小説
2002. 1/ 8




春を待つ季節-前編-〜Side Stories From ClassMate2 #3〜


12/29(日)
 カーテンのすき間から、月明かりが忍び込んでいる。それを頼りに見る掛け時計。
ふたつの針がちょうど重なっている。その位置に、桜子は唖然としてしまった。
…やっと昨日が終わったんだ。
おでこに手を当てて、信じられないと言った感じに、大きく息をはきだした。
どうしても眠れない。身体は疲れているのに、心の方はしゃっきりとしている。
目をつぶって、何も考えないように努力しているのに…彼の顔が浮かんでくる。
名前を告げた時のうづきの瞳。母親に聞いた彼の噂。桜子の見ている彼の姿。
…どれが本当なのかな…
もちろん噂は噂。でも、桜子の知る彼の姿だって、所詮は小さな真実でしかない。
「八十八学園の問題児、よ」
母親の言葉、半分くらいは事実なんだと思う。それはそれでかまわなかった。
りゅうのすけには子供っぽいところはある。
だったら、多少は喧嘩っぱやいところもあるだろう。
それに、あの木に登ってくるくらいなのだから…女の子も好きなのだろう。
元気すぎるから、多少目立って見えて、変に噂になっているだけなのだと思いたい。
けれど、最後の噂だけは…
今、こうやって天井を見つめている間、彼が何をしているのかなんてわからない。
本当に同棲しているのかな。
だったら、同じ家で、同じ部屋で、その女の子と…
…そんなの…うそだもん。
不安、の文字が頭の中を駆け巡っては、信じきれない自分の弱さが悲しくなる。
鼻まで上げる毛布。天井に反射した光は、元から白い天井を純白のように明るく見せる。
昨日、彼は約束してくれた。
明日の夜、桜子と病院の前で待ち合わせてくれると。
何のために、どうしてなんて教えていない。教えたら、来てくれないかもしれないから。
夜に会ってほしい、と言い出す事自体怖かった。断られるのがものすごく怖かった。
同棲、つまりは恋人以上の関係の女の子がいると言う事。
だから、理由はだめだった。
…これが最初で最後でかまわないから…
思い出がほしかったのだ。もしかしたら、あっさりと終わってしまう関係かもしれない。
今は物珍しさで来てくれているだけかもしれないのだ。ちょっとした気まぐれかもしれないのだ。
だから…ほんの少し、彼の迷惑にならない程度に思い出を残したかった。
窓の方へ寝返りをうつ。厚手のカーテンで外の景色は見られない。それでもいい。
…明日の夜、って…どのくらい遠いんだろ。
まだ始まったばかりの今日。
今までだって、りゅうのすけと会うまでの時間はとっても長かったのに…
絶望しそうなほどの時間に、桜子はため息をついた。
とりあえず目をつぶりはしたが、どうしても眠れはしなかった。

 いつもなら、午前中に済ましていたターボの部屋の掃除も、今日は彼が帰ってから。
起きた時間が朝ではなくて、彼を迎えるために、髪をとかすのが精一杯だった。
寝不足なのか寝過ぎなのか、身体はなんとも重たくだるく、あくびがとまらない。
ふぁぁぁー、とまたひとつ、大きなあくびをしてから、桜子はかごをのぞき込んだ。
「ターボ。お掃除の時間よ」
サイドテーブルのかご。中の小鳥がこちらを見ているから、そっとほほ笑み返し。
取り出し口を開けると、ターボも意味をわかっているように狭いかごから飛び出した。
とはいえ、さすがに最初は戸惑い気味。慣れ出すと右に左に楽しそうに飛び回る。
もちろんこれは秘密の事。看護婦さんに見つかったら、たぶん怒られてしまうだろう。
その間に、水を入れ直し、実のない餌を吹き出して、底の新聞紙を取り替える。
かごの掃除が終わっても、桜子は少しの間ターボを部屋の中で自由にさせておいた。
膝を抱えて毛布の上。
ときどき目の前を横切るターボ。見えているのは…なに?
窓を開けない限り、結局はかごの中の小鳥。
本当に自由に遊ぶ事なんてできないのだ。
私も同じ。窓を開けて彼とおしゃべりをできても…かごから外には出る事はできない。
私が指先でターボと遊ぶように、彼と窓越しに言葉をかわすことしかできない。
だから…考えた。
少しでも、ほんのわずかでも、かごから出て、自由になりたい。
今日も普段と変わらなかった。
もちろん、噂を知ったという事を彼が知らないだけだが。
本当は同棲の事も聞きたかった。けど、そんな勇気がない事は、自分がよく知っている。
その代わり、何度も何度も念を押して確認した。明日の夜、病院の前で会う約束の事を。
その夜は、彼といっしょに病院の裏庭に遊びに行こう。
たとえ他の女の子の彼氏でもいい。そして、彼の前で普通の女の子のように振る舞ってみたい。
もっと近い距離。もっとわかりあえる距離。木と病室ではなく、並んでいられる距離。
おしゃべり、手をつないで、デートのようなそんな時間。
昨日の夜、今日の朝。いろいろと考えはしたけれど…やっぱり目の前の彼を信じよう。
せめて明日くらいは笑っていたい。何もかも忘れて、彼のそばで彼を感じていよう。
彼の事だから、約束を忘れはしないと思っている。守ってくれると信じている。
ターボを探せば、飛ぶのに飽きたように窓の縁に止まっていた。桜子の方を向いていた。
オレンジ色に染まる羽。少しまぶしくて、うつむき加減になりながら右手を伸ばす。
「そろそろ戻ろう、ターボ」
その一言をターボは理解したようだ。さっと飛び立ち、桜子の望む場所へ降り立った。
「ごめんね、自由に飛べなくて。でも…」
手の平で包み、頭を、羽を、そっと撫でる。気持ち良さそうに目を細めるターボ。
ターボは温かかった。心地好いくらいのぬくもりは、桜子を落ち着かせる。
「また明日、出してあげるから」
掃除の終わったターボの部屋。入り口を開けてあげると、嬉しそうに戻っていく。
そんな仕種がさみしかった。
三年間の生活は、自分の家を忘れさせてしまっていた。まるで自分のよう。
ターボにも悪いとは思っているけど…ひとりは嫌だったから。
「もう少し…いっしょにいてね、ターボ」

12/30(月)
 朝。いつものように看護婦さんが検診にやって来た。
だが、告げた言葉は予想外。
「検査…ですか?」
不満そうに睨んでみても、素知らぬ顔で言葉を続けるから、ますます嫌になってしまう。
「そう。急でごめんなさい。今日、どうしても、って先生がおっしゃるのよ」
「だって…明日も検査の予定ですよ」
「一日じゃ終わらないらしいの。だから、今日と明日に分けてするんですって」
いつものように走るペン。いつものような笑顔であっても、どこか事務的に聞こえる。
立ったままで、見下ろされている格好だという事も、脅迫されているように思えた。
「十時からなの。急で悪いけど、お願いするわね」
「お願いも何も…いやだなんて言っても、検査するじゃないですか」
桜子らしくない、不満たらたらの口調。怒っているのかと思ってしまうほど強い口調。
検査は大嫌いだった。
あちらこちらと見られ触られ、時々は心まで犯される。
いつもはやさしい先生も、この時ばかりは好きになれない。
冷たい目、冷たい言葉、冷たい動き。自分がまるで…実験されているようで。
「桜子ちゃん。ごめんなさい。けど…ね」
戸惑う様子がありありだ。
それはそうだろう。桜子がここまで抵抗するのは珍しかった。
言葉につまった看護婦さんを冷たく睨みつけ、つまらなそうに外を見る。
快晴。真っ青な空。これなら今夜もいい天気だろう。
だけど、だからこそ。
…なにも今日でなくてもいいのに。
少し泣き出しそうになった。今夜は彼と会う予定。たしかに時間的には問題ない。
だが、検査は桜子に体力を要求する。
ましてや一日検査だなんて…ベッドに横たわればすぐに寝られるくらいに疲れるだろう。
今までがずっとそうだったのだから。
…約束は、絶対に守りたいのに…
今夜会えれば、りゅうのすけとなし崩し的に別れても仕方ないとまで思っているのだ。
ほんのちょっと、普通の女の子らしく接して、思い出が作れればそれでいいのだ。
それを、先生の勝手な都合で潰されてしまったら…桜子だって興奮してしまう。
うつむいた桜子の口から出た言葉は…みにくくて。
「いいですよ。どうせモルモットですから」
「桜子ちゃん!」
あまりの言葉に看護婦さんはしゃがみ込んだ。そして、桜子と視線を合わせようとした。
怒るまではいかなくても、今の言葉はかちんときた。鼻息が荒くなる。
「…なんですか?」
それに気がついた桜子も顔を上げる。かみしめた唇は寂しく、瞳の涙は痛々しかった。
最近、全然見せなかった表情に、看護婦さんも一度は言葉をなくしたが、
とりあえず言う事だけは言っておかねばならない。
そう思い、口を開いた。
「他の人の前ではね、絶対にそんな事言わないで。みんな、あなたの事心配して…」
「じゃあ教えてください! 私の病気って…どんな病気なんですか?」
強い言葉を遮られた看護婦さんは、それ以上は何も言えなかった。
桜子も言わなかった。
じっと目を見つめていたのに、うつむいて考えるのが精一杯になってしまう。
そんな様子を少しだけ馬鹿にしたように、桜子の顔に自嘲の笑みが浮かんでいる。
わかっていたから。答えてなんてくれないのだ。答えたとしても、予想できる中身。
「…私もよくは知らないの。ただ…命にかかわるような病気じゃないって…」
ようやく顔を上げた看護婦さんの答えは、桜子の予想どおりの言葉しか使っていない。
前に、同じような事を違う看護婦さんに聞いた事がある。
先生相手に泣き出した事だってある。そして、そのいずれとも答えは同じだった。
命にはかかわらない病気。だけど寝ていないといけない病気。効く薬は時間だけ。
だから、言う事をきちんと守っている。
けど、先生や看護婦さんは平気でうそをつく。
それでもがまんしているのに。
大人しくしているのに…今日みたいな日に、先生の都合だけで急に検査を入れてくるなんて…
たまらなかった。
「けどね、ちゃんと検査して、ちゃんと調べないと何もわからないでしょう」
立ち上がり、窓際へ移動した。両手で抱えた記録用紙に書く事は、今日も異常なし?
空を見上げるようにして、どこかさみしい背中を見せている。天使の羽は今日は見えない。
だが、さみしいのは桜子だっていっしょなのだ。この気持ち、わかってほしいのに…
鳥かごに目をやれば、部屋の雰囲気を知ってか知らずか、おどおどしているターボ。
「…もう、いいですよ。検査は十時からですね」
「嫌なのわかっているけど…許して、桜子ちゃん」
桜子の言葉に振り返り、力ない笑顔を見せる看護婦さん。
そんな表情をされると罪悪感を覚えてしまう。今は自分が汚く思える。
いけないのは自分。病気にかかった方が悪いのだ。
看護婦さんにあたったところで、どうなるわけでもなかった。
「あの…そのかわり、検査が終わったらお風呂使わせてください。身体、拭きたいから」
「…わかったわ。用意しておくから。またあとで来るわね」
看護婦さんが部屋を出ていくと、しばらくの間、扉をじっと見つめ続けた。
…午後、会えないんだよね…
意味もなく、指先がシーツをつかんだ。
検査と決められてしまっているのだから、もうどうしようもないのだ。
素直にあきらめて、納得するしかないのだ。
だけど…夜、彼と会い、ちょっといっしょにいられればその後なんてどうでもいい。
とりあえず…今夜、彼とさえ会う事ができれば…思い出だけ、できれば。
果てしなく後ろ向き。
けど、桜子にしては前向きに考えたつもりだった。

 花瓶をのせてあるサイドテーブルの棚から、桜子は小さな木の箱を取り出した。
色こそ塗っていないが、日本のものではない、複雑で細かい模様が彫られている。
手の平に乗るくらい小さい箱。ふたをそっと開けると、真っ白い布が折り重なっていた。
肌触りの良い、いい匂いのする布。
桜子のか細い指先が、ゆっくりと、ていねいに、その布を剥いでいく。
そして、ようやく包んでいた物が表に出てきた。
銀色の、一見するとロケットのように見える円形のペンダント。
中学の頃に、父親が海外出張のお土産に買ってきてくれた物だった。
そして、桜子の一番大切にしている物。いろいろな意味で、思い出がつまっているから。
桜子は箱から取り出して、チェーンごと手の平にのせる。箱を花瓶の横に置く。
…冷たい。
冷えきったチェーンが指のすき間から流れる。その感覚はなんとも甘美に思えた。
手の平に残ったのは本体。蛍光灯の光が反射して、金属らしく輝く。
見つめる自分が歪んで写る。相変わらず無表情の自分がなんともつまらなく見えた。
だから、カバーを開けた。
このペンダントの中身はオルゴール。カバーの裏は小さな鏡。青白い唇が写る。
桜子は中の小さなつまみを何度か回した。そして、指を離す。
てててんてんてんてんてててん…
真っ白な部屋に広がる、オルゴール独特の柔らかい音。透き通る、不思議な音。
だが、奏でるメロディはさみしかった。"Memories"という曲にしては切なすぎる。
…これしか…ないもんね…
ふたを閉じれば、また静かな病室。ペンダントを毛布の上に置き、箱だけしまった。
今日の夜、これを持っていこう。そして、彼と会い、彼に…そっと渡そうと思う。
ペンダントを優しく握り、胸元に引き寄せる。目をつぶった。願いを込め、祈る瞳。
誰にも教えていない、ターボにすら秘密のお願い。どうか、かなえてください…
夕焼けに染まる桜子の、神様へのお願い。
今夜、届きますように。

 屋外の非常階段は薄暗く、月明かりと常夜灯を頼りに、桜子は一段一段下りていく。
たかだか二階から一階へ下りるだけなのに、人よりも時間がかかっている。
だが、しっかりと下りていかないと途中で転びそうになるのだから、仕方ない。
以前にも、一度だけ抜け出すのに使ったルート。ここなら誰にも気がつかれない。
古めかしい病院には似合わない、金属製の狭い階段。おそらく後から付け足した物なのだろう。
右足がひとつ下の段を踏むと、ぎしぎしと、趣味の悪い悲鳴を上げた。
そんな階段だから、風よけなんてあるはずもなく、北風がもろに吹き込んでくる。
それでなくとも寒い季節の寒い夜。おまけに病人。
身体が正直に震えていた。
…本当に寒いんだ…
今夜は冷えるそうよ、なんて笑っていた看護婦さんを思い出す。
が、笑い事ではない。
手すりは、つかまっているだけで凍りつきそうになるくらいに冷たかった。
サンダルも、カバーしてくれる部分が少ないから、指の先などは感覚がなかった。
せめて、もう一枚、なにか羽織ってくればよかったなぁ、なんて考えてもあとの祭り。
右手でガウンを押さえて、熱が逃げないようにするのが、せめてもの抵抗だった。
ようやく半分の折り返し。
踊り場をゆっくりとまわり、やっと地面が見えてきた。
「…りゅうのすけ君」
彼の名前をつぶやいたのは、荒い呼吸の合間。
白くなる暇も与えられずに、すぐさま北風が吹き飛ばしてしまった。
足を完全に止めて、冷たい空気で何度か深呼吸をする。
心はあせっているのに、身体の動きがついてこない。
それでも、一月前に比べれば明らかによくなっているのだけれども…
本人は気がついていないし、それどころではない。
もう約束の時間はすぎていた。部屋を抜け出すのに時間がかかってしまったから。
「…来てくれるよね、いてくれるよね…」
つぶやきは、祈りなのか希望なのか。
心には不安がいて、緊張がいて、そして、喜んでいて…ひとつになんてまとまらない。
今は、彼の事ばかり考える。入り口に、彼がいてくれる事だけを信じている。
そして、桜子に少しだけ付き会ってくれる事を信じている。
だから、一歩前に出た。ようやく見えた最後の段。
その先には地面が見えた。どんよりとした裏庭が見えた。
あと少しで正門に着く。あと少しで彼に会えるはずだ。
「りゅうのすけ君…」
もう一度、彼の名前を口にしたら、不思議と足が軽くなった気がした。
あと少し…がんばって。

 …はしゃぎすぎちゃったかな…
顔を上げた。異常に長く見える、真っ暗に近い廊下にため息をついた。
だが、外に比べれば明らかに温かいのだ。それだけでも助かる。
壁につけられた木製の手すり。左手を置いて、まるで撫でるようにして前に進む。
はく息がとてもつらい。誰にも聞かれないようにと祈りながら、荒い呼吸を繰り返す。
必死になって二階に戻ってきたけれど、ここから一番遠い位置にある桜子の病室。
彼と別れてから、疲れがどっと押し寄せた。
会っている間は感じなかったのに…
…部屋まで…戻れるかなぁ…
けど、そんな事を考えている間も、幸せそうに頬が緩んでいる。目が輝いている。
結局、彼は待っていてくれた。
そして、桜子の希望どおりに裏庭でデートをしてくれた。
手をつなぎ、彼を感じ、土を感じた。初雪を見て、肩を抱かれて、キスをして…
…したんだよね。
足が止まる。右手が自然と唇をなぞった。
ついさっき、彼の唇が触れたばっかりだ。
初めての口づけ。ほんの一瞬の交わり。なのに…一瞬でも通じ会えた気がする。
手を握っている時、肩を抱いてくれている時、髪を撫でてくれた時、引き寄せた時。
彼の手。暖かくて、優しくて、強くて、心地好くて。考えていた以上に素敵だった。
思い出してまたどきどきしだす。おそらく、この音は彼にも聞かれてしまっただろう。
…ちょっと、お休みしようかな。
そう考えるより早く、壁に背をもたれて足を伸ばす。目をつむって、大きく息をした。
一度足を止めてしまったせいなのだろう。もう身体を動かす気力はなかった。
だが、気持ちだけは元気いっぱい。とにかく、なにもしなくても彼を考えていた。
初めてのデート。初めてのキス。相手はりゅうのすけ君。満足しないわけがないのだ。
それに。
…ペンダントも、もらってくれたし…
さっきまでポケットにあったペンダント。今は彼のポケットの中。
確かに大切な物だった。
だからこそ、彼に持っていてほしかった。
思い出をくれたお礼に、自分の事を忘れないようにと、彼にあげたのだ。
でも、後悔はしていない。これで桜子は彼の事を一生忘れないだろう。
そして、彼のそばに自分がいるのだ。
自分の匂いを、自分の体温を、彼のそばに置いておけるのだ。
…噂なんて…やっぱりうそだもん。りゅうのすけ君は…とっても優しいもん。
ふと浮かんできたのは彼の笑顔。とってもすてきな笑顔。桜子を包んでくれた温かい手。
やさしくて、わがままを聞いてくれて、たくさん気をつかってくれて…
母親の噂なんて、うづきの冷たい目なんて、全部うそだよ、と大声で言いたかった。
そして、彼が自分の中で特別な存在になりはじめている事に気がついた。
…また…来年、会えるよね。
思い出だけでいい、なんて考えていた自分がなんとなく嫌になった。
会える限り、もっともっと彼とおしゃべりしたい。彼の事を知りたい。
彼と…思い出を作りたい。
「…りゅうのすけ君」
それが寝言だったのか、それとも意識して口にしたのか、本人でさえわからなかった。
背中がずるずると流れ、そのまま左側に倒れ込んだ。
そして、廊下だという事も忘れたかのように、身体を小さく丸めてしまった。
とても満足そうに、幸せそうに、無邪気な笑顔を見せる桜子の寝顔。
気持ち良さそうな寝息に看護婦さんは気がついてくれるだろうか。

12/31(月)
 …誰かいる…
まだまどろみの中、人の気配を感じていた。そして、視線を感じていた。
「桜子…検査があるのよ。起きて」
聞き覚えのある声で、それが母親のだと思い出すまでに時間がかかってしまった。
うん、と寝返りをうつ。そして、ゆっくりと目を開ける。ぼんやりと写る人の姿。
いすに座り、大好きな笑顔を見せてくれている。夢だと錯覚して、思わず笑顔を返した。
「寝ぼけているの?」
「う…ん」
「まったく。昨日廊下で寝てたんですって? 看護婦さん、怒ってたわよ」
「えっ!」
がばっと毛布を蹴り上げて、一気に目が覚めてしまった。ここ、ベッドの上よね…
低血圧の人みたいに、上半身を起こしたまま、おでこにかかった髪をかき上げる。
そして、窓の方を見て、母親の方を見て、ようやく自分がどういう状況なのか理解した。
「お…おはよう、お母さん。もう…朝なの?」
「おはよう。検査の時間よ、お寝坊さん」
くすくすと笑う母親に、桜子は耳まで真っ赤にしてしまった。

 「検査は一時間遅らせて始めます。ちゃんと準備しておいてね」
と、伝えに来た看護婦さん。目がどこか怖い。だから桜子は素直に、はいと返事をした。
母親は、電話をかけに待合室に行ってしまった。今は部屋にふたりきり。
「それにしても、桜子ちゃんが初めてよ。寝坊で検査を遅刻した入院患者さんは」
看護婦さんがいすに座る。視線の高さが同じようになる。
だから、下を向いて目を合わせないようにする。もぞもぞと、手の動きも落ち着かない。
だが。
「それよりも…なんで昨日は廊下で寝ていたの?」
看護婦さんの言い方は、どこか子供を問い詰めるような感じだった。
とはいえ、低い声に怖い目つき。妙に凄みがあって、桜子も少しびくびくしてしまう。
一応、言い訳は考えていた。
もちろん、それが通用するかどうかは別問題だけれども。
「え、えっと…」
右手人差し指をつき立てて、視線はきょろきょろ動かして、とりあえず言い訳をする。
検査で疲れていた。夜中に、トイレに行こうとして、ふと外を見たら雪。
見とれてしまい、いつの間にかばてばてになっていて…そこで寝てしまった。
「…なんて、だめですか?」
どうもうそは苦手だった。ましてや看護婦さんにじっと見つめられているこの状況。
最初は笑顔を作ってみたが、頬がぴくぴくと動いてしまうので、大きくため息をつく。
「だめって…他に理由があるような言い方ね。ま、言いたくないのならいいけど」
桜子が困った顔をすれば、看護婦さんだって困ってしまう。
あまり問い詰められない。
「ごめんなさい」
呆れたように肩をすくめると、いすから立ち上がって、鳥かごに近寄る。
そして、指先を網のすき間に近づける。
ターボも嬉しそうに看護婦さんの指をつつき、離れていく。
だが、まだ興味があるのか、近づいてはちくちくとつつき出した。
「…雪に見とれたって言うのは信じてあげる。私もね…やむまで見ていたから」
ちらりと看護婦さんの顔を見上げては、彼女の指と戯れるターボに視線をやった。
真っ白い羽は真っ白い雪のよう。
真っ黒な空の下、真っ暗な森の中、神様がくれたとても素敵なプレゼント。
ささやかで、ほんのわずかな時間だったけれども。
思い出しては小さくほほ笑む。心がぽっと温かくなる。色白に桃色がかわいらしい。
「なにを嬉しそうにしているの?」
「べ、別に…」
そんな事を考えているなんて、看護婦さんにはわからない。
けど、昨日の顔より少し大人になったような気がする。どこか前向きに見える瞳の輝き。
…これなら、先生は騙せそうね。
指を鳥かごにつけたまま、ターボの動きを目で追いかけている桜子に声をかける。
「先生には、さっきの言い訳でかまわないわ。桜子ちゃんが疲れやすいの知ってるもの」
「はい」
…まったくこの娘ったら…
いかにも良い子の返事のように聞こえたから、看護婦さんは桜子の耳元に唇を寄せた。
くすぐったそうに左肩を上げると、そこにあごが触れた。
看護婦さんがささやいた。
「男の子と会うのもいいけど…面会の時間にしなさいよ」
「…はぃ」
だから…真っ赤。

 「ごちそうさまでした」
と、桜子はどこか照れ臭そうに言った。
時間どおりの夕食が、いつもどおりに終わった。
本来なら、母親も付き合う予定だったが、先生に呼ばれていまだに帰って来なかった。
だから、結局はひとりで夕ご飯。もっとも、慣れてしまえばその方が楽な時もある。
運んできた時よりも軽いお膳をサイドテーブルに片付ける。
そして、唯一中身の入っている、プラスチックのマグカップを手にした。
ちょっと大きめで、薄い水色の付いたそれには、ほうじ茶が注がれている。
両手で包むと、熱いよりもぬくいくらい。
息を吹きかけ、湯気をどかしてからゆっくりとすすった。
それから、食後の一息。残さないで食べたから、お腹いっぱいだった。
…疲れちゃったなぁ…
大きく深呼吸をして、全身の力を抜く。そのままで、ゆっくりと目を閉じた。
検査。デート。そして、また検査。
疲れるのは無理もないし、寝不足もじんじん響く。
けど、今までよりは楽な気がする。病気も少しは回復しているのかもしれない。
なによりも、心が元気だった。確かに今日、彼に会えなかったのは残念だけれども。
…言ってあるもんね。今日は検査だって。
窓の外に視線を移した。夕食が終わるくらいだから、外はもう真っ暗。
その中に見える、薄ぼんやりとした大きな木。揺れる枝。
だけど、今日は登ってこなかったはず。
あの時間、ここから外を見ていなかったから、確認はできなかったけれど。
だから、次に会えるのは来年。
とは言え、約束をしたわけではないから、不安もあるが。
…りゅうのすけ君…お正月は来てくれるかなぁ…
お膳を見れば、薄味で、しかものびきった年越そばが入っていた赤い器。
普通の人には大晦日。明日の年明けまで、今年を目一杯楽しむ、夜更かし公認の日。
彼なら…桜子の知らない女の子と今夜からずっといっしょにいるのかもしれない。
おそばを食べに行って、除夜の鐘を聞いて、そのまま初詣に行って…何を祈るのかな?
やっぱり…お互いの幸せ? 隣にいる、振り袖のかわいい女の子との関係を願うのかな。
…そういう女の子…いるよね。
どうしても、心に残る同棲の事。最後の一歩がどうしても信じきれないで残ってしまう。
本人に聞くなんてできっこない。だから、真実はつかめない。
けれど、もし本当だとしても…そのあとにでも会いに来てくれれば、今はいい。
お正月に来てくれないのなら、冬休みが終わるまでに一度でも来てくれればいいから。
その時に、住所を教えてもらおうと思う。電話番号も教えてもらいたいな。
彼の学校が始まって、会いに来てくれなくなったって、そうすれば連絡はできるのだ。
「ねぇ、ターボ。りゅうのすけ君、また来てくれるよね」
ふと、鳥かごを見た。
どうにも元気のない小鳥も、桜子の声に、ぴーぴーと返事をした。
「ターボも寝不足なの?」
朝から寝不足のようにうとうとしていて、それなりに心配をしていた。
だが、ちゃんと鳴いてくれるし、えさもきちんと食べているようだったから、問題はなさそうだった。
そんなターボの寝不足が移ったように、桜子も、ふぁー、と大きなあくびに伸びをする。
…そろそろ、お膳を返しに行かないと…
わずかに残った、少し冷えたお茶を流し込むと、ベッドからよれよれと降り立った。
そして、スリッパに足を通し、サイドテーブルのお膳を手にしようとした時だった。
ノックもなく開かれた扉。
その先には、お母さんが立っていた。なぜか目が赤い。
「お母さん…どうしたの?」
ハンカチで目もとを押さえている。
だけど、この顔は悲しくて泣いているわけではないようだ。
その証拠に、桜子を抱きしめて、涙声。耳もとでつぶやいてくれた。
「…明日、退院ですって!」
「お、お母さん?」
その意味を理解するのに少し時間がかかった。そして、理解しても反応できなかった。
桜子は強く抱きしめられたまま、呆然とするしかできなかった。

 眩しすぎるくらいの月明かりは、真っ暗な病室に忍び込み、綺麗な影を作り出す。
桜子は鳥かごの中に手を伸ばし、白い色の付いた塊をこわごわと手にした。だから。
…ああ…
小刻みに震えながら、大きくうなだれて、力なく崩れ落ちる桜子の影。
胸の中に、そっと隠すようにすぼめた両手。そして、その中の純白の羽が輝いた。
見たくない。けれど、見なければいけない。両手をゆっくりと開き、すき間をのぞいた。
伸び切った両足。重く閉じたまぶた。表情が穏やかに見えるのは思い込みだろうか。
もはや、ぬくもりは残っていなかった。今はただの冷たい塊。魂は、もうない。
自分の感情をどう表現していいのか、桜子にはわからなかった。余裕もなかった。
とくん、とくん、とくん、とくん、とくん…
胸が高鳴り始めている。呼吸も少しづつ荒れてきた。
そして…ようやく名前を呼べた。
「ターボ…返事、して」
手の中をのぞき込むようにして、いつものような声を期待していた。
呼べばいつも答えてくれた。何度でも、優しい鳴き声を聞かせてくれた。
なのに今は鳴いてくれない。
「ターボっ 起きて…ねぇ、ターボ…」
ぽろぽろと、涙が頬を伝い始める。
何度も何度も名前を呼ぶ。冷静な自分が、無駄な事だと言っている。
けど、やめるわけにはいかなかった。
部屋に戻ってきて、ちらりと見た鳥かご。
いつもなら、止まり木にいるはずの小鳥の姿が見えず、おかしいと思ってかごをのぞいたら…
新聞紙の上に横たわっていたのだ。
信じられない。信じたくない。夢だとか、うそだとか、そんな言葉でごまかしたかった。
しかし、手の中にいるのはターボ。動かないターボ。冷たいターボ。それが、ターボ。
こんこん。こんこん。
突然だったせいか、背中のノックの音がいやに大きく聞こえた。
弾かれたように顔を上げ、おびえ、潤んだ瞳でその音の方を見た。
曇りガラス。廊下の光に人の影が映し出される。
特徴のある帽子の影といつもの声。
「桜子ちゃん。起きてるかしら。入るわよ」
中の返事も聞かないで看護婦さんが入ってきた。真っ暗な部屋に驚いたらしい。
すっと壁に左手を這わせると、迷いもしないで部屋の明かりのスイッチを入れた。
「どうしたの? 電気もつけないで…桜子ちゃん?」
目にたまり、あふれて頬をつたう涙。ぽろぽろと、止める事のできない流れ。
看護婦さんを見上げて、頭を二、三度小さく振った。
言葉が詰まり、名前しか呼べない。
「ターボが…ターボが…」
「…そう」
鳥かごの前で、床にぺたりと座り込んでいる桜子。まるで、子犬のように切ない姿。
入院しだした頃、夜中にこっそり泣いていた時と同じ涙。小さすぎる背中。寂しい唇。
看護婦さんはその姿に引かれるように近づくと、桜子の横にしゃがみ込んだ。
そして、透明な手の中の白い身体を確認してから、右手で羽をそっと撫でる。
「ターボ…」
もう動かない、冷たい身体。
時々、桜子の涙が身体を打つが、奇跡は起きない。
「夜遅いけど…裏庭に埋めてあげましょう。手伝うわ」
「いやっ! だって…ターボ…明日…いっしょに…」
言葉が続かない。埋めたら…もう、一生会えなくなる。そんなの…いやっ…
動揺している桜子の右肩に、看護婦さんの手が伸びた。優しく耳もとでささやいた。
「あなたがしてあげられる事、わかってるでしょう」
「…でも」
顔を上げて反抗しようとする。
だが、その先は言えなかったし、言わせなかった。
「あなたのわがままに、ずっとつきあってくれたのよ。かごの中でずっと、ね」
強い口調。
だけど、ぜんぜん冷たくない、諭すような看護婦さんの言葉と表情。
「さぁ、行きましょう」
白衣の天使はすっと立ち上がると、右手を伸ばして桜子がつかまるのを待った。
その手を見て、ターボを見て、桜子は涙を拭った。
止まらないけど、前は見える。
「最後ぐらいはきちんとしてあげましょう。それが、せめてもの償いよ」
左手でターボを抱きしめて、桜子は力なく立ち上がる。
手の中が、冷たくて、痛かった。

 ベッドで横になり、満天の星空を眺める。3年目の冬の星座たち。
でも、これも今日で最後。明日には退院する。
それを初めに聞いた母親は、荷物らしい荷物を持って帰ってしまった。
だから、いつもよりも余計に寂しい白い部屋。
空の鳥かごは指定席に置いてある。
その中に、花瓶から抜き取った花を入れておいた。
「ターボ…ごめんね」
つぶやきがいつもよりも大きく聞こえる。自分の声に反応する小鳥はもういないのだ。
退院なんかより、その事が悲しかった。最後の最後で…こんな事になるなんて。
看護婦さんに付き添ってもらい、彼を裏庭の…昨日の木の下に埋めた。
昨日…りゅうのすけと口づけを交わした木。その真下。
ターボはどう思っただろう。
でも、見ていてほしかった。この想いの行方。ターボがいないと…だめだから。
りゅうのすけと同じだった。
五月の風を部屋に入れていた時に舞い込んできたターボ。
桜子を恐れないで、自ら近寄ってきた。
だから、手を伸ばしてその頭を撫でてあげた。
あの頃。ひとりをとても怖がっていた頃だった。ひとりがとても嫌だった頃だった。
すぐによくなるよ、とまわりの人が無責任に言ってくれていた入院二ヶ月目。
自分の病名もわからないで、不安だけの毎日。
始まった学校と、遅れていく自分。遠く離れていく友達。
両親も仕事が忙しくなり、わざとでないにせよ、足が遠ざかっていた。
時間を知らず、感情を知らず、自分を知らず。
不安と恐怖の毎日。誰かを感じていたかった。傍らのぬくもりを求めていた。
だから、ターボをかごに閉じ込めた。
それでも、ターボはいつでも見ていてくれた。
相談相手だった。いっしょにお願いしてもらった。遊び相手だったし、友達だった。
本当に大好きだったから…頼っていたから。
「本当に…ごめんね。私のせいだよね…」
空の鳥かごはあまりにも寂しくて、ぽっかりと心にできた大きな穴のようだった。
眠れはしない。明日が退院だろうとなんであろうと、友達が消えたのはつらかった。
涙に夜空がくもり出した。あと少しで新しい年なのに…こんなに悲しいなんて…
肩を震わせ、しゃくり上げるように泣きだす桜子。両手で何度も目をこすっても拭えない涙。
ごめんね、ごめんね、と念仏のようにつぶやき、小鳥の名前を呼んでいた。
桜子の、三年間の最後の夜は涙だった。

 除夜の鐘が遠くで鳴っていた。桜子は半分も聞かなかった。

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(1997. 5/25 ホクトフィル)

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