどういう人、って聞いてごらん。たぶん教えてくれるから」 …本当に知ってるのかなぁ。 予想外のおいしさにもうひとつ、とお皿に手を伸ばす母は、何も知らなそうに思える。 だけど、聞いてみて損する事ではない。そんな心構えに、なぜか鼓動が早く鳴り出す。 「お母さん…ちょっと聞いていい?」 「なに?」 「その…八十八学園のりゅうのすけ君って、どういう男の子なの?」 一瞬の事だった。りんごをくわえたまま、母親の顔色が真っ青に豹変したのだ。 言葉もなく、信じられないものを見るような、そんな瞳のまま固まってしまった。 「お、お母さん? 大丈夫?」 もちろん、桜子だって驚いてしまう。あせってしまう。 ベッドの端から乗り出すように、母親の様子を気にかける。 りんごがのどに詰まったら…どうしよう。 だが、うんうん、と二度三度とうなづいたから、桜子は大きく一息ついた。 「…りゅうのすけって、なんでそんな事聞くの?」 母親は半分食べかけのりんごを皿に置く。そして、まるで怒ったように大声を出した。 桜子は思わずびくっとしてしまう。まったくの予想外の、信じられない反応だった。 「う…うづきちゃんが言ってたの。お母さんでも知っているくらい有名な男の子だって。 だから、どういう男の子なのかなって思って…」 「会ったとか、ここに来たとか、目をつけられたとか、そういうわけじゃないのね」 「う、うん…」 桜子のどもった返事でも、母親は胸をなで下ろして、心底ほっとしたようだった。 そんな様子に少しこめかみがひきつってしまう。 とてもじゃないが、毎日来てくれるなんて言える状況じゃない。 りゅうのすけ君って、いったい… 「あの子、よく八十八駅でナンパしてる、って聞いたから…前から心配していたのよ」 「ナンパ、って…どうして、ねぇ、本当にどういう男の子なの?」 「八十八学園の問題児、よ」 母親は困った顔をして、さっきのりんごを口にした。そして、言葉を続けた。 「女の子を体育倉庫に連れ込んだり、学校で商売したり、他校の男の子に突然なぐりかかったりなんて日常茶飯事でね、 それで停学になった事もあるんですって」 深刻そうな母親の口調。 桜子は、驚きを隠そうともしないで見つめ続ける。 …そんな男の子じゃ…ないよ。 心でつぶやいても、母親には聞こえない。それに、まだ話は続くらしい。 りんごを飲み込んでから、顔をなぜか近づけた。 理由はひそひそ声。いかにも噂話のような感じで。 「ここだけの話、同級生と同棲してるって噂なのよ」 そんな単語を聞かされれば、桜子だって真っ青になる。 思わず口をぽかんと開けてしまう。 つまようじを持つ指がかすかに震え出したから、知られないように皿に戻す。 そして、母親を見つめたままつぶやいた。 驚きからか、どことなく声が大きい。 「同…棲?」 「そう。しかも入学当時かららしいじゃない。よくまあ…留年も退学もしなかったわよ」 感心した口振り。 でも、桜子は感心も信用もできなかったし…したくなかった。 恋人はいない、と彼が言ったから。それに、そんな感じの人でない事をよく知っていたから。 たしかに、桜子の知っている彼なんて、ほんのわずかであるけれど… 「でも…それって噂なんでしょ?」 「火のないところに煙は立たないの。その娘といっしょにいる所なんて何度も目撃されてるのよ。とにかく、そういう男なの」 桜子は言葉が出なかった。毛布の上の両手は、かすかに震える握りこぶし。 なにかをぐっとこらえるように、問題児を信用しようとする。 …だって、恋人はいないって言ってたもん。約束だって守ってくれるもん… 心に真っ黒な雨雲が覆い出す。 何とか吹き払おうとするけれど、雷さえ鳴り出しそうなこの雰囲気では、どこかへ逃げてしまいたかった。 いつも来てくれる彼。その姿だけ信じていたかったのに…聞かなければよかったかな。 「会ったらすぐに逃げなさいよ。桜子かわいいから…目、つけられたら大変よ」 母親の言葉はもう耳に届かなかった。 でこぼこのりんご、少し色が変わっていた。 ぱんぱんに膨れたバッグを重そうに肩にかけて、立ち上がった母親。 もっとも車で来ているから、多少重くてもあまり関係ないのだろうけど。 「次の検査、大晦日だったわよね」 「…うん」 「じゃあ、三日後にまた来るから」 うつむき加減に言葉少なくなるのは、疲れた桜子のいつもの仕種、だと思っていた。 だから、心配する必要もなさそうなのだが…どこか違う雰囲気に、顔をのぞき込む。 「ねぇ。顔、真っ青だけど大丈夫?」 「…はしゃぎすぎて…疲れちゃっただけ」 真っ青になって黙り込んでいるのは、本当に疲れただけ。いつもよりも疲れただけ。 でも…少し気持ち悪い。頭も重いし痛いし…息が乱れているけど。苦しいけど。 寒そうに、右手でガウンの襟のあたりをつかむ。ぎゅっと握った。 「これから寒くなるっていうから、寝る時は暖かくするのよ」 「…うん」 部屋を出ていく母親の、心配そうな表情にも気がつかない。 いつものように、ばいばいとも手を振れず、ベッドの上でたたずむだけだった。 (続) |
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